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琥珀のまたたき
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琥珀のまたたきの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.04pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全19件 1~19 1/1ページ
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静かに恐ろしく、優しいけど残酷。モヤモヤするのに小さな幸せもあったりして。 もう、やめよう、やめようと思いながら、読み切ってしまいました。 エネルギーを消耗する本ですが、素敵だと思います。 | ||||
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小川洋子の「琥珀のまたたき」を読んだあと、私はオートクチュールのような美しさを感じた。 オート(高級)クチュール(仕立服)はその名の通り「高級注文服」である。それは店頭に普通に並ぶ量産品とは異なり、顧客の注文に応じてあつらえる1点ものである。美しく繊細な極上の生地を贅沢に惜しみなく使い、刺繍やレースなど緻密な熟練の手仕事によって生命を吹き込まれたドレスはまさに特別・格別なものである。 芸術を身に纏うとはまさにオートクチュールを着ているその瞬間ではないだろうかと思う。 しかし、そのオートクチュールを身に纏った美しいモデルたちを雑誌やその他メディアを通して見るたび、庶民の私には全く別世界のように感じてしまう、見えてしまうのである。あそこは本当に同じ世界なのだろうかと、、、、繋がっているのだろうかと、、、 何が言いたいのかと言うと、小川洋子の「琥珀のまたたき」を読んでいる時の感触・感覚と本当によく似ているのだ。 フランスのパリのランウェイという場で、オートクチュールを身に纏った妖精のようなモデルたちを眺めるように見るのは誰もが美しいと感じるだろう。きっと息をのむ美しさに違いない。 しかし、場所を変え、、、、 もし日本の地方のスーパーマーケットでこのオートクチュールを纏い歩いている女性を見かけたら、、、、、?? どうだろう?? しかも、纏っている人物は妖精のようなモデルではなくごく普通の女性。 しかし、纏っている物は正真正銘の一流メゾンのオートクチュール。 どうであろう?? 人はその光景を見てため息がでるほどうっとりするほど美しいと瞬時に感じるだろうか? まずは異様さを感じるのではないだろうかか。 何か場違いのような戸惑いを感じ混乱するのではないだろうか。 纏っているものは間違いなく格別に美しいドレスにもかかわらず。 もしかすると人はそのアンバランスな状況に狂気を感じるのかもしれない。 私はそう思う時がある。 小川洋子のこの「琥珀のまたたき」という小説は、異様で狂気すら感じる光景一つひとつを実に丁寧に手間をかけて紡ぐかのようにして描いている。それはまさにオートクチュールの手仕事の素晴らしさに値する。作家は緻密な作業を繰り返すことで異界ではあるが一つの美しい世界を小説の中に見事に存在させている。 ただし、決して忘れてはいけないこと注意しなければならないことがある。 その美しい世界は実に脆く虚弱であるということを決して忘れてはならない。 それは均衡のとれていない美しさなのである。まさにアンバランス。 それ故に、脆い。 オートクチュールのドレス同様「取扱注意」である。 「Fragile!!」 また「美しさ」について少し触れ、説明しておきたい。 何を美しいと感じるかは人それぞれであり、「美しい」・「美しくはない」どちらの判断をするかはもちろん個人の自由である。 均衡のとれていない、アンバランスな様を美しいと思う人間はもちろんこの世にはいる。 しかし、大抵の人間は均衡のとれている様に美しさを感じることが多い。 バランスよく保たれている様を人は好むのだ。 まあ、個人の好みはどうでもいいことで、他人がどうこう言うとではない。 ただ、この小説を読むうえで大切なことは、2つあるということをまず認識することだ。 美しさにも、均衡のとれている美しさと、均衡のとれていない美しさ、2通りあるように、 2通り、2パターン、2世界、とにかく2つ存在させているということをきちんと認識することが重要となる。そして作家はその2つを対極・真逆・反対という位置に隔たるようにして存在させ、繋がりを持たせようとしている。