■スポンサードリンク
審判
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
審判の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.31pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全49件 21~40 2/3ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ゴイスーな小説ですね。 書かれた当時の時代背景などを考えながら読む必要がありますね。 この小説に星5をつけないと、「わかってねーな、こいつ」と思われそうなので、星5をつけさせて頂きます。合掌。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
オーストリア=ハンガリー帝国領プラハ出身の、20世紀文学を代表するユダヤ系ドイツ語作家フランツ・カフカ(1883-1924)の未完の長編小説、1914-1915年執筆。後述の通り、或る奇妙な"訴訟"に巻き込まれた男の物語であるが、カフカ自身プラハ大学では法学を専攻しており、大学卒業後は弁護士見習いや司法修習の経験がある。その後は「ボヘミア王国労働者傷害保険協会プラハ局」に勤務し、近代官僚制機構の末端に身を置くことになる。 □ カフカ自身を連想させるヨーゼフ・K.という名の青年は、或る朝理由も分からないまま突然逮捕される。その罪状が明かされることはない。捜査機関・司法権力による逮捕・刑事"訴訟"の過程は、物語を通して一貫して不明瞭で曖昧模糊とされたままである。そして情況が何ら明らかになることなく、ヨーゼフ・K.は「犬のよう」に処刑される。 ヨーゼフ・K.を逮捕しに来た監視人曰く「あなたが告訴されているのかどうか、わたしはまるきり知らないし、あなたが何者なのかすら、まったく承知していない。あなたは逮捕された。それ以上のことは何も知りませんね」。彼同様に"訴訟"に巻き込まれて商人ブロック曰く「それにわたしの場合の提出書類にしても、・・・、まるで価値のないものでした。・・・。ものものしいつくりのわりに内容がないんですね」。同じく「・・・、だれひとり審理の日を確定したいとは思わず、できもしないのです」。教誨師曰く「裁判所はお前[ヨーゼフ・K.]に用はない」。 近代官僚制機構は、社会システムとして巨大化・遍在化するとともに、個人の対世界意識・対人間意識をも深いところで規定することになってしまった。この物語は、このように二重の意味で人間の生が匿名化され非人格化されてしまった事態への、則ち近代人の疎外情況への、裁判を材に取った滑稽譚による批評であると、一応は云えるだろう。 □ ところで、"訴訟"が物語の中心であるはずなのに、その実態/実体がすっぽり抜け落ちている。ついぞ明示的に語られることはない。この物語はその中心が空虚そのものである。そして、ヨーゼフ・K.の様々な立ち回りも、その他の登場人物の言動も、全てこの空虚な中心の周りをただただ浮遊しているだけなのだ。そこへ遡行することで意味と位置づけを与えられる物語の中心は、無内実なのであるから。そして無からは何も引き出せない。意味も本質も目的も位置も方向も価値も当為も。物語世界の秩序の支点と糸を欠いているのだから、それは何処までもズレていき、チグハグと化していく。恰もそうして崩れ毀れ続けていく過程そのものがこの物語の本質であるかのように。物語中のあらゆる言葉も行為も、一切の自己意識も communication も意味を為し得ない。 「わかってもいないことをしゃべり合っている」。 言葉が、その交換が、communication が、空転している。それを「不条理」と呼んでもいい。それは物語中の言葉だけではない、当の物語そのものについて当てはまることである。小説『審判』に於ける言葉の空転は、『審判』とその読者とのあいだの discommunication と明らかに並行関係にある。逆に云えば、小説『審判』とその読者とのあいだの discommunication が予め当の『審判』の内容そのものとなっている。小説内容が、小説それ自体を食い破って、小説と読者との関係そのものとなっていく。以上のような意味で、これは中井秀夫『虚無への供物』にも通じる、メタ・フィクションの構造を有していると云えないか。 この小説を読んで感じる困惑が、まさに communication の空転を体現している。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
