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箱男
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箱男の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.22pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全73件 21~40 2/4ページ
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特に終盤は支離滅裂。段ボールを被って箱男になるまでは面白くなりそうだったが。短編にしたほうがよかったと思う。 | ||||
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一度読んだだけではよくわからないというのが正直な感想でした。 しかし、丁寧な解説を読んだ後にもう一度読みなおしたら、なるほど よく出来ている小説だと関心しました。 友人に安部公房のファンがいます。彼女の言葉が自分が感じたことを そのまま語ってくれているので紹介します。 「安部公房のように自分を一旦脇において、作品との距離を保ちながら 自分の奥底にあるものを出していける作家は少ないと思います。」 最後までよくわからなかったのが、作品と写真との関係です。 それはそうと、カーブミラーの写真と言葉が個人的に好きです。 「小さなものを見つめていると生きていてもいいと思う。濡れて縮んだ 革の手袋。」 | ||||
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この話は全くの創作だと思っていたら、作者が実見した警察の“浮浪者狩り”でこんな男がいた、というところから始まった、という話におどろきました。 この作者の想像力には毎度感服させられます。 もうちょっと長生きして欲しかった作家の一人です。 | ||||
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昭和の日本の創作の中で最前衛のものの一つです。 作者はもともと医学者ですが、演劇、文学、音楽と、氏の生きている間に、そのときどきの時代での常識的なあり方を遥かに超えて実験的に新規の作物をこしらえ続けました。 第一に、安部氏による他の芸術家の作品の批評、第二に、他の芸術家による安部氏の作品の批評を、わたしは随分面白がりながら読んでいました。 学生時分に最初に読んだ氏による記録は、蒲田の駅前図書館で読んだ文学全集の中の『石川淳集』の解説としての文章でした。 石川氏のすまいを訪ね、氏と話しこみ、氏が席をはずすと氏の吸い残しのタバコのかけらを探しては吸うという面白い師弟関係でした。もっとも石川氏の側からは知りあい関係であったでしょう。 なお、本作は新潮文庫の100冊の中に収められていますが、高校生にはお勧めしますが、中学生にはお勧めしません。漠然とした区別ですが、中学生ならもっと先に読むべきものがあると思います。 | ||||
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当時、フジテレビで「文学と云フコト」なる小説のあらすじ紹介の番組がありました。 そこで初めて見たのがこの本のあらすじでした。 番組視聴後、さっそくこの小説を読みました。 安部公房のおもしろさを知るには、「砂の女」「人間そっくり」が一番かも知れません。 | ||||
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安倍公房やはり変態であり、天才である。 各小節はとても分かりすく、箱男が何なのか何がしたいのかがよくわかる。 ただ小節ごとの繋がりが分かりづらい。 納得のいく終わりもなければ、この小説を読んだからと言って何か得られるわけでもない。 最近(2015年)はとにかく何事にも意味を求めたがり、自己啓発本や生活に役立つ、金が儲かるような本が溢れている。 小説でさえこの本を読んだから教養が高まるかもしれない、等と卑しい目的で読む始末である。 この「箱男」に何か求めている人は読まない方が良いだろう。 | ||||
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のっけから、箱男が身にまとう箱の製法から始まるこの作品、普段この手の作品に読み慣れていないせいか、あまりの奇妙キテレツぶりに最初はかなり戸惑ったが、徐々にその不可解ぶりが心地よくなり、読後すぐにまた読み返したくなるという不思議な本。 内容は難解極まりなく、あらすじすらよく把握できぬほどだが、文章自体は平易なため、ついつい釣られて読み進んでしまった。 しかし読後感はすこぶる良く、長らくこの手の前衛作品から遠ざかり正統的な文学作品に接することが多かった自分には大変な刺激となった。 これを読めば、なにも理路整然とした腑に落ちる作品ばかりが文学じゃない、ということをまざまざと実感させられる。 著者はピンク・フロイドを愛聴していたらしいが、たしかに、初期のサウンドを文学で表現したらかくありなん、と思わせるシュールでハチャメチャな作風である。 勿論そこに模範解答などあろうはずはなく、解釈も十人十色。 主人公が誰なのか複数なのかといったことすら曖昧なままだが、主義主張と脚フェチだけは一貫しているというのがまた奇妙で面白い。 根っからのマニア向けなのか、それとも型どおりの文学作品に飽き足りなくなった人が最後に行き着く本なのか・・・自分はそのどちらでもないので何ともいえないが、いずれにせよ、不可解ながらも底知れぬ魅力を秘めた作品であるのは間違いなさそうだ。 | ||||
