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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 201~220 11/72ページ

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No.1226:
(8pt)

運命の女、再登場!

ノンシリーズの『ザ・ポエット』を経て再びボッシュ登場。時はまだ野茂がドジャースで現役で投げていた時代。
シリーズ再開の事件はハリウッドの丘で遺棄されたロールスロイスのトランクから頭を撃ち抜かれた遺体が見つかるという不穏なムードで幕を開ける。その死体は映画プロデューサーのトニー・アリーソ。
さらに舞台はラスヴェガスに移り、カジノに纏わるマフィア犯罪の捜査へと進展していく。映画産業、カジノと復帰したボッシュが手掛ける事件は実に派手派手しい。

そしてこの事件がボッシュが殺人課に戻ってから初めての事件であることが明かされる。
前回『ラスト・コヨーテ』で自身の母親に纏わる事件を解決した後、強制ストレス休暇を取らされ、亡くなったパウンズの後任として配属されたグレイス・ビレッツ警部補からリハビリ期間として盗犯課に配属されるが、過去最低の殺人事件解決率を記録するとその梃入れとしてボッシュは殺人課に返り咲き、そして迎えたのが今回の事件である。

またかつてはジュリー・エドガーを相棒としながらもほとんど一匹狼状態で捜査をしていたボッシュだが新しい上司が組んだ制度、三級刑事をリーダーとした3人1組のチームとして捜査を進めるようになる。三級刑事のボッシュはリーダーとなり、彼の部下に相棒のジュリーとビレッツが古巣から引っ張ってきたキズミン・ライダーが加わっている。
自分自身の過去と因縁を前作で振り払ったボッシュの、シリーズのまさに新展開に相応しい幕開けと云えよう。

といいながらもやはり前作までの影は相変わらずボッシュを離さない。今回は1作目でパートナーとなった元FBI捜査官のエレノア・ウィッシュが再登場する。

私はエレノアが再びボッシュの前に現れると1作目の感想で述べたが、新しいシリーズの幕開けで合間見えるとは思わなかった。ボッシュの始まりには彼女がどうしても付きまとうらしい。
そして前科者となったエレノアは当然のことながら法を取り締まる側に戻れず、ラスヴェガスでギャンブルをしながらその日を暮らしている身である。さらに彼女にはある繋がりがあり、それがために彼女との再会は少なからずボッシュを再び窮地に陥れることになる。

今回ボッシュが手掛ける事件は明らかにマフィアの手口による、通称“トランク・ミュージック”と呼ばれる制裁方法によって殺された映画プロデューサー、トニー・アリーソ殺害の犯人捜しに端を発し、やがて彼が遊びで訪れていたラスヴェガスに舞台を移すと、そこから映画産業を利用したマネー・ロンダリングが発覚し、アリーソを洗濯屋として利用していたマフィアが浮上する。
更にそのアリーソが国税庁に目を付けられていたことが解り、自分たちの犯罪の痕跡を消すため、マフィアが放った刺客によって殺害された、それがこの事件の背景であることが解ってくる。

一方でメトロ市警はこれを機に長年目をつけていたマフィアの大物ジョーイ・マークスの手に縄を掛ける一世一代のチャンスだとしてボッシュに先駆けて行動し、さらにエレノアもまたジョーイの手下と関係があることが発覚して、そのことがボッシュを苦しめる。
さらには一度今回の事件について連絡した組織犯罪捜査課がアリーソをマークしていて盗聴器を仕掛けていたことも判り、一プロデューサー殺害の事件は各署、各課の思惑を色々と孕んで複雑化していく。

正直これだけでも十分お腹いっぱいになる内容だが、更にコナリーは爆弾級の仕掛けを投じる。

ボッシュが辞職の危機に置かれるのはもはやこのシリーズの定番でもあるが、これは実に驚くべき展開だった。それがゆえにこのボッシュの危機もまた引き立つわけだが、いやはやコナリーの物語構成力には毎回驚かされる。

話は変わるが今回の事件で使われている映画制作を利用したマネー・ロンダリングはいかにもありそうな話である。映画制作費自体がブラックボックスであるがために資金を集めて実際その1/10程度しか使っていなくても帳簿上に恰も全額使ったように膨らませて記載すればなかなか発覚しない隠れ蓑である。
最近の政治資金問題と云い、まだまだこの世には色んな抜け穴が存在するようだ。

新生ボッシュシリーズの大きな特徴はやはりチームプレイの妙味にある。これまで孤立無援、一匹狼の無頼刑事として誰も信じず、頼らずに捜査を続けていたボッシュだが、亡くなったパウンズに替わって新しい上司グレイス・ビレッツは相変わらず綱渡り的なボッシュの強引な捜査に一定の理解を示し、後押しする。
またボッシュがリーダーとなったジェリー・エドガーとキズミン・ライダーのチームは個性的で有能で、尚且つ自身のキャリアを危険に晒すことになりながらもボッシュの捜査の正当性を信じ、付いていく忠義心を見せている。
今までボッシュの昏い過去に根差された刑事という生き方といったような重々しさから解放された軽みというか明るみを感じさせる。それは単に久々の殺人事件捜査に携わることからくるボッシュの歓喜に根差したものだけでなく、やはり理解者を得たこと、そして仲間が出来たことに起因しているに違いない。

また忘れてならないのはアーヴィン・アーヴィング副本部長の存在だ。彼もまた警察の規範の守護者として振る舞いながらボッシュに対して理解を示し、彼をサポートする。実に味のあるバイプレイヤーぶりを本書でも発揮している。

私は1作目の『ナイトホークス』の感想でエレノア・ウィッシュはボッシュの救いの女神であったと書いた。それを裏付けるかの如く、エレノアと再会したボッシュにとって彼女はもはや人生の伴侶だと、ただひとりの女性であると述懐する。
前作『ラスト・コヨーテ』で知り合ったジャスミン・コリアンは過去に人を殺したという謎めいた女性で命懸けでしがみつく存在であると云っていたが、その関係は遠距離恋愛のために長く続かなかったと片付けられている。
知り合った時の心情の深さに対して呆気ない幕切れにもしかしてエレノアとの関係もそんな風に終わるのでは?という懸念も拭えないが、自分の手で両手に手錠をかけた女性に対しては他の女性とは違った思いの強さがあるようだと信じたい。

やはり彼女はボッシュにとってウィッシュ、つまり希望だったことを確信した。前作で過去を清算したボッシュが前に一歩踏み出したのだ。



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トランク・ミュージック〈上〉 (扶桑社ミステリー)
No.1225:
(7pt)

映画とは異なるが、コレはコレで愉しめる

キングがリチャード・バックマン名義で出した4作目の作品はアーノルド・シュワルツェネッガーで映画化もされた本書。
その映画が公開されたのが1987年。なんともう30年も前のことだ。当時中学生だった私はテレビ放映された高校生の時にテレビで観た記憶がある。但し細かい粗筋は忘れたが賞金のために1人の男が逃げ、それを特殊な能力を備えたハンターたちが襲い掛かるのを徒手空拳の主人公であるシュワルツェネッガーがなんとか撃退しつつ、ゴールへと向かうと朧げながら覚えている。恐らくこの<ハンター>という設定と制限時間内で逃げ切るという設定は現在テレビで放映されている番組「逃走中」の原型になったように思える。

そんな先入観で読み進めていた本書だが、映画とはやはり、いやかなり趣が違うようだ。

Wikipediaで補完した映画の内容では主人公のベンは警察官で、上司の命令に従わなかったことで逮捕され、脱獄を果たすが、弟のアパートへ訪れるとそこには既に弟はいなく、次の住人が住んでいた。この住人はテレビ局員であり、彼女を伴って空港から脱出しようとするところを機転を利かせた彼女が大声で叫んだことで捕まり、そのままデスレース番組として人気の高い『ランニング・マン』(この表記は解説のまま)に出場させられる羽目になる。

しかし本書の主人公のベンは貧民街に住む男。2025年のアメリカは富裕層と貧困層で二極分離した社会で空気中には汚染物質が漂い、富裕層はそれらの影響のない高い土地で暮らし、貧困層はたった6ドルの材料費で200ドルで売られている安っぽいフィルターを付けないと肺が侵されてしまうような環境で暮らさなければならない。そんな苦しい環境から目を逸らすために政府はフリーテレビを支給し、出場者が脱落して命を喪うゲームを観ては満足する毎日。ベンも1日中働いても雀の涙ほどでしかない稼ぎのため、妻は売春をして日銭を稼いでいる。電話などはもちろんなく、アパートの前にある公衆電話を使って連絡を取るような状況。そんな毎日だからまだ1歳半の娘のインフルエンザの治療費などは到底なく、それを稼ぐためにテレビ局のオーディションを受けるが、その知性と身体能力を買われ、番組『ラニング・マン』に出場するというのが導入部である。

このベンの設定も映画では正義感溢れる警察官だが、本書では知性もあり、体力もありながら反抗的な性格が災いして先生に暴力を働いたかどで退学させられた男。つまりキング作品によく出てくる癇癪を抑えきれない男として描かれている。

また番組『ラニング・マン』の内容もいささか異なる。映画では地下に広がる広大なコースを舞台にそれを3時間以内に各種のタラップやハンターたちの追跡(なお映画ではストーカーという呼称)から逃れてゴールすれば犯罪は免除され膨大な賞金を得ることが出来るという設定。

原作では舞台はアメリカ全土。1時間逃げ切るごとに100ドルが与えられる。ハンターが放たれるのは12時間後、そして最大30日間生き延びれば10億ドルが賞金として得られるという、時間と行動範囲のスケールが全く違う。そのため更にテレビ放送用にビデオカセットを携え、それを自身で録画してテレビ局に送らなければならない。

従って映画のようにまず次々と必殺の武器を備えたハンターが出てくるわけではなく、ベンは犯罪の逃亡者が行うように、闇の便利屋を通じて偽装の身分証明書を作り、ジョン・グリフェン・スプリンガーと名を変え、変装し、ニューヨーク、ボストン、マンチェスター、ポートランド、デリーへと国中を渡り歩いていく。周りの人間が自分を探しているのではないかと疑心暗鬼に怯える日々を暮らしながら。
つまりどちらかと云えば昔人気を博したアメリカのドラマ『逃亡者』の方が設定としては近い。というよりもキングは1963年に放映されていたこのドラマから着想を得たのではないかと考えられる。

四面楚歌状態のリチャーズは逃亡の中で数少ない協力者たちを得る。ボストンでブラッドリーという18歳の青年は図書館でこの世の社会の歪みを知り、そのシステムを打ち砕く希望をベンに託して協力する。

彼の友人の1人、ポートランドのエルトン・パラキスもベンを匿おうとするが、息子の反社会的行動を理解しない母親によって通報され、そのパトカーからの逃走劇の最中、重傷を負う。

そんな協力者の庇護を得る中、やがてベン・リチャーズの中でもこの『ラニング・マン』へ参加する目的が変わっていく。

最初は自分の赤ん坊の治療費を得るためという利己的な目的だった。しかし汚染される空気の中、フリーテレビという娯楽を与えられることでそれらの社会問題から目をそらされ、やがて灰を患い、死に行くだけの人生を余儀なくされている低下層の人々の反逆として彼は行動するようになる。

そのため毎日送る2本のテープには政府の欺瞞に満ちた政策を暴露するメッセージを盛り込むが、これも巧妙にアフレコによって改ざんされ、単にベンが口汚く罵倒するシーンになってしまっている。映像による情報操作により、国民はベンへの怒りを盲目的に募らせるのだ。

また最も大きな違いとして映画で出てきた個性豊かな特殊技能と武器を備えたハンターは実は全く出てこない。警察との命を賭けた逃走劇が何度も繰り返されるだけで、深手を負い、満身創痍になりながらひたすら逃げるリチャーズの様子が描かれる。

さて物語は今までのキング作品と異なり、短い章立てでテンポよく進む。改行も多く、登場人物たちの主義主張や思想などが語られてはいるものの、通常の作品のようにページを埋め尽くすかのようにびっしりと書かれているわけではない。

また特徴的なのはマイナス100から始まる章が進むにつれて1つずつ減っていることだ。つまりこれはゼロ時間に向けてのカウントダウンとなっている。
果たしてこの数字が0となる時に何が起こるのか?
それもまた読み手の興味をそそる。

本書の設定は2025年の未来。従って2020年現在よりもまだ5年先の時代だが、1982年に刊行された当時のキングの想像力によって補われた未来像はやはり今の世の中と比べればいささか限界を感じる。

それはやはりウェブの存在が大きいだろう。この新たな通信の画期的な発明はやはり想像力豊かなキングをしても発想しきれなかったようだ。
ベンが逃走中の模様をテレビで放送するためにビデオカメラとビデオテープを携えなければならないというのはやはりどうしても無理が感じる。作中では技術の進歩でかなり軽量化されていると書かれているが、60巻ものビデオテープを持ちながら逃走し、毎日2巻を投函しなければならないというのは滑稽としか思えない。
今ならばウェアラブルカメラやスマートフォンなどで撮影もでき、そのままメールで送付すれば済むことだ。

もう1つはエアカーが登場することだ。このドラえもんにも登場する未来を象徴する宙に浮いて移動する自動車とタイヤのついた自動車の2種類がこの世界では活用されており、カーチェイスにはこの特性を活かした演出が成されている。
とはいえ、恐らく未来において今ではこのエアカーは実用化しないのではないかと個人的には思っている。自動運転技術の方に技術の核心はシフトしているからだ。
またタイヤが不要になる車を発明することはタイヤ業界が黙っていないだろう。

完全なる悪対正義の構図を描きながら、映画は制限時間内で特殊能力を持つハンターたちとの戦いを描いた徹底したエンタテインメント作品となった。そして原作である本書は絶対不利な状況でしたたかに生きる、ドブネズミのようにしぶとい男の逃走と叛逆の物語として描いた。
どちらもメディアによる情報操作され、完全に管理された社会の恐ろしさを描きながら、こうもテイストが異なるとはなかなかに興味深い。
私は高校生の頃に観た映画を否定しない。作者は設定だけを拝借した、いわばほとんど別の作品と化した映画に対して批判的かもしれないが、逆に別の作品として捉えれば娯楽作品として愉しめたからだ。逆にそれから30年以上経った今、大人になって本書を取ったことは両者を理解するのにいい頃合いだったと思う。

公害問題を扱った本書をパリ協定から離脱したトランプ大統領はいかにして読むのだろうか。『デッド・ゾーン』の時にも感じたがキングがこの頃に著した作品に登場する圧政者たちが現代のトランプ大統領と奇妙に重なるのが恐ろしくてならない。
実は今こそ80年代のキング作品を読み返す時期ではないか。アメリカの暗鬱な未来の構図がまさにここに描かれていると思うのは私だけだろうか。
シュワルツェネッガーの昔の映画の原作という先入観に囚われずに一読することをお勧めしたい。


▼以下、ネタバレ感想
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バックマン・ブックス〈1〉バトルランナー (扶桑社ミステリー)
スティーヴン・キングバトルランナー についてのレビュー
No.1224: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

6人の奇妙な面々

Vシリーズ7作目の舞台は奥深い山中にある怪しい研究所。しかもそこにアクセスする橋は何者かによって爆破され、電話線も断ち切られ、外部への連絡も遮断された状態となる、まさに陸の孤島物ミステリ。
更にその研究所の創設者は不治の病に侵され、仮面を被り、車椅子に乗ってそこにあるボタンでコミュニケーションを交わす老人と本格ミステリのガジェットに包まれた作品だ。
そして例によって例の如くそんな閉鎖された空間で起きる殺人事件にお馴染みの瀬在丸紅子と保呂草潤平、小鳥遊練無と香具山紫子の面々が挑む。

まず本書において小鳥遊練無が今回パーティに招待されるきっかけとなった纐纈老人との交流は短編集『地球儀のスライス』に収録された小鳥遊練無初登場作「気さくなお人形、19歳」に描かれている。直接的には纐纈老人とのエピソードは本書とは関係ないが、単なるイントロダクションだけでなく短編としてもまた小鳥遊練無の魅力を知る上でもいい短編なのでぜひ一読を勧める。

今回陸の孤島でありながらもなぜか陰惨さが募らず、常にドライな雰囲気なのはこれが森ミステリだからかもしれないが、舞台が一流の科学者の集まる研究所であり、みな自分の研究以外のことにあまり関心を持たない人物ばかりだからだ。同じ同僚でも死んでしまえばただの物とばかり、関心を寄せず、ただ自分の研究する時間を貰えれば刑事の云う通りに研究所の中に留まることを全く厭わない、いやむしろそれが日常である人々の集団。そして彼らの中で超音波という共通のテーマはあれど、それぞれ重なる研究はなく、とにかく研究が大好きな人々たちであるため、金や権力よりも研究ができる環境と時間と予算があれば欲しいものがないのだ。殺人事件なんかのために自分の貴重な時間が取られることを心底嫌う人々、つまりいわゆる一般的な欲求のために犯罪を起こすという動機がない連中というのが面白い。

面白いのだがしかし本書は今までのシリーズの中でもかなり重苦しい雰囲気を持っている。特に紅子たち一行に危難が及ぶところが珍しい。
捜査を共にした瀬在丸紅子と小鳥遊練無、そして祖父江七夏が何者かによって無響室に閉じ込め、睡眠ガスによって昏倒させられるのだ。しかもその上、小鳥遊練無命を奪われそうな危機に見舞われる。彼は人工呼吸で息を吹き返されなければならないほどの窮地に陥る。

また紅子が無響室に閉じ込められた時に幼き頃に愛犬を亡くした記憶を想起させ、打ち震えるところなんかもいつも超然とした彼女にしては実に珍しい光景だ。

そして第1の殺人の次に起こる第2の殺人は前出の仮面の車椅子老人こと土井博士が自室で首なし死体となって発見されるというショッキングな展開。しかもその死体にはさらに両手首が切断され持ち出されていた。

事件の陰惨さとは裏腹に自分たちの研究に没頭する科学者たちという古典的な設定の中に現代的なモチーフが持ち込まれた奇妙な雰囲気のミステリの真相はまたも鮮やかに紅子によって解き明かされる。

いつも思うことだが、真相を聞かされるとなぜこんな簡単なことに気付かなかったのかと思わされる。

また森ミステリ特有の事件のトリック以上のトリックが隠されている趣向は本書でも踏襲されている。
この隠れメッセージが今回一番驚いてしまった。これぞ森ミステリの醍醐味だろう。