話が進まず、堂々巡りを繰り返す。 未完に終わった作品であり、カフカも出版を希望していなかったはずです。 あえて、私たちが読み解こうとしても無理があるのではないかと感じます。 印象的なパーツの集合というイメージでしかなく、何を表現したかったのかが 最後まで良くわかりませんでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
数年前に読んだ『変身』が非常に印象深かったのと、カミュが『シーシュポスの神話』の中で審判と城について 考察していたので読んでみた。日常の非日常な出来事がつらづら書かれているが読後にメッセージ的なものは 特に感じなかった。 何も身に覚えがないのに、実態があるのかないのかさえ不明な不気味な裁判所に知らないうちに有罪とされ、当初、 鷹揚に構えていたが、徐々に切迫感を感じて、もがくが、最期は犬のようにあっけなく処刑される。 社会への批判、ナチスによるユダヤ人迫害の危機感ととらえることも出来るし、カフカ自身の人生における、 希望から徐々に感じる窮屈感そして絶望、を表現してるととらえることも出来る。 回りくどいセリフにうんざりしそうになる時もあったが、カフカが天才であることは感じた。 『城』を読んでる最中なので、また読後感は変わるかもしれない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ヨーゼフ・Kが最後に殺される。しかしその章は他とつながらないように感じた。もしそうなら、書かれているページ数からみても、カフカの意図はその章以前の方により多く表現されていると考えることもできる。小説はどの1行も同じように大切だという説に従って、結末部にあまりとらわれないようにする。 Kは、叔父の勧めでいったんは弁護士を頼った。しかし、口ばかりで何もしない弁護士に嫌気がさし、断る決心をする。そして弁護士のもとへ行き、もう弁護は要らない、と申し出る。そこには、卑屈な商人ブロックがいた。そして、Kは単独で訴訟と戦おうとする。このあたりがクライマックスだと思った。 (この小説が、夢のような話だとか暗い未来を予見しているとか、不条理を描いているだとか、そういう読み方は抽象的で原文と離れてしまう) そのあと、有名な「掟の門」の話が出てくる。こわい門番がいて男を半ば脅して中に入れさせない。あれは、Kに対して、自らの姿勢を顧みさせる話だと受け取った。男の心の中の風景かもしれない。結局、男は敢えて入らなかったのではないか。門番と対話を重ねつつ、自分の来し方行く末を考えていたのではないか。 小説全体としては、個人(普通の庶民)が独力で何かを追求する物語のような気がする。Kは周囲のことに配慮しながらも臆することなく行動している。だれだって思うことが百パーセント達成することはない。Kが最後に殺されたのは、カフカが現実に似た体験(精神的に)があって、その部分をすらすらと書き上げた、というふうに推測する(私の記憶間違いかもしれないが、この結末部は、冒頭部分とともに一番最初に書かれたそうだ)。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
審判」は実に「カフカ的」であり、非常に読み応えがあるのは衆目の一致するところ。 「カフカ的不安」と「不条理」がきわめてよく描かれている作品であろう。 ヨーゼフ・Kがどのような罪を犯したかも不明なままで、二人の役人からその罪を 問われる。いくら考えようともその罪が何であるのかさえはっきりしない。 主人公は必死にその理由を考えるが不明のまま。審理を受けるがその相手は全て 政府側の人間。勤めを続けながらも審判の日を待つ主人公。 やがては、夜中の呼び出しで… なるほど「いくら努力しようともたどり着けない城」や「いきなり虫に変身する」 それらの作品と同様に、一連の小説群に通底しているのは「不条理」と「不安」。 カフカの作品を読んだ後に残る「自己の存在証明」の不確かさ。 カフカの代表作としても通じる作品。 しかし…これが果たして「カフカの作品」であるのかは疑問の残るところ。 