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野火
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野火の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.47pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全101件 81~100 5/6ページ
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「どうして人を殺しちゃだめなの?」 「どうして戦争しちゃだめなの?」 そこに理由はない。道徳だの倫理だのといった問題ではなく、ただ「だめ」 なんだと私的に思う。 戦争の中で「命の尊厳」や「神」を見出そうが、それは別の表現で言えば、 中華料理店でイタリアンを注文するくらい場違いな事だと思う。 一ヶ月先の予定を平気で立てられるくらい平和な世の中において、戦争の 中でしか命の尊厳を見出せないのは寂しすぎる。 個人的に、戦争批判はその時代を生きた人でしか批判出来ないと考えている。 たとえ時代が戦争を求めようが、私は抗う覚悟だ。一方で戦争責任は全人類の 責任だとも感じている。 著者はこの小説で伝えたいものを表現できたのでしょうか? | ||||
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実家から帰る高速バスの中で一気読みしたが、読了した後に周りの風景が60年前の戦場に変わったかのような衝撃を受けた一冊。極限下において人間はどこまで獣になるのか?国家と個人の関係とは?当時の軍部が立てた作戦の難点とは?…そんな幾つかの問いが頭の中を駆け回った。(私も含めて)「特亜何するものぞ」的な勇ましい言動を撒き散らす「自称保守」なネットユーザーがインターネット上で跋扈する昨今だが、この作品を読んでも同じ言葉を吐くことができますか?…などという問いをそんな人々に突きつけたくなった。 | ||||
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人間の根本にあるものは善なのか、あるいは悪なのか。心の芯に抱えている ものがむき出しにされるような極限的な状況など我々にはほとんど縁がないから、 そんなことを考えてもあまり意味がないのかもしれないし、そもそも確かめる 術がないのだが、例えば自分はどこにもヨコシマなところなどない小市民である はずなのに、ときに自身でも怖くなるほどのどす黒い気持ちを胸に抱いてしまう とき、例えば誰の賞賛も浴びないようなささやかな善行を、手間も体力も かけながらきまぐれで行ってみるとき、そんな出所のわからない感情を覚えた 経験をいくつも積み重ねるうちに、いつの間にか私たちは、そうした善と 悪の衝動のどちらがより深いところからやってきたものか、考えてみたりする。 そして、出来れば善の方がより根幹に近ければいいなあ、と祈ってみる。 『野火』は、戦争という状況を通して一人の人間が、自分を奥底で突き動かして いる何者かへと肉薄していく物語である。常識や倫理といったものがそぎ落とされ、 代わりに生への渇望を含めた欲望が浮き上がってくる。どんな非人道な行為だって、 とがめる者はどこにもいない。何をしても許される。そのはずなのに、いざ行為に 及ぼうとすると、それを戒める何者かが自分の中にいる。まだ何かを捨てきれて いないのか、それとも、それはそもそも放棄することなど出来ない、自分自身 そのものなのか。ときに己の生命を維持するための行為にさえ逆らおうと するその何者かの正体は、果たしてなんなのか。 昨今、他人の罪と非道徳とを糾弾することばかりが多いように思う。けれど本当に 大切なことは、まず自分自身の善性の根拠を問い、己の悪しきところと向き合うこと なのではないだろうか。50年以上前に大岡昇平の手によって、自身を切り開き、 そしてさらすべく書かれた『野火』の言葉の刃が、今こそ人々の手に 取られるのを待ちわびて輝きを放っている。 | ||||