今にして思えばこの土井超音波研究所はデビュー作で登場する真賀田研究所の原型だったのかもしれない。
共に自分たちの研究に没頭する科学者たちの楽園であるが、前者は相続という実に詰まらない問題でそれを手放さなければならなくなった砂上の楼閣であったのに対し、後者は大天才真賀田四季によって潤沢な資金によって支えられた理想の楽園となった。
超音波の分野で天才の名を恣にした土井博士は真賀田四季のプロトタイプだったと考えてもおかしくはないだろう。
なぜならプロローグで保呂草は次のように結んでいる。

未来は過去を映す鏡だ。
心配する者はいつか後悔するだろう。
自分が生まれ変わるなんて信じている奴にかぎって、ちっとも死なない。

もしかしたら土井博士は真賀田四季の前世かもしれない。そんな想像をして愉しむのもまた森ミステリの醍醐味の1つだろう。



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六人の超音波科学者―Six Supersonic Scientists (講談社文庫)
森博嗣六人の超音波科学者 についてのレビュー
No.1223:
(7pt)

江戸の粋の光と影

宝引きの辰捕者帳も本書で第4集目。辰親分の人情味溢れる裁きは本書でも健在だ。

まずは幕開けの表題作。
悪人の出ない物語。
権威を振るった鷹匠の一行は宿泊した宿の従業員の話では非常に礼儀が正しく、ほれぼれするような男ぶりだったという。そんな一行のうちの1人が貴重な鷹を死なせてしまったことで罰を受けようとなっている。
しかし一方で辰親分は事の真相を見破ってしまう。辰親分の一計は江戸っ子ならではの味な采配。
自分の厄を心配する妻のお柳の不機嫌を番の鷹に擬えた、なんとも粋な1編である。

続く「笠秋草」は神田鈴町で紫染屋を営む内田屋で起きる怪事に辰親分が挑むお話。
妊娠中の妻を置いて夜な夜な出歩く若旦那と云えば江戸の風俗である吉原への女郎屋通いというのは誰もがピンと来る展開だろう。
なお題名の『笠秋草』は紫染屋の若旦那の清太郎が遊女に上げようとデザインした紋を指す。いやはやしかし男は昔も今も懲りないものだねぇ。

紋章上絵師でもある作者の本領発揮とも云えるのが次の「角平市松」。
身体と首を挿げ替えられた男女の死体という本格ミステリならではの奇妙な死体が登場するものの、本作のメインの謎は江戸で流行った角平市松を創った職人角平の行方を探るところがメインだ。しかもそれを探るのが宝引きの辰ではなく、語り手である仕立屋の若旦那であるところが面白い。
彼が一介の職人を調べに神田川にある船宿、新シ橋こと新橋にある古着屋日本橋馬喰町の紺屋と渡り歩き、はたまた板橋で行われる縁日に行ったりとなんとも江戸風情に溢れた道行が興味深い。
自身が職人である泡坂氏のある時は小説を書き、またある時は新たな柄や紋を考える、当時の自由気ままな生活がにじみ出ている作品だ。

次の「この手かさね」も着物に纏わる話だ。
着物に纏わる因縁が同じような悲劇を再発させる。同じような事件が15年前に起き、その事件の犯人が見つからなかったが、可也屋が形見分けで貰った帯がその事件を解決する。

一転して怪奇じみた装いで幕を開けるのが「墓磨きの怪」。
闇夜に乗じていつの間にか墓が綺麗に磨かれているという悪戯か親切かよく解らない珍事が魅力的であり、またその犯人を辰親分ではなく語り手の長二郎が見抜くところも珍しい。
しかし何よりも本作の魅力は物語の中心となる「だからの昇平」というキャラクターにある。
役者の父親を持ちながらも口下手で何よりも馬鹿が付くほどの正直者。従って芝居であっても役名ではなく、その人の名前で呼んでしまうという実に愛すべきキャラクター。そのお人よしな性格を利用されて、馬鹿の上に超が付くほどの正直ぶりを発揮されてはもう愛さずにはいられないではないか。

次の「天狗飛び」では辰親分一行は江戸を離れて大山詣りの道中にある。
昔から信心深い人、迷信もしくは云い伝えを重んじる人はいるもので、本書で登場する建具屋の平八は何かつけて縁起を担ぐ人物。何か誰かに不具合あればどれそれとあれそれを一緒に食べるからだ、この季節にはこの食べ物を食べるとこういう病気になりにくくなる、縁起のいい名前の店には必ず立ち寄る、云々。
一方でお札を高いところに貼ればご利益があると信じている松吉もまた濡れた手拭に札を貼り付けて投げて貼る、投げ貼りなどをし、上手く貼れないがために算治に肩車をしてもらって貼り直そうとしたところ、バランスを崩して足を挫いてしまう無様を見せる。自らに不幸が降りかからぬよう縁起を担ぐのにそのために無茶をして逆に不幸を呼び込んでしまう滑稽な人々を描いたのが本作だ。
特に日本人は数字には敏感で4とか9とかは特に嫌う。そんな日本人の性質がこの天狗にさらわれるという戯れ事を生み出した。個人的にはこのような関係のないところに関係を見出す日本人の言霊信仰は嫌いではなく、むしろ好きな方なので平八が殊更に説く数々の縁起事は非常に興味深く読めた。しかし何事も程々にってことですな。

ダジャレのような題名「にっころ河岸」はそのユーモアな題名とは裏腹にホラー色が強い作品である。
この不思議な話に対する謎解きはない。つまりこの話があるからこそ、勇次はいつも不思議な出来事に遭遇すると思わせられるのだ。
しかし男と女の間とはいつになっても割り切れぬものよのぉ。

最後の「面影蛍」は他の短編とは異なる展開の物語。江戸川に家族とともに蛍狩りに来た宝引きの辰はそこにいた駿河屋という乾物屋を営む主人、弥平と親しくなり。酒を酌み交わすことに。杯が進むにつれ、弥平は自分が若き頃に経験したある女性との恋物語の顛末を語るのだった。
最終話の本作は全て語り手である弥平の独白で物語が進むため、宝引きの辰との会話が一切ない異色作となっている。
酒を飲みながら弥平が語るのは蛍に纏わる彼の若き頃の恋話。江戸川に蛍狩りに行った夜に出遭ったのは牛込矢来下の米屋島村屋の娘お由。ほんの一時を過ごした2人はそのまま恋に落ちるが、家業が乾物屋で頑固な江戸っ子の弥平の親父は島村屋の番頭が三顧の礼を持って弥平とお由を結び付けたいと頼むが頑として首を縦に振らない。弥平はお由の想いを真摯に受け止め、どうにかこの恋が成就するためにある一計を案じる。その企みは狙い通りで晴れてお由と一緒になったはずだったが、そこには哀しい結末が待っていた。
何とも哀しい江戸の商人のつまらぬ意地っ張りが招いた悲劇の物語。


宝引きの辰も実に久しぶりで前作の『凧をみる武士』を読んだのがなんと約16年前。しかしそんな月日もひとたび捲れば粋な江戸の世界へ迷い込み、ご用聞きの辰親分の人情味溢れる采配に思わずひゅうと口笛を吹きたくなる。

1話ごとに語り手が変わる手法も相変わらずで、1話目は辰親分の子分算治、2話目は事件の舞台となる内田屋の使い伊吉、3話目は仕立屋の沼田屋の若旦那、4話目は噺家の可也屋文蛙、5話目が経師屋の名川長二郎、6話目が木挽町の建具屋の久兵衛の弟子の新吾、7話目は神田鈴町の畳屋現七の弟子勇次、最終話は小日向水道町で駿河屋という乾物屋をやっている弥平と算治を除いて全て商人の目線で語られる。
そのいずれもが宝引きの辰の評判を褒め称えていることで辰が腕利きの岡っ引きであることが解るのである。特に本書では娘のお景のお転婆ぶりと妻の柳の器量が垣間見え、この親分にしてこの母娘ありとどんどん人物像が厚くなっていくところがいいのだ。

さてこれら8編の中には過去の因果が関係している話が少なくない。
「笠秋草」では身籠り中の妻の嫉妬から起こした小火騒ぎの事件を『源氏物語』で六畳御息所の人魂のエピソードを用いて真相をごまかしたり、「この手かさね」では15年前に起きた元役者で玉の輿に乗った笠屋の主人が女房の連れ子と姦通していたことで娘から殺される事件の真犯人が見つかることで現代の事件も暴かれる。「墓磨きの怪」では30年前に起きた江戸中の墓が何者かによって磨かれるという珍事にヒントを得て起こした骨董屋の騒動であり、「天狗飛び」では昔富士登山であった天狗にさらわれるという事件が縁起担ぎというつまらぬ慣習ゆえに大山詣りにも波及する。

つまり今もそうであるが日本人というのは過去の因果というのをいつまでも大事にし、またそれを信じることで目の前に起きている不吉事を擬えて安心を得ようとする民族であることが解る。特に様々な事柄や屋号についても掛詞に興じていた江戸町人などはその最たるものだったのではないだろうか。

しかしほとんどが男と女の恋沙汰に絡む因縁に絡んだ事件である。現代とは異なり、言葉や柄、そして因習や慣習を重んじ、更に家業が宿命とばかりに人生を束縛するこの時代、色んなことを諦めざるを得ないのが通例だった中で、どうしてもそれが諦めきれなかった人々がこのような事件を起こす。
しかしそれは人間が生きる上でごく普通に主張されるべき権利だったのだ。
泡坂氏の各短編には江戸の町人文化と当時の地名や風習が実に色鮮やかにしかも丹念に描かれ、江戸の風流を感じさせるが、一方でその風流さが生きにくい時代の中で見出した娯楽であったこと、そんな中でもがき苦しむ人々がいた事。しかしまた生きにくい時代を愚直に生きる人々にまた素晴らしさを感じるのだ。そんな光と影を映し出している。

さて本書における個人的ベストは「墓磨きの怪」を挙げたい。闇夜に乗じて方々の寺が墓が磨かれているという奇妙な導入部と一連の怪事が骨壺に使われた値打ち物の壺を手に入れるための策だったという謎よりもこの話で出てきた正直者の「だからの昇平」が実に魅力的。騙されているのを知らずに最後まで愚直に墓磨きを続ける、間の抜けた、しかしお人よし。こういう男は放っておけないのだ。

次点は「角平市松」。これもまた商売などは二の次でとことん新しい柄を創作することに意欲を燃やし、最初から最後の工程まで自分でしないと気が済まないという根っからの職人である角平のキャラクターが強い印象を残す。泡坂氏は角平の為人を事細かに描写するわけでなく、その仕事ぶりを語ることで彼の愚直さを語るところが上手い。
この角平の創作した柄がその他の作品でも垣間見えるところも粋な趣向だし、そして何よりも私が驚いたのはこの作品で話題になる「角平市松」という架空の柄を紋章上絵師である作者が実際に創作しているところだ。この柄は本書には収録されていないものの、WEBで調べれば出てくるのでぜひともご覧になって頂きたい。こういう手間が物語に風味を与え、創作上の人物角平への存在感を色濃くするのだ。

幽霊騒ぎに縁起担ぎ、そして迷信。そんな現代人から忘れ去られようとしている昔ながらの云い伝えを物語に見事に溶かし込む。なおかつそんな文化の中で生きてきた明るくも、時に心の闇に取り込まれてしまう町人たちを、時には厳しく、時には優しく守る宝引きの辰。
彼がいるから今日のお江戸も安泰だ。そんな言葉が思わず出るような辰親分の活躍をまたいつか読みたい。また15年後ぐらいかなぁ。



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朱房の鷹 (文春文庫―宝引の辰捕者帳)
泡坂妻夫朱房の鷹 についてのレビュー
No.1222: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

地方新聞記者、奔る!

コナリー初のノンシリーズである本書は双子の兄の警察官の自殺の真相を調べる弟の新聞記者が探偵役を務める。従って今までのボッシュの破天荒な捜査とは違った事件のアプローチが描かれ、興味深い。

自分の双子の兄で殺人課の刑事だったショーンが自殺したというショッキングなニュースを知り、そのことを記事にしようと決意した弟ジャック・マカヴォイが事件を調べるうちに他の事件にも似たような符号があることに気付き、一連の警官の自殺事件の背後に潜む連続殺人犯の存在を突き止め、その正体を探ると云うのが大方の物語だ。

しかしコナリーは連続殺人犯“ザ・ポエット”をすぐには出さず、あくまで新聞記者ジャック・マカヴォイの取材を通じて一歩一歩その犯人の存在を浮き彫りにしていく。

そしてこれまで刑事、しかもハリウッド警察という地方の一警察署の一介の殺人課刑事の捜査を描いてきたハリー・ボッシュシリーズとは違い、複数の州にまたがった広域的連続殺人犯の捜査をFBIと共に同行する形が採られており、行動範囲、捜査の質ともに今までよりも濃い内容となっている。

ハリー・ボッシュシリーズが足で稼ぎ、またほとんど違法とも思われる強引な捜査で絶えず警察のバッジを回収されそうになる危うい捜査の中から集めた数々の情報と証拠を長年の刑事の勘による閃きによって事件を解決する、一匹狼の刑事の過程を愉しむ物語ならば本書はFBIという最先端の操作技術を持つ組織がプロファイリングや警察機構の更に上を行く情報システム、鑑識技術を駆使してそれこそ全米にまたがって多数の捜査官によって事件を同時並行的に捜査する、質、量ともに警察を凌駕する広域捜査の妙を愉しむ作品が本書である。

主人公ジャック・マカヴォイは社会部の新聞記者で、一般的な新聞記者と違い、じっくりと取材をしたドキュメントめいた記事を書くのを専門としている。扱うのはいつも殺人について。殺された人の周囲とその人が殺された事件を丹念に調べ、記事にする。そして新聞記者をしながらいつか作家としてデビューすることを夢見ている男だ。
コナリー自身新聞記者からミステリ作家に転身した経歴の持ち主なだけにこれまでの登場人物にも増して作者自身が最も投影された人物のように思える。

物語の合間に挿入される新聞記者としての心情の数々。
大きなスクープを当てて注目され、ピュリッツァー賞を獲り、それを手土産に地方新聞社からLA、ニューヨーク、ワシントンのビッグ・スリーの一つへ移り、名新聞記者へと名を馳せた後、犯罪実録作家としてデビューする。町へ行けばそこで起きた過去の事件を思い出し、その現場にまるで観光名所のように訪れて、その時の事件について思いを馳せ、自分を重ねる。興味があるのはそんな事件現場ばかり。
自分の行動範囲で発行される新聞には全て目を通し、自分が記事にするに足りうる殺人事件を毎日探している。自分の記事の載っている新聞は自宅に取っておく。ただいつも自分も事件の最前線にいたいという思いが募っていた。自分も彼らの捜査に加わることで事件をもっと臨場感持って感じたかった。事件の起きた“後”を追うのではなく、事件をリアルタイムで捜査官と共に追いかけ、一員になりたかったと願っていた。

ジャックのこの心の吐露はハリー・ボッシュシリーズでデビューし、好評を以って迎えられた1作『ナイトホークス』を皮切りに立て続けに3作出して作家としての地歩を固めたコナリーがデビュー前の自分を重ねているかのように読めて非常に興味深かった。

そして本書ではボッシュシリーズとのリンクも見られる。
小児性愛者ウィリアム・グラッデンについて書いたLAタイムズの記者ケイシャ・ラッセルは前作『ラスト・コヨーテ』でボッシュに協力した若手の女性記者である。前作では披露されなかった彼女の記事が本書では読める。ボッシュシリーズから登場するのがこのケイシャの記事だけということから考えても刑事よりも新聞記者にスポットを当てたかったからだろう。

またジャックには幼き頃に姉を亡くした苦い過去がある。
家族で湖に出かけた時に凍った湖の上を走った際に、それを引き留めようとした姉が、体重がジャックよりも重いばかりに氷が割れ、湖に落ちてしまったのだ。それを引き起こしたのが自分であるとその頃から悔恨の念に駆られている。だからこそ兄のショーンを再び喪った彼は犯人に対する強い憎しみを抱き、今度こそ兄弟の無念を晴らそうと躍起になっているのだ。
そして彼にはもう1つの理由があった。それはショーンの妻ライリーがかつての初恋の相手だったことだ。それも自分の不注意で相思相愛になりかけたチャンスを逃したためにその思いはジャックの中で途切れず、今もまだどこかライリーのことが気にかかっている。新聞記者としての名誉、ノンフィクション作家への足掛かり、姉、兄、そして義姉への贖罪、色んな要素が複雑に絡んでジャックの原動力となっている。

その連続殺人犯がエドガー・アラン・ポオの詩を現場に残しているところが文学的風味を与えている。特にジャックが過去の殺人課刑事自殺事件のファイルとポオの詩篇を比べるためにポオの全集に読み耽る件は実に興味深い。ポオの詩はジャック自身の過去の忌まわしい記憶を想起させ、心の深淵を抉り、そこに潜んでいる冷たいものを鷲掴みしてポオその人の心の憂鬱と同化していく。
その様子はなんとも文学的香味に溢れ、深くその詩の世界、いや死の世界へと沈み込んでいくかのようだ。その詩は人々の記憶に眠る死の恐怖を喚起させるとジャックは述べる。

しかし次から次へと矢継ぎ早に妙手を打ってくるものだ、コナリーは。

今回ジャックが一緒に行動を共にすることになったFBI捜査官の主だったメンバーはレイチェル・ウォリング、ボブ・バッカス、ゴードン・トースンの3人。
レイチェルとゴードンは元夫婦の関係で反発し合う関係である。レイチェルは最初は女ながらの凄腕の捜査官として登場し、ジャックを手玉に取ろうとしていたが、兄が殺されたことを知り、捜査に加わるようになってからジャックの世話役となり、やがてお互い恋仲になるまで発展する(逢って間もないのにすぐにベッドインする関係が実にアメリカ人らしいと思うのだが。やはりストレスの溜まる仕事をしている女性はどこかで発散させないといけないのだろうか)。

一方ボブ・バッカスはレイチェルたちの上司で良識派の人物。冷静に物事を判断しながらもジャックを、捜査官にありがちなように見下したような態度を取らず、むしろ今回の連続殺人事件を発見してくれた功労者として対等に扱う紳士だ。

