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箱男
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箱男の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.22pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全73件 41~60 3/4ページ
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ダンボール箱を頭からすっぽりと被り、都市を彷徨する箱男は、覗き窓から何を見つめるのだろう。一切の帰属を捨て去り、存在証明を放棄することで彼が求め、そして得たものとは…。 いったい誰が、箱男ではなく、誰が、箱男になりそこなったのでしょうかか。そして、このメタファーは何を表しており、何を隠そうとしているのでしょうか。 「大事なのは、結末じゃない。必要なのは、現在この熱風を肌に受け止めているといえ、その事実なのさ。結末なんかは問題じゃない。いまのこの熱風そのものが大事なんだ。眠っていた言葉や感覚が、高圧電気をおびたように、青い光を発してあふれ出すのは、こうした熱風の中でなんだ。人間が、魂を実体として眼にすることが出来る、得がたい時なんだ」 | ||||
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一度読むくらいだと、展開やストーリーが解りません。 ただ、この小説のなかで「箱男」という存在は一種の形容詞かもしれない、と思いました。 世界から隔絶したからこそ得られる充足、埋没していく輪郭の危うさ、 それは箱男になったから得られるのではなくて、その思考が箱男にさせるのではないでしょうか。 文壇で評価されている「書くこと、書かれること」「見ること、見られること」には、あまり魅力を感じませんでした。 存在を考えすぎることで取り込まれる、など、そういう点が面白かったです。 精神異常者の真似をしていると、本当に精神異常になるという話を思い出しました。 数年後読めば、また違った感想が出て来るように思います。 また、砂の女でも思いましたが、安部公房の女性にかける情熱は、 しつこいくらいの神聖視があって、読んでいて妙な興奮を覚えます。 看護婦の女や、足への考察はその部分だけでも読む価値があります。 | ||||
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例えば、日野日出志の『地獄変』と『赤い蛇』。筒井康隆の『パプリカ』と『夢の木坂分岐点』。安部の『箱男』は最高傑作『密会』と表裏一体をなす。この二作を読めば、安部の覚醒がよく分かってくる。 挿入されるモノクロ写真、偽切手作りの親子など脈絡のないエピソード(最終的に削除された乞食のエピソードも含め)、こそぎ落とされる垢、汗臭い段ボール、ひび割れたコンクリート、快楽をむさぼる自堕落な二人。迷走の度合いを深めるストーリーと反比例するように、安部は次第にひとつのイメージを明瞭にしていく。 打ち捨てられたもの、見捨てられたもの、敗者、負け犬、つまりはゴミ。 エッセイー「アリスのカメラ」(『笑う月』所収)で触れられたゴミへの憧憬が、『箱男』を俯瞰するとき立体視のように立ち上がってくることに注意深い読者なら気付くだろう。 『箱男』ではゴミはただあるがままに提供される。安部はゴミの美しさを読者に知らしめようと、愚直なほどに生(なま)の姿を書き殴る。そこから教訓を導き出そうとするのは無理だ。安部は自らの欲望を『箱男』の舞台にたくして、無計画にさらけだしたのだから。 しかしそれは美しい。『箱男』はある意味「生きること」を描いた小説だ。敗者たちが片隅でだれにも知られず謳歌をあげるさまを美しく描き出した小説だ。 続く『密会』では、安部はゴミを注意深く配置する手法を採用する。それは後のウィリアム・ギブスンのサイバーパンク小説や、映画『ブレードランナー』で描かれる猥雑で生命力あふれる圧倒的なガジェットの楼閣に通じる。 安部は早過ぎた。でも今なら分かる。 ところで、世の中には実際に「箱男」になってみた方が結構いらっしゃるようで。でも小説のようにはいかなかったみたい。安部おじさんはウソつきだからね。真似しちゃダメだよ。でもぼくらはおじさんの上手なウソが大好きなんだ。 | ||||
