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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 201~220 11/71ページ

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No.1218: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

ボッシュの過去の因縁への終止符

前作『ブラック・ハート』ではボッシュがハリウッド署に島流しされることになった事件、ドールメイカー事件の真相を探る物語であったが、シリーズ4作目である本書ではさらに彼の歴史を遡り、迷宮入りとなった娼婦だった母親マージョリー・ロウ殺害事件を休職中のボッシュが再捜査する物語となっている。

そして本書は様々な暗喩に満ちた作品でもある。

例えばボッシュが休職中に相棒のジェリー・エドガーが解決した事件は銃による殺人事件かと思って捜査すれば、単にエアバッグ修理中に起きた死亡事故に過ぎなかったことが判るのだが、事故当時にもう1人の人間がいた痕跡があったことから調べてみると7年前に起きた2人の女性が殺害された事件の犯人の指紋と一致し、犯人逮捕に至るエピソードが出てくる。
実はこの何気ないエピソードが物語の最終、真犯人を突き止める最後の決め手になる指紋への暗喩となっている。

さらに本書のタイトルにもなっている1匹のコヨーテの存在。ボッシュは事件関係者で母親と親友だった当時メリディス・ローマンと名乗り、今はキャサリン・リージスタとなっている女性と逢った帰り道に1匹のコヨーテと遭遇する。その痩せ細り、毛がばさばさになった風貌に今の自分を重ねる。
地震前、ボッシュの自宅の下の崖には1匹のコヨーテがいたが、震災後それはいなくなった。そしてボッシュもまた今は刑事休職中の身でシルヴィアにも去られ、酒を手放せず、目の下の隈がなかなか取れないほど疲れ果てた表情をしている。そんなくたびれた自分は昔気質の古い刑事であり、出くわしたコヨーテももしかしたらLAの住宅地を徘徊している最後のコヨーテではないか、つまりいついなくなってもおかしくない存在だと思うのである。

孤独で育った少年は大人になりコヨーテになった。しかも最後のコヨーテに。本書の原題にはそんな寓意が込められている。

またボッシュの捜査自体も実に危うい。今回休職中の身であるから拳銃もなければ警察バッジもない。しかも上司パウンズの反感を大いに買っていることから警察が支給する車も取り上げられる。
刑事から初めて一己の市民となったボッシュはバッジと拳銃がいかに自分を守る鎧となっていたかを知らされる。

しかし彼はそんな不利な状況でも持ち前の強引さでことを進めていく。
パウンズの名を騙って警察のデータベースに記録を照合したり、勝手にロス市警に入り込んで指紋照合を頼んだり、母親の事件の捜査資料を持ち出したり、更にはパウンズの警察バッジを盗んだり、更には容疑者と目される、今では街の有力者となっている大手法律事務所経営者のゴードン・ミテルのパーティーに潜り込んで―この時もパウンズの名を借用する!―、揺さぶりを掛けたりと、そのアウトローな捜査ぶりは確かにコヨーテを彷彿させる。

しかしこのアウトローな行動が意外な展開を及ぼす。この展開にはかなり驚いた。そして同時にハリーの疫病神ぶりがこの展開によっていっそう際立つ。
いやはやコナリーの構成の上手さには唸るしかない。

また本書では次々に登場するキャラクターが実に魅力に溢れている。

シリーズを重ねるにつれてレギュラーキャラクターの存在感が増すのは当たり前だが、ちょっとした端役にも瑞々しい存在感を感じさせるほどコナリーの筆致は熟練されている。

まずボッシュが母親殺しの調査のために最初に訪れる母親の親友だったキャサリンの造形が強烈な印象を与える。娼婦という暗い過去を持ち、名前も変えて今の生活を手に入れたこの女性はしかし、警察連中にも容赦と引き替えに自分の身体を売り物にしてきた自分の過去に対して恥じず、人生最悪の時期であった娼婦としてのプライドも今も持ち、泰然自若としてボッシュに向き合い、そして語る。彼女の気高さこそが今の生活を手に入れる原動力になっていたことが実に深く心に沁み込んでいくのである。

また当時事件を担当した元ハリウッド署殺人課刑事のマッキトリックも忘れ難い。残された資料の内容の薄さからボッシュは彼を愚鈍な警官かチンピラどもに小銭をたかる腐敗警官かと思っていたが、実際は事件を道半ばで取り上げられた優秀な警官だったこと、そして彼自身マージョリー・ロウ殺害事件が迷宮入りしたことに悩まされている男だと気付かされる。休職中のボッシュが身分を偽り、近づくが簡単にその偽装を見破り、逆に返り討ちにしようとする老練ぶり。
またボッシュが当時の被害者の子供だと知ると一転して協力的になり、一緒に魚釣りへ乗り出す―このシーンは個人的にはかなり気に入っている―。彼がボッシュに事件の顛末を話すのは彼の悔恨をボッシュに託したかったからなのだろう。

そして何よりも本書において特筆なのはボッシュの母マージョリー・ロウの造形だ。ボッシュが母親殺しの捜査を進めていくうちにこの母親のボッシュに対する深い愛がひしひしと滲みだしてくる。
娼婦という仕事で女手一つで息子を育てようとしていたが母親不適格として子供を養護施設に入れられ、毎週通っては慈しんでいた母親。いつか親子2人で暮らせるよう、ボッシュの父親である弁護士に手助けを頼んでいたが、その願いが叶う前に路上で遺体となって発見されてしまう。
一介の娼婦の殺人事件はいつそんな目に遭ってもおかしくない数多ある最下層の人間に起こる事件として片付けられ、十分な捜査が成されないまま、今日に至る。

しかしそんな風に片付けられた事件の背後には今では街の各界の有力者たちとなった人々のある暗い過去と母親への繋がりがあったことが次第に見えてくるのだ。

それと同時にボッシュは今まで直視しなかった母親について事件を調べることで思い出を手繰り寄せ、母の大いなる愛を知らされ、また悟る。

「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」

これがボッシュの信条だ。
しかし彼は母親に対してはその信条に従わなかった。
しかし彼は母親殺害事件の捜査資料を当たるうちに当時の警察が彼女の価値をおざなりにしていたことを知る。それはまた自分もまた同類であったと悟り、信条に従い、母親の死の真相に向き合うことを決意したのだった。

そして捜査が進むにつれて法曹界の大物へと事件は繋がっていく。

また今回物語の重要なファクターの1つとしてボッシュのカウンセリングを担当している精神科医カーメン・イノーホスの存在がある。ストレスによる強制休職中であるボッシュは精神科医のカウンセリングを受け、復帰が可能であることを証明してもらわなければならないのだが、その相手がカーメンである。
しかし彼女こそが本書におけるボッシュの行動を後押しする存在となっているのが興味深い。

現在のボッシュを形成する原初体験をその不遇な過去に見出し、彼の過去を語らせることでボッシュは殺害された母親に向き合い、そして未解決であるその事件の調査を始めることを思いつく。定期的に行われるカウンセリングはボッシュに内面と対峙させ、またそのことで彼もまたそこからヒントと自分の存在意義をも悟っていく。

さらに彼女は物語の最終でボッシュに事件の真相を突き止める、女性ならではの視点を提供することにもなるキーパーソンとして機能する。

そしてこのカーメンとの面談は今まで断片的に語られてきたボッシュの生い立ちを1本の線として繋いで読者に示すことにもなる。

娼婦であった母親と暮らしていたボッシュは彼女が行政によって不適格とみなされて養護施設に入れられ、離れ離れになる。いつか一緒に暮らすことを夢見ていた母親はボッシュの父親であった弁護士に助けを借りてことを進めていくがその願いが叶う前に殺害されてしまう。
ボッシュはその後も養子に出されるが、引き取った家族から何度か養護施設に戻され、そして16歳になって、ボッシュがサウスポーでいい球を投げるという理由で大リーグ選手を育てたいと願う男の許に引き取られるが、その願いには従わず、ボッシュは陸軍へ入隊しベトナム戦争へ出兵する。
帰還後警察官となり、ロス市警で優秀な成績を修めて、メディアにもたびたび登場するヒーロー刑事となるが、ドールメイカー事件の責任を取らされて停職処分を受けた後、現在のハリウッド署勤務となる。

そんな生い立ちで孤独を幾度となく経験しながらもボッシュには常に女性が近寄ってくる。

1作目ではFBI捜査官で相棒を務めたエレノア・ウィッシュが、2作目は死亡した麻薬捜査官の元妻シルヴィア・ムーアと同棲していたが、彼女が去った後、本作ではマッキトリックの許を訪れた出先のフロリダで亡き父の家を売りに出して面倒を見ている画家志望の女性ジャスミン・コリアンと食事と一夜を共にするようになる。
確かにデビュー作においてテレビにも出演していたスター刑事で見た目も悪くないと書かれていたが、なんというモテぶりだろうか。

ボッシュが彼女に魅かれたのは彼女の中に自分と同種の暗闇を見出したからだが、また同時に彼女もまたボッシュが他の警官とは違う人間臭さを感じ、そこに魅かれていく。父親の遺産で暮らし、画家を目指す彼女は実は過去に人を殺したことのある女性だったことが判明する。実に謎めいた女性だ。

ところで書評家の池上冬樹氏が指摘しているように作者コナリーは過去の名作を取り込み、自分というフィルターを通じて物語へと消化している。

例えばチャンドラーを敬愛するコナリーだが、先にも書いたボッシュの信条、
「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」
を読んでニヤリとしたのは私だけではあるまい。これはまさにマーロウのあの有名な台詞へのオマージュであろう。

またボッシュが母親の当時の親友に話を聞きに行った帰りに立ち寄ったバーで出くわす、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を口ずさむ25歳くらいの女性のエピソードもチャンドラーが『長いお別れ』で書いたバーでマーロウが浸る女性に関するエピソードを想起させる。

更に本書の核を成す娼婦の母親殺しは作家ジェイムズ・エルロイの半生がモデルとなっているのは明確で―池上氏はこの作家の心酔者であり、その特異な過去、つまり情念の作家としてのエルロイの特異性を借り物のように取り込んでいるコナリーの創作姿勢が気に入らないようだが―、作中でも娼婦だったエルロイの母親が殺害された実際の事件『ブラック・ダリア事件』にも触れている。

そして私が思うに、最たるオマージュは本書は実は『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』の裏返しの物語であったということだ。

身分違いの男と女が出逢い、男はその屈託ない女の魅力に惹かれ、結婚まで誓う。それは実に素敵なシンデレラ・ストーリーだったが、それがお伽話に過ぎなく、現実の世界は利害関係によってそんなものは抹殺される。それが現実なのだ。
本書は実に現実的な『マイ・フェア・レディ』だったのだ。

そしてもう1つ物語がある。事件の真相に纏わる2人の女のエピソードだ。

しかし人の死の多い事件だった。
葬り去られたマージョリー・ロウ殺害事件の真相を探っていくうちに現れる容疑者たち、関係者たちが次々と死んでいく。

誰もが過去に隠した罪に苛まれて生き、いつそれが暴かれるかを恐れながら生きてきた。
ハリーが現れることでその時が来たと悟り、ある者は観念して、またある者は必死にそれに抗おうとして、またある者は更なる秘密を暴かれるのを防ぐために死出の旅に発つ。

過去に縛られ、過去を葬り去り、忘れさせようとした人たち。しかし同じく過去に縛られながらもその過去に向き合い、克服しようとした1匹のコヨーテに彼らは敗れたのだ。

ハリーの母親の事件を解決したことでハリー・ボッシュの物語はここで第一部完といったところか。
デビュー作の時点で盛り込まれていたハリーに纏わる数々の謎は本書で一旦全て解決を見た。さらに彼はかつてスター刑事としてテレビ出演していた時に得た収入で購入した家も地震によって失った。

カウンセラーのカーメン・イノーホスはボッシュに母親の事件を解くために彼が警察官になったのだと示唆する。つまり母親の事件を解決した今、彼は警察官であることの意味が無くなったのだ。だからこそ最後ボッシュが警察を辞めることを決意したのだ。
実際、当時作者はここでハリーを永遠に退場させようと思ったのかもしれない。

ただ彼に新しく現れたジャスミン・コリアンという新たな謎がまた生まれた。彼女が過去に犯した殺人については結局詳しく語られないままだった。
アーノウ・コンクリンはボッシュに自分に合う人がいたら、過去はどうあれ命懸けでしがみつけと説く。

ボッシュはジャスミンこそが今の自分に合う者であり、命がけでしがみつく存在であると確信した。
ただ自分と同類と感じていたシルヴィア・ムーアとも結局は別れてしまったボッシュ。自分と同じ暗闇を持つと目を見て確信したジャスミンもまた行きずりの女となるのだろう。

母親の愛の深さを知り、また過去に葬り去られた母親殺害の事件を解決したことで母親の無念を晴らしたボッシュ。しかし彼の捜査によって犠牲となった者達の死は一生背負うことになる十字架になるだろう。
しかしジャスミン・コリアンという新たなパートナーを得たボッシュの再登場を期待して待ちたい。今までとは違ったボッシュと逢える気がしてならないからだ。それはきっといい再会になるだろうとなぜか私は確信している。しばらく私はボッシュに、いやコナリー作品にしがみついていくことにしよう。


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ラスト・コヨーテ〈上〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーラスト・コヨーテ についてのレビュー
No.1217:
(3pt)

キングにとっての何に対しての“最後の抵抗”なのか?

どうにも煮え切らない小説である。いわゆるダメ男小説、人生の落伍者のお話である。

主人公ドーズは高速道路の延伸工事のため、自分の自宅と自身の勤めるクリーニング工場の立ち退きを迫られるが、頑なにそれを拒む。移転のための費用も出るし、また工場もいい条件を提示する不動産会社もあるのに、ドーズはそれに一切関与しようとしない。
彼は高速道路の延伸自体を認めたくないのだ。そして移転することは政府の勝手な申し出に屈することになる、そうドーズは考えている。

しかし彼の行動は正直褒められたものではない。妻には移転先の物件を探しているふりをして、いつも嘘を云って誤魔化し、会社の上司にも不動産会社が紹介する物件に多数の不備があり、購入後は多額の修繕費が掛かると、調べてもいないのに嘘八百を並べ、終いには期限が過ぎればもっと価格を下げて提示してくるとまで云いのける。

更に勝手に保険を解約して3,000ドルの保険金を受け取り、妻に内緒で銃を買い込み、爆薬まで闇ルートで手に入れようとする。そして会社を辞めるのも唐突で妻に何の相談もしない。
確たる根拠もないのに全てが自分の思い通りに事が運ぶと信じる。いや現実から目を背け続けている弱い男なのだ。

しかし長らく勤めていたクリーニング工場の責任者という地位と職業も失い、更には妻にも逃げられながらも、一体何がこのバート・ドーズをそうさせるのか?

土地に固執する人々の大きな特徴として帰属意識の強さが挙げられる。先祖代々の土地を人様に渡すことを極端に嫌う、昔からその土地で生きている人たちにその特徴は顕著だ。
ドーズは先祖代々住み着いた土地ではないが、彼にとってウェストフィールドは思い出の地なのだ。時折挟まれる妻メアリーとの思い出が非常に眩しいのもそのためだ。

まだ食うのもやっとな若い2人が内職してテレビを購入するエピソード、一人目の子の死産を乗り越えて、ようやくできた2人目の息子チャーリーとの思い出とその死。
そんな困難もありながら、ささやかだけど幸せな時間を妻と共に過ごしてきた思い出の家を法律を盾に奪おうとする行為が許せなかったのだろう。ドーズは思い出に生きる男なのだ。

そして恐らくドーズは一方で安定を壊したかったのではないか。
自宅のみならず自分の勤める工場の移転も強いられ、意のそぐわぬことをしてまでの安定に何の意味があるのかと常に自問自答していたのではないか。常人であれば普通に選択すべきことを敢えてしなかったのはそんな鬱屈した日常を破壊したかったのではないだろうか。
つまり伸びてくる高速道路は彼の鬱屈した心の象徴でそれを壊すこと、もしくは誰もが従った土地買収に抗うことが彼にとって一皮剝けた新たな自分を生み出すことだと信じていたのではないだろうか?

