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カラマ-ゾフの兄弟
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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全554件 301~320 16/28ページ
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「ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟」上巻は、慣れていなかったのか、登場人物の名前が愛称に変わったりカタカナだったりで読みづらいのか、読み終えるのに時間が思っていたより多くかかった!が、上巻を読み終える頃、中巻に入った辺りからか ドつぼ!笑 読めば分かるのだが、ハマっていた!気付いたら朝まで徹夜で読んでいた事もあった。徹夜で読みたい本なんて、なかなかなかったのだけれど気付いたら朝になっていた中毒性のある小説だと思った。上・中・下と読み終えて、またあの感覚を味わいたいと思って著者ドストエフスキーの書いてる他の小説を買ったが、カラマーゾフには敵わない。地下室の手記なども面白いが、短い。悪霊、白痴、などなど長編で面白い小説は他にもあるけど、読むならまずはカラマーゾフです!この本でロシア文学にはまりましたが、この本を超える作品にはまだ出会えずにいます。超える本があれば教えて欲しいです。探し続けますが、私の中でのNo.1小説!!! | ||||
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昨夜ミーチャのところを読み終えた。ここはボリュームがあるが、ハラハラ、ドキドキ、一気に読み進んだ。正教会の考えや登場人物の思想が詳述されていているそれまでの章とうって変わって、サスペンス調の軽快なストーリーが展開されている。 独りよがりの考えにとり憑かれ金策に走り回るドミトリー(ミーチャ)の姿は、株が下落して 追証がでてもなお持ち株の期待を捨てきれず、奔走する株式投資家の姿(俺自身)と重ねあう。^^悲壮感に満ちてはいるものの他人から見れば愚かさ丸出しなので同情の余地はない。 愛する女性に振られて絶望したうえ、老人を殴り殺したと思い込み、ピストル自殺を決意するものの、死ぬ前にその女性との大宴会を企てる。人間ここまで異常な精神状態に陥ることもあるのだろう。俺にとっては支離滅裂であまり感情移入はできないが、こういう行動をとる人間がいることは理解できなくはない。フィアンセのお金を着服した卑怯な男だが、自らおこした恥辱をなかなか受け入れることができない。最低限のプライドは持ち合わせている。検事の尋問に苛立ちを覚えながら無実の罪を晴らそうとするものの今まで犯した罪を後悔し、道義的な罪をも含めて償おうとする一縷の潔さは持ち合わせている。人間は複雑な感情をもった存在だ。相反する性質が心のなかに同居していることがある。高貴でありながら卑怯者、臆病でありながら大胆な振る舞い、潔いが時として執念深い。まだ最後まで読み終えていないので、登場人物がどういった人間なのか判断するのは早計である。 グルーシェニカも、これまで悪女の印象が強かったが、ここまで読み進めてきて、俺の考えは随分変わった。グルーシェニカの「一本の葱」の逸話はおもしろく、この前、母に自慢げに語った。^^ミーチャは護送される前、ロシアの田舎村の貧しい「餓鬼(ガキンコ)」の夢をみた。この夢が暗示していることは何か、下巻を読む前にゆっくり考えてみよう。 | ||||
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『欲求を増大させる権利から生まれるものは果たして何か?富める者においては孤立と 精神的な自滅であり、貧しい者においては羨みと殺人である。なぜなら、権利は与えられて いるものの、欲求を満たす手段はまだ示されていないのだから。』 (カラマーゾフ2巻、ゾシマ長老) 「欲求を増大させる権利」とは「自由」のことである。行き過ぎた自由の帰結として、孤独や自滅、羨望、はたまた殺人が待っているとは空恐ろしいことである。我々投資家は株式市場という「手段」が示されていると確信している。「株で富を築く」という一つのテーゼのもとに経済の洞察をかさね、戦略を練り、銘柄の売買を行う。株という手段で富を手に入れれば、幸福という究極の理想が実現できると信じ込んでいる。ゾシマ長老からすれば、愚かなことであろうが、偉大なる挑戦ともいえる。 ドストエフスキーは神が存在するか否かという難題を登場人物に語らせるが、それは、俺の永遠のテーマ「貪欲は悪か善か」ということと本質的にそう大差はないであろう。株式投資の観点からドストエフスキーを読み解いていく。