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沈黙
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【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全337件 281~300 15/17ページ
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キリスト教弾圧下におかれた時代のお話。神を崇めて命を落とす人々。遠藤氏はクリスチャンであり、踏み絵については他の作品でもよく触れておられる。 どうしょうもない中で一筋の光を見出す点に人間の尊さがあると訴える作品。神の沈黙とは、本来絶望か?ご加護か・・・。悲惨な経験の元にも神を信じる人々の信念と絶対的な忠誠心。いつまで沈黙を続けるのかと、最後は涙がとまならない。 私はこの作品に出会ったことが、生きていて良かったとも思えるほどの経験だった。それほどインパクトが強く脳裏から離れない。終始暗い、重く苦しい雰囲気で淡々と物語は進むが、最後はなぜか生きたい、もっと強くありたいと、じわじわとこちらが勇気を与えられる。 ただ、神の存在自体を「母」と表現する多くの日本人には、理解できない点もあるだろう。キリスト教についても一考するきっかけとなる。 | ||||
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軽い気持ちで購入してしまったのだが、軽くない。 軽く読めない作品です。 最後には号泣してしまった。 『隠れキリシタン』とは、どんなに辛い状況なのか。 現代では、到底理解出来ない。 想像を遥かに超えてしまう辛さ・厳しさだったでしょう。 厳しい拷問に耐える強さ。 転んでしまったからといって、決して弱い訳でもない。 転んでしまっても、きっと神は赦してくれるのであろう。 しかし、何故、いかなる状況でも、神は『沈黙』しているのか? 人間の強さや弱さ、醜さ・・・非常によく表されている作品ではないでしょうか。 いろいろ考えさせられます。 改めて、遠藤周作氏の作品の崇高さ、素晴らしさ、奥深さを感じました。 本当に素敵な作品です。 | ||||
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宗教弾圧という状況の中に置かれる聖職者が主人公。 神の沈黙という重大な問題に気付かざる終えない状況におかれる人間の心理がストレートに書かれてる。 また人間の「信じる」という行為の強さともろさ感じた。主人公が転ぶ直前に「人間は虚栄心から逃れることができない」と述べているがこれが信じると言うことのもろさの核心をついているのではないか。本来キリストを信じる行為だったはずが、危険な行為を犯して日本に来たことやキリシタンが殉死していく中で信仰心そのものよりもそちらの方が大きくなっていったのではないか。また「聖職者」という身分が組織を守る物としてのメンツや周りを見る目を気にしてしまっていたのではないか。それが、「神の沈黙」を神の裏切りと感じてしまった要因のように感じる。転んだ後さらに宗教の本質にせまっていく主人公に「信じる」強さをを感じた。 | ||||
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カトリックであった遠藤周作の描く本書の世界観は圧巻でした。舞台となった江戸時代、ポルトガルからのキリスト教の伝来は衝撃的なものであったに違いありません。1549年にザビエルによって伝えられたキリスト教に対するポルトガル人からの視点から物語は描かれます。とても日本人に書いたものとは思えないほどの客観性に満ち、それでいて日本人の宗教観もはずしていない。実在する人物や史実を巧みに物語の中に混ぜ込み、リアリティ溢れる文体で、終始一貫読者を魅了してやみません。 多くの日本人にとってキリスト教―宗教自体がそうなのかもしれません―はなじみの少ないものであると思いますが、キリストに限らず、宗教というものの本質を理解することは、なかなか難しかった。宗教のために命を捨てる覚悟、神が沈黙をやぶることを信じて待つ苦難にたえる忍耐力・・・どれも現代日本では、そのような事実があったことすら俄かに信じがたい雰囲気があるのではないでしょうか。 そんな私を含む日本人が読む、本書『沈黙』。神とは一体どのような存在なのでしょうか。人の信仰心の中に生まれるものなのか、人の外部に客観的に存在するものなのか・・・。 自分が困難な状況にある時に、神という存在があることによって、「沈黙」「試練」という言葉によって楽になるのかもしれない。だからこそ、常に神への感謝をキリスト教は重んじているのだと思います。 多くの人間の生き方に関する哲学的・宗教的課題を私にもたらしてくれた、重い一冊でした。 | ||||
