■スポンサードリンク
野火
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
野火の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.47pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全101件 21~40 2/6ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
謝って、現地の女性を殺してしまった....猿と呼んで、味方を撃って、食べた(自分では記憶にない)....自分はひどい病気だった....大けがをして、助かったけど、精神病院にはいった..... 自分は「良心」を持って、戦場にいた....そういいたいのですか。ほとんどが自分に都合のいいように...解釈された....フィクションです。 あたかも、仕方がなかった....でも、本当は...もっと闇も体験していますね。それが...消されている。つまり、改ざんされた作品。フィクションです。まあ、小説ですから、主観だろうが、都合のいいように描くのは、小説なんで。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
戦場が舞台であり、リアリティも十分に感じるが、戦場はこの小説の舞台であり、主人公の思考こそが話の本質ではないか。遠藤周作の沈黙を読んだ時と似た読後感がある。 戦場だけでなく、飢餓が今より遥かに身近であった江戸時代以前には人肉食が避けられない状況があったようだ。この戦場で人肉を食べて飢えをしのいだ兵士と、食べていいよと言われながらも最後までとどまった主人公とを分けたのは信仰の力なのだろうか。 ここ数十年で帰還兵のPTSDが問題になってきたが、当たり前だが75年前にも苦しんだ多くの兵士がいたということだろう。 死ななくていい人、傷つく必要のなかった人がどれだけ犠牲になったのだろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
肺病の兵士が隊にも軍病院にも居場所を無くし、最終目的地に向かいジャングルを抜ける。女性を殺し、猿の肉だと言われたものを食う。一歩進むと、それは死体から剥ぎ取った肉であった。 戦争は道徳も失う。誰のための戦争なのか、なんで戦うのかを読者に問うている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
太平洋戦争末期、日本軍が壊滅したレイテ島で、肺浸潤の為、敗走する部隊から放逐された田村一等兵は、彼自身の云う『敗北した軍隊から弾き出された不要物』の独歩患者達と共に、あてもなく山中を彷徨う。彼等は等しく病み飢え衰え、その有様は『人間よりは動物に近かった。しかも当惑のため生存の様式を失った、例えば飼い主を離れた家畜のように見えた』様な状況に陥っていた。やがて敵の砲撃で散り散りになり、田村一等兵は独り糧秣を求め歩き、ある時は農村で無辜の現地住民の女を射殺し、ある時は敗残の友軍と一緒になって集結地を目指す。幾度かの離合集散の後に、飢餓と衰弱で意識が混濁し、死の一歩手前にあった田村一等兵は、嘗て行軍を共にした永松、安田と合流するが、心身共に末期的症状にある彼等は友軍敗残兵を見付ける度に射殺し、その肉を「猿」の肉として食しており、田村一等兵にもそれを喰わせた。やがてお互いが殺し合い、それを生き抜いた田村一等兵のみが米軍に捕らわれる。 此の手記は戦後精神病院に於いて、田村元一等兵が自身の逃避行を回想して書いている事は最後になってわかるが、米軍に捕えられる迄の観察の視点や思索の描写は、何ら異常なものを感じさせず、寧ろその冷静さに驚かされる。そこに語られる余りにも異常な比島山中での体験は淡々と描かれ、最早何が異常であるのか、本当に彼が精神病者であるのか、そもそも彼にとって正常と異常の境界線が何処にあるのか、模糊として解らない。 敢えて狂気の痕跡を求めるなら、手記に書かれる様々な自然ならざる無数の死、それらが平淡に列挙されつつも、必ずそこに神の意志を併せて語る部分にあるだろうか。それでいて常に現実世界では、神や信仰に背く矛盾する行為を重ねて行く。山中の教会の輝く十字架に、嘗て求めた基督への救いを求めて赴くも、其処に現れた比島の女を射殺してしまう事。その直後に罪悪感に苛まれて銃を放棄するも、友軍の敗兵に出会えば直ぐに殺人の事実を忘れ、銃を放棄した事を後悔し、再び銃を求める事。また飢餓の限界に至り人肉食を意識し始めた時、瀕死の将校に出会いその肉を食べようと試みるも、神の意志と良心の呵責に耐えられずそれを拒むが、やがては肉を求めてその場に戻る事。