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審判
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審判の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.31pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全7件 1~7 1/1ページ
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文字が小さくて読みづらいが、カフカの傑作をご堪能あれ | ||||
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気に入ってる作品の一つなので文庫版で購入しました。(2009年に)今手元にあるのは600円、アマゾンの2016年9月の価格は926円。年数がたつとかなり変色する紙質の割にお高いですね。私の学生時には大量の岩波文庫を購入して読んだものでしたが、現在の価格設定だと今の若い学生さんは買わずに済ませるでしょうね。 | ||||
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オーストリア=ハンガリー帝国領プラハ出身の、20世紀文学を代表するユダヤ系ドイツ語作家フランツ・カフカ(1883-1924)の未完の長編小説、1914-1915年執筆。後述の通り、或る奇妙な"訴訟"に巻き込まれた男の物語であるが、カフカ自身プラハ大学では法学を専攻しており、大学卒業後は弁護士見習いや司法修習の経験がある。その後は「ボヘミア王国労働者傷害保険協会プラハ局」に勤務し、近代官僚制機構の末端に身を置くことになる。 □ カフカ自身を連想させるヨーゼフ・K.という名の青年は、或る朝理由も分からないまま突然逮捕される。その罪状が明かされることはない。捜査機関・司法権力による逮捕・刑事"訴訟"の過程は、物語を通して一貫して不明瞭で曖昧模糊とされたままである。そして情況が何ら明らかになることなく、ヨーゼフ・K.は「犬のよう」に処刑される。 ヨーゼフ・K.を逮捕しに来た監視人曰く「あなたが告訴されているのかどうか、わたしはまるきり知らないし、あなたが何者なのかすら、まったく承知していない。あなたは逮捕された。それ以上のことは何も知りませんね」。彼同様に"訴訟"に巻き込まれて商人ブロック曰く「それにわたしの場合の提出書類にしても、・・・、まるで価値のないものでした。・・・。ものものしいつくりのわりに内容がないんですね」。同じく「・・・、だれひとり審理の日を確定したいとは思わず、できもしないのです」。教誨師曰く「裁判所はお前[ヨーゼフ・K.]に用はない」。 近代官僚制機構は、社会システムとして巨大化・遍在化するとともに、個人の対世界意識・対人間意識をも深いところで規定することになってしまった。この物語は、このように二重の意味で人間の生が匿名化され非人格化されてしまった事態への、則ち近代人の疎外情況への、裁判を材に取った滑稽譚による批評であると、一応は云えるだろう。 □ ところで、"訴訟"が物語の中心であるはずなのに、その実態/実体がすっぽり抜け落ちている。ついぞ明示的に語られることはない。この物語はその中心が空虚そのものである。そして、ヨーゼフ・K.の様々な立ち回りも、その他の登場人物の言動も、全てこの空虚な中心の周りをただただ浮遊しているだけなのだ。そこへ遡行することで意味と位置づけを与えられる物語の中心は、無内実なのであるから。そして無からは何も引き出せない。意味も本質も目的も位置も方向も価値も当為も。物語世界の秩序の支点と糸を欠いているのだから、それは何処までもズレていき、チグハグと化していく。恰もそうして崩れ毀れ続けていく過程そのものがこの物語の本質であるかのように。物語中のあらゆる言葉も行為も、一切の自己意識も communication も意味を為し得ない。 「わかってもいないことをしゃべり合っている」。 言葉が、その交換が、communication が、空転している。それを「不条理」と呼んでもいい。それは物語中の言葉だけではない、当の物語そのものについて当てはまることである。小説『審判』に於ける言葉の空転は、『審判』とその読者とのあいだの discommunication と明らかに並行関係にある。逆に云えば、小説『審判』とその読者とのあいだの discommunication が予め当の『審判』の内容そのものとなっている。小説内容が、小説それ自体を食い破って、小説と読者との関係そのものとなっていく。以上のような意味で、これは中井秀夫『虚無への供物』にも通じる、メタ・フィクションの構造を有していると云えないか。 この小説を読んで感じる困惑が、まさに communication の空転を体現している。 | ||||