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安部公房の作品を読んだのは随分久しぶりだったが、本書を読み、その前衛的な手法にただただ圧倒された。全編を通じて前衛的な手法が実験されており、これに幻惑されない読者はいないだろう。冒頭の新聞記事、いきなり箱の作り方から始まる本文、挿絵的に挿入される詩と筆者撮影の写真、破天荒な展開を見せるストーリー。同世代の作家の中では間違いなく最も前衛的、実験的な作風である。三島由紀夫や大江健三郎の他に安部公房を有していた戦後の日本は明らかに世界に冠たる文学大国であった。 ただ、音楽や絵画でもそうだが、芸術性が優れていると感じてもなかなか好きになれない作品というのがある。私にとって、残念ながら、この作品はこのカテゴリーに属してしまう。その実験的な手法は間違いなく卓越したものであり、今後の世界の文学界に影響を及ぼし続けていくものだと私は思うが、私はより古典的な手法をとる作品を好む。しかしながら、安部公房の日本文学史における位置づけをあらためて考えさせてくれた本書は、一読の価値がある作品だと言えると思う。 | ||||
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アンチ・ロマンがいくら頑張ったところで、作者→虚構→読者という構造は突き崩すことはできない。仮にこの構造を物語性と呼ぶならば、物語性において、アンチ・ロマンはそもそもの出発点から敗北している。 書き手というバトンを、登場人物に渡し、さらにその受渡しを錯綜させたところで、バトンは誰にも渡らない。バトンは、常に作者の手の中にある。種は割れているのだ。小説という枠組の中では、作者は決して不在証明を得ることはできない。 一方の読者という受動性も、また、突き崩すことはできない。「虚構」を完成したジグソー・パズルとして渡すのではなく、バラバラのピースとして渡したところで、読者が持ち得る能動性は、せいぜいのところ、文献学者のものだろう。「虚構」そのものに対しては、読者は、受動的であらざるを得ない。依然として「作者→虚構→読者という構造」は、無傷のままである。 書き手が箱を被ってみせるのは、秀逸なパロディだ。見られる者-見る者(作者-読者)という関係が、その中で、露になる。見られる者(作者)は、箱を被ることによって、見る者(読者)となる。しかし、あくまでパロディなのだ。実際に、両者の立場が逆転する訳ではない。 それではと、「虚構」を「現実」と等価なもの、もう一つの「現実」としてしまったらどうだろうか。それならば、作者も読者もその「現実」の中の存在となり、物語性は成り立たない。だが、「現実」は、そんなに甘くない。したたかである。もう一つの「現実」を持った者を、「現実」は、総合失調症と名付け、病院へ送り込む。安部はそんなことは百も承知さとばかり、最後に救急車のサイレンを鳴り響かせてみせる。 この小説の、即物的で生理的な描写は、露骨である。描写が即物的で生理的であればある程、これは現実なのだと思わせようとする企みが露になるという意味で露骨である。まるで種明かしをしたがっているような手品なのだ。 安部はこの小説で、アンチ・ロマンを徹底的にパロディにしてみせたのだ、と私は思う。『密会』以降は、書き手というバトンの登場人物へ受渡しは、文体の問題となる。「一人称」では即き過ぎ、「三人称」では客観的過ぎる文体上の問題を解決する手段となる。 | ||||
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ダンボール箱を被って身一つで生活する事で、自ら社会から離脱し、「箱男」として生きる男を主人公にして、様々な問題を提起する実験作。 男を覆う「箱」は男に匿名性を与え、男は自分が持つ視姦癖を自由に発揮できるようになる。ダンボール箱に閉じ篭る事で、逆に自由性を獲得するという逆説である。「箱男」は複数人存在するが、世間はそれを認知していないか気付いていない。「人は見たいものだけが見える」と言う皮肉でもある。この作品では"視点"が重要視され、作者が町の風景を撮った写真が数枚挿入されている程である。本作だけでなく、作者が社会を見る眼は細かく、鋭いと思う。主人公と、看護婦、贋箱男(=医者)との間で、覗く側と覗かれる側の立場が何度も逆転する心理模様は面白い。そして、医者が実は軍医の代わりをしている贋医者だった、と言う辺りから読む側には虚実が曖昧になる。冒頭で、敢えて「...今のところ、この記録を書いているのは僕である」と書いてあるが、小説の記述者とは何かと言う問題も提起している。「この記録を書いているのは僕である」と書いているのは誰なのか ? 主人公に成り済ました別人かもしれないし、作品全体が主人公の妄想かもしれない。「今のところ」と言うのがクセものである。 しかし、後半は殆ど支離滅裂の展開で、これを理解せよと言うのは無理がある。とても計算された内容とは思えない。こうした作品に明快な解答を求めるのはヤボだが、限度がある。前半で提起した問題を後半で膨らませるとか、もう少し小説の体を成した形にした方が良かったと思う。 | ||||
