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野火



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野火の評価: 4.47/5点 レビュー 101件。 Bランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点4.47pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全101件 1~20 1/6ページ
No.101:
(5pt)

この話はフィクションであってフィクションでない

屍体の肉は餓死しないためなら食っても良いと思う。わたしにとってその問題より重要なのは田村一等兵が復員したときの精神的外傷後症状のほうだ。野火の光景だけが点々と記憶に残っている状態は解離性健忘ではなかろうか。ほかに後日のパニックやフラッシュバックも見られる。わたしは昔その部分を読んだとき「これは恐ろしい話だ」と思った。復員して精神病院入院にいたる段階で主人公の頭にあったのはここだけで、あとの筋立てはずっとのちに思い出したのではないか。
わたしには精神病院に保護入院をさせられた経験がある。極限状況だった。5か月後に退院したときのわたしは廃人になっていた。足をやられ、言葉が出てこない。100円玉と10円玉の区別がつかない。記憶が消えて過去のことを飛び飛びにしか覚えていない。覚えているのは「商店街を歩く」という命題の風景のみだった。
このときわたしはしみじみと知った。太宰治の『人間失格』とならんで『野火』はほんとうの話なのだ。昭和29年にPTSDという知見はなかったはずだ。診断は「鬱病」「戦争神経症」だったろう。
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.100:
(5pt)

ベリーグッドです

他なし
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.99:
(1pt)

ゴミのような駄作

一行も読む価値のない正に駄作。
開くのにかかる時間さえ無駄だったと思える。
星0個が選べないのが残念。
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.98:
(4pt)

私小説

戦争の恐ろしさ
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.97:
(5pt)

銃は国家が私に持つことを強いたものである。

著者は民間人として、終戦間際に召集。激戦地のフィリピン前線に送られた。
本著はフィクションでもあるが、私体験に基づいたものでもある。
民間人として招集された視点から、戦争を知らない現代人にとっても
戦場を追体験することができる名著である。
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.96:
(5pt)

フィクションですね

この作品も「俘虜記」のように、ご自身の体験を語られた本かと思って読み始めましたが、物語の展開があまりに激烈なので、これはフィクションではないかと思い始めました。大岡氏の略歴を拝見すると、ミンドロ島に守備兵として送り込まれたものの、レイテ戦には参加されていないようです。なのでフィクションと分かりました。しかし、氏は、レイテ島のタクロバン収容所に収容されていたようであり、おそらくその際、同じく収容されていた日本兵の方々からレイテ戦の実相をいろいろ聞かされ、それを基として、この小説を書かれたのではないかと感じました。

私も以前、仕事でレイテに出張させていただいたことがあり、その時、現地の人の案内で、タクロバン(レイテ島東海岸の拠点都市)から日本軍の補給基地だったオルモック(レイテ島西海岸の港町)まで、日米両軍が対峙した激戦地リモン峠を越えて、ドライブしたことがあります。その時の経験では、「野火」の本文中には「リモン北方でパロンポンへ向かう一道が分かれているところ、通称『三叉路』付近が、それから先の湿原の行程を楽にするという意味で、特に敗兵達のよって窺われた地点であった。」との記述がありますが、パロンポンへ向かう道は、リモンのかなり南方で分岐するのではなかったかという記憶から、少々事実と異なるのではないかと感じました。概して、大岡氏は、あまりレイテ島の脊梁山脈西側の地形をご存じなく、この作品を書かれたのではないかとの印象を持ちました。(なお、私が読んだのは、古本屋で入手した昭和27年発行の創元社版です。)

また、作品とは直接関係しませんが、レイテでのドライブの折、リモン峠にさしかかると、案内の方から「あそこに日本の神社があるが、見ていかないか」と誘われ、「日本の神社」とは一体どのようなものだろうかと、車を停めて丘を登りましたら、おそらく遺骨収集団の方たちが残していかれたであろう卒塔婆でした。しかし、そこには付近の村の人たちによると思われる、真新しい果物や花が添えられていました。
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.95:
(5pt)

戦争の記憶

現在ではとても考えられないひどい状況です。
こんなことをして何の意味があったのでしょうか。
今後戦争の無い世の中になりますように。
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.94:
(5pt)

70年経っても輝く、文学と呼べる戦争文学

たまに無性に文学が読みたくなる。現代の受賞作を漁るのも良いけどやっぱり名作を読みたいなと思う。そこでNHKの「100分de名著」のアーカイブから見つけ出したのが、大岡昇平の「野火」。

