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カラマ-ゾフの兄弟
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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全554件 221~240 12/28ページ
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今に読み継がれる小説は時間という風化を乗り越えた名著です。何度も繰り返し読みたくなる小説です。 | ||||
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この作品が好きになれなかった人は、「罪と罰」から読むとドストエフスキーにはまりますよ。 | ||||
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三人の兄弟、本当にこれだけ性格がことなるのだろうか?イワンの哲学が面白い。 | ||||
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三年前に読んだ。アリョーシャの今後が書かれていないのが残念。壮大な準備のあと、子供達とカラマーゾフ万歳と叫ぶところで終わったと思う。ドミートリーもイワンも含めて、人間賛美の声だと思うが、アリョーシャはこれからどのように現世の人と付き合って行くのか? | ||||
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聖書を読んだことのある人であれば、多くの方が公では口にはできない疑問を感じたことがあるのではないでしょうか?ドストエフスキー自身も疑問を抱いているようです。 彼はその疑問をイワンを通じてアリョーシャに投げかけます。 そして小説を通じて読者を考えさせます。 聖書は事実なのか?神はいるのか?それでもなお信仰するのか?無神論に救いはあるのか?救済とは? そういった性格を持った小説だと思います。 テーマが聖書の根幹である神の存在そのものについてまで掘り下げられてます。ヨブ記や福音書だけでなく、聖書全体を読む必要があると思います。 私が数えたところ、新潮文庫全3巻のボリュームは解説を除いた本編のみで1472ページ(字が小さい古いタイプの本です)になりました。1ページあたりの文字数は19行×43=817字。全体では単純計算で817字×1472ページ=1202624文字(約120万文字)になります。 このサイズの小説になると暇な時間を読書に当てようという考えでは、最後まで読みきるのは難しくなってくるのではないでしょうか?社会人には厳しいですが、あらかじめ読書のためにまとまった時間を確保しておくことも必要かもしれませんね。 私は3連休と平日4日をフルに充て、計7日間で一気に読み終えました。私は決して読むのが早いタイプではなく、標準的なスピードだと思ってます。ただし、かなり無理をしてます。クタクタになりました。 仮に標準的な読書のスピードの方が1日中読書に専念した場合、5日間程あれば読みきれるのではないかと思います。 一つの目安にしていただければと思います。 | ||||
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フョードルも悪くない。はじめは何かと思っていたが、しかし、彼のアリョーシャへの愛は多分本物だ。 彼は狂人ではないのだ。どこにでもいそうな、それでいてずるいおやじ……の延長上にいるのだ。 神がかり的ではあるが。 グルーシェニカもそうだ。 かといって、悪魔は……などと、日本人でありながら、本作を読むといっちょ前に聖書でも読みたくなるから不思議だ。 それは、この作品が聖書を絶賛しているからではない。むしろその逆、その致命的欠陥を抉り出してしまっている。 しかも、その抉り出しは、馬鹿なヒッピー運動のような、適当な批判警告文ではなく、世界最高級の思想に基づいた、致命的な抉り出しなのである。 それが、「大審問官」だ。 詳しくは書かない。 ただ、世界の半数が進行している、カトリック、プロテスタント、ロシア正教、東方正教ひっくるめたキリスト教徒は、この問題をどう扱っているのだろう。 日本人ながらに、気になった。神学論文を読みたい気分だ。 ドストエフスキーの宗教的苦悩は、イワンとその劇詩中の登場人物、枢機卿にほぼ一任されているだろう。 そして、それは反骨精神などではなく、誰よりも髪を愛そうとしたがゆえに見つけてしまった、神の欠陥だったのだ。 そして、その思想を、彼の周囲で理解してくれる人などいなかったのだろう。 だから自分で救いを作った。その姿こそが、主人公のアリョーシャであり、ゾシマ長老なのだ。 そして、その空想を、ロシアの嘴の黄色いひよっこの空想の終着点を、未来に生きるものに解決を求めた。 この本は、ドストエフスキーが作った、タイムマシンなのだ。 彼は時代を先に行き過ぎた。だから肉体こそ滅べど、その思想を自身で描き切り、所の世界で百年、二百年飛ばそうと試みたのだ。 我々は、特にキリスト教者ならば、彼の問いに答えてやらねばならないだろう。 そんなことを考えた。独断と偏見で。 | ||||