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安部公房と行ったら箱男。 はっきり言って、よく分からな無い構成ですが、このカオスをどう泳ぎきるか。 読み手によって、評価も、感想も、読後感も違うものでしょう。 それこそ、安部さんに踊らされているような気がします。 | ||||
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安部公房さんの本を読むたびにですけれども、めまいがするような思いがします。 この作品も激しく揺さぶられました。 これまでの視点を強引に矯正されるような感じがします。 バラバラに解体された話が細い糸で縫いあげられたような展開で物語が進みます。 先に進みたいという気持ちと、目の前にある話に思いを巡らしたいという意志がぶつかりあって上手く意識をコントロールできなくなってしまいます。 安部公房さんの凄さは前衛作品を読み手に読ませる力があるということだと思います。 兎も角、箱男が段ボール置き場に膝を抱えてしゃがみこんでいるのではないかと、ごみを出すたびに注意して見るようになってしまいました。 | ||||
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何をどう間違えたのか、通勤電車で読もうと思い購入しました。 そして、苦行のような数日の後、全くのめり込むことができないまま読了しました。 ちょっと、今後は読書を辞めようか。 とも思った本作ですが、 基本的には、究極の雰囲気小説という理解ですし、 中毒性のある、良い意味で ”エグい”本 なのでしょうね。。 今回私には、その良さがわからず、非常に残念でした。 箱男とは、ダンボールを頭から被り、路上生活する男のことです。 人物時空間を超えたミステリーは、超現実的過ぎて、その筋を追う余裕もなく、 世界観に対応するだけで、精一杯の本でした。 箱男は世の中には無関心を気取っていますが、 美人看護婦の脚線美にメロメロになってしまうんですね。。なんかそこは現実的でした。 非常に読書体力を消耗した本でしたが、いつかリベンジしたい作品。 とにかく、通勤のお供としては、おすすめしません(笑)! | ||||
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この本は、人間の自意識を的確に捉えていて、 未来の日本、つまり現代社会への強いメッセージを送っているように思えてならなかった。 さすが世界の安部公房だと思った。ありがとうございます。 | ||||
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「箱男」を読み終わって一晩たつと、頭の中ですべてが統合されてくる。 「方舟さくら丸」の時もそうだったが、あまりにもぶっとんだ世界なので 読んですぐには頭が混乱してしまう。途中ではぐらかされて、箱男の 脳の中にまぎれこむ。 一晩経つとすべてのエピソードが時系列でななく、登場人物の一人一人が 統合されて一つの人格に収斂してゆく。 最後、「救急車のサイレンが近づいて来た。」わけだけれど、最後の解説にも ここには触れていない。なぜ触れないのか不思議だけれど、触れられないという べきか。自分なりの解釈が成り立っても、絶対こういう意味なのだという 確信はもてない。天才安部公房が答えてくれれば嬉しいが。。。 記述がほとんどない人物がひとり。それは出て行った医者の奥さん。 他に女性としては看護婦とピアノ教師が出てくる。現実社会で奥さんが出て行って、 箱男の幻想の中に棲み着くのは、医者の愛人の看護婦。過去の思い出としてのピアノ教師、 彼女は「ぼく」にスコープでのぞかれた罰として、部屋に連れ込んで彼を鍵穴から覗く。 彼は覗こうとした対象のピアノ教師に覗かれて、勃起して射精してしまう。ピアノ教師は その場面を楽しんでいたと思われるのだ。 その存在は箱男の幻想の中で医者の愛人、後の箱男自身の愛人の看護婦となっているの かもしれない。これらの女性2人は同一人格かと思える。また「ぼく」とABCDすべての 者は同一人格と考えれば話が理解しやすい。 | ||||