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この作品の評価は大きく二分されている。 否定と肯定に大きな振れ幅を描くのだ。 それはストーリーの迷走と、箱男と言う存在のディティールの完成。 箱男と言う現代の世相を反映した存在。 箱男の生態について深く洞察し、ある意味での社会へのアンチテーゼとして確立させ読者を作品中に引きずり込んでいく手法は安部氏の真骨頂だ。 まさかこれほどの小説家を知らなかったとは…。 砂の女は正真正銘の名作だが、これはまた違った形で小説のあり方を早期に提示した現代の若者と過去である安部氏を結ぶ橋頭堡的作品であろう。 少なくとも私は彼の作品を高く評価したい。 | ||||
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人間を描写する上で最高の部類じゃないかな、この小説はさ。 箱男という見られることを拒否した人間を軸に、見ることと見られることとの関係性を 安部公房一流の観察力と内面から滲み出す知性の輝きをもって表現してるのが、この作品。 確かに、この作品を傑作とみなせいという意見もあると思う。ラストが、あまりにも迷路に なっているからだ。だが考え抜いて突き詰めれば人間の思考は迷路みたいなものなんだから 結局、当然の帰結というわけだ。 そして不思議な事に、なぜか時代が経つにつれて、この作品の伝えたいことが明確になって くるような気がしてるのは僕だけじゃないと思うんだがなー。時代が追いついて来たというか なんとゆうかさー。 いろんな解釈ができる話だが、僕が思うに一番は「開き直り」だよな。良くも悪くも。 四角四面の箱ってものを伸縮自在なものに変えてるわけよ。つまる所、何男でもいいわけさ。 箱じゃなくてもね。開き直りならさ。 そして開き直って初めて認識する事っては多々あるもんでさ。つまり認識者にはなれる。 ただ認識することと達観することはまた違って、開き直れば、それまで繋いでものを切る わけだから達観には永遠に届かない。人間って皮肉な動物だと、これを読むたび思うよ。 | ||||
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本作の最大の美点であり欠点は、このタイトルだろう。一体何人の中高生が、この素晴らしいタイトルに惹かれてこの本を手にしたのだろうか。そして何人が、この訳の分からなさに跳ね返されて、その他の傑作に出会う機会を逃したのだろうか。想像するだけで残念な気分になる。 もしこれを読んでいるあなたが、安部公房に興味があるけど何から読んだらいいか分からなくて困っているなら、悪い事は言わない、本作はおよしなさい。まずは「鉛の卵」辺りの中期の短編か、「砂の女」にすべし。その次に戦慄の傑作「第四間氷期」。 その後は、全作読みたくてたまらなくなるだろう。そうなってから手に取るべき、中級者向けの作品。 | ||||
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皆さんの評価が意外にも高いのが驚きです。しかし、専門の立場から申し上げると、内容があまりに倒錯していて、文学者の間では評価の低い作品です。参考文献もほとんど無く、あまりお勧めできません。あえて、個人的意見で解説すれば、「見たいけれど見られたくない」という比喩を用いて「現代社会における人間関係の歪み」「正常な人間関係を保てない疎外状況」を描いているというところでしょうか?「箱男」はホームレスの意味ではありません。 | ||||
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「甲殻類のヤドカリだっていちど貝殻生活をはじめると、 胴から後ろが殻に合わせて軟化してしまうので、無理に引き出されると千切れて死んでしまうということだ。(中略)箱を脱げるのは昆虫が変態するように、それで別の世界に脱皮できる時なのだ。」 箱は「悪夢のような都市」に生きる現代人の避けられない運命――― 昭和48年3月、実に前衛的な小説がうまれたのだ。 そして30年後、現代。 今も町の片隅に転がる無数のダンボールハウス。 他者の視線を遮断した箱男たちは箱という別の世界で 彼の日常を生きる。そして、「別世界」を覗き続ける。 時系列が、登場人物が、そして箱男自身までもがめまぐるく変転し交換し混乱する。 振り乱されるわたしたちは、なんだか箱がほしくなる。 現代にふさわしい作品のひとつではないだろうか。 | ||||
