■スポンサードリンク
沈黙
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
沈黙の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.41pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全28件 21~28 2/2ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人生、信仰、愛情、などを考えさせられました。 もしも、自分が、司祭の立場だったら… 想像出来ません。 深く、苦しい、物語だと思います。 しかし… 救いのない話で… どうしたらいいか分からなくて… なので、再度読もうとは思いませんし、 他の人にも勧めたくないです… 苦しい話だと思います… | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「深い河」を読んで遠藤周作が好きになり、彼の代表作である「沈黙」をどうしても読みたくて一気に読んだのですが、展開が遅く、内容的にも間延びしている気がしました。 小説のテーマはこちらの方がずっと重いですが、彼の晩年の集大成とも言える「深い河」の方が、小説のスケール、衝撃的な結末、読後の余韻など私好みでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
超ざっくり言うと、主人公の宗教観が変わりましたという話だと思います。 当初は祈ることで何らかの見返りがあるはずだと思っていた。だから信徒が苦難の時でも現状を変えてくれない神に対して、『なぜ沈黙しているのか』『そもそも実在しないのではないか』と懐疑的になった。ところがどっこい、キリストは何かを与えてくれる存在ではなく、ただ祈る者たちと気持ちを一緒にしてくれている、共に苦しんでくれている。宗教に善悪はなく、力もない。よくも悪くも個々人の心の拠に過ぎませんよ、みたいな感じ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上記に記載した通り本はやや古い。新聞掲載時に読んでいるが、名著再読の講師が進めて読んでいくので購入した。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
「宗教を気にせず読んで欲しい」と仰ってる方がおりますが、やはりテーマは宗教です。 その証拠に本作は、小説としての出来はイマイチです。 「ゆみこ♪」さんが書かれているレビューで、あらすじの9割以上です。それ以上の劇的な何かを期待されている方にはお勧めしません。 「となると、人物の心情描写が上手いの?」と思うかもしれませんが、特にそれが上手い、味があるとも思いません。 悲しい場面では「暗雲が立ちこめ雨が降り出した」り、明るい場面では「太陽に向かって鶏が大きく鳴いた」りするような、よくあるアレです。 人物の会話も、含みや面白みが無いというか、かなり淡泊に感じられます。何せ主人公は生まれてから現在まで、心の底から100%キリスト教を信仰しており、人生に疑いを持った事がありません。 キリスト教が、彼のこれまでの人生の全てです。 ここまで設定に隙が無いと、「物語」としての登場人物として見るには、逆に厚みが無いのです。 また、その経歴から、私含め多くの人は簡単に感情移入したりできないはずです。(できると言う人は、嘘か、熱心過ぎる程のキリスト教信者のはずです。) だから、ドキュメンタリーが近いと思います。 そんな本書が何故歴史に残っているかというと、テーマが宗教であり、宗教こそが多くの人にとっての人生のテーマだから、という以外に考えられません。 この小説を真剣に読む人が多いキリスト教国でこそ、評価が高いのでしょう。 この小説は、展開やストーリー内容自体に、何か面白さがあるものではありません。 要約すれば1ページで終わってしまいます。 著者自身がキリスト教信者ですが、読者に何を感じて欲しかったのか、何を考えて欲しかったのか、正直最後まで分かりませんでした。 これが、神様を信じていない私の、本作に関する、またキリスト教に関する、正直な感想です。 「この小説を読んで考えさせられました」なんていう人は、どう考えたのか教えてください。 安易に、そんな事言わないでください。 どんな風に人生観が変わったのですか?去年のクリスマスやお盆と、今年はどう変わったのですか? 私は真剣にこの本を読みましたが、宗教に対する価値観は変わりませんでした。 これからも今まで通り、神様やキリストの存在には懐疑的に生きると思います。 この小説を読んだ意味が無かったのかというと、まだ分かりません。 努々、この小説がお涙頂戴の人間ドラマであるかのように言わないで頂きたいです。 [以下、ネタバレありです。] ※ ※ ロドリゴは踏み絵を踏む瞬間、踏み絵の中のキリストがこう言ったのを聞きます。 「踏むがいい。踏むがいい。おまえ達に踏まれるために、私は存在しているのだ」 もちろん、言ったのはキリストではありません。ロドリゴです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
教条的なキリスト教は、世界中に余計なお世話を振りまき災いの種となってきた。 殉教。聞こえはいいが、それは人の意見に聞く耳を持たない自己満足の結果にすぎない。こういう融通のきかない頑なな態度が多くの無駄な血を流させてきた。 キリスト本人に帰れ。 キリスト本人なら教条的なキリスト教は棄教するんじゃないか?そんな風に、キリストに自分を重ね、その良心に従うことこそが本当のキリスト教なのだ。 …というお話だったと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
禁教後、江戸時代初期の日本に忍び込んだ司祭:ロドリゴの物語である。史実を元にしたフィクションである。 カトリックの聖職者としての頑なな信仰を持つ司祭が、禁教国の現実に直面し、 信仰と現実のギャップを埋めるべく、必死に信仰の合理化を図る様が執拗に描写されている。 唯一のテキストを経典とし、頑なで固定的な信仰のスタイルを持つ宗教の不毛さが伝わってきた。 聖書にある神の言葉は大昔に書かれたままであり、現実に合わせて変化することは決してない。 ロドリゴが限られた聖書の言葉を恣意的に現実に適合させるのに心を砕く様は痛々しかった。 幾ら敬虔な信心を捧げても、応えぬ神。 そもそもなんで日本にカトリックを広める必要があったのか。 ロドリゴの師:フェレイラは「我々の神は日本人には理解されない」と言い、 沢山の切支丹を転ばせてきた井上筑後守は「残った切支丹は得体のしれないものとなるだろう」と言うが、 どちらも事実と思われる。特に井上の台詞はそのままに、今につながる隠れキリシタンの存在を指している。 最終的にロドリゴが辿り着いた結論はそれなりに良かった。 しかし、自分から禁教国に忍び込んで苦しんでおきながら、 平和なところで生きている他のカトリックの聖職者を悪しざまに思うのは如何なものかと思った。 これは作者がもつカトリックへの拘りとそれに相反する異端的な思いとの不調和を克服できなかったことの表れに思えた。 そのような不調和があることを、作者は最期まで自覚しなかったのではないかとも感じた。 なんで遠藤周作はカトリックの枠組みに拘りつつ信仰の中身を捻じ曲げようとするのだろう。 キリスト教会よりもキリスト、というのは良いが、それを以て他の聖職者を悪しざまに言うのは違う気がした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私は大学の課題で、この作品を読みました。物語上に何度も出てくる「沈黙」という言葉、そして本書のタイトルでもある『沈黙』という言葉がこの物語を読み進めていく上でポイントとなることは言うまでもないように思います。「あなた(神)はなぜ黙っておられるのですか」というロドリゴ師の言葉は、彼が苦難を経験しているとき、苦渋の決断を迫られているとき、そして目の前で切支丹が殺されているとき、常に彼の心に感じられたものであり、確かにそうだと読者を思わせるものです。こうしたときの神の沈黙は、ロドリゴ師をさらに苦しめるものであったに違いありません。 結果的にロドリゴ師は、捕らえられ踏絵を踏むこととなります。読み進めているとき、私にはそうした結末は少し納得がいきませんでした。確かに、彼が踏絵を踏まぬなら彼のために命を落とす切支丹は増えます。それを阻止するためには、彼は踏絵を踏むしか方法はなかったのです。 それでも彼は棄教したわけではなく、彼の胸の内ではその後もずっと神は存在していました。そのことが、彼を更に苦しめたことでしょう。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!