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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全337件 301~320 16/17ページ
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切支丹には転ぶという道があった。なぜ彼らは転ばず、苦しみに満ちた死を選んだのか。地獄に堕ちることを恐れたのか?本当に天国を夢見たのか?信仰の故に殺されたのが一人や二人なら、宗教的に修練を積んだ人なら、そういう人もいるだろうと理解できる。なぜこれほどの大規模な迫害にこれほどの犠牲者が生まれ、それでも隠れ切支丹が密かに信仰を守る、いったいその秘密は何なのだろう。 それは彼らが神父から教えられた言葉にあるのではないか。身分制度の厳しい時代、領主である武士と言葉を交わすことなど考えられなかった農民・漁民たちに、領主に招かれた伝道師たちは語りかけ、聖書の言葉を教えた。いわく「心貧しき者は幸いなるかな…」この言葉を聴いた農民たちは生まれて初めて光を見たと思ったのではないか。これほどの身分の方がこれほどの祝福をもたらす言葉に嘘があるはずはない、と。 ロドリゴの使命は神の沈黙を嘆くことではない。言葉を伝えることにあったのだ。彼はそれを果たした。 | ||||
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「キリスト教の話かあ」なんて思わず、先入観なしで読んで欲しいのです。文章は難しくも固くもなく、するすると読めますが、ただツライです。ただひたすら神に救いを求める農民達、どんなに祈っても神は表れてくれません。農民も司祭も切ないのですが、私はキチジローに強く共感しました。あまりに弱く、肉体の恐怖に負け幾度も踏絵を踏み、それでも神にすがり許しを請うキチジロー。弱さゆえ殉教も出来ない自分をなじり、何故こんな世の中に生まれたのかと嘆く。心が弱い者はそれだけで罪なのか?私も弱い人間なので、彼の弱さが自分と重なりやりきれず、哀れです。 長崎が舞台なので他地区の人には言葉がわかりにくい部分もあるかもしれませんが、私には懐かしくさらに農民達が身近に感じられました。 | ||||
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とても深遠な世界だ。 目の前で次々と殉教者が拷問にかけられ殺されていくさまを見て、司祭は神に問う。「神よ、なぜあなたは沈黙したままなのですか? 助けてくださらないのですか?」 それに対する答えはない。このような神の『沈黙』が延々と描写され続ける…と思いきや、この話の『沈黙』はもっと深いところにある。 クライマックスで、究極のパラドックスが用意されているのだ。自分が殺されそうになった時に、大抵の人は(無神論者でいたとしても)神に命を乞うだろう。しかしここでは、拷問を受けている人質を救うために、司祭は神を棄てなければならないのだ。 信仰は果たして命より重いものなのだろうか。もちろんこれがすべてと言うわけではないが、これはこの小説が問いかける究極の問いではないだろうか。司祭はこれに対する答えを一応は提示したものの、苦悩して暮らしていかなければならないことになる。このことは、司祭が行った答えが必ずしも正しくはなかったことを意味しているように思う。正しいことを行ったのなら、そのあとの生活で苦悩する必要はないのだから。しかし、逆を選んでいたとしても、同じように、あるいはそれ以上に、司祭は苦悩していたであろう事は想像に難くない。では……正しい答えは一体どちらなのだろうか? 実は、司祭は神も人質の命も、棄てていなかったのだろうか。こうしてまた読者の中に大きな謎が生まれる。そしてその答えは、おそらく誰に問いかけても返ってこないだろう。あるいは答えは、読み終えた我々が見つけ出さなければならないのかもしれない。 『海と毒薬』でも別のテーマの葛藤が描かれている。神への信仰をテーマとする遠藤周作の作品で、葛藤は不可避の問題となって現れてくる。『海と毒薬』もこの小説も文章そのものは難しくなく、読みやすい。テーマは軽くはないが、考えさせられるいい機会を得られる。お薦めだ。 | ||||
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~とても胸をえぐられる様な作品でした。 キリシタンとしての強さと弱さの対比、日本にやっとの思いで辿り着いた宣教師の日本での道。どれもが決して幸せではない。 それでも、神は沈黙を守って、みなを見守っていたように思う。 それはある意味、信仰を試したものかもしれないし、自分で気付かせる術に気付かせたかったのかもしれない。 窮地に追い込まれ~~たキリシタンの行動にも複雑な想いを感じつつも、自分がその立場だったらと思うと、安易に踏み絵を踏んでしまった者を責められないとも思った。 あまりにも深い内容だったけれど、私にとって生涯の1冊にもなった。~ | ||||