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終盤の一文に、判断の材料が多ければ解釈の方法もその数だけある、みたいなことが書いてあった。それがこの小説、あるいは安部公房の小説のすべてであるような気がする。 安部公房で一番有名なのは「砂の女」だが、むしろ「箱男」の方が、安部らしいと思う。 | ||||
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見る、見られる、という関係の逆転を描いた作品は、やはり興味深い。オースターの幽霊たち、とか。 箱男は見る、見られる関係の逆転を通し、書く、書かれるという逆転まで描いてしまっている。メタフィクションといってしまえばかんたんだけれど、こんな時代にこんな作品(ある意味、探偵小説の完成形)が描かれてしまったら、のちの文学が停滞しかけてしまったのもうなずける。 探偵小説の技法を用いた純文学はわりと面白い。探偵小説の形式は日本に輸入されるまえ、欧米ですでに完成されちゃっているので、だいたいが焼き増しにすぎない。けれど、それが純文学と結びついたことで、こうも鮮やかに甦るとは。 そもそも、相性がいいんですね。日常に隠されたものを再発見するのが純文学だとしたら、その隠された謎を解く、という探偵小説の形式に歩み寄っているわけだから。 とにかく箱男、傑作です。 | ||||
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目の表情でのみ何ごとかを語ろうとする者、このように表現するとなるほど確かに箱男とは薄気味が悪い。そしてそういった存在が目に入っていない、あるいはこうした性質を認知しない限り(実際に問題ないということはないのだけど、さしあたって)問題はない。ただ、そうした物言わぬ目の語る音のない声がある日もし聞こえてしまったら、そしてその声が聞こえないよう耳を塞ぐだけの無神経さを持ちあわせていなかったとしたら……水が低きに流れるように箱男は伝染性が高いというのも、じつに理にかなっているようにぼくには思われます。 交換可能な偽物と本物、均質化した視線、よって、互いに透視できる互いの欲望、また、まんまと見透かされることによって引き起こされる定型あるいは予測可能な(予め対策を講じうる)反発一一箱男とは実のところ誰か? そして、箱男は箱男になったが最後二度と帰らない、では、その箱を脱ぐよう誘う者とは一体何者なのか? 少なくともぼくにとってこの作品はやや観念的傾向が強いとしても、やはり現実的かつ実際的なお話しです。 | ||||
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なんだこれは! 岡本太郎みたいなことを言ってしまいましたが、それが最初の感想 ていうか、読みながらにしてずっとつきまとった思考 ダダイズム並の飛躍を、偶然性が起こす飛躍を、理性上で文字にしている。凄い。 箱男は誰なのか? 無名なのだ 誰でも良いのだ 某ネズミの国に、ネズミが何匹いても、全部、どのネズミも均質にネズミに違いないように、どの箱男も、均質に箱男なのだ 凄い | ||||
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どうして安部公房が忘れ去られてしまうのでしょうか? カフカを思わせるような文体は今でも新しい。大江健三郎などよりもよほどノーベル賞に値したように思います。 | ||||
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一体誰がこの文章を書いている箱男なのか、あるいは書いているのは本当に箱男か、途中で完全にわからなくなった。。。「燃え尽きた地図」しかり、非常に難しい構成。結局何を理解すれば?わからん。。。 一つ興味深い部分。我々一般人は「ニュース中毒」である、というところ。テレビに関わらず、新聞、ラジオ、あらゆるものはニュースの媒体。皆何気なく、でもきちんと見たり読んだり聞いたりする。結局ニュースは「〜である。でもあなたには関係ない」ということを言っている。結論は常に「あなた(自分)には関係ない」。(もし関係があるとニュースではなくなる)だから、本来は見ずとも、読まずとも、聞かずともわかっていることの確認。要は自分は大丈夫、ということの確認。 そう考えると、それらに執着する意味なんてないように思えてくる。そういう生活が箱男の生活ってことかな? | ||||
