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ブラフマンの埋葬
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ブラフマンの埋葬の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.95pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全76件 41~60 3/4ページ
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夏のはじめのある日、ブラフマンが僕の元にやってきた。裏庭のゴミバケツの脇でケガをしてうずくまっていた(恐らく、カワウソのような動物)。動物を飼ったことのない僕は手探りでブラフマンの世話をする。ブラフマンとのひと夏の交流。そして、そのあっけない死。 小川作品の中では短編のような小品。1時間もあれば読めてしまう。タイトルから結末が予想されるので、作者の文体と世界観を堪能するのが正解の読み方か?但し、ストーリー・ラインは、少年がケガをした子犬を拾ってきて、子犬を隠し育て、周りの大人を説得し、家族の一員となり、子犬と少年との心の交流があり、あっけない事故で子犬を失ってしまうという、よくあるお話し。 ブラフマンとは、ヒンドゥー教またはインド哲学にて「外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって究極で不変の現実」のこと。よくは分からないが、単純に「僕らは生まれて死んでいくという死生観(事実)」を感じる。友の死を嘆き悲しむのではなく、そのぬくもりと哀しさが、心のどこか片隅に残るような送り方だ。どこか、アメリカ・インディアンの世界観につながるものを感じる。 | ||||
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なんて圧倒的な孤独なのだろう。 作品の随所から感じる切なさ、哀しさ。頁を進めると共に深まっていく「僕」のブラフマンへの依存。そしてタイトル。 ブラフマンは木の虚が好きだった。覗きこんだその中で何を見たのだろう。 ラストシーンで、「僕」の中には小さな孤独の決勝の様な物ができたように思います。秋の乾いた空気に濃密な悲哀が包み込まれているのに、それでも穏やかさが存在しているのは人間が思い出に縋る生き物だから? なんて、自分勝手に感傷に浸りすぎでしょうか。でも小説を読む者はそれを勝手に解釈することが許されていますよね。 | ||||
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別荘管理人の主人公が、ある日行き倒れの動物を拾って「ブラフマン」と名づけ一緒に暮らし始める。主人公とブラフマンのやさしく、穏やかな日々と悲しい別れが小川洋子の静かな文章で美しく描かれている。実は最後まで「ブラフマン」が何の動物なのかは明かされない。読者は文章から想像するだけなのだ。ラグビーボール大で茶色の毛が全身にはえている。肉球があって、水かきがある。犬か?と思ったけど「しっぽが胴の1.5倍」で違うなと思う。誰かが「かわうそ」と書いていたけど、ブラフマンは主人公の部屋で暮らのだ。かわうそって水の中にいなくていいんだっけ??でもブラフマンは泳ぐのが大好き。なんだか小さいアポロ(家のワンコです)みたいだ。イタチとかそういうものかも。まあ、いろいろ予想しながら読むのも楽しい。ブラフマンは本当にかわいくて読んでいるといとおしくなる。そして題名でわかってしまう別れに向かって物語りが進んでいくのが悲しい。いろんな人の感想を読むと何しろ小川洋子は「博士の愛した数式」が、評価が高く「ブラフマン」はイマイチらしい。「博士」を読んでいないのでなんともいえないが、犬好き猫好きの人は結構これもキュンとくる。前の「偶然の祝福」にも犬が出てきたが、彼女の動物の表現はとてもリアルだ。鳴き声や泳ぎ方、表情の描き方に愛を感じる。犬を飼っているのかもしれない。 | ||||