ロシア文学に傾倒している諸氏からは冒涜しているとのクレームが殺到しそうだが、当のドストエフスキーもギャンブル狂であったらしいからその辺は勘弁してもらいたい。 何を隠そう、この10日間毎晩、「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる。先ほど2巻を興奮とともに読み終えたところだ。まだまだ半分以上残っている。これからが本格的にストーリーが展開していくのだろうからとても楽しみである。この年(40)になって初めて本格的に読むドストエフスキー。若いころ「罪と罰」の文庫本を買ったものの、数十ページで辞めた経験がある。数年前光文社からでた新しい翻訳はとても読みやすい。100万部以上売れているらしいが、うちの近くのブックオフでは1巻は数冊置いてあるものの、それ以降の巻は見当たらない。アマゾンのセカンドハンドでも1巻は139円なのに4巻はまだ値崩れしていない。多くの人は読破できていないのか? | ||||
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「人を愛するものは、人の歓びをも愛する」 第7編アリョーシャ(「カラマーゾフの兄弟」3巻)を一昨日読み終えて、なぜアリョーシャは修道院を去ったのかずーと考えているが、どうもすっきりしない。ゾシマ長老の屍からあるまじき腐臭が漂ったから信仰に幻滅したというのは表面的な理解であろう。ゾシマ長老の死、あるいはその死体からの腐臭が契機になったのは間違いない。「奇跡」を信じていたのはなく、「正義」を熱望していたとドストエフスキーは語る。腐臭という醜態をさらしたゾシマ長老の死体がアリョーシャが熱望していた正義を貶めたと。そのアリョーシャの求めていた正義とは? 大地に倒れこんだアリョーシャは大地にキスをし、泣きながら、 「『お前の喜びの涙を大地に注ぎ、お前のその涙を愛しなさい・・・』彼の心のなかでその言葉が響き渡った。」(7編アリョーシャより) 無数の星をみて、歓びの涙が出てきたという。悲しみが歓びに昇華した瞬間だ。 「死」について考えていると究極的には「幸」を考えることに行きつく。俺も親父の死を通して個人的にそれを経験した。もしかしたら、アリョーシャの心の変化も俺の経験と近いものなのだろうか。 | ||||
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カラマーゾフの兄弟、ただ今4巻の最後の方を読んでいる。裁判も佳境に入った。 インテリのイワンはついに幻覚を見るようになる。悪夢の中で対話する相手はもう一人の内なるイワン、自身のデーモンである。クリスチャンの教義を否定し、科学的な思考や自由主義や社会主義など新しい思想の潮流が当時のロシアにも押し寄せていたことを考え合わせるとイワンの思想的な苦悩に共感を持った当時のロシア人読者は多かったろう。(ちなみにロシアの農奴解放は1861年) 父親殺しの実行・計画犯ではなくとも、父親の死を心の中で願っていることだけで、クリスチャンの教えにとっては罪深い行為だ。現代の法律の世界では「悪を願う」だけでは罪には問われない。だからと言って罪がないと言えるのか?スメルジャコフを非難する資格が自分にはあるのか?神を認め、信仰に目覚めつつある者と、それをかたくなに否定しようとする者。どちらの自分も自分の中に見つけ、その苦悩が極限にまで達した場合、幻覚が現れるのか。 「白痴」のムイシュキンも幻覚をみた。ドストエフスキーにとっては、幻覚は常套手段なのかなあ。 多彩な登場人物の多彩な思考、スリリングな物語の展開、重厚な会話、もう、なにもかも素晴らしい。愛、思想、人間関係、善悪、などなどの普遍的なテーマに正面から迫るドストエフスキーの偉大さに今日もあらためて畏敬の念をもった。 | ||||
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感動に浸っている。カラマーゾフの兄弟を読み終えた。といっても5巻におさめられている亀山氏によるドストエフスキーの伝記や解題の部分はまだだが。 イリューシャの葬儀でのアリョーシャの演説には魂が震え、涙が出そうになった。そこにいた少年たちの一人になったように俺の心もけがれのない子供時代に戻った。 『何かよい思い出、とくに子供時代の、両親といっしょに暮した時代の思い出ほど、その後の人生にとって大切で、力強くて、健全で、有益なものはないのです。(中略)自分たちが生きていく中で、そうした思いでをたくさんあつめれば、人は一生、救われるのです。』(アリョーシャ、エピローグ) イリューシャが葬ってほしいと言っていた石のそばで、少年たちを前にしたアリョーシャの演説は続く。 『ぼくが、こんなことを言うのは、ぼくらが、悪い人間になるのを恐れるからです。(中略) きみたちみんなが、これから、ぼくにとっては、愛する人になるんです。