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読み出すと止まらなくなった。一気に読み切った。 断っておくが小生はクリスチャンではない。 遠藤周作氏は芥川賞受賞後の37歳から、結核で2年もの入院をしている。 手術で7本の肋骨と肩肺を失ったが、「私が得たものは方肺よりも、もっと大きなものだった」と語られている。 それは何か? 命に及ぶ大病との格闘を通して、悩める人や弱い立場にある人への温かな眼差しを獲得したということだろう。 その極限から蘇生した著者の魂が綴られたのがこの「沈黙」だと思う。 残酷で非道な“穴吊り”という刑に処せられた切支丹の農民を救うため、司祭フェデリコは遂に”転ぶ”。 棄教したフェデリコは岡田三右衛門という名前を与えられ、しばらく長崎に留められる。 弱虫で臆病で卑劣、何度も転び、フェデリコをさえ売った五島出身の農民キチジローは、 それでも岡田となったフェデリコのもとへさえ、告侮を聴聞してもらうためにやってくる。 この小説の終わりは「切支丹屋敷役人日記」で終わる。 この「役人日記」によると、江戸の牢屋敷に移された岡田の中間として”吉次郎”が共に住みんでいることが記述されている。 吉次郎は首にお守り袋に入った切支丹の本尊を隠し持っているのを見つけられて問いつめられている。 岡田の、いな、フェデリコの信仰は破られていない、キチジローの信仰も破られなかった。 そして、岡田三右衛門ことフェデリコは日本に来て三十余年、江戸へ出て三十年の六四歳で病死する。 ドフトエスキーが「悪霊」で描き出したように、多くの切支丹を殺し、フェデリコをも棄教させた、 洗練された口調と無表情の顔、非常なやり口をもつ、井上築後守を初めとする権力者達こそ、 精神の尊厳を失った哀れな人間、悪霊となった人間だったのではないか。 クリスチャンとか仏教徒とか、そんな狭隘な批判を越えて、人間の限界まで迫った この「沈黙」は間違いなく戦後の日本文学の代表作の一つだと確信する。 | ||||
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島原の乱が鎮圧されて間も無い「キリスト教禁制」下の日本において、棄教を迫られるのポルトガル司祭・ロドリコを描いた、余りにも有名な小説です。 考えさせられる事が数多ある作品でした。 宗教とは何か、信仰とは何かという事のみならず、生死に拘わる困難な状況に直面した際に人は何を考え思うのかといった、人の在り方という根源的なものも描いている様に思えてなりません。 事の正邪を論じた単純な作品ではありませんが、敢えて述べるならばロドリコ、フェレイラ、キチジロー、誰もが正しいと言えるのではないでしょうか。 作品中、キチジローこう叫びます。 「(前文略)踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏み絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。(中略)俺を弱か者に生れさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい」 人が生きていくうえで生じる迷いや恐れといった、負の感情を除いて幸福へ導き生きる力(希望)を与えるもの、いわば人の弱さを補うものそれが宗教、そして信仰だと私は考えていました。 では、キチジローのこの苦しみは何なのか? 読了後、私は天を仰いでこの事について考えましたが、考えはまとまりませんでした。おそらく愚陋な私には生涯、答えを出す事が出来ないでしょう。 余談ながら遠藤周作といったいわゆる「純文学」的な作品は、難解な語句の使用と高遠な表現などで、さぞ読み難いものなのだろうという先入観がありました。 しかし、実際にはその様な事は殆どありません。 平易な文体に因り人口に膾炙するからこそ「名作」と称されるのだと気付き、自分の不勉強さを思い知らされました。 | ||||
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どうして苦しい目に遭う人間がこの世界に生きているというのに、神は黙ってそれを見ているのか? 神の沈黙、それがこの本の主題である。 島原の乱が鎮圧されてから数年の後の話。主人公は日本におけるキリスト教迫害によって、教義を捨てたと言われるかつての師を追って日本へ向かう。航行は嵐など困難を極めたが、神の救いを信じる主人公はひたすらにキリストの慈顔を思い浮かべて長い苦難の日々を耐え抜き、日本へたどり着く。が、そこで目にする物が貧しい(日本の)殉教者に対する神の沈黙であり、朋友の死であり、かつての師の零落した姿だった。 だいたいこんな感じだが、あらすじを簡単に拾い上げみても、この本の中で語られる壮絶なドラマが読了直後の感覚でよみがえってくる気がするほど。しかも、それだけ骨格のしっかり整ったプロットに遠藤氏の熟達した文章構成が重なり、素晴らしい仕上がりとなっている。一般の宗教家が絶望を前にして抱える苦悩や葛藤をえぐり出し、キリスト者でない自分にも深い印象を与えるこの作品は、「巧い」を通り越して「えぐい」ほどだ。事実を基にして書かれたとはいえ、登場人物達の悲痛な叫び声や堂々とした態度には胸打たれる。主人公の幻想も、著者が全く知ることのない世界の話だとは思えないほどに現実味を帯びている。 感動的な小説は多いけれども、これほどのリアリティをもって迫ってくる作品は初めて読んだ。この本との出会いに感謝し、もっと多くの人にこの本を読んでほしいと思う。 | ||||