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書棚を整理していて、この『箱男』の箱入りハードカバーを手にしつつ、ふと箱に印刷された著者の言葉を読み返した。 「(略)人は自由な参加の機会を求め、永遠の不在証明を夢見るのだ。(略)だが、誰でもないということは、同時に誰でもありうることだろう。(略)匿名の夢である。そんな夢に、はたして人はどこまで耐えうるものだろうか。」 今なら、この言葉の意味を、実感できる。 インターネットの世界は、誰もが自由に参加でき、誰でもない匿名の存在として振舞うことの出来る世界だ。 匿名掲示板では、誰でもない者としても自由な発言が許される。 だが、それはまた誰でもありうるということであって、発言が勝手に拡散し、恣意的に歪曲されて「まとめサイト」に転載されることもありうる。 そうした実感をふまえて、本書の内容を振り返ってみれば・・・ 一冊のノートに、複数の登場人物が書き込みをするという設定の下で、誰が誰なのか判然としない書き込みが行われ、新聞記事の転載、画像の貼り付け、贋物の登場、果ては何だかわからない詩まで書き込まれる。 何という事だ! まさしく、匿名掲示板によくあるスレッドの流れ、そのままじゃないか! 書く(=欠く)こと、語る(=騙る)ことをめぐる思考実験のうちに、安部公房は1970年代始めの時点で、我々が匿名掲示板や「まとめサイト」、過去ログなどで目にする世界を、幻視していたのか!? 恐るべき先見性。 発想の基になったのは、あるいは京都・嵯峨野の直指庵の「想い出草」であったかもしれない。 仮にそうだとしても、そこから、こうしたフィクションの仕掛けを発想できるのは、安部公房ならではの才能だろう。 これこそ、インターネットが当たり前になった社会を予見した、ある種のSFなのではあるまいか。 箱男は、今や我々のそばにいる。 パソコンの中に。スマートホンの中に。 ネットにアクセスするだけで、誰でも箱男になれる。 誰でもなく、誰でもありうる、匿名の存在に。 そして時には、SNS疲れを感じて、箱を脱いだりするのだ。 | ||||
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安部公房は1924年に東京に生まれ、1歳から16歳までの時期を満州で過ごしている。 本作の構成は凝っている。巻末の平岡氏の解説によって、ようやく私は本作を理解できた気がする。登場人物は良く言えば個性的、悪く言えば異常である。狂気に関心がある人には向くのではないか。しかし、私個人は、本作は良く出来ているとは思うものの不快感を感じ、またその好みを正直に星に反映させるべきだと思うので、3としておく。正直言って、私の入手した平成24年版は58刷、アマゾンレビュー40という関心の高さには驚いた。 ところで、現実の世の中では箱男を見かけないな。安部はせっかく具体的に箱男となるための箱の作り方、生活の仕方などまで懇切丁寧に書いているのに。 ちなみに私が10年以上前に読んだ「砂の女」は傑作だと思っている。「箱男」を読む気になったのは、「砂の女」への印象と「箱男」というタイトルの個性のためである。 | ||||
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安部公房の代表的長編小説、1973年作。前衛的な手法を用いた作品としても知られる。 □ 「社会」内の匿名多数(彼ら/彼女らは、「社会」に於いて識別記号としての名前をもつが故にこそ、「社会」に於いて抽象的な何者かで在り得ているからこそ、逆説的にも匿名的で在り得るのだ)による無数の眼差しの結節点として自己同一性「I = I」の解が析出される。「What am I ? 私は何者なのか」「Who am I ? 私は誰なのか」の解を獲得する。これによって「社会」内に於ける存在許可証が与えられる。則ち、何者かとして・名前をもった存在として、「社会」から眼差されることによって、「そこ」に帰属することが許される。「眼差し」を「語り」と言い換えてもいい。帰属=布置=付値= topos が与えられることによる全体性の断片化という代償を払うことによって。 "言葉なんかごめんだ/眼差しなんかまっぴらだ"(トリスタン・ツァラ『ダダ宣言1918』) しかし今や、「眼差し」や「語り」によって何の毀損も負っていない全き実存など可能であろうか。現代に於いては、我々を何者かたらしめる断片化に対する無際限の否定運動を以て、その成就ならざる成就の夢を、不可能を承知の上で、敢えて希求し続けるか、さもなくば、「眼差し」や「語り」による断片化の暴力性そのものから逃れるべく、頭からすっぽりと段ボール箱を被って覗き窓から外部を窺う箱男となるしかない。眼差しに捕捉されることなく、以て自らの存在証明たる名前を抹消して。則ち、a・topos として。箱男を何者かに範疇化しようとする"ワッペン乞食"を撃退しながら。 "見ることからも、見られることからも、ただ逃げ出したかったのだ。" "・・・、もう月賦に尻込みするものはめったにいない。しかし、月賦というのは、身分や職業や住所を、借金の担保にすっかりさらけ出してしまうことなのだ。・・・。こんな時代に、月賦の便利さにさからってまで覆面をしたがるのは、ゲリラか、箱男くらいのものかもしれない。" 