ぼくの心の中に、 きみたちを大事にしまっておきますから、お願いですから、きみたちもこのぼくを、心の中に 留めておいてください。』 俺は以前こう書いた。 「ミーチャは護送される前、ロシアの田舎村の貧しい餓鬼(ガキンコ)の夢をみた。この夢が 暗示していることは何か、4巻を読む前にゆっくり考えてみよう。」 とはいったものの、エピローグに来るまで、いまひとつガキンコの夢の意味が判然としなかった。ミーチャの演説を聞いて、はたと思った。そう、そうなのだ。この悲劇はカラマーゾフ家と スネギリョフ家の親子間の愛情の差を対比すると鮮明になる。あの時、ミーチャは貧しくとも 力強く生きていく農奴の子供たちの中に「愛」を見たのだ。 ミーチャ: 金持ち - 父子憎しみ合う イリューシャ: 貧乏 - 父子に強い絆 いやあ、しかし、ドストエフスキーは素晴らしい!この小説に出会えたのは人生での歓びでも ある。この25日間、毎日嫁とカラマーゾフについて語り合ってきた。これからも語り合って 行くに違いない。 | ||||
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東大教授が新入生に読ませたい本'に 選ばれるだけあり、読み始めると非常に濃厚な印象を受けます。 革命と信仰、愛情と死、国家と教会、貧困、父子・兄弟 関係といった多くの切り口が一つの物語に濃縮されて いる点が、まさにこの作品が評価される所以ではない かと思いました。 特に、途中で起こるアレクセイとイヴァンの議論は まさに革命思想からキリスト教的人道主義へと転向 した著者の思想の表出だと思われます。 それゆえ、読破するために非常に時間がかかりまし た。特に状況説明や思想談義の多い上巻が難関です。 逆に、ドミートリーが事件を起こす段階になると 急に展開が早くなりあっという間に読めてしまい ます。 | ||||
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素晴らしい小説です。全ての方が共感し、疑問を抱き、笑い、感動できるのではと思います。 人物達の性格がリアリティーであり、容姿の骨格が読者による印象差もほとんどないのだろうと思わせます。 長編ですので個人によりピックアップされるテーマがあり、異なると思いますが私は4部の10編「少年たち」でした。 物語のラストに繋がる直接的な内容で、いわゆるカラマーゾフ的な要素はなく、家族愛、友情、不治の小児病がテーマになっています。 物語を通読すると「童」わらし というフレーズがポイントに配置され、ドストエフスキーの子供に対する哀れみと愛を感じとることになります。 子供に対する愛は、未来への希望で私たちに向けられている哀れみなのでしょう。罪なき子供の無慈悲な死はもっとも残酷でそこに神や仏の姿を ドストエフスキーが見る事ができなかったのがこの物語の根幹である気がします。 親から子へ受け継がれる遺伝子には経験による情報が必ず刻み込まれます。フョードルからカラマーゾフ兄弟へ、私たちから子供たちへ受け継がれます。 もっとも残酷で無慈悲な死がいつの時代も蔓延していて、その親の意識には罪が常に有り友達には悲しみがあります。忘れようとしてトラウマに苦しむのではなく 受け入れて皆で忘れず遺伝子に刻み込み、その想いを伝えてこそはじめてその子供に対する愛が形になるのではと、ラストシーンより感じました。 目線を変えれば180°解釈が異なる表現が多い昨今、実直で、すがすがしさを感じる文体は新鮮でした。 ふとした時、アリョーシャとコーリャの13年後の物語を色々と勝手に構築してしまうようになりました。 | ||||
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Je prefere les chanteurs, Gackt. Descartes | ||||
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Je prefere Gackt! Descartes | ||||
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ゾシマ長老のお話が胸を打つ。 清廉潔白だと思っていた彼にも、人には言いにくい過去がある。 死ぬ前にあかされる事実というのが、実に人間くさいエピソード。 私はかなりほっとした。やはり罪を犯したことのない人間などいないのだ。 『口付けする相手がいないのなら大地に口付けするが良い』みたいな言葉が出てくるのですが、震えました。 何という大きな愛情。愛がなければ意味のない人生とは言い過ぎだけれど、大地に接吻するほどの大きな愛情は持ち続けていたい。 かつて洗礼を受けるために教会き通ったものの信者と良好な関係が築けず、志半ばで挫折した私なのでよりいっそう色濃く感じたのかもしれません。 『死体が腐らない』ことについては聖人の伝説などをお調べになってください。 | ||||
