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郵便配達は二度ベルを鳴らす
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【この小説が収録されている参考書籍】
郵便配達は二度ベルを鳴らすの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.48pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全25件 1~20 1/2ページ
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一人称単数で書かれた簡潔で短いセンテンス。 状況説明は省略されて、いきなり登場人物のアップで場面が切り替わるモンタージュ撮影のようなスピード感。 新訳だけにリズム感があってグイグイと小説世界に引きずり込まれる。 ハードボイルドタッチなんだけど、タフでクールな探偵が活躍する推理小説の類ではない。 冒頭、エロ小説かっていう際どいシーン?から始まる。 出版当初(1934年)はアメリカの一部の州やカナダで出版禁止になったらしいけど、今日の感覚で言えば十分に抑制の効いた表現だよな^^; 世界恐慌の直後、不景気なアメリカ西海岸の田舎町が舞台だ。 クライムノベル(犯罪小説)やロマンノワール(暗黒小説)の元祖みたいにいわれるけど、結局、これは恋愛小説なんだ!とわしは思うぞ。 映画「俺たちに明日はない」を連想した。 犯罪映画なんだけど、核心は愛の物語だと思いません?あの映画。 同じように世界恐慌後の1930年代が舞台だし。 文庫の「訳者あとがき」で池田真紀子さんが次のように書いている。 「・・・・と、ストーリー自体は比較的シンプル。分量もさほど多くなはい。それでも読後の心に残るものは、複雑で深い。たくさんの言葉を費やして説明する代わりに、行間を埋める役割を読者の想像に一任する著者の潔さ、巧みさが凝縮されたような作品だ。」 正と邪・善と悪? 人間の弱さ・運命? 幸福とは? 愛とは?? 結局、フランク(主人公)とコーラ(ヒロイン)は何をもとめてもがいていたのだろう・・・と、考えさせられる。 時代を超えて常に新しい衝撃を読む者に与える。 アメリカ文学史に輝く傑作だと思う。 ところで、題名は「郵便配達は・・」だけど、二度ベルを鳴らすどころかそもそも郵便配達員が登場しない^^; しかし、なるほどと納得するよね、確かに二度ベルを鳴らした。 諸説ありだけど、題名については。 | ||||
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田口俊樹の『日々翻訳懺悔』のなかで、これまでに何度も翻訳されてきたこの本のツボの翻訳比較をしていて、おもしろかったので田口訳で読みたかったが、Kindleにないので、池田訳で読了。暴力シーンや暴行的セックスシーンも違和感なくよめました。 犯罪者の一人称の語りで、比較的短い文章を積み重ねていくスタイルから、元祖ハードボイルド小説のようにいわれています。 サラッと読めます。 | ||||
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何度も警察のお世話になっている風来坊フランク。そんな彼がふらりと飛び込んだ道路脇の安食堂は、ギリシャ人のオヤジと豊満な人妻が経営していた。ひょんなことから、そこで働くことになった彼は、人妻といい仲になる。やがて二人は結託して亭主を殺害する完全犯罪を計画。一度は失敗するものの、二度目には見事に成功するが…。 | ||||