その繋がりは道というより細く頼りない線のような糸であるかもしれない、しかし、その糸を切らすことなく紐解いていくことを私たち読者に求めている、私はそう思う。 そのことを理解すると、この小説は極上のミステリー小説のような喜びも与えてくれる。 それは、トリックやからくりを発見するかのような喜びだ。 魅力的な面白い物語は、読者に「矛盾」という一つの問いのようなものを導きださせる。「矛盾」を見つけ出し考え、自分なりの納得する一つの答えを導くことが読書の最大の喜びである、と私は考える。 もちろん「矛盾」を見つけるにも、まず「矛」となる「盾」となる2つの事柄・2つの命題を見つけ出すことが当然必要となる。そして、なぜそれが矛盾しているのか、作家はどのような意図をもってその矛盾を描いているのか、読み手はそれを紐解くかのように、あるいは薄皮をゆっくり丁寧に剥ぐかのようにして導く。 そのようにして導きだしたものは「真実」と呼べるかもしれない。しかし「真実」がみんなと同じように見えるとは限らない。導き方は様々だし、その「真実」を美しいとするかは、個人の自由であるからだ。また「真実」=「人間としての正しさ」とならないことだってもちろんあるはずだ。 矛盾を感じずに生きていくことは人間に可能だろうか。 矛盾を感じない、矛盾がない世界、それは死んでいるにことに等しいように私は思う。 私たちは読書を通して矛盾を感じ、その感触・感覚を通してその自分という人間の存在を再確認することはないだろうか。 小説の中に出てくる人物を通して、小説の中で矛盾を感じている人物を通して、私たちは「矛盾」と対峙する。夢と現実を対峙させるように。 そのような読書体験で人間は自分が生きていると実感することはないだろうか。 やはり、説明は難しい。上手く説明できない。 だから、この小説の3兄弟たちが行っている楽しい遊びの場面を例として挙げたい。 それは「事情ごっこ」の場面である。 「事情ごっこ」とは、小説の中で3兄弟が新たに作った遊びで、まず2つの言葉を使って自由にある状況を作り上げ、その後その状況についてそこにどんな事情があるのかを説明するゲームのことである。 要は、きちんとつじつまを合わせるのである。 聞き手も話し手も納得ができるように。 そこが最も重要となる。 以下は小説から抜粋させて頂く。 (とても短いやりとりの抜粋だが、細かい部分は実際に小説を読んでこの手間と時間がかかる遊びを是非一緒に楽しんで欲しい。) 「事情って、何?」 瑪瑙はオリンピックごっこより多少入り組んだ、新しい遊びの仕組みをつかみかねていた。 「どんな出来事も、理由なく起こるわけではないの。そこにはちゃんとした顛末があるということ」 オパールが説明した。 「訳が分からない、と思うところに隠された訳を発見するんだ」 琥珀はそう付け加えた。 この短いやりとりから、私は子どもたちが「事情ごっこ」を通して自分たちの置かれた状況と向かい合おうと、また向かい合うことで何かを超えようとしているように感じた。 またそれは未来を模索し今の現実とどうにか繋ぎ合わせようとしている姿にも思えた。 小説の中の子どもたちは何の反抗もせず母親から言われたことを忠実に守り、母親の築いた世界に従って生きている。しかし、閉ざされたその世界の中で、子どもたちは母親よりも物事をずっと冷静に捉え、考えようとしている。 「事情ごっこ」はその表れと言えるのではないだろうか。 異界を生み作ったのは母親であるが、それはまた父親の責任である。母親が封じ込めた、その閉ざされた世界で、子どもたちは父親の作った百科事典をテキストのようにして読み漁る。読み漁り、生きるための餌を探し求めるかのように、子どもたちは深い海に潜り込む。そして、自分という人間の中にある一つの水源のような場所を発見する。そこは水源から湧き出る清らかな水のように、豊かな想像力が溢れだす場所だ。 その溢れ出る想像力を生かして、独自の遊び「事情ごっこ」を創り出す。独自の遊びではあるが、そこで子どもたちは二つの言葉をピックアップするという一つのルールをきちんと定める。そして、ルールに従い二つの言葉・対象をきちんと対峙させ、繋ぎ合わせていく。 その作業は、時間と手間がかかる。想像と思考の繰り返しの作業だからだ。 そして最も重要な大切なことはその遊びは一人では成立しないことである。 自分以外の他者がいて成り立つのである。 話し手と聞き手が存在するのだ。子どもたちはどちらの役も交代して行う。 どれほど理屈に合わない無理矢理な状況でも、話し手は聞き手に自分の存在を知らせるかのように事情を披露する。また聞き手はどんな事情であろうとも最期まで相手の語る事情に黙って耳を傾ける。 子どもたちは事情ごっこという遊びを通して、自分の物語を作り、自分の人生を模索し始める。