章によってはカフカが実際に書いたのは間違いないが、他の章はどうか? カフカはこの小説の完成をほぼ諦めていたのが通説。 ノートの断片等を後世の人が纏めた作品であり、この点でどうしても「カフカの作品」と 断定されると違和感が残る。 果たして、カフカのノートの断片やカフカがこのような作品を作成する意図が はっきりしていたことがあったとしても、他人が手を加えたものがその人の作品とは 思えない。 読み終わったときに、この小説はカフカという「極めて複雑な作家」が描いたものとは 考えにくかった。カフカは「不条理を不条理として」・「曖昧さを曖昧さとして」 残す作家。その他のカフカが完全に自分で完成させた作品とは趣が異なる。 簡単に言えば、「あまりにも『構成がはっきりしすぎ』・『筋が整い過ぎ』」と考える。 特に「最初の場面」と「最後の場面」があまりにも似通い、「循環する不条理」を 「とても都合よく整合性を持たせている」。 「場面が綺麗すぎて」かえって違和感を持つ。 作品自体は非常に面白く、読みやすく、「不条理」も感じられるが、「カフカ的不安」の 要素がやはり少なすぎる。 作品としての評価は高いが、「カフカの作品としての疑い」が拭いきれないので、 あえて評価を下げた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「審判」(カフカ)読了。あろうことか台風の影響で何時間も足留めされた新幹線の中というある意味極限の状況下で、この出口の見えない難解な物語と格闘するという得がたい経験(もう二度とゴメンであるが)をした。たぶんカフカにはカフカを読むにふさわしい時間と場所があるような気がする。それがいつどこでなのかはすぐには思いつかないが、すくなくとも台風の影響で何時間も足留めされた新幹線の中でないことは確かであろう。 「審判」(カフカ)の第9章がお気に入りです。「カフカ短編集」の中でわたしが一番好きな「掟の門」が主題となっている章です。個人的には「生きてきたこと生きていること生きていくことについての切なさを伴う考察」と認識してます。実際にはもっと深遠なテーマのようですが。(笑) まあいずれにしてももはや神経戦の様相すら感じさせる「審判」であるが、おそらく人生の中でこれを読むべき年齢というのが確かにあって、わたしはそれを28歳から32歳の間とふんでいるのだがもちろん何の根拠もないのは言うまでもない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『変身』と短編では間違いなく天才の着想と完成度を誇っていたカフカにとって本作を含めた長編三作は習作であったらしい。そして41歳で急逝してしまった著者は本作も未完のまま終わらせている。『城』を読んだ時には立体感のない会話が延々と続く冗漫さに読了までしんどい思いをした為、「審判もそうだったらやだなー」と思いながら読み始めた。(余談だが、奥泉光氏は『城』を途中で投げ出したそうだByエッセイ集『虚構まみれ)。『城』と比較すると本作は遙かに構造と立体感を備え、ディテールにも粗さが無い。だが公務員として多忙の中作品を描いたカフカにはやはり時間が足りなかったのではないか。あえて内容には触れないが、カフカの超絶的創造力であれば、世界のすべてが唐突に裁判所に繋がっている仕掛けをもっと巧妙かつ豊富に作る事が出来たと思う。〜若くして人生を終えてしまった事が作家としてのカフカにとって良かったのか否かは、僕には解らない。だが、間違いなく唯一無二の天才だっだ著者の才能と世界観は若かったからこそ為し得た僥倖というべきなのかも知れない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