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数多の批評家に大絶賛されている名作なので批評家気取りな文章はしたくないしだいいち出来ません。 素直な感想 読んで良かった。読まなかった今までの時間が悔やまれるほど。 キリスト教の価値観を知らないと理解し難いところはあるものの、自然に湧き上がって来る興奮と感動。 なんて美しい小説なんだろう! 最後まで息もつかせぬ展開で次々とあかされる事実に声をあげながら読んでいました。 推理小説な面白さ、シュールレアリスム的な面白さ(イワンのあの客には度肝を抜かれたw)、ロシア人という民族的な面白さ、奴隷と支配階級という近代が抱える永遠のテーマ。 何というか色んな矛盾やロマンやサスペンスを詰め込んで頭がぐちゃぐちゃになるのですが最後のアレクセイ坊やの言葉には涙が止まらず、卑しい人間に成り下がった自分を戒めるよい機会になりました。 あぁ!明日からは良い人間になるのだ! と自然に思います。ひとりでもこの小説に感動出来る人間が増えることを祈っています。 リーザとアリョーシャの会話が村上春樹みたいと思ったら村上春樹さんはカラマーゾフが大好きだったのですね! あとドストエフスキーの父親がカラマーゾフよろしく下劣な人間で惨殺されていたと読んだ後に知り背筋が凍りました。 | ||||
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この作品の良いところは自分の好きなように読むことが出来るところです。哲学書、宗教書、歴史書、喜劇、悲劇と読む方の感性に委ねられます。とりわけ私は複雑な人間性や人間関係に喜劇を感じカラマーゾフ一家劇場を市原悦子的に覗き見して楽しんでしまいました。 難解、長い、と読む前は思っていたのですが読みはじめると活き活きとしたキャラクターと矢継ぎ早に起こる様々なエピソードに魅了されとても楽しく読めました。 訳者のセンスと活字が大きいのが良い。 ゲラゲラ笑ったり突っ込みを入れたり、切なくなってうるうるしたり、ハラハラドキドキしたりととにかく忙しくて面白い作品。すべての発端の今風に言えばDQNでKYのお父さんが笑わせてくれます。 性格バラバラな3兄弟。まんま昼ドラなノリに驚きつつも(というか20世紀の文学思想がこれの影響下にあるのです。すみません)3兄弟のコントラストが非常に印象的。キャラクターが立っている。(というのもおこがましい。すみません) 難しいのはキリスト教の概念的な部分でこのあたりで多くの人が挫折してしまうのでしょう。 キリスト教の歴史とイエスの贖いの意味を勉強して読むと大変興味深く本書が読めると思います。イグナチオやニコライ堂みたいな大きな教会でミサに与るのもオススメ。祝福を受けるということが理解出来ると思います。ストーリーにのめり込みいつの間にか今まで出会った誰かにイメージを重ねて読んでいました。 きっとあなたやあの人に似たひとに出会い驚喜することでしょう。 とまあ安っぽい言葉でつらつら語ってしまいましたが、人生の糧になる素晴らしい作品です。もっと早く読んでいたらもっとたくさんの人に愛を与えることが出来たかも(?)いや分かりません(笑) | ||||
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賛否両論があるようですが、原文を知らず、他の本でのカラマーゾフ体験がない 私にとってはコメントのしようもないし、実は、単にこの本によって、 この文章によって、初めてカラマーゾフの兄弟を完読できたことが うれしい!! 確かに第五巻のエピローグ+解題までには全5巻あるし、 なっっっがーい本であることには変わりはないけれど、 とにかく5冊買って、その上で、この第1巻を読み終えれば、 あとはどんどんいけます。 まあ、実は途中でくたびれちゃうところもありますが、 第1巻真ん中当たりから結構面白いし、3巻なんかは まったりしているけれど…でも現に読めてしまった、 というのはカラマーゾフ読了にあこがれる人々にとって とってもありがたいことです。 そして、これを読むと、もう次に他の人の高名な翻訳 (岩波、新潮)に手を出しても読了できそうだし、 何しろ、1度読んでしまうと再読したくなるという ところがありますね、これくらい偉大な小説で 長いものとなると。 だから、あんまり賛否両論の否の方にとらわれず、 現物でカラマーゾフの世界に入門する感じで これを読まれたら、きっと完読できると思います。 | ||||