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・サノーさん一言コメント 「破滅に向かう男女の、理由なき殺人。装飾を取り去った言葉の列に、アウトローの意味を知る」 【サノーさんおすすめ度★★★★☆】 ・ウノーさん一言コメント 「細かな描写に含まれた、伏線を楽しみます。ハードボイルドとミステリー、両方の楽しみ方ができる一冊です」 【ウノーさんおすすめ度★★★★★】 ・サノーさん、ウノーさん読書会 サノーさん(以下サ):この作品は、映画が先だった。 ウノーさん(以下ウ):『郵便配達は2度ベルを鳴らす』のタイトルで公開され、日本でも大ヒットでした。 サ:主人公のフランクをジャック・ニコルソンが演じ、相手役のコーラはジェシカ・ラングだ。 ウ:子供心に「なんだ、これ!こんなの許されるの?」と驚いたことを覚えています。 サ:いま、読み返してみると、とても小学生が観る映画じゃなかったな。 ウ:完全に「破滅型」ハードボイルドですよね。読み手は最初からフランクとコーラが破滅することが分かっているのに、読む手を止められません。 サ:宿なし、ろくでなしの若者と、食堂のおかみさんとのロマンスから、「仕掛け」が始まる。 ウ:淡々と「殺されること」になるコーラの亭主であるニックが、可哀そうでした。 サ:殺人の理由、動機は、あまりにも身勝手で、自己中心的だ。 ウ:でも、なぜか、それを全面的に否定できないのです。 サ:「共感」ではなく、そういう「世界観」もあるかも知れないという、「好奇心」に近い感情だと思う。 ウ:ミステリーとしては、計画は場当たり的だし、複雑なトリックが仕組まれているわけでもありません。 サ:だが、登場人物の「クセ」や「小さな伏線」の重なりで、「傑作」の域にまで達している。 ウ:映画の記憶がほとんどなかったので、新鮮な驚きをもって読めました。 サ:一つだけ、内容と記憶と合致していたな。 ウ:この作品に「郵便配達夫」は登場しません。遥か昔観たとき、「なんで?」「どうして?」と思ったのは、「そこ」でした。 サ:読んだ直後は「殺伐」とした雰囲気が残っているから、しばらく経ってから、映画も再び観てみることにしよう。 【了】 | ||||
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ジャック・ニコルソンとジェシカ・ラングによる映画のイメージが鮮烈で原作には手を出していなかったのだが、本棚の奥に眠ったままになっていたこの本がでてきたので読むことにした。やや字は小さいが200頁を切るボリュウムで、話のテンポも良く、一気に持っていかれた。 訳者は東京創元社の「世界名作推理小説体系」の中に収録されていたこの作品を、新潮社が文庫本として出したいという依頼から出版された裏話を紹介している。そのためか、あとがきは推理小説というより1つの小説として完成されているという解説に大半を使ってしまっているが、現在は現代アメリカ文学を代表する一冊であることは間違いないだろう。ストーリー展開の奇抜さもさることながら、世界恐慌下のアメリカの片田舎の荒んだ感じがこの作品の最大の持ち味だ。新訳もいいだろうが、原作が1934年の発表なので、この旧訳も味があってなかなか良い。映画とはエンディングが違うのも面白く、逆になぜ映画はラストを変えたのかと映画もまた観たくなった。 | ||||
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ジェイムズ・M・ケインが本書『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』を、世に出したのが1934年である。 ニューヨーク株式市場大暴落に始まる大恐慌後5年過ぎたころであり、ルーズヴェルト大統領がニューディール政策を打ち出した効果も出てきたころでもあるが、アメリカはまだまだ経済は安定せず不況な時代であった。 本書の巻末に、「私の小説作法」というケインのエッセイが掲載されていたので興味深く読んでしまった。 本書を読み進みながら、アメリカがまだ大恐慌から抜け出せない殺伐とした時代背景を感じさせる物語であるように感じながら読み進んだから、本書を読み終え巻末のケインのエッセイを読んで評者の想像通りだったことを知ったのである。 そのエッセイでケインは、「“戦争”よりむしろ正確には、“不況”期に属する作品であり、“ある時代への脚注”としての興味を備えている。」と書いている。 本書の奥付を見ると昭和59年11月30日5刷としてあるから、評者が読んでから31年もの時が過ぎたことになる。 ジャック・ニコルソンとジェシカ・ラングの二人が演じていた映画も観た記憶であるが、おぼろげな記憶しかなく本書を再読し納得したことがあった。 チャンドラーが、なぜケインの作品を嫌っていたのかの理由を少し理解できたからである。 