箱を被って覗き窓から「視た」世界は、ロカンタンに嘔吐を催させたのとは異なる相貌を現わす。 "すべての光景から、棘が抜け落ち、すべすべと丸っこく見える。すっかりなじんで、無害な物になり切っていたはずの、・・・そうしたすべてが、思いもかけず棘だらけで、自分に無意識の緊張を強いていたことに改めて気付かせられたのだ。" "誰でも、風景に接した場合、つい自分に必要な部分だけを抽き取って見がちなものである。・・・。ところが、箱の窓を額縁にして覗いた途端、すっかり様子が違ってしまう。風景のあらゆる細部が、均質になり、同格の意味をおびてくる。・・・でも、僕はそんな風景が大好きだ。遠近が定まらず、輪郭が曖昧で、ぼくの立場とも似通っているせいかもしれない。" 安部は本文写真に付して云う、"見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある"。しかし、視られることが断片化の暴力であるならば、視返すことは復讐ではないか。実存が、「名前」で埋め尽くされた無に走る裂け目であるならば、その裂け目から眼球が覗いているならば、無を貫き走るその眼差しは、実存からの復讐だ。"見るだけの人間"となって、復讐するのだ。 "考えてみると、しじゅう覗き屋でいつづけるために、箱男になったような気もしてくる。・・・。逃げたがっているような気もするし、追いかけたがっているような気もする。" □ それでもなお、たとえ幻想でしかなくとも、断片化の暴力に曝されてきた全き自我を回復しようと、他者の愛を求めることには、何の不自然も無い。 "赤ん坊のように疑いを知らず、強力万能浄化装置のようにあらゆる負い目を拭い去ってくれる彼女・・・。めくらの女にように、他人の醜さに寛大で、アルコールか麻薬のように劣等感を忘れさせてくれる、欲望解放装置のような彼女・・・。" しかし、眼球という一点に局在化された箱男の愛・眼差しに局限化された愛とは、如何なるものであろうか。それは忘我合一への憧憬の裏返しとしての、眼差しという権力による支配を通した愛でしかないのではないか。尤も相手は、美術モデルとして裸を他者の眼差しに晒すことを副業としてきた看護婦である。眼差しを一身に浴びる彼女は、箱男とは全く別の仕方で、より強かに、眼差しの暴力を遣り過ごしているかのようだ。結局、双方の心情が(相手への心情なるものがこの二人にあったのかそもそも疑問だが)捩れの位置にあって、決して交わることがない。これは愛としては不具だ。 "ひたすら覗かれることを待つ姿勢。この三年間、ぼくが待ちつづけていたのはたしかにこの機会だったように思う。" "ここが重大なのだ、彼女からだと、いくら見られていても、ほとんど見られた気がしない" "そういう時には、眼から唾が出る。・・・。上下の瞼には歯が生える。彼女を齧る妄想で、ぼくの眼球は火照り、勃起してしまうのだ。" □ "箱から出るかわりに、世界を箱の中に閉じ込めてやる。いまこそ世界が眼を閉じてしまうべきなのだ。" 箱を「世界」にしてしまえばよい。いや、違う。何故なら、そのまま残されている現実の世界が箱に割り込んできて箱を壊してしまっては元も子もないから。逆だ。世界を「箱」にしてしまえばよい。「箱」の中に世界そのものを呑み込ませるのだ。自分たちを何者かたらしめようとする、世界が張り巡らす眼差しの暴力を消滅させんが為に、以て自らの復讐としての眼差しをも同時に消滅させんが為に、眼球によって局限化された愛の全体性を取り戻さんが為に、現代世界に於いても"かなりの数の箱男が身をひそめている"。 □ 本作品にはメタ・フィクションの機制が組込まれている為、決定不可能な穴が残る。誰が箱男であり誰が箱男でなかったのか、この作品自体の一人称の語り手・ノートの書き手が誰なのか、ひいてはそれを誰に読ませているのか・読者たる我々はこの作品に対してどのような位置にいるのか、誰が書き・誰が読んでいるのか、遂に宙吊りのままである。 よって箱男は、この本自体を一つの境界・一つの穴として、虚構世界と現代世界を行き来する。 | ||||
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当時は衝撃的で目新しい作品だったのかもしれませんが、尻切れトンボの漫画を読んでいる気分でした。 部分部分は、何かを考えさせるようなものも見受けられましたが、まとまりがない。 えんえんと妄想が続いたり、今となっては安易に感じられます。 好きな人は好きなんだろうな、という感じで、深みとかそういったものは感じられませんでした。 はっきりしない面が、過大にすごいと思わせているだけでは、という印象。 | ||||
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「見ることには愛があるが、見られることには憎悪がある」 「裸と肉体とは違う。裸は肉体を材料に眼という指でこね上げられた作品なのだ。」 最高です。 | ||||