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キリスト教を信じている人が読んだら、気が変になってしまうんじゃないだろうか。信仰の核心を突き崩されてしまう。 著者がキリスト教徒であることに尊敬の念を抱いた。「神を信じるということ」について、ここまで突き詰めた小説は読んだことがない。泣ける。 | ||||
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物語の舞台は島原の乱の後の日本。 キリスト教が禁止されている中で、いわゆる日本の隠れキリシタンのために、またさらに信徒を増やすために日本へ侵入し、布教しようとしたポルトガル人の司祭が主人公。 表題の「沈黙」とは、神の沈黙のこと。 江戸幕府の役人によって、自分の目の前で日本の信徒が拷問され、殺されていく。 神に「救い」を求めても状況は何も変わらず、神は沈黙したまま。 何故神は、これだけ信仰しているにも関わらず地獄のような試練を与えるのか。 自分と神との関係というのは、家族・友人との関係を超越するものなんだと思う。 子供の頃から拠り所にしていたものが、実は嘘っぱちだと実感した時の辛さってどんな感じか(辛いとかの次元ではないはず)、特定の宗教を信仰していないほとんどの日本人には、本当のところわからない気がする。 にしても、学校の歴史の授業でなんとなく習った踏み絵。実際にそれが行われた時の描写はすごい。よく考えてみれば、親の写真を踏むのとは訳が違う。キリスト教徒でない自分でさえ、読んでて痛かった。 遠藤周作の作品はまだ『海と毒薬』しか読んだことなかったけど、こんなに面白い作品が続いてしまうとは嬉しい誤算。 本当に素晴らしい本。映画化されるようなので、楽しみで仕方がない。 | ||||
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他者や書物の中に、自分と同じ悲しみ、苦しみを見つけたときの喜びは大きい。 たとえそれが共に泣く、苦悩の共感だったとしても、この喜びと比べれば、 世間でもてはやされている幸福論は、騒がしいだけでなんと安っぽいものか。 この、苦悩の共感こそが、遠藤文学の屋台骨だと私は思う。 そしてイエスこそ、遠藤周作にとっての「共に苦しんでくれる者」だったのでしょう。 主人公が苦悩の頂点でキリストの声を聞くラストシーンは、よくぞこんな話を書けたものだと驚いてしまう。 ただ、信仰を持たぬ人が読んだ場合、退屈な歴史小説にとどまるかもしれない。 さらに、読む人にとってイエスは何者か?ということで評価はまるで変わってくる。 強く神格化されたイエスを信じる人にしてみれば、これはゆるしがたいと思うかも。 史的イエスの問題はさておき、人間イエスが好きな私にとってこの小説は、★10個あげたいくらいの大傑作。 理解を深めるためには、「沈黙」より先に「イエスの生涯」を読んでおくべし。 | ||||
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摩滅した銅版のあの人を踏んだロドリゴに対して、筑後守は岡田三右衛門という和名をつけ妻帯を勧める。そして奉行所はもう切支丹を捕える気はないという。 「あれはもはや根が絶たれておる」 「五島や生月の百姓たちがひそかに奉じているデウスは切支丹のデウスと次第に似ても似つかぬものになっておる」 「やがて……その元から離れて得体の知れぬものとなっていこう」 「日本とはこういう国だ。どうもならぬ。なあパードレ」 また筑後守は「この日本と申す泥沼」とも表現している。 外来から取り入れたものを日本流にアレンジして発展させてきたというのは、日本の特徴としてよく言われていることだが、筑後守のように否定的とも諦めともつかぬニュアンスで言われることは少ない。どうして筑後守はこんなことを言ったのか、筑後守は日本のあいまいさや鵺的ありように憤りを感じていたのか、切支丹が伝えられるまま存続することを願うかのような言葉は妙にひっかかる。そして、遠藤周作もまた、このように日本をとらえていたのかもしれないとも思う。 この部分が深い余韻をこの作品に与えてくれていると思う。 | ||||