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「人肉を食らう事を天皇陛下はお命じになるのだろうか?」といった問題提起は、この小説にはない。小銃に刻印された菊の紋を、×で削るという描写があるだけで、面倒な思想批判が、この苛烈な戦場に介入されることはない。 いったい同胞を、その人体を食する為に撃つとは、どういった状況なのだろうか?ここに描かれているのは、我々の想起する極限や限界などといった認識を、遥かに越えている。しかも冒頭のセリフのような問題提起が無いにも拘わらず、読者は主人公に代わって、強く思うのである。 “一体全体、誰がわれわれを此処へ連れてきたのか?” 主人公が図らずも殺人を犯した後に陥る、任意と必然の内的な相克や、同胞の死体を前にしての、右手と左手の、いわゆる本能に対する理性の抗いなど、この作家はなんという洞察力の持ち主だ。いや、想像などではない実体験だ、などといった論争もあったらしいが、それは些事にすぎない。 肺を患い本隊を放逐され、ジャングルをさまよった田村一等兵が、友軍に出会い、思わず落涙するシーンは此方も泣けてきた。また、決して低くない教育を受けてきた彼が、空腹の為、将兵の衰弱死体のもとに舞い戻る場面には、やり場のない憤りを感じた。 終戦後、復員した彼は、いわゆる戦争神経症により、サナトリウムに入る。妻と主治医との不貞を疑うなど、次第に気難しく、卑俗になっていく。 フィリピンの極限状態で彼は、神の姿を認めるが、この病室で彼が認めたのは、格段に劣った神だった。この点では、最後にカタルシスに陥った船長が、神憑り的に善と悪を逆転させた、あの作品の方が、嘘っぽいが劇的だ。 | ||||
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神に栄えあれ、という言葉で締めくくられる本書は、語り手である田村一等兵の言葉を額面通りに受け取るのであれば、極度の飢えから食人の瀬戸際にあった彼が神の力を得て救済される話である。実際、フィリピンの原野に神が遍在する様を称える情景描写は賛美歌のように美しい。また、神の意思の現前化としての「左手」のエピソードも非常な迫真力を持っている。 しかしながら、田村一等兵の背後に作者大岡昇平の目を意識すると、小説は違った相貌を見せる。田村というのは実際人肉を食しているにもかかわらず自分の意思で食べていないので自分は罪を犯していないと都合の良い理屈を展開する自己欺瞞的なご都合主義者であって、実のところ、冷静な判断力を失った狂人に過ぎない、という含みも作者大岡は持たせているように思われる。 本書が極限状況を経た人間の神への転身の物語、つまり一個の英雄譚であるならば、それは結局私には、よく出来たお話の域を出ないものだ。一方、本書が田村への批判の書であるならば、本書を埋めつくす麗々しい描写と知的にもっともらしい理屈は徒労感しかもたらさない。結局作者の論理とはどこに向かうのか、という疑問が残る。 訳がわからない、というのが結局の感想である。 | ||||
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「神に栄えあれ」で終わるこの小説は、数々のメタファーに満ち溢れ、特に最終章の意味するところは「深すぎて」消化しきれないものだった。 戦場で生き残り、飢えと乾きに朦朧としながらも野火の方角へ歩き続ける一等兵がいる。一等兵は人肉で飢えを満たすという欲望に突き動かされながらも、すんでのところで踏みとどまる。神の声を聞いたため、神が宿った左手が喰おうとする右手を押しとどめたため、と彼は考える。しかし日本兵を殺して喰っていた戦友永松から、無理やり「肉」を口に押し入れられ、久しぶりの脂肪を味わってしまう。このとき悲しみながらも「左右の半身は、飽満して合わさった」と一等兵は感じる。 野火を目指して歩いたのは、そこにいるであろう人間共を懲らしめ食べたかったのではないかという。しかし彼は死後、彼が殺した者達とともに「黒い太陽」を笑いながら見る。彼らが笑っているのは一等兵は彼らを「私の意志では食べなかった」からである。 戦場で人を殺しても、知らずに人肉を食べてしまっても、自分の意思で人肉を食べさえしなければ神に赦されるということなのか。このとき「自分の意思で人肉を食べない」ということは何かのメタファーなのか。 当分脳裏に留めておかねばならない気がする。 | ||||
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本書は、生還率3%と太平洋戦争中最も苛酷な戦場となったレイテ島において、 実際にあったと言われる兵士同士の人肉食いがテーマとなっている。 こういう事態が起こった背景には、補給を殆ど無視した軍の無謀な作戦によって 多くの兵士が飢餓状態に陥ってしまったという事実がある事を一応指摘しておきたい。 本書で描かれた兵士同士の人肉食いを通して、 極限状態に置かれた人間が、どこまで人間としての尊厳を保つ事が出来るのか? そもそも人間性とは何かについて考えさせられる。 そして「人間はどんな異常の状況でも受け容れることが出来るものである」 という本文中の言葉から、人間性を超えた生命力の凄まじさを感じた。 文学作品としても再度棒線を引きながら熟読してみたい程、 文学的完成度の高い傑作だと思う。 | ||||