1966年刊行以来、長年親しまれてきた版ですが、光文社のタイトルを変えた新訳、『訴訟』では、構成が大幅に変わっています。 従来の本作は、原稿を預かったカフカの友人、マックス・ブロートによる恣意的な編集がなされているとして、光文社版では近年の研究、全集に従った新たな訳を試みています。 このあたりの事情については、光文社版の解説、レビューやWikipediaに詳しいので、それらにお譲りします。 もともとの原稿は順番がはっきりせず、未完成の作品なので、あの衝撃的なラストも、新訳では主人公の夢とも解釈できるとのことです。ナチスによるユダヤ人迫害の予見という解釈も、やはり解釈の一つということでしょう。 中野孝次訳の1992年刊新潮文庫版新訳 が現在入手できないのも、こういった事情も関係しているようです。 (ちなみに私が昔読んだのは1971年刊新潮文庫旧版 の原田義人訳でした) しかしドラマティックな展開の、この旧版もそれなりに捨てがたいので、よく比べて選んでみることをおすすめします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ある日、朝起きると、ゴキブリになっていた。そして、人生の歯車が狂いだす。これは有名な『変身』。 ある日、朝起きると、有罪になっていた。そして、人生の歯車が狂いだす。これが『審判』。 『変身』と同じく歯車の狂った人生が、おもしろおかしく、そして哀しく暴走する。 理由もないのに突然、人間を有罪にする不条理な裁判制度。 一体、これをどう解釈するかは、読む人によって様々に解釈できる。 カフカの友人は『ユダヤ教の神の審判』だというし、 別のレビュアーの方は『ファシズムを予見していた』と。なるほど、どれも一理ある。 ただ、ぼくは足りない頭でなんども考えてみたけど、いまいちよくわからない。 この本を理解できなかたのかなと、もやもや感に苛まれたのだけれども、それはさておき十分に楽しめた。 それは、描かれていた世界そのものがおもしろかったから。 会社の物置をあけたら、おっさんがムチでお仕置きされていたり、スラム街のボロアパートの一室ででいきなり裁判が始まったり、 普通の現実が奇妙にねじれていくその様が、不思議な浮遊感を与えてくれる。それは本に酔わされたかのような、心地よい白昼夢。 というわけで、カフカのその意味を解釈しようと力まずに、気軽に読んでください。 その暗示している意味はわかりにくいが、文章は平易でわかりやすいので、誰でも楽しめると思います。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑以上、初読の感想。再読し、さらには『城』を読むとその意味するところが見えてきた。 これは「法と人間の関係」を描いているのではないだろうか、と。 法はあれど、それを施行する人間は恣意的である。 法はあれど、それを解釈する人間は恣意的である。 法は完全であったとしても、それを施行する人間は不完全である。 『審判』は法を執行する人間たちの愚かさを描き、 『城』は法を執行するシステムの愚かさを描いている(法を執行する人間たちは優秀であるのに)。 この法をユダヤ教の律法と解釈すると"審判"を"神の審判”と解釈できる。 ファシズム下の法と解釈すると”審判”を全体主義の強権発動と解釈できる。 ただの法律と解釈すると『審判』を一般的『判決』と解釈できる。 まあ、程度の差はあれ、どの社会でも人間は掟によって理不尽に扱われ、人生を狂わされる可能性を秘めているのだ。 法治国家の根本の矛盾を平易に描いた見事な作品。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
初めて審判を読みました。 読む機会があった本がこれだったのでレビューするが、文庫本があるならそっちを買った方が良いと思う。文章的には5つ星だが、値段が高いので星4つとした。 小説は主人公が捕まるところから始まる。 大げさな逮捕劇ではなく、あくまでも静かに”同行願う”形で審判の場へと立たされることになる。 主人公は社会的地位もあり、機転もきくし、弁も立つ。しかし、それゆえに逮捕された理由がわからないまま彼は裁判を進めていくことになる。 読者からしてみれば「逮捕された理由はなんなんだろう」と思ってページを進めていく。しかし、最後には物語がどうこうという話ではなく「審判」というものがどういうものか理解するようになってしまう不思議な感覚に陥る。 罪を着せられたことのある人間ならば、読んで間違いはない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
Kについてはごく平凡なサラリーマンとしか説明のしようがない。なぜ裁判に巻き込まれることになったのか、 なんの裁判かも彼には全く訳が分からない。そして次第に彼はどうしようもない窮地に追い込まれていく。 これ即ち、コント55号のコントである。違うのは目的だけである。 ところで、『審判』で検索すると、2番目にヒットするのは田代まさし氏の書いた『審判』である。 これもまた不条理ということか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