物語を作るのには二つの要素が必要であること、また一人では物語は成り立たないということを、事情ごっこを通して理解し始める。 いつでも、子どもは遊びを通して、大きく成長するものだ。 どれほど理屈にあわない状況でも、想像と思考を繰り返し、どうにかつじつまを合わせていくことを話し手の立場から理解し、またその導き方は様々であることを聞き手の立場から理解する。 現実、世の中は理屈の合わない、矛盾で溢れかえっている。 しかし、子どもたちはその「矛盾」ばかりの本当の世界を知ろうと、近づこうとあるいは受け入れようとしているのではないか。 矛盾のある世界は確かに危険を伴う、けれどその危険のある世界を選択することも人間は可能なはずだ。生きていくことを選択するならば、想像と思考を繰り返し危険な世界を生き抜いていかなければならない。 その後の物語の結末は小説を読めば分かるので、ラストについては触れないことにする。 紐解くように、糸を切らすことなく、、、、 それが読者に求められているのならば、小説という架空の世界ではあるが私はその世界に入り込む。そして、糸を繋ぎたい、また編み込んで少しずつその糸を強化していきたい。 母親の友達、職場の同僚として物語に登場して、二つの世界を繋ぐ役を果たしたい。 この小説の中で二つの世界を繋ぐものは、ツルハシをはじめとする道具、また動物のロバや子猫である。ジョーという人物も途中から現れるがジョーは母親と会うことはなく、娘のオパールを救う人物である。 だから、私は母親を助ける人物として登場したいのだ。 二つの世界を繋ぐものが道具ではなく、また動物だけでなく言葉を交わせる人間であるならば、何かが変わったのではないか。 現実的な美しさとは、それは人との繋がり、大切な人と出会うことであると私は信じている。また実用的にその大切な人の役に立てるならば、それはなお光栄なことではないだろうか。 この小説の中で最も私が好きな部分は、オパールが「事情ごっこ」で披露するクレオパトラ 小母さんの事情物語だ。クラシック音楽の最も好きな部分を繰り返し聴くかのように、この物語に繰り返し耳を傾ける。それはまさに圧巻である。 大きな拍手を届けたい。「矛盾」という一つの壁を越えたであろうオパールがジョーと二人でしっかりと人生を歩んでいることを心から願って。また新たな壁が立ちはだかっても、想像と思考を繰り返し、本当の世界で本当の名前で羽ばたいて欲しい。 「ジョーだけの扉」とオパールがそう言ったその小さな扉を見つけたジョーならば壁を超える、いや通り抜けることがきっとできるはず。 最後になったが、この小説の中で私が伏線と捉えた部分を抜粋する。 オパールが勤務表を持ち出してジョーと交わす約束の矛盾に、琥珀は最初から気づいていた。 | ||||
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医者によると、妹の死因は肺炎。 母親はそれを受け入れなかった。 普通に考えて野良犬に舐められて肺炎で死ぬのはおかしい。 オパールの昔の記憶で、家族みんなでデパートに行った→母が末妹を警備員に差し出した→オパール『魔犬ではない。4人のうち末妹を選んで差し出したのは母親だ』 妹は警備員に強〇され、梅毒になって死んだのではないかと思いました。あくまで考察です。 梅毒の症状で、全身に発疹(母が魔犬に舐められた、紋様と言っていたもの)と発熱(作中での症状)、肺炎(作中での死因)があります。 妹が発症する前に、たまたま犬に舐められたので、母親は魔犬のせいだ、と思い込んでいる(この時点で狂ってる)又は自分の娘の身体を売った現実から逃避している デパートの展覧会に入りたいがために嘘までついて物心ついていない末妹を差し出した…? 妹の謎の死、これが一番辻褄合うんじゃないんでしょうか。 ひとつ言えることは、母親は精神を病む前からヤバかった。 | ||||
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猟奇的で刹那的で読むのにすごい神経的に疲れた、読み終わってホッとした。小川洋子さんの本っていつもドキドキする。 | ||||
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魔犬の呪いから逃れるため、父親の残した別荘で暮らし始める母親と3兄弟。新しい名前を使う、大きな音を立てない、壁の外には決して出ない等、母親が作ったルールに従い、ひっそりと親密に過ごすオパール、琥珀、瑪瑙。しかしルールは少しずつ破られ、家族だけの暮らしは壊れ始める。 ファンタジーの絵本ような、不思議で幸福そうな世界観を持ちながら、一瞬後にはなにかとてつもなく悪いことが起こる不吉な緊張感をつねに孕んだ物語だった。 3兄弟がそれぞれ独自の世界観を持っていて、3人それぞれの世界、そして一緒に築く世界がある。 時折挟まれる、老人になった琥珀の、友達からの視点での物語も、3人を見つけたご婦人の視点からの部分もよかった。 残酷で美しく、静かな物語だった。 | ||||