こうした観念と現実の行為との狭間で、生きる本能に従い山野を彷徨うも、やがて余りに苛酷な境遇が、観念も信仰も正義も人倫の境界線をも次第に失わせて行き、遂には最早矛盾も罪も罰も存在しない状態に堕ちていく。彼等は皆人間の生存の限界点に達しており、現に限界点を越えた数多の将兵は、山野にその最期の姿の儘の骸を晒した。それでもなお限界点にある田村一等兵には民間人殺害や人肉食への罪悪感がついて回るが、例え彼が凄惨に過ぎる境遇の中で、その罪悪の境界線を越えたとしても、平和な日々に在る我等は何を言う事が出来ようか。それでも尚、彼はその境界線を自分からは越えなかった。 田村一等兵の辿った足跡は、望まずして陥った凄惨な事実と経過だけが其処にあり、その極限の最中には結局神はおらず、罪も存在しなかった、というだけに帰結する。還らざる比島の山野に骸を晒した将兵の無惨と其処に嘗て行われた人倫の道を越える行為だけが、それを知る僅かな生還者達の心に留まったのであり、なんとも救いようの無い物語である。此の『野火』はあくまでも小説ではあるが、恐らく此れに類似した運命は、ガダルカナル島やニューギニア、インパール作戦、比島全域、そして無数の戦場に無数に行われていた事であろう。それはもう表現する術を持たない、悲惨の一語である。 田村一等兵自身が云う、『その時私を訪れた「運命」という言葉は、もし私が拒まないならば、容易に『神』とおき替え得るものであった。」と言う表現が、飢餓と病で戦場に散った無数の将兵の、運命と神に救いを求め、或いは呪詛し、帰国を懇求した幾多の声を代弁するかの様で、一層の虚しさを読後に残す。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
太平洋戦争末期、日本軍が壊滅したレイテ島で、肺浸潤の為、敗走する部隊から放逐された田村一等兵は、彼自身の云う『敗北した軍隊から弾き出された不要物』の独歩患者達と共に、あてもなく山中を彷徨う。彼等は等しく病み飢え衰え、その有様は『人間よりは動物に近かった。しかも当惑のため生存の様式を失った、例えば飼い主を離れた家畜のように見えた』様な状況に陥っていた。やがて敵の砲撃で散り散りになり、田村一等兵は独り糧秣を求め歩き、ある時は農村で無辜の現地住民の女を射殺し、ある時は敗残の友軍と一緒になって集結地を目指す。幾度かの離合集散の後に、飢餓と衰弱で意識が混濁し、死の一歩手前にあった田村一等兵は、嘗て行軍を共にした永松、安田と合流するが、心身共に末期的症状にある彼等は友軍敗残兵を見付ける度に射殺し、その肉を「猿」の肉として食しており、田村一等兵にもそれを喰わせた。やがてお互いが殺し合い、それを生き抜いた田村一等兵のみが米軍に捕らわれる。 此の手記は戦後精神病院に於いて、田村元一等兵が自身の逃避行を回想して書いている事は最後になってわかるが、米軍に捕えられる迄の観察の視点や思索の描写は、何ら異常なものを感じさせず、寧ろその冷静さに驚かされる。そこに語られる余りにも異常な比島山中での体験は淡々と描かれ、最早何が異常であるのか、本当に彼が精神病者であるのか、そもそも彼にとって正常と異常の境界線が何処にあるのか、模糊として解らない。 敢えて狂気の痕跡を求めるなら、手記に書かれる様々な自然ならざる無数の死、それらが平淡に列挙されつつも、必ずそこに神の意志を併せて語る部分にあるだろうか。それでいて常に現実世界では、神や信仰に背く矛盾する行為を重ねて行く。山中の教会の輝く十字架に、嘗て求めた基督への救いを求めて赴くも、其処に現れた比島の女を射殺してしまう事。その直後に罪悪感に苛まれて銃を放棄するも、友軍の敗兵に出会えば直ぐに殺人の事実を忘れ、銃を放棄した事を後悔し、再び銃を求める事。また飢餓の限界に至り人肉食を意識し始めた時、瀕死の将校に出会いその肉を食べようと試みるも、神の意志と良心の呵責に耐えられずそれを拒むが、やがては肉を求めてその場に戻る事。こうした観念と現実の行為との狭間で、生きる本能に従い山野を彷徨うも、やがて余りに苛酷な境遇が、観念も信仰も正義も人倫の境界線をも次第に失わせて行き、遂には最早矛盾も罪も罰も存在しない状態に堕ちていく。彼等は皆人間の生存の限界点に達しており、現に限界点を越えた数多の将兵は、山野にその最期の姿の儘の骸を晒した。それでもなお限界点にある田村一等兵には民間人殺害や人肉食への罪悪感がついて回るが、例え彼が凄惨に過ぎる境遇の中で、その罪悪の境界線を越えたとしても、平和な日々に在る我等は何を言う事が出来ようか。それでも尚、彼はその境界線を自分からは越えなかった。 