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冬の光
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冬の光の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.19pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全32件 21~32 2/2ページ
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描かれている時代は、学生運動の激しかった昭和40年代から東日本大震災直後まで。62歳の父親が人生の最後に通った四国のお遍路の道を次女がたどる。章ごとに、父親の視点から書かれているものと、娘の視点から書かれている章があり、最後の最後に二つの視点が、冬の光に到達する。家族、恋愛、男女共同参画、災害、老い、宗教、精神疾患等々、多くの現代社会の問題が絡む。昭和の後半から平成という時代の変遷をたどりながら、特に家族とは何かを問う。平成の終わりに、読んでおきたい一冊。 | ||||
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それぞれの淋しさ 康弘と三人の女たち、妻美枝子、恋人紘子、行きずりの遍路梨緒、それぞれとの関わりを通して人の淋しさがにじみ出ている。 美枝子は家庭の主婦として申し分ない。が、一方では、康弘に、紘子に別れを告げる電話を自分と娘の目の前でかけるよう強要する。その場面には美枝子の持つ毒々しさが溢れている。自分の決めた範囲の中で夫を「所有」しようとする美枝子は、範囲外の夫を許せない。所有物でなくなった夫は価値のない者なのだろう。 紘子は結婚を否定して、誰も所有しないし、誰からも所有されないという信念を持っている。その信念と康弘への思いの間の隔たりに傷ついていく。紘子の信念は自分自身を覆う殻になり、その殻を破り自分を解き放つことが、結局はできなかった。 最後の女、梨緒はどうか?育った家庭環境から精神を病んでしまったと思われる梨緒。康弘にしがみついていく姿は無垢な子供のようにも思える。梨緒の中で我を忘れようとした康弘は哀れで弱々しい姿をさらす。梨緒の悲しみを少しも癒すことができないまま、梨緒を手放す。梨緒にも応えられなかった痛みが伝わってくる。 康弘は東日本大震災の被災地に入り、その後四国の巡礼の旅に出る。ここで作者のテーマの一つである宗教が、康弘と関わってくる場面は興味深い。特に何を信仰するわけでもない康弘が巡礼の旅に出たのは、そこに帰着点を見つけたいという淡い願望があったからなのだと思う。だが世俗の社会に順応し成功している宗教は、康弘の心を素通りしていく。ここでの宗教の描かれ方と、「弥勒」や「仮想儀礼」で示されている宗教を対比させてみると、作者の宗教に対する思いが伝わってくるのではないか。後者では、世俗的な成功を収めた宗教が崩壊し、何もかも失ってから他者のために生きることを選んだ者を宗教的な光をあてて描いている。康弘のはこの光は届くことはなく、梨緒との関係も何も生むことはない。 帰りのフェリーから見た冬の光に康弘は何を見たのだろう? もう二度とかつての家族の幸せはもどることはないと、冬の光は告げていたのだろう。 登場人物四人のそれぞれが抱える淋しさが冬の光にかすんで見える、心に残る結末だった。 | ||||