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時間にまかせてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んだ。 長い・・・ とにかく長いです。 何が長いって、とにかく説明が長い。会話も長い。 端折るということを知らんのかいな。このドストエフスキーというおっさんは! というのが、読み始めた頃の感想でした。 たとえるなら、実際に僕が友達と電話で何気ないことを話してる内容であったり、親と食事のときに何気ない会話をしているとか、そのときの料理はその日たまたまテレビの料理番組で紹介してた トマトに一工夫加えた夏のちょっと変わった料理で、その味はどうだこうだ。 と思ってたらそのときメールが入って、それにこうこうこういう風にまたメールで返した。 ほんでゴミだしめんどくさいな とか。 そんな日常のこととかをいっさいがっさい全部書いておまけにそれらの事象の背景さえも全部書いてごっちゃまぜで物語を進ませる。 だから作中3日か4日の進行に、読んでるこっちは2,3ヶ月かかってくる始末。 名作と評判の高い『カラマーゾフの兄弟』ですが 読んでいるうちにこんなしょうもないことまで書いてるこれはもう ほとんど喜劇 吉本新喜劇の小説版 とか じゃりんこちえのロシア版とか そういうふうに見えてくる。 出てくるキャラクターはいちいちどうでもいいこと 神は存在するのか とか 神が存在しなかったら 何をしても許されるのか とか 当時にすれば大まじめなことなのかもしれないが、そういったことを 場違いなとこで場違いな人が大げさに場違いな調子で語って失笑を買うシーンなどがたびたびある。 そうなればもうまさに吉本新喜劇の桑原和夫扮するかずこのおばちゃんが 「神様・・・!」と祈りをあげるあのギャグそっくりとなってくる。 ストーリーはといえば 女好きで淫蕩な親父フョードル・カラマーゾフ(妻をとっかえひっかえで物語中の現在は妻なし) とその3人の息子ミーチャ、イワン、アリョーシャ とそれとその親父さんの私生児と噂されるスメルジャコフ というのが出てくるのですが、 結局長男のミーチャと親父のフョードルさんとが恋人を親子で取り合ったあげく(財産の相続でお金のことでも同時にもめてる)親父が誰かに殺されてしまう。 それで日ごろから「親父殺したる!」と飲み屋でも親父本人にもいきまいていた長男ミーチャがまっさきに疑われ、これが 親父殺しか!?ということで噂や新聞を巻き込んでロシア中で大騒ぎになってしまう・・・ と、ストーリーとしてそこまで進むのに 例の吉本新喜劇みたいな調子で でてくるいろんな奴がいろんなこと言うわ、酒飲んでくだまいてるわ、カードでギャンブルに興じてまたなんかしゃべってるわとどうでもいいことも一緒に進んでいくので、 小説というより現実みたいで 大筋のストーリーというのがなかなか浮かび上がってこない。 (現実は小説より猥雑なり!というかこの小説の場合現実より猥雑・・・) ところがこういう キャラがほうぼうで好き勝手やってるこの調子を我慢して我慢して 誰が誰だったが忘れそうになったりするのもなんとかこらえて あとロシア人のみんな名前が長いのも我慢して ホフラコワ夫人という人の じゃりんこちえで言うところのマサルのおばちゃん並みに話が長いのも我慢してちゃんと読んでいくと あるとき不思議な現象がおこる。 例の事件のさあ 裁判だ というころには すっかり物語の中に入っているのか これから 裁判が始まる! とまさにタイムリーなことのように感じられる。 本だから 読むの止めれば 物語の進行ももちろん止まるのですが、そうではなく じっさいにこれからもう 裁判が始まるから あかん あかん これは目が離せない といった具合に 時間の進行 が本というレベルを超えてしまって いまそこにいてる か もしくは これから実際の裁判の中継をテレビで心待ちにしてるような気分がやってくる。 作者のドストエフスキーというおっさんもそういう錯覚に陥ったのかどうかわからないが、 裁判の様子をこれから読者にお伝えするわけだが、 強く印象に残ってることを優先して書くし、そういうふうに心揺さぶられたために細かいところやきちんとした時系列にのっとった順序は忘れてしまったから かけないところもあります という断り書きを入れる始末。 とにかくもう後半 臨場感がとんでもないことになる小説で これはやっぱり言われるように ものごっつい名作だ。 と読み終わったとき、テレビでは 英会話講師殺しの市橋被告の裁判の報道でにぎわっていた・・・ | ||||
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大多数の人間は決して聖人にはなれない。仏教でいう煩悩まみれの生涯を送るわけで、そうした者たちに「人はパンのみに生くる者にあらず」と呼びかけてみたところで何かが良くなるのか。宗教的に正しい生き方をすることが本当に人間にとって幸せなのか、と宗教に対して根源的な問いを正面からぶつける大審問官の部分は、その言葉の強さに気圧される。 訳者によれば第二巻は交響曲で言う緩徐楽章とのことだが、たしかにストーリー展開は遅い、しかし読者に差し出されるテーマは重い。ベートーベンでいえば第三番「エロイカ」の第二楽章、といったところか。 | ||||