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亀山郁夫役には誤訳が多い、との評価を受けてこちらの原卓也役を購入させていただきました。 ロシア語に通じていない私、海外の小説を解読するには、翻訳家にその解読を一任するしかない、というのがなんとも歯がゆいです。 暇さえあれば、亀山さんの役も読んでみようかと思います。 そしてさらに、ロシア語でも学ぶ機会があれば、原文まんまのものも購入し、三冊を見比べてどれが誤訳か、どれが正訳かを見比べてみようかと思います。 | ||||
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この作品には続編があるらしいと聞き、びっくりした。 しかし、作者がその前に死んでしまった。 悔しい! 未完の作品でここまでのものを作るのならば、完結したら、それは人類史に残る、文学上の巨大な爪痕の一つになっていただろう。 現段階でも十分巨大だが。 | ||||
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ここまでくると、スイスイ読めます。 大団円ですので。 人生、一度ならず事ある毎に読みたくなる本ですね。 解説もぜひ読んでください。 | ||||
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紙面がとてもきれいで読みやすかったです。 文字も大きくて(また下巻は小さくなりました。文字数の関係ですね) 破れやカスレもなく良好でした。 | ||||
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評者は今から40数年前に米川正夫訳の「カラマーゾフの兄弟」に挑戦したが、前半部の前半「大審問官」の辺りで挫折した覚えがある。この度古典新訳文庫版の評判を聞き再挑戦したが、推理小説を読むような面白さで冒頭からエピローグまで一気に読んだ。 亀山郁夫訳の新鮮さは、日本の読者が読み通せることを第1に考え、文章の勢いとリズムを重視しているところにある。米川訳と比べると、まず感じるのは見た目で頁全体が白っぽいことである。これは、長い文は短く分け句読点を多くし、長い段落は短く分け改行を多くしていることや、難しい漢字や漢語が少ないことによる。また文章の勢いやリズムを損ねる訳注は一切行わず、その分各巻末の解説を長めにとり作品読解の参考となる事項を丁寧に述べる。同じ理由で、ロシア人の長くて複数個もつ名前や呼称はできる限り統一し1つにしている。既訳のロシア小説らしい重厚で屈折した文章に慣れ親しんだ者には、新訳は軽薄な印象を持つのかも知れない。 翻訳とは翻訳家が原文で小説を読み感じとったところを、言葉と文体を考えながら日本語に移し替えるという創造的行為だと思う。一部に亀山のカラマーゾフは誤訳が多いとの指摘がある様だが、言葉に関して言っているのであれば、誤訳と意訳は紙一重であり単純に誤訳と決めつけるのは如何なものだろう。また誤訳が作品の解釈について言っているのであれば、本作品は様々な主題を扱っており、神の存在・非存在を巡る深刻小説と捉えることが唯一絶対ではなく、とてつもない事件や家庭問題を描く通俗小説として楽しんでも良いのではなかろうか。 最終巻となる本書は他に類を見ない構成で、解題としては長いドストエフスキー伝と詳しい作品論が付いている。どちらも亀山氏の力作ではあるが、作品論はやや強引で自伝の反映部分やカラマーゾフ続編にこだわり過ぎだと思う。参考にはなるが本文翻訳とは別冊にすべきではなかったろうか。 | ||||
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前巻と中巻を読むのは苦行のようになるだろう。が、下巻で全ては変わる。忍耐を持って読んでもらえれば。 こういう傑作について、かける言葉はもうない。・・・昔、ゲーテがシェイクスピアについて述べた言葉として「彼にはこの世界ですら余りに小さすぎたのだ!」という言葉があるが、僕はその言葉を思い出す。カラマーゾフの世界は、この世界ーーーこの宇宙よりも三百倍くらい広い世界だ。何もかもが極限を超越している。愛情は憎悪となって現れ、憎悪は本人にも見えない形になって、本人も理解できないような形で現れる。そして、ラストの検事と弁護人の対決・・・。もちろん、こんな対決など、この宇宙のどこでもかかつて現れた事はないであろう。だが、彼らは対決せざるを得なかった。ドストエフスキーの魂がそれを求めていたからだ。 本書を読んで、面白かった、とか傑作だった、とか言って、それで話が終わらない所に、この作品の偉大さはあると、僕は思っている。現代人はどこでも傍観者であり、いつも自分を楽しませてくれる何かを求めているが、この作品はそれよりももっと怖ろしいものを僕達に提供してくれている。・・・偉大な作品とは、単に面白かったりすごかったりするだけではなく、心底怖ろしいものを隠し持っているのだと僕は思う。・・・本書と比較できる文学作品は僕の知っている限りでは、シェイクスピアの「リア王」くらいではないかと思う。しかし、それすらも超越している。今までの所、僕にとってこれまで書かれた全ての書物の中で最も輝かしく、最も怖ろしい作品だ。 | ||||