1944年、既に戦争の主導権を失ってしまっていた日本。「決戦」などと謳いながら無謀な抵抗を続け、最後の1年間だけでおそらく200万人以上が死んでいる。その中でも数万数十万人の死者を生み出した、フィリピン、ビルマ、長崎広島、大都市空襲といった現場を舞台に数々の戦争文学が紡がれてきた。そして、フィリピンやニューギニアを採り上げるとカニバリズムが絡んでくる。これまでの自分は無意識にそのテーマを避けてきたのかもしれない。しかし、NHKの番組で紹介された冒頭部分の描写の美しさに惹かれて読むことにした。

物語は肺を病んだ田村一等兵が所属する中隊を追われるところから始まる。上官は偉そうな訓戒を垂れるが、既に米軍はレイテ島上陸に成功し、大勢は決している。彼らの中隊も現地農民から徴発した芋を大事に抱えて敗走の途上にある。

中隊からも野戦病院からも追われた田村が得たのは、自由。30過ぎの補充兵としてこの地に送られた田村は、軍隊慣れした兵士達とは異なり、フィリピンの美しい景色を眺めながら思索を巡らせることができる。そんな自由で孤独なはずの彼に付きまとうのが、野火。

農民の野焼きか、それともゲリラの合図か。米軍が迫撃砲や戦闘機の機銃による攻撃しかしてこない段階だから彼には逃げる自由が与えられているのだけど、野火は大事な場面で彼の心象に現れる。おそらく、彼は「見られている」のである。

彼は罪を犯しながらも、その許しの象徴なのか芋と塩を得る。しかしそれらも尽きると、彼に本当の試練が訪れる。瀕死の将校は彼に、俺が死んだら食べてもよいという。しかしその死後、剣を握った彼の右手を左手が掴んで止める。「汝右手のなすことを左手をして知らしめよ」、つまり内なる他人から見て恥ずかしくない行為をせよという聖書の一節から得られたこのシーン、やはり彼は「見られて」いて、ここではギリギリ踏み止まるのだが、やがて「サルを狩る」という同僚と再会し、そこから、彼の精神つまり彼の中に響く神の怒りは、限界を超えていく。

文庫本で200ページ程度の中編小説だが、その文学的価値は高い。21世紀になっても映画化(2回目)されたということは、この本を読んで心に何かを刻んだ人が多いということだ。字句の一つ一つを丹念に読ませるような、私小説を超えた「文学」はなかなか日本には少ないけれども、この歳になって文学に出会えたことに感謝し、時が来たらまた読み返してみたい。
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.93:
(1pt)

中古は承知しておりましたが、鉛筆とか赤ペンの書き込み、ラインが入っていました

タイトルと同じ
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.92:
(5pt)

永遠の古典

五年に一回位は、野火を読んでいる気がする。
最近も読んだが、色々、新たな発見があり、以前とは見える風景が違う。

一応言っておこうと思うが、この本は大岡昇平の戦争体験ではない。
フィクション。
「俘虜記」と読み比べて見れば分かる。
大岡昇平が捕虜になった時、どう考えたって、大岡昇平の周辺では人肉食など起きていないし、飢えてすらいない。
つまり、飢えも人肉食も、体験的に知らない人だ。
マラリアでは苦しんでいたし、部隊から捨てられる、という悲しい思いはしているが、捨てられたから助かった、という皮肉な結果になっている。

という事を踏まえて、野火を読んでみると、気の狂った将校が餓死する箇所までは、本人の戦争体験が反映されていて、リアルと言えばリアルなのだが、それ以降はダメだね。
ダメダメ。

その後の、放浪しながら飢えていく箇所もダメだね。
ああはならない。
なぜなら、大岡昇平は飢えを知らないから。
俺だって体験的には知らないけれど、それでも文献は大量に、かつ長年読んで調べている。
ここは結構、いい加減だと思うね。
現実は、ああはならない。

あと、お楽しみの人間狩りの部分だが、そういう事は、フィリピンでは、全然珍しい話ではないが、うーん、どうなのかな。
所詮は想像の産物、だと思うね。
事実は小説よりも奇なり、だと思うね。
まあフィリピンの人肉食なんて、調べるの簡単だし、目撃証言も山程ある。
フィリピンは超ラクだ。

ダイエーの創業者の体験談は有名だね。
食われる恐怖に怯える話で、食べる話ではないが。
多分、食ってるけれど、建前としては一応食ってない、というかノーコメントを貫いたのか。