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箱男――頭かすっぽりと箱をかぶった男。 社会の枠組みには収まりきらず、それでいて社会に溶け込んでいる奇怪な存在。 単なる浮浪者のようで異なる存在。 誰もがその存在を認めているのに、決して話題にはしない。 やっぱり”箱男”は”箱男”以外の何者でもないのです。 この本は、そんな箱男と看護婦と偽の箱男をめぐる話です。 少し昔に書かれた作品ですが、今でも十分新鮮に感じる作品ですよ。 現代にも十分通じるものがあると思います。 世にも奇妙な物語などが好きな方は、きっと気に入ると思います。 ただし! 作者の作り上げる作品世界は好き嫌いが分かれる世界だと思います。 画家にたとえるなら、ダリのような。 好きな人には、とても楽しめる作品。でも、そうでない人にとっては理解に苦しむ・生理的に受け付けない世界だと思います。 一応長編なので、「長編はちょっと……」という方は、短編集から手にとって見るのも良いかもしれませんね。 | ||||
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段ボールを頭からかぶった男。その姿を想像するだけでなんともいえないゾクゾクした感じがするし、私たちが普段目にしている段ボールにももしや人が入っているのではとつい思いその秘密感がなんともいい。本作の日記という形式が小学校のとき女の子と日記交換をしているような感覚を思い起こさせる。もちろんいつものように他にもあらゆる方法で読者を引きつける種を巧妙にまいているわけだけども、この箱男はなんと言ってもイメージがすごく生きている。優劣をつけるわけにはいかないけれど、さわやかな感じがなんども読み返したいそんな本です。 | ||||
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「あなたにとって安部公房作品のベストは?」という問いは、私にとっては答のない「百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路」(下記引用文参照)のようなものだ。ちょうど、安部氏の全ての作品の一つひとつが織り成す作品世界のように。つまり、安部氏の作品世界は、そのすべてがクラインの壷のようなトポロジー空間において互いにつながりあっているのだ。したがって、その作品のすべてが「ベスト」とならざるを得ない。ところで、この作品「箱男」だが、「ダンボールを頭からすっぽりとかぶ」った主人公は、その箱にうがたれた覗き穴の内側からその外を覗くことによってのみ、一度失ったはずの他者=世界を再び手に入れる。言い換えれば、男は、「覗き」という行為を通じてのみ、一人の女という他者=世界の獲得へと向かうことができた。男は女を獲得し、やがて始まった女との生活が続くかに見えた。しかしそれもまた当然のように、この他者=世界は、男の意識がいつか途絶えたその意識の空隙、ある種の生存の空白=「落書きのための余白」(p.211.)において、いつしか消え去っている。箱男が消えた「彼女」を追う作品のラストはこうだ。 「- --余白はいつだってじゅうぶんに決まっている。いくら落書にはげんでみたところで、余白を埋めつくしたり出来っこない。いつも驚くことだが、ある種の落書は余白そのものなのだ。すくなくも自分の署名に必要な空白だけは、いつまでも残っていてくれる。しかし、それだって君が信じたくなければ、信じなくてもいっこうに構わない。 じっさい箱というやつは、見掛けはまったく単純なただの直方体にすぎないが、いったん内側から眺めると、百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路なのだ(中略) 現に姿を消した彼女だって、この迷路の何処かにひそんでいることだけは確かなのだ。べつに逃げ去ったわけではなく、ぼくの居場所を見つけ出せずにいるだけのことだろう。ぼくは少しも後悔なんかしていない。手掛りが多ければ、真相もその手掛りの数だけ存在していていいわけだ。 救急車のサイレンが聞こえてきた」 ちなみに、「密会」はこの救急車のサイレンの音から始まる。「密会」の解説から引用すると、「「密会」という作品自体がこの救急車のサイレンの音から着想されたらしい」 この余白があるからこそ、そしてそれが抹消不可能だからこそ、作品の創造が再び可能になる。我々の生存にぽっかりと空いた無気味な穴がなければ、我々が安部氏の世界に遭遇することもない。主人公の生存の空白から、無限の迷路を通過して、それぞれの作品が創造されていくことになる。だから私たち読者は、安部氏のそれぞれの作品世界の中で主人公たちとともに「我を失い」ながら、そのつど生まれる新たな作品世界を呆然と眺めることになるのだ。 | ||||
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