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理智と欲望・神の存在と人間存在・宿命・血縁…そのテーマ性の 広範さもさることながら 振り子のように極端から極端へと揺れ動く人間のこころと 複雑に入り組んだ人間関係の愛憎劇を かくも緻密かつ壮大に描ききっているところは 巨匠ドストエフスキーのもの凄さに圧倒される思いがする。 まいりました〜 自分のお好みの訳で読んでいただきたい。 どれも一長一短があるけれど、 少々の訳の個性でどうこうなるような作品では ございません。 どれでも楽しめるはずです。 | ||||
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いくら口語訳で書かれているとはいえ、19世紀のロシアの時代背景、キリスト教、哲学講義など骨の折れる箇所が多々ありましたが、なんとか5巻読み終わりました。 このまま忘れてしまうのはあまりにもったいなく、できれば、父親殺しの「被告」「心の中で願った者」「直接かかわりのない者」そして「実行犯」といろいろな人物が心の中で多重的に化学反応していってくれることを望みます。 | ||||
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「文学的価値はあるけれども今読むとつまらない名作」というのは世にはびこっている。 然し本書は今読んでも面白い、真の名作である。 内容については、ロシアのカラマーゾフ家の男たち(父親と三兄弟)を中心とした一連の騒動、とだけ申し上げておきたい。 仔細は読んで確認されたし。私も初めて本書を読んだときは前情報を一切シカトして読みました。 ネタばれしては面白くないでしょうから。 上巻冒頭におけるカラマーゾフ家の身の上説明と教会での会合はやや長く感じられるかもしれないが、 それ以降は普通に読めるのではないかと思う。速読自慢したいのでない限りはゆっくり読めば良い。 活字が以前の版よりも大きくなっている為、読み易さは充分。なので、最近刷られた物を購入されたし。 本文のところどころに訳者の原さんによる註が挿入されているのが有り難い。 強調したいのは、ドストさんの描く人間の魅力である。 多種多様な人間の姿が濃厚に描かれているので、迫真性が並みではない。 人間の細かいところに至るまで妥協なく書き込むので文章量は多くなってしまうのだが、 その分だけストーリーに緻密さが出るのである。 個人的には長男ミーチャの繊細さと豪胆さと性懲りのなさに最も感じ入った。放蕩息子もここまで来ると天晴れである。 リーザも可愛い。スネギリョフさんの家族愛にも胸が詰まる。 | ||||
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大学の生協で、東大1年生に薦めたい本のNo.1として挙げられていたので 手にとってみたのですが、とても面白かったです。 私の読解力が足りないのが原因でもあるのですが、この小説は思想書としては正直言って、 共感できなかったり、理解できなかったりしましたね。 農奴制の話や神の存在など、自分意は馴染みがないトピックが かなり多いので、私の頭に入らなかったです。 が、このような思想的な面が分からなくても、エンターテイメント的にもすごく魅力的な小説です。 情熱的な長男ミーチャ、知的な次男イワン、純真な三男アリョーシャといった カラマーゾフ兄弟を始めとした強烈な人たちが催す小説の世界は大変興味深く、 読み進めるごとに、彼らの個性にどんどん魅了されていきます。 物語としても、最初は主人公の三男アリョーシャをメインとする日常の話で、やや冗長な印象を受けますが、 中巻のとある事件になっていくと上巻の話がどんどん広がっていき、特に下巻のラストに向かっては 話が二転三転して、目が離せない展開となっていきます。 巷で一番面白い小説とうたわれることも時々ありますが、納得の小説でした。 一生に一回は読んでみたい小説であると思います。 ところで、このカラマーゾフの兄弟は2部構成らしく、前半はアリョーシャの青春時代、 後半は13年後の話として構成されており、前半はあくまで後半を理解するためのものでしかなかったのですが、 作者が亡くなったため、序章である前半部分しか世に出ませんでした。 読み終えた後、アリョーシャがどんな人生を送っていくのか、どんな物語が繰り広げられるのか。 後半を読むことができずに残念、というのが私が一番心に描いたことでした。 | ||||
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