そして最後のゴードン・トースンは典型的な高圧的なFBI捜査官で新聞記者であるジャックを目の敵にしている。おまけに元妻といい仲にあることを気にしてか、いつも嫌味をいい、そして見下した態度をジャックに向ける。ジャックはウォレンに今回の記事が先んじられた原因はこのトースンにあると信じて疑わず、いわば犬猿の仲である。

しかしコナリーは物語の中盤、反発し合う2人をパートナーと組ませて話を展開させていく。共に行動することでジャックはトースンが優秀なFBI捜査官であることに気付かされ、見方を変えるようになる。

このようにコナリーは登場人物をステレオタイプに描かず、意外な側面とミスマッチの妙を用いることで人物と物語に膨らみをもたらすのだ。次第にお互いの有能さに気付いていく展開は実に読んでいて面白かった。

さて物語は小児愛者であるウィリアム・グラッデンの話を合間に挟みながら展開する。<詩人>の特徴である子供を対象にした殺人事件、自分が誰よりも頭がいいと思っている優越感に満ちた人物、そして催眠術を掛ける能力を有していることなど、これらの条件が全てこのウィリアムに当て嵌まるが、私はこれこそ作者の巧みなミスリードであると思った。

人は何かを得ようとすると何かを失う。そして得た物か失った物かいずれかが本当に欲しかったものなのかはその後の人生で答えが出るものだ。
コナリーの紡ぐ壮大なボッシュ・サーガの世界でまた今後ジャックとレイチェルの2人がなんらかの形で登場し、その後の2人を知ることが出来ることを期待して、また次の作品を手に取ろう。


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ザ・ポエット〈上〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーザ・ポエット についてのレビュー
No.1221:
(8pt)
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キングはこの地味な設定で書き抜くことをやってのけた

モダンホラーの巨匠キング初期の傑作と云われる本書は一般的に狂犬病に罹った犬が車に閉じ込められた人を襲うだけで1本の長編を書いたと評されている物語だが、もちろんそんなことはない。

ただ物語の始まりはちょっと異様な雰囲気に満ちている。
物語の舞台はメイン州キャッスル・ロック。そこは『デッド・ゾーン』でジョン・スミスによって正体が暴かれた連続殺人鬼フランク・ドッドが住んでいた町だ。そして連続殺人鬼の自殺は町に安全と安心をもたらしたが、同時に恐怖と悪夢の影を残し、今なお夜更かしする子供たちを寝かすときに「早く寝ないとフランク・ドッドが来るよ」という脅し文句が生まれるまでになっている。

そんな名残がまだ残る年に物語の主人公一家トレントンの子供タッドの押し入れにフランク・ドッドの幽霊が住まい、夜毎タッドを脅すという怪奇現象が語られる。

更に物語の中心となる対照的な夫婦の関係もクライマックスに向けて実に読ませるアクセントとなっている。

一方のヴィク・トレントンとドナの裕福な夫婦はしかし夫の独立でニューヨークからキャッスル・ロックという田舎町に引っ越した妻が日々の退屈を持て余して、家具修理業の男と浮気をし、それを浮気相手からバラされるという夫婦間の問題を抱えている。

もう一方のジョー・キャンバーとチャリティ夫婦は腕のいい自動車修理工だが、高圧的で暴力を振るう夫を恐れる妻が宝くじで5千ドル当てたのをきっかけに初めて夫抜きで友人宅へ愛する息子を連れて旅行に行く顛末が描かれる。

クージョに関わる二家族のそれぞれの事情を丹念に描き、下拵えが十分に終わったところでようやく本書の主題である、炎天下の車内での狂犬との戦いが描かれる。それが始まるのが233ページでちょうど物語の半分のところである。そこから延々とこの地味な戦いが繰り広げられる。

しかしこの地味な戦いが実に読ませる。

町外れの、道の先は廃棄場しかない行き止まりの道にある自動車修理工場。旅行に出かけた妻と子。残された夫とその隣人は既にクージョによって殺されている。更に閉じ込められた親子の夫は出張中で不在。
そして、これが一番重要なのだが、携帯電話がまだ存在していない頃の出来事であること。またその夫は会社の存亡を賭けた交渉に臨み、なおかつ出発直前に妻の浮気が発覚して妻に対する愛情が揺れ動いていること。
この狂犬と親子の永い戦いにキングは実に周到にエピソードを盛り込み、「その時」を演出する。

これはキングにとってもチャレンジングな作品だったのではないか。
今までは念動力やサイコメトリーなど超能力者を主人公にしたり、吸血鬼や幽霊屋敷といった古典的な恐怖の対象を現代風にアレンジする、空想の産物を現実的な我々の生活環境に落とし込む創作をしていたが、今回は狂犬に襲われるという事件をエンストした車内という極限的に限定された場所で恐怖と戦いながら生き延びようとするという、どこかで起こってもおかしくないことを恐怖の物語として描いているところに大きな特徴、いや変化があると云える。更に車の中といういわば最小の舞台での格闘を約230ページに亘って語るというのはよほどの筆力と想像力がないとできないことだ。
しかし彼はそれをやってのけた。

本書を書いたことで恐らくキングは超常現象や化け物に頼らずともどんなテーマでも面白く、そして怖く書いてみせる自負が確信に変わったことだろう。
だからこそデビューして43年経った2017年の今でもベストセラーランキングされ、そして日本の年末ランキングでも上位に名を連ねる作品が書けるのだ。

これは単なる狂犬に襲われた親子の物語ではない。物語の影に『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドの生霊がまだ蠢いているからだ。

私は本書の結末にキングとクーンツの違いを見る。
どんなに絶望的な状況に陥っても、必ずハッピーエンドをもたらすクーンツの作品はどんな困難でも必ず克服できると物語の裏にメッセージとして込めているからだろうが、逆に云えば結末が容易に付いてしまうのだ。
しかしキングは違う。彼は決して登場人物に容赦をしない。だからこそ物語の先行きが予想不可能で読者は終始心を揺さぶられ続けられるのだ。

こうなるとキングの作品はただ読んでいるだけでは済まない。各物語に散りばめられた相関を丁寧に結びつけることで何か発見があるのかもしれない。
キングの物語世界を慎重に歩みながら、これからも読み進めることとしよう。



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クージョ (新潮文庫)
スティーヴン・キングクージョ についてのレビュー
No.1220:
(7pt)

読んでるこちらもなんだか浮いているような感じ

飛行機好きの森氏がとうとうパイロットを題材にした作品を描いたのが本書。シリーズ物となっており、短編集を含む5作が発表されている。

何処とも知れない、しかし世界のどこかであることは間違いない場所でいつの頃なのかも解らない時代を舞台にいつも以上に仄めかしが多い文章で、世界観を理解する説明めいた文章はなく、主人公カンナミ・ユーヒチの一人称叙述で物語は断片的に淡々と進んでいく。

その内容はまさに空を飛んでいるかのように掴みどころがない。
それぞれが何か秘密を抱えているようだが、カンナミ・ユーヒチの一人称叙述で進むこの作品では全てが雲を掴んでいるかのようになかなか手応えが感じられない。それは主人公のカンナミをはじめ各登場人物たちがあまり人に関心を持たない性格だからだ。
戦時下の前線にいるパイロットや整備士などにとって今いる仲間はいつ死んでもおかしくない、つまり今日は逢えても明日は逢えるか解らない境遇であるため、他人と距離を置き、ほどほどに付き合う程度の人間関係を構築しないからだろう。だからカンナミが色々質問しても「それを知って何になる?」と云わんばかりに沈黙で応える。
しかし日数が経つと次第に打ち解けて断片的に自分のことや他人のこと、そして過去のことが断片的に語られていく。
まあ、現代の人間関係と非常に似通っていてある意味リアルでもあるのだが。

そんな独特の浮遊感を持ちながら進む作品はしかし、カンナミたちが飛行機に乗って空を飛ぶとたちまち澄み渡る空の青さと雲の白さとそして眩しい太陽の日差しの下で自由闊達に躍動する飛行機たちの姿とカンナミ・ユーヒチが機体と一体になって空を飛ぶ描写が瑞々しいほど色鮮やかに浮かび上がる。そして敵と相見える空中戦ではコンマ秒単位に研ぎ澄まされた時間と空間把握能力が研ぎ澄まされた皮膚感覚を通じて語られる。
それは人の生き死にを扱っているのになんとも美しく、空中でのオペラを奏でているようだ。飛行機乗りでしか表現できないようなこの解放感と無敵感をなぜ森氏がこれほどまでに鮮やかに描写できるのか、不思議でならない。

また飛行機の設備に関する詳細な説明や整備士の笹倉が話す種々の改造の件などは森氏が欣喜雀躍しながら書いているのが目に浮かぶぐらい微に入り細を穿っている。

淡々と進む物語は随所にそんな美しい飛行戦をアクセントに挟みながら、カンナミ・ユーヒチの日常と彼の仲間たちの日常、そして変化が語られ、そして徐々に物語が形を表していく。

カンナミの前任者クリタ・ジンロウは果たして本当に上司の草薙水素が殺したのか?
カンナミ、そして草薙が属するキルドレとは一体何なのか?

飛行機乗りの一人湯田川が任務中に行方不明になり、メンバーは他の基地に合流し、合同作戦に参加した三ツ矢碧とその仲間鯉目新技、彩雅が加わり、元の基地へと戻っていく。そこで初めてカンナミが赴任した基地が兎離洲という土地にあることが判明する。そして物語の終盤にようやくキルドレの正体が明かされる。

キルドレ、それは永遠に生きる存在。遺伝子制御剤の開発の途中で突然生まれた存在。そんないつ終わるかもしれない生にもはや記憶などは必要なく、そこには終わりなき日常を生きるだけの日々は浮遊感を抱えているだけだ。
死なない彼らは飛行機乗りとして戦場に駆り出される。それは永遠に続く生をどうにか終わらせるために。
彼らは何と戦っているのかも知らない。しかし目の前に敵があり、それが彼らが飛ぶ理由だ。空にいる時だけ生を感じることが出来るからこそ死と隣り合わせの世界で生きるために敵を殺しながら、死に憧れつつも生き長らえる矛盾を抱えて彼らは今日も空を飛ぶ。

南国の僻地で生活していた頃に読んだ私にとって、この変わり映えのない日常を生きる彼らの物語を読むには実に最適だった。
月曜日が始まったかと思うといつの間にか金曜日を迎え、そして土曜日になり一週間が終る。1日の休みを経てまた月曜日が始まるが、さしてテレビ番組を見るわけでなく、また塀に囲まれた中で暮らすだけの毎日ではどこかに行くことさえも許されない。
朝起きて仕事をして帰って日本から持ってきた録画を観て、読書をし、ウェブ鑑賞した後は床に就き、そしてまた朝が始まるだけの日常。そんな同じことの繰り返しを生きる私の生活と彼らの生活は非常に似通ったものを感じた。

この奇妙な世界での飛行機乗りたちの物語はまだ序章といったところだろう。
途中でカンナミたちの同僚となったエースを自負する三ツ矢碧は果たしてキルドレなのか?
かつて草薙の上司であった凄腕の敵パイロット黒豹との対決は?
などまだまだ語られるべき話は残っている。

地面から5センチほど宙に浮いたような感覚で読み進めた本書だったが、最後になってどうにかその世界へと着陸することが叶った。
森氏が開いた新たな物語世界。次作からじっくり読み進めていくことにしよう。


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新装版-スカイ・クロラ-The Sky Crawlers (中公文庫, も25-15)
森博嗣スカイ・クロラ についてのレビュー
No.1219: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

こんな時代もあったね、と。

まだ法月綸太郎氏が後期クイーン問題に頭を大いに悩ませていた頃に放ったロジック全開の短編集。

まずホテルの一室で男女の切断死体が発見される「重ねて二つ」はただの2つの死体ではなく、上半身が女性、下半身が男性という衝撃的なシチュエーションで幕が上がる。
冒頭から実に奇妙な事件の登場である。上半身女性、下半身男性の死体。しかももう片方は見つからない。こんな奇妙な状況で刑事は見事に看破する。
ただ密室といい、男女混合の死体といい、それらが犯人の自己顕示欲の強さだけでこんな奇妙な死体を生み出したという動機がなんとも弱い。
単に密室を作りたい、衝撃的な死体を作りたいという脆弱な動機を法月氏は成功していない。第一、死体から流れ出る血の問題とか死臭のことを考えるとトリックありきの作品としか思えない。

「懐中電灯」は倒叙ミステリ。
ギャンブル場でしか繋がりのない男2人による現金強奪事件。ATMへの入金の機会を狙って借金で銀行の金を横領した行員が手引きし、見事強奪に成功するが現金の独り占めを企んで一方がもう一方を山中で殺害する。事件としては実に典型的な展開。
このいわばどこにでもあるがしかし犯人逮捕が難しい事件をある小道具が完全な証拠となって発覚する一連のロジックは実に小気味よい。
葛城警部の尋問もミスリーディングの妙を思わせる様は、右手に集中させながら左手に注意を背ける、見事なマジックを見ているかのよう。見事な佳品である。

3編目の「黒いマリア」はカーの作品を彷彿させるようなオカルトめいた作品。
鍵のかかった事務所のソファで亡くなった男、その中の金庫に閉じ込められた窃盗犯の死体、鍵のかかったキャビネットに閉じ込められた女性事務員。
三重密室の状況でさらに夜中の警視庁に訪れた黒づくめの婦人と実にオカルトチックな設定だが事件の真相そのものはさほどでもない。
事件そのものもさほどオカルトめいてないし、また七森映子との面談も葛城が仮眠中に起きたような状況だが、雰囲気としてはそぐわない事件だったと思わざるを得ない、ちょっと背伸びした感のある作品である。

「トランスミッション」は葛城警部が登場しない誘拐事件に巻き込まれた男の物語。
児童誘拐の間違い電話というシチュエーションの妙が面白い。電話を受け取った僕はそのまま本来の相手に伝えるメッセンジャーに成りすます。しかし単なるメッセンジャーに終わらず、事件に興味を持ってしまったことが彼の人生を変えてしまう。
何とも不思議な話である。

続く「シャドウ・プレイ」も「トランスミッション」で登場した推理小説家と思しき男、羽島彰が登場する奇妙なミステリ。
小説家の友人が電話越しに語るドッペルゲンガーを扱ったミステリの話をし出す。その小説には作者と同名の人物が登場し、おまけに聞き手の友人も同名で登場する。この新作の話が登場人物が同名であるがために次第に創作の世界と現実の世界の境が曖昧となってくる。
もはや何が真実で何が虚構なのか。乱歩の有名なあの夢と現の反転を謳った名句が浮かぶような作品だ。

もはやこれはロスマクの隠れざる新作かと思わされるほどの筆達者ぶりを見せるのは「ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか」だ。
金満家の家庭に纏わる忌わしい家族の過去に本格ミステリの定番である密室を絡め、そして題名が著すようにフィリップ・K・ディックを彷彿とさせる妄想的SF作家が登場し、さらにはロスマクの本名ミラーやチャンドラーと云った名前が出てくるなど法月氏のパロディ精神が横溢した1編。
畳み込むような意外な真相の乱れ打ちの末、明かされる密室トリックはもはやギャグ以外何ものでもない。
さてこの真相を読んで本書を壁に投げつけるか、予想外のアイデアだとして苦笑いするかは分かれるところだろう。

本書で最も長い「カット・アウト」は2人の画家を巡る物語だ。
2人の画家と1人の舞踏家の女性の若き日の出逢いから既にこの世からいなくなった2人の男女の死の真意を1人の残された画家が遺された作品から悟る物語。
本書の題名は本書の中でも語られるジャクスン・ポロックというアクション・ペインティングという全く新しい技法を編み出した前衛画家の代表的な作品だ。
色とりどりの絵具をランダムな飛沫で何重にも塗り込み、時にはチューブから直接絵具を捻り出して塗りたくる。その塗りたくったキャンパスを人の形に切り取ったのがこの「カット・アウト」という作品だ。つまり本来作品である極彩色の絵が逆に背景になり、切り取られたキャンパスの地が強調されて主従が逆転するのだ。つまり不在であるからこそ実在性が強調されるジレンマを抱えた作品である。
本書はそれがモチーフになっていることを考えると桐生正嗣の最後の作品も容易に想像がつく。
他の作品以上に書かれた記述の密度の濃さは濃厚な芸術家たちの波乱に満ちた人生が凝縮されており、実に読ませる。
また芸術を極めんとする画家が狂気の先に行ったかと思いきや、人間性の豊かさに行き着いたという事実もなかなかである。
ただ今まで読んだ法月氏のいわゆる人間の心が織り成す精神の極北を辿るミステリ群の中にあっては上に書いたようにモチーフがあまりに明確過ぎたため、サプライズに欠けた。しかし力作であることは間違いない。

最後の「・・・・・・GALLONS OF RUBBING ALCOHOL FLOW THROUGH THE STRIP」に登場するのは法月綸太郎。ある場末のバーでの物語。
本編はミステリではない。ただその中に込められた暗喩は実に興味深い。この短編の感想は後に述べるとしよう。なお題名はNirvanaのアルバム“In Utero”のボーナストラックの曲名だ。


パズルそしてロジックに傾倒する法月綸太郎氏の短編集だが題名はパズル崩壊。しかしこの短編集を指すにこれほど相応しい題名もないだろう。

法月綸太郎氏の短編集には『法月綸太郎の~』と謳われていることが通例だが、本書はそれがない。つまり本書は探偵法月綸太郎が登場しない本格ミステリの短編集かと思いきや彼は最後の短編に登場する。しかしその登場は実に思わせぶりである。そのことについては後で述べよう。

各短編を読むとどこかいびつな印象を受ける。

例えば最初の3編は警視庁捜査一課の刑事葛城警部が探偵役を務める純粋な本格ミステリなのだが、これもどこか不自然さが伴う。

例えば「重ねて二つ」はその動機と密室の必然性、そして犯人が警察の捜査中の現場に死体と共にいるなど、遺体の血液や死臭の問題など普通思いつくような不自然さを全く無視して、男女の遺体が上半身と下半身とで繋がれた死体が密室で見つかるという謎ありきで物語を創作したことが明確だ。
次の「懐中電灯」は完全犯罪が切れた電池を手掛かりに瓦解するミステリでこれは実に端正なミステリであるのだが、その次の「黒いマリア」になると、亡くなった女性が葛城の許を訪れて解決した事件の再検証を求める、オカルトめいた設定になっているのだが、事件の内容とオカルト的設定がどうにも嚙み合っていない。これもカーの某作をモチーフにして強引に書いたような印象が否めない。

次は推理小説家の羽島彰が登場する2編について。1編目の「トランスミッション」は―これが厳密にいえば明確に羽島彰の名前が出ているわけではなく、推理小説家で探偵羽佐間彰シリーズを書いている作家と称されているだけだが―自身が誘拐事件に巻き込まれるのだが、最後の結末はなんとも奇妙な味わいを残す。どこか地に足が付かない浮遊感を覚えてしまう。
そして2編目の「シャドウ・プレイ」はドッペルゲンガーをテーマにした自分の新作について友人に語っていくのだが、次第に虚実の境が曖昧になっていく。この辺からミステリとしての境界もぼやけてくる。

そして「ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか」ではパズラーの極北とも云える密室殺人が扱われているが、アーチャーシリーズやその他周辺の諸々を放り込んだそのパロディはその真相においてはもはやパロディどころかパズラーの域を超え、いや崩壊してしまっている。

かと思えば本書で最も長い「カット・アウト」は2人の作家とその間にいた1人の女性を巡る物語でなぜ死体をアートにしたのかという謎について語られる。ここには本来のロジックを重ねて法月氏独特の人の特異な心の真意を探るミステリが見事に表されている。

しかし問題なのは最後の短編「・・・・・・GALLONS OF RUBBING ALCOHOL FLOW THROUGH THE STRIP」だ。これはミステリではなく、法月綸太郎のある夜の出来事を綴った物語である。しかし本作こそ本書の題名を象徴しているようにも思える。

まず編集者による法月綸太郎の創作態度に対する批判が3ページに亘って書かれている。懇々と説教される内容は当時の彼の姿を正直に投影しているように見えて実に興味深い。
この頃の法月作品は作者と同名の探偵役を出すことで自分の心情と苦悩を必要以上に吐露させ、そして自身の目指すミステリについて思い悩む様が殊の外多いのだが、それが明らさまに揶揄されている。当時後期クイーン問題に直面し、自身のミステリの方向性を模索し、悩みに悩んで創作が覚束なかった法月氏を第三者の目で明らさまに批判し、探偵法月綸太郎とは訣別すべきだとまで云われる。そんな回想に耽っている時に女に世話を任される一人の男。女は終電に間に合うために法月に男の後始末を頼むのだ。

終電に間に合うように去る女。女優の卵である彼女は物にはならないだろうとマスターは云う。「終電に間に合う」女とは陰りを見せる新本格ブームにどうにか間に合う形でデビューした新人作家を指すのか。そしてそんな斜陽のブームに乗っかろうとする新人は長続きしないと云っているのだろうか?