田村一等兵の辿った足跡は、望まずして陥った凄惨な事実と経過だけが其処にあり、その極限の最中には結局神はおらず、罪も存在しなかった、というだけに帰結する。還らざる比島の山野に骸を晒した将兵の無惨と其処に嘗て行われた人倫の道を越える行為だけが、それを知る僅かな生還者達の心に留まったのであり、なんとも救いようの無い物語である。此の『野火』はあくまでも小説ではあるが、恐らく此れに類似した運命は、ガダルカナル島やニューギニア、インパール作戦、比島全域、そして無数の戦場に無数に行われていた事であろう。それはもう表現する術を持たない、悲惨の一語である。 田村一等兵自身が云う、『その時私を訪れた「運命」という言葉は、もし私が拒まないならば、容易に『神』とおき替え得るものであった。」と言う表現が、飢餓と病で戦場に散った無数の将兵の、運命と神に救いを求め、或いは呪詛し、帰国を懇求した幾多の声を代弁するかの様で、一層の虚しさを読後に残す。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
戦争小説というジャンルにほとんど手を出して来なかったため、あまり感想を述べるような言葉を持っていないのですが、筆者の文章表現の力強さは、とても参考に出来ないほどの境地にあるように感じ、頭のくらくらするような読後感を味わえたのは、そもそも読書体験として新鮮でした。 文章は緻密極まった濃厚さがありながらも流れるような美しさもあり、こんな文章を書く人がどんな人なのかと思い調べてみると、これまた非常に魅力的な人物なようでもう一冊読んでみようと購入しました。 好きな小説家というものがはっきりといなかった私ですが、多分いつか大岡であるという日がくるのではないかという予感がしています。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
最初の数ページが非常に良くかけているが、その後一気に文章の格が下がったように感じされる。筆者も最初の数ページは恰好良く書いたのではないか?内容はとても面白い。いつの時代にもありそうな話であるが、戦争体験者が書いたという所に意味がある。フィリピンに行って慰霊の塔に献花したくなった。日本帝国軍はフィリピンで蛮行したのは間違いないと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
良い本です。 戦時の凄惨さを主観的に描かれています。 極限の飢餓状態において人は人を食べる事なく理性的であれるのかどうか。戦争は体だけでなく精神を蝕んでいくのだなぁと痛感しました。 映画の方も傑作です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
夏に読み、その後長崎の離島で海岸の細い道を30分歩いた時、ああ こんな風な暑さと湿気で、飢えてさまよったのかな と思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
以前kindle版探したらなかったんですが、でたんですね♪ 内容は言わずもがな傑作です。 この調子で三島由紀夫もkindle化してくださーい | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
レイテ島の戦闘において、極限状況のなか、一人の兵士(田村)がどのようにして生き延びたのか――どのような出来事に遭遇し、どういう心の葛藤があったのか――、帰国してどうなったか、が書かれている。 大まかに筋をたどると、 (1)田村は、属する中隊からも避難所(病院)からも追い出され、とりあえずは病院の近くに居つく。そこには足の悪い安田や若い兵士の永松もいる。 (2)やがて田村は林の奥に進んでいく。一人の比島人に出会う。再び病院を目指す。その病院も焼失する。小屋と比島人の山の畑を見つけ、そこで暫く暮す。 (3)遠くに十字架が見える。無人の教会だった。そこまで歩いていき、教会の中にいると、海岸から若い男女が近づいてくる。田村を見た女性があまりに驚くので、田村はその女性を撃ち殺してしまった。塩を見つけて雑嚢に詰め、その教会を出る。畠の斜面で日本兵と出会い、パロンポン集合の命令が出ていることを知る。ここで始めて希望が生まれる。 (4)日本兵は三々五々バロンポンを目指す。路傍には倒れた兵士たちが横たわっていたり、まだ息のある兵士が座り込んでいたりする。安田と永松に再会する。雨と風に難儀しながら、林や平原を進む。三叉路から進むと、湿原が広がり、その先に国道が走っている。その国道を横切るとパロンポンが近いが、実際に国道を越えるとすぐ米軍の待ち伏せに会い、また引き返す。