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遠藤氏が生前インタヴューに答えた言葉です。これを記事で読んだ時、 彼のキリスト教観が自分なりに理解でき、バタ臭い(冒涜!)キリスト教が受け入れやすいもの だと感じました。 「沈黙」の決めの言葉(神の声)ですが、なんだか個人に向けた声のようなかんじがします。 神様っていうのは万人のものではなかったのか。矛盾を感じる。 ところが「働き」という言葉はいいヒントです。 人間には共通する感覚がある。暖色を暖かく感じ、短調の音楽を哀しく感じる。ある病気になれば、 同じような症状がでる。老人がならず者に道で殴られているのを見かけたら、冷水を浴びたような気持ちになる。 家族が亡くなれば悲しい。共通した作用「働き」。 それは自分が選んで得たのではなく、生まれつき備わっていてかつ個人が持つものです。 あの言葉が主人公に語りかけてきたというのは、万人にあって個人に所属する神のあり方を証明しています。 キリスト教の国でも評価の高い作品です。 読んで損はありません。 | ||||
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神は存在するのか?それは多くの人が考え、答えの出ない永遠の命題。そのことをを悩んだ作家が日本にもいる。それが遠藤周作でありそれを記したのが本作である。 信じるものは救われる?否、世の中はそのようにはできてはいない。信じ、祈り、縋り・・・結果何も報われない。死後の世界での救済?そんなものは誰も望んではいない。現世での救済。それをみな願っているのだ。しかし・・・ 神を信じるものたちが苦しんでいる時、神は何をしているのか?その答えがこの本の中にある。 | ||||
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自分が生きていく中で、人の為に何かをしたいと願い、自分にできることは何なのかと考え、誠意一杯日々過ごしている中で読んだ一冊でした。仕事上、子どもを相手に彼らの事を考えなくてはならない。でもやはり自分の中にもドロドロとした思い、自分本意な気持ちがあることに気づかされ、その事実に押しつぶされそうになっている時に、ある人のすすめでこの作品を手にしました。読み終えた後に少しはすっきりとした気持ちになれることだろうという甘い期待を持ち本を開きました。実際はそれとは逆で、ページをめくりながら考え、読み終えたあとも何とも言えない・・・多くの思いが自分の中でぶつかり合っているような感覚でした。 読み終えてもう数週間たってはいますが、未だに自分の中ではまとまりがつかず・・・。しかしだからといって不快感はない。 生きていく中で私たちには多くの選択肢があり、常に別れ道を前にしているのかもしれない。周りが何と言おうと、自分の中で納得のいく道を選び進んでいくことが大切なのかもしれない。わかる人は心の奥底で感じ取り理解をしてくれる。わからない人ももちろんいるだろう。浮き足立って周囲にアピールするのではなく、地に足がついた上体で自分に嘘のない、歯を食い縛って選択する道もあるのだと思います。 | ||||
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転んで、水責めの刑に処される村人、最後に踏絵を踏む時に「踏むがいい、おまえに踏まれるために生まれてきたのだから」というイエス。「こんなに苦しいのに、主よ、海はこれほどまでに青いのです」と言わしめる信仰告白。これはもう物語りの域を越えて、我々の心に、(仏教でも神道でもキリスト教でもなんでもいい)信仰とは何かを問い掛けてくる。 カスタマーさんが言っているように、確かに表現を捉えれば遠藤作品はアブナイかもしれません。しかし、イエスに絶対の神性をとことんまで追求することへの危険もあるのではないか。つまり、イエスはそこまで弱い人間だからこそ、洗礼者ヨハネから離れ、ユダヤ教感性のために神の愛を説いた。そこに従った弟子は我々自身であり、じゃあ、おまえ、踏絵踏めるかと聞かれたら、どうでしょう。私ならきっと命乞いするでしょう。そしてその罪の中に自分を陥れ死ぬまで苦しむでしょう。こういう独り善がりな私はキリスト者ではないと言われるのでしょうか。 死を持って人類を罪から解放したといえば聞こえがいい。しかし、本当にそうだったか? 本当にそうなら、なぜ今我々には奇跡はこないか? そして逆に奇跡がこないほどに自身の信仰心が弱いのなら、我々は改めて主イエスに帰るべきではないか。 こういうことを言いたいんじゃありませんか? なにもバチカン公文書を持ち出すまでもなく、イエスは確かに存在し、我々のために死んだ。彼が否定したのはユダヤ教じゃなく、そのユダヤ教を盾にしてふんぞり返っている傲慢な人心ではなかったのか? 沈黙…確かにそうです。でも、ここでいう沈黙は主の沈黙ではなく、信仰心の薄い人間の主に対する沈黙と捉えるなら、我々は本当に傲慢な生活をしていませんか? 関係ないけど、私、この前障害児の息子に、左の薬指を思いっきりかまれました。悶絶する痛みと苦しみ。主も、これ以上の苦しみを味わったのです。私にとって主は、そうした苦しみの少しでも味わわせてくれた。感謝です。私はこれに沈黙をもってして答えることはできません。 | ||||