そして去った女が置いていった男は工藤俊哉。このデビュー作の主人公工藤順也と小鷹信光が生み出した探偵工藤俊作を思わせる男の風貌と為人はチャンドラーの『長いお別れ』に登場するテリー・レノックスを彷彿とさせる。
つまりこれはミステリ作家法月綸太郎が本格ミステリからハードボイルドへ移行しようとする宣言とも取れるのだ。つまり工藤俊哉と法月が初めて出逢った夜とは本格ミステリへの惜別の夜とも読み取れる。
この頃の法月氏は確かチャンドラーの後継者と評された原尞氏の作品に没頭していたはずだ。彼の目指す道は原氏が書くような作品だと思っていた頃で、つまり法月綸太郎から工藤俊哉という新しい探偵へ移行し、作風も変えようと思っていたのではないだろうか?

はてさてこれは悩める作者の世迷言か?
それともミステリの可能性を拡げる前衛的ミステリ集なのか?
もしくはパズラーへの惜別賦なのか?
ともあれ奇書であることは間違いない。

パズル崩壊とは正しく評するならば法月崩壊か。悩める作者は本書を書くことでそこから脱却しようとしているが、更なる深みに嵌っているようにも思える。一作家として何を書くべきか。その方向性はこの時点ではまだ定まっていない。

ただ現在の法月氏の作品から解るように、彼は本格ミステリの道を進むことを決めたようだ。
そして彼ならでは本格ミステリを追求し、昨年も『挑戦者たち』という様々な文体模写による「読者への挑戦」を数多用いた作品を著し、注目を集めたばかりである。
現在の活躍ぶりと創作意欲の旺盛さから顧みると、本書は一旦法月綸太郎を崩壊させ、ロス・マクドナルドやチャンドラーなどの諸作をも換骨奪胎することで彼の本格ミステリを再構築させたのだ。つまり本書は現在の法月氏への通過儀礼だったのだ。
今ではその独特のミステリ姿勢から出せば高評価のミステリを連発する法月氏だが、この世紀末の頃は悶々と悩んでいた彼の姿が、彼の心の道行が作品を通じて如実に浮かび上がってくる。これほど作者人生を自身の作品に映し出す作者も珍しい。
一旦崩壊したパズルを見事再生した法月氏。つまり本書はその題名通り、本格ミステリの枠を突き抜けて迷走する法月氏が見られる、そんな若き日の法月氏の苦悩が読み取れる貴重な短編集だ。
こんな時代もあったんだね。


▼以下、ネタバレ感想
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パズル崩壊  WHODUNIT SURVIVAL 1992‐95 (角川文庫)
法月綸太郎パズル崩壊 についてのレビュー
No.1218: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

ボッシュの過去の因縁への終止符

前作『ブラック・ハート』ではボッシュがハリウッド署に島流しされることになった事件、ドールメイカー事件の真相を探る物語であったが、シリーズ4作目である本書ではさらに彼の歴史を遡り、迷宮入りとなった娼婦だった母親マージョリー・ロウ殺害事件を休職中のボッシュが再捜査する物語となっている。

そして本書は様々な暗喩に満ちた作品でもある。

例えばボッシュが休職中に相棒のジェリー・エドガーが解決した事件は銃による殺人事件かと思って捜査すれば、単にエアバッグ修理中に起きた死亡事故に過ぎなかったことが判るのだが、事故当時にもう1人の人間がいた痕跡があったことから調べてみると7年前に起きた2人の女性が殺害された事件の犯人の指紋と一致し、犯人逮捕に至るエピソードが出てくる。
実はこの何気ないエピソードが物語の最終、真犯人を突き止める最後の決め手になる指紋への暗喩となっている。

さらに本書のタイトルにもなっている1匹のコヨーテの存在。ボッシュは事件関係者で母親と親友だった当時メリディス・ローマンと名乗り、今はキャサリン・リージスタとなっている女性と逢った帰り道に1匹のコヨーテと遭遇する。その痩せ細り、毛がばさばさになった風貌に今の自分を重ねる。
地震前、ボッシュの自宅の下の崖には1匹のコヨーテがいたが、震災後それはいなくなった。そしてボッシュもまた今は刑事休職中の身でシルヴィアにも去られ、酒を手放せず、目の下の隈がなかなか取れないほど疲れ果てた表情をしている。そんなくたびれた自分は昔気質の古い刑事であり、出くわしたコヨーテももしかしたらLAの住宅地を徘徊している最後のコヨーテではないか、つまりいついなくなってもおかしくない存在だと思うのである。

孤独で育った少年は大人になりコヨーテになった。しかも最後のコヨーテに。本書の原題にはそんな寓意が込められている。

またボッシュの捜査自体も実に危うい。今回休職中の身であるから拳銃もなければ警察バッジもない。しかも上司パウンズの反感を大いに買っていることから警察が支給する車も取り上げられる。
刑事から初めて一己の市民となったボッシュはバッジと拳銃がいかに自分を守る鎧となっていたかを知らされる。

しかし彼はそんな不利な状況でも持ち前の強引さでことを進めていく。
パウンズの名を騙って警察のデータベースに記録を照合したり、勝手にロス市警に入り込んで指紋照合を頼んだり、母親の事件の捜査資料を持ち出したり、更にはパウンズの警察バッジを盗んだり、更には容疑者と目される、今では街の有力者となっている大手法律事務所経営者のゴードン・ミテルのパーティーに潜り込んで―この時もパウンズの名を借用する!―、揺さぶりを掛けたりと、そのアウトローな捜査ぶりは確かにコヨーテを彷彿させる。

しかしこのアウトローな行動が意外な展開を及ぼす。この展開にはかなり驚いた。そして同時にハリーの疫病神ぶりがこの展開によっていっそう際立つ。
いやはやコナリーの構成の上手さには唸るしかない。

また本書では次々に登場するキャラクターが実に魅力に溢れている。

シリーズを重ねるにつれてレギュラーキャラクターの存在感が増すのは当たり前だが、ちょっとした端役にも瑞々しい存在感を感じさせるほどコナリーの筆致は熟練されている。

まずボッシュが母親殺しの調査のために最初に訪れる母親の親友だったキャサリンの造形が強烈な印象を与える。娼婦という暗い過去を持ち、名前も変えて今の生活を手に入れたこの女性はしかし、警察連中にも容赦と引き替えに自分の身体を売り物にしてきた自分の過去に対して恥じず、人生最悪の時期であった娼婦としてのプライドも今も持ち、泰然自若としてボッシュに向き合い、そして語る。彼女の気高さこそが今の生活を手に入れる原動力になっていたことが実に深く心に沁み込んでいくのである。

また当時事件を担当した元ハリウッド署殺人課刑事のマッキトリックも忘れ難い。残された資料の内容の薄さからボッシュは彼を愚鈍な警官かチンピラどもに小銭をたかる腐敗警官かと思っていたが、実際は事件を道半ばで取り上げられた優秀な警官だったこと、そして彼自身マージョリー・ロウ殺害事件が迷宮入りしたことに悩まされている男だと気付かされる。休職中のボッシュが身分を偽り、近づくが簡単にその偽装を見破り、逆に返り討ちにしようとする老練ぶり。
またボッシュが当時の被害者の子供だと知ると一転して協力的になり、一緒に魚釣りへ乗り出す―このシーンは個人的にはかなり気に入っている―。彼がボッシュに事件の顛末を話すのは彼の悔恨をボッシュに託したかったからなのだろう。

そして何よりも本書において特筆なのはボッシュの母マージョリー・ロウの造形だ。ボッシュが母親殺しの捜査を進めていくうちにこの母親のボッシュに対する深い愛がひしひしと滲みだしてくる。
娼婦という仕事で女手一つで息子を育てようとしていたが母親不適格として子供を養護施設に入れられ、毎週通っては慈しんでいた母親。いつか親子2人で暮らせるよう、ボッシュの父親である弁護士に手助けを頼んでいたが、その願いが叶う前に路上で遺体となって発見されてしまう。
一介の娼婦の殺人事件はいつそんな目に遭ってもおかしくない数多ある最下層の人間に起こる事件として片付けられ、十分な捜査が成されないまま、今日に至る。

しかしそんな風に片付けられた事件の背後には今では街の各界の有力者たちとなった人々のある暗い過去と母親への繋がりがあったことが次第に見えてくるのだ。

それと同時にボッシュは今まで直視しなかった母親について事件を調べることで思い出を手繰り寄せ、母の大いなる愛を知らされ、また悟る。

「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」

これがボッシュの信条だ。
しかし彼は母親に対してはその信条に従わなかった。
しかし彼は母親殺害事件の捜査資料を当たるうちに当時の警察が彼女の価値をおざなりにしていたことを知る。それはまた自分もまた同類であったと悟り、信条に従い、母親の死の真相に向き合うことを決意したのだった。

そして捜査が進むにつれて法曹界の大物へと事件は繋がっていく。

また今回物語の重要なファクターの1つとしてボッシュのカウンセリングを担当している精神科医カーメン・イノーホスの存在がある。ストレスによる強制休職中であるボッシュは精神科医のカウンセリングを受け、復帰が可能であることを証明してもらわなければならないのだが、その相手がカーメンである。
しかし彼女こそが本書におけるボッシュの行動を後押しする存在となっているのが興味深い。

現在のボッシュを形成する原初体験をその不遇な過去に見出し、彼の過去を語らせることでボッシュは殺害された母親に向き合い、そして未解決であるその事件の調査を始めることを思いつく。定期的に行われるカウンセリングはボッシュに内面と対峙させ、またそのことで彼もまたそこからヒントと自分の存在意義をも悟っていく。

さらに彼女は物語の最終でボッシュに事件の真相を突き止める、女性ならではの視点を提供することにもなるキーパーソンとして機能する。

そしてこのカーメンとの面談は今まで断片的に語られてきたボッシュの生い立ちを1本の線として繋いで読者に示すことにもなる。

娼婦であった母親と暮らしていたボッシュは彼女が行政によって不適格とみなされて養護施設に入れられ、離れ離れになる。いつか一緒に暮らすことを夢見ていた母親はボッシュの父親であった弁護士に助けを借りてことを進めていくがその願いが叶う前に殺害されてしまう。
ボッシュはその後も養子に出されるが、引き取った家族から何度か養護施設に戻され、そして16歳になって、ボッシュがサウスポーでいい球を投げるという理由で大リーグ選手を育てたいと願う男の許に引き取られるが、その願いには従わず、ボッシュは陸軍へ入隊しベトナム戦争へ出兵する。
帰還後警察官となり、ロス市警で優秀な成績を修めて、メディアにもたびたび登場するヒーロー刑事となるが、ドールメイカー事件の責任を取らされて停職処分を受けた後、現在のハリウッド署勤務となる。

そんな生い立ちで孤独を幾度となく経験しながらもボッシュには常に女性が近寄ってくる。

1作目ではFBI捜査官で相棒を務めたエレノア・ウィッシュが、2作目は死亡した麻薬捜査官の元妻シルヴィア・ムーアと同棲していたが、彼女が去った後、本作ではマッキトリックの許を訪れた出先のフロリダで亡き父の家を売りに出して面倒を見ている画家志望の女性ジャスミン・コリアンと食事と一夜を共にするようになる。
確かにデビュー作においてテレビにも出演していたスター刑事で見た目も悪くないと書かれていたが、なんというモテぶりだろうか。

ボッシュが彼女に魅かれたのは彼女の中に自分と同種の暗闇を見出したからだが、また同時に彼女もまたボッシュが他の警官とは違う人間臭さを感じ、そこに魅かれていく。父親の遺産で暮らし、画家を目指す彼女は実は過去に人を殺したことのある女性だったことが判明する。実に謎めいた女性だ。

ところで書評家の池上冬樹氏が指摘しているように作者コナリーは過去の名作を取り込み、自分というフィルターを通じて物語へと消化している。

例えばチャンドラーを敬愛するコナリーだが、先にも書いたボッシュの信条、
「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」
を読んでニヤリとしたのは私だけではあるまい。これはまさにマーロウのあの有名な台詞へのオマージュであろう。

またボッシュが母親の当時の親友に話を聞きに行った帰りに立ち寄ったバーで出くわす、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を口ずさむ25歳くらいの女性のエピソードもチャンドラーが『長いお別れ』で書いたバーでマーロウが浸る女性に関するエピソードを想起させる。

更に本書の核を成す娼婦の母親殺しは作家ジェイムズ・エルロイの半生がモデルとなっているのは明確で―池上氏はこの作家の心酔者であり、その特異な過去、つまり情念の作家としてのエルロイの特異性を借り物のように取り込んでいるコナリーの創作姿勢が気に入らないようだが―、作中でも娼婦だったエルロイの母親が殺害された実際の事件『ブラック・ダリア事件』にも触れている。

そして私が思うに、最たるオマージュは本書は実は『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』の裏返しの物語であったということだ。

身分違いの男と女が出逢い、男はその屈託ない女の魅力に惹かれ、結婚まで誓う。それは実に素敵なシンデレラ・ストーリーだったが、それがお伽話に過ぎなく、現実の世界は利害関係によってそんなものは抹殺される。それが現実なのだ。
本書は実に現実的な『マイ・フェア・レディ』だったのだ。

そしてもう1つ物語がある。事件の真相に纏わる2人の女のエピソードだ。

しかし人の死の多い事件だった。
葬り去られたマージョリー・ロウ殺害事件の真相を探っていくうちに現れる容疑者たち、関係者たちが次々と死んでいく。

誰もが過去に隠した罪に苛まれて生き、いつそれが暴かれるかを恐れながら生きてきた。
ハリーが現れることでその時が来たと悟り、ある者は観念して、またある者は必死にそれに抗おうとして、またある者は更なる秘密を暴かれるのを防ぐために死出の旅に発つ。

過去に縛られ、過去を葬り去り、忘れさせようとした人たち。しかし同じく過去に縛られながらもその過去に向き合い、克服しようとした1匹のコヨーテに彼らは敗れたのだ。

ハリーの母親の事件を解決したことでハリー・ボッシュの物語はここで第一部完といったところか。
デビュー作の時点で盛り込まれていたハリーに纏わる数々の謎は本書で一旦全て解決を見た。さらに彼はかつてスター刑事としてテレビ出演していた時に得た収入で購入した家も地震によって失った。

カウンセラーのカーメン・イノーホスはボッシュに母親の事件を解くために彼が警察官になったのだと示唆する。つまり母親の事件を解決した今、彼は警察官であることの意味が無くなったのだ。だからこそ最後ボッシュが警察を辞めることを決意したのだ。
実際、当時作者はここでハリーを永遠に退場させようと思ったのかもしれない。

ただ彼に新しく現れたジャスミン・コリアンという新たな謎がまた生まれた。彼女が過去に犯した殺人については結局詳しく語られないままだった。
アーノウ・コンクリンはボッシュに自分に合う人がいたら、過去はどうあれ命懸けでしがみつけと説く。

ボッシュはジャスミンこそが今の自分に合う者であり、命がけでしがみつく存在であると確信した。
ただ自分と同類と感じていたシルヴィア・ムーアとも結局は別れてしまったボッシュ。自分と同じ暗闇を持つと目を見て確信したジャスミンもまた行きずりの女となるのだろう。

母親の愛の深さを知り、また過去に葬り去られた母親殺害の事件を解決したことで母親の無念を晴らしたボッシュ。しかし彼の捜査によって犠牲となった者達の死は一生背負うことになる十字架になるだろう。
しかしジャスミン・コリアンという新たなパートナーを得たボッシュの再登場を期待して待ちたい。今までとは違ったボッシュと逢える気がしてならないからだ。それはきっといい再会になるだろうとなぜか私は確信している。しばらく私はボッシュに、いやコナリー作品にしがみついていくことにしよう。


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ラスト・コヨーテ〈上〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーラスト・コヨーテ についてのレビュー
No.1217:
(3pt)

キングにとっての何に対しての“最後の抵抗”なのか?