だから工場閉鎖を機に他の仕事を宛がわれた元同僚の安定した職について変なアドバイスをする。
映画館の館長となった元同僚が自分で上映したい作品を選ぶことすらせず、ただ食料品の注文と管理のみで映画館を経営していると述べ、優越感に浸るさまを見て、一生飼い殺しになるくらいなら今のうちに辞めた方がいいと助言し、殴られる。
このことからも解るように彼バート・ドーズは単に上司の云う通りに仕事をするのを嫌い、自分の考えと意見を主張して、自分の色を出したがる男である。それは正しいが逆に彼の場合は自分の考えに固執しすぎてそれに同調できない人を癇癪のあまり、こき下ろして罵倒する感情のバランスが崩れやすい人物でもあるのだ。
彼にとって高速道路の延伸工事に屈することはもう「どうにもたまらなかった」ことなのだ。

彼バートン・ジョージ・ドーズにはもはや世界など意味がなかった。

独りよがりな理屈と自分勝手な行動と自分のことを棚に上げて人を怒鳴り、または訳の分からない説教をしようとする男バート・ジョージ・ドーズ。どうやっても共感を得られる人物像ではない。狂える、そして女々しい男だ。
キングは本書を「もっとも愛着のある作品」と称しているらしいが、私にはやはり単なる狂人が迷い彷徨い、そして崩壊するだけの話としか読めなかった。
本書の時代はベトナム戦争が終わった後の1973年だ。アメリカという国中にどこか鬱屈した空気が流れていた時代だろう。だからこそ戦争に負けた政府に従わない男をキングは書こうとしたのかもしれない。
本書を著すことがベトナム戦争に負けたアメリカに対するキングのささやかな「最後の抵抗」だったのではないだろうか。


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最後の抵抗 (扶桑社ミステリー)
スティーヴン・キング最後の抵抗 についてのレビュー
No.1216: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)
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マイ・アンフェア・レディ。その名は香具山紫子

Vシリーズ第6弾は豪華客船の上で起こる密室での人間消失と絵画盗難を扱った、これまた本格ど真ん中の作品である。
前作『魔剣天翔』ではアクロバットショーの飛行機のコクピットという、恐らく世界最小の密室での殺人事件だったが、前回の舞台が空なら今度は海。なかなかヴァラエティに富んだ舞台設定である。

そんな非日常の舞台で起きる事件は次の通りだ。

たった3部屋しかない宿泊エリアの一番端の部屋から銃声が響いて何かが鉄に当たる様な音がして海に男が落ちる。現場にはピストルが落ちているが、その部屋から出入りしたのは隣室の男のみ。しかもその男は事件の後に部屋に入ったと証言しており。その宿泊エリアから出た人はいないことはフロントで確認済みである。更に真ん中の部屋の宿泊客が持っていたスーツケースには絵画が入っていたが、鍵が掛かっていたにも関わらず忽然と消えてしまう。

つまり密室状態の船室から落ちた男の謎と消えた絵画の謎がごく狭いエリアで繰り広げられる。しかもそのエリアにいたのはまず男が落下した部屋S3室には被害者の建築家の羽村怜人とその恋人の大笛梨絵のみ。隣のS2号室には保呂草が絵画を盗もうと狙っている鈴鹿幸郎と息子の明寛とさらにその息子の保と秘書の村松直美の4人。そして残りの一番大きなS1号室には鈴鹿幸郎の取引相手でフランスの富豪のクロウド・ボナパルト氏とボディガード3人に保呂草に盗みを依頼した各務亜樹良の計5人という非常に狭い範囲での事件である。
こんな限定された状態でかつ謎としても比較的なシンプルな状況でどんな真相が待ち構えているのか興味が高まった。

なんせ前作『魔剣天翔』ではたった2人しかいない曲芸飛行機のコクピットの中での密室殺人で意外な真相を展開した森氏である。今回もどんな真相が現れるのか、期待したくなるのも当然ではないか。

さて今回は今まで道化役でしかなかった香具山紫子にスポットが当てられる。背の高い女性であまり風貌については取り立てた記述はなかった紫子はコメディエンヌとしてとにかく三枚目を演じることが多く、読んでいる当方も同情が禁じ得なくなるほど不遇なキャラクターであったが、今回は、保呂草の本職である泥棒稼業の手伝いとはいえ、とうとうヒロインの役を仰せつかる。口は達者だが、本番に弱いメンタリティの弱さを持つ彼女が一念発起して保呂草の妻役に挑む。

てっきり香具山紫子のシンデレラ・ストーリーになるかと思いきや、さにあらず、やはり小鳥遊練無と瀬在丸紅子のマイペースに翻弄されて結局いつも役割に。
保呂草との甘い夜を過ごすはずの船室は紅子の独断で、恋人が船から落とされて傷心中の大笛梨絵の部屋に女性3人で泊まることになり、保呂草と練無が元々の船室に泊まって寸断される。しかも今回の自画像略奪計画の相棒として保呂草の手伝いをさせられるのだが、その目的は知らされず、事件そのものについても一切関わることはなく、結局はただの付き添いで済んでしまい、その後は自棄酒に溺れ、結局いつもの冴えない役回りを仰せつかるのであった。
恐らく保呂草としては想定外の事態に備えての保険的役割として紫子を配したのではないか。保呂草自身も紫子が自分にほのかな想いを寄せているのに気付いているはずだが、それを敢えて利用する冷静冷徹さに不満と紫子への報われなさに同情を禁じ得ない。
「マイ・フェア・レディ」になり損ねた紫子が報われる日はいつ来るのか。それともずっとこのままなのだろうか。「わたしの人生っていったいなんやろ」と一人気落ちせずに頑張れ、紫子!

さてミステリとしては標準並みの謎の難易度で全てではなくとも謎の一部は私にも途中で解ってしまうほどの物だったが、今回は事件の謎よりも物語の謎、いや保呂草という男の行動こそがメインの謎だったように思う。

この考えの読めない探偵兼泥棒の、常に客観的に物事を冷静に見つめ、目的のためには人を利用することも全く厭わない(その最たる犠牲者が香具山紫子なのだが)、あまり好感の持てない人物だが、彼の信念というか、信条が本書では意外な形で明らかになる。

恐らくそれまで保呂草嫌いだった読者の彼に対する評価は本書で大なり小なり好感を増したのではないだろうか。実際私はそうなのだが。

今回はミステリのためだけに作られた無理のある事件だったという感想は変わらないが、この保呂草の意外な温かさが最後胸に響いた。

ところで題名『恋恋蓮歩の演習』とはどういった意味だろうか?
まず目につくのは「演習」の文字。これは前作で保呂草が盗み出すように依頼された幻の美術品「エンジェル・マヌーヴァ(天使の演習)」から想起されるのは当然だし、登場人物も各務亜樹良と関根朔太と共通していることからも繋がりを連想させる。事実その通り、物語の最後は現在の関根朔太に行き当たる。

一方「恋恋蓮歩」という四文字。これは森氏独特のフレーズで造語かと思ったら実は「恋恋」は「思いを断ち切れず執着すること」、「恋い慕って思い切れない様」、「執着して未練がましい様」という意味で、一方の「蓮歩」は「美人の艶やかな歩み」という意味らしい。

この2つの単語を繋げたのは森氏の言葉に対する独特のセンスなのだが、つまり「恋恋蓮歩の演習」は「恋い慕って思いが募る女性が行う艶やかに歩く訓練」ということになる。
う~ん、そうなるとこれはやはり大笛梨絵、瀬在丸紅子ではなく、今回保呂草の計画に一役買った香具山紫子を表した題名になるのだろうか。

しかし一方で英題“A Sea Of Deceit”は“偽りの海”という意味。邦題と英題を兼ね合わせる人物はとなると大笛梨絵になるだろうか。
いずれにしても色んな解釈ができる題名ではある。

最後に読み終わった後に保呂草自身のプロローグに戻ると、文字に書かれた時点で現実から乖離し、全ては虚構となる、そして全てが書かれているわけではなく、敢えて書かないで隠された事実もあるし、今回はその時点における意識をそのままの形で記述することを避けるとも謳われている。知っているのに知らないふりをすると云うのは現実によくあることだ。
森作品、特にこのシリーズにおいてこの「書かれていること全てが本当とは限らない」というメッセージが通底しているように思われる。それはやはり保呂草潤平という謎多き人物がメインを務めているからかもしれない。
それはつまり、自分の直感を信じて読めばおのずと真実が見えてくるとも告げているように思える。ただ読むだけでなく、頭を使いなさい、と。
だからこそ森ミステリには敢えて答えを云わない謎が散りばめられているのかもしれない。それこそが現実なのだからだ、と。


▼以下、ネタバレ感想
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恋恋蓮歩の演習―A Sea of Deceits (講談社文庫)
森博嗣恋恋蓮歩の演習 についてのレビュー
No.1215: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

変則的な誘拐物と見せかけて

誘拐ミステリも数あるが、今回歌野氏が仕掛けたのは狂言誘拐。それも夫の愛情を確かめたいがための誘拐という、ちょっと浮世離れしたお嬢様育ちの容姿端麗の人妻の変わった依頼で幕を開ける。

1992年というバブルの名残ある時期に書かれた本書。そこここに時代を感じさせる記述が散見されて懐かしさを覚えた。
偽装して現れた誘拐の捜査をする警察官が来ていたのがアルマーニ調のスーツ(となぜかアタッシェ・ケースにクマのぬいぐるみを携えての登場と、逆に目立つような恰好なのがよく解らないのだが。とにかくパーティーや女性へのプレゼントが横行していた当時こんなアンバランスな恰好が普通だったのか?)だったり、まだ携帯電話は普及しておらず、自動車電話やショルダーフォンがセレブの持ち物となっていた時代だ。そんなまだアナログ社会で狂言誘拐を頼まれた便利屋が立てた方法がなかなか機知に富んでいて面白い。

警察からの逆探知を逃れるために今では災害時に使われるようになったNTTが提供する伝言ダイヤルサービスや今は無き悪名高いダイヤルQ2を利用して、録音やパーティラインによるやり取りで直接電話を繋げないようにしたり、自宅ではなく会社の方に電話したりするなど、工夫が凝らされていて読み手の予想の斜めを行く展開でどんどん読まされてしまった。

しかしそんなコミカルなムードも物語半ばで一転する。

若奥様の旦那への嫉妬から悪戯心で起こした狂言誘拐、それを利用して大金をせしめた便利屋、それが殺人事件に発展するという展開は悪事が雪だるま式に転がって肥大していく様を思い描かされる。
最初はほんの悪戯だったのが、金が絡み、そして人の命を奪うまでに発展する。本書の中でも云っているが悪い事はできないものだ。そして悪い時には悪い事が重なるものだ。そんな人生転落劇のような様相を呈してくる。

便利屋が負うことになった死体遺棄の一部始終は息詰まる内容であり、更に自分に捜査の手が及ぶまでにその後事件の発覚を恐れて殺人者を見つけ出して殺害することを決意するなど、物語のトーンはどんどん暗くなっていく。
しかし便利屋による犯人捜査の顛末は私立探偵による人捜しの面白さを彷彿させる。

さらにその後の展開も読者をさらに迷宮に誘う。

誘拐する側とされる側の側面で描きながら、いつしか殺人の罪を着せられ、やがて殺人事件の捜査へと転じるツイストの効いた作品。
そう、本書は誘拐あり、殺人あり、人捜しありの実に贅沢なミステリなのだ。

しかしこの頃歌野氏は本書の前に『ガラス張りの誘拐』という同じく誘拐を扱った作品を書いている。誘拐ミステリはなかなか数多く書かれるものではないのでこれは非常に珍しいと思える。
そしてそちらも本書同様意表を突く展開でなかなか事件の様相が掴めなかった。しかしその反面アイデアに走り過ぎて作品としてのバランスに欠けるような印象も拭えなかった。

しかし好評を以って迎えられた乱歩の文体を模した『死体を買う男』を経た本作は『ガラス張りの誘拐』で覚えた消化不良感を払拭する出来栄えでとにかく謎から謎の展開でクイクイ読まされてしまった。
ただやはり結末の付け方は慌ただしく、読書の余韻としては物足りなさを感じた。アイデアはいいものの、物語としては不十分。つまりこの頃の作品には『葉桜~』に至る以後の歌野晶午作品の萌芽が見られる貴重な作品群といえるだろう。

信濃譲二というシリーズ探偵物でデビューした歌野晶午氏の本質はそういった典型的な本格ミステリよりもこのように二転三転して読者の思いもかけなかった事件の様相が明らかになる、サスペンス風本格ミステリの方にあるように思えてならない。現代の歌野ミステリのルーツは『ガラス張りの誘拐』や『死体を買う男』と本書へと連なっていると思われるのでまずは『長い家の殺人』以降の3作品よりもこちらを読むことをお勧めしたい。
まあ、私が信濃譲二をあまり好きではないことも一因としてあるのだが。


▼以下、ネタバレ感想
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さらわれたい女 (角川文庫)
歌野晶午さらわれたい女 についてのレビュー
No.1214:
(7pt)

チャーリーの持つ真の“かがやき”とは

キング長編6作目はまたもや超能力者の話だ。その題名が示すように念力放火の能力を備えた少女チャーリー・マッギーが主人公である。
彼女は生まれながらの能力者であるのだが、今まで登場してきた『シャイニング』のダニー、『デッド・ゾーン』のジョンと異なるのは両親が共に超能力者であり、しかもその両親も秘密組織≪店≫によって特赦な薬物を投与されて能力が開花した人たちであることだ。

そして人工的に作られた超能力者であるアンディとヴィッキー。前者の持つ力は“押す”力、即ち相手を自己催眠に掛けて思い通りに操ることが出来る能力で後者は物を離れた場所から動かすことの出来る念動力である。
この2人が結ばれて念力放火の能力を持つチャーリーを生んだときのエピソードがまた壮絶だ。

生まれながらの超能力者だったチャーリーはお乳を欲しがって泣くと発火し、お気に入りのぬいぐるみが燃え始める、おしめが濡れて泣くと衣類が燃え上がる、また不機嫌になって泣くと赤ん坊自身の髪が燃える。家の各所にはいつ何時何かが燃えてもいいように消火器と煙感知器が備えられている。通常の子育てでもストレスで大変なのに、それ以上に命の危険と隣り合わせの子育てが彼らは強いられていた。
このような生活に密着したエピソードが単なる超能力者の物語という絵空事を読者にリアルを感じさせる。

組織によって作り出された超能力者が組織の魔の手から逃げ出し、逃亡の日々を続ける。そして追いつめられた時に超能力者はその能力を発動して抵抗する。しかし組織は新たな刺客をまたもや送り込む。
ふと考えるとこれは日本のヒーロー物やアメコミヒーローに通ずる題材だ。
つまりキングは既に昔から世に流布している子供の読み物であった題材をもとにそこに逃亡者の苦難と生活感を投入することで大人の小説として昇華しているのだ。これは従来のキング作品が吸血鬼や幽霊屋敷と云った実にありふれた題材を現代のサブカルチャーや読者のすぐそばにいそうな人物を配して事象を事細かに書くことによって新たなホラー小説を紡ぎ出した手法と全く同じである。つまりこれがキングの小説作法ということになるだろう。

物語は≪店≫にチャーリーの念力放火の能力が発覚してさらわれるのをどうにか防ぎ、追手からの逃亡生活を1年経た時点から始まる。
このチャーリーの誘拐劇の顛末は衝撃的だ。
妻が拷問の末、殺害された死体を見つけて既に連れ去られたチャーリーを血眼になって探す様子、その後も銀行の口座を閉鎖され、自分の“押す”力で1ドル紙幣を多額の紙幣に思わせてタクシーに乗ったりモーテルに泊まったりするなどしてどうにか逃亡生活を続けている辺りは開巻するや否やクライマックスが訪れているほどの迫真性を湛えている。

一方チャーリーは幼い頃から発動した能力を父親と母親から“いけないこと”だと云い聞かされ、念力放火をするのを嫌がっているが、一旦発動してしまうとそれがこの上もなく楽しいことだと感じ始めている。

そんなアンディとチャーリーのマッギー親子の前に立ち塞がるのは≪店≫が差し向けたインディアンの大男ジョン・レインバード。生きた妖怪、魔神、人食い鬼と評され、上司のキャップさえも恐れるこの大男はベトナム戦争で地雷によって抉られた一つ目の顔を持つ異形の殺し屋だ。彼はどこか超然とした雰囲気を備えており、チャーリーに異様な関心を示す。そして凄腕の評判通り、彼は見事にマッギー親子を手中に収めることに成功する。

しかしその後の彼は圧倒的な支配力を発揮するわけではない。雑役夫としてチャーリーが監禁されている部屋の掃除を毎日行って彼女の閉ざされた心を開かせようとする。それはまるで一流の心理学者が行うアプローチのようで、チャーリーの信頼を得るために同調と共感を時間を掛けて構築して徐々に彼女の頑なな精神の壁を開かせようとする。
作中ではそれは金庫破りで例えられている。一流の錠前・金庫破りの名人からレクチャーを受け、師を超えるほどの技量を持つようになったレインバードは師が彼に与えた言葉、「金庫は女に似ている。道具と時間さえあれば絶対に開けられない金庫はない」を忠実に守り、実に粘り強くチャーリーという金庫に鑿をこじ入れていく。それもあくまで慎重に。

そして彼は≪店≫が望むようにチャーリーに念力放火の実験に協力させた後、事態が収拾付かなくなる前に親しい友人、雑役夫のジョンとしていつものように接し、彼女を和ませた瞬間に鼻柱に拳を食らわせ、脳髄まで骨片を叩き込んで死に至らすことを至上の目的として任務に就いている生粋の歪んだサディストだ。
このレインバードのような、心細い時に親身になってくれたと見せかけて実はいつでも命を落としてやろうと虎視眈々と狙っている相手が一番恐ろしい。

しかし一方でこのレインバードのような殺し屋が実は≪店≫にとっても一縷の望みであるのだ。それは実験するごとに増してくるチャーリーの念力放火の能力である。どのような耐火施設を建て、また零下15℃まで冷やすことの出来る工業用の大型空調施設を備えてもチャーリーの能力が発動すればたちまちそこは灼熱の地となり、全てを燃やし、もしくは蒸発させ、気化させ、雲散霧消させてしまうのだから。チャーリーの発する温度は既に3万度にも達しており、ほとんど一つの太陽と変わらなくなってきており、このまま能力が発達すれば地球をも溶かしてしまう危険な存在だからだ。
日増しに能力が肥大していく彼女を抹殺することは実は世界にとって正しい選択肢であるとさえ云えるだろう。