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篠田節子による400ページ超の長編です。団塊世代の一組の男女の人生に焦点をあて、その意義を問う作品です。『銀婚式』と同じテーマですが、今回は昔同級生だった女性の人生も濃密に問われます。 篠田作品の構造は通常: 1)事件(事実)の顕在化、その常識的・表面的(観察)記述 2)事実を探求すると、先入観や見かけとは異なった深い複雑構造が見えてくる 3)主人公が宗教的・芸術的・冒険的契機でその複雑構造に突入すると化学変化が起きて異次元世界へ突入する 4)たいていはハッピーエンド、上記の異次元体験は常識からも説明がつく場合が多い この4)がなければ、エンターテイメントではなくカフカ的世界になってしまいますね。 この作品の場合は、 1)四国遍路の帰路、徳島発のフェリーから冬の海に消え、水死体となった父。その父は20年以上も家族を裏切り続けていた。家庭にも恵まれ企業人としても一定の地位を得た父は、なぜ外に愛人を持ったのか。主に次女の視点から、家族とくに「裏切られてきた」と感じる妻の絶望が語られます。 2)父親の視点でその「愛人」との関係が単なる男女関係を超えたソウルメイトだったことが分かる。 3)父親は、東日本大震災と女性の死に遭遇し自らの小市民的人生(と成功)に対して根源的実存的疑念を抱く。四国へ遍路に旅立つ。宗教的体験ともう一人の女性との遭遇。 4)主人公の死の真相が明らかになる。 という構造で篠田作品の典型を踏襲しています 3)が理知的記述に終始しており、他の作品のように超常的・驚嘆的ではないのがやや不満です。しかし、主人公の心の動きは、お遍路衣装を脱ぎ捨て、「刃物研ぎ」に注力する所など、よく記述されています。なによりも団塊世代男女の人生を切迫感を持って剔りとる作品で、その筆力は相変わらず素晴らしいです。その男女の生き様において、本人の意図と周りの理解がすれ違うところの描写は、人間のステレオタイプ理解からよほど自立していないと書き切れないと思います。返す刀で伝統的な日本的家族そのものの虚構性も切ってしまうところもみごとです。一気に読んでしまいましたが、どうやって人生の終わりを迎えるかの心構えについて、身につまされる作品でもあり、読後しばらく考え込んでしまいました。 | ||||
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人生って、一体何だろう? 生きるって、どういうことだろう? 働く意味は何だろう? 読後、そういう疑問が湧いてきました。 篠田作品には、ホラーや衝撃的な作品が多かったが、この本はそれらとは趣を異にしている。 ひたひたと心に染み入る、静謐な思いを抱かせる、味わい深い一冊です。 もっともっとこういう作品を、著者には書いてほしい。 | ||||
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小説は、《面白かった、つまらなかった》という類いの感想を差し置いて、その解析を要求する。それに全力で応えてみたい。 富岡康宏、2011年12月24日死去、享年62歳、従って生年は1949年になる。この頃に生まれた人は「遅れてきた世代」と呼ばれる。大学では学園闘争の高揚期は過ぎ、「内ゲバ」消耗戦ばかり。就職直後のオイルショックで高度成長時代は幕を閉じ、80年代の土地転がしの狂乱も91年のバブル崩壊で惨めに終わり、「失われた20年」が現在も続く。物語はこの半世紀を丹念に追っている。「盛り込み過ぎだ」との批判もあるが、同世代のサラリーマン読者なら自分の来し方と重ね合わせて読めるだろう。 明示されないが、本筋に一貫して流れるテーマは「家族」である。一人っ子の康宏の生い立ちに母が不在だ。多分幼少の頃に死別か離別したのだろう。従って彼の最大の願望には、「仲睦まじい夫婦と良く出来た子」から成る家庭を作る、というステレオタイプが埋め込まれていると読める。そういう康宏にとって、笹岡紘子との結婚はあり得ない。 学生時代はラジカリズムに傾倒した康宏だが、就職後は典型的な会社人間に変容してゆく。節操がないとは言えないだろう、100人200人の同期大卒間で出世競争を競うことはそれ自体が目的化して楽しいし、またそうさせて会社に忠誠を誓う人間を育成して行くのは、企業存続の要でもある。 康宏は同じ階層に属する、短大出の「中瓶の魅力」的な娘と結婚する。