どうにも煮え切らない小説である。いわゆるダメ男小説、人生の落伍者のお話である。

主人公ドーズは高速道路の延伸工事のため、自分の自宅と自身の勤めるクリーニング工場の立ち退きを迫られるが、頑なにそれを拒む。移転のための費用も出るし、また工場もいい条件を提示する不動産会社もあるのに、ドーズはそれに一切関与しようとしない。
彼は高速道路の延伸自体を認めたくないのだ。そして移転することは政府の勝手な申し出に屈することになる、そうドーズは考えている。

しかし彼の行動は正直褒められたものではない。妻には移転先の物件を探しているふりをして、いつも嘘を云って誤魔化し、会社の上司にも不動産会社が紹介する物件に多数の不備があり、購入後は多額の修繕費が掛かると、調べてもいないのに嘘八百を並べ、終いには期限が過ぎればもっと価格を下げて提示してくるとまで云いのける。

更に勝手に保険を解約して3,000ドルの保険金を受け取り、妻に内緒で銃を買い込み、爆薬まで闇ルートで手に入れようとする。そして会社を辞めるのも唐突で妻に何の相談もしない。
確たる根拠もないのに全てが自分の思い通りに事が運ぶと信じる。いや現実から目を背け続けている弱い男なのだ。

しかし長らく勤めていたクリーニング工場の責任者という地位と職業も失い、更には妻にも逃げられながらも、一体何がこのバート・ドーズをそうさせるのか?

土地に固執する人々の大きな特徴として帰属意識の強さが挙げられる。先祖代々の土地を人様に渡すことを極端に嫌う、昔からその土地で生きている人たちにその特徴は顕著だ。
ドーズは先祖代々住み着いた土地ではないが、彼にとってウェストフィールドは思い出の地なのだ。時折挟まれる妻メアリーとの思い出が非常に眩しいのもそのためだ。

まだ食うのもやっとな若い2人が内職してテレビを購入するエピソード、一人目の子の死産を乗り越えて、ようやくできた2人目の息子チャーリーとの思い出とその死。
そんな困難もありながら、ささやかだけど幸せな時間を妻と共に過ごしてきた思い出の家を法律を盾に奪おうとする行為が許せなかったのだろう。ドーズは思い出に生きる男なのだ。

そして恐らくドーズは一方で安定を壊したかったのではないか。
自宅のみならず自分の勤める工場の移転も強いられ、意のそぐわぬことをしてまでの安定に何の意味があるのかと常に自問自答していたのではないか。常人であれば普通に選択すべきことを敢えてしなかったのはそんな鬱屈した日常を破壊したかったのではないだろうか。
つまり伸びてくる高速道路は彼の鬱屈した心の象徴でそれを壊すこと、もしくは誰もが従った土地買収に抗うことが彼にとって一皮剝けた新たな自分を生み出すことだと信じていたのではないだろうか?

だから工場閉鎖を機に他の仕事を宛がわれた元同僚の安定した職について変なアドバイスをする。
映画館の館長となった元同僚が自分で上映したい作品を選ぶことすらせず、ただ食料品の注文と管理のみで映画館を経営していると述べ、優越感に浸るさまを見て、一生飼い殺しになるくらいなら今のうちに辞めた方がいいと助言し、殴られる。
このことからも解るように彼バート・ドーズは単に上司の云う通りに仕事をするのを嫌い、自分の考えと意見を主張して、自分の色を出したがる男である。それは正しいが逆に彼の場合は自分の考えに固執しすぎてそれに同調できない人を癇癪のあまり、こき下ろして罵倒する感情のバランスが崩れやすい人物でもあるのだ。
彼にとって高速道路の延伸工事に屈することはもう「どうにもたまらなかった」ことなのだ。

彼バートン・ジョージ・ドーズにはもはや世界など意味がなかった。

独りよがりな理屈と自分勝手な行動と自分のことを棚に上げて人を怒鳴り、または訳の分からない説教をしようとする男バート・ジョージ・ドーズ。どうやっても共感を得られる人物像ではない。狂える、そして女々しい男だ。
キングは本書を「もっとも愛着のある作品」と称しているらしいが、私にはやはり単なる狂人が迷い彷徨い、そして崩壊するだけの話としか読めなかった。
本書の時代はベトナム戦争が終わった後の1973年だ。アメリカという国中にどこか鬱屈した空気が流れていた時代だろう。だからこそ戦争に負けた政府に従わない男をキングは書こうとしたのかもしれない。
本書を著すことがベトナム戦争に負けたアメリカに対するキングのささやかな「最後の抵抗」だったのではないだろうか。


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最後の抵抗 (扶桑社ミステリー)
スティーヴン・キング最後の抵抗 についてのレビュー
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(7pt)
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マイ・アンフェア・レディ。その名は香具山紫子

Vシリーズ第6弾は豪華客船の上で起こる密室での人間消失と絵画盗難を扱った、これまた本格ど真ん中の作品である。
前作『魔剣天翔』ではアクロバットショーの飛行機のコクピットという、恐らく世界最小の密室での殺人事件だったが、前回の舞台が空なら今度は海。なかなかヴァラエティに富んだ舞台設定である。

そんな非日常の舞台で起きる事件は次の通りだ。

たった3部屋しかない宿泊エリアの一番端の部屋から銃声が響いて何かが鉄に当たる様な音がして海に男が落ちる。現場にはピストルが落ちているが、その部屋から出入りしたのは隣室の男のみ。しかもその男は事件の後に部屋に入ったと証言しており。その宿泊エリアから出た人はいないことはフロントで確認済みである。更に真ん中の部屋の宿泊客が持っていたスーツケースには絵画が入っていたが、鍵が掛かっていたにも関わらず忽然と消えてしまう。

つまり密室状態の船室から落ちた男の謎と消えた絵画の謎がごく狭いエリアで繰り広げられる。しかもそのエリアにいたのはまず男が落下した部屋S3室には被害者の建築家の羽村怜人とその恋人の大笛梨絵のみ。隣のS2号室には保呂草が絵画を盗もうと狙っている鈴鹿幸郎と息子の明寛とさらにその息子の保と秘書の村松直美の4人。そして残りの一番大きなS1号室には鈴鹿幸郎の取引相手でフランスの富豪のクロウド・ボナパルト氏とボディガード3人に保呂草に盗みを依頼した各務亜樹良の計5人という非常に狭い範囲での事件である。
こんな限定された状態でかつ謎としても比較的なシンプルな状況でどんな真相が待ち構えているのか興味が高まった。

なんせ前作『魔剣天翔』ではたった2人しかいない曲芸飛行機のコクピットの中での密室殺人で意外な真相を展開した森氏である。今回もどんな真相が現れるのか、期待したくなるのも当然ではないか。

さて今回は今まで道化役でしかなかった香具山紫子にスポットが当てられる。背の高い女性であまり風貌については取り立てた記述はなかった紫子はコメディエンヌとしてとにかく三枚目を演じることが多く、読んでいる当方も同情が禁じ得なくなるほど不遇なキャラクターであったが、今回は、保呂草の本職である泥棒稼業の手伝いとはいえ、とうとうヒロインの役を仰せつかる。口は達者だが、本番に弱いメンタリティの弱さを持つ彼女が一念発起して保呂草の妻役に挑む。

てっきり香具山紫子のシンデレラ・ストーリーになるかと思いきや、さにあらず、やはり小鳥遊練無と瀬在丸紅子のマイペースに翻弄されて結局いつも役割に。
保呂草との甘い夜を過ごすはずの船室は紅子の独断で、恋人が船から落とされて傷心中の大笛梨絵の部屋に女性3人で泊まることになり、保呂草と練無が元々の船室に泊まって寸断される。しかも今回の自画像略奪計画の相棒として保呂草の手伝いをさせられるのだが、その目的は知らされず、事件そのものについても一切関わることはなく、結局はただの付き添いで済んでしまい、その後は自棄酒に溺れ、結局いつもの冴えない役回りを仰せつかるのであった。
恐らく保呂草としては想定外の事態に備えての保険的役割として紫子を配したのではないか。保呂草自身も紫子が自分にほのかな想いを寄せているのに気付いているはずだが、それを敢えて利用する冷静冷徹さに不満と紫子への報われなさに同情を禁じ得ない。
「マイ・フェア・レディ」になり損ねた紫子が報われる日はいつ来るのか。それともずっとこのままなのだろうか。「わたしの人生っていったいなんやろ」と一人気落ちせずに頑張れ、紫子!

さてミステリとしては標準並みの謎の難易度で全てではなくとも謎の一部は私にも途中で解ってしまうほどの物だったが、今回は事件の謎よりも物語の謎、いや保呂草という男の行動こそがメインの謎だったように思う。

この考えの読めない探偵兼泥棒の、常に客観的に物事を冷静に見つめ、目的のためには人を利用することも全く厭わない(その最たる犠牲者が香具山紫子なのだが)、あまり好感の持てない人物だが、彼の信念というか、信条が本書では意外な形で明らかになる。

恐らくそれまで保呂草嫌いだった読者の彼に対する評価は本書で大なり小なり好感を増したのではないだろうか。実際私はそうなのだが。

今回はミステリのためだけに作られた無理のある事件だったという感想は変わらないが、この保呂草の意外な温かさが最後胸に響いた。

ところで題名『恋恋蓮歩の演習』とはどういった意味だろうか?
まず目につくのは「演習」の文字。これは前作で保呂草が盗み出すように依頼された幻の美術品「エンジェル・マヌーヴァ(天使の演習)」から想起されるのは当然だし、登場人物も各務亜樹良と関根朔太と共通していることからも繋がりを連想させる。事実その通り、物語の最後は現在の関根朔太に行き当たる。

一方「恋恋蓮歩」という四文字。これは森氏独特のフレーズで造語かと思ったら実は「恋恋」は「思いを断ち切れず執着すること」、「恋い慕って思い切れない様」、「執着して未練がましい様」という意味で、一方の「蓮歩」は「美人の艶やかな歩み」という意味らしい。

この2つの単語を繋げたのは森氏の言葉に対する独特のセンスなのだが、つまり「恋恋蓮歩の演習」は「恋い慕って思いが募る女性が行う艶やかに歩く訓練」ということになる。
う~ん、そうなるとこれはやはり大笛梨絵、瀬在丸紅子ではなく、今回保呂草の計画に一役買った香具山紫子を表した題名になるのだろうか。

しかし一方で英題“A Sea Of Deceit”は“偽りの海”という意味。邦題と英題を兼ね合わせる人物はとなると大笛梨絵になるだろうか。
いずれにしても色んな解釈ができる題名ではある。

最後に読み終わった後に保呂草自身のプロローグに戻ると、文字に書かれた時点で現実から乖離し、全ては虚構となる、そして全てが書かれているわけではなく、敢えて書かないで隠された事実もあるし、今回はその時点における意識をそのままの形で記述することを避けるとも謳われている。知っているのに知らないふりをすると云うのは現実によくあることだ。
森作品、特にこのシリーズにおいてこの「書かれていること全てが本当とは限らない」というメッセージが通底しているように思われる。それはやはり保呂草潤平という謎多き人物がメインを務めているからかもしれない。
それはつまり、自分の直感を信じて読めばおのずと真実が見えてくるとも告げているように思える。ただ読むだけでなく、頭を使いなさい、と。
だからこそ森ミステリには敢えて答えを云わない謎が散りばめられているのかもしれない。それこそが現実なのだからだ、と。


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恋恋蓮歩の演習―A Sea of Deceits (講談社文庫)
森博嗣恋恋蓮歩の演習 についてのレビュー
No.1215: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

変則的な誘拐物と見せかけて

誘拐ミステリも数あるが、今回歌野氏が仕掛けたのは狂言誘拐。それも夫の愛情を確かめたいがための誘拐という、ちょっと浮世離れしたお嬢様育ちの容姿端麗の人妻の変わった依頼で幕を開ける。

1992年というバブルの名残ある時期に書かれた本書。そこここに時代を感じさせる記述が散見されて懐かしさを覚えた。
偽装して現れた誘拐の捜査をする警察官が来ていたのがアルマーニ調のスーツ(となぜかアタッシェ・ケースにクマのぬいぐるみを携えての登場と、逆に目立つような恰好なのがよく解らないのだが。とにかくパーティーや女性へのプレゼントが横行していた当時こんなアンバランスな恰好が普通だったのか?)だったり、まだ携帯電話は普及しておらず、自動車電話やショルダーフォンがセレブの持ち物となっていた時代だ。そんなまだアナログ社会で狂言誘拐を頼まれた便利屋が立てた方法がなかなか機知に富んでいて面白い。

警察からの逆探知を逃れるために今では災害時に使われるようになったNTTが提供する伝言ダイヤルサービスや今は無き悪名高いダイヤルQ2を利用して、録音やパーティラインによるやり取りで直接電話を繋げないようにしたり、自宅ではなく会社の方に電話したりするなど、工夫が凝らされていて読み手の予想の斜めを行く展開でどんどん読まされてしまった。

しかしそんなコミカルなムードも物語半ばで一転する。

若奥様の旦那への嫉妬から悪戯心で起こした狂言誘拐、それを利用して大金をせしめた便利屋、それが殺人事件に発展するという展開は悪事が雪だるま式に転がって肥大していく様を思い描かされる。
最初はほんの悪戯だったのが、金が絡み、そして人の命を奪うまでに発展する。本書の中でも云っているが悪い事はできないものだ。そして悪い時には悪い事が重なるものだ。そんな人生転落劇のような様相を呈してくる。

便利屋が負うことになった死体遺棄の一部始終は息詰まる内容であり、更に自分に捜査の手が及ぶまでにその後事件の発覚を恐れて殺人者を見つけ出して殺害することを決意するなど、物語のトーンはどんどん暗くなっていく。
しかし便利屋による犯人捜査の顛末は私立探偵による人捜しの面白さを彷彿させる。

さらにその後の展開も読者をさらに迷宮に誘う。

誘拐する側とされる側の側面で描きながら、いつしか殺人の罪を着せられ、やがて殺人事件の捜査へと転じるツイストの効いた作品。
そう、本書は誘拐あり、殺人あり、人捜しありの実に贅沢なミステリなのだ。

しかしこの頃歌野氏は本書の前に『ガラス張りの誘拐』という同じく誘拐を扱った作品を書いている。誘拐ミステリはなかなか数多く書かれるものではないのでこれは非常に珍しいと思える。
そしてそちらも本書同様意表を突く展開でなかなか事件の様相が掴めなかった。しかしその反面アイデアに走り過ぎて作品としてのバランスに欠けるような印象も拭えなかった。

しかし好評を以って迎えられた乱歩の文体を模した『死体を買う男』を経た本作は『ガラス張りの誘拐』で覚えた消化不良感を払拭する出来栄えでとにかく謎から謎の展開でクイクイ読まされてしまった。
ただやはり結末の付け方は慌ただしく、読書の余韻としては物足りなさを感じた。アイデアはいいものの、物語としては不十分。つまりこの頃の作品には『葉桜~』に至る以後の歌野晶午作品の萌芽が見られる貴重な作品群といえるだろう。

信濃譲二というシリーズ探偵物でデビューした歌野晶午氏の本質はそういった典型的な本格ミステリよりもこのように二転三転して読者の思いもかけなかった事件の様相が明らかになる、サスペンス風本格ミステリの方にあるように思えてならない。現代の歌野ミステリのルーツは『ガラス張りの誘拐』や『死体を買う男』と本書へと連なっていると思われるのでまずは『長い家の殺人』以降の3作品よりもこちらを読むことをお勧めしたい。
まあ、私が信濃譲二をあまり好きではないことも一因としてあるのだが。


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さらわれたい女 (角川文庫)
歌野晶午さらわれたい女 についてのレビュー
No.1214:
(7pt)

チャーリーの持つ真の“かがやき”とは

キング長編6作目はまたもや超能力者の話だ。その題名が示すように念力放火の能力を備えた少女チャーリー・マッギーが主人公である。
彼女は生まれながらの能力者であるのだが、今まで登場してきた『シャイニング』のダニー、『デッド・ゾーン』のジョンと異なるのは両親が共に超能力者であり、しかもその両親も秘密組織≪店≫によって特赦な薬物を投与されて能力が開花した人たちであることだ。

そして人工的に作られた超能力者であるアンディとヴィッキー。前者の持つ力は“押す”力、即ち相手を自己催眠に掛けて思い通りに操ることが出来る能力で後者は物を離れた場所から動かすことの出来る念動力である。
この2人が結ばれて念力放火の能力を持つチャーリーを生んだときのエピソードがまた壮絶だ。

生まれながらの超能力者だったチャーリーはお乳を欲しがって泣くと発火し、お気に入りのぬいぐるみが燃え始める、おしめが濡れて泣くと衣類が燃え上がる、また不機嫌になって泣くと赤ん坊自身の髪が燃える。家の各所にはいつ何時何かが燃えてもいいように消火器と煙感知器が備えられている。通常の子育てでもストレスで大変なのに、それ以上に命の危険と隣り合わせの子育てが彼らは強いられていた。
このような生活に密着したエピソードが単なる超能力者の物語という絵空事を読者にリアルを感じさせる。

組織によって作り出された超能力者が組織の魔の手から逃げ出し、逃亡の日々を続ける。そして追いつめられた時に超能力者はその能力を発動して抵抗する。しかし組織は新たな刺客をまたもや送り込む。
ふと考えるとこれは日本のヒーロー物やアメコミヒーローに通ずる題材だ。
つまりキングは既に昔から世に流布している子供の読み物であった題材をもとにそこに逃亡者の苦難と生活感を投入することで大人の小説として昇華しているのだ。これは従来のキング作品が吸血鬼や幽霊屋敷と云った実にありふれた題材を現代のサブカルチャーや読者のすぐそばにいそうな人物を配して事象を事細かに書くことによって新たなホラー小説を紡ぎ出した手法と全く同じである。つまりこれがキングの小説作法ということになるだろう。