しかしこのマッギー親子が望まずに超能力者になった者であるがために、チャーリーやアンディが危険な存在だと解っていてもどうしても肩を持ってしまう。常に監視され、実験道具にされたこの不幸な親子に普通の生活を与えてやりたいと思うのだ。

物語のクライマックスは宿敵レインバードとマッギー親子の対決に端を発し、そこから自らの能力を存分に発動したチャーリーの≪店≫の施設の破壊劇となる。

キングの作品が特徴的なのは通常の物語ならこれらの破壊劇で幕を閉じるところなのに、その後があることだ。

しかし終始どこかしら哀しい物語であった。
上にも書いたように通常ならば人の心を操るアンディと無限の火力を発し、核爆発までをも容易に起こすことの出来る少女チャーリーはまさに人類にとって脅威である。しかしそんな脅威の存在を敢えて社会に遇されないマイノリティとして描くことで同情を禁じ得ない報われないキャラクターとして描いているのだ。
特に今回は望まずにマッド・サイエンティストが開発した脳内分泌エキスを人工的に複製した怪しい薬品にて開花した超能力ゆえに安楽の日々を送ることを許されなかった家族の物語として描いていることに本書の特徴があると云えるだろう。

アンディの生計は自らの能力を生かした減量講座教室の講師である。減量できずに悩む生徒を少し“押す”ことで食欲を減退させ、ダイエットに成功させることを商売にしている。何とも超能力者にしては慎ましい生活ではないか。

思えばデビュー作の『キャリー』以来、『呪われた町』とリチャード・バックマン名義の作品を除いてキングは終始超能力者を物語に登場させていた。
キャリーは凄まじい念動力を持ちながらもスクールカーストの最下層に位置するいじめられっ子だった。
『シャイニング』のダニーは自らの“かがやき”を悟られないように生きてきた。
ジョン・スミスは読心術ゆえに気味悪がれ、厭われた。
キングは超能力者の“特別”を負の方向で“特別”にし、語っているのだ。一方でそれらの特殊能力を“かがやき”と称し、礼賛をもしている。

このどこか歪んだ構造がキングの描く物語に膨らみをもたらしているのかもしれない。
しかしチャーリーに関しては念力放火よりも彼女が最後に大人たちを魅了するとびきりの笑顔こそが“かがやき”だとしたい。これからのチャーリーの将来に幸あらんことを願って、本書の感想の結びとしよう。


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ファイアスターター (上) (新潮文庫)
No.1213:
(7pt)

シンプルな邦題が読後、色んな意味を伴って心に響く

ウェクスフォード警部シリーズ10作目は謎めいた一人の年輩の独身女性を巡る物語だ。

田舎の片隅の小道で何者かに刺された50歳の女性。その顔にはどこか嘲笑うかのような微笑が遺されていた。調べていくうちに彼女が誰にも自分の住所を明かさなかったことが解ってくる。
50歳の独身女性、しかも処女のまま死んだ女性の人生を巡るのが本書の物語だ。

本書でも語られているように変死体で見つかった彼女はもはやただの無名の存在ではなくなる。彼女を殺害した人物を探るために過去を一つ一つほじくり返され、人間関係がその為人が暴かれ、好むと好まざるとに関わらず、1人の人間の伝記が出来上がっていく。
しかしこの被害者の女性ローダ・コンフリーは調べども調べども住所さえも明らかになっていかない。彼の父親や叔母にでさえ自分の住所を教えなかった女性。

やがて捜査線上に一人の男性が浮かび上がる。作家のグレンヴィル・ウェスト。最初は年増女が勘違いして熱を挙げただけの存在かと思われたが、たまたま手に取った彼の著作の献辞にローダの名前を発見して、その関係性に太い繋がりが見えてくる。
ウェクスフォードの捜査の手は彼の方に伸びていくが、フランス旅行中というのは大きな嘘でイギリス国内に留まり、行方を転々としているのだ。ウェクスフォードは今度はグレンヴィル・ウェストという謎めいた男に囚われてしまう。

しかしそれはある一つの言葉でこれら1人の女性と1人の男性の謎めいた人生が氷解する。

このように一人の女性の死が人生という名の迷宮に誘う。
私や貴方が普通に言葉を交わすご近所相手、もしくは会社で一緒に働く相手は彼ら彼女らの多数ある生活の側面の一面に過ぎない。いつも見せる顔の裏側には数奇な人生の道程が隠されているのだ。

また本書ではこの50代の独身女性の謎めいた死を巡る謎と並行してもう1つの物語が語られる。
それはウェクスフォードの長女シルヴィアの夫婦不仲の問題だ。本書が発表された70年代後半は折しもイギリスではウーマン・リブ旋風が吹き荒れていたらしく、シルヴィアもその風に当てられて、家庭に籠って一生を終える人生に異を唱え、女性の自由を高らかに叫び、家庭に閉じ込めようとする夫に反発する。

そしてこのサブテーマが本書の核を成す事件と密接に結びつくのがこのシリーズの、いやレンデルの構成の妙だ。
容姿端麗のシルヴィアは歩けば周りの男が振り返り、口笛を吹かれるが、そこには敬意の欠片も感じられないことに苛立ちを覚えており、子供と夫の世話で明け暮れる自分の人生を悲観し、住み込みの女中を雇って社会進出したいと願うが、結局自分には夫が必要であると気付き、彼女は諦めて夫の許に戻る。

今や自立する女性が当たり前になり、結婚適齢期が20代の前半から後半、そして30歳でも独身で社会の一線で活躍する女性が普通である昨今を鑑みると、現代の風潮が生まれる黎明期の時代に本書が書かれたことが判る。
男が働き、女が家を守る。
当たり前とされていた価値観が変革しつつある時代においてレンデルは昔ながらの夫婦であるウェクスフォード夫妻と現代的な考えに拘泥する彼の長女夫婦の軋轢を通じて時代を活写する。
未だに解決しないこの男女雇用、機会均等の問題を上手くミステリに絡めるレンデルの手腕に感嘆せざるを得ない。

しかし『乙女の悲劇』とはよく名付けたものだ。この一見何の衒いもないシンプルな題名こそ本書の本質を突いているといっていいだろう。

なお原題は“A Sleeping Life”。作中で引用されているボーモントとフレッチャーの戯曲の一節にある“眠れる生”を指す。

50歳の無器量な女性の変死体から濃厚な人生の皮肉を描いてみせ、更には女性の社会進出という普遍的なテーマを見事に1人の女性の悲劇へと結び付けたレンデルの筆の冴えを今回も堪能した。
今更ながらやはりレンデルの作品も順を追って読み直してみたい衝動に駆られた。既に物故作家となり、数多ある未訳作品の刊行も尻すぼみになりつつある現状を考えると、このまま忘れ去られるには非常に惜しい作家だ。
亡くなった2年前に刊行された『街への鍵』の高評価は決して餞のランキングではないはずだ。
絶版作品共々、再評価され再び書店の棚に彼女の作品が、別名義のバーバラ・ヴァイン作品も併せて並ぶことを願ってやまない。


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乙女の悲劇 (角川文庫 赤 541-4)
ルース・レンデル乙女の悲劇 についてのレビュー
No.1212: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

誰もが一歩間違えれば黒い心に囚われる

ハリー・ボッシュシリーズ3作目はボッシュのキャラクターを形成するエピソードとして描かれていた、彼がロス市警のエースから下水と呼ばれるハリウッド署に転落することになったドールメイカー事件。本書ではなんとこのボッシュの過去の瑕とも云うべき事件がテーマである。
彼が解決したと思われた事件の犯人は別にいた?
それを裏付けるかの如く、かつての手口と同じ形で新たな死体が見つかる。更にボッシュは彼が射殺した犯人の家族から冤罪であったと起訴されている身である。

最初からどこをどう考えてもボッシュにとっては不利な状況で幕が開く。

特に被害者の一人が殺害された時間に容疑者が友人のパーティーに出席していたビデオを証拠として出された場面ではボッシュの誤認逮捕への嫌疑は最高潮に達するのだが、その疑問を実に鮮やかに本書はクリアする。

ただそこからが本書の面白いところで、当時記者にも隠していたドールメイカーの犯行の特徴を模倣犯がほぼ忠実に擬えていたことから捜査に関わっていた人物、すなわち警察関係者に容疑者が絞られることになる。
警察仲間の中に快楽殺人鬼がいる。
この油断ならぬ状況はさらに事件に緊迫度をもたらす。

またボッシュはこの裁判を通して過去に母親を亡くした忌まわしい過去を白日の下に曝され、直面せざるを得なくなる。

それまでの作品にも断片的に描かれていた母親。彼に実在する画家と同じ名前を付けた元娼婦だった女だ。
彼女マージョリー・フィリップス・ロウはレイプされた絞殺死体として発見された。そしてボッシュは施設に入れられた。その過去から娼婦やポルノ女優を襲ったドールメイカーに個人的な恨みを抱くようになり、ノーマン・チャーチという無実の男を怒りに任せて射殺したのではと原告側の弁護士ハニー・チャンドラーに詰問され、ハリーは動揺する。それまで一度も考えたこともなかった心理だが、彼自身も潜在的にもしかしたらそうだったのではないかと思うようになる。

濃密な人間関係が物語が進むにつれて形成されていたことが判り、更に物語世界が深化する。この世界に没頭できる感覚とサプライズは何ものにも代え難い至福だ。勿論やり過ぎると鼻白む気はあるが。

また前作『ブラック・アイス』で知り合ったシルヴィア・ムーアとの関係がまだ続いていることが本書では書かれている。しかもほぼ同棲状態で共に食事をし、寝泊まりして愛を交わすほどの仲になっている。かつて警官の妻であったシルヴィアは警察官相手の距離感を心得ており、ボッシュにとって帰るべき家といった存在にまでなっている。

ただ以前の夫の過去を敢えて問わないことで結婚生活に失敗したシルヴィアは愛するボッシュを話したくないがために彼の昏い過去をも知ることを欲する。しかし過去を捨てようとして生きてきたボッシュはその過去を思い出すことを拒む。

本書では2人の性格を的確に捉えている印象的な文章がある。
シルヴィアは物事の中に美を見出すが、ボッシュは闇を見出す。天使と悪魔の関係だ。
教師という職業に就き、人の清濁を理解した上で美点を見出し、そこを延ばそうとする女性に対し、常に人を疑って隠された悪を見出して数々の犯人を検挙してきた男。どちらもそれぞれの職業に、生き方に必要な才能を持ちながら水と油のように溶け込まないでいる。唯一共通するのはお互いが求めあっていることだ。

しかし法廷劇の濃密さはどうだろう!
百戦錬磨の強者弁護士ハニー・チャンドラーの強かさは男性社会の中で勝ち抜くことを自分に課した逞しい女性像を具現化したような存在だ。裁判に勝つために自らの容姿、敵の中に情報源を隠し持つ、更には被告側の隠したい過去をも躊躇なく暴く、容赦ない女性だ。

後にコナリーは弁護士ミッキー・ハラーを主人公にしたシリーズを書くが、早くも3作目でこのような法廷ミステリを書いているとは思わなかった。
1作目が典型的な一匹狼の刑事のハードボイルド小説ならば2作目はアメリカとメキシコに跨った麻薬組織との攻防と思わぬサプライズを仕掛けた冒険小説、そして3作目が法廷ミステリとコナリーの作風のヴァラエティの豊かさとそしてどれもがストーリーに深みがあるのを考えると並外れた才能を持った新人だと思わざるを得ない。

さて本書の原題は“The Concrete Blonde”、即ちボッシュの誤認逮捕を想起させるコンクリート詰めにされて発見されたブロンド女性の死体を指している。
一方で邦題の『ブラック・ハート』はヒットした2作目の『ブラック・アイス』にあやかって付けたという安直な物ではない。いや多少はその気は出版社にもあったかもしれないが、本書に登場する司法心理学者が書いた本のタイトル『ブラック・ハート―殺人のエロティックな鋳型を砕く』に由来する。
即ちブラック・ハートこと“黒い心”とは誰もが抱いている性的倒錯であり、それが砕けるか砕けないかという非常に薄い壁によって犯罪者と健常者は分かたれているだけで、誰もが一歩間違えば“黒い心”に取り込まれて性犯罪を起こしうると述べられている。

恐らく原題も最初はこの『ブラック・ハート』としていたのではないだろうか?
というのも第1作『ナイトホークス』の原題が“Black Echo”で2作目が邦題と同じ“Black Ice”。それらはいずれも作中で実に印象的に扱われている言葉でもある。その流れから考えるとコナリー自身もボッシュシリーズの題名は“Black ~”で統一しようと思っていたのだが、それまでの題名に比べて“Black Heart”はいかにもありきたりでインパクトがなさすぎるため、エージェントもしくは出版社が本書でセンセーショナルに描かれるコンクリート詰めのブロンド女性の死体を表す「コンクリート・ブロンド」にするよう勧めたのではないだろうか。

しかし本書の題名はそのどちらでも相応しいと思う。邦題の『ブラック・ハート』は本書の焦点となるドールメイカーの追随者を正体を探る作品であることを考えると、その犯人の異常な、しかし誰もが持つ危うい心の鋳型を指すこの単語が実に象徴的だろう。

一方で『コンクリート・ブロンド』ならば、新たに現れたドールメイカーの追随者による犠牲者たちを衝撃的に表した単語であることから、それもまた事件そのものの陰惨さを指す言葉として十分だろう。
しかもコナリーはこの言葉にもう1つの意味を込めている。

今回のボッシュの宿敵となって立ち塞がる原告側の弁護士ハニー・チャンドラー。コナリーが敬愛する作家のラストネームを冠したこの女性こそが「コンクリート・ブロンド」だったのではないか。
彼女は裁判所にある正義の女神テミスの像を指して、これこそが“正義”である、被告人の話を聞かず、姿も見ない、気持ちも解らないし、話しかけもしないコンクリート・ブロンドとボッシュに話す。自分で信じた正義のためにはどのような手を使ってでも戦い、勝利を勝ち取ると誓った、コンクリートのように強く揺るがない意志を持ったブロンドの戦士。
卑しき犯罪者を糾弾する自分だけは自分の正義を守ろうとしたのが彼女だとしたら、だからこそコナリーは彼女にその名を与えたのではないだろうか。

一方でボッシュはこのチャンドラーに公判中、怪物を宿した刑事だと糾弾される。そして自身もまた自分の中にその怪物がいるのかと自問し出す。自分もまた“黒い心”の持ち主であり、チャーチを撃ち殺した自分は彼らとなんら変わらないのではないかと。
つまり原題がボッシュの宿敵を指すのであれば邦題はボッシュ自身をも指示しているとも云えるだろう。

ハリー・ボッシュがロス市警の花形刑事から下水と呼ばれるハリウッド署へ転落させられたドールメイカー事件。彼の刑事人生で汚点ともなる疑惑の事件が今回見事に晴らされた。1作目からのボッシュの業は1つの輪となって一旦閉じられることになるとみていいだろう。

次作からは再び己自身の過去に向かい合う作品となるだろう。
そして最後に彼の許に戻ってきたシルヴィアとの関係も決して十分だと云えない。お互い愛し合っているからこそ、続けるのが困難な愛もある。危険に身を投じるボッシュは彼のせいでシルヴィアもまた危険に巻き込むかもしれないと恐れ、一方でその姿勢を高貴なものと尊敬しながらも、以前警察官だった夫を喪ったシルヴィアは再び同じような失意に見舞われるのを恐れている。

最後にボッシュが呟いたように、少しでも関係が続くよう、もはや願うしか手がないのだろう。最後の台詞に“Wish”という言葉が入っていることに私はボッシュのもう1人の女性のことを思い出さずにはいられなかった(この最後の台詞はまさに珠玉!)。

つくづくこのシリーズは数珠繋ぎだと思わされる。次作『ラスト・コヨーテ』は本書の裁判でも取り上げられたボッシュの母親に纏わる話なのだという。このように作者コナリーは実に周到にボッシュという一人の刑事の人生を魅力あるエピソードで語り出していく。

さらに本書で登場したホームレスの弁護士トマス・ファラディも記憶しておかねばならない人物の1人かもしれない。彼が凋落したエピソードは語られたものの、一連のボッシュサーガに再び登場するやもしれないからだ。

巻を重ねるごとに深みを増すハリー・ボッシュシリーズ。
もう読むことを止めることは私にとって実にこの上ない苦痛に感じることを正直に告白してこの感想を終えよう。


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ブラック・ハート〈上〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーブラック・ハート についてのレビュー
No.1211: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

映画産業にはよくあることらしい

ヘンリー・メリヴェール卿ことHM卿シリーズ第10作目で『読者よ欺かるるなかれ』の後に書かれた、まだディクスンが脂の乗り切った時期に書かれた作品である。しかしこの作品は長らく邦訳されず、創元推理文庫、ハヤカワミステリ文庫のラインナップからいずれも漏れていた作品であり、初邦訳となったのがなんと1999年でしかも新樹社から刊行された。本書はそれを底本にして全面改稿された文庫化作品である。