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ずいぶんと昔、小学校時代に初めて読んだときはいたく感動しました。何と深淵な小説かとも思いました。 しかし、歴史をいったんひもとき、 キリスト教布教とは何か、貿易商との関わり、宣教師たちの実際の思想や振る舞い、などを学んでしまうと、それぞれに個人差は大きくあるといえども宣教師たちの言動の真実というものも、ある程度は理解せざるを得なくなります。 そうすると、小説そのものは変わらず素晴らしいとはいえ、これは当然ながら完全な架空の舞台の創作ではなく史実を元にした創作であるが故に、今の私では単純に深く感じ入ることが難しい小説になってしまいました。 本小説は端的に言ってしまえば、キリスト(教)のひとつの現代的解釈を伴天連追放令時代を舞台に再演出した内容となるのでしょうが、逆に歴史背景などを一切無視してしまえば、キリスト教に限らない一般の深い命題を問う小説であることも確かだろうと思います。とはいえやはり無視するのは難しい気もしますね……。 | ||||
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この小説は「転んだ者」の話では決してないし、 この小説は「神の沈黙」が貫かれた話でもない。 これはキリストの体験を別の時代背景で書いたものである。 これにおいてロドリゴはキリストの体験を経験する。 ロドリゴはキリストと同じように渇き、裏切られ、窮地に立つ。 そして自らの貶めによるほかの者の生存か、自らを守り他者が死ぬと言う究極の二択に迫られる。 そしてロドリゴはキリストと同じく、自らの貶めによる他者の生存を選ぶ。 キリストはロドリゴに言う“私は踏まれるためにこの世に来た”それこそ沈黙が破られた瞬間ではないか? またキリスト教とは本質的には弱き者の宗教で、何度も転んでしまう者を愛す宗教である。 聖書でペテロは三度“踏絵”を踏んでいる(実際はキリストとのかかわりの否定) しかしキリストはペテロに対し世界を救う使命を与えた。 | ||||
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この作品は「宗教小説」と分類されているようです。キリスト教の知識や経験は、この小説を読む上で、助けにはなるかもしれませんが、この作品の真の素晴らしさは、むしろ私のように、宗教というものを殆ど考えたこともない人間の心に、この先、決して消えることのない印象を残した、ことにあるのではないかと思います。 若きロドリゴは、初めはナイーブな理想に燃えた宣教師としてクリスチャン弾圧の渦中にある日本にやってくる。そのロドリゴが、いかにして踏絵を踏むに至るか。そしてその「転んだ」後の人生をいかに生きたか。この単線的な筋立てのお話を、ページをめくるのももどかしいほどのドラマにし立てあげたのは、一重にその類い稀なる心理描写にある、と感じます。なぜここまで彼らの心が分かるのか?それは遠藤氏のキリスト教に対する強い情熱と、それゆえの深い懐疑があったからだと察します。その意味で、これは制度としてのキリスト教と、それに安住する人々への、異議申立ての書、とも読めるのかもしれません。 一級のサスペンスでもあり、また時にはホラーのように恐ろしい物語でもあります。自分では存在することすら気付いていなかった心の中の深い部分に触られたような気がします。読む人を思考の混沌の中に投げ出すお話でもあり、また未知の世界への窓を開けてくれる小説でもある。まさに偉大なクラシックです。 | ||||
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遠藤周作の代表作と言ってよいと思う。 ストーリーに意外性はないが、宣教師の心理描写を中心にじっくりと読ませる ものがある。絶望の中に見えるはかない希望の描き方は見事。ラストの数行で みごとに物語は収束する。泣ける一冊である。 | ||||
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江戸時代のキリシタン弾圧さなか、日本に上陸したポルトガル司祭の波乱に満ちた人生。 読者によって読み方が異なる本、聖書など読み、キリスト教について多少知っている人には 読みやすい(聖書の言葉や登場人物が度々引用)。 まず、文章表現が繊細で生々しく、まるで映画を観ているかのように一気に読める。 隠れキリシタンである貧しい農民たちの汗や干した魚、藁の臭いまでもが漂ってきそうな 作品。頻出する拷問場面は筆者がまるでその場に立ち会ったかのような強烈な印象。 「信仰」を守り広めるためにポルトガル司祭は命がけで潜伏するが、「信仰」を守る ために殉教する信徒の姿を見るうちに疑問が生まれる。 「このような酷い状況のなかで、神はなぜ、沈黙しているのか?」 やがて捕らえられた司祭は拷問を受ける農民たちの苦悶の声を聞く。 「司祭であるおまえが信仰を捨てれば、農民たちを助けてやる」と迫られる。 長年自分がキリストに捧げてきた全生涯(信仰)を否定し、ユダのように神を捨てるか、 それとも農民の命を救うか。 キリストの存在を心から信じ愛してきた司祭は、踏み絵を前に「一番つらい愛の行為」 をする。 「信仰」という表面上の名の下に、ひとの命を捨てるか、 「信仰」という表面上の名と「司祭」のプライドを捨て、ひとの命を守り、 心の中で神を深く愛し続けるか。 宗教的には「信仰とはなんなのか?」という問いかけを与えるが、一般的な読み方を すれば、「ほんとうに大切なものはなんなのか?」という問いかけに変換されるだろう。 自分の面子を守り、自分を中心に据えて、誰かを蹴落とすか。 それとも、自分が退いても誰かを守り、心の中を凛と保っているか。 | ||||