財布は預けるが、夫の日常に口を挟まず、世間一般のロールモデルに沿って、バックグラウンドで、子供を育て家庭を守ってくれれば良い。 そんな康宏にとって、紘子はファム・ファタール(運命の女)である。通常の小説ならばファム・ファタールは男を自滅させて終わるが、この物語はそう単純ではない。紘子はむしろ康宏の「超自我」の現身として見ることが相応しいと考えられる。康宏・紘子と、<ひろ>が重なっているではないか。 大学に残った紘子は、康宏を軍需産業に働く「死の商人」となじり、「高貴な非常識を身につけ」た、理念的な闘いや奔放な私生活を見せつけることで、思想を忘れてしまった彼を問いただす。康宏も、君はそうして「一生一人で生きていたのか」と、「家族をもち、順調な人生を歩んできた優越感」を込めて対抗するが、何とか彼女の力になろうと努めざるを得ない。彼女が傷付けばともに苦しむ。彼の超自我だかだ。 実際、結婚後の康宏が、紘子との長い付き合いのなか性交渉に及んだのは、明示される限りではたったの2回である。2回とも彼の「超自我の君」がひどく落ち込んでいて、それ以外に慰めようがなかった。その他の物語の過程でも多くの交渉があったとは考えにくい。その2回ともが妻にばれる。 康宏の浮気に対して妻子はロールモデル通りの反応を示す。彼がそれを願ったのだから、仕方ない。康宏の裏切りを満腔の敵意を込めて非難する女性読者は、自分自身の「中瓶度」に気づくべきだろう。 紘子は自分の死をも「制御」したのではないか、と想定させる叙述が続く。彼女の死で康宏は、「恋人でも友人でも運命の女でもなく、人生の一部を失った」ような喪失感を味わう。だがこれは彼自身が本来持っていた自我の「回復」を意味するのではないか。康宏の四国八十八カ所巡りが素晴らしい。ここで彼は彼の人生に取り憑いてきたステレオタイプを棄却する。通常の「札所巡りのステレオタイプ」は、巡礼装束に身を固めて経を唱えスタンプを集めて、自分が浄化したように感ずる手垢の付いた離脱観念である。康宏が衣装も杖も捨て去って、行く先々での刃物研ぎにいそしむのは、彼の「垢」を研ぎ落とす象徴的な意味合いを表している。 札所巡りの途中で出会う秋宮梨緒は、笹岡紘子の分身であると読める。康宏は梨緒のなかに、紘子と同じ上層階級の育ちで、その誇り故に傷ついている、紘子が康宏には決して見せたことがなかった「弱さ」を発見する。紘子のものも、妻のものも、「こんな形で凝視したことがな」かった性器の奥を、梨緒を通して覗き、女性に共通する「深淵」、私の解釈では歴史を通じて女に押しつけられてきた「悲しみ」といったもの、を知る。妻の美枝子との和解も可能だろう。この卑猥な叙述が意味することは重大だ。だから「死んじゃえばいいんじゃない」という梨緒の言葉に従わず、彼女を家に送り帰そうとするのである。 そんな康宏の帰る場所は決まっている。決して自殺などはしないだろう。本物語は、途中に家族の最良の思い出である静岡でのクリスマスの情景を挟んで、写真で始まり写真で終わる枠組みを取っている。62歳の死は余りに早すぎた、と思うのである。 | ||||
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四国巡礼の旅に出るが「結願」の帰途、冬の海に身を投げて自死した父・康宏。 父の足跡を追い、父の死の謎を解き明かそうとする次女・碧。 それぞれの視点から死の真実を描いていくスタイルの作品です。 何を思い、どう生きるかなんて自分自身のことですらよくわからない人がほとんどなのに、 自分以外の誰かのそれを100%理解するなんて不可能。 康宏目線で考えれば彼の人生を許す気になれなくもないが、 康弘の心の内は妻や長女に届くことはなく、彼女ら目線で見れば「最低な夫(父)」以外の何者でもない。 ・・・やはり気持ちは届けなきゃ意味がないと痛感。 | ||||