物語は≪店≫にチャーリーの念力放火の能力が発覚してさらわれるのをどうにか防ぎ、追手からの逃亡生活を1年経た時点から始まる。
このチャーリーの誘拐劇の顛末は衝撃的だ。
妻が拷問の末、殺害された死体を見つけて既に連れ去られたチャーリーを血眼になって探す様子、その後も銀行の口座を閉鎖され、自分の“押す”力で1ドル紙幣を多額の紙幣に思わせてタクシーに乗ったりモーテルに泊まったりするなどしてどうにか逃亡生活を続けている辺りは開巻するや否やクライマックスが訪れているほどの迫真性を湛えている。

一方チャーリーは幼い頃から発動した能力を父親と母親から“いけないこと”だと云い聞かされ、念力放火をするのを嫌がっているが、一旦発動してしまうとそれがこの上もなく楽しいことだと感じ始めている。

そんなアンディとチャーリーのマッギー親子の前に立ち塞がるのは≪店≫が差し向けたインディアンの大男ジョン・レインバード。生きた妖怪、魔神、人食い鬼と評され、上司のキャップさえも恐れるこの大男はベトナム戦争で地雷によって抉られた一つ目の顔を持つ異形の殺し屋だ。彼はどこか超然とした雰囲気を備えており、チャーリーに異様な関心を示す。そして凄腕の評判通り、彼は見事にマッギー親子を手中に収めることに成功する。

しかしその後の彼は圧倒的な支配力を発揮するわけではない。雑役夫としてチャーリーが監禁されている部屋の掃除を毎日行って彼女の閉ざされた心を開かせようとする。それはまるで一流の心理学者が行うアプローチのようで、チャーリーの信頼を得るために同調と共感を時間を掛けて構築して徐々に彼女の頑なな精神の壁を開かせようとする。
作中ではそれは金庫破りで例えられている。一流の錠前・金庫破りの名人からレクチャーを受け、師を超えるほどの技量を持つようになったレインバードは師が彼に与えた言葉、「金庫は女に似ている。道具と時間さえあれば絶対に開けられない金庫はない」を忠実に守り、実に粘り強くチャーリーという金庫に鑿をこじ入れていく。それもあくまで慎重に。

そして彼は≪店≫が望むようにチャーリーに念力放火の実験に協力させた後、事態が収拾付かなくなる前に親しい友人、雑役夫のジョンとしていつものように接し、彼女を和ませた瞬間に鼻柱に拳を食らわせ、脳髄まで骨片を叩き込んで死に至らすことを至上の目的として任務に就いている生粋の歪んだサディストだ。
このレインバードのような、心細い時に親身になってくれたと見せかけて実はいつでも命を落としてやろうと虎視眈々と狙っている相手が一番恐ろしい。

しかし一方でこのレインバードのような殺し屋が実は≪店≫にとっても一縷の望みであるのだ。それは実験するごとに増してくるチャーリーの念力放火の能力である。どのような耐火施設を建て、また零下15℃まで冷やすことの出来る工業用の大型空調施設を備えてもチャーリーの能力が発動すればたちまちそこは灼熱の地となり、全てを燃やし、もしくは蒸発させ、気化させ、雲散霧消させてしまうのだから。チャーリーの発する温度は既に3万度にも達しており、ほとんど一つの太陽と変わらなくなってきており、このまま能力が発達すれば地球をも溶かしてしまう危険な存在だからだ。
日増しに能力が肥大していく彼女を抹殺することは実は世界にとって正しい選択肢であるとさえ云えるだろう。

しかしこのマッギー親子が望まずに超能力者になった者であるがために、チャーリーやアンディが危険な存在だと解っていてもどうしても肩を持ってしまう。常に監視され、実験道具にされたこの不幸な親子に普通の生活を与えてやりたいと思うのだ。

物語のクライマックスは宿敵レインバードとマッギー親子の対決に端を発し、そこから自らの能力を存分に発動したチャーリーの≪店≫の施設の破壊劇となる。

キングの作品が特徴的なのは通常の物語ならこれらの破壊劇で幕を閉じるところなのに、その後があることだ。

しかし終始どこかしら哀しい物語であった。
上にも書いたように通常ならば人の心を操るアンディと無限の火力を発し、核爆発までをも容易に起こすことの出来る少女チャーリーはまさに人類にとって脅威である。しかしそんな脅威の存在を敢えて社会に遇されないマイノリティとして描くことで同情を禁じ得ない報われないキャラクターとして描いているのだ。
特に今回は望まずにマッド・サイエンティストが開発した脳内分泌エキスを人工的に複製した怪しい薬品にて開花した超能力ゆえに安楽の日々を送ることを許されなかった家族の物語として描いていることに本書の特徴があると云えるだろう。

アンディの生計は自らの能力を生かした減量講座教室の講師である。減量できずに悩む生徒を少し“押す”ことで食欲を減退させ、ダイエットに成功させることを商売にしている。何とも超能力者にしては慎ましい生活ではないか。

思えばデビュー作の『キャリー』以来、『呪われた町』とリチャード・バックマン名義の作品を除いてキングは終始超能力者を物語に登場させていた。
キャリーは凄まじい念動力を持ちながらもスクールカーストの最下層に位置するいじめられっ子だった。
『シャイニング』のダニーは自らの“かがやき”を悟られないように生きてきた。
ジョン・スミスは読心術ゆえに気味悪がれ、厭われた。
キングは超能力者の“特別”を負の方向で“特別”にし、語っているのだ。一方でそれらの特殊能力を“かがやき”と称し、礼賛をもしている。

このどこか歪んだ構造がキングの描く物語に膨らみをもたらしているのかもしれない。
しかしチャーリーに関しては念力放火よりも彼女が最後に大人たちを魅了するとびきりの笑顔こそが“かがやき”だとしたい。これからのチャーリーの将来に幸あらんことを願って、本書の感想の結びとしよう。


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ファイアスターター (上) (新潮文庫)
No.1213:
(7pt)

シンプルな邦題が読後、色んな意味を伴って心に響く

ウェクスフォード警部シリーズ10作目は謎めいた一人の年輩の独身女性を巡る物語だ。

田舎の片隅の小道で何者かに刺された50歳の女性。その顔にはどこか嘲笑うかのような微笑が遺されていた。調べていくうちに彼女が誰にも自分の住所を明かさなかったことが解ってくる。
50歳の独身女性、しかも処女のまま死んだ女性の人生を巡るのが本書の物語だ。

本書でも語られているように変死体で見つかった彼女はもはやただの無名の存在ではなくなる。彼女を殺害した人物を探るために過去を一つ一つほじくり返され、人間関係がその為人が暴かれ、好むと好まざるとに関わらず、1人の人間の伝記が出来上がっていく。
しかしこの被害者の女性ローダ・コンフリーは調べども調べども住所さえも明らかになっていかない。彼の父親や叔母にでさえ自分の住所を教えなかった女性。

やがて捜査線上に一人の男性が浮かび上がる。作家のグレンヴィル・ウェスト。最初は年増女が勘違いして熱を挙げただけの存在かと思われたが、たまたま手に取った彼の著作の献辞にローダの名前を発見して、その関係性に太い繋がりが見えてくる。
ウェクスフォードの捜査の手は彼の方に伸びていくが、フランス旅行中というのは大きな嘘でイギリス国内に留まり、行方を転々としているのだ。ウェクスフォードは今度はグレンヴィル・ウェストという謎めいた男に囚われてしまう。

しかしそれはある一つの言葉でこれら1人の女性と1人の男性の謎めいた人生が氷解する。

このように一人の女性の死が人生という名の迷宮に誘う。
私や貴方が普通に言葉を交わすご近所相手、もしくは会社で一緒に働く相手は彼ら彼女らの多数ある生活の側面の一面に過ぎない。いつも見せる顔の裏側には数奇な人生の道程が隠されているのだ。

また本書ではこの50代の独身女性の謎めいた死を巡る謎と並行してもう1つの物語が語られる。
それはウェクスフォードの長女シルヴィアの夫婦不仲の問題だ。本書が発表された70年代後半は折しもイギリスではウーマン・リブ旋風が吹き荒れていたらしく、シルヴィアもその風に当てられて、家庭に籠って一生を終える人生に異を唱え、女性の自由を高らかに叫び、家庭に閉じ込めようとする夫に反発する。

そしてこのサブテーマが本書の核を成す事件と密接に結びつくのがこのシリーズの、いやレンデルの構成の妙だ。
容姿端麗のシルヴィアは歩けば周りの男が振り返り、口笛を吹かれるが、そこには敬意の欠片も感じられないことに苛立ちを覚えており、子供と夫の世話で明け暮れる自分の人生を悲観し、住み込みの女中を雇って社会進出したいと願うが、結局自分には夫が必要であると気付き、彼女は諦めて夫の許に戻る。

今や自立する女性が当たり前になり、結婚適齢期が20代の前半から後半、そして30歳でも独身で社会の一線で活躍する女性が普通である昨今を鑑みると、現代の風潮が生まれる黎明期の時代に本書が書かれたことが判る。
男が働き、女が家を守る。
当たり前とされていた価値観が変革しつつある時代においてレンデルは昔ながらの夫婦であるウェクスフォード夫妻と現代的な考えに拘泥する彼の長女夫婦の軋轢を通じて時代を活写する。
未だに解決しないこの男女雇用、機会均等の問題を上手くミステリに絡めるレンデルの手腕に感嘆せざるを得ない。

しかし『乙女の悲劇』とはよく名付けたものだ。この一見何の衒いもないシンプルな題名こそ本書の本質を突いているといっていいだろう。

なお原題は“A Sleeping Life”。作中で引用されているボーモントとフレッチャーの戯曲の一節にある“眠れる生”を指す。

50歳の無器量な女性の変死体から濃厚な人生の皮肉を描いてみせ、更には女性の社会進出という普遍的なテーマを見事に1人の女性の悲劇へと結び付けたレンデルの筆の冴えを今回も堪能した。
今更ながらやはりレンデルの作品も順を追って読み直してみたい衝動に駆られた。既に物故作家となり、数多ある未訳作品の刊行も尻すぼみになりつつある現状を考えると、このまま忘れ去られるには非常に惜しい作家だ。
亡くなった2年前に刊行された『街への鍵』の高評価は決して餞のランキングではないはずだ。
絶版作品共々、再評価され再び書店の棚に彼女の作品が、別名義のバーバラ・ヴァイン作品も併せて並ぶことを願ってやまない。


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乙女の悲劇 (角川文庫 赤 541-4)
ルース・レンデル乙女の悲劇 についてのレビュー
No.1212: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

誰もが一歩間違えれば黒い心に囚われる

ハリー・ボッシュシリーズ3作目はボッシュのキャラクターを形成するエピソードとして描かれていた、彼がロス市警のエースから下水と呼ばれるハリウッド署に転落することになったドールメイカー事件。本書ではなんとこのボッシュの過去の瑕とも云うべき事件がテーマである。
彼が解決したと思われた事件の犯人は別にいた?
それを裏付けるかの如く、かつての手口と同じ形で新たな死体が見つかる。更にボッシュは彼が射殺した犯人の家族から冤罪であったと起訴されている身である。

最初からどこをどう考えてもボッシュにとっては不利な状況で幕が開く。

特に被害者の一人が殺害された時間に容疑者が友人のパーティーに出席していたビデオを証拠として出された場面ではボッシュの誤認逮捕への嫌疑は最高潮に達するのだが、その疑問を実に鮮やかに本書はクリアする。

ただそこからが本書の面白いところで、当時記者にも隠していたドールメイカーの犯行の特徴を模倣犯がほぼ忠実に擬えていたことから捜査に関わっていた人物、すなわち警察関係者に容疑者が絞られることになる。
警察仲間の中に快楽殺人鬼がいる。
この油断ならぬ状況はさらに事件に緊迫度をもたらす。

またボッシュはこの裁判を通して過去に母親を亡くした忌まわしい過去を白日の下に曝され、直面せざるを得なくなる。

それまでの作品にも断片的に描かれていた母親。彼に実在する画家と同じ名前を付けた元娼婦だった女だ。
彼女マージョリー・フィリップス・ロウはレイプされた絞殺死体として発見された。そしてボッシュは施設に入れられた。その過去から娼婦やポルノ女優を襲ったドールメイカーに個人的な恨みを抱くようになり、ノーマン・チャーチという無実の男を怒りに任せて射殺したのではと原告側の弁護士ハニー・チャンドラーに詰問され、ハリーは動揺する。それまで一度も考えたこともなかった心理だが、彼自身も潜在的にもしかしたらそうだったのではないかと思うようになる。

濃密な人間関係が物語が進むにつれて形成されていたことが判り、更に物語世界が深化する。この世界に没頭できる感覚とサプライズは何ものにも代え難い至福だ。勿論やり過ぎると鼻白む気はあるが。

また前作『ブラック・アイス』で知り合ったシルヴィア・ムーアとの関係がまだ続いていることが本書では書かれている。しかもほぼ同棲状態で共に食事をし、寝泊まりして愛を交わすほどの仲になっている。かつて警官の妻であったシルヴィアは警察官相手の距離感を心得ており、ボッシュにとって帰るべき家といった存在にまでなっている。

ただ以前の夫の過去を敢えて問わないことで結婚生活に失敗したシルヴィアは愛するボッシュを話したくないがために彼の昏い過去をも知ることを欲する。しかし過去を捨てようとして生きてきたボッシュはその過去を思い出すことを拒む。

本書では2人の性格を的確に捉えている印象的な文章がある。
シルヴィアは物事の中に美を見出すが、ボッシュは闇を見出す。天使と悪魔の関係だ。
教師という職業に就き、人の清濁を理解した上で美点を見出し、そこを延ばそうとする女性に対し、常に人を疑って隠された悪を見出して数々の犯人を検挙してきた男。どちらもそれぞれの職業に、生き方に必要な才能を持ちながら水と油のように溶け込まないでいる。唯一共通するのはお互いが求めあっていることだ。

しかし法廷劇の濃密さはどうだろう!
百戦錬磨の強者弁護士ハニー・チャンドラーの強かさは男性社会の中で勝ち抜くことを自分に課した逞しい女性像を具現化したような存在だ。裁判に勝つために自らの容姿、敵の中に情報源を隠し持つ、更には被告側の隠したい過去をも躊躇なく暴く、容赦ない女性だ。

後にコナリーは弁護士ミッキー・ハラーを主人公にしたシリーズを書くが、早くも3作目でこのような法廷ミステリを書いているとは思わなかった。
1作目が典型的な一匹狼の刑事のハードボイルド小説ならば2作目はアメリカとメキシコに跨った麻薬組織との攻防と思わぬサプライズを仕掛けた冒険小説、そして3作目が法廷ミステリとコナリーの作風のヴァラエティの豊かさとそしてどれもがストーリーに深みがあるのを考えると並外れた才能を持った新人だと思わざるを得ない。

さて本書の原題は“The Concrete Blonde”、即ちボッシュの誤認逮捕を想起させるコンクリート詰めにされて発見されたブロンド女性の死体を指している。
一方で邦題の『ブラック・ハート』はヒットした2作目の『ブラック・アイス』にあやかって付けたという安直な物ではない。いや多少はその気は出版社にもあったかもしれないが、本書に登場する司法心理学者が書いた本のタイトル『ブラック・ハート―殺人のエロティックな鋳型を砕く』に由来する。
即ちブラック・ハートこと“黒い心”とは誰もが抱いている性的倒錯であり、それが砕けるか砕けないかという非常に薄い壁によって犯罪者と健常者は分かたれているだけで、誰もが一歩間違えば“黒い心”に取り込まれて性犯罪を起こしうると述べられている。

恐らく原題も最初はこの『ブラック・ハート』としていたのではないだろうか?
というのも第1作『ナイトホークス』の原題が“Black Echo”で2作目が邦題と同じ“Black Ice”。それらはいずれも作中で実に印象的に扱われている言葉でもある。その流れから考えるとコナリー自身もボッシュシリーズの題名は“Black ~”で統一しようと思っていたのだが、それまでの題名に比べて“Black Heart”はいかにもありきたりでインパクトがなさすぎるため、エージェントもしくは出版社が本書でセンセーショナルに描かれるコンクリート詰めのブロンド女性の死体を表す「コンクリート・ブロンド」にするよう勧めたのではないだろうか。

しかし本書の題名はそのどちらでも相応しいと思う。邦題の『ブラック・ハート』は本書の焦点となるドールメイカーの追随者を正体を探る作品であることを考えると、その犯人の異常な、しかし誰もが持つ危うい心の鋳型を指すこの単語が実に象徴的だろう。

一方で『コンクリート・ブロンド』ならば、新たに現れたドールメイカーの追随者による犠牲者たちを衝撃的に表した単語であることから、それもまた事件そのものの陰惨さを指す言葉として十分だろう。
しかもコナリーはこの言葉にもう1つの意味を込めている。

今回のボッシュの宿敵となって立ち塞がる原告側の弁護士ハニー・チャンドラー。コナリーが敬愛する作家のラストネームを冠したこの女性こそが「コンクリート・ブロンド」だったのではないか。
彼女は裁判所にある正義の女神テミスの像を指して、これこそが“正義”である、被告人の話を聞かず、姿も見ない、気持ちも解らないし、話しかけもしないコンクリート・ブロンドとボッシュに話す。自分で信じた正義のためにはどのような手を使ってでも戦い、勝利を勝ち取ると誓った、コンクリートのように強く揺るがない意志を持ったブロンドの戦士。
卑しき犯罪者を糾弾する自分だけは自分の正義を守ろうとしたのが彼女だとしたら、だからこそコナリーは彼女にその名を与えたのではないだろうか。

一方でボッシュはこのチャンドラーに公判中、怪物を宿した刑事だと糾弾される。そして自身もまた自分の中にその怪物がいるのかと自問し出す。自分もまた“黒い心”の持ち主であり、チャーチを撃ち殺した自分は彼らとなんら変わらないのではないかと。
つまり原題がボッシュの宿敵を指すのであれば邦題はボッシュ自身をも指示しているとも云えるだろう。

ハリー・ボッシュがロス市警の花形刑事から下水と呼ばれるハリウッド署へ転落させられたドールメイカー事件。彼の刑事人生で汚点ともなる疑惑の事件が今回見事に晴らされた。1作目からのボッシュの業は1つの輪となって一旦閉じられることになるとみていいだろう。