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『俘虜記』『レイテ戦記』とともに一度読んだら忘れられない作品.人が死を覚悟するとき,なお意味あるものとして見えるのは何なのか,を精確なカメラでみるように,映し出す.逃れるために,研ぎ澄まされた作者の目に映る,様々な山中の地形.その不安なパノラマの中に出現する得体の知れぬ野火.その火に向かって野を分け入ってゆくときの戦慄. 必要最小限の描写にもかかわらず,行ったことも見たこともないフィリピンの自然と地形が,フィリピンの山中の木々が,今そこにあるように,文章の中から立ち現れてくる.その地形の描写が,背後にある主人公の死の意識を照らし出すその喚起力の確かさ(hauntingという言葉はこのような経験を描写する言葉ではないだろうか).主人公の山中の彷徨を,抑制された筆で,「自然科学的に」たどる,その記述のもたらす緊張感は,何度読んでも感嘆するしかない.傑作. | ||||
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大岡さん自身、青山学院時代に キリスト教に傾倒していた頃があり、それがよく作品に表れています。 神について、外国と同じように論じることが目標だったと インタビューで述べていましたが、随所にキリスト教を彷彿とさせます! 大岡さんも、実際にフィリピンに行っているので、 祖母の兄も、このような中で死んでいったのかなと悲しくなりました。 体験を背負って記述されているので 物語でも真実がこもっているように思います。 生死をかけた中で、昔の女性を思い出したり、 子供時代に通った教会と聖書の言葉を思い出し、 神の呼びかけを聞こうとしても、神は沈黙したまま、 何か道しるべを見出そうとする様子は、絶品でした。 まさに、戦中の日本人によるヨブ記という感じです。 実際、この本の冒頭で、聖書の引用が使われている点にも注目です。 | ||||
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太平洋戦争で召集され、敵地で捕虜になりながら脱走して復員してきた叔父に戦争中の話を聞かされたことがある。その叔父も故人となり戦争体験を直接話してくれる人も周囲には殆どいなくなった。 政治家や軍人から見れば、避けられなかった戦争かもしれないし、彼らなりに大義名分が有ったのかもしれないが、戦争の進め方、終わらせ方が褒められたものでなかった。 ましてや、召集され、戦地で国家から死を強制された一般の国民にとっては、おきてほしくなかったものだった筈だし、今後も戦争は二度と起きてほしくないものだと思う。 物語は、一兵卒の戦地での絶望的な話だが、薄っぺらなナショナリストたちの被害者・加害者論や、表面的な善悪論などを遥かに超えた、極限状態での人間の精神の普遍性を見事に描ききった貴重な文学作品だと思う。 戦争や飢餓が遥か遠くのものになったと思い込んでいる若者や、好戦的な態度が普通の国家などと主張している自称文化人は、今の時代だからこそ本書を読むべきだと思う。 | ||||
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人間の生命力は、自身が思っているよりずっと偉大だ。自意識や、倫理や、観念などといったものは、生命力の爆発を前にすると、いとも簡単に消え去ってしまう。 いわゆる戦争の悲惨さを描いた小説とは少し違う。 この本を読んでいると、「生命力」という名前のおっさんに正拳突きを叩き込まれます。 その衝撃は心の奥まで届き、そこにある見えない何かが、ぶるぶると震える。 この本に出会えてよかった。 | ||||
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アジア・太平世戦争において、日本軍兵士の死亡原因の約6割は、食料や薬の不足が招いた飢えや病気による「広義の餓死」とされている。それだけを頭の片隅に置いて手に取ったが、読了後、この客観的な数字だけで、戦争末期の戦場と餓死まで追い詰められた兵士の悲惨さを理解しようとしていた自分が、あまりに未熟すぎたと感じた。200ページ足らずの紙に、これでもかと言うぐらいの緻密な心理と風景の描写、そして人間関係。よくここまで言葉に変えて文字におとせたものだ。 戦場において、法、倫理、道徳といった人間社会の建前が蜃気楼に化した時、そして飢えによる死に面したとき、人は何を考え、行動したのか、もしくは行動しなかったのか。とある一兵士の真実がここにつまっている。 | ||||