一応補足しておこうと思うが、殺して食べた、というのと、落ちてた死体を食べた、というのは別物だと思った方が良い。

同じ食べた、でも、そこには一線が引かれている。
極限のサバイバルと、ただの鬼畜とは、やはり違う。
とは言え、うーん、フィリピンは色んなケースがあるから、一言では言えないな。
ルソン島だけでも、三ヶ所に別れていて、それぞれケースが違う。
他にレイテ、ミンダナオ、ネグロスとあるわけで、やはり全部ケースが違うから難しい。

どうにせよ、フィリピンだけに限定するなら、人肉食を調べるのは楽だ。
ただ、色んなケースがあるから、一つや二つ読んだだけで、分かったつもりにはならない方が良い。
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.91:
(5pt)

敗残日本兵の人肉食の凄まじい描写

本書の初版は昭和29年4月である。
なぜ、今頃、読んで見たいと思ったか。
実は、この前に中公新書の「日本軍兵士」を読んでいて、太平洋戦争における日本兵死者の半分近くは餓死であることを知った。そして、「日本軍兵士」は読売新聞の書評欄で取り上げられ、その書評の中に大岡昇平の「野火」が日本軍の飢餓を良く描写してある小説として取り上げられていたのである。
そういえば、「野火」は昭和34年に船越英二(栄一郎の父親)主演で映画化され好評を得ていたことを思い出した。
それが、この古い小説を読んで見ようと思ったきっかけである。

太平洋戦争の中の、レイテ島の争奪戦で日本軍は完膚なきまでに米軍に叩かれチリヂリになっていた。
敗残逃亡の中を歩いてようやく日本軍の野戦病院をみつけた兵士田村は、食料を持っていないことを理由に入院を断られる。ここで安田という一筋縄ではいかない古参兵と知り合う。
病院も爆撃され、日本兵は思い思いに逃避行を続けるが、食料の不足はいかんともしがたい。服や靴は敗れ、乞食のよウになって、逃避行を続けるが、安田とその仲間がサルの肉を食っているのを知り、分け与えてもらう。
体の丈夫なものは、サル狩りに出掛け、田村もそのうまい肉を貪り食ったが、のちにサルとは実は日本の敗残兵のことだと知る。
救いのない話だが、最後は田村は米軍に助けられて日本に帰還、精神病院に収容される。
作者大岡は、最後の救いとして、この小説の結末が、事実か精神病者の妄想か分からないようにして終えている。
それにしても、敗戦後すぐに書かれたと思われる、当時の作家の文章力、表現力の確かさはどうだ。昨今の新人作家の及ぶべくもない。レイテ島の自然描写の流麗さ一つを取ってみても、昔の作家がいかに日本語を勉強していたかが知れるのである。
野火(のび) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:野火(のび) (新潮文庫)より
4101065039
No.90:
(5pt)

言えることは、戦争は飢餓地獄を生み出すという事です。

この小説は、いわゆる戦争映画のような戦闘シーンや軍隊の上下関係などはでてきません。
フィリピン戦線のレイテ島パロンポンへ向かうジャングルの中、想像を絶する飢餓に襲われます。米兵との戦いなどでてきません。あくまでも飢餓との戦いです。食べるものがない極限状態は、人肉に手を出すかどうかです。この小説とは別に人肉に関し、中国の古代から近世にかけて食人の習慣が、緊急避難行為などではなく、恒常的な食文化として根づいていたようです。
日本ては、秀吉が行った「三木城」「鳥取城」の「干し殺し」「飢え殺し」のように飢餓により、死者の肉を食べるという事態が発生しました。武田泰淳の小説「ひかりごけ」にあるように難破し極限状態の船長が、仲間の船員の遺体を食べて生き延びた話が有名です。
この小説の背景の太平洋戦争の東南アジア戦線の日本軍では、補給が慢性的に途絶したことで大規模な飢餓が頻繁に起こり、死者の肉を食べるという事態が発生したことは事実のようです。
この小説の主人公は、猿の肉といわれて食べていた肉は、人肉だと薄々感じていたが、己を欺いて
食べていましたが、実際、目の前に人肉を出されると、食べれませんでした。
ここに神が登場します。神は飢えの果てに肉を食い合うのに対し怒るのです。主人公は、神を代行して
人肉嗜食する松永を殺します。人肉を食べないことにより天使になれると主人公は思ったのでした。
読み終え何か宗教的なものを感じました。
この小説は、戦争映画というジャンルではなく、飢餓地獄という極限状態におかれた人間か゜
どんな対応をとるかということで、上記の戦国時代、難破船時などと同じ状況です。
人間を放棄しどんな事をしてでも生きるか、人間としての尊厳を保つか難しい選択に迫られます。
ただ言えることは、戦争は飢餓地獄を生み出すという事です。
野火(のび) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:野火(のび) (新潮文庫)より
4101065039
No.89:
(5pt)