本書の主人公である「放浪男フランク」のような粗暴な男を主人公にしたプロット構成に、チャンドラーは辟易としたんだろうと想像することができた。 この『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』という作品は、ストーリー展開も少々荒っぽいかも知れないが、アメリカ社会の現実と不条理さを表した物語として読者を魅了したことは間違いのない事実であろう。 評者は、1981年に、ジャック・ニコルソン主演の映画しか知らなかったが、本書の巻末の資料紹介でこの作品が、1939年(フランス)、1942年(イタリア)、1946年(アメリカ)、1981年(アメリカ)の4回も映画化されていたのを始めて知って驚いてしまった。 ケイン最後の作品『カクテル・ウェーイトレス』から触発され、本書を読むことにしたが、なぜ映画化が4回もされたのかを納得できた作品であった。 チャンドラーが言うような“文学の屑肉”ではない本書『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』を、31年ぶりに興味深く読み終えた。 | ||||
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ジェイムズ・M・ケインが本書『郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす』を、世に出したのが1934年である。 ニューヨーク株式市場大暴落に始まる大恐慌後5年過ぎたころであり、ルーズヴェルト大統領がニューディール政策を打ち出した効果も出てきたころでもあるが、アメリカはまだまだ経済は安定せず不況な時代であった。 本書の巻末に、「私の小説作法」というケインのエッセイが掲載されていたので興味深く読んでしまった。 本書を読み進みながら、アメリカがまだ大恐慌から抜け出せない殺伐とした時代背景を感じさせる物語であるように感じながら読み進んだから、本書を読み終え巻末のケインのエッセイを読んで評者の想像通りだったことを知ったのである。 そのエッセイでケインは、「“戦争”よりむしろ正確には、“不況”期に属する作品であり、“ある時代への脚注”としての興味を備えている。」と書いている。 本書の奥付を見ると昭和59年11月30日5刷としてあるから、評者が読んでから31年もの時が過ぎたことになる。 ジャック・ニコルソンとジェシカ・ラングの二人が演じていた映画も観た記憶であるが、おぼろげな記憶しかなく本書を再読し納得したことがあった。 チャンドラーが、なぜケインの作品を嫌っていたのかの理由を少し理解できたからである。 本書の主人公である「放浪男フランク」のような粗暴な男を主人公にしたことがチャンドラーの好みではなかったのだろう。 この『郵便配達夫は二度ベルを鳴らす』という作品は、ストーリー展開も少々荒っぽいかも知れないが、アメリカ社会の現実と不条理さを表した物語として読者を魅了したことは間違いのない事実であろう。 評者は、1981年に、ジャック・ニコルソン主演の映画しか知らなかったが、本書の巻末の資料紹介でこの作品が、1939年(フランス)、1942年(イタリア)、1946年(アメリカ)、1981年(アメリカ)の4回も映画化されていたのを始めて知って驚いてしまった。 ケイン最後の作品『カクテル・ウェーイトレス』から触発され、本書を読むことにしたが、なぜ映画化が4回もされたのかを納得できた作品であった。 | ||||
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巻末の「解説」によれば、1934年作のこの本は、これまでに6回翻訳されたが、全て絶版になっているという。そんななか、あえて「新訳」を出す出版社の蛮勇を尊敬する。こんな名作をお蔵入りさせてはならないのだ。 とは言う私も実は初めて読む。ここ10年の「Canon=正典」の見直し機運のなか、本書も諏訪部浩一先生の『ノワール文学講義』(2014.5)に導かれて手にしたのだが、遅すぎたと悔やんでいる。とにかく凄い迫力なのである。登場人物たちが予想した通りに陥って行く運命を、私自身もまた不可避的に体験する。初回はストーリーに引きずられて夢中で読んでしまうが、再読すると細部が読み取れてくる。伏線など手の込んだ構造の完成度の高さに感心がつきない。 