カフカは難しい、様々な解釈が可能.... カフカにはこのような評価がなされることが多いようである。 私は、カフカに対するこのような評価は、次のことを意味しているのだと勝手に考えている。 「自由にカフカを感じれば良い」 上記のような立場で本書を読んだのであるが、私にとって本書はカフカの世界を象徴していると言って良い。 自らの裁判(審判)の行方がどうなるかわからない、どう進行しているのかすらわからない「不安」、何ら適法な手続が採用されない「不合理」、全体主義が垣間見える社会の「恐怖」、そして結末が象徴する「不条理」。 本書に対する研究者の評価、評釈を先に読んで構えることなく本書を読み、自由にカフカの世界を感じることを強く奨める。もしカフカを好きになって、彼の作品を読み進めることになったら、私同様、本書が彼の世界を象徴していると感じるのかもしれない。 最後に一言申し添えると、上述も私の勝手な評釈であるため、影響されずに自由にカフカをお読みください。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
とにかくすごい作品。 読んでも読んでも底の見えない世界観に圧倒されます。 社会システムや法に対する批判や恐怖、そういうことがテーマになっている と思うのですが、それをこういう表現方法で展開できる人はカフカ以外には いないでしょう。 もちろん、カフカ以降でその模倣をする人はいますが・・・ これだけ現実世界から乖離した突飛な話であるにも拘らず失われる事のない リアリティと説得力はいったいなんなんでしょうか。 この作品が今から90年以上前に書かれたとはとても思えない。 天才の仕事だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
1925年に書かれて以来、これまでに多くの人がそれこそその数だけの解釈をしてきたのではないだろうか。後に来るナチやファシズムを予見したとか。私個人は、主人公の経験に似た(もちろん程度は違うが)理不尽な経験を思い出したりして、リアルな感覚も感じた。そんな体験は誰にでもあるだろう。読む人はその感覚を思い出し、主人公に重ねてこの物語を見るのだろう。そういう構成がカフカのすごさなのだろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
現代の不条理や不安を表している、とかよく言われますけれど、どうなんでしょうか?もちろんそういう側面もありますけれど、また、私は誤読を含めて読者が物語を楽しみ、判断する自由があると考えていますので、私見ですが、不条理や不安はもちろんですけれど、不条理ギャグ、みたいな部分が気になりました。私が読んだどの作品(「城」「変身」「審判」)も自身の信じているもの、社会常識や社会通念がある日突然信じられなくなる不安(それも個人対組織という形をとっての)、だからこその自分の立場や自分を信じ難くさせる不条理をあらわしてはいます。 しかし、この訳者の読みやすさもあるのでしょうけれど、そこはかとなくユーモアの香りを感じます。また私個人だけが分かっていないという立場をとらせているのに、ある意味その不条理な状況を素直に(抵抗はすれども、現実的に受け入れがたいことまで、結構そのまま)受け入れてしまうそのさまが、どこか滑稽に思えてきます。 すると、何処まで行っても細かな理由をつけてただ単に拒絶されている、という状況に変わりはなく、繰り返される滑稽さがまた増します。もちろんきっと様々な解釈が可能だと思いますが、後は受けて、読み手の側の問題なのではないか?と私は考えます。 しかし、中でも「審判」と「城」は面白かったです。私の好みとしては「城」に軍配が上がりますが、審判の方が完成されているともいえます。 不条理ギャグがお好きな方に、オススメ致します。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