文章から映像が見える

序盤の土地の描写と比喩の連続が読みにくく、文体も硬く退屈かもなと最初は思っていたのですが、
物語が動き出すと胸を打つ凄まじい小説でした。

レイテ島を彷徨する主人公の目を通して戦地の映像が伝わってきて、
胃を圧迫されるような吐き気が読書中ずっと付き纏っていました。
兵士たちとのやりとりは印象的な場面が多く、
自分自身もその場の一員になったかような感覚に陥ります。
内省的な場面は哲学的であったり宗教的であったりでわかりにくい表現もありますが、
くどくどしさはないので読みにくくはないです。

他の作品もすぐにでも読んでみたいと思わせる力強い作家さんでした。
野火(のび) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:野火(のび) (新潮文庫)より
4101065039
No.88:
(5pt)

映画も合わせて見る事をお薦めします。

塚本晋也監督の、同タイトルの映画を先に観ました。是非、小説と映画の両方をお薦めします。
大岡昇平の壮絶な戦争体験が、つい体験出来るかもしれません。
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042
No.87:
(5pt)

狂気を語る

まず題材の段階で忌避する人もいそうだが、小説で見る限りはある程度ぼかして表現されているので、額面ほどの生々しさは感じないはずだ。大岡昇平氏の表現力がなせる業だろう。

 第二次世界大戦の暗黒面、フィリピン上陸戦の惨禍を、兵役経験のある大岡氏が多彩な比喩と想像力で陳述する。戦争小説と幻想小説を融合したという感じで、そうとうに独自性の高いものと言えるだろう。

 第一に挙げられるのは、徹底した風景描写。田村一等兵が新地へ赴くたびに、詳細に、悪く言えばくどいほどの情景描写がほどこされている。
 むろんただの文字数稼ぎなどではない。時代の流行に乗っているわけでもない。
 この作品のコンセプトはずばり「極限状況における人の狂気と理性」である。食料、尊厳、仲間がことごとく奪われる絶望状況において、なおも神への畏敬(もしくはそれに近しいもの)を持ってカニバリズムの誘惑を振り切る、という物語だ。
 そのコンセプトの下では、自然の風景を生きとし生けるものとして描くのは理にかなったことであるし、多彩な表現技法によってそれを実現している点もすばらしい。「汝、殺すなかれ」という神の大原則を最後まで胸に抱き続けた田村一等兵の精神力は、想像しがたく強靭である。

 人の狂気、という言葉は田村一等兵だけでなく、登場する人物ほぼすべてに同様のことが言える。
 象徴的なのはやはりラストシーン。病院にいたころは友情すら芽生えていた永松と安田が、飢えに狂い、裏切りあい、ついには二人とも野垂れ死ぬ。作中では安田がほかの二人を裏切ったという形になっているが、永松も安田の手足首(つまり食べられない部分)のみを切り落としていたり、仲間を猿と称して食らうことを黙認していたりするため、程度は違えど狂っていたことに変わりはないのだろう。田村に殺されることも宿命であったのかもしれない。
 その他、降伏した伍長を撃ち殺す女兵士。
 「自分の腕を食ってもいい」と言って支離滅裂な言葉を唱える仲間。
 同胞が焼き殺され、「野火」となる光景を嗤って見下ろす田村一等兵――。
 死に向かう人間の狂気をまざまざを映し出すこの作品は、どんなホラー小説よりも「恐怖」を体現しているといえるかもしれない。
 自分の肉を食うシーンにすら違和感を覚えないのは、『野火』以外にありえないだろう。

 と、かなり「えぐい」作品なのだが、作中にはしきりに「神に栄えあれ」というモノローグが挟まれている。
 これが生に感謝する言葉として真心から出たものなのか。
 あるいは「狂気」に落ちる人間の最後の皮肉としての言葉なのか。
 田村一等兵に、真意をお聞きしてみたいものだ。
野火(のび) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:野火(のび) (新潮文庫)より
4101065039
No.86:
(4pt)