田舎娘が初めて書いた小説がいきなり大ヒットとなり、それを契機にロンドンに出てきて映画会社で脚本の仕事にありつくというシンデレラストーリー的設定に、当時のイギリス映画業界の内幕を絡めたストーリー展開にすぐさま引き込まれてしまった。

脚本家の卵として田舎町からロンドンに来たモニカはカートライトの人柄に魅かれながらもなかなか素直になれず、年不相応の髭について不平不満を並べ、遠ざけようとする。一方カートライトはそんな田舎娘に次第に魅かれていく。
その間に立つのはハリウッドから招聘された名脚本家のティリー・パーソンズ。この50代初めのヴェテラン女性脚本家が2人の恋路を取り持っているのか邪魔しているのか解らない奔放さが実にいいアクセントになっている。

しかし彼女もまたモニカ殺人未遂の最重要容疑者とみなされる。彼女の筆跡がモニカに送られた脅迫状その他と酷似していたからだ。しかしティリーもまた毒入り煙草によって昏倒し、病院に運ばれることになる。

このモニカとカートライトを中心にした映画業界の人々を巻き込んだ殺人騒動で物語は進行し、シリーズの主人公であるHM卿が登場するのは150ページ過ぎと物語も半ばを過ぎたあたり。
しかしそれでもHM卿は事件解決に乗り出さず、戦時下という状況故か、映画会社が失った海軍の主要戦力となる軍艦が撮影された8000フィートものフィルムの行方を気に揉む次第。情報部々長という立場故、戦時下で軍の機密情報が敵国に知れ渡ることの方がHM卿にとって非常に重要なのだ。

残ること約50ページになってようやくHM卿は現場に乗り出し、快刀乱麻を断つが如く名推理を発揮して瞬く間に一連の騒動の犯人を名指しする。

カーター・ディクスンは事件関係者の勘違い、もしくは想定外の出来事で殺人計画が捻じ曲げられ、それがために不可解な状況が起こるという、ジャズ演奏で云うところの即興、インプロビゼーションの妙をミステリに非常に巧みに溶け込ませるのを得意としているが、本書においてもそれが実に巧く効いている。

本書で唯一不可能状況下での犯罪は封も開けていない、モニカが駅で買った煙草にどうやって毒入り煙草を忍ばせたかという物だが、案外無理があるトリックだとは感じる。

題名が差すように一人の男が殺人を犯すまでに至った一連の騒動こそがこの物語だが、本書が書かれたのが1940年。4年後にクリスティーが犯行に至るまでを描いた『ゼロ時間へ』を著しているが、私は彼女が同作を著すときに本書のことが頭にあったのではないかと考えている。
つまり本書はディクスン版『ゼロ時間へ』なのだと。そう考えるといかにもディクスンらしい味付けが成されているなぁと感心してしまう。

そしてだいたい作者が映画業界を舞台にした作品を書くときは作者自身がその業界に関わったことがあるからだからだが、やはりディクスン自身もその例に洩れず、解説の霞氏によれば本書が発表される2年前の1938年にイギリス映画界で脚本家として携わったらしい。その時の経験は散々だったようで、そのことが作品にも色濃く表れている。特に最後の台詞
「映画産業にはよくあることだ」
はその時の思いがじっくりと込められているように思える。

また余談だが前年の1937年に映像をふんだんに物語に取り込んだ『緑のカプセルの謎』が刊行されているのもまたこの時の経験が関係していると考えると非常に興味深い。

私はその後のHM卿シリーズも読んでいるわけだが、なにせ時系列的に読んでいないため、各作品での繋がりに対する記憶がほとんどない。本書に登場するHM卿の部下ケン・ブレークとスコットランド・ヤードの首席警部ハンフリー・マスターズ以外の登場人物は私の中では消失してしまっている。
その原因はカーター・ディクスンならびにディクスン・カー作品の訳出のされ方にもある。例えば近年新訳で刊行されたHM卿の作品は以下の通りだ。

2012年『黒死荘の殺人』;第1作目
2014年『殺人者と恐喝者』:第12作目
2015年『ユダの窓』:第7作目
2016年『貴婦人として死す』:第14作目
2017年本書:第10作目

このように順番はバラバラである。この辺が改善されると今後の読者も系統だってシリーズを読めるので助かるとは思うのだが。
しかしこうやって見ると上には書いていないが、ジョン・ディクスン・カー名義の作品も合わせると毎年コンスタントに新訳が出されていて、ファンとしては非常にありがたい状況ではある。ただ贅沢を云えば上に述べたようにシリーズが前後しない刊行のされ方をしてもらいたい。

また新訳となって実に読みやすく、しかも平易な文章で解りやすいのだが、一方で昔の訳本に載っていた注釈が全くないのが気になった。原作に挿入されていた原註はあるが、訳者による注釈は皆無である。
登場人物たちが引用する固有名詞は、例えばラリー・オハロランの絞首刑などと唐突に挟まれる比喩はその内容自体が解らないため、そのまま読み流すような形になったのが惜しい。恐らくは注釈を入れることで読書のスピードを削がれるのを懸念したためにそれらを排除したのかもしれないが、新たな知識や蘊蓄を得るのもまた読書の醍醐味であると思っているので、これらについてはきちんと注釈を入れてほしかった。勘繰れば逆に訳者がそれらの手間を省いたとも取られかねない。

いやもしくはWEBが発達した現代では注釈などは必要なく、興味があれば読者の方で検索サイトで気軽に情報を得ることが出来るから、注釈は不要とみなしたのかもしれない。

時代の流れともいうべきか。単純に昔の訳書を読みなれた者にとっての贅沢とすべきか。なかなか難しい判断である。

しかしやはり長らく文庫化されなかったカーター・ディクスン/ジョン・ディクスン・カー作品がこのように刊行され読めることは実に嬉しいことだ。まだまだ絶版の憂き目に遭って読めないでいるカー作品をこれからもコンスタントに刊行してくれることを東京創元社には大いに期待しよう。


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かくして殺人へ (創元推理文庫)
カーター・ディクスンかくして殺人へ についてのレビュー
No.1210:
(8pt)

教科書では学ばない西洋史の面白さが堪能できる

2003年から16年に掛けて講談社が企画した少年少女たちのための小説シリーズ<ミステリーランド>。
本書は田中芳樹氏がその企画のために書き下ろした1作であるが、まさに少年少女が胸躍らせる一級の娯楽冒険小説となっている。

カナダから単身フランスに渡ってきた少女コリンヌ。彼女は祖父と逢うが、祖父は自分の許を去ってカナダへ移住し、伯爵位を捨てて先住民と結婚した息子を許せず、コリンヌを孫娘と認めようとしない。代わりに出した条件はライン川の東岸にあるという『双角獣の塔』に幽閉している人物が処刑されたと云われているナポレオン皇帝か否かを確かめて50日以内に戻って来たら孫娘と認め、5000万フランの遺産も与えようという物。
タイトルの「ラインの虜囚」とはつまりこの双角獣の塔に幽閉された人物を指しており、決して某SNSに依存している人々を指しているわけではない。

そんな彼女に作家のアレクサンドル・デュマ、元海賊のジャン・ラフェット、そして身元不詳の剣士モントラシェが同行する。

デュマが同行し、更に一人の少女に彼を含めた3人のお供。そのうち2人は剣と銃の達人とくれば、これは『三銃士』以外何ものでもない。本書ではデュマはまだ駆け出しの作家だが、本書には明確に書かれていないものの、彼が経験したコリンヌとの冒険をもとに『三銃士』を著した、というのが裏設定ではないだろうか。

更に18世紀に流布していた『鉄仮面』伝説にコリンヌ達の時代にドイツで話題となっていた「カスパール・ハウザー事件」など後のデュマの作品のモチーフや当時の謎めいた逸話も盛り込まれ、まさに学校では教えてくれない世界史の、面白いエピソードに溢れている。

とにかくどんどん物語は進んでいく。この流れるような冒険の展開はヴェルヌの一連の冒険小説を彷彿とさせる。
田中氏特有の19世紀当時のフランスを筆頭にしたヨーロッパ各国の情勢、はたまた海を渡ったアメリカとカナダの状況などがほどなく平易な文章で織り込まれており、物語を読みながらそれらの知識が得られる贅沢な作りになっている。
特徴的なのは通常このような蘊蓄を盛り込む際、田中氏は自身の見解を皮肉交じりに挿入するのだが、本書では読者対象が少年少女であるためか、そのような文章は鳴りを潜め、むしろ教科書に載っていない歴史の面白さを教える教師のような語り口であるのが実に気持ちいい。

さらにパリに戻ってからコリンヌが知る真相は意外な物だ。いささか少年少女には解りにくい真相ではあるが、ちょっと聡明な子供であれば逆に大人たちの権謀詐術なども理解できる、いわばちょっとした大人入門的な役割を本書は果たしていると云えよう。

加えてやはり特筆すべきは魅力ある登場人物たちが全て実在の人物であることだろう。

作家のアレクサンドル・デュマはもはや上述している通り、説明するまでもない著名な作家だが、ジャン・ラフィットは海賊でありながらフランスの二月革命、ウィーンのメッテルニヒ宰相の追放、ポーランドの独立運動に尽力し、さらにパトロンとしてマルクスの『共産党宣言』の刊行にも助力した人物である。

またモントラシェことエティエンヌ・ジェラール准将は後にコナン・ドイルが著す勇将ジェラールその人であり、剣の達人として鳴らした人物である。
このジェラールはドイルによる創作上の人物らしい。すっかり実在の人物だと思っていた。

逆にこの中で私は主人公のコリンヌこそが唯一創作上の人物だと思ったが彼女もまた後にカナダでペンを武器にしてアメリカの奴隷解放に努めた実在の人物だった。

そんな偉人たちの偉業もまた簡略的ではあるが知識として得られる最高の冒険歴史活劇物となっている。

大人の視点から読むとコリンヌを取り巻くラフィット、モントラシェの2人の無双ぶり、またミスマッチと思われた作家デュマもその巨体を生かしたアクションであれよあれよと敵と互角に立ち向かうことで少しも主人公たちが窮地に陥らないところに物足りなさを感じるものの、本書が収められた叢書<ミステリーランド>のコンセプトである、「かつて子どもだったあなたと少年少女のために」に実に相応しい読み物であった。子供の頃に嬉々として冒険の世界に浸った読書の愉悦に浸ることが出来た。
こんな物語が書けるならば田中芳樹氏も安泰だ。未完結のシリーズ作品の今後が非常に愉しみになる、実に爽快な読み物だった。


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ラインの虜囚 (ミステリーランド)
田中芳樹ラインの虜囚 についてのレビュー
No.1209:
(8pt)

“デッド・ゾーン”の本当の意味は?

哀しき超能力者の物語。

キングの、リチャード・バックマン名義の物を除いた長編第5作目の本書は事故により予知能力が覚醒した青年の物語だ。
1979年に発表された後、デイヴィッド・クローネンバーグによって1983年に映画化され、その映画の評価も高いという作品。そして今でもキングの名作の1つとして挙げられている。

そして本書は『シャイニング』を皮切りに特別な能力を持つ特定の人を扱った、つまりシャイン―かがやき―と称される能力を持つ者たちの系譜に連なる作品でもあるのだ。

まずシャイン、もしくは“かがやき”という特殊能力を持つ登場人物は『シャイニング』のダニー・トランス少年、『ザ・スタンド』でもマザー・アバゲイルがそれぞれ予知能力を持つ人物として登場した。前者はまだごく一部の人間にしか認知されていない一介の少年で、後者のマザー・アバゲイルは実質的な主人公ではなく、救世主的な役割を果たす人物であった。

この三者の能力も巷間に流布している超能力の種類で云えばサイコメトリーであり、彼らはサイコメトラーとなるだろう。
しかしダニー少年が生来この能力を備えているのに対し―マザー・アバゲイルもそうだったのかは記憶が定かではないため、割愛する―、ジョン・スミスの場合は脳の一部を損傷するほどの交通事故に遭い、約5年に亘る昏睡状態から目覚めてから能力が発動する。

さて今回ジョン・スミスが他の2人と大いに異なる点はその能力ゆえに人から畏怖され、時には、いや往々にして関わりを持ちたくないと嫌悪の対象になることだ。

まず『シャイニング』のダニー少年はその能力を隠して生活をしていた。さらに物語も冬の山奥のホテルのみが舞台であり、それも一冬の出来事であった。また『ザ・スタンド』の舞台は新種のインフルエンザによって死に絶えた世界であり、マザー・アバゲイルがその不思議な力で救世主のように崇められていた。
翻ってジョン・スミスは1975年のアメリカで超能力に目覚めた人物。人々は自分の秘密を暴かれることを恐れ、ジョンの存在を恐れるようになる。

ところで本書の題名ともなっているデッド・ゾーンとはいったい何なのだろうか?
交通事故に遭ったジョン・スミスの脳には不完全な部分があり、イメージが喚起できない、もしくは名称が浮かばない場面や物が発生する。それら欠落した部分をデッド・ゾーンと呼んでいることに由来する。本書の言葉を借りれば発語能力と象徴機能双方に障害を発生させている部分ということになる。しかしこの不完全な部分を補う形でジョンにサイコメトリーの能力が発動するのだ。

しかしこの能力は最終的には幼少の頃のスケート場で遇った事故にて既にその萌芽があったことが明かされる。そしてその時の衝撃に後に肥大する腫瘍が備わり、そしてそれこそがジョンの隠された能力を拡充していったこととジョンは理解するようになる。

そんな特殊能力に目覚めた青年の物語をしかしキングは相変わらず丹念に描く。例えば通常主人公が事故に遭って4年5ヶ月後に目覚めるとなると、事故のシーンから主人公が目覚めるシーンまで物語は飛ぶものだが、なんとキングはその歳月を丹念に描いてそれまでのジョンに関係していた人々の生活を描く。

まず恋人のセーラは弁護士の卵と結婚して、その夫も司法試験に合格して弁護士となっている。一番痛々しいのはジョンの両親ハーブとヴェラのスミス夫妻だ。もともと信仰に傾倒していた母はジョンが昏睡状態に陥ったその日からいつか目覚めると信じてますます信仰にのめり込む。キリストのみならず円盤に乗って宇宙に行って選ばれし民を連れてくるために戻ってきたという怪しい夫妻が運営するコミュニティにものめり込み、狂信ぶりに拍車がかかる。

さらにその後もジョン・スミスが各所で能力を発揮して事故や大惨事を未然に防いだり、連続殺人鬼の逮捕に協力したりとエピソードを重ねていく。

触れられるだけで自分の内面を丸裸にされるような思いがさせられ、周囲はジョンがサイコメトリーを発揮した後ではよそよそしい態度を取るようになる。また新聞記者はジョンの能力に興味深々であるものの、触れないでくれとはっきりと告げる。

更に連続殺人事件の犯人逮捕の援助を頼んだ保安官はジョンが発見した真相に嫌悪感を示し、その真実を認めようとせずに罵倒する。

卒業パーティーの会場が落雷によって大火事に見舞われることを予見し、パーティーの取り止めを促すが、人々はせっかくの晴れの席を台無しにされたと怒り、彼を非難する。息子の家庭教師にジョンを雇った実業家は理解を示そうと代わりに自宅をパーティーの会場にして、賛同する者のみを招待する。そして実際に火事が起こるや否や、人々はジョンの能力に感謝するどころか畏怖し、あまつさえ実はジョンが超能力で着火したのではないかとまで云う―ここで「小説の『キャリー』みたいに」と自作を宣伝するのが面白い―。

そしてようやく物語の終着点となるジョン・スミスの宿敵グレグ・スティルソンを目の当たりにするのが下巻の170ページ辺りだ。しかしそれまでのエピソードの積み重ねが決して無駄になっておらず、このクライマックスに向けてのオードブルであるところにキングの物語力の強さを感じるのだ―特に避雷針のエピソードは秀逸!―。

人に触れることでその人に関する未来や過去をヴィジョンとして捉える能力はしかし本書でも述べられているように、現実世界では人間はことが事実になるまでは本当に信じる気になれないのが世の常であり、人々はことが起きた後でその正しさを心に刻み込む。従って未来を正確に予見できるジョンは常に異端者であり、場合によっては忌み嫌われる存在になるということだ。
『ザ・スタンド』の舞台となった人類のほとんどが死に絶え、明日が見えない世界においてはこの能力を持つ者は導き手として崇められるが、では現実世界ではどうかというと逆に恐怖の存在となる。

苦悩する、理解されない救世主の姿が本書では描かれているところに大きな特徴があると云えるだろう。

ただ唯一の救いは作者が決してジョン・スミスをただの狂えるテロリストとして片付けなかったことだ。

さてキングに登場する人物、特に母親に関してはどうもある一つのパターンを感じる。
本書ではジョンの特殊能力を救済のために使うのだと告げ、死後もなお呪縛のようにジョンを苛んだ母親ヴェラはそれまでのキング作品に見られる、狂信的な母親像として描かれている。上にも書いたようにこの女性はジョンが昏睡状態に陥ってからは狂気とも云える神や超常現象にのめり込んでいく。

どうもキングが描く母親にはこのような神や信仰に病的にすがる母親がよく登場し、一つの恐怖のファクターになっているようだ。

また一方で男性には癇癪もちや暴力的衝動を抱えた人物も出てくるのが特徴で今回はグレグ・スティルソンがそれに当たる。彼の略歴が下巻の中盤で語られるが、高校を卒業して早くから独り立ちし、雨乞い師という異色な職業を皮切りに塗装業、聖書のセールスマン、保険会社外交員から政治家へと転身した彼は暴力と恐怖で敵を制圧し、ヒトラーを思わせるほどの雄弁な話術とパフォーマンスで人気を獲得していく。一皮剥けば野獣―本書では笑う虎と称されている―といった圧倒的な権力や支配力を備えた敵の存在はキング作品におけるモチーフであるようだ。

ところで本書ではちょっとした他作品とのリンクが見られる。ジョン・スミスがサイコメトリーを発揮したニュースを観て脳卒中を起こした母親が担ぎ込まれた病院のある場所がジェルーサレムズ・ロットの北に位置する町にあるのだ。即ち吸血鬼譚である『呪われた町』の舞台である。この辺りはキング読者なら思わずニヤリとしたくなるファンサービスだ。

さて2016年アメリカは第45代大統領にドナルド・トランプ氏を選出し、そして2017年就任した。この実業家上がりの大統領が本書で後にアメリカ大統領となり、全面核戦争の道へアメリカを導くと恐れられたグレグ・スティルマンと重なって仕方がなかった。
現実問題としてトランプ大統領は北朝鮮に対して核戦争も辞さぬ挑戦的な態度を取り続けている。本書はもしかしたら今だからこそ読まれるべき作品かもしれない。
彼らが選んだ大統領はスティルマンのように一種狂宴めいた騒ぎの中で選んだ過ちではなかったのか。1979年に書かれた本書は現代のまだ見ぬ過ちを予見した書になる可能性を秘めている。
実は本書のタイトル“デッド・ゾーン(死の領域)”はスティルマン選出後のアメリカをも示唆しているのであれば、まさにそれは今こそ訪れるのかもしれないと背筋に寒気を覚えるのである。


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デッド・ゾーン〈下〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キングデッド・ゾーン についてのレビュー
No.1208: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

戦いの音楽よ、高らかに響け!