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作品としては当然星は5つですが、解説を含めた書物全体としては減点する必要があるのではと感じました。作品が刊行された2年後に書かれた解説のようですが、いつまでも残す必要がある解説ではないと思います。作品を読んだ後の充実感にケチをつけられたみたいな気になって不満が残りました。 人間とは何か、人間にとって神とは何かという大きな問題に正面から取り組んだ小説なのに、解説はこういう中核の主題を避けて単なる小説技術論(それもどうも納得しがたい小手先だけの技術論)を論じるだけで、作品に正面からぶつかることから逃げている。そのくせ、自分はこの著者の作品を「解説」できるだけの力を持っていることを何とか見せようと色々細工をしかけていて、読んでいていい気持ちがしません。 わたしのように本編の後の解説を楽しみに読む人は少ないのかもしれないですが、時間が経って改めてこの作品の大きな意義を考え直す必要も出てきていると思いますし、解説を新しくするくらいのことをやってもよいのではないでしょうか。 | ||||
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この薄い文庫本を読み終えるのに、二年かかった。一文節たりとも、おろそかにできない文章が続く。「戦争とは何か」を突きつけてくるだけではなく、「人間とは何か」を突きつけてくる。当たり前だろう。戦争とはそういうものだから。 戦争とはなんだったのか、それを考えることの出来る記録文学、評論、映画、ドキュメンタリーは幸いなことに多数ある。けれども、数の問題ではない。何かが足りない。それは「自分と関係のあることなのだ」という実感をもてるかどうかということなのだろう。例えば私の母の兄がどのような地獄を送ったのか。賢くて優しかった母の兄が、地獄の中でどのように変貌し、生きて死んでいったのか、その想像のよすががこの作品の中にはある。 「食料はとうに尽きていたが、私が飢えていたかどうかはわからなかった。いつも先に死がいた。肉体の中で、後頭部だけが、上ずったように目醒めていた。 死ぬまでの時間を、思うままにすごすことが出来るという、無意味な自由だけが私の所有物であった。携行した一個の手榴弾により、死もまた私の自由な選択の範囲に入っていたが、私はただそのときを延期していた。」 この作品の主人公は高学歴の人間だ。ベルグソンの言ったことがすらすらと頭の中から出てきたりする。また彼はクリスチャンか、あるいはその信仰を持っている人間でもある。聖書の詩句が彼の頭の中にある。しかし、信仰はどうやら彼の救いにはならなかったようだ。 「しかし死の前にどうかすると病人を訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬間、彼は警官のような澄んだ目で、私を見凝めていた。「なんだ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」彼はのろのろと痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部を叩いた。」 | ||||
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「戦争」という私たち戦後の世代には未知の世界を実体験した筆者だからこそ書けた作品。 私はこの作品を読んで、戦争という限界状態に於ける「食」の重要さというものをひしひしと感じ、そして、人間が人間で無くなってしまうような戦時下に於いて、かろうじで人間としての倫理観を保つことが出来る術は、やはり宗教に対する信仰心でしかないのだと思いました。例えそれが幻想でしかなくとも、限界状態に於いて自分の人間としての尊厳を保持する為には、やはり見えざる絶対者を信仰する事で、少なくとも罪悪感の補償をするより他はありません。それにしても自分が実際にこの様な状況下に置かれたら、信仰が在ろうが在るまいが、もしかしたら人肉を食べて生き延びる方を選んでしまうような気がして、恐ろしくなりました。 そして終盤に、「戦争を知らない人間は、半分は子供である。」という何とも深い一文がありますが、戦争体験者の方からすれば、体験でなく理屈でしか「戦争」という魔の世界を認識できない私たち戦後生まれ戦後育ちの人間など、幾ら頑張っても、幾つになっても子供にしか見えないのが事実なのでしょう。しかし、折角「理性」を備えた「人間」という生き物を、それ以前の最も野蛮な一個の「動物」としての姿に引き戻してしまうこの様な悲惨な「戦争」は、二度と繰り返されるべきではないと思います。そう思わせてくれるほど、リアルな読み物でした。 | ||||