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物語の軸は、確かに「僕」と「ブラフマン」の純粋な愛情。しかし単なる動物との交流物語に陥ってはいないところが、小川洋子氏の小説世界。 深い悲しみも、絶望も、欲望も、葛藤も、およそ小説のテーマとなるような物語や感情は何ひとつ提示されない。登場人物の描写もひどく淡白でそっけない。 確信的とさえ思えるような描き方をすることで、淡々とした人々の営みと命の物語は逆に深く心を捉え、蝋燭の仄か光のように心を暖めてくれる。そして、小説を読む愉悦を思い出させてくれる。 | ||||
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ブラフマンとは主人公の飼っている動物。その正体が最後まで不明。 それが犬なのかアザラシなのか、そのほかの爬虫類か何かなのかまったくわからないが、 それが問題にならないほどに、主題である『愛』がしっかり紡がれているとても暖かな本。 愛すること、愛されること、大事にすること、されること、守ることまもられる事。 そのシンプルな見本がブラフマンの生涯を通して書かれている。 難しいことでも面倒なことでもばかばかしいことでもない。 想い想われ、想い合う。 ただひたすらな当たり前の愛の偶像。 それこそがブラフマンという主人公なのだ。 読んでいるとささくれ立った気持ちがやんわりとほぐれはがれていく。 そんな棘のないそれでいてまっすぐなやさしさを存分に感じる一冊。 | ||||
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特別なイベントが起こるわけでもない。 それなのに面白い。 ありふれた日常生活の描写。 そこに描かれるありふれた物たちの息遣い。 世界をしっかりと描くように、アクセントを添えている。 | ||||
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著者の小説らしく、硬質な文章で安易な甘さに流されない。「解説」みたいに挿入されるブラフマンの特性の描写が、「僕」による一方的な感情移入に従って読むことを批評しているかのように。雑貨屋の娘やレース編み作家も、悪意を描くのではなく、物語が一方的になるのを防いでいる。それで読ませる力量がすばらしい。 特徴的なのは、言葉が伝わらないはずの生き物との会話を望む孤独な主人公の一途な思いが、ブラフマンの声を聞いてしまうほどであることと、いたるところに死があることでしょうか。墓地、幽霊、写真の家族、もちろんブラフマンも。死に囲まれて死までの時間をともに過ごすはずの友の死。静かな、しかし力強い印象の残るお話でした。 | ||||
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淡々と進む物語に特に何が起こるわけでもない。自分にとってはレースの着ぐるみがとても切なかった。こういう視点が、行間の感情を深いモノにしている。 | ||||
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どこでもない場所の光景と、そこに生活する誰でもない人々のたたずまいを静かに確かに浮かび上がらせる小説。 「謎」を意味する名を授けられた生き物、「ブラフマン」。彼(オスである)と「僕」との短いけれどもいとおしい日々が綴られている。「ブラフマン」という響きそれ自体に求心力があり、彼の描写、「僕」との触れ合いの様子はなんとも言えないあたたかさに満ちている。思わず頭を垂れたくなるような気持ちにさせられる。「慈愛」という言葉が浮かんだ。 著者の小説は、ますます穏やかに、ますます残酷に、独自の世界を極めつつあると感じる。 | ||||
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情景描写は実に的確。 主人公とブラフマンとの愛情に満ちた交流を軸にして「創作者の家」の中を流れていく穏やかな時間や、 光と静謐さに満ちた郊外の風景を簡潔だが透明感ある文章で描写している。 その穏やかで透明な世界からどのような「物語」が浮かび上がってくるのかと期待を胸にページをめくっていったのだが、 ブラフマンとの交流以外に興味を引く展開があらわれないことにその期待は急速にしぼんでいった。 ブラフマンの他にも、雑貨屋の娘や「創作者の家」で暮らす人々といった登場人物たちがいるのだが、 彼らとの交流はブラフマンとのそれに比べてあまりに貧弱で物語性に欠けている。 主人公は雑貨屋の娘を女性としてかなり意識しているのだが、会話文からはいささか軽薄な性格といった印象しか受けなかった。 