次作からは再び己自身の過去に向かい合う作品となるだろう。
そして最後に彼の許に戻ってきたシルヴィアとの関係も決して十分だと云えない。お互い愛し合っているからこそ、続けるのが困難な愛もある。危険に身を投じるボッシュは彼のせいでシルヴィアもまた危険に巻き込むかもしれないと恐れ、一方でその姿勢を高貴なものと尊敬しながらも、以前警察官だった夫を喪ったシルヴィアは再び同じような失意に見舞われるのを恐れている。

最後にボッシュが呟いたように、少しでも関係が続くよう、もはや願うしか手がないのだろう。最後の台詞に“Wish”という言葉が入っていることに私はボッシュのもう1人の女性のことを思い出さずにはいられなかった(この最後の台詞はまさに珠玉!)。

つくづくこのシリーズは数珠繋ぎだと思わされる。次作『ラスト・コヨーテ』は本書の裁判でも取り上げられたボッシュの母親に纏わる話なのだという。このように作者コナリーは実に周到にボッシュという一人の刑事の人生を魅力あるエピソードで語り出していく。

さらに本書で登場したホームレスの弁護士トマス・ファラディも記憶しておかねばならない人物の1人かもしれない。彼が凋落したエピソードは語られたものの、一連のボッシュサーガに再び登場するやもしれないからだ。

巻を重ねるごとに深みを増すハリー・ボッシュシリーズ。
もう読むことを止めることは私にとって実にこの上ない苦痛に感じることを正直に告白してこの感想を終えよう。


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ブラック・ハート〈上〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーブラック・ハート についてのレビュー
No.1211: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

映画産業にはよくあることらしい

ヘンリー・メリヴェール卿ことHM卿シリーズ第10作目で『読者よ欺かるるなかれ』の後に書かれた、まだディクスンが脂の乗り切った時期に書かれた作品である。しかしこの作品は長らく邦訳されず、創元推理文庫、ハヤカワミステリ文庫のラインナップからいずれも漏れていた作品であり、初邦訳となったのがなんと1999年でしかも新樹社から刊行された。本書はそれを底本にして全面改稿された文庫化作品である。

田舎娘が初めて書いた小説がいきなり大ヒットとなり、それを契機にロンドンに出てきて映画会社で脚本の仕事にありつくというシンデレラストーリー的設定に、当時のイギリス映画業界の内幕を絡めたストーリー展開にすぐさま引き込まれてしまった。

脚本家の卵として田舎町からロンドンに来たモニカはカートライトの人柄に魅かれながらもなかなか素直になれず、年不相応の髭について不平不満を並べ、遠ざけようとする。一方カートライトはそんな田舎娘に次第に魅かれていく。
その間に立つのはハリウッドから招聘された名脚本家のティリー・パーソンズ。この50代初めのヴェテラン女性脚本家が2人の恋路を取り持っているのか邪魔しているのか解らない奔放さが実にいいアクセントになっている。

しかし彼女もまたモニカ殺人未遂の最重要容疑者とみなされる。彼女の筆跡がモニカに送られた脅迫状その他と酷似していたからだ。しかしティリーもまた毒入り煙草によって昏倒し、病院に運ばれることになる。

このモニカとカートライトを中心にした映画業界の人々を巻き込んだ殺人騒動で物語は進行し、シリーズの主人公であるHM卿が登場するのは150ページ過ぎと物語も半ばを過ぎたあたり。
しかしそれでもHM卿は事件解決に乗り出さず、戦時下という状況故か、映画会社が失った海軍の主要戦力となる軍艦が撮影された8000フィートものフィルムの行方を気に揉む次第。情報部々長という立場故、戦時下で軍の機密情報が敵国に知れ渡ることの方がHM卿にとって非常に重要なのだ。

残ること約50ページになってようやくHM卿は現場に乗り出し、快刀乱麻を断つが如く名推理を発揮して瞬く間に一連の騒動の犯人を名指しする。

カーター・ディクスンは事件関係者の勘違い、もしくは想定外の出来事で殺人計画が捻じ曲げられ、それがために不可解な状況が起こるという、ジャズ演奏で云うところの即興、インプロビゼーションの妙をミステリに非常に巧みに溶け込ませるのを得意としているが、本書においてもそれが実に巧く効いている。

本書で唯一不可能状況下での犯罪は封も開けていない、モニカが駅で買った煙草にどうやって毒入り煙草を忍ばせたかという物だが、案外無理があるトリックだとは感じる。

題名が差すように一人の男が殺人を犯すまでに至った一連の騒動こそがこの物語だが、本書が書かれたのが1940年。4年後にクリスティーが犯行に至るまでを描いた『ゼロ時間へ』を著しているが、私は彼女が同作を著すときに本書のことが頭にあったのではないかと考えている。
つまり本書はディクスン版『ゼロ時間へ』なのだと。そう考えるといかにもディクスンらしい味付けが成されているなぁと感心してしまう。

そしてだいたい作者が映画業界を舞台にした作品を書くときは作者自身がその業界に関わったことがあるからだからだが、やはりディクスン自身もその例に洩れず、解説の霞氏によれば本書が発表される2年前の1938年にイギリス映画界で脚本家として携わったらしい。その時の経験は散々だったようで、そのことが作品にも色濃く表れている。特に最後の台詞
「映画産業にはよくあることだ」
はその時の思いがじっくりと込められているように思える。

また余談だが前年の1937年に映像をふんだんに物語に取り込んだ『緑のカプセルの謎』が刊行されているのもまたこの時の経験が関係していると考えると非常に興味深い。

私はその後のHM卿シリーズも読んでいるわけだが、なにせ時系列的に読んでいないため、各作品での繋がりに対する記憶がほとんどない。本書に登場するHM卿の部下ケン・ブレークとスコットランド・ヤードの首席警部ハンフリー・マスターズ以外の登場人物は私の中では消失してしまっている。
その原因はカーター・ディクスンならびにディクスン・カー作品の訳出のされ方にもある。例えば近年新訳で刊行されたHM卿の作品は以下の通りだ。

2012年『黒死荘の殺人』;第1作目
2014年『殺人者と恐喝者』:第12作目
2015年『ユダの窓』:第7作目
2016年『貴婦人として死す』:第14作目
2017年本書:第10作目

このように順番はバラバラである。この辺が改善されると今後の読者も系統だってシリーズを読めるので助かるとは思うのだが。
しかしこうやって見ると上には書いていないが、ジョン・ディクスン・カー名義の作品も合わせると毎年コンスタントに新訳が出されていて、ファンとしては非常にありがたい状況ではある。ただ贅沢を云えば上に述べたようにシリーズが前後しない刊行のされ方をしてもらいたい。

また新訳となって実に読みやすく、しかも平易な文章で解りやすいのだが、一方で昔の訳本に載っていた注釈が全くないのが気になった。原作に挿入されていた原註はあるが、訳者による注釈は皆無である。
登場人物たちが引用する固有名詞は、例えばラリー・オハロランの絞首刑などと唐突に挟まれる比喩はその内容自体が解らないため、そのまま読み流すような形になったのが惜しい。恐らくは注釈を入れることで読書のスピードを削がれるのを懸念したためにそれらを排除したのかもしれないが、新たな知識や蘊蓄を得るのもまた読書の醍醐味であると思っているので、これらについてはきちんと注釈を入れてほしかった。勘繰れば逆に訳者がそれらの手間を省いたとも取られかねない。

いやもしくはWEBが発達した現代では注釈などは必要なく、興味があれば読者の方で検索サイトで気軽に情報を得ることが出来るから、注釈は不要とみなしたのかもしれない。

時代の流れともいうべきか。単純に昔の訳書を読みなれた者にとっての贅沢とすべきか。なかなか難しい判断である。

しかしやはり長らく文庫化されなかったカーター・ディクスン/ジョン・ディクスン・カー作品がこのように刊行され読めることは実に嬉しいことだ。まだまだ絶版の憂き目に遭って読めないでいるカー作品をこれからもコンスタントに刊行してくれることを東京創元社には大いに期待しよう。


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かくして殺人へ (創元推理文庫)
カーター・ディクスンかくして殺人へ についてのレビュー
No.1210:
(8pt)

教科書では学ばない西洋史の面白さが堪能できる

2003年から16年に掛けて講談社が企画した少年少女たちのための小説シリーズ<ミステリーランド>。
本書は田中芳樹氏がその企画のために書き下ろした1作であるが、まさに少年少女が胸躍らせる一級の娯楽冒険小説となっている。

カナダから単身フランスに渡ってきた少女コリンヌ。彼女は祖父と逢うが、祖父は自分の許を去ってカナダへ移住し、伯爵位を捨てて先住民と結婚した息子を許せず、コリンヌを孫娘と認めようとしない。代わりに出した条件はライン川の東岸にあるという『双角獣の塔』に幽閉している人物が処刑されたと云われているナポレオン皇帝か否かを確かめて50日以内に戻って来たら孫娘と認め、5000万フランの遺産も与えようという物。
タイトルの「ラインの虜囚」とはつまりこの双角獣の塔に幽閉された人物を指しており、決して某SNSに依存している人々を指しているわけではない。

そんな彼女に作家のアレクサンドル・デュマ、元海賊のジャン・ラフェット、そして身元不詳の剣士モントラシェが同行する。

デュマが同行し、更に一人の少女に彼を含めた3人のお供。そのうち2人は剣と銃の達人とくれば、これは『三銃士』以外何ものでもない。本書ではデュマはまだ駆け出しの作家だが、本書には明確に書かれていないものの、彼が経験したコリンヌとの冒険をもとに『三銃士』を著した、というのが裏設定ではないだろうか。

更に18世紀に流布していた『鉄仮面』伝説にコリンヌ達の時代にドイツで話題となっていた「カスパール・ハウザー事件」など後のデュマの作品のモチーフや当時の謎めいた逸話も盛り込まれ、まさに学校では教えてくれない世界史の、面白いエピソードに溢れている。

とにかくどんどん物語は進んでいく。この流れるような冒険の展開はヴェルヌの一連の冒険小説を彷彿とさせる。
田中氏特有の19世紀当時のフランスを筆頭にしたヨーロッパ各国の情勢、はたまた海を渡ったアメリカとカナダの状況などがほどなく平易な文章で織り込まれており、物語を読みながらそれらの知識が得られる贅沢な作りになっている。
特徴的なのは通常このような蘊蓄を盛り込む際、田中氏は自身の見解を皮肉交じりに挿入するのだが、本書では読者対象が少年少女であるためか、そのような文章は鳴りを潜め、むしろ教科書に載っていない歴史の面白さを教える教師のような語り口であるのが実に気持ちいい。

さらにパリに戻ってからコリンヌが知る真相は意外な物だ。いささか少年少女には解りにくい真相ではあるが、ちょっと聡明な子供であれば逆に大人たちの権謀詐術なども理解できる、いわばちょっとした大人入門的な役割を本書は果たしていると云えよう。

加えてやはり特筆すべきは魅力ある登場人物たちが全て実在の人物であることだろう。

作家のアレクサンドル・デュマはもはや上述している通り、説明するまでもない著名な作家だが、ジャン・ラフィットは海賊でありながらフランスの二月革命、ウィーンのメッテルニヒ宰相の追放、ポーランドの独立運動に尽力し、さらにパトロンとしてマルクスの『共産党宣言』の刊行にも助力した人物である。

またモントラシェことエティエンヌ・ジェラール准将は後にコナン・ドイルが著す勇将ジェラールその人であり、剣の達人として鳴らした人物である。
このジェラールはドイルによる創作上の人物らしい。すっかり実在の人物だと思っていた。

逆にこの中で私は主人公のコリンヌこそが唯一創作上の人物だと思ったが彼女もまた後にカナダでペンを武器にしてアメリカの奴隷解放に努めた実在の人物だった。

そんな偉人たちの偉業もまた簡略的ではあるが知識として得られる最高の冒険歴史活劇物となっている。

大人の視点から読むとコリンヌを取り巻くラフィット、モントラシェの2人の無双ぶり、またミスマッチと思われた作家デュマもその巨体を生かしたアクションであれよあれよと敵と互角に立ち向かうことで少しも主人公たちが窮地に陥らないところに物足りなさを感じるものの、本書が収められた叢書<ミステリーランド>のコンセプトである、「かつて子どもだったあなたと少年少女のために」に実に相応しい読み物であった。子供の頃に嬉々として冒険の世界に浸った読書の愉悦に浸ることが出来た。
こんな物語が書けるならば田中芳樹氏も安泰だ。未完結のシリーズ作品の今後が非常に愉しみになる、実に爽快な読み物だった。


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ラインの虜囚 (ミステリーランド)
田中芳樹ラインの虜囚 についてのレビュー
No.1209:
(8pt)

“デッド・ゾーン”の本当の意味は?

哀しき超能力者の物語。

キングの、リチャード・バックマン名義の物を除いた長編第5作目の本書は事故により予知能力が覚醒した青年の物語だ。
1979年に発表された後、デイヴィッド・クローネンバーグによって1983年に映画化され、その映画の評価も高いという作品。そして今でもキングの名作の1つとして挙げられている。

そして本書は『シャイニング』を皮切りに特別な能力を持つ特定の人を扱った、つまりシャイン―かがやき―と称される能力を持つ者たちの系譜に連なる作品でもあるのだ。

まずシャイン、もしくは“かがやき”という特殊能力を持つ登場人物は『シャイニング』のダニー・トランス少年、『ザ・スタンド』でもマザー・アバゲイルがそれぞれ予知能力を持つ人物として登場した。前者はまだごく一部の人間にしか認知されていない一介の少年で、後者のマザー・アバゲイルは実質的な主人公ではなく、救世主的な役割を果たす人物であった。

この三者の能力も巷間に流布している超能力の種類で云えばサイコメトリーであり、彼らはサイコメトラーとなるだろう。
しかしダニー少年が生来この能力を備えているのに対し―マザー・アバゲイルもそうだったのかは記憶が定かではないため、割愛する―、ジョン・スミスの場合は脳の一部を損傷するほどの交通事故に遭い、約5年に亘る昏睡状態から目覚めてから能力が発動する。

さて今回ジョン・スミスが他の2人と大いに異なる点はその能力ゆえに人から畏怖され、時には、いや往々にして関わりを持ちたくないと嫌悪の対象になることだ。

まず『シャイニング』のダニー少年はその能力を隠して生活をしていた。さらに物語も冬の山奥のホテルのみが舞台であり、それも一冬の出来事であった。また『ザ・スタンド』の舞台は新種のインフルエンザによって死に絶えた世界であり、マザー・アバゲイルがその不思議な力で救世主のように崇められていた。
翻ってジョン・スミスは1975年のアメリカで超能力に目覚めた人物。人々は自分の秘密を暴かれることを恐れ、ジョンの存在を恐れるようになる。

ところで本書の題名ともなっているデッド・ゾーンとはいったい何なのだろうか?
交通事故に遭ったジョン・スミスの脳には不完全な部分があり、イメージが喚起できない、もしくは名称が浮かばない場面や物が発生する。それら欠落した部分をデッド・ゾーンと呼んでいることに由来する。本書の言葉を借りれば発語能力と象徴機能双方に障害を発生させている部分ということになる。しかしこの不完全な部分を補う形でジョンにサイコメトリーの能力が発動するのだ。

しかしこの能力は最終的には幼少の頃のスケート場で遇った事故にて既にその萌芽があったことが明かされる。そしてその時の衝撃に後に肥大する腫瘍が備わり、そしてそれこそがジョンの隠された能力を拡充していったこととジョンは理解するようになる。

そんな特殊能力に目覚めた青年の物語をしかしキングは相変わらず丹念に描く。例えば通常主人公が事故に遭って4年5ヶ月後に目覚めるとなると、事故のシーンから主人公が目覚めるシーンまで物語は飛ぶものだが、なんとキングはその歳月を丹念に描いてそれまでのジョンに関係していた人々の生活を描く。

まず恋人のセーラは弁護士の卵と結婚して、その夫も司法試験に合格して弁護士となっている。一番痛々しいのはジョンの両親ハーブとヴェラのスミス夫妻だ。もともと信仰に傾倒していた母はジョンが昏睡状態に陥ったその日からいつか目覚めると信じてますます信仰にのめり込む。キリストのみならず円盤に乗って宇宙に行って選ばれし民を連れてくるために戻ってきたという怪しい夫妻が運営するコミュニティにものめり込み、狂信ぶりに拍車がかかる。

さらにその後もジョン・スミスが各所で能力を発揮して事故や大惨事を未然に防いだり、連続殺人鬼の逮捕に協力したりとエピソードを重ねていく。

触れられるだけで自分の内面を丸裸にされるような思いがさせられ、周囲はジョンがサイコメトリーを発揮した後ではよそよそしい態度を取るようになる。また新聞記者はジョンの能力に興味深々であるものの、触れないでくれとはっきりと告げる。

更に連続殺人事件の犯人逮捕の援助を頼んだ保安官はジョンが発見した真相に嫌悪感を示し、その真実を認めようとせずに罵倒する。

卒業パーティーの会場が落雷によって大火事に見舞われることを予見し、パーティーの取り止めを促すが、人々はせっかくの晴れの席を台無しにされたと怒り、彼を非難する。息子の家庭教師にジョンを雇った実業家は理解を示そうと代わりに自宅をパーティーの会場にして、賛同する者のみを招待する。そして実際に火事が起こるや否や、人々はジョンの能力に感謝するどころか畏怖し、あまつさえ実はジョンが超能力で着火したのではないかとまで云う―ここで「小説の『キャリー』みたいに」と自作を宣伝するのが面白い―。

そしてようやく物語の終着点となるジョン・スミスの宿敵グレグ・スティルソンを目の当たりにするのが下巻の170ページ辺りだ。しかしそれまでのエピソードの積み重ねが決して無駄になっておらず、このクライマックスに向けてのオードブルであるところにキングの物語力の強さを感じるのだ―特に避雷針のエピソードは秀逸!―。

人に触れることでその人に関する未来や過去をヴィジョンとして捉える能力はしかし本書でも述べられているように、現実世界では人間はことが事実になるまでは本当に信じる気になれないのが世の常であり、人々はことが起きた後でその正しさを心に刻み込む。従って未来を正確に予見できるジョンは常に異端者であり、場合によっては忌み嫌われる存在になるということだ。
『ザ・スタンド』の舞台となった人類のほとんどが死に絶え、明日が見えない世界においてはこの能力を持つ者は導き手として崇められるが、では現実世界ではどうかというと逆に恐怖の存在となる。