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今年も終戦記念日を前に、この小説について考えてみたいと思う。 物語の主人公である田村は、本体を追放され、フィリピンの島内を彷徨する。人道的価値観を持った主人公は、戦争だからと割り切り、時には不本意な行動を起こさざるを得ない状況に陥る。しかし生命の極限に立たされても人肉嗜食には、踏み切らなかった。彼の思想には一種、人間をも超越した神の価値観が存在するかのような不思議さを読者に与える。 この作品は、理路整然とした文体で情景描写に長けており、文学的、芸術的価値も多大だと思われる。本作品から我々が得るべき教訓は、戦争という市民的価値観に反した行為は、単に人命だけでなく生命の根源的尊厳の侵害に当たるのだということを認識することだと思う。戦争の真実を伝える作品として、今後も輝き続けてほしいと切に願う。 | ||||
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フィリピンの戦地の自然描写が克明ならば、日本兵田村の心理描写は圧倒的の一言に尽きる。戦争文学と分類されるが、極限状態における人間の本質に迫った文学として、映像芸術等も含めた全芸術の頂点にある作品であろう。あとがきの著名な作家までが本作の奥深さにピント外れなことを書いている(私のもっているのは角川文庫、平成元年改版)ように思うが、敗走し死に彩られた崖っぷちにあって、人間性の怒り、国家とはなにか、共同体(軍隊も含めて)とは、激しく、しかし恐ろしいほどの冷徹さをもって、描き出される。評者もややズレルかもしれないが、ベトナム戦争でカーツ大佐の首をとった地獄の黙示録等を想起した。ただ、映画ではどこかダルなところがある。一切の虚飾を排した本作は、素直に読めば、グイグイ引き込まれて一気に読めてしまう。大岡文学が世界の頂点だ。 この偉大な作品を評することはそもそもできず、各人が己の観念や経験を基に実際に読むしか無いのだが、評者はこの作品をいつも外国に居るときに読むようにしている。本作がどの程度、大岡昇平氏の実経験に基づくのだか不勉強で知らないのだが、不思議と田村がレイテ島で放り出された心理状態をトレースするのに、自らも外国に居るときの方が作品に入って行きやすい。座っていれば飛行機の中で食事が出てくる現代の旅行と較べたりすれば、大岡氏に失礼ではあるのだが・・・ | ||||
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戦地の極限状態を描いた作品…と聞くと、なんだか政治的、扇情的な作品を連想してしまいますが、 本作はそうではありません。作者の圧倒的な語彙、表現力、文章構成力により、 凄惨な世界がただ生々しく、今まさに目の前に繰り広げられている現実かと錯覚するほどにリアルに描かれています。 戦地から戻った主人公の人間性を喪失した姿も、淡々と描かれていることで逆に強烈な印象を残します。 国家のために戦をし、人と人が殺め合う愚かさをどれほど理屈で説くよりも、 本作を一読すれば、誰も戦争をする気にはならないのではないでしょうか。 それともそもそも本作を読み進めるだけの知力を持たない人々が、 本能に駆り立てられるまま、人に人を殺めさせるのでしょうか。 | ||||
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「お国のため」と、応召した貴重な命をかくも扱う軍隊とは・・・ それは、敗色著しい極限状況ゆえの“特別な”様相であったのかもしれないが・・当該小説を通し、当時の日本(軍)について知りえたように思う。そして、「国家」とは・・?また、「国民(個人)」とは・・?と、考えさせられた。 自分と(普段あまり意識することの無い)「国家」というものとの関係を改めて考える好機となる小説であるように思う。 また、小説中に出てくる「デ・プロフンディス」「野のゆり」「死者の書」などの章の名、主人公を引き寄せる「十字架」、出来事の生起する「会堂」、引用されるベルグソンの思想などを丹念に読み解いていくならば、著者の考える「国家」を超えたより大きなモノにぶち当たる予感を感じさせられる小説でもある。 | ||||
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生の極限に達した時、人は何を思い、どう行動するのか。 異国の地で敗残兵となった「私」は、与えられた一個の手榴弾によって死の自由を手にしながら、常に生を選択する・・・。 緻密な描写は、今まで飢餓というものに無縁だった身にも、ほとんどそれを体感させる。安易な感傷を峻拒する内容は研ぎ澄まされた文体と完全に一致している。必然的に「私」の行為も「私」によって容赦なく分析されていく。 深遠な思想を浅薄な読み方で汚(けが)すべきでないと思うと、身が引き締まり、意識的に速度を落とした。 泣けばストレスが緩和されると聞くが、涙で洗い流すことなく、歯を食いしばって読んで頂きたい。 | ||||
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