すさまじい迫力。

第二次世界大戦末期のレイテ島における敗残兵の彷徨を一人称で記すことで、極限的な状況における人間の心理を描く。
 「復員後」を描く最後の3章の位置づけが私には分からなかったし、吉田健一の「大岡昇平氏の作品を読めば読む程、日本の現代文学に始めて小説と呼ぶに足るものが現れた(p.210)」という評価の当否も私には下せない。ただ、その程度の浅い読みでも、本書がすさまじい迫力で読者に迫ってくることは分かる。
 著者自身の従軍体験や、捕虜として著者と知り合った元兵士の体験なしには本書は書かれなかっただろう(「現在私の持っているレイテ島の戦闘に関する知識は、大抵この帰りの船中で得られたものである」と『俘虜記』にある)。しかし、本書を「戦争文学」と呼ぶことが妥当なのか私はいささか迷う。「戦争」そのものが主題とも考えにくいところがあるからだ。
 本書の描写は視覚的で、これは映画化したくなるだろうなと思った。
野火(のび) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:野火(のび) (新潮文庫)より
4101065039
No.85:
(5pt)

巧みなる筆致

野火の映画版を観てから原作に関心を覚え、読了した。
映画では意味不明すぎたラストシーンの意味を理解出来た。
また、著者の文章力も脳裏にありありとその光景が浮かぶようで脱帽した。現代の作家も見習うべき。
野火(のび) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:野火(のび) (新潮文庫)より
4101065039
No.84:
(4pt)

極限下での人間心理に興味のある誰かへ

"肉はうまかった。その固さを、自分ながら弱くなったのに驚く歯でしがみながら、何かが私に加わり、同時に何かが失われて行くようであった。"著者のフィリピンでの戦争体験を基に1951年に発表された本書は、人間の極限状態における心理が静かで、かつ刺さる様な文体で書かれている。

個人的には、表題作というより、一緒におさめられている読書会の課題図書ハムレットの2次創作作品『ハムレット日記』を探す中で本書と出会ったわけですが。戦争小説と言うと、どうしても争いそのものの勝敗にクローズして描かれがちなイメージがありますが。本書の視点は『そこ』ではなく、もはや敗北は決定的な中で、意識が混濁しながら彷徨う主人公の姿に【カニバリズムに代表される人間の尊厳について】鋭く問われる読後感でした。

また1959年に市川崑、2015年に塚本晋也がそれぞれ監督をつとめて映画化されている様ですが。そちらはまだ未見の為、本書を読んで。どの様に映像化されているのか。ちょっと怖いもの見たさ的な楽しみを感じ始めたり。(予告→ https://m.youtube.com/watch?reload=9&v=qD0vDR1NKiI )

極限下での人間心理に興味のある誰かに、また文書表現を学ぶ誰かにオススメ。
野火;ハムレット日記 (岩波文庫)Amazon書評・レビュー:野火;ハムレット日記 (岩波文庫)より
4003112318
No.83:
(4pt)

これは本当の戦争の話

フィリピンの壊滅的な敗戦の戦場に駆り出され、死の恐怖と飢えの中におかれた兵士が、敗走する途中で、偶発的に殺人を犯し、その後、飢えにより人肉を食べるという行為を行ってしまう。特に後者は衝撃的であるがリアルな内容から事実に基づいていると推測した。
昔読んだ「俘虜記」と合わせて考えると、戦争の現場に送り込まれるのは市井の人々であり、そうした普通の人が、究極の3K(汚い、危険、きつい)の現場で、意に反して、こうした行為に追い込まれるのが戦争であると考えた。
野火(のび) (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:野火(のび) (新潮文庫)より
4101065039
No.82:
(5pt)

読んでいただきたい

「悪文」と題して “こんな「文学」につきあう時間があるならほかにもっと優れた本がいくらでもある” とレビューする人もいるようですが、
果たしてこの文章が文学もどきに過ぎない飾りなのか、それとも削ぎ落とされた本当に特別な作品であるのか、それは読めば必ず判断がつきます。

万人が賞賛すべき文学というのはありません。この作品も、あなたが必ず賞賛できる作品とは言えません。
それでもなお、この作品はあなたが読んで、そのよしあしを評価する価値のある作品なのだと思うのです。
野火 (角川文庫)Amazon書評・レビュー:野火 (角川文庫)より
4041211042

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