彼女は主人公に精神的な深みをもたらしてくれるわけでもなく、ほとんど小説の幕を引くためだけに存在しているといって良いほど魅力が感じられない。(もし雑貨屋の娘がいなかったら、この小説はどのような終わり方ができただろうか?) いわゆる一般人とは違った価値体系の世界で暮らしているはずの創作者(芸術家)たちも、物語の中になんら意外性を持ち込んではくれない。 碑文彫刻師は創作者たちの中でもっとも出番が多いが、彼が彫っている記念碑や墓石以上の存在感を作中で示してはくれない。 ページ数の少なさに救われてはいるものの、ブラフマン以外に関心を呼び起こされる人物・展開がないのでは少しさびしすぎる。 | ||||
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どのページを開いても、描写が素晴らしく美しい! 小川洋子独特の透明感があり、キラキラと光る郊外の風景が鮮やかに広がります。 謎の小動物ブラフマンのしぐさ、表情が細かくイキイキと描写されています。 主人公の純粋な愛おしい気持ちが感じられて、深く心に染みます。 同時に、そこかしこに死の香りが漂います。 しかしそれは忌み嫌うべき死ではなく、気が付けば隣にあるような、静かな死です。 そこが、ただのメルヘンでなく、この作品が文学作品に仕上がってる所以だと思います。 ブラフマンの死も、静かに淡々と描かれています。 (しかし、なぜこんなに悲しいのでしょうか。悲しいとは一言も書かれてないのに。) ゆっくりと少しづつ味わって楽しむデザートのように、じっくりと読める作品です。 古本屋に売る事無くずっと手元に置いて何度も読み返したい一冊です。 | ||||
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ブラフマンとは最初犬だと思って読み進みました。すると水かきがついているという表現があり、「犬に水かきはあったけ?」と思います。さらにやたらと長い尻尾があることがわかります。この時点で私はもしかしてリスかもしれない、と思います。半ばまでくると、誰もこの動物の種類について言及しないことがわかり、「なんだ意図的に隠しているのか、最後には明かされるのだろうか」とそれが楽しみになりますが、結局は最後まで明かされずじまい。森の動物で人懐こく毛がふさふさしていて水泳が得意な動物、、うーむ、あまりいなさそうなので、架空の動物なのかもしれません。舞台もオリーブ畑がひろがっており、古代墓場が近くにあり、不思議な埋葬の習慣があり、これって日本じゃないなーとだんだん思うようになります。 主人公の青年は、雑貨屋の娘に恋心を抱いていますが、彼女はいまどきの割と自分勝手な娘として描かれてます。青年と彫刻家が自制心のある俗っぽくない人間であるのに対し、この彼女とレース編作家は「いる、いるこういう人」といったある意味人間らしい性格で主人公らと対照的です。結局彼女と一緒にいたいがために注意散漫になり、ブラフマンが死にいたってしまうのですが、(主人公にとって)かわいいブラフマンが自分をおいかけて足元にとびだしてきたというシーンは、私にもなついていた手乗りインコがそのようにして死んでしまった経験があるので、それを思い出して心が痛みました。 架空の場所の架空の動物、登場人物にも名前はないし、森・泉・草原が背景となった乾いた明るい情景の中、淡々と物語は進んでゆきます。夏の苦い思い出としてページをめくり終わる感じです。 | ||||
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親子間に感じる本能的愛情というのが、主人公である「創作者の家」の管理人とブラフマンの間の関係なのだと思う。 ある日傷ついて迷い込んできた奇妙な森の生き物を主人公は保護し、ブラフマンという名を与え、それこそ親が子供を愛するように慈しむ。 彼の(決して聞き分けのいい子とはいえない)ブラフマンへの愛情はまさに無償の愛である。 この小説で何より素晴らしいのはブラフマンの感情表現の素晴らしさである。この世に存在しないだろう架空の動物の姿形、そして表情の変化それぞれが詳細に浮かび上がってくるような優れた表現力には脱帽した。 とにかくこの二人の暖かい関係、ブラフマンの悪戯に怒りを感じない主人公の寛容さ、に学ぶ点が多いと感じた小説であった。 | ||||