諏訪部先生は、本書に代表される「ノワール小説」とは、ハードボイルド小説が主人公の「キャラクター」に力点を置くのに対して、主人公を取り巻く「世界」を描くことに力点を置く作品だという。ファム・ファタールとか、ヘル・キャット等のノワール小説的な読み方に加えて、この作品が1929年11月24日を端に発した世界恐慌を背景に持つと言われれば確かに奥行きが深まる。 私の考えでは、「世界を描く」読みの上で、本書にもう一つ欠かせないのが、人種・民族的な視点だ。フランク・チェンバーズとコーラ・スミス(パパダキス夫人)は多分WASPで、それだけが彼らの「誇るに足る」アイデンティティーだ。対するニック・パパダキスはギリシャ移民である。パパダキス夫妻はカリフォルニアで、「メキシコ料理」と多分ギリシャ料理を出すレストランを経営している。どこをとっても好人物なニックを妻が嫌う理由は「彼が油っぽい」からである。しかし本当は油っぽいからではなく、白人ではあるが、遅れて国籍を与えられた「二流市民」として、ギリシャ人を(メキシコ人同様に)民族的に軽蔑しているのである。 しかしその二人だって、意識していないようだが、既に彼らの本籍のWASP社会からはじかれている。フランクは元メカニックの今浮浪者だし、コーラは元ミス・アイオワ高等学校と言うが、女優の夢が絶たれた後は、ウエートレスかキャッチガールのような仕事しかなかったし、ギリシャ人の妻になる以外に、彼女の「苦海」から抜け出る道はなかったのだから。 それに引き替え、移民のニックはアメリカ市民になってからも、ギリシャ人コミュニティに囲まれている。教会もあり、親しい付き合いも窺わせる。「ツイン・オークス」を15,000ドルもの現金で買えたのも、同胞から融資などの支援があったと想像される。ここには、「母国」の中で疎外されているフランクとコーラ。「異国」の中で(中だから)庇護されているニックという対比を見なければならないだろう。 フランクとコーラはニックがギリシャ人でなかったならば彼を殺しただろうか。フランクは、ギリシャ人が彼の愛人を夫の「権利」として抱くことに苛立たなかっただろうか。二人には自分たちが裁かれることに対する怯えはあっても、ニックには憐憫もみせずに殺してしまえるのは、彼がギリシャ人であることが大いに預かっているのではないか。 釈放後フランクがニックの葬儀場で感じるのは、「後で荒っぽいことになる」不安であり、「彼らはギリシャ人の友達であって、俺たちの友達ではない」という疎外感である。 ひるがえって彼らの同胞であるWASPはどうか。検事も弁護士も二人の犯罪などは関心がなく、有罪に出来るか、無罪に出来るか、と言うゲームに夢中なだけである。保険会社も自社の損得への計算だけで証言を変える。彼等は下層階級としてのフランクやコーラは、社会からの抹殺が望ましいと考えているのだ。 後年アルベール・カミユがこの本から示唆を受けて『異邦人』(1942)を書いたと言われる。カミユが本書から「不条理」を受け取ったとしたら、彼の読みは「正しかった」のである。 | ||||
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不運というか不幸というか。池田真紀子さんによる名作の新訳、素晴らしい。でも残念なことに新潮文庫から田口俊樹さんの新訳がほぼ同時期に出てしまいました。こちらも素晴らしい翻訳、そして490円。この光文社文庫は880円。あまりの開きに愕然とします。 | ||||
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郵便配達は一切登場しないのに・・・・・郵便配達どころか、誰も二度ベルを鳴らさないのに・・・・・じゃあ、なんで?っていう不思議さが付きまとうの古典的名作の新訳。 何度も邦訳が出版され、何度も映画化されたフランクとコーラの愛欲絵巻。たたみかけるような場面展開とスピード感がこの新訳でも大いに発揮されている。コーンウェルの「検視官」シリーズの最近の翻訳をしている池田真紀子の訳。 中篇小説なのに、登場人物が結構多い。フランク・チェンバーズ(俺)とニック・パパダキス、その妻コーラの三角愛憎物語だけじゃあなく、サケットなる地方検事、ジェフ・パーカーなるウサギ屋、カッツ、ホワイトなる弁護士、ケネディなる胡散臭い調査員、保険会社員、フランクがお泊りでメキシコ旅行する未亡人でピューマおたくのマッジ・アレン。それぞれが、かなり重要な役回りをしている、その割には、キャラがはっきりしない。中篇どころか、ヴォリュームを2倍、3倍に引き伸ばして長編小説にもできそうなくらい。 最後は、あっけない。で、俺は・・・・・。 「なんで郵便配達は二度ベルを鳴らすのか?」という疑問には、本文では関係ないので答えはない。その意味内容は、今までに多くのところで書かれているが、そのまとめのようなものが、解説・訳者あとがきに書かれている。これはお楽しみ・・・・・ | ||||