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不安定な地盤の上で日常を送る子どもたちを見ている感じで、「誰も知らない」を彷彿とさせました。ゾッとするような、気持ちの悪〜い不穏がそこかしこに散りばめられています。母親の描くエゴにまみれた安いファンタジックな世界は本当に不気味です。他の方も書いておりますが、読後かなり疲れました…。さすが、小川洋子です…。 | ||||
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途中までずっと不思議な感じで物語が進んでいく。何の物語なのか、つかみづらい状態が読んでいるあいだに続く。ただ、最後まで読むと、なかなかすごい話だなあ、と感心させられる。 母親による一種の虐待ともいえる、悲惨な状況の話のはずなのに、その子供目線で書かれた物語が、ファンタジーで美しい。こういうことができるのが、著者のすごさなのだろう。 | ||||
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3人の幼い兄弟が母親に軟禁(?)されるお話。3人は普通にそれが当たり前に何年も過ごすがやがてそのことが世間にばれてしまう。けれど母親は自ら命を・・・。う~んもやもやする。 | ||||
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やわらかで、優しく、繊細で、密やか、美しくて愛おしい 他の作品も含め、著者の作品をグロテスクと感じる人もあるらしい。しかし、彼女の描く、特異な環境で生きる登場人物達は皆一様に、弱く、正直で、まっすぐで、優しく、美しく、愛おしい。「普通の」読者である我々とどちらが人として魅力的であろうか? | ||||
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別荘に閉じ込められた3人の子供たち。それは、末娘の死によって、母親からもたらされました。その平和な生活ぶりは、いつまでも続くようにおもわれました。小さな声で囁きあうその生活は何故永遠に続かなかったのか? 読んでいて、非常に苦しくなるような重厚な作品になっています。 小説は、現在と過去うぃ行き来して、語り手を変えながら語られます。それだけに、非常に難解で繋がりを把握するのが難しく、丁寧に読まざるを得ませんでした。それだけに、読み終わった時に感じたものは様々でした。 発見されて外の社会に出た子どもたちは、幸せになったのだろうかということ。でもいつかはそうならざるを得なかったのだろうとも思います。とは言うものの、それは決して幸せになったとはとても思えません。 更に言えば、小さな声で別荘内の生活をしていた子どもたちの声は、外の社会でどれだけ届くのでしょうか? 声の大きさが「真実」となる現代社会において、耳を澄まさなければ届かない声がどれだけ社会全体に届くかを問う小説だと思います。 | ||||
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通勤時間の行き帰りに電車でちょこちょこ読むのではなく、休日に一日掛けてしっかりと向かい合いどっぷりとその世界に浸りたい、そんな風に思える作品。 美しい文章に御伽噺的な世界、文章一つ一つが想像力を引き立て紗のかかった美しい映像となって頭の中に広がっていく。おかげでページ数の割には読むのに凄く時間がかかる… ラストは直接的な表現を行わず行間とイメージから出来事を感じるという何か斬新なスタイル。映画「2001年宇宙の旅」のラストシーンを小説に持ち込んだかのような感じ。こういうのが文学なんだなぁと改めて実感。 解説も良かった! | ||||