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AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA | ||||
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good.aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa | ||||
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AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA | ||||
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この本は、ロシアの文豪ドストエフスキーの大長編にして未完の大作『カラマーゾフの兄弟』です。難解ゆえに多くの人が挫折したことでしょう。まず娯楽目的では苦痛を伴います。この小説は、「父親殺し」を題材に犯人は誰なのか、を推理しながら読むことができますが、ドストエフスキーは神学的命題を基に、自分の思想を登場人物を通して語らせているため、少なくとも、この思想を理解するためには聖書の知識が必要となります。 この上巻での圧巻はやはり『大審問官』で、命題は「世界に救いは存在するのか?」となるのでしょうか。 「大審問官」とは、三人兄弟のなかのイワンの創作物語なのですが、聖書中におけるイエスが石をパンにしそれを群衆に分け与えておけば、群衆はそのパンを求め、イエスを神の子として、ひれ伏し崇めただろう。しかしイエスは石をパンにし飢える群衆を救うことができなかった、イエスは神の子でもなんでもない、という。これに反し、もしイエスが石をパンにしそれを群衆に分け与えておけば、群衆は飢えることはなかったが、イエスにひれ伏し崇めることで自由を失うだろう、ゆえにイエスは石をパンにせず、群衆に自由を与えたのだ、という。しかし自由を与えられたがために人類の不幸は始まり、人類にとっては自由は無くとも、パンを与えひれ伏し崇め、奴隷であることのほうが幸福であっただろうというのである……、 ドストエフスキーは「大審問官」によって、奇跡も行えないイエスは神の子でもなく、そもそも世界に神などは存在しないのである、と主張するのであるが……、 中巻レビューにつづく | ||||
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この本は、ロシアの文豪ドストエフスキーの大長編にして未完の大作『カラマーゾフの兄弟』です。『カラマーゾフの兄弟』は二部構成でこの上中下巻はその一部で完結はしているものの未完といわれています。一部は「父親殺し」を題材にし、二部では「皇帝暗殺」を題材にしたものだろうということです。たぶん、のちのイワンが革命家になっての話になるのでしょう、私の空想だと『悪霊』と『罪と罰』を拡張したようなものになったんではないのかと思います。のちのイワンは革命家となり、『悪霊』のような思想家たちの仲間となって皇帝暗殺を企て実行する、暗殺後はその罪に恐れ、神に仕えるアリョーシャや信仰心のあるソーニャのような女性かに罪を償うように諭されるという感じですかね。 この中巻での圧巻はやはり『腐臭』で、命題は「神聖は有り得るのか?」となるのでしょうか。 「腐臭」では、聖人の遺体は腐らないと言い伝えられているのですが、信者たちから敬愛されるゾシマ長老の死後、その遺体が腐敗し異臭を放つわけですね。信者たちは戸惑うわけです。 ドストエフスキーは「腐臭」によって、神が存在しておれば、それに仕えるゾシマ長老の腐臭はなかったであろう。そもそも世界に神などは存在せず、よって神聖や遺体が腐敗しないなど有り得ない、と主張するのですね……、神はここでも不在なわけです。 下巻レビューにつづく | ||||
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この本は、ロシアの文豪ドストエフスキーの大長編にして未完の大作『カラマーゾフの兄弟』です。ドストエフスキーは、上巻の「大審問官」ではイエスの奇跡を否定し、中巻の「腐臭」ではゾシマ長老の神聖を否定してきました。この『カラマーゾフの兄弟』は、個人的にドストエフスキーの無神論なわけです、彼のこの無神論に反論し論破できる者が果たしているのか、それほどドストエフスキーの無神論は強力で悪臭を放っています。 この下巻での圧巻はやはり『誤審』で、命題は「人間は真実を知り得るのか?」となるのでしょうか。 「誤審」では冤罪を書いています。もし神が存在しておれば、人間は真実を知り得て、罪も無き者が罰せられる冤罪は有り得ない。しかしこの世界に神などは存在せず、ゆえに罪無き者が罰せられるのだ、とドストエフスキーは主張するのですね……、神はやはりここでも不在なわけです。 しかしドストエフスキーはエピローグでは小さな希望の光を人々に託すんですね。信仰という、希望の光を……、 | ||||
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なし............................ | ||||
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