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在米中、ある獣医が、ペットは“unconditional friend”と表現していた。無条件の、無制限の、無償の、絶対的な友達。人は人と関わって生きていくとき、常に見返りのようなものを期待していないか?駆け引きのようなものを無意識に行っていないか?親友との関係に無条件の友愛をどのようなときも実践できるか?母親の子供に対する愛は神の愛に匹敵するほどの“unconditional love”であるとは度々いわれるが、果たしてそうか?様々な義務、見栄、自己防衛本能などから本当に解放された関係とは“僕”とブラフマンのような関係ではないか。様々な人間関係の狭間でストレスを受け疲れ、孤独を感じたときに、本当に魂を救ってくれるのは、こういう柔らかな存在である。そばにいるだけの自分の存在を100%信じて必要としてくれている、柔らかな存在だけだ。この“僕”のやわらかい記憶はブラフマンを失っても色あせることは無い。“僕”の内側から永遠に“僕”を包み励ましてくれる。作品を読み終え、自分は誰か大切な人、大切にしていると思っている人に対して、“unconditional love”を与えているのか“unconditional friend”になりうるのかを考えさせられた。 | ||||
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~ こちら(俗世間)とあちら(人間の力の及ばない世界)の中間点に『創作者の家』があり、『僕』そして『碑文彫刻師』がいます。雑貨屋の『娘』は完全にこちら側の人間で、土曜日に恋人が街からやってくるのを心待ちにし、街へ繰り出すための車の免許取得に余念がありません。そんな場所へ、あちら側から『ブラフマン』が不意にやってきます。『僕』は『ブラ~~フマン』を可愛がりつつ、『娘』のことも気になったり。 こちら=あちらの他に、深さ、というベクトルもあります。それは墓碑や石棺であったり、庭の泉であったりします。それらの描写には多くが費やされています。 こちら側の人間があちら側の深みにはまっていく、という作品が小川洋子作品には多いのですが(『薬指の標本』など)、この『ブラフマン~~の埋葬』では趣向を変えて、あちら側を眺めつつもこちら側に踏みとどまり、深みを静かに想う、ということをしています。 そういった微妙な位置取りを、あたかも自然に起きたかのように淡々と綴っていく本書は、一見地味ですが、実は非常によく計算された美しいフィクションだな、と感心しました。~ | ||||
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「博士の愛した数式」以来の小川洋子さんの小説を読みました。 ブラフマンは、ブッダの物語の人物ではなく、「私」が森で助けた動物の名前。 「私」とそのブラフマンが過ごした短い夏の日を、さわやかなタッチで描いています。 ブラフマンは、猿なのか、犬なのか、猫なのか、アライグマなのか、それとも架空の動物なのか、結局でてこなかったのですが、ブラフマンはブラフマンという、なんというのか、それで納得して読んでいってしまうほど生き生きと描かれています。 タイトルの通り、最後、最愛のブラフマンは夏の終わりに死んでしまうのですが、淡々と描かれるその光景ゆえに、「私」の感じた想いが伝わってきました。 こういった感じでの切なさの表現ってあるんだなあって。 150ページ弱の短いお話ですが、二度と訪れない夏の日をみずみずしく、さわやかに、そして切なく描いたよい小説です。 | ||||
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「創作者の家」と呼ばれるそこには、夏の間さまざまな芸術家が創作のために集まってくる。その人たちの世話をする男のところに、ブラフマンはやって来た。それは、飼い主とペットという関係ではなかった。友情という固い絆で結ばれた者同士だった。心の奥に寂しさを抱えた男と、親にはぐれたブラフマン。お互いがお互いの寂しさを分かっていたような気がする。出会いがあれば別れがある。その当たり前のことが、とてもつらく感じられた。 | ||||