どんでん返しの王と云えば現代の海外ミステリ作家ならばジェフリー・ディーヴァーだが、日本では最近中山七里氏の名が挙がるようになった。実際「どんでん返しの帝王」という異名もついているらしい。
本書はそんな彼がデビューするに至った第8回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作である。

まさに新人離れした筆致とストーリー展開であれよあれよという間に物語に引き込まれる。
主人公は不動産会社の社長を祖父に持ち、ピアノの特待生として高校の音楽科に入学した香月遥。このように書くと遥はいいとこのお嬢様のように思えるが、彼女の一人称叙述で展開されるその内容からはどこにでもいる普通の女子高生のようにしか映らない。
突然の火事で全身大火傷を負うが、医者の必死の大手術の末、ほぼ全身に亘って皮膚移植を施されるが、火事の影響で気管を焼かれ、しゃがれ声しか出せなくなる。懸命のリハビリと岬洋介という名ピアニストという師を得て、不可能と思われたピアノの演奏をたった二週間で弾けるようになるという驚異的な回復を見せる。しかしそれが全く絵空事のように思えず、この岬というピアニストの指導の許であれば可能であると納得させられるような説得力のある説明と描写。

またそれ以外にも登場人物を取り巻く色々なエピソードに纏わる情報や知識がしっかりとしており、単なるモチーフになっていない。スマトラ島沖地震の詳細、高校進学に必要な経費の公立高校と私立高校との差、火傷に関する情報にその治療に関する細かい内容、相続税対策を考慮した遺産相続の方法など我々の実生活に直接関係のある事柄がつぶさに書かれており、一つとしておざなりに書き流されていない。

また描写と云えば本書に織り込まれたクラシックの曲調に対する描写が実に絵的で美しく、頭の中で音が奏でられるように錯覚する。
私はクラシックには疎いのだが、それでも聞いたことのある題名から知らない曲名までもがなぜかその描写によって曲が自動再生させられていく。音の躍動感、またきらびやかさが粒のように空気に舞い、弾け、そして溶け合い、人々の耳に余韻として残る。それら一つ一つの音符やメロディに感じるのは中世・近代の名のある音楽家たちが譜面に込めた情熱や美、そして常に新しい技を生み出そうとする研鑽の姿だ。
そしてそれらを譜面を通じて理解し、どうにか再現しようと、そしてそのメッセージと喜びを観客と共に分かち合おうとする演奏者の思いが神々しいほどに美しい描写に込められている。常に頭の中で音楽が奏でられ、思わず眼前にリサイタルが成されているかの如く錯覚に陥ってしまった。
後でその題名でググって実際の曲を聴いてみると全く違っているのが常だが、中には合っているものもあったりして、この作家の表現力の豊かさを頭ではなく心で感じる思いがしたものだ。

そんな物語である本書はミステリというよりもなんとも清々しい青春小説、いやビルドゥングス・ロマンなのだろうという思いで読んだ。

やはりなんといっても主人公香月遥が全身大火傷という重傷を負ってから学校代表としてピアノコンクールに出場するまでの岬洋介との血のにじむようなレッスンの様子が非常に読ませる。特に常に包帯を巻き、松葉杖を突いて学校生活を営む彼女に対して周囲がそれぞれの立場で好奇心、功名心、そして妬みや嫉みを彼女にぶつけてくる様が生々しく、単なる不具者の美談となっていないところがいい。
学校の校長は障碍者としての彼女がピアノコンクールに出場するまでになったことを自分の高校のいい宣伝材料として彼女を客寄せパンダとして利用しようとして隠さないし、金持ちの家のお嬢さんでその上に同情心を買おうと勝手に思い込んでいるクラスの同級生の悪意ある言葉など障害者が取り巻く世間の厳しさをまざまざと見せつける。
そんな現実があるからこそ彼女の強さが引き立つわけだが、むしろ障碍者の人々への社会の理解が十分になされてなく、登場人物の岬の言葉を借りれば、世界はまだ悪意に満ちているのだ。

そう、これは戦いの物語なのだ。
突然業火に包まれ、全身大火傷という重傷を負い、皮膚移植をされた上に他人に成りすますことを強いられた一人の女子高生が、ピアノを通じて松葉杖を突き、5分以上の演奏ができない不具の身体でコンクールを勝ち抜く。社会の障害者に対する偏見と好奇の目に晒されながらも敢えてその逆境に挑み、岬洋介という素晴らしいピアニストを師に迎えて音楽という雄大に広がる宇宙を具現化させることに執着し、そしてその世界観を一人でも多くの聴者に届けようと苦心する一人の女子高生の戦いだ。

そしてまた彼女の師、岬洋介もまた戦う男だった。
法曹界にその名を轟かせた凄腕の検事正を父に持ち、また自身も司法試験でトップ合格するほどの頭脳と適性を持ちながらピアノの夢を捨てられずに片耳が不自由とハンデを持ちながらも再び音楽家の道を歩み、新進気鋭のピアニストとなった男。ハンデを持つがゆえに世間の残酷さを知っているからこそ、障碍者の遥にも甘い言葉を掛けず、社会の厳しさを教え、その覚悟を常に問う。お坊ちゃん風の穏やかな風貌をしながらも心の中に太くて強い芯を持つ男だ。
彼は音楽を究めんとしようとする者を後押しし、援助を拒まない。

本書はこの2人の音楽の求道者がそれぞれ抱えた肉体的ハンデと戦い、そして世間と戦う物語なのだ。
そして最後の一行として掲げられる本書の題名は再出発するための手向けの言葉なのだ。

音楽用語で模された各章題を並べてみよう。

~嵐のように凶暴に~
~静かに声をひそめて~
~悲嘆に暮れて苦しげに~
~生き生きと高らかに響かせて~
~熱情を込めて祈るように~

これらはまさに主人公香月遥が本書で辿った生き様を見事に表しているが、と同時に突然障害者となった人々がその後の人生で辿る生き方をも示しているように思える。

障害者となる事故や事件はまさに嵐のように凶暴に自身に降りかかってくるだろうし、その後静かに息をひそめて今後のことを考えつつ、悲嘆に暮れて苦しみながら己の身に降りかかった不幸を嘆き悲しむことだろう。
しかしそれが逆に新たな人生を生きるチャンスを、健常であった頃よりももっと一日一日を大切に生きることを教えてくれたと思えば生き生きと高らかに生きていることの喜びを響かせ、そして“今この一瞬”を熱情を込めて祈るように大切に生きていくことだろう。

本書が殺人を扱いながらも実に清々しいのはこの章題に込められた作者の障害者への思いゆえだ。
これほどまでに犯人に対して憎しみどころか潔さや気持ちの良さを感じたミステリはない。
本書の本当のどんでん返しはこの気持ちよさにあると思う。
全くなんというデビュー作なのだ、本書は。


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さよならドビュッシー (宝島社文庫)
中山七里さよならドビュッシー についてのレビュー
No.1207:
(8pt)

“黒い氷”には気を付けろ!

一匹狼の刑事ハリー・ボッシュシリーズ2作目の本書のテーマはずばり麻薬である。メキシコで安価に生産される新種のドラッグ、ブラック・アイスを巡って殺害された麻薬課刑事の絡んだ事件にボッシュは挑む。

ただそこに至るまでの道のりは複雑だ。まず今回3つの事件にボッシュは関わる。

1つはクリスマスの夜に発見されたモーテルでの自殺に見せかけた死体。これがハリウッド署の麻薬課刑事カル・ムーアの死体だった。自殺かと思われたがどうも殺された後に偽装されたことが判る。但しアーヴィング副警視正によってボッシュは捜査を外される。

2つ目はダイナーの裏で見つかった身元不明死体の事件。これは上司のパウンズから任された休職中の同僚ポーターが抱えていた事件だが、その死体発見者がなんとムーアだったことが判る。

3つ目はもともとボッシュが別に抱えていた事件、ハワイの麻薬運び屋ジェイムズ・カッパラニことジミー・キャップスが数週間前に殺害された事件だ。
これはメキシコから出回っているブラック・アイスという新しいドラッグが台頭してきたため、キャップスがその運び屋ダンスをムーアのところに垂れ込んだが、ダンスは証拠不十分で不起訴で釈放された後、何者かによって絞殺されていた。ボッシュはこの事件の捜査でムーアに情報を頼んでいたのだった。

3つの事件に絡むのはカル・ムーアであり、そしてその行先はメキシコのメヒカリという町に辿り着く。身元不明死体の胃の中から発見された蠅の死骸が放射線照射によって生殖抑制された蠅であり、それを育てているエンヴァイロブリード社の養虫場がメヒカリにあったからだ。

さらにブラック・アイスの生産者である麻薬王ウンベルト・ソリージョの秘密製造所はメヒカリにあり、またキャップス殺しの容疑者マーヴィン・ダンスは既にメキシコに逃亡し、恐らくメヒカリにいると思われたからだ。ボッシュはメキシコの麻薬取締局の協力を得てメキシコでの捜査を行う。

メキシコが麻薬に汚染され、警察や司法までもが麻薬マネーによって牛耳られていることは先に読んだウィンズロウの『犬の力』、『ザ・カルテル』で既に知識として織り込み済みなため、ボッシュが彼の地の捜査で苦心惨憺するのは想像がついた。ボッシュに協力しようとするのはメキシコの麻薬取締局(DEA)の捜査官リネイ・コルヴォ、つまりウィンズロウ作品の主役であるアート・ケラーと同じ局の人間で彼もメキシコ司法警察は当てにするなとボッシュに忠告する。
実際今回の事件の被害者の一人であった身元不明死体についてロサンジェルスの領事館に照会している警官カルロス・アギラの上司グスタポ・グレナはどっぷり麻薬王ウンベルト・ソリージョの恩恵を被っているようでボッシュを軽くあしらおうとする。一方アギラは骨のある警官でしかも目ざとく上司が一蹴した被害者がエンヴァイロブリード社で働いていた事実を突き止める。

しかしそれがどうした?というのがメキシコである。
自分に都合の悪い事が起ころうが、見つかろうが買収した高官によって揉み消すよう頼むだけなのだ。そんな四面楚歌状態の中でボッシュはアギラという数少ない協力者と共に捜査を進めていく。

さてこのカルロス・アギラという司法警察捜査官も魅力的である。
麻薬マネーの恩恵を受けてどっぷりと黒く染まっている上司グレナとは異なり、中国系メキシコ人という出自から周囲にはチャーリー・チャンと揶揄されているがしっかりとした観察力とメキシコ人の風習を熟知した捜査に長けている。アメリカ人の常識で捜査をするボッシュには思いも付かない視点でサポートし、そしてそのアギラの指摘が事件の解決への糸口に繋がる。特に最後の驚愕の真相はアギラがいなければそのまま気づかずに真犯人が描いた絵のままで事件は解決していただろう。
1作目も含め、LAという土地柄のせいか、ボッシュとメキシコとの関係は案外に深く、ドールメイカー事件の失態で被った謹慎処分の期間と先般のエレノア・ウィッシュと組んだ事件で受けた傷が完治するまでメキシコで静養していたことから、今後もボッシュとアギラは領国に跨った事件で再び手を組むのかもしれない。

ボッシュという男は自分の人生にどんな形であれ関わった人間の死に対してどこかしら重い責任を負い、犠牲者を弔うかの如く、加害者の捜査に没頭する傾向がある。
前作『ナイトホークス』ではかつての戦友のウィリアム・メドーズを殺害した犯人を執拗に追い立て、今回はたまたま自分の担当する事件の情報を得るために接触した麻薬取締班の警部が自殺に見せかけて殺害されたことで彼は仇を討たんとばかりに捜査にのめり込む。

それは多分彼がヴェトナム戦争を経験しているからだろう。昨日まで一緒に飯を食い、冗談を云い合っていた連中がその日には一瞬のうちに死体となって葬られる。一時たりとも肩を並べた相手が翌日も同じように肩を並べるとは限らない、そんな生と死が紙一重の世界を経験したからこそ、袖振り合うも多生の縁とばかりに彼は自分の身内が死んだかのように捜査にのめり込む。それが彼の流儀とばかりに。

また今回ボッシュは自分の出生について長く触れている。有名な画家と同じ名前を付けた母親を過去に殺された事件があるのはデビュー作で触れられていたが、今度は父親のことについて触れられている。

またムーアの葬儀を行う会社はマカヴォイ・ブラザーズという。これも後に出てくるジャック・マカヴォイと何か関係があるのだろうか?
シリーズをリアルタイムで読んでいたら多分このようなことには気付かなかっただろうから、シリーズが出た後で読んだ私は後のシリーズのミッシング・リンクに気付くという幸運に見舞われているとも云える。まだまだこのようなサプライズがあるだろうことは実に愉しみだ。

本書の題名となっているブラック・アイスは今回の事件のキーとなるメキシコから流入している新種の麻薬の名でもあるが、もう1つ意味がある。
それは冬、雨が降った後に出来るアスファルトの路面凍結する氷のことだ。黒いアスファルトの上に張っているが、しかし見えない氷。ムーアの別れた妻シルヴィアが育ったサンフランシスコで父親が彼女に車の運転を教えていた時の言葉、“黒い氷(ブラック・アイス)には気を付けるんだぞ。上に乗っかるまで危険に気づかないんだが、そうなったらもう手遅れだ。スリップしてハンドルが効かなくなる”からも由来する。
実はこれこそがこの作品の本質を云い当てている。亡くなったムーアをはじめ、その他犠牲になった人々も気づかないうちに黒い氷の上に乗ってしまい、人生のコントロールを失ってしまった人々なのだ。そしてまたボッシュもその1人になろうとしている。しかしどうにか彼は寸でのところで踏み留まっている。
しかし彼が常にいつ刑事を辞めさせられてもおかしくない薄氷の上にいることは間違いない。己の信条と正しいと思ったことを貫くために、彼こそは黒い氷と紙一重なのだ。

前回ではウィッシュとつながりを見出したボッシュは今回もムーアの元妻シルヴィアとつながりを見出し、彼女の魅力に惹かれている自分に驚く。

ウィッシュに惹かれながらも彼女を人生のパートナーとして引き受けたときの責任の重さに身震いしたのに対し、シルヴィアに対しては自分と同類であり、一緒にいたいと願う。
今後2人の関係がどのように続いていくのか解らないが、その行く末はアクセントとしても実に興味深い。
しかし一方で前回公私に亘って相棒となったエレノア・ウィッシュからは刑務所から便りが来て連絡を取り合っているようで、今後ウィッシュが再度ボッシュと何らかの関係を持つのは時間の問題のようで、そのときこの3者の間でどのような化学反応が起きるのか、興味は尽きない。

警察の面子、それぞれの立場よりも自分が納得するために動くボッシュ。敵を作りやすいタイプだが反対に自分には出来ないことを貫くその姿勢に賛同する者も少数派だがいる。今回もあわや警察殺しの容疑者になり、さらには麻薬王の放った殺し屋に射殺されそうにもなる。失職の危機に見舞われながらも数少ない、しかし有能な協力者の力を得て、どうにかハリウッド署に踏み止まったボッシュ。

個人の正義と組織の正義の戦いの中で彼が今後も自分の正義をどこまで貫いていけるのか。
ボッシュが背負った業が重いゆえにこのシリーズが極上の物語になっているのがなんとも皮肉なのだが、それを期待してしまう私を初め、読者諸氏はなんともサディスティックな人たちの集まりだろうと今回改めて深く思った次第である。


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ブラック・アイス (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーブラック・アイス についてのレビュー
No.1206: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

なぜ人形は眠れないのか?