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私は作者の短編「巨人の接待」を読んで、日本では珍しい不条理小説の創り手としての作者に注目し始めたのだが、本作の構想にも驚かされた。オパール、琥珀、瑪瑙の三兄弟(亡くなった末娘を含めば四兄弟)を巡る物語なのだが、本来なら陰惨な物語とならざるを得ない所を、これ程メルヘンティックに描けるとは尋常ではない。 冒頭から、アンバー氏と私、という三兄弟とは一見無関係(アンバーを邦訳すれば明白だが)な人物を登場させ、三兄弟の物語とアンバー氏の物語とを切れ目なく綴って、全編に謎めいた雰囲気を醸し出しているのも作者の工夫である。三兄弟の父親(出版社の社長だったが、倒産し、三兄弟及び母親とは離別した)が出版していた様々な「図鑑」が重要なモチーフとなっている点も印象的である。「図鑑」は離別した父親の思い出でもあり、亡くなった末娘の思い出でもあり、三兄弟が若い頃の(主観的に)楽しかった時代の思い出でもあり、三兄弟が暮らした「館」のメタファーでもあるのだろう。 本作で地の文として綴られる三兄弟の若い頃の暮らしは、実は、アンバー氏の創作(願い)であるかも知れないという破天荒な想像さえ出来るアクロバティックな作品構成である。これだから作者の作品は油断ならない。今後も作者の作品から目を離せない。 | ||||
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幼い娘を亡くし、愛する人は去り、彼女は残された3人の子供と思い出を自分のだけの世界の内側へ内側へと引きずり込みました。 3人の子供の新しい名前が永遠に変わらない鉱物だということが、彼女の願いをとても象徴的に表していると思う。 これ以上何一つ変化や失うことを受け入れられない彼女の狂気は、あまりに静かに語られていきます。 子供たちは、ママのつくった「家という結界」や「きめごと」に対して、じっと見つめる眼差しや想いはそれぞれで個性が光ります。 世界は自分の外側同様、内側にも果てしなく広がり深いものなのだと、決して狭いものではないのだと思わせてくれます。 密やかに閉ざされた世界で成長をする3人の子供たちの生命力と母親の哀しい狂気の世界にぜひ浸ってみては、と思います。 | ||||
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言ってしまえば「母親によって監禁されていた姉弟たちのお話」です。 でも、小川洋子さん独特の世界観にかかれば、そんな状況も静謐な出来事かのように描かれてしまう。 美しく、他の作家には決してマネのできない「味」「品」そして「毒」・・・。読者をたまらなく酔わせます。 彼らは閉じ込められることになんの不満も不安も抱いていなかった。 それどころか、図鑑と己の想像力でイマジネーションの翼を広げ、どこまでもどこまでも広い世界を伸び伸びと冒険していた。 だから読者はこのお話のはらむ「狂気」をついつい忘れがちになる。それがすごい。 最終的に監禁生活は終わることになるのだけど、どのような経緯でそうなったのかがまったく描かれていないのがミソ。 想像力を刺激するし、心にいつまでもザワッとしたものが残ります。 いい意味で「読後の後味の悪い作品」でもありました。 | ||||
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またしても小川洋子の傑作が生まれました。この本を抱きしめて眠りたい。この物語は世間から見れば「実の母親に6年八か月も監禁された気の毒な3人の姉弟の物語」なのではありますが。美しく、儚い物語のセカイに監禁されていたのですが。つるはしを持って唯一家族の中で塀の外の世界に出ていく母の、意図を思いがけず発見するくだりは、レイ・ブラットベリに通じるような濃密な世界観が立ち上がってきて、ぞくぞくします。 塀の外では母のつるはし、塀の中では父の残したあらゆる図鑑があるために、子供たちのセカイは豊かに物語を立ち上げることができるのです。 それでも、世界を物語る力を持った姉オパールは、セカイをとらえなおし、つまりきちんと成長して、母を糾弾し、他者を見出しこの世界から出て行くことができた。末の弟、瑪瑙は、音を奏でないオルガンから音楽を紡ぎだすことのできる耳を持つがゆえ、塀の向こうに出ることができた。そして、長男、琥珀(アンバー氏)は、左目の中に琥珀のような地層を持ち、図鑑の空白の地層に死んだ妹を見出し、その瞬きのなかに物語を見ることができる。それゆえにそのセカイをいつまでも愛して、塀の外に出てもそのセカイの中に住んでいましたが。それは彼にとって幸せの中に生きることなのです。現実を知っていても、図鑑の中の物語は美しいのです。 今やかれの作品は展覧会を開き、多くの人に見てもらえる広がりも持ちましたし、彼をそばで見つめてくれる人の存在にも少なからず気がついている。世界は閉じていないのですけれど、琥珀の住んでいる瞬きの絵画のセカイは、閉じていても構わないのです。そういう物語の沼があれば、私たち読者は、この現実の世界を生きていくことができるのです。秘密の沼を心の宿すように、この物語を抱きしめて眠りたい。 | ||||