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著者の小川洋子については「芥川賞作家」ということしか知りません。『博士の愛した数式』の方が売れているようですが、「ブラフマン」という言葉に引かれて、こっちを読むことにしました。 インドのウパニッシャド哲学でブラフマンは宇宙の究極的実在を指すそうです。ブラフマンが埋葬されるんだったら「アートマン」(個人の究極的な実在)はどうなるんだろう。何か哲学を命題にした小説なのかなぁ。……という私の予想は全く当たりませんでした。 「ブラフマン」は、ケガをして森からやってきた小さな動物です。ケガの手当てをしてやったり、エサの心配をしてやったり、トイレの躾をしたり。ブラフマンを自分の部屋に入れることによって、単調だった「僕」の生活は張りのあるものになります。 「僕」は芸術家が滞在する「創作者の家」の管理人をしていて、傷の癒えた愛くるしいブラフマンをかわいがります。静かな生活の描写が続いたあと、突然ブラフマンは死を迎え、静かに埋葬されてこの物語は終わります。 ブラフマンは何者だったんでしょう。最初は犬のようにも思わせる描写もありますが、指の間に水かきがあったり、ながーい尻尾を持っていたり。最後まで「森からやってきた小さな動物」ということ以外は明かされません。 「僕」の住んでいる町も、日本の軽井沢あたりを連想させる描写もありますが、「川に流された亡き骸を埋葬する人が集まった」というのが町の成り立ちですから、何とも不思議な場所です。 実在しなさそうな場所で不思議な小動物を可愛がったある青年の一夏の経験。何の寓意もなさそうな、静かな静かな物語。 ちょっとだけ心が温かくなったような……。 | ||||
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愛しいものを失ったあと、ひとは何を思い出し、どう生きていくのだろうかという疑問にひとつの答をくれる小説かもしれない。 たとえば突然別れた恋人、先だった子供、とうに亡くなった両親、ペット、などを思い出すとき、人は何を思い浮かべるだろうか。失くしたものの食べものの好みやそれを食べるしぐさ、はじめて一緒に車で出かけたときのこと、自分をたいせつに思っていてくれる気持ちがわかった時のこと、などを詳細に、しかし偏った詳細さで、記憶しているのではないだろうか。その周りにいた人々の名前などより、今は無いものの爪のかたちの記憶のほうがずっと強く残っているのではないだろうか。 ”僕”の暮らしのなかで一時期最も大きな存在だったブラフマンは死んでしまった。しかし”僕”は、ある日ドアを開けるなり見えた”彼”の表情やしぐさについては、手に持ったかけらを取り落としたタイミングまで詳細に覚えている。”彼”が他人から何に分類されていたかは記憶にのぼらなくても、その体温ははっきり記憶している。 市場で手に入れてきた見知らぬ古い家族写真をみた”僕"は、写真のなかのひとりずつが家族を失っていった気持ちを想像する。それがこの先の”僕”のずがたに重ならなくも無い。 著者のもつ、読者の感情への働きかけに対するはにかみに似た節度に好感と安心感を覚えます。大切な者をなくした方、これから失う不安をどこかにかかえた方、安心してお読みください。 | ||||
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夏のはじめのある日〈創作者の家〉の裏庭に傷ついた小さな動物が助けを求めるように身を縮めていた。芸術家たちの集まる〈創作者の家〉の管理人を勤める主人公「僕」と「ブラフマン」と名付けられた動物の優しく、温かく、そして切ない物語。 ブラフマンはどんな種類の動物なのか、作中では明らかにされていない。ただ、精彩に活き活きと描かれたブラフマンの行動や習性から私は自分が好きな動物だと勝手に思いこんで読んでいた。 タイトルから想像すれば、やはり悲しい場面があるのだと覚悟はしていた。それは以前、飼っていたペットが老齢で日に日に弱っていく姿を見て“寿命だから仕方がないんだ…”“今日はすごく元気だね。明日も明後日もまだまだ大丈夫だよね?”と祈るような気持ちで毎日を送っていたような覚悟だった。 そんな風にページ捲り、いつの間にか「僕」と「ブラフマン」の物語が「僕とブラフマンと私」の物語になっていた。 ブラフマンの愛くるしさと〈創作者の家〉を中心としたオリーブ林、泉などの透明感ある風景がとても印象に残る作品。 | ||||
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