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教科書を通して誰しも踏絵は知っている。しかし、基督教徒側から日本を見た視点で書かれた文を読むことで、あらゆる面について考えさせられた。棄教か死かの選択を迫られる時、直面した出来事から結論を出す所は読み応えがあった。 | ||||
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この作中、主人公が自分と聖者ヨブを比する場面がある。神の沈黙に 人が対するとき、それはきっと誰もが直面することなのだろう。連綿と神学を作り上げてきたキリスト教世界とは異なる、人が神を対峙するという宗教の根本がこの作品には描かれていると思う。 考証学的にいば、いくらかの誤りがあるのかもしれないが、本質はそこにはない。 | ||||
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日本人信徒への残忍な拷問、殉教に「神は何故沈黙するのか」と問う宣教師の悲痛な叫び・・・。 私は日ごろ神や仏を信仰しているわけではないですが、かと言って神がいないと思っているわけでもなく、もしも生きるか死ぬかという窮地に立たされたら、きっと神に命乞いをするに違いありません。それが一般的な日本人の姿だと思います。信仰心が厚ければ人は病気にならないか、事故に遭わないか、愛するものの命を不意に奪われないか、答えはノーです。では、何故人は信仰するのか。心の救いを求めるからです。信じる者の心にのみ神は存在するのです。 神の為に潔く殉死していく隠れ切支丹たち、その拷問を受ける姿に耐えられなくなったパードレの選択は・・・。クライマックスは壮絶です。神とは、信仰とは、人間とは、深い思考の渦に落とし込まれます。これこそ世代を超えてすべての人に読んでもらいたい名作です。 | ||||
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ぼくは、中学の先生のすすめでこの本を読みました。ほんとうにこんな退屈そうな本(題名からしても)が良いのかなと思いながら・・・。結果は別に感動するというわけでもなければ面白い!!というわけでもありませんでした。言ってみれば「ふう~~ん。なるほどな。」という感じでした。なにかを説明されたような、ぼうぜんとした気持ちでした。そして何かを得たような得ていないような気持ちでもありました。人間という生き物の考えと行動、心の強い人間と弱い人間、ものすごく迷い、自分が何をしているのか、したらいいのか、何を望んでいるのかもわからない。しまいにはこっちまで真剣に考えてしまう。そして「神の沈黙」。それに遠藤周作の自分の事のように思わせるような書き方。ものすごくお勧めの1冊です。ぜひ読んでいろいろと考えてください。 | ||||
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信仰の負の部分にこれほど光をあてた小説もないのだろうか。殉教をなしとげたすばらしさはおおくかたられるが、その影にある信仰に躓いた人間にたいする洞察がよくなされていると思う。ユダも殉教者もキリストの前では等しく愛されることがわかる。弱いも強いもない。それが私の救いでした。 | ||||
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作者自身が大きく関わったオペラ「沈黙」。その鑑賞に先立って、予習のつもりで手に取った文庫本が、私と遠藤周作の出会いだった。学校の授業で習った「隠れキリシタン」だったが、この「棄教のドラマ」は信仰ということについて深く考えたことが無かった私にとって、大きな衝撃だった。西洋のように確固とした共通の信仰を持たない日本人の倫理、あるいはその西洋式のーキリスト教式のーいわば集団心理的な倫理、その両方のもろい部分、弱い部分をすべてさらけ出して、読者に問いかけてくる文章はとても重い。 「何が正しいのか」ではなく、「何が勇気ある行動か」ということ、「誰かのためにどんなことが出来るか」これはその信仰の有無にかかわらず、人間が誰しも抱える命題である。 最初に読んだときは、クリスチャンの作者がこんな作品を書いても良かったのか?と思った。2度目に読んだときは、これはクリスチャンの作者だからかけたのだ、と思った。そして今は、真摯に「信仰」そして「人間」というものを見つめた遠藤周作にしか書けなかったのだ、と思う。 | ||||