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帰宅途中のフェリーから富岡康宏は転落死した。 事故か自殺か!? 残された家族は、彼の長年にわたる不倫がもとで家庭が崩壊した ことから自殺ではないかと疑い、次女の碧は残された日記を頼りに 父がたどった四国八十八ヶ所のお遍路を訪ね、その死の真実を探ろうと する。 富岡康宏の視点からまた碧の視点から解き明かされる、悲しい男の心の 遍歴。 自ら招いたことではあるが不倫をきっかけに妻は孫の世話を言い訳に 娘の家に行き、ひとり残された男は定年を過ぎ仕事もなく孤独と喪失感に さいなまれる、という図式は珍しくもないが、そこに学生時代からの ほろ苦い恋が彩を添え、また少し酸味も利かせて、大人の味を出している。 残念なのは、最終ページの対向面がいきなり奥付けになっていること。 ページ立ての問題はあるのだろうが、味気ない。 | ||||
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たぶん、他の人とはずいぶんかけ離れた感想だと思うけど。 根本的に、妻美枝子と長女敦子が嫌いだ。 康宏は学生時代からの「友人」でフランス文学者の笹岡紘子と ほんとうに淡い付き合いを継続していたけど まあ淡いと言ってもほんの数回の情交はあったけど それがそこまで責めることなのかと。 なんか心の中で康宏頑張れと応援してる自分がいたよ。 最後の冬の光の切なさ 人間の一生の切なさ 男女間の友情ってのは世間からみたらやはりまだ「悪」なんだろうか・・・ | ||||
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何よりも読む者の心に波紋を立たせるのは紘子の生き方だ。 その死にざまを聞いた直後に“同志”康宏はこう思う。 < バリケードの中の二十代から還暦を超えるまで、平和なことこの上ない四十年の間に、世間の風向きは、激しく変わっていった。その中でなぜ紘子は常に逆風に身をさらすような生き方しかてせきなかったのか。いい歳をして、それなりの肩書きがついたのだから清濁併せのむ度量を持て、などと言う気はない。だがもう少し寛容になれなかったものか、と思う。その許容度の狭さこそが、純粋さでもあったのだろう。ポピュリズムに呑み込まれることなく、自分のスタンスを守り続けたということなのだろうか。 それにしても、たった一人の食卓で、箸と茶碗を手に絶命していたというその様を想像するにつけ、彼女が晩年に抱えた凄まじいまでの孤独に、身の凍り付くような厳粛な悲しみを感じた。> しかし、のちに彼女を私淑する卒業生たちの追悼コメントに接して、康宏はその所感を撤回する。 < あの震災の直前、孤独と孤立の淵に沈んで病死した紘子の死は無駄ではなかった。いや、そこに孤立や孤独を見て同情したのは、まさに自分の無知と傲慢さだった。> 「同行二人」がこの物語のキーワードである。この二人は現世的な意味では最後まで結ばれなかったものの、人生が永い巡礼の旅であればこそ、康宏にとっての同行者は紘子をおいてほかになかったのだ。 全共闘世代前後の読み手には、心に幾重もの波紋を生じさせるだろう。そして、ふと自分の死にざまに思いをいたすだろう。 ミステリーとしての興趣もふんだん。その謎解きの裏側をめくると、思わずはっとしてしまう。 | ||||
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人の人生には、いろいろなことがある。 当たり前のことだが、 若い頃に起こったことが、その頃の光輝く思い出、もしくは苦い思い出として 終わっていれば、それは幸せなことかもしれない。 少しの淋しさはあるにしても。 主人公の辛さは、学生時代の恋と痛みをたびたび思い起こさざるをえない状況におかれたことだろうか。 偶然にしろ、思いが残るからゆえに近づいてしまうにしろ、 紘子という女性が断ち切れない。 決して、恋愛感情が続いているわけではないのに。 東日本大震災のころのことも織り込まれ、 四国遍路の様子も描かれ、 物語からは、多くのことを教えられる。 父親の足跡を、淡々と追う次女の目を通して描かれること、 主人公自身の行動と思いをつづられていること、 ふたつが絶妙にからみあう。 最後の最後に見せられた光景に、 しばらく酔いしれた。 | ||||