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遠藤氏が本作を書く際、このような本を書いても日本人に分かるだろうかという疑念があったと思う。実は私も本質的には理解していない。内容は単純でバテレン転びの話である。宣教師が日本人の役人に拷問を受け、窮地に陥った時「何故このような時に神は姿を見せてくれないのですか」と問いかけるのだが、神は"沈黙"を守るのである。日本人なら「そんなの当たり前じゃん。だって神なんていないんだもの」と言えるが、ここでの対象は宣教師なのである。このように作者は信仰のあり方、宗教における神の存在などの根源的な問題を問いかける。このような重いテーマを掲げながら、作者は淡々と筆を進める。特に宣教師が役人に連れられ海岸線の道を行く姿は美しささえ感じさせる。宗教に関わる永遠の問題に敢えて挑戦した作者の意欲作。 | ||||
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ある日の新聞によりますと、とある日本人女性が拝火教を奉ずる男性に「人間と動物を分けるものは信仰のあるなしである。あなたも何かを信仰し、早く人間におなりなさい」と、諄々と諭されたとか。 なるほど、ならばこの本にある苦しみは、その悉くが「人間」の苦しみ、ということになるでしょう。神を信じて苛まれるもの、神を裏切り神の救い人の許しを這い回るようにして乞いつづけるもの、神を奉じることを使命としながらその神の沈黙にただ葛藤するほか手立てのないもの。彼ら彼女らの苦しみはすべて「動物」としては生きえない「人間」ならではのものなのです。 この作品の最後には、この物語の登場人物の後日談、つまり「転んだ」のちのことが、オランダ商人の記録文または当時の公文書という形をとって描かれています。人は「転」んでまっさらな動物として生まれ変わるわけではありません。「転んだ」伴天連は、ただの「転んだ伴天連」としていき続けるのみです。その「転んだ伴天連」の、あるいは「転んだ人間」の、悲劇的に滑稽な悲痛さが、それら淡々とつづられた事務文書から(いやむしろ淡々とつづられたものだからこそ)滲んでくるようです。 | ||||
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作品に登場してくる人物や時代背景はフィクションであるが、ここに書かれた出来事は事実に基づいたオリジナル作品と言える。徳川幕府が禁教令を発布したときには、確かに隠れキリシタンは存在し、迫害がおき、転びキリシタンは大勢いたと思われる。遠藤先生自身、信者であるので、キリシタンの調査には余念がない。天からのキリストの「踏み絵を踏みなさい」発言が問題化し、世界の各国で翻訳されセンセーションを巻き起こしている。 「沈黙」の舞台となった長崎県の外海町には遠藤周作文学館があり、少し距離を置いて出津文化村には「沈黙の碑」が建てられていることは観光地としてそれぞれ有名である。その碑には「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに青いのです。」と浮彫りされていて、そのバックには澄み切った東シナ海が目に飛び込んでくるのは絶景である。遠藤先生の語録を記しておく。 「長崎の歴史を知れば知るほど、それを学べば学ぶほど、この町の層の厚さと面白さに感嘆した。さらにわたしの人生に問いかけてくる多くの宿題も嗅ぎとった。それらの宿題の一つ一つを解くためにわたしは『沈黙』から今日までの小説(『女の一生』)を書いてきたと言ってもいい」:『長崎県の歴史散歩』 山川出版社 | ||||
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神の「沈黙」に少しなりとも疑問を持ったことのある人なら、大変興味ある内容だと思う。(多く愛したから、その多くの罪はゆるされている)という話はよく知られていると思うが、踏み絵を踏む苦しみ、その苦しみが深いほど、神もまた愛したのではないかなぁと思った。その悲しみ、苦しみが深ければ深いほど、より深く、より強く神はその人を愛したのではないか・・・。読み終えた後大変感動したのだが、時がたち、ゆっくり考えると、結局神は沈黙の理由を語ってはいないように思う。踏んでもいいと答えるだけだ。結局神は沈黙する。殉教してもしなくても、沈黙については何も語らないのだ。 | ||||
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