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綺麗な「蝿の王」みたいな作品。 著者は誰もが子供の頃持っていた限られた登場人物だけで完結した美しい世界を大事に守っていて、それを作品化したようです。 館の中という閉ざされた世界で子供たちは自分たちの遊びを際限なく深化させていきます。 閉ざされた空間であるにも関わらず子供たちの想像力は書斎の図鑑を通して時空の遥か彼方まで広がっていきます。 一応ストーリーやオチはありますが、それより想像力豊かな図鑑の解説文、やたら哲学的な子供たちのセリフを通して内的宇宙を楽しむ本です。 | ||||
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小説に何を求めるか――によって、この本の読み方はまったく違うと思う。 幼い子供たちの閉ざされた生活は、「楽しいかどうか」ということになると、 決して心地よいものではない。 怖さのようなものもある。 しかしエンターテインメントに重きを置かないのであれば、 この小説は、美しい。 まず、文章が技巧なくきらめいている。 ラストシーンの一節などは、「言葉」「文章」の可能性を見る思いだった。 「博士の愛した公式」のような、奇妙な明るさのようなものはないが、 細部を描く表現力は圧巻とも言える。 ストーリーを追う小説ではなく、文章を味わう小説とでも言えるだろうか。 もちろんこの作家ならではのイメージの飛翔は、しっかりある。 「好き嫌い」を考慮して★1つ減らしたが、いい本である。 | ||||
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この小説世界は、身近で小さな物によって構築しうる、最も切ない表現で満ち満ちている。 同じ作者の「ことり」という作品で、主人公が自分の勤める洋館で少女を歓待する場面(小説に描かれたもので、これほど明るい切なさと美しさにあふれた場面を私は知らない)と同じような表現が、世界全体に敷衍されてちりばめられている。 言葉で表現し難いものを小説世界に顕現させる、そのたぐい稀な才能を、作者はますます深化させているように思われる。 | ||||
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読後、不思議な世界を漂っている。過去、あまり接したことのない作品だから である。ルイス・キャロルの「アリス」。不思議の国や鏡の国を往復した「アリス」 の冒険が浮かんでくる。閉鎖的な空間と現実の世界。また、宮沢賢治の《心象スケ ッチ》のようなものかもしれない。『銀河鉄道の夜』のジョバンニが夢の中で、 死者たちと華やかな体験をし現実の世界に帰還する。作者は登場人物に心のスケッチ を語らせている。 二人は老人福祉施設のなかだろうか。「アンバー氏」と「私」の会話が、十一篇の 冒頭に描写される。登場人物の正式な名前はない。「私」は、曲がった指で施設の ピアノを伴奏する女性である。アンバーは「琥珀」の英語名詞である。 四きょうだいの末娘が野良犬に舐められた結果死ぬ。医師は肺炎が原因だと云う。 母親は「魔犬」の仕業であると主張する。「魔犬」を避けるため父(正妻は別に いた)の別荘で母親の「禁止事項」を忠実に守る生活がスタートする。父は、 「各種図鑑」の出版会社を経営していた。別荘には膨大な図鑑が残され三姉弟は 外の世界をそこで知る。ママの命令で、過去の名前を忘れるように図鑑からとる。 姉は「オパール」、弟「琥珀」、末弟「瑪瑙」である。別荘の「草刈り」をする ロバは「ボイラー」、野良猫は「カエサル」、商売人の青年は「ジョー」である。 書棚に並べられた図鑑をめぐるママと姉弟の創造と想像の世界が拡がっていく。 琥珀の左目の「またたき」で記憶と想像(作者は地層と表現している)で物語 を紡ぎ、亡くなった妹の思い出や閉鎖的空間での体験を図鑑の空白部分に描いて いく。「パラパラ漫画」ならぬ「パラパラスケッチ」になっていく。 しかし、詳述は避けるが、外の世界から「使者」が図鑑の世界、閉鎖的空間に 入り込んでくる。「ジョー」「カエサル」「ボイラー」が三姉弟を現実世界に 引き戻す役割を果たす。 非現実世界、非日常的世界と現実。閉鎖的空間、異空間と現実。その入れ替わり を楽しみ、かれらの想像力の世界を楽しむ作品である。家庭愛、きょうだい愛とか 教訓的な読み方は必要ない。ひたすら小川ワールドに入り込めばよい。 中世の森深い古城にいる気分でもあるし、読者は夢空間でさまよい続けるだろう。 結末は、読者の想像力にお任せしよう。 | ||||
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