人形探偵シリーズ3作目の本書は前作に続いて長編物。
正直読んだのがはるか昔なため、ストーリーは朧げに覚えているものの、作品のトーンは忘れてしまった。しかし本書はそれまでのシリーズとは一線を画してシリアスなムードが漂う。

それというのも本書では冒頭で鞠小路鞠夫誕生秘話が語られるのだが、これが結構重い話だからだ。

潜在的に友人を疑ったことで人柄ゆえかなかなか本心を出せない朝永自身が敢えて思いのままをさらけ出す存在として鞠夫が生まれた。
友達を疑うという罪悪感、または友人を疑うことへの拒否感、そして人を殺していながらも普通に振る舞う、いやあまつさえその死を悼む姿をさらけ出す友人に対する不信感に対して、良心の呵責に耐え切れずに生れ出た存在、そのように解釈もできるだろう。やがて鞠夫は朝永自身が「見て」いても「観て」いなかったことについても語るようになり、一つの人格を形成するようになる。
つまり主体である朝永が認識しなくとも鞠夫という人格が主体的に認識することで朝永と鞠夫との間で会話が生まれるのだ。腹話術師とその人形というコミカルな設定だが、その実、二重人格、多重人格物が横行した当時だからこそ生まれた興味深いキャラクターである。

さて1991年に刊行された本書。開巻直後の舞台は銀座での立食パーティに2次会が六本木でのディスコ、そして三高の男子―ところで今“三高”なんて言葉が解る人がいるのだろうか。背が“高く”、“高”学歴、“高”収入の意味なのだが―、スポーツカーに乗って海辺の道をドライブし、プレゼントは赤いバラの花束にティファニーのネックレス―やはりオープンハートか?―と非常にバブルの香りが漂う内容である。当時の世相を表しているという意味では非常に貴重な資料にもなりうるだろう。

また時代が変われば価値観も変わるのか、睦月の恋愛感情について今の女性では一種理解しがたい部分が出てくる。

絵に描いたように三高の男性関口になぜか気に入られるようになった睦月。朝永のことを思っていることもあり、関口の誘いを断り続けるが、それでもしつこく関口はモーション―この言葉ももはや死語だなぁ―を掛けてくる。どうやって調べたか解らないアパートの電話番号に毎日の如く電話をし、なかなか逢えないと見るや近所と思えるスーパーの前の喫茶店に有休を採ってまで張り込みをして3日目にとうとう睦月を待ちかまえて捕まえる。
自分なんかのためにそんな苦労を掛けたと睦月は関口に対して心が揺れるのだが、これは現代ではもはやれっきとしたストーカーだろう。現代の女性ならば気味悪がって身の危険を感じるはずであるのに、逆に睦月は心を動かれるのだ。これはもはや喜劇である。

妹尾睦月に付きまとう関口という世の女性の理想を形にしたような男性の心理も不思議だが、本書のメインの謎は連続する放火事件だ。

それ以外にも朝永の大学時代の友人で美人腹話術師柿沼遥が涙を浮かべて朝永の家から出ていった真相は不明だが、それが睦月に朝永宅へお泊りを決意させるトリガーになった。しかし、この牧歌的ミステリにはそんな大人の恋愛では描かれるはずの男女の一夜は省略される。

このシリーズはあと1冊の短編集が最終巻となっている。作者もそれを意図してか人形を介して推理を披露する腹話術師という奇抜さが先行した朝永嘉夫のルーツも描いており、戯画的なキャラクターから友人の犯罪を機に二重人格を持つようになった哀しい過去を持つ一人の男として人間味を与えている。
加えてそれまでただ何となく一緒に行動を共にするような感じでしかなかった妹尾睦月との関係もより踏み込んでいっている。

しかしこれらは云わば物語の縦の軸でありバックストーリーである。主軸となるミステリの部分、色々散りばめられた謎の部分が全く別々に進んで実に纏まりに欠けている。何とも散漫な印象しか残らなかった。

しかしさすがにバブル臭漂うこの物語は今読むとかなり辛いものがある。
軽めのミステリであるが、バブル時代の浮ついた感じと朝永嘉夫と妹尾睦月という大の大人2人が腹話術人形の鞠小路鞠夫にいじられているだけであり、何か物語として心に残る芯がないのである。『人形は眠れない』もそれまでのシリーズのタイトルと比べるとシリアスで意味深だが、読み終わった今、結局何を意味しているのかがよく解らない。

全てにおいてちぐはぐな印象で何か一つ突き抜けないミステリだった。


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人形は眠れない (講談社文庫)
我孫子武丸人形は眠れない についてのレビュー
No.1205: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

スキーのように、スノボのように駆け抜けよう!

実業之日本社文庫から文庫書下ろし刊行されているスキー場を舞台にしたこのシリーズも早や3作目。新たなシリーズとして定着しつつある。ちなみにこのシリーズは『スキー場シリーズ』と呼ばれていることを最近になって知った。

今回も登場するのは前作、前々作に引き続いて根津昇平と瀬利千晶の二人。そして瀬利は既にプロスノーボーダーを引退していることが判明する。

このシリーズでは今まで『白銀ジャック』、『疾風ロンド』で見られたように読者にページを速く捲らせる疾走感を重視したストーリー展開が特徴的だが、本書も同様に冤罪の身である大学生の脇坂竜実と彼の協力者で友人の波川省吾の2人が警察の追手から逃れて自分の無実を証明する「女神」を一刻も早く捕まえなければならないというタイムリミットサスペンスで、くいくいと物語は進む。
ウェブでの感想を読むと謎また謎で読者を推理の迷宮に誘い込むのではなく、非常に解りやすい設定を敢えて前面に押し出してその騒動に巻き込まれる人々の有様を描いているこのシリーズに対する評価は賛否両論で、特にストーリーに深みがないと述べている意見も多々見られるが、それは敢えて東野氏がこのシリーズをスキーまたはスノーボードの疾走感をミステリという形で体感できるようにページターナーに徹しているからに他ならない。それを念頭に置いて読むと実に考えられたミステリであることが判る。
単純な設定をいかに退屈せずに読ませるか、これが最も難しく、しかもこのシリーズでは最後の1行まで演出が施されていて飽きさせない。
もっと読者は作者がどれだけ面白く読み進めるように周到に配慮しているか、その構成の妙に気付くべきである。東野氏は数日経ったら忘れてしまうけれど、読み終わった途端に爽快感が残るような作風を心掛けていることだと理解すべきである。

特に本書では一介の大学生脇坂が同じ大学で法学部の友人波川と共に自分の無実を証明する証人を捜すために里沢スキー場に向かうわけだが、この波川を配置したことで警察が行う捜査の常套手段を先読みして次から次へとその裏を潜るように行動を指示しているところが小気味良い。
また警察もさるもので大学生が思いつく抜け道をすぐに察知して次の手を打つ。
この逃走者と警察の騙し合いがまた愉しい。
特に有力容疑者として目された脇坂が友人と共にスノーボードを持って逃走しているという不可解な事実に対して警察やその手伝いをする女将さんがいろいろな理由を考えつくのもまた面白い。その人その人の価値観で警察は捜査を攪乱するためのフェイクだと推察し、スキー場を愛する女将さんは逮捕される前の最後の晩餐、最後に極上のパウダースノーを存分に愉しんでから自首しようと思ったりと人間の考え方のヴァラエティの豊かさが垣間見える。

またただ軽いというわけではない。東野氏がスキー場を舞台にしたミステリを文庫書下ろしという形で安価に提供する目的として自らもスノーボードを嗜む氏が経営困難に瀕している全国のスキー場に少しでも客足が向くように読者に興味と関心を与えていることだ。

従って、ただの爽快面白エンタテインメントに徹しながらも物語の所々にスキー場で働く人たちの心情や厳しい現状が綴られている。

例えば主人公の1人瀬利千晶にしても、プロボーダーを引退した後の去就は両親が経営する保育園を継ぐことを決意し、今回のゲレンデ・ウェディングを自分のスノーボード人生の最後の花道とし、今後は一切にウィンタースポーツには関わらないと決めていること。
また根津は建築士として父親が経営する建築事務所で働いており、いつかアミューズメントパークのようなスキー場を作ることを夢見ているが、現実の厳しさに直面し、ほとんど手付かずの状態である。

また今回容疑者の脇坂竜実を追う所轄の刑事小杉をサポートする居酒屋の女将川端由季子も旅館も経営しているが先に逝かれた夫の後を継いで女手一つで両方を経営し、スキー場に少しでもお客の足が向くように笑顔でサービスに努めている。だからそんな大切な場所に刑事が大勢詰めかける前に事件を解決したいと願って小杉に協力するのだ。

またスキー場のパトロール隊員は滑降禁止エリアの立入を厳重に監視しているのも怪我なく楽しんでお客さんに帰ってほしいがためだ。彼らは注意するときは決して高圧的でなくむしろ懇願しているかのようだとも書かれている。スキー場を愛するが故の行為であるからだ。

さて冤罪を逃れるために脇坂たちが探す幻の女―書中では「女神」と称されている―。なかなかその正体は判明しない。

また今回は冤罪に問われた脇坂と警察との鬼ごっこが前面になっているため、福丸老人を殺害した真犯人の捜査がなかなか進まないのも特徴的。

しかし何とも甘い結末である。やはりゲレンデは恋の生まれる場所ということか。
リゾートの恋は長続きしないから気を付けないと、などとついつい余計なことを思ってしまった。
このシリーズが終焉を迎えるかは解らないが、シリーズの舞台はあくまでスキー場。東野氏がウィンタースポーツを愛する限り続いていくような気がする。
さて次はどんな事件がゲレンデで起こるのか。不謹慎ながらも次作を期待して待とうとしよう。


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雪煙チェイス
東野圭吾雪煙チェイス についてのレビュー
No.1204: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ただひたすら歩くだけの物語がこれほどまでに深くなるとは…

ロングウォーク。それは全米から選抜された14~16歳の少年100人が参加する競技。
ひたすら南へ歩き続ける実にシンプルなこの競技はしかし、競技者がたった1人になるまで続けられる。歩行速度が時速4マイルを下回ると警告が発せられ、それが1時間に4回まで達すると並走する兵士たちに銃殺される。

最後の1人となった少年は賞賛され、何でも望むものが得られる。

この何ともシンプルかつ戦慄を覚えるワンアイデア物を実に400ページ弱に亘って物語として展開するキングの筆力にただただ圧倒される。

その始まりも実にシンプルでロングウォークが始まるまでの葛藤や家族とのやり取りなどは一切排除され、いきなり物語開始わずか13ページ目でロングウォークは始まる。しかも始まるまでに上に書いたような設定に関する説明は一切なく、登場人物たちの会話や独白から推察するしかない。つまり純粋に死の長距離歩行のみが物語として語られるのだ。

100人の少年による決死行。その中の1人レイモンド・ギャラティを中心に物語は進む。出身地は出発点であるメイン州であるため、通り道では彼を応援する人々で溢れている。

その彼と共にウォーキングを共にするのがピーター・マクヴリース。無駄口を叩きながら時に励まし合い、またお互いの身の内を話しながら歩を進めていく。

その他にもロングウォーク終了後はその体験を1冊の本に纏めようと出場者全ての名前を記録し、話を聞くハークネスに、終始周囲に毒をまき散らしながら疎まれるバーコヴィッチ。そしていつも一人でしんがりを歩きながらも最初の出発時以外警告を貰わず、淡々と歩き、時にギャラティたちに過去のロングウォークについて訳知り顔で語る正体不明のステビンズとが交錯し、この単純な物語に様々なエピソードを添えていく。

しかしとにかくシンプルかつ残酷なイベントだ。ひたすら歩き続けることが生存への唯一の道。しかもその間睡眠さえも許されず、用足しも歩きながら、または警告覚悟で極力最小限の時間ロスで行わなければならない。

そんな極限状態での行脚でレイモンドはしばしば意識朦朧となり、過去の思い出が蘇る。
それは恋人ジャンとの出逢いだったり、小さい頃にいた隣人のジミーと2人で女性のヌードカレンダーをこっそり隠れてみて女の裸について語り合ったことなどが時折挟まれる。人は死ぬ前に過去を思い出すというが、この死の長距離歩行は黄泉の国への道行であるから当然なのかもしれない。

ただひたすら歩くという単純な行為は思春期の少年たちに様々な変化をもたらす。

馬鹿話からそれぞれの恋話、色んな都市伝説。思春期の少年たちが集まっては繰り返す毒にも薬にならない他愛のない話が交わされるが、やがて1人また1人と犠牲者が増え、次は我が身かと死がリアルに迫るにつれて、そして疲労困憊し、意識が白濁とし出すにつれて口数は少なくなり、意識は内面へと向かう。時にはそれは死と生について考える哲学的な思考に至りもする。

そしてどんどん人々が死んでいくに至り、彼らもリアルを悟るのだ。
ロングウォークの通知が来た時に彼らは自らが英雄に選ばれたと思い、即参加する者もいれば躊躇しながらも最終的に参加を決めた者もいる。また不参加表明のために直前になって参加意向の問い合わせが来た補欠選手もいる。

しかしそんな彼らはあくまでこれは年一回のイベントであり、最後の1人になるまでの死のレースであると解っておきながら、どこかで勝利者以外は死ぬという事実を都市伝説のように捉えていた参加者も少なくない。
しかし現実にどんどん脱落者が目の前で射殺され、脳みそが飛び散る風景が繰り返されるうちに明日は我が身かもというリアルが生まれ、変化していく。

とりわけその中でもハンク・オルソンという少年が印象的だ。
レースが始まる前の集合場所では訳知り顔でロングウォークに関する色んな話と攻略法などを述べ、更に威勢のよさを見せつけるようなパフォーマンスをしていたが、やがて足が痛み、レース継続困難になるにつけて寡黙となり、内に内に籠っていく。そしてもはや飲食をも忘れ、排便も歩きながら垂れ流し、ただただ前に向かって足を交互に出すだけの存在と化していく。

突然の腹痛に襲われ、リタイアを余儀なくされる者、足が麻痺して歩くなり、悔しさを滲ませながら銃殺される者。色んな死にざまがここには書かれている。

また印象的なのはこの生死を賭けたレースを通り沿いにギャラリーがいることだ。
時に彼らは参加者を応援し、思春期の少年たちの有り余る性欲を挑発するかのようにセクシーなポーズを取る女性もいれば、違反行為と知りながら食べ物を振る舞おうとする者、家族で朝食を食べながら参加者に手を振る者もいる。さらに彼らが口にした携帯食の入れ物をホームランボールであるかのように記念品として奪い合う者、参加者が排便するところをわざわざ凝視して写真を撮る者もいる。
死に直面した若い少年たちを前に実に牧歌的で自分本位に振る舞う人々とのこのギャップが実は現代社会の問題を皮肉に表しているかのようだ。

今目の前に死に行く人がいるのにもかかわらず、それを傍観し、または見世物として楽しむ人々こそが今の群衆だ。
テレビを通して観る戦争、その現実味の無さにテレビゲームを観ているような離隔感、リアルをリアルと感じない無神経さの怖さがここに現れている。彼らはこの残酷なレースを行う政府を批判せずに年一度のイベントとみなしている時点でもはや人の生き死にに無関心であるのだ。

一応本書はアメリカを舞台にしながらも現代のアメリカではない。裏表紙の紹介には近未来のアメリカと書かれているが、これは正解ではないだろう。地理、文化とも実在するアメリカではあるが我々の住んでいる世界とは別の次元のアメリカでの物語である。
それを裏付ける叙述としてこのロングウォークの参加取消の〆切が4月31日となっているからだ。つまり現実にはそんな日は存在しないことから本書の舞台が我々とは地続きでない世界であることが判る。
しかしここに書かれているこの奇妙な現実感は一体何なんだろうか。若い命が死に行くことを喜ぶ様は、そうまさに我が子を戦争に送り出し、それを勇気ある行動と称賛する風景に近似している。そう考えるとこの荒唐無稽な物語も単なる読み物として一蹴できない怖さがある。

シンプルゆえに考えさせられる作品。
解説によればこれを学生時代にキングは書いた実質的な処女作であるとのこと。だからこそ少年たちの心情や描写が実に瑞々しいのか。
この作品が現在絶版状態であるのが非常に惜しい。復刊を強く求めたい。


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バックマン・ブックス〈4〉死のロングウォーク (扶桑社ミステリー)
No.1203:
(9pt)

エレノア・ウィッシュはボッシュにとっての“Wish”だったのか

マイクル・コナリーデビュー作にしてMWA賞の新人賞に輝いた今なお続くハリー・ボッシュシリーズ第1作の本書は読後そんな感慨が迫りくる物語だ。

さてこれほどまでに長くシリーズが続くハリー・ボッシュという人物。その人物像はこの1作目でかなり詳細に書かれている。

本名ヒエロニムス・ボッシュ。孤児院で育った徹頭徹尾の一匹狼。
当時40歳の彼はヴェトナム戦争時代にトンネル兵士として参戦し、その後、ロス市警に入署し、パトロール警官からたった8年で刑事へ、そして花形の強盗殺人課へとエリートコースを辿る。その活躍はスター刑事として本も数冊書かれ、さらに彼を主人公にしたTV映画やTVシリーズが作られ、新聞も日夜彼の活躍を報じるも、ドールメイカー事件で誤って容疑者を殺害した廉で1か月の停職処分と下水と呼ばれるハリウッド署への左遷を食らう。