カミュが“シーシュポスの神話”の中で、“城”とともに高く評価しているのがこの小説です。とても読みやすく、毎日少しずつ読んでも一週間ほどで読み終わることができます。この小説は未完に終わったとされていますが、読んでみると内容は完結しています(同じく未完に終わったとされているカラマーゾフの兄弟のようなものと思ってよいです)。小説の中に挿話的に入っている”Before the Law”だけでも読む価値が充分です。一つ難を申せば、この新書版の訳者の解説には小説の結末がすべて書かれており、読まれる前にこの解説を読むと興味が削がれる可能性があります。一週間ほどで読み終えることができる小説なので、解説は読後に読まれることをお勧めします。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「裁判所の実体は、たくさんの精巧なしかけの中に見えなくなっているんですが、万事このしかけしだいなんですからね」(本文より) 道端で出会った人が、自分の名前を知っている。自分が裁判にかけられていることも知っている。 そんな状況は、普通に考えて明らかにおかしい。 しかし、おかしいことが説明もなしに続いていくと、だんだんそれに慣れて受け入れ、疑問に思わなくなってしまう。それが怖い。 主人公Kは、しかけの犠牲者である。 社会のしかけは人が作ったものであるはずなのに、人が立ち向かうのはあまりにも困難になってしまっている。 この小説には、全体を通して形の見えない、しかしとてつもなく大きく見える不安がある。 何かが根本的におかしくて、不安はどんどん大きくなっていくのに、いっこうにその正体がつかめない。 形の見えない不安と、無限ループ。解釈の余地は無限にある。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
カフカ未完の傑作。未完というとどうもよくないイメージがありますがカフカの長編3つはたしかどれも未完。未完だけれどもこれだけおもしろく読めちゃうのはどういうわけだと思わず呻ってしまう傑作。 ナチス台頭を予知したとか言われていますがたぶんこの作品の魅力はそんなところじゃないだろう。小説的思考があちらこちらにある真の「小説」だ。まったく意味のわからないままに逮捕され、裁判にたいして自由でありながら束縛されていくK。悪夢的連鎖の中で囚われてどうしたらいいのかさっぱりわからないことでしょう。巨大なシステムとしての審判の機能は人間を束縛するのか自由にするのか、犬のように殺されてしまったほうが楽なのか。どうなんでしょうね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ヨーゼフ・Kは何も悪いことをしていないのにもかかわらずある日突然逮捕される。彼を逮捕に来た役人もKを逮捕するだけが仕事でどういう理由で彼を逮捕するかは知らない。逮捕されたKは裁判にかけられるのだが、裁判はアパートの一室で行われる。そして単なる傍聴人と思われた人々も裁判所の予審判事と同じバッチをつけている。裁判所の実態もよくわからない。 逮捕されたもののKは投獄されるわけではなく日常生活は自由である。彼の前には弁護士、裁判官の肖像画を描く画家、叔父、牧師などが次々と現れ、彼にアドバイス(説教?演説?)を長々と述べるのだが、そのアドバイスは法律の中には一般の人には見えないものがある。法律より大事なのは裁判所へのコネである、というものである。そして、あなたを助けることが出来るのは自分だけだと言ったりもする。 結局Kは最後どうなるかというと、どうなったかはハッキリ書かれているのだが、なぜそうなったのかがよくわからない。 ‘41年頃書かれたこの作品は、後のナチス登場に象徴される次代の精神状況を予見した作品と言われている。そう言われれば確かにそうであるのだが、この作品の多くを占める、Kにアドバイスを述べる人物達の話を読んでいると、本当にそれだけか?と思ってしまうのである。しかし、それが何であるのかは難しすぎて何度読んでもよく解らない。 そして、何とかしようと努力はするものの裁判のあり方自体に疑問を持たないKもただの被害者ではなく、権力には従順な庶民の愚かな姿の象徴なのかなとも思ったりするのだが、これもよく解らない。 とはいえ、私は何故か読むのに骨の折れるこの作品が面白くて何度も読んでしまう。不思議である。人に何かを考えさせる小説とはこういうものなのかもしれない。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!