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どう考えても何故このタイトルなのか解らない、郵便配達なんで全然出て来ないこの小説が映画化されたのは4回だそうだが、成る程読んでみて映像との親和性が高いのには納得が行った。非常に乾いた文体で、内面描写は最小限。登場人物達の心理は専ら会話と行動で語られ、あれよあれよと云う間に短いページの中で物語が進んで行く。セックスと暴力の描写が当時はセンセーションを呼んだらしいが、今日の目から見ればそれ程でもない。寧ろ淡白。流れ者の男が流れ着いたレストランの店主の妻と関係を持ち、一緒に店主を殺す計画を立てて実行するのだが………と云うのが粗筋で、倒叙ものの犯罪小説とも読めるし、ノワール(暗黒)小説とも読める。ハードボイルド小説と云う評価も有ったそうだが、主人公はワルだが状況に流され勝ちの割と情け無い男なので私のイメージするハードボイルドとは違っている。破滅型の恋愛小説としてはそこそこ良く出来ていて、ズルズルと続いて行く二人の関係の情け無さが良く出ている。生き生きとしているのは寧ろ主人公達の犯行を自分達のゲームの駒としてしか考えていない脇役の検事や弁護士達の方で、主人公達はこの世に身の置き所が無く終始居心地悪そうにしている。正直喝采する程の凄い傑作とも思えないが、全篇を覆う遣る瀬無い倦怠感に上手く浸れれば、それなりに楽しめるものと思う。ハリウッド映画よりも寧ろ昔の欧州映画の方に向いていると思う(ヴィスコンティの映画はサスペンス的な要素が希釈されてしまっていたので正直イマイチだったが………)。 | ||||
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「郵便配達は二度ベルを鳴らす」と言う作品は、ジャック・ニコルソン主演の映画で良く知っていますが、原作を読むのは初めてです。 不倫関係と性描写で、発表当時は発禁本になった地区もあったとか。今から考えると不思議な気がします。 この長さの小説で、三つの事件が起こります。 更に、主人公二人が法廷のに立たされる場面もあるのですから、ほとんど事件ばかりといった状況です。 結果、もう一つ主人公二人の愛情関係が伝わってきません。 単なる軽い男女関係の様にも見えてしまいます。 ところが、フランクはなかなかコーラの元を離れません。 心理描写はないものの、それが二人の愛情の深さと言う事なのでしょうか。 「ノワール」小説としては、十分なのでしょう。 映画とは、ラストが違いましたが、この小説の終り方もなかなか良いですね。 | ||||
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『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』(ジェイムズ・M・ケイン著、小鷹信光訳、ハヤカワ・ミステリ文庫。出版元品切れだが、amazonで入手可能)を何年ぶりかで読み返したら、久しぶりに、七面倒臭いルールや世間のしがらみを忘れて、俺も無法者の気分をたっぷりと味わうことができたぜ。 このハードボイルド・タッチの小説には、初めから終わりまで性と暴力が目いっぱい詰まってるが、それだけでなく、愛の物語でもあるっていうのが、俺がこの作品を気に入ってる理由さ。これは、飽くまで少数意見かもしれないけどな。 おっと、小鷹信光の巧みな翻訳に乗せられて、主人公(語り手)の言葉遣いの影響を受けてしまったようだ。 食い詰めた流れ者の「俺」が雇われることになったのは、カリフォルニアのどこにでもあるような街道沿いのサンドウィッチ屋兼給油スタンドだった。俺がその店を気に入ったのは、コーラという名の若いセクシーな女房がいたからだ。