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帯に書いてある特段な「悲劇性」は感じなかったが、普通の人の適度な愚かさと適度な真摯さが混在する「父」の生涯を楽しんだ。 基本的に善良な人の行動は読んでて楽しい。 紘子みたいな質の人は難儀だなあ…と思ったが、彼女の末期の様は「こうありたい」と、むしろ憧れた。 こういうのこそ「いい死に方」と言うんだと思う。 | ||||
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男の奥深い「業」を描いている。 妻を裏切り、家族に迷惑をかけた男の存在価値はあるのか。その罪の重荷に、悔恨の情を 示し、罪滅ぼしの行為で、家族に赦しを乞う。しかし、重荷を軽くする証明になり得るの だろうか。自分では重荷を捨てたつもりでも、妻や家族の傷痕は消えないし、家族の重荷 はいつまでも心のシコリとして残る。また、男の心の底は見えない。男は自分で蒔いた種 で人生を翻弄され「自分は何か」と自己存在を問う。 写真と刃物研ぎが趣味の男富岡康宏、妻美枝子、二人の娘敦子、碧(みどり)、康宏の 学生時代からの「友人」でフランス文学者の笹岡紘子、フランス文学者を夫に持つ謎の遍 路者秋宮梨緒が登場人物である。 構成は「序文」、一章~六章、「結び」である。章ごとに康宏と次女碧の視点で描かれ、 「自死」したと云われる父の旅路に対する娘の疑問に、父が応えていくような運びである。 読者は、碧と、康宏の謎を解いていくことになる。 著者は、序文で作品の夫婦関係を暗示している。「息を呑み、その手先と顔を交互に見 る。研ぎあげた刃先から青白い炎が揺らぎ立つ」。妻美枝子の夫康宏への心情は作品を通 じて変わらない。 康宏は写真に凝り、実父から仕込まれた玄人はだしの刃物研ぎを趣味としているサラリ ーマンである。学生時代から交際している紘子との腐れ縁は二十年以上続いている。家族 や妻の実家に謝罪し、紘子との縁を切る「念書」まで出している。孫が敦子に生まれ、そ れなりに「良い父で良い家庭人で良い夫」であることを誓い、幸福を噛みしめるが、紘子 との関係は切れない。早期退職をし実父の介護を経験し、死後、東日本大震災にボランテ ィアに出かけていく。しかし、役割を終えても「俺は何者だ」と虚しい気持ちになる。 様々な重荷を背負って、刃物研ぎをしながら四国巡礼の旅に出るが「結願」の帰途、フェ リーから「自死」する。 碧は、父の遺品である「ダイアリー」を片手に短期間の遍路に出る。亡父の遍路へ駆り 立てた理由は何か、なぜ、自死したのか、記入されているお金の収支内容のなかで法外な 支出は何か、遍路の装束や金剛杖をなぜ処分したのかなどを追い求める旅路である。 最終章で『冬の光』の哀しい由来も明かされる。康宏は「あの時代のあの光景」を再 度被写体として記録したかったのだろうか。それとも、平家物語の「浪の下にも都の候ぞ」 で波のしたに消えようとしたのだろうか。 紘子や梨緒との交際や四国巡礼、お遍路さんの話を巧みに織り込みながら、話題性に富 むテーマをそれとなく紡いでいく。例えば、大学のもつ暗い影(論文盗用問題、アカデミ ック・ハラスメント)、「ひとさがしネットワーク」の存在、巡礼と信仰の悩ましい問題 などである。 康宏の勤行と称する「刃物研ぎ」や「巡礼」は「遊行期」(人生仕上げのときで、野垂 れ死を目指すこと)の罪滅ぼしになったのか。『冬の光』で家族との新しい絆を取り戻そ うとしていたのか。研いだ鋭い刃先が自分にも向かってくる。男の「業」は深く悲しい。 読み応えのある作品である。 | ||||
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