自身は戦争の後遺症で時々不眠症に悩まされ、その影響で人を撃つことと暴力に対して抵抗がなく、躊躇わずに人を殺せる性格である。

風貌は身長6フィートプラス数インチでさほど背は高くなく、やせぎすだが筋肉質で針金のように細くて丈夫だと評されている。目は茶色がかった黒色で髪には白いものが混じり出している。

さて彼が関わる事件はかつて自分がヴェトナム戦争に従軍していた頃、同じようにトンネル兵士として戦友だったウィリアム・メドーズという男がハリウッド湖のパイプで薬物過剰摂取で死んでいるのが発見されるが、ボッシュはこれが事故死に見せかけた殺人だと信じ、捜査する。やがて彼が銀行の貸金庫強盗の容疑者となっていることが判り、その事件をFBIが扱っていることから一度は拒否されるも、強引な手を使って一転FBIとの合同捜査に切り替わる。

このボッシュという男、とにかく内外に敵の多い人物だ。単独捜査を好み、犯人検挙率も高いため、TVシリーズが作られるほどのスターぶりを発揮するが、その活躍を妬む周囲の反感を買い、虎視眈々と失墜するネタを狙われている。

ボッシュ本人は自分が正しいと思ったことを決して曲げず、事故死として処理されそうだった事件も数々の証拠を挙げることで殺人事件として周囲に納得させる執念を持っている。また事件解決のためには小事よりも大事を重んじる性格で、捜査のパートナーとなったエレノアの杓子定規な性格―つまりどんな微罪であっても犯人を逃さない―と反目し合いながらもいつしかお互いに魅かれ合っていく。

一匹狼の刑事、ヴェトナム戦争のトラウマ、男と女のロマンス。
このように本書を構成する要素を並べると実に典型的なハードボイルド警察小説である。しかしどことなく他の凡百の小説と一線を画するように思えるのはこのボッシュという人物に奥行きを感じるからかもしれない。

仕事の終わりに片持ち梁構造の、金持ち連中が住まう一軒家でハリウッドの景色を眺めながらジャズを流してビールを飲むことを至上の愉しみとしている。読書にも造詣が深く、自分の名前の由来が高名な画家であることがきっかけかもしれないが、絵画にもある程度の知識を持つ。ボッシュがエレノアと魅かれるのも彼女の自宅にある蔵書と彼女の家に掛かっている一幅の絵のレプリカが自分との精神的つながりを見出すからだ。こんな描写に単純なタフガイ以上の存在感を印象付けられる。

捜査が進むにつれて時に反目し合い、時に長年の相棒のように振る舞いながらボッシュとエレノアは長く2人でいる時間の中でお互いの人間性を確認し合い、そして個人的なことを徐々に話し出していく。
2人での語らいのシーンは数多くあるが、その中で私は2人で強盗グループが襲撃すると目される富裕層相手の貸金庫会社に張り込んでいる時に車中で訥々と語り合うシーンが好きだ。その時の2人は長く流れる時の隙間を埋めるための会話を考えるような関係ではなくなり、沈黙が心地よくなっている関係となっている。張り込みの最中でお互いの人生の分岐点になった過去の出来事を語り、そしてその出来事で自らが思いもしなかった心情について述べられる。そして初めてその時にボッシュはエレノアを仕事上のパートナーから人生のパートナーとして意識し、その責任感に身震いする。一匹狼の敏腕刑事の男が連れ合いを意識したときに初めてそれを守っていく勇気と怖さを目の当たりにするのである。何とも味わい深いシーンだ。

そして彼の率いる元ヴェトナム兵士による銀行強盗が貸金庫に押し入ってからの攻防が実に写実的だ。本書のクライマックスと云っていいシーンだ。

そしてボッシュは彼らが侵入した貸金庫会社の下にある地下下水道の中に飛び下り、追跡する。それはまさに彼がヴェトナム戦争時代に経験したトンネル兵士の再来だった。真っ暗闇の中、いつ銃弾が飛んでくるか解らない緊張の下、ボッシュは過去と対峙しながら犯人を追う。

この一連の流れは実に映画的であり、また手に汗握るシーンだ。1作目から主人公の過去とマッチしたクライマックスシーンをきちんと用意している辺り、新人離れした構想力を持っているように感じた。

つまり本書に登場する人々に全て共通するのはヴェトナム戦争だ。
かの戦争で普通の生活が出来なくなり、犯罪に関わる生活を繰り返す者、混乱に乗じて一攫千金を得る者、またそれに一役買って社会的地位を得た者、その渦中に取り込まれて無残な死を遂げた者、愛する者を喪った者、もしくはそんな過去を振り払い、己の正義を貫く者。
十人十色のそれぞれの人生が交錯し、今回の事件に収束していったことが判る。

本書では最初の犠牲者となったウィリアム・メドーズという人物を忘れてはならないだろう。
暗闇の中でいつ敵が襲い掛かってくるか解らないトンネル兵士を担いながら、ボッシュを含めた他の兵士とは異なり、いつも躊躇なく穴蔵に飛び込み、暗闇で戦闘を繰り返してきた男ウィリアム・メドーズ。暗闇の中でヴェトコンどもを次々と殺し、戦利品としてその片耳を持ち帰っていた。その数は最高で33個にも上った。彼はヴェトナム戦争後も彼の地に留まり、戦闘に従事していた。そしてアメリカに戻ってからも水道局や水道電力局に就職し、またもや地下に潜る死後淤に従事していた。ヴェトナム戦争の経験で地下こそが彼の居場所になってしまっていた男。ただそこには安らぎはなく、しばしば麻薬に染まり、入出所を繰り返していた男でもある。

本書の原題は“Black Echo”。これはボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いを示している。何とも緊迫した題名だ。

トンネル兵士とはヴェトナム人が村の下にトンネルを張り巡らしており、家と家、村と村、ジャングルを繋いでおり、そのトンネルの中に潜ってヴェトコン達と戦う工作兵のことを指す。

翻って邦題の“ナイトホークス”とは画家エドワード・ホッパーが書いた一幅の絵のタイトル“夜ふかしする人たち”を指す。街角のとある店で女性と一緒にいる自分を一人の自分が見ているという絵だ。この絵のレプリカが捜査のパートナーとなるFBI捜査官エレノア・ウィッシュの自宅に飾られており、しかもボッシュ自身も好きな絵であった。そしてその訪問がきっかけとなって2人が急接近する。

つまり原題ではボッシュがヴェトナム戦争の暗い過去との対峙と、かつて戦友だったウィリアム・メドーズとの、忌まわしい戦争と一緒に潜り抜けた男への鎮魂が謳われているのに対し、邦題では事件を通じてパートナーとなるボッシュとエレノア・ウィッシュとの新たな絆を謳っているところに大きな違いがある。

そしてこのパートナーの名前がウィッシュ、つまり“望み”であることが象徴的だ。邦訳ではしきりに「ボッシュとウィッシュは」と評され、決して「ハリーとエレノアは」ではない。それはまだお互いがファーストネームで呼び合うほど仲が接近していないことを示しているのだろうが、一方でボッシュの捜査には、行動には常に“望み”が伴っているという風にも読み取れる。
原文を当たっていないので正解ではないのかもしれないが恐らくは“Bosch and Wish ~”とか“Bosch ~ with Wish”という風に表記されているのではないだろうか。そう考えると本書は下水と呼ばれる最下層のハリウッド署に埋もれる“堕ちた英雄”の再生の物語であり、その望みとなるのがエレノアというように読める。
つまりエレノア・ウィッシュこそはハリー・ボッシュの救いの女神であったのだ。だからこそ邦題はエレノアとボッシュの関係を象徴する一幅の絵のタイトルを冠した、そういう風に考えるとなかなかに深い題名だと云える。

つまり原題ではボッシュとメドーズとヴェトナム戦争との関係を謳い、邦題ではボッシュとウィッシュの繋がりを謳っている。
その後に刊行される作品が『ブラック・アイス』に『ブラック・ハート』であることを考えると統一性を持たせるために『ブラック・エコー』とすべきだろうが、私は邦題の方が本書のテーマに合っていると思う。最後のエピローグがそれを裏付けている。

いわゆるハリウッド映画やドラマ受けしそうな典型的な展開を見せながらも、実はそのベタな展開こそが物語の仕掛けである強かさこそが数多ある刑事小説と、ハードボイルド小説と一線を画す要素なのかもしれない。とにかく作者コナリーが本書を著すに当たって徹底的に同種の小説のみならずエンタテインメントを研究しているのがこのデビュー作からも推し量れる。

さて本書はこの後長く続くハリー・ボッシュサーガの幕開けに過ぎない。これ以降の作品が世の海外ミステリファンの胸を躍らせ、作品を出すたびに今なお年間ランキングに名を連ねているのはご存知の通りだ。
まずは本書で言及されているボッシュが降格人事を受け入れることになったドールメイカー事件に彼の母親が関わっていたという事実が気になる。新しいシリーズを、それも世評高いシリーズを読み始めるというのはなんとも胸躍ることか。
次巻以降のボッシュの長い道行をじっくり味わっていこう。


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ナイトホークス〈上〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーナイトホークス についてのレビュー
No.1202: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

残酷ショーのオンパレードだが、しかし…

綾辻行人氏、容赦なし!

まさに王道のスプラッター・ホラー。綾辻氏のスプラッター・ホラー好きはつとに有名だが、その趣味を前面に満遍なく筆に注ぎ込んだのが本書だ。

TCメンバーという、年齢も性別、国籍、職業も無関係である一つの条件を満たしていれば入会できる親睦団体の、東京第二支部として集まった面々。

中学教師の磯部秀二と真弓夫妻、会社員の大八木鉄男、自称カメラマンの洲藤敏彦、大学生の沖元優介、OLの千歳エリ、女子大生の茜由美子、中学生の麻宮守がそのメンバーである。それぞれに色んな過去を抱えており、ある者は自分の息子を事故で亡くし、またある者は母親を事故で亡くしている。

まずこの手の連続殺人鬼による殺戮劇にありがちなセックス中の殺人で幕を開けるところが笑える。しかしその笑いも束の間でその死にざまの惨たらしさに思わず目を背けたくなる。

都合15ページ亘って描写される殺人鬼による殺戮ショーの凄まじさはまさに戦慄ものだ。
木杭で下半身同士を打ち付けられ、身動き取れないまま、男は首を斧で刈られ、女はまず左足を太腿から切断された後、左腕を肘から切られ、そして首を刈られるという凄惨さ。その描写が実にリアルで凄まじい。

その後も綾辻氏による殺戮ショーは続く。3人目の犠牲者は焚火の中に顔を押し付けられ、焼け爛れされた後、頭を斧によって割られる。

4人目の犠牲者は両足を切断され、逃げられなくなったところを2人目の犠牲者の左腕を喉にねじ込まれる。

5人目の犠牲者はさらに凄惨だ。天井から逆さに吊るされた状態で眼球を錐で繰りぬかれ、視神経が付いた状態で自身の口の中に入れられる。更には腹を掻っ捌かれ、流れ出た腸を口の中に咥えさせられ、もはや正常な判断が出来ないまま、生に執着した犠牲者は己の腸とは知らずに生きるために貪り食って死ぬ。

6人目の犠牲者は頭を両手で挟み込まれ、親指を両目に押し込められて潰された上、首を180度捻じ曲げられた状態でぺしゃんこに潰される。

7人目の犠牲者は手首を切られた後、馬乗りにされ、片手をぐいぐいと口の中に押し込まれ、何と食道の壁を突き破り、胃を鷲掴みにされて口から引き抜かれる。

どうだろう、この残酷ショーのオンパレードは。
この徹底した残酷さはなかなか書けるものではない。生半可な想像力ではこれほど凄まじい殺人方法が浮かばないからだ。
それを着想し、生々しい描写で執拗に描き続ける綾辻氏。
本書を書くとき、彼の中に一己の殺戮マシーンが心に宿っていたのではないだろうか。つまり作者自身が殺人鬼になり切っていた。そう思わせるほどの怖さと迫真さに満ちている。

しかもこれほどの典型的なスプラッター・ホラーに綾辻氏はある仕掛けを施している。

最後の生存者1人になった時、その仕掛けが判明する。

このある条件は最後の方で解った。

典型的なスプラッター・ホラーを綾辻行人氏が書くわけがない、何かあるはずだと期待して読んだのだが、その期待が最後で萎んでしまった。
むしろ逆にシンプルに徹底したB級ホラーぶりを愉しむが如く、存分に筆を奮ってほしかったくらいだ。最後の真相を読むとなおさらそう思う。

しかし本書はこれでは終わらない。今回発見されなかった双葉山の殺人鬼が再び姿を現す『殺人鬼Ⅱ』が控えている。
このような出来すぎな結末になっていないよう、更に上のサプライズを今度こそ期待したい。


▼以下、ネタバレ感想
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殺人鬼  ‐‐覚醒篇 (角川文庫)
綾辻行人殺人鬼 についてのレビュー
No.1201: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ディーヴァーにしては遅すぎたテーマか

キャサリン・ダンスシリーズ3作目の本書は休暇中に旅先で遭遇する友人のミュージシャンのストーカー事件に巻き込まれるという異色の展開だ。
従って彼女の所属するカリフォルニア州捜査局(CBI)モンテレー支局の面々は登場せず、電話で後方支援に回るのみ。彼女の仲間は旅先フレズノを管轄とするフレズノ・マデラ合同保安官事務所の捜査官たちだ。
しかしリンカーン・ライムシリーズも3作『エンプティ―・チェア』ではライムが脊髄手術で訪れたノースカロライナ州を舞台にした、勝手違う地での事件を扱っていたので、どうもシリーズ3作目というのはディーヴァーではシリーズの転換期に当たるようだ。

そして出先での捜査、しかも地方の保安官事務所の上位組織であるCBIは彼らにとっては目の上のタンコブのようで最初からキャサリンに対して物見遊山的に捜査に加わろうとする輩と色眼鏡を掛けて見ており、全く協力的ではない。これは定石通りだが、彼らがキャサリンと手を組むのは早々に訪れ、事件発生の2日目、ページ数にして170ページ辺りで訪れる。この展開の速さは正直意外だった。

さてストーカー行為は現在日本でも問題になっており、それが原因で女優の卵や若い女性が殺害される事件が最近になっても起こっている。一番怖いのはストーカーが自己中心的で相手を喜ばそうと思ってその行為を行っており、しかも彼ら彼女らが決して他人の意見や制止を認めようとしないことだ。
自分の信条と好意に狂信的であり、しかもそれを悪い事だと思ってない。実に質の悪い犯罪者と云えよう。

本書に出てくるエドウィン・シャープも実に薄気味悪い。見かけは185~190センチの長身で身ぎれいにしたヘアスタイルに服装で好男子の風貌だが、その目の奥にはどこか狂信的な輝きが潜んでおり、常に何かを探ろうとじっと対象物を見つめている。そしてなぜか初対面にも関わらず、相手の名前を、場合によっては近しい人しか知りえぬファーストネームさえも知っている男。
この底の知れないところと快活な風貌がアンバランスで逆に恐怖を誘う。

そして作中にも書かれているようにストーカーのようにあることに対して妄信的に信じて疑わない人々、また嘘を真実のように信じて話す人々には人間噓発見器のダンスが得意とするキネシクスが通用しないのだ。
事件発生後の3日目の火曜日にダンスはエドウィン自らのリクエストによって尋問を行うが、彼の得体の知れない笑みに惑わされて本領を発揮できなく、時には先方に主導権を握られそうになる。結局彼が犯人か否かを判定できずに終わる。

余談になるが、このキャサリン・ダンスシリーズは彼女の得意とするキネシクスがほとんど機能せずに物語が進む。つまりダンスは自身のシリーズになるとただの優秀な捜査官に過ぎなくなり、“人間噓発見器”としての特色が全く生きないのだ。
一方のリンカーン・ライムシリーズがライムの精密機械のような鑑定技術と証拠物件から真相を見破る恐るべき洞察力・推理力を売り物にしているのとは実に対照的である。

そしてライムと云えば、これまでこのシリーズにもカメオ出演でチョイ役で出ていたが、本書ではとうとうフレズノに赴いて捜査に加わる。そして彼の鑑定技術がその後の捜査の進展に大きな助力となり、犯人逮捕の決め手になるのだ。
この演出はファンサービスとしては上等だが、一方でこれでは一体どちらのシリーズなのかと首を傾げたくなる。

また本書ではディーヴァーお得意の音楽業界を扱っているところもポイントだ。ディーヴァー自身が元フォーク歌手を目指していたことはつとに有名で、本書で挿入されるカントリー歌手ケイリーの歌詞ではその片鱗を覗かせている。

まず今回ダンスが事件に巻き込まれる発端が休暇を利用して自身で運営しているウェブサイトを通じて著作権を取得する手伝いをし、さらに販売までする世間にほとんど認知されていない在野のアーティストの曲を収集する“ソング・キャッチャー”としての旅であることだ。このことからも本書が音楽に纏わるあれこれをテーマにしていることが判る。