「あの女がたまらなく欲しくて、食いものさえ胃におさめておけなかったのだ」。脂ぎったギリシャ人の亭主・ニックに嫌気が差していた彼女も俺を気に入り、俺たちはすぐにいい仲になってしまった。「翌日、ほんのしばらく、あいつと二人っきりになった。おれは、あいつの足めがけて拳を強く突き上げた。ひっくりかえるほど、強く。『すごい手をつかうのね』 あいつはクーガー(ピューマ)のようなうなり声を洩らした。そんなあいつが、おれの好みにぴったりだった。『ご機嫌は、コーラ?』 『最低よ』 そのときから、おれはまたあいつの匂いを嗅ぎはじめた」。「木立の奥で、おれは車をとめた。ライトを消すよりも早く、あいつは両腕をからませてきた。おれたちは、たっぷりやった」。やがて邪魔になった亭主を殺してしまおうと俺たちは完全犯罪を企てる。 法廷で、「あいつは席を立ち、カッツ(弁護士)が机の前につれていった。わきをすりぬけて行ったとき、もうちょっとで体が触れそうになった。こんな大騒ぎの真最中に、鼻をクンクンさせるのもどうかと思うが、いつもおれの血を騒がせるあいつの匂いを嗅いだ」。 展開するストーリーの、そして法廷での相次ぐどんでん返しは、サスペンス満点だ。 「(あたしたちは)二人一緒に、山の頂上に立ってたわ。とってもごきげんな高いところにね、フランク。あの晩、あそこで、あたしたちは欲しいものすべてを手にした。あんな気分は初めてだった。あたしたちはキスをして、たとえなにが起ころうと、いつまでも失わないように封をした。世界中のどんなカップルも得られないものを手に入れた。そしてそのあとは、ただすべり落ちていっただけ」。「おまえとおれ。ほかにはだれもいない。愛してる、コーラ。だが、愛ってやつは、恐怖がまじると愛じゃなくなってしまう。憎しみにかわるんだ」。「おれはほかのものは何も欲しくなかった。あいつだけが欲しかった。これはめったにあることじゃない。男をそんな気持にさせる女はざらにはいないもんだ」。「あいつを愛していた、本当だ、あいつのためなら死ぬのもいとわなかったろう」。そして、死刑執行官たちが近づいてくる足音を聞きながらのフランクの台詞で物語は幕を閉じる。「おれと、コーラのために祈ってくれ。たとえどこでだろうと、おれとコーラが一緒になれることを」――これだけ並べれば、愛の物語でもあることを信じてもらえるだろうか。 『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』は4度も映画化されている。1981年の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(DVD『郵便配達は二度ベルを鳴らす』<ボブ・ラフェルソン監督、ジャック・ニコルソン、ジェシカ・ラング出演、ワーナー・ホーム・ビデオ>)は、コーラを演じたジェシカ・ラングの強烈なエロティシズムが堪らない、刺激的な作品に仕上がっている。 | ||||
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ここで取り上げられているテーマ、夫に飽きた妻と愛人、そして殺人。こう書くと平凡な2時間ドラマ風な印象を与えてしまうが、じっくり読み込んでいくと、作者の緻密な計算と伏線の張り方がわかってきます。また、ストーリーの腰が強いので読み替えがかなり自由にききます(だから何度も映画化されるのでしょう)。作中人物の会話の意味と印象が読むたびに変わっていきます。 無頼系ハードボイルドの佳作。クーンツがベストセラー小説の書き方 (朝日文庫)で絶賛していただけのことはあります。 ただし、ケインの他の書物はどうかわかりません。「ジェームズ・ケイン選集」かがあります(ジェームス・ケイン選集〈第4巻〉バタフライ (1954年)他)が翻訳があまりよくありません。原書を読むことが可能ならそちらを薦めます。(他にも翻訳が出ているようですがかなり古いものが多く確認できませんでした [...]) また、本書の映画は見ていませんが、「深夜の告白」は殺人保険 [VHS]として映像化されています | ||||