苦悩する、理解されない救世主の姿が本書では描かれているところに大きな特徴があると云えるだろう。

ただ唯一の救いは作者が決してジョン・スミスをただの狂えるテロリストとして片付けなかったことだ。

さてキングに登場する人物、特に母親に関してはどうもある一つのパターンを感じる。
本書ではジョンの特殊能力を救済のために使うのだと告げ、死後もなお呪縛のようにジョンを苛んだ母親ヴェラはそれまでのキング作品に見られる、狂信的な母親像として描かれている。上にも書いたようにこの女性はジョンが昏睡状態に陥ってからは狂気とも云える神や超常現象にのめり込んでいく。

どうもキングが描く母親にはこのような神や信仰に病的にすがる母親がよく登場し、一つの恐怖のファクターになっているようだ。

また一方で男性には癇癪もちや暴力的衝動を抱えた人物も出てくるのが特徴で今回はグレグ・スティルソンがそれに当たる。彼の略歴が下巻の中盤で語られるが、高校を卒業して早くから独り立ちし、雨乞い師という異色な職業を皮切りに塗装業、聖書のセールスマン、保険会社外交員から政治家へと転身した彼は暴力と恐怖で敵を制圧し、ヒトラーを思わせるほどの雄弁な話術とパフォーマンスで人気を獲得していく。一皮剥けば野獣―本書では笑う虎と称されている―といった圧倒的な権力や支配力を備えた敵の存在はキング作品におけるモチーフであるようだ。

ところで本書ではちょっとした他作品とのリンクが見られる。ジョン・スミスがサイコメトリーを発揮したニュースを観て脳卒中を起こした母親が担ぎ込まれた病院のある場所がジェルーサレムズ・ロットの北に位置する町にあるのだ。即ち吸血鬼譚である『呪われた町』の舞台である。この辺りはキング読者なら思わずニヤリとしたくなるファンサービスだ。

さて2016年アメリカは第45代大統領にドナルド・トランプ氏を選出し、そして2017年就任した。この実業家上がりの大統領が本書で後にアメリカ大統領となり、全面核戦争の道へアメリカを導くと恐れられたグレグ・スティルマンと重なって仕方がなかった。
現実問題としてトランプ大統領は北朝鮮に対して核戦争も辞さぬ挑戦的な態度を取り続けている。本書はもしかしたら今だからこそ読まれるべき作品かもしれない。
彼らが選んだ大統領はスティルマンのように一種狂宴めいた騒ぎの中で選んだ過ちではなかったのか。1979年に書かれた本書は現代のまだ見ぬ過ちを予見した書になる可能性を秘めている。
実は本書のタイトル“デッド・ゾーン(死の領域)”はスティルマン選出後のアメリカをも示唆しているのであれば、まさにそれは今こそ訪れるのかもしれないと背筋に寒気を覚えるのである。


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デッド・ゾーン〈下〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キングデッド・ゾーン についてのレビュー
No.1208: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

戦いの音楽よ、高らかに響け!

どんでん返しの王と云えば現代の海外ミステリ作家ならばジェフリー・ディーヴァーだが、日本では最近中山七里氏の名が挙がるようになった。実際「どんでん返しの帝王」という異名もついているらしい。
本書はそんな彼がデビューするに至った第8回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作である。

まさに新人離れした筆致とストーリー展開であれよあれよという間に物語に引き込まれる。
主人公は不動産会社の社長を祖父に持ち、ピアノの特待生として高校の音楽科に入学した香月遥。このように書くと遥はいいとこのお嬢様のように思えるが、彼女の一人称叙述で展開されるその内容からはどこにでもいる普通の女子高生のようにしか映らない。
突然の火事で全身大火傷を負うが、医者の必死の大手術の末、ほぼ全身に亘って皮膚移植を施されるが、火事の影響で気管を焼かれ、しゃがれ声しか出せなくなる。懸命のリハビリと岬洋介という名ピアニストという師を得て、不可能と思われたピアノの演奏をたった二週間で弾けるようになるという驚異的な回復を見せる。しかしそれが全く絵空事のように思えず、この岬というピアニストの指導の許であれば可能であると納得させられるような説得力のある説明と描写。

またそれ以外にも登場人物を取り巻く色々なエピソードに纏わる情報や知識がしっかりとしており、単なるモチーフになっていない。スマトラ島沖地震の詳細、高校進学に必要な経費の公立高校と私立高校との差、火傷に関する情報にその治療に関する細かい内容、相続税対策を考慮した遺産相続の方法など我々の実生活に直接関係のある事柄がつぶさに書かれており、一つとしておざなりに書き流されていない。

また描写と云えば本書に織り込まれたクラシックの曲調に対する描写が実に絵的で美しく、頭の中で音が奏でられるように錯覚する。
私はクラシックには疎いのだが、それでも聞いたことのある題名から知らない曲名までもがなぜかその描写によって曲が自動再生させられていく。音の躍動感、またきらびやかさが粒のように空気に舞い、弾け、そして溶け合い、人々の耳に余韻として残る。それら一つ一つの音符やメロディに感じるのは中世・近代の名のある音楽家たちが譜面に込めた情熱や美、そして常に新しい技を生み出そうとする研鑽の姿だ。
そしてそれらを譜面を通じて理解し、どうにか再現しようと、そしてそのメッセージと喜びを観客と共に分かち合おうとする演奏者の思いが神々しいほどに美しい描写に込められている。常に頭の中で音楽が奏でられ、思わず眼前にリサイタルが成されているかの如く錯覚に陥ってしまった。
後でその題名でググって実際の曲を聴いてみると全く違っているのが常だが、中には合っているものもあったりして、この作家の表現力の豊かさを頭ではなく心で感じる思いがしたものだ。

そんな物語である本書はミステリというよりもなんとも清々しい青春小説、いやビルドゥングス・ロマンなのだろうという思いで読んだ。

やはりなんといっても主人公香月遥が全身大火傷という重傷を負ってから学校代表としてピアノコンクールに出場するまでの岬洋介との血のにじむようなレッスンの様子が非常に読ませる。特に常に包帯を巻き、松葉杖を突いて学校生活を営む彼女に対して周囲がそれぞれの立場で好奇心、功名心、そして妬みや嫉みを彼女にぶつけてくる様が生々しく、単なる不具者の美談となっていないところがいい。
学校の校長は障碍者としての彼女がピアノコンクールに出場するまでになったことを自分の高校のいい宣伝材料として彼女を客寄せパンダとして利用しようとして隠さないし、金持ちの家のお嬢さんでその上に同情心を買おうと勝手に思い込んでいるクラスの同級生の悪意ある言葉など障害者が取り巻く世間の厳しさをまざまざと見せつける。
そんな現実があるからこそ彼女の強さが引き立つわけだが、むしろ障碍者の人々への社会の理解が十分になされてなく、登場人物の岬の言葉を借りれば、世界はまだ悪意に満ちているのだ。

そう、これは戦いの物語なのだ。
突然業火に包まれ、全身大火傷という重傷を負い、皮膚移植をされた上に他人に成りすますことを強いられた一人の女子高生が、ピアノを通じて松葉杖を突き、5分以上の演奏ができない不具の身体でコンクールを勝ち抜く。社会の障害者に対する偏見と好奇の目に晒されながらも敢えてその逆境に挑み、岬洋介という素晴らしいピアニストを師に迎えて音楽という雄大に広がる宇宙を具現化させることに執着し、そしてその世界観を一人でも多くの聴者に届けようと苦心する一人の女子高生の戦いだ。

そしてまた彼女の師、岬洋介もまた戦う男だった。
法曹界にその名を轟かせた凄腕の検事正を父に持ち、また自身も司法試験でトップ合格するほどの頭脳と適性を持ちながらピアノの夢を捨てられずに片耳が不自由とハンデを持ちながらも再び音楽家の道を歩み、新進気鋭のピアニストとなった男。ハンデを持つがゆえに世間の残酷さを知っているからこそ、障碍者の遥にも甘い言葉を掛けず、社会の厳しさを教え、その覚悟を常に問う。お坊ちゃん風の穏やかな風貌をしながらも心の中に太くて強い芯を持つ男だ。
彼は音楽を究めんとしようとする者を後押しし、援助を拒まない。

本書はこの2人の音楽の求道者がそれぞれ抱えた肉体的ハンデと戦い、そして世間と戦う物語なのだ。
そして最後の一行として掲げられる本書の題名は再出発するための手向けの言葉なのだ。

音楽用語で模された各章題を並べてみよう。

~嵐のように凶暴に~
~静かに声をひそめて~
~悲嘆に暮れて苦しげに~
~生き生きと高らかに響かせて~
~熱情を込めて祈るように~

これらはまさに主人公香月遥が本書で辿った生き様を見事に表しているが、と同時に突然障害者となった人々がその後の人生で辿る生き方をも示しているように思える。

障害者となる事故や事件はまさに嵐のように凶暴に自身に降りかかってくるだろうし、その後静かに息をひそめて今後のことを考えつつ、悲嘆に暮れて苦しみながら己の身に降りかかった不幸を嘆き悲しむことだろう。
しかしそれが逆に新たな人生を生きるチャンスを、健常であった頃よりももっと一日一日を大切に生きることを教えてくれたと思えば生き生きと高らかに生きていることの喜びを響かせ、そして“今この一瞬”を熱情を込めて祈るように大切に生きていくことだろう。

本書が殺人を扱いながらも実に清々しいのはこの章題に込められた作者の障害者への思いゆえだ。
これほどまでに犯人に対して憎しみどころか潔さや気持ちの良さを感じたミステリはない。
本書の本当のどんでん返しはこの気持ちよさにあると思う。
全くなんというデビュー作なのだ、本書は。


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さよならドビュッシー (宝島社文庫)
中山七里さよならドビュッシー についてのレビュー
No.1207:
(8pt)

“黒い氷”には気を付けろ!

一匹狼の刑事ハリー・ボッシュシリーズ2作目の本書のテーマはずばり麻薬である。メキシコで安価に生産される新種のドラッグ、ブラック・アイスを巡って殺害された麻薬課刑事の絡んだ事件にボッシュは挑む。

ただそこに至るまでの道のりは複雑だ。まず今回3つの事件にボッシュは関わる。

1つはクリスマスの夜に発見されたモーテルでの自殺に見せかけた死体。これがハリウッド署の麻薬課刑事カル・ムーアの死体だった。自殺かと思われたがどうも殺された後に偽装されたことが判る。但しアーヴィング副警視正によってボッシュは捜査を外される。

2つ目はダイナーの裏で見つかった身元不明死体の事件。これは上司のパウンズから任された休職中の同僚ポーターが抱えていた事件だが、その死体発見者がなんとムーアだったことが判る。

3つ目はもともとボッシュが別に抱えていた事件、ハワイの麻薬運び屋ジェイムズ・カッパラニことジミー・キャップスが数週間前に殺害された事件だ。
これはメキシコから出回っているブラック・アイスという新しいドラッグが台頭してきたため、キャップスがその運び屋ダンスをムーアのところに垂れ込んだが、ダンスは証拠不十分で不起訴で釈放された後、何者かによって絞殺されていた。ボッシュはこの事件の捜査でムーアに情報を頼んでいたのだった。

3つの事件に絡むのはカル・ムーアであり、そしてその行先はメキシコのメヒカリという町に辿り着く。身元不明死体の胃の中から発見された蠅の死骸が放射線照射によって生殖抑制された蠅であり、それを育てているエンヴァイロブリード社の養虫場がメヒカリにあったからだ。

さらにブラック・アイスの生産者である麻薬王ウンベルト・ソリージョの秘密製造所はメヒカリにあり、またキャップス殺しの容疑者マーヴィン・ダンスは既にメキシコに逃亡し、恐らくメヒカリにいると思われたからだ。ボッシュはメキシコの麻薬取締局の協力を得てメキシコでの捜査を行う。

メキシコが麻薬に汚染され、警察や司法までもが麻薬マネーによって牛耳られていることは先に読んだウィンズロウの『犬の力』、『ザ・カルテル』で既に知識として織り込み済みなため、ボッシュが彼の地の捜査で苦心惨憺するのは想像がついた。ボッシュに協力しようとするのはメキシコの麻薬取締局(DEA)の捜査官リネイ・コルヴォ、つまりウィンズロウ作品の主役であるアート・ケラーと同じ局の人間で彼もメキシコ司法警察は当てにするなとボッシュに忠告する。
実際今回の事件の被害者の一人であった身元不明死体についてロサンジェルスの領事館に照会している警官カルロス・アギラの上司グスタポ・グレナはどっぷり麻薬王ウンベルト・ソリージョの恩恵を被っているようでボッシュを軽くあしらおうとする。一方アギラは骨のある警官でしかも目ざとく上司が一蹴した被害者がエンヴァイロブリード社で働いていた事実を突き止める。

しかしそれがどうした?というのがメキシコである。
自分に都合の悪い事が起ころうが、見つかろうが買収した高官によって揉み消すよう頼むだけなのだ。そんな四面楚歌状態の中でボッシュはアギラという数少ない協力者と共に捜査を進めていく。

さてこのカルロス・アギラという司法警察捜査官も魅力的である。
麻薬マネーの恩恵を受けてどっぷりと黒く染まっている上司グレナとは異なり、中国系メキシコ人という出自から周囲にはチャーリー・チャンと揶揄されているがしっかりとした観察力とメキシコ人の風習を熟知した捜査に長けている。アメリカ人の常識で捜査をするボッシュには思いも付かない視点でサポートし、そしてそのアギラの指摘が事件の解決への糸口に繋がる。特に最後の驚愕の真相はアギラがいなければそのまま気づかずに真犯人が描いた絵のままで事件は解決していただろう。
1作目も含め、LAという土地柄のせいか、ボッシュとメキシコとの関係は案外に深く、ドールメイカー事件の失態で被った謹慎処分の期間と先般のエレノア・ウィッシュと組んだ事件で受けた傷が完治するまでメキシコで静養していたことから、今後もボッシュとアギラは領国に跨った事件で再び手を組むのかもしれない。

ボッシュという男は自分の人生にどんな形であれ関わった人間の死に対してどこかしら重い責任を負い、犠牲者を弔うかの如く、加害者の捜査に没頭する傾向がある。
前作『ナイトホークス』ではかつての戦友のウィリアム・メドーズを殺害した犯人を執拗に追い立て、今回はたまたま自分の担当する事件の情報を得るために接触した麻薬取締班の警部が自殺に見せかけて殺害されたことで彼は仇を討たんとばかりに捜査にのめり込む。

それは多分彼がヴェトナム戦争を経験しているからだろう。昨日まで一緒に飯を食い、冗談を云い合っていた連中がその日には一瞬のうちに死体となって葬られる。一時たりとも肩を並べた相手が翌日も同じように肩を並べるとは限らない、そんな生と死が紙一重の世界を経験したからこそ、袖振り合うも多生の縁とばかりに彼は自分の身内が死んだかのように捜査にのめり込む。それが彼の流儀とばかりに。

また今回ボッシュは自分の出生について長く触れている。有名な画家と同じ名前を付けた母親を過去に殺された事件があるのはデビュー作で触れられていたが、今度は父親のことについて触れられている。

またムーアの葬儀を行う会社はマカヴォイ・ブラザーズという。これも後に出てくるジャック・マカヴォイと何か関係があるのだろうか?
シリーズをリアルタイムで読んでいたら多分このようなことには気付かなかっただろうから、シリーズが出た後で読んだ私は後のシリーズのミッシング・リンクに気付くという幸運に見舞われているとも云える。まだまだこのようなサプライズがあるだろうことは実に愉しみだ。

本書の題名となっているブラック・アイスは今回の事件のキーとなるメキシコから流入している新種の麻薬の名でもあるが、もう1つ意味がある。
それは冬、雨が降った後に出来るアスファルトの路面凍結する氷のことだ。黒いアスファルトの上に張っているが、しかし見えない氷。ムーアの別れた妻シルヴィアが育ったサンフランシスコで父親が彼女に車の運転を教えていた時の言葉、“黒い氷(ブラック・アイス)には気を付けるんだぞ。上に乗っかるまで危険に気づかないんだが、そうなったらもう手遅れだ。スリップしてハンドルが効かなくなる”からも由来する。
実はこれこそがこの作品の本質を云い当てている。亡くなったムーアをはじめ、その他犠牲になった人々も気づかないうちに黒い氷の上に乗ってしまい、人生のコントロールを失ってしまった人々なのだ。そしてまたボッシュもその1人になろうとしている。しかしどうにか彼は寸でのところで踏み留まっている。
しかし彼が常にいつ刑事を辞めさせられてもおかしくない薄氷の上にいることは間違いない。己の信条と正しいと思ったことを貫くために、彼こそは黒い氷と紙一重なのだ。

前回ではウィッシュとつながりを見出したボッシュは今回もムーアの元妻シルヴィアとつながりを見出し、彼女の魅力に惹かれている自分に驚く。

ウィッシュに惹かれながらも彼女を人生のパートナーとして引き受けたときの責任の重さに身震いしたのに対し、シルヴィアに対しては自分と同類であり、一緒にいたいと願う。
今後2人の関係がどのように続いていくのか解らないが、その行く末はアクセントとしても実に興味深い。
しかし一方で前回公私に亘って相棒となったエレノア・ウィッシュからは刑務所から便りが来て連絡を取り合っているようで、今後ウィッシュが再度ボッシュと何らかの関係を持つのは時間の問題のようで、そのときこの3者の間でどのような化学反応が起きるのか、興味は尽きない。

警察の面子、それぞれの立場よりも自分が納得するために動くボッシュ。敵を作りやすいタイプだが反対に自分には出来ないことを貫くその姿勢に賛同する者も少数派だがいる。今回もあわや警察殺しの容疑者になり、さらには麻薬王の放った殺し屋に射殺されそうにもなる。失職の危機に見舞われながらも数少ない、しかし有能な協力者の力を得て、どうにかハリウッド署に踏み止まったボッシュ。

個人の正義と組織の正義の戦いの中で彼が今後も自分の正義をどこまで貫いていけるのか。
ボッシュが背負った業が重いゆえにこのシリーズが極上の物語になっているのがなんとも皮肉なのだが、それを期待してしまう私を初め、読者諸氏はなんともサディスティックな人たちの集まりだろうと今回改めて深く思った次第である。


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ブラック・アイス (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーブラック・アイス についてのレビュー