またこのケイリー・タウンだが、私の中では彼女をテイラー・スウィフトに変換して読んでいた。特にケイリーがカントリー・ミュージック協会の最優秀賞を受賞したときのある事件のエピソードに関してはテイラーの2009年のグラミー賞に纏わるカニエ・ウェストとの騒動を彷彿させる。そうするとまさにぴったりで、後で調べたところ、作者自身彼女をモデルにしているとの記述があり、大きく頷いてしまった。

また音楽業界の変遷についても筆が大きく割かれている。
17世紀の、まだ録音機器がない時代にコンサートやオペラハウス、ダンスホールなどで生演奏を楽しんでいた時代に始まり、エジソンによって発明される蓄音機によって家庭で音楽が楽しめるようになり、そこから技術革新で様々な音楽媒体が生まれたことが説明されているが、やはりとりわけ筆に熱がこもっていると感じられるのは最近のウェブを利用しての音楽配信サービスに移行してからの無法地帯と化した音楽業界の実情だ。
合理主義のアメリカ人は利便性を優先するがためにレコードやCDといった物として音楽を聴くことから単にデータとして自身のパソコンやスマートフォンなどに取り込んで、しかも超安値で何百万曲も自由に、違法音楽配信サービスを利用すれば無料で好きな曲だけチョイスして楽しむという現状を、ミュージシャンを志した作者自身が嘆いているように感じられる。

アメリカでは既にタワーレコードは潰れてしまったが、物その物に価値を見出す日本人はまだ大型レコード店が廃業するまでには至っていない。特に渋谷のど真ん中で複層階のビルが1棟まるまるレコード店であるというタワーレコード渋谷店は外国人にとって驚きの対象らしい。

さらに本書で挿入され、事件に大いに関係するケイリー・タウンの楽曲も実際にウェブサイトで公表され、販売されているとのこと。単に題材をシンガーにしただけでなく、実在するかのようにアルバムまで1枚作ってしまうディーヴァーのサーヴィス旺盛さには驚いた。

他にもザ・ビートルズの未発表曲がある、ケイリーに隠し子がいて、それが姉の娘であった、等々音楽業界にありそうなエピソードが満載されている。

そしてもはや定番と云っていいどんでん返し。

本書のどんでん返しはミスディレクションの魔術師ディーヴァーだからこそ安易な誘導には引っ掛からないと疑いながら読む読者ほど引っ掛かるミスディレクションだろう。

しかしストーカーという人種はどうしようもないなとつくづく思う。相手が「自分だけ」を特別な誰かだと思っていると思い込み、そしてそれは「自分だけ」が理解していると思い込む。相手にとってそんなワン・アンド・オンリーであると思い、自己愛をその人物への愛へと変換する。どんなに相手が異を唱えても、邪険に扱っても愛情の裏返し、周囲に対する恥ずかしさからくるごまかしとしか捉えられない。

そして自分が作り出した「偶像」を愛していると気付くと一転して至上の愛から強姦魔、殺人魔に転換する。「自分だけ」の物にならなかったら他の誰の手にも渡らぬようにしてやる、と。

まさにエドウィン・シャープこそはその典型。いつの間にか結婚したことになっていたりと実に思い込みが激しい。
人は辛い時に希望にすがってその痛みを和らげようとする。正直私も過去の恋愛で振られた時は連絡不通になっても忙しいだけだ、電源が偶々切れているだけだと都合のいいように解釈していた。別れて半年ぐらい経ったときに再びその女性と逢って食事することになった時には、逢えばまた寄りを戻せると信じて疑わなかったが、逢って話しているうちに彼女の中で自分は既に過去の男になっていることに気付いた。逆にそのことで吹っ切れた。
自分自身の経験を踏まえてこのエドウィン・シャープという人物のことを考えると人というのは紙一重で普通から狂人へと変わるのだなぁと痛感する。自分がこのシャープほど人に執着することはないとは思うが、例えば私は他人よりも読書、洋楽がディープに好きなのだが、この対象が人になったのがストーカーなのかもしれない。欲しい本を求めてあらゆる書店やウェブサイトを時間かけて逍遥することに何の苦労も感じないから少しだけだがシャープの執着ぶりも理解はできる。

ただやはり題材が古いなぁという印象は拭えない。今更ストーカーをディーヴァーが扱うのかという気持ちがある。
たまたま今まで扱ってきた犯罪者にストーカーがなかったから扱ったのかもしれないが、今までの例えばウォッチ・メイカーやイリュージョニストを経た今では犯罪者のスケールダウンした感は否めない。遅すぎた作品と云えよう。

読了後、ディーヴァーのHPを訪れ、本書に収録されているケイリー・タウンの楽曲を聴いてみた。いやはや片手間で作ったものではなく、しっかり商業的に作られており、驚いた。
書中に挿入されている歌詞から抱く自分でイメージした楽曲と実際の曲がどれほど近しいか確認するのも一興だろう。個人的には「ユア・シャドウ」は本書をけん引する重要な曲なだけあって、イメージ通りの良曲だったが、かつて幼い頃に住んでいた家のことを歌った感傷的な「銀の採れる山の近くで」がアップテンポな曲だったのは意外だった。
物語と共に音楽も愉しめる、まさに一粒で二度おいしい作品だ。稀代のベストセラー作家のエンタテインメントは文筆のみに留まらないのだなぁと大いに感心した。

さて既に刊行されているダンス・シリーズの次作『煽動者』の帯には大きく「キャサリン・ダンス、左遷」の文字が謳ってある。またも慣れぬ地での捜査となるのか、色々想像が広がり、興味は尽きない。


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シャドウ・ストーカー
No.1200:
(5pt)

オカルトかミステリか?フィルポッツは我々を揺さぶる

フィルポッツの再評価が止まらない!
『溺死人』の復刊から続いて新訳刊行された『だれがコマドリを殺したのか?』が望外の好評を以って迎えられたお陰でこれまた長らく絶版状態だった本書が復刊の運びとなった。何とも喜ばしいことだ。

「人を殺す部屋」という怪奇じみた設定は古典ミステリではよく用いられたテーマで、代表的なのはカーター・ディクスンの『赤後家の殺人』だろう。
しかしミステリアスな設定ゆえに逆に真相が判明すると、なんとも肩透かしを覚えるのも事実である。

そんな謎を英国文壇の大御所フィルポッツが扱ったのが本書だ。

過去に2人の死人を出した灰色の部屋。一見ごく普通の部屋だが、宿泊した人物はどこにも外傷がないまま、事切れた状態で発見される。そしてその話を聞いた娘の花婿が周囲の制止を振り切って泊まって絶命し、更に捜査に訪れた名刑事は白昼堂々、部屋の調査中にたった1時間ほどで絶命する。更に花婿の父親は神への強い信仰心を武器に立ち向かうがこれも敢え無く同じ末路に至る。
立て続けに3人も亡くなる驚きの展開である。

この怪異現象に対して文学畑出身のフィルポッツらしく、単なるミステリに収まらない記述が散見される。

特に息子トーマス・メイを灰色の部屋で喪った牧師セプティマス・メイが人智を超えた神の御手による仕業であるから、信仰心の厚い自分が部屋で一晩祈りを捧げて邪悪な物を一掃しようと提案してからの館主ウォルター卿と係り付けの医師マナリングとの押し問答が延々17ページに亘って繰り広げられる。

その後も信仰心の権化の如きメイ牧師と合理的解決を試みる刑事もしくは館主の甥のヘンリーとの問答が繰り広げられる。

一見怪異現象だと思われていた物事が合理的に解明される驚きをもたらしたのがポーでそれがミステリの始まりだとされている。
フィルポッツの最初期に当たる本書では「人が悉く死せる部屋」を題材にし、この謎に対して怪異か犯罪かの両面で登場人物たちが議論を繰り広げるのが上の件なのだ。

この辺はフィルポッツなりのある仕掛けなのかもしれない。
不可解な事件に対して合理的な解決がなされるのかという不安と期待を読者に煽りながら、鳴り物入りで登場した名探偵の誉れ高き名刑事はあえなく屈し、退場する。そして牧師の口から摩訶不思議な事件は過去に死んだ者たちの想念もしくは霊によるものであり、もはや祈りによって解消されるというオカルト的解決が主張され、屋敷の主は洗脳されたかのように牧師の主張に縋り、除霊をお願いする。
この館主ウォルター卿の揺らぎはつまり読者をも揺さぶっているように思える。

オカルトかミステリか?
その両軸で揺れながら物語は進み、結論から云えばミステリとして一人のイタリア人の老人によって合理的に解決がされる。

正直この真相には驚いた。
上に書いたように往々にして怪奇めいた謎は大上段に構える割には真相が陳腐な印象を受けるが、本書は歴史の因果が現代に及ぶもので、しかもそれまでの物語でウォルター卿の人となりとレノックス一家の歴史でさりげなく説明が施されている。
さすが文豪フィルポッツの手になるものだと感心した。

ある意味戦慄を覚える真相である。

しかしそれでも訳がひどすぎた。およそ会話としてしゃべるような言葉でない文章でほとんど占められており、しばしば何を云っているのか解らず何度も読み返さなければならなかったし、また眠気も大いに誘った。
さらに誤字も散見された。そんな記述者の些末なミスや技量不足で本書の評価が貶められていることを考えるとなんとも哀しい。この悪訳ゆえに今まで長らく絶版だったのではないか。
奥付を見ると1985年に3版が出て以来の復刊である。実に30年以上も絶版状態にあったわけだ。

上に書いたように最近になってフィルポッツ作品が別名義の物も含めて初訳刊行、復刊さらに新訳再刊されている。フィルポッツを読んだのは学生時代だったからこの再評価は実に嬉しい。
復刊は喜ばしいことだが、しかしその前に一度刊行する前に中身を読んでいただきたい。その日本語が現在も鑑賞に耐えられるかどうかを見定めてほしい。
そうしないと単なるブームで終わってしまうだろうし、ミステリ読者の古典ミステリ離れ、いや翻訳作品の読みにくさから海外ミステリ全般に亘って手を取らなくなる傾向に拍車がかかるだけである。
出版業が商業のみならず文化の継承と発信を使命としているならばそのことを念頭に置いてほしいものだ。


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灰色の部屋 (創元推理文庫 111-3)
イーデン・フィルポッツ灰色の部屋 についてのレビュー
No.1199: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)
【ネタバレかも!?】 (1件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

昭和、そして平成を生きた人々の人生劇場が幕を閉じる

加賀恭一郎の父親との確執は彼が初登場した『卒業 雪月花殺人ゲーム』の時点で明らかになっており、その原因が仕事に没頭し、家庭を顧みない父の母親の仕打ちに対する嫌悪であったことは書かれていた。しかし父隆正との確執については書かれるものの、離婚した母親のことはほとんど何も書かれなかった。そして今回初めて離婚して消息知れずとなった加賀の母親、田島百合子に焦点が当てられた。

旅行で行った時の印象が良かったというそれだけの理由で何の伝手もなく仙台に身を落ち着けた百合子。瓜実顔の美人ですぐにスナックの経営者に気に入れられ、ママに落ち着き、彼女の評判で店も繫盛し出した百合子の人生はしかし一般女性の幸せとは程遠いものだ。たった1Kの部屋で16年も過ごした彼女の心の謎はいかばかりか。

そして田島百合子の人生に一時のみ交錯した綿部俊一という男性。それが現在加賀の捜査する事件と密接に絡み合う。

謎めいた母親の過去と滋賀の1人の女性の東京での不審死。この何の関係のない事件が16年の歳月を経て交錯する。決して交わることのないと思われた2つの縦糸が1人の謎めいた男性を横糸にして交わっていく。
実質的な捜査担当者である捜査一課の刑事で加賀の従兄の松宮と図らずも母の過去の男と対峙することになった加賀。彼らが事件の細い繋がりを1本1本解きほぐしていくごとに現れる意外な人間関係。次々と現れる新事実にページを捲る手が止まらない。この牽引力はいささかも衰えず、まさに東野圭吾氏の独壇場だ。

物語が進むにつれてさらに人生が織り成す奇縁という深みに捜査の手は入り込んでいく。
犯行の犠牲者となった押谷道子。彼女が訪ねてきた女優の角倉博美。特に角倉博美が背負ってきた人生が実に重い。

気の弱い父親が貰った若い母親は町の小さな洋品店で一生を過ごすことに嫌気が差し、男を作って逃げていく。しかも家の実印を持ち出し、家族に多額の借金を負わせる。もはや店の経営も成り立たなくなった父親は絶望して飛び降り自殺し、角倉博美こと浅居博美は施設に預けられ、そこで観た演劇に感動して女優の道を進むことを決意し、上京して見事夢を成就させ、現代では演出家としての地位も確立しようとしている。

まさに夢のようなサクセスストーリーだ。

しかしそこには隠しておいた苦い過去があった。それは彼女の父親が深く関わっている。

そしてこの変転する1人の奇妙な男の人生の影に原発が絡んでいる。

『天空の蜂』で当時ほとんどの人が注目していなかった原発の恐ろしさを声高に説き、その18年後、改めて東野圭吾氏は原発の恐ろしさを別の側面で説く。
身元不詳の誰もが簡単に原発で働けていたという怖さと彼ら原発従事者が一生抱える後遺症の恐ろしさを。

実は私にはここに書かれなかったもう1つの真実があると思うのだ。
なぜ加賀の母親田島百合子は亡くなったのか?その死因については語られない。彼女の後見人であった宮本康代の話で綿部俊一と付き合うようになってから体調を崩すようになり、店も休みがちになった、そしてとうとう彼女は衰弱死してしまうとだけ書かれている。

私は田島百合子は原発作業者の綿部と付き合うことで自らも被曝したのではないかと察する。しかしこれは職業差別に通じるので敢えてそこまで作者は書かなかったのではないかと思う。

また作中で登場人物の一人が述べる台詞が辛辣だ。

「原発はウランと人間を食って動くんだ(中略)作業員たちは命を搾り取られている」

事件の真相はまたもやなんとも哀しい。

加賀が日本橋署配属となり、そしてそれまでの捜査スタイルから町に溶け込もうとする、云わば地域に根差した巡査のような役割を担っていたのが『新参者』からの特徴だったが、それがまさか亡き母と生前親しくしていた人物を捜すためだったというのは驚きだった。
この辺の構成が実に巧い。

そして加賀シリーズには他の東野作品にない、一種独特の空気感がある。
自身の肉親が事件にも関わっているからか、従弟の松宮も含め、家族という血と縁の濃さ、そして和らぎが物語に備わっているように感じるのだ。だからこそ物語が胸に染み入るように心に残っていく。

この和らぎは加賀が抱えていた父隆正への蟠りが『赤い指』にて解消されたからではないだろうか。
彼は家族の中の問題に踏み込むことこそが事件を真に解決するのだと『赤い指』で述べる。そして父に逢わずに看護師の金森登紀子を介して将棋を打つ。それが彼が父と最後にした「対話」だった。

そして今回もやはりすれ違いが生じた夫婦に纏わる哀しい物語だ。
田島百合子と加賀隆正夫婦、浅居忠雄と厚子夫婦。
その2人が離婚する理由の違いはあれど、どちらも夫婦仲がこじれた結果の悲劇だ。
しかしその2人の道のりに数多くの人間が巻き込まれ、その1人として加賀恭一郎がいた。人生とはなんとも奇妙な旅なのだと思わされる。

そしてこの2人が望んだのは我が子の幸せ。わが子の幸せを願わない親はいない。ただ同じ1つの思いでこれほどまでに境遇が変わる。それもまた人生。

また橋の謎の真相がこれまた泣かせる。
そう、加賀恭一郎シリーズが持っている独特の空気感にはどこか昭和の匂いが漂うのだ。
人形町、水天宮、日本橋、そして明治座。日本橋署に“新参者”として赴任してきた加賀が相対してきたのは過ぎ去りし昭和の風景、忘れ去られようとしている情緒や風情だ。
そして今回の事件の発端となった角倉博美の人生を変えるようになった事件が起きたのは30年前。まだぎりぎり昭和だった時代だ。このシリーズはまだ地続きで残っている昭和の残滓を加賀が自分の家族のルーツと共に探る物語となっている。

今回も東野劇場による演目に感じ入ってしまった。
登場人物たちの人生は傍から見れば不幸にしか見えない。
狭い部屋で必要最低限の物だけを持ち、日々を暮らしてきた。人生を思わぬ形で踏み外した2人が思いもかけない形で巡り合う。そんな不幸な境遇だからこそ悔恨にまみれた中で唯一自分たちの子供の成長を幸せの拠り所になった魂の充足。それ以外何もいらなかった2人。
でもたとえ幸せを感じていたとしても哀しすぎるではないか。そんな割り切れなさが本書の幕が下りた時、残った。

加賀はまたどんな事件と遭遇し、どんな人生とまみえるのか。
いやそれに加え、父の死を看取った金森登紀子を1人の女性として、伴侶として迎えるのか。そしてその時の加賀は?次作への興味は尽きることがない。
暗い事件が多いから、哀しい人々が多いから、父と母の死を乗り越えた加賀の明るい未来に希望を託そう。


▼以下、ネタバレ感想
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祈りの幕が下りる時 (講談社文庫)
東野圭吾祈りの幕が下りる時 についてのレビュー