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映画の印象が強かったので、本を読むのが遅れてしまいました。 映画の原作は読むようにしています。 映画研究会に参加していたことがあるので、映画の作り方には興味があります。 原作を反映した映画もいいですが、原作を超える映画もいいと思っています。 原作と、映画が、かなり別物で、それぞれに成功している場合もあるかもしれません。 まだ、本作品の核心をつかめていません。 | ||||
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主人公の二人が、ギラギラと輝いている。安料理屋の若すぎる女房コーラの体当たり的な言動。流れ者のフランクのどうしょうもない男ぶり。けれど、彼らは、自分の魂の欲求に忠実であろうとしているだけなのだ。そんな彼らの睦み合いは、むせかえるようでいて、哀しい。そして、二人は邪魔者の亭主の殺害を……。 コテコテの設定かもしれない。けれど、人物が生きている。そして、かつてあったであろう、ある時代を感じる。 この作品は今読んでも楽しめる名作。訳は何種類かあるが、この田中西二郎がよいと感じた。あとがきも苦み走っている。 | ||||
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エロとグロの国アメリカを鮮烈にイメージさせる作品。エロはあんまりないがグロは確実にある。そのグロテスクな要素は、殺人方法や死体の綿密な描写などの視覚的なものではなく、主人公とコーラの意識の変化などに大きく因っている。 主人公もコーラも、互いに出会うことがなければこの物語で描かれるような凄惨な事件を起こすことはなかった。これは偏に、殺人という行動の要因は特定の個人の中にあるのではなく、種々の環境と偶然の結果にあるということではないか。そしてその「偶然の結果」に人間が動かされているとするなら、人間には所詮、運命を避ける力などないと言えるのではないか。 避けえぬ運命は予期せず訪れる。そして、それは必ず一度ではなく二度訪れる。 ―郵便配達夫がいつも二度ベルを鳴らすように。 この小説は、アメリカという大国内のごく小さな規模の事件を描いているがゆえに、何処であっても人はこのような事件に関わり得ることを伝えているという点で非常にグロテスクだ。 だが、この小説が真の意味でグロテスクなのは、作者が言うように、この小説が本質的には暴力を描いたものでなく一篇のラブストーリーであることだ。そして僕は、単なるラブストーリーがこのような凄惨な物語にもなり得ることに恐怖する。結末の主人公の呻きにも似た訴えは、それほどまでに衝撃的だ。手記形式で書かれたこの小説の主人公の言い分を信じるかどうかは、人それぞれだろう。 こんな良書を絶版にしておくのは惜しい。再販を強く希望する。 | ||||
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1.ジャック・ニコルソンとジェシカ・ラングの主演で映画化された作品は 官能的場面のインパクが強く、原作を読まずとも、読んだ気にさせられてい たことを反省。映画より、掘り下げられた作品です。 2.本書を「ハードボイルド」の分野で紹介する方もいますが「クライムノベル」 の方が適切だと思います。 3.私的な読後感は「ライ麦畑でつかまえて」と共通する、決して流れていかない 沼に浮かぶ油膜のような気だるさを感じました。 | ||||
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ネタばれになってしまうので、あまり詳細は語らないほうが良いと思うのだが、 とにかくプロットが緻密で非常に良く出来た話だと思う。 ページ数が少なく、一日で読めるのも良い。 主人公の放浪青年が、玉突き屋で賭けをして負ける場面があるのだが、 これがこの物語の全てを暗示している様に思った。 ちなみに、郵便屋さんは最後まで読んでも出てきません。 (あとがきにその題名の由来が書かれています) | ||||
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良作だと思います。 最近の本格ミステリとかを読みなれた人には物足りないだろうし、文体も古いですが……。 古典を知りたい! という人は読んで損はないかと。 | ||||
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