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島原の乱後、幕府は禁教を行いました。 その状況の中で、司祭として日本に渡ったセバスチャン・ロドリゴを主として、物語は進行します。 緊迫した雰囲気を持ちながら、 要所要所に信仰の形、神の沈黙、西欧と日本の思想の支柱、などの問いが、 しっかりと詰まっています。 なぜ神は沈黙するのか。 答えは本文の中に。 現代にたくさんの宗教が氾濫する中、 この本を読むことは現代人の義務でもあり、 読まずにいたことを後悔するほど素晴らしい作品なのではないでしょうか。 | ||||
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宗教や信仰によって、我々は救われるのでしょうか。信仰している宗教も特になく、キリスト教についても知識などほとんどない私の読後の感想です。神は沈黙を守り、我々をその場では救ってくれない。しかし転んだ司祭に対して、踏み絵のキリストは沈黙を破り語りかけてきた。その言葉は本当は誰の言葉だったのだろうか。そもそも司祭はあの現場で「転んだ」行為自体はどう判断されるのか。一緒に日本に渡ってきた司祭の行為とどう比較されるのか。死とは何なのか。信仰をまもればパライソに行けると信じて殉教する人々の行為は果たして正しいのか。宗教と哲学と道徳はどう違うのか。無宗教の私は現代日本でなにを価値基準として生きていけば良いのか。 ウーン、考えさせられます。 | ||||
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島原の乱後の峻厳なキリシタン禁制の元、日本人信者に対する残忍な拷問と彼らの悲惨な殉教のうめき声を目の当たりにして苦悩するポルトガルの宣教師。もちろん「信仰とは何なのか」に対する著者の思いが主題として描かれているのですが、実は、換骨奪胎を旨とする日本人の持つ東洋思想と、あるがままの一神教を信じる西洋思想との根本的な思想的断絶を描くことによって、一つの立派な日本人論になっています。キリスト教信者・非信者に関係なく、深く感動することを保証します。後世に残すべき書物の一冊です。本書を読んで感動した人には、三浦綾子の「塩狩峠」も是非読んでもらいたいです。 | ||||
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これまで読んだ本のなかで、恐らくいちばん好きな本です。 何度も読んでいますが、最後のロドリゴと、フェレイラの 対決の場面では、いつでも涙をこらえることができません。 なぜ、神は沈黙するのか。 福音書と合わせて読むことをオススメします。 | ||||
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「水磔」「穴吊り」など、隠れキリシタンに対する拷問の描写に唖然。いずれもすぐには殺さず長時間苦しめるために考案された恐るべき方法。「転びます」(改宗します)と言ってるのにやめてくれないなんて! | ||||
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実はこの本、20年近く前、高校の夏休みの宿題であった読書感想文用に読んだ本である。当時の私には遠藤周作と言えば、「狐狸庵先生」の名で非常に軽妙で愉快なエッセーを書いていた面白いオヤジであり、相前後して竹中直人の顔真似のネタになっていた愛すべきオヤジであった。そんな状況から、「さっさと呼んで宿題片付けよっ!」と軽~い気持ちで手にしたのだが...夏休みが楽しくなくなったことは言うまでもない。高校生には「難しい!」の一言に尽きる。それまで本もろくに読んだことの無い高校生にはかなり高いハードルだった。でも悪戦苦闘しながら読み切った。そして思った。「軽妙な文章を書く遠藤周作とこの重厚な文章の遠藤周作とは同一人物なのか?だとしたら人は何故このような二重人格みたいな行動ができるのであろうか???どっちが本物なのか?」と、この本の主人公ほどではないが苦悶した。この本は敬虔なキリスト教徒である氏の宗教観が表れていると言われている。従って、あまり宗教に傾注しない私には難しかったのである。数年して、氏が「県人会のような日本的な組織は全く理解できない。」と語っていたのを目にしたことがあるが、私にはよっぽど「県人会」がある理由の方がイメージしやすいと思った。それだけ氏との距離があったのである。でも読むに越したことはない。読まなければそのように考える機会もなかったのだから。当時の私と同じくらいの今の高校生も時間があれば読んでみよう。「葛藤」ということが少し分かるかもしれない。氏のエッセーから入り、先ず、親しみをもつのも一つの手だ。そういえば、確か、氏の生前に「沈黙」のミュージカルがやっと完成したと思ったがあれはどうなったのだろうか? | ||||
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