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審判」は実に「カフカ的」であり、非常に読み応えがあるのは衆目の一致するところ。 「カフカ的不安」と「不条理」がきわめてよく描かれている作品であろう。 ヨーゼフ・Kがどのような罪を犯したかも不明なままで、二人の役人からその罪を 問われる。いくら考えようともその罪が何であるのかさえはっきりしない。 主人公は必死にその理由を考えるが不明のまま。審理を受けるがその相手は全て 政府側の人間。勤めを続けながらも審判の日を待つ主人公。 やがては、夜中の呼び出しで… なるほど「いくら努力しようともたどり着けない城」や「いきなり虫に変身する」 それらの作品と同様に、一連の小説群に通底しているのは「不条理」と「不安」。 カフカの作品を読んだ後に残る「自己の存在証明」の不確かさ。 カフカの代表作としても通じる作品。 しかし…これが果たして「カフカの作品」であるのかは疑問の残るところ。 章によってはカフカが実際に書いたのは間違いないが、他の章はどうか? カフカはこの小説の完成をほぼ諦めていたのが通説。 ノートの断片等を後世の人が纏めた作品であり、この点でどうしても「カフカの作品」と 断定されると違和感が残る。 果たして、カフカのノートの断片やカフカがこのような作品を作成する意図が はっきりしていたことがあったとしても、他人が手を加えたものがその人の作品とは 思えない。 読み終わったときに、この小説はカフカという「極めて複雑な作家」が描いたものとは 考えにくかった。カフカは「不条理を不条理として」・「曖昧さを曖昧さとして」 残す作家。その他のカフカが完全に自分で完成させた作品とは趣が異なる。 簡単に言えば、「あまりにも『構成がはっきりしすぎ』・『筋が整い過ぎ』」と考える。 特に「最初の場面」と「最後の場面」があまりにも似通い、「循環する不条理」を 「とても都合よく整合性を持たせている」。 「場面が綺麗すぎて」かえって違和感を持つ。 作品自体は非常に面白く、読みやすく、「不条理」も感じられるが、「カフカ的不安」の 要素がやはり少なすぎる。 作品としての評価は高いが、「カフカの作品としての疑い」が拭いきれないので、 あえて評価を下げた。 | ||||
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現代の不条理や不安を表している、とかよく言われますけれど、どうなんでしょうか?もちろんそういう側面もありますけれど、また、私は誤読を含めて読者が物語を楽しみ、判断する自由があると考えていますので、私見ですが、不条理や不安はもちろんですけれど、不条理ギャグ、みたいな部分が気になりました。私が読んだどの作品(「城」「変身」「審判」)も自身の信じているもの、社会常識や社会通念がある日突然信じられなくなる不安(それも個人対組織という形をとっての)、だからこその自分の立場や自分を信じ難くさせる不条理をあらわしてはいます。 しかし、この訳者の読みやすさもあるのでしょうけれど、そこはかとなくユーモアの香りを感じます。また私個人だけが分かっていないという立場をとらせているのに、ある意味その不条理な状況を素直に(抵抗はすれども、現実的に受け入れがたいことまで、結構そのまま)受け入れてしまうそのさまが、どこか滑稽に思えてきます。 すると、何処まで行っても細かな理由をつけてただ単に拒絶されている、という状況に変わりはなく、繰り返される滑稽さがまた増します。もちろんきっと様々な解釈が可能だと思いますが、後は受けて、読み手の側の問題なのではないか?と私は考えます。 しかし、中でも「審判」と「城」は面白かったです。私の好みとしては「城」に軍配が上がりますが、審判の方が完成されているともいえます。 不条理ギャグがお好きな方に、オススメ致します。 | ||||
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池内紀の訳したカフカ。意訳が多く、そのぶん読みやすくなっている。それが利点と言えば利点だが、しかしこの全集に限って言えば、問題なのではないだろうか。 このカフカ全集は、マックス・ブロートの手を離れ、綿密な検証作業を経て新たに編集されたものを訳したものである。だからこそ旧版との細部の違いが重要になる(新旧の違いに興味がない人は、既に出版されている旧版をもとにした文庫本を買うだろう)。しかし意訳が多く、池内流な訳され方をされては、どのように新しくなったのかわかりにくい(章の配置の違いについては、その違いについての知識を知ったうえで旧版の文庫本をそれにあわせて読めばすむ)。それでは新版を出す意味があるのだろうか。また「読みやすい訳で出す」ことが大切であるにしても、それは新たに編集された版を訳す際にやるべきことだろうか。訳し手の親切心と個性が、かえってこの全集の価値を下げてしまっているように思えてならない。 | ||||
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いわゆる冤罪の話です。訳もわからず急に家に役人が押しかけて裁判にかけられてしまう。そして最後は・・・。簡単に言ってしまえば、そう言う話です。 今の日本社会においてそんなことは有り得ないと思いたいですが、盗聴法の制定、警察の不祥事、警察による情報開示の妨害、警察の外部監察の不備、政治汚職、などを見ていると、このようなことがいつ起こってもおかしくない世の中になっています。現に1975年12月20日の遠藤事件をはじめ、今まででも確実に存在しました。これからはこのようなことが、さらに増えるのではないか。このようなことを考えさせられました。 | ||||
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