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安部公房は写真をよく撮っていたようだ。 『箱男』が書かれた頃と現在では、写真を撮るという行為も大きく様変わりした。 公房の場合(ノーファインダーもあるだろうが)ファインダーを“覗いて”撮っていたのだが、デジカメにしろスマホにしろ液晶画面が街中にあふれ、「覗いて撮る」という行為が珍しくなった昨今では、この作品の写真の意味もいくらかは変容したといえるかもしれない。風景の一部を切り取るという点では、大した違いはないとしても。 写真や短章でできたモビール。モビールだから、見た目に楽しい。 といって、甘く滑らかなキャラメルを思い浮かべると失望する。『ガリバー』を子供向けおとぎ話と思って読むと、渋面のスウィフトから人間のグロテスクさを突き付けられて腰を抜かすというようなものだ。 ただ、スウィフトと違って安部公房には若い者に対する無邪気な信頼を感じさせるところがある。サルトルじゃないけど、アンガージュを指向している感じもある。 でも、よくわからないところがあるので、それについて・・・ 箱男・看護婦・医者のエピソードでは、ルイス・キャロルの「アリス」の夢、もしくはエッシャーの「描く手」を連想させる仕掛けが組み込まれている。つまり、映画「カリガリ博士」、夢野久作「ドグラマグラ」などと同様のメタ構造が取り入れられているといえる。しかし、それがオチなのではない。むしろ、オチをつけず、放散させるための仕掛けだろう。 性的なキーワードの頻用は、皮膚表面を境に外界と切り離されているという存在の(不可避な)様態を描き出し、触覚的存在としての人間というイメージを提示する。 そして、箱男はありふれた存在だということになっている。しかし、そうすると、帰属からすり抜けたはずの箱男の存在意義にとって、ひとつのパラドックスが生まれるだろう。少なからぬ人間がそこからすり抜けている帰属とはそもそも何だったのだろう? この小説は、放散し開かれた物語の構造を取り入れ、万人に共通の基底としての触覚的存在様態を提示し、そして帰属からすり抜けることの特権性の剥奪を行なっている。 これでは、わざわざ箱をかぶらせたりする必要はなかったのじゃないか? 隣家のピアノ教師にノゾキを見つかってお灸を据えられる、あの屈辱感からは、箱男になったくらいで逃れられるものではあるまい。箱男はじっと座り込んでいれは目立たないかもしれないが、にゅっと脚を出して歩いたりすればたちまち四方八方から好奇の視線を浴びてしまうだろう。 たぶん、箱を捨てさせるために箱をかぶせてみたということはあるのかもしれない。(だとすると無邪気過ぎないか、という気もする) 一種,現実の方が小説を追い抜いていった例といるかもしれない。バブル経済のバも、ツイッターのツも全然言われてなかった時代の小説だから、それも当然だろう。今では誰でもない者になるのは簡単だ。なにしろ“無縁社会”だから。 | ||||
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安部公房らしいといえばらしいのだが、かなりむずかしい(?)小説である。他のレビュアーが本作から安部公房に入るな、といっているが半分同感。あまりにもわかりにくい、けれどもとても安部公房的。異様な物語である。ダンボール箱をかぶって暮らす箱男。自らを隠すのに自らは世界を切り取って見ている覗き者。全国にたくさんいるのに、注目されない慮外の者。殺され屋。能動者と受動者という対立構造がベースにあるようだが、物語の途中からなんだかよくわらかず。前衛的で実験的なのに妙な完成度を感じるとても不思議な作品である。 おもしろくないのかというとそんなことはなく、もしかしたらすごい小説なのかもしれないと思わせるような型破りなところがある。一つ一つの文章がすごい。「犬の息にそっくりな海辺の雨の臭い(P22)」「小さなものを見つめていると、生きていてもいいと思う。・・・中略・・・大きすぎるものを眺めていると、死んでしまいたくなる(P165)」などの詩的表現の連射だけで充分にひっぱりこまれる。ストーリーはむずかしく、特に、後半はおかしな展開をする。 人間は想像力の範囲でしか理解できないが、それでも安部公房はただものではない、と改めて痛感。 | ||||
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40代、古今東西の名作と言われるものを読み繋いでいるものです。 流行の現代小説にはあまり興味がありません。 作者は結局なにが言いたかったのか。読んだ直後は、自分の文学的な技巧を披露したかっただけなのかと思うほど 理解に苦しんだ。 ただ見るだけという傍観者的な態度への批判、危険性を指摘したかったのではないだろうか。 どんなに悲惨なニュースがあっても、自分にはただのニュースでしかない。 箱男は、主観的には傍観者であるが、客観的にはすごく目立って奇妙な目で見られる。 つまり、見るだけで見られない(傍観者)は、箱男以下だ。 そこに、作者のメッセージがあると思うがどうだろう。 | ||||
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