「捕虜になろう」と決め、湿原の中で米軍が国道を通るのを待ち受けるが、そのとき飛び出した日本兵が射殺され、投降をあきらめる。 (5)山中に引き返す。最も思い出しがたい時期が始まった。死にかかった将校から。「自分が死んだらおれの上膊部を食べろ」と言われたが、右手でいざそこを切り取ろうとすると左手が止めた。 (6)河原で人間の切り取られた足を見つける。こちらを狙っている銃口が見えた。永松であった。気がつくと田村は横たわっており、永松から肉をもらう。安田もそばにいた。永松が肉を取り、その代わりに安田が煙草を永松に与えていた。三人ともお互いに警戒している。特に永松は、安田を警戒し、夜は少し離れたところで寝ている。田村が持っていた手榴弾は、田村の油断で安田に奪われる。やがて、永松の持っていた肉は日本兵の兵士のそれだと分かる。永松は、安田が手榴弾で俺たちを殺そうとするから逆に殺してしまおうと提案する。永松は、安田に手榴弾を投げさせ、懸命にその場を逃げて、逆に安田を撃ち殺し、安田の手首と足首を蛮刀で打ち落とした。田村は、安田を撃った銃をとって銃口を永松に向ける。このとき田村は意識を失う。 (7)東京の精神病院にて。田村が入院している。普通の日常を送れない田村は、そこに居場所を見つけたようだ。島でよく見た野火の映像が心に浮かぶ。自分は人を殺したが、食べはしなかった。最後に私は意識を失ったが、それは、それは神が私を愛したからではないか。 私のまとめ (1)田村は極限状況をいかに生き延びたか。彼は、比島の自然の中で、自分の置かれた状況について、死について、考え続けた。 「死ぬ前の時間を自由に使うのは俺の勝手だ」「孤独や絶望を見極めよう」「自分はもう死んでいるのだから、わざわざ死ぬにはあたらない」、「こんなところにホテルを建てたら流行りそうだ」、などの思考。 (2)塩もなくなった後半は、さらなる極限状態が待っていた。田村は、安田と永松と共に暮らす。お互いがお互いに対して気を許すことができないという緊張状態。田村は、永松から人肉をもらって食べたことをうすうす感づいている。共同生活の少し前、田村は、死んだ兵士の腕を切ろうとしたのだが、「剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである」(p.131)。結局、田村は最後まで理性を失わなかった。安田・永松・田村の三人の、食うか食われるかという生活が、この小説のクライマックスのように感じた。 (3)日本に帰ってきた田村は精神病院にいる。戦争は終わっても個人の戦争は続いている。今、彼は銃でなく、思考で闘わなければならない。結局、彼は人肉を食べなかった。そのため今、私は死者を思い起こすことができる。 (4) 国家の強制・暴力の怖さ。戦う意志のない(p.15)田村に対して、国家は、敵を殺すための銃を強制的に持たせる(p.73とp.86)。そして、自分で考えようとした途端、「よせ、貴様はそれでも日本人か」(p.29)等の言葉を投げつける。「よし元気で行け。何事もお国のためだ。最後は帝国軍人らしく行動せよ」(p.7)――なんて反論しにくい言葉だろう。 (5) 田村のような状況を我々は推測できる。同じような状況は、程度こそ違え、現代にもあるのではないか。たとえば、ひどいいじめにあっている子ども、利益優先で社員の人格を考慮しない会社に勤める平社員……。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
大岡昇平氏による著作。 大岡 昇平(おおおか しょうへい、1909年(明治42年)3月6日 - 1988年(昭和63年)12月25日)は、 日本の小説家・評論家・フランス文学の翻訳家・研究者。 東京生まれ。京都帝大仏文科卒。 帝国酸素、川崎重工業などに勤務。 1944年(昭和19年)、招集されてフィリピンのミンドロ島に赴く。 翌年米軍の捕虜となり、レイテ島収容所に送られる。 1949年、戦場の経験を書いた「俘虜記」で第一回横光利一賞を受け、 これが文学的出発となる。 小説家としての活動は多岐にわたり、 代表作に「武蔵野夫人」「野火」(読売文学賞) 「花影」「レイテ島戦記」(毎日芸術大賞)などがある。 1971年、芸術院会員に選ばれたが辞退。 今年の夏、8月上旬の読売新聞に塚本晋也監督の映画の紹介と 原作の紹介がされておりそれで興味を持った。 戦争を描いた作品、ドキュメンタリーは数え切れないほどある中、 本作品は当時、実際に従軍し捕虜となり多くの戦友から話を聞いた 著者ならではのリアリティある物語だった。 普段、あまり純文学は読む機会がないのだが、本作は戦争という 極限状況の中における人間心理を見事に描いている。 (戦争に従軍しなければ書けないと思う) 1ページ目から病院から戻された主人公をぶって 説教を受ける場面からスタートするもののどうしても病院に 入れてくれないなら手榴弾で自殺するように言われる・・・ とんでもない場面から始まる。 けが人の扱いなどこの程度のものでアメリカ軍に勝てるはずなど無い。 軍から解き放たれた主人公、途中あらされていない畑を発見し 芋を食べ塩を確保しやり過ごすなど偶然にも恵まれる。 ただその中でも戦況の悪化は続く。 猿の肉だと言われ食べたものは・・・ フィリピン人の女、安田、永松・・・ しかし人間を襲い人肉として食料とした事を責める事が出来るだろうか。 法律も倫理も何もない中でそれでも主人公は自分の意思では 人間を食べなかった・・・ しかし戦後、精神病院に結果として入院し手記を書いたのは 肉体だけではなく精神にも回復し難い大きな傷を負った為であろう。 神を信じていなかった主人公だが、永松に対して怒りを代行した時は 神の意思が降りてきたと、神の怒りを代行したと。 人間というものはやはり弱い存在なのだと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
昔から気になっていた本ですが、初めて読んでみました。切っ掛けは塚本晋也監督の映画「野火」を見たこと。いかにも低予算映画らしいところもありますが、鮮烈な表現に強い印象を受けました。 第二次世界大戦の南方戦線における死者の多くは餓死によるものだった。武器弾薬はおろか食糧の補給もほとんど無かったからである。 主人公がそうとは知らず死んだ日本兵の肉を食べるシーンがある。生きている日本兵を「猿」と呼んで殺して喰うという兵隊も出てくる。戦後のシベリア抑留でも同様のことがあった。抑留された文化人類学者の加藤九祚氏によると、抑留から脱走しようとした二人の日本兵が、食べ物に困ったら喰ってしまおうと、同僚の中で一番気の弱い人を強引に仲間に入れて連れていき、実際に喰ってしまったという。極限まで追い込まれると人間が何をするのか、怖いものがある。 気になるのは「危険が到来せずその予感だけしかない場合、内攻する自己保存の本能は、人間を必要以上にエゴイストにする」というような表現。分かりにくい人間考察がストーリーテリングの中に潜んでいる。 「私の生命の維持が、私の属し、そのため私が生命を提供している国家から保証される限度は、この六本の芋に尽きていた」という文も気になる。何度も読み直し、やっとその意味を理解しました。まるで数式のよう。 この様に、硬くてこなれない文章が縦横に展開され、しかも表現されている世界は人間の極限そのもの。しかし、矛盾するようだが、それでもなおかつ、この作品からは文章を読む快楽が感じられる。芳醇なコーヒーの味わいがする。 ただ、最後の野火についての長い説明については、正直無くても良かったなぁ、退屈だったなぁと思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
戦後間もない時に書かれた書籍、という認識で読んだ。私の読書量など微々たるものだが驚いた。三島由紀夫の「金閣寺」にも驚いたが、くどくど書く文体が普通だと思っていた。わざと難解に書いてるのじゃないか、と思わせるノーベル賞作家もいた。簡潔で分かりやすいもの、中身のある物を作家は書くこと。 伯父がフィリピンで生死を彷徨いやっと帰還した。我々の世代は、戦争の話を聞くことも聞かせられることも無かった。もっと聴いておけばよかった、とも思わない。戦争はヒトラー、広島・長崎で分かろう。右翼政治家(保守ではない)など日本には要らない。票になるからやってるのだろうが。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
おおよそのストー^リーを知っていたせいか、読んだ積りになっていました。 しかし、読み始めると読んでいないことを実感しました。 物語は、作者の戦争体験から書かれたもので、その文章は迫真のもので、読んでいる方もフィリピンの戦場を彷徨っているような気にさせられます。 作品は、帰国した田村が精神病院に入院し、医者の勧めで書かれた設定になっています。 それにしても、敗戦間近で敗走に敗走を続ける日本兵のあり様が、実にリアルです。 その中で、田村は「野火」を見、「十字架」を見ます。 それは、追い詰められれば追い詰められるほど、人間が「哲学的」になって行くということでしょうか。 「生きる」ことの意味を問いただし、「死」を目前にして、時には「生」に固執し、時には死んでもいいと考えます。 そんな時、突発的な事件が起こり、フィリピン女性を射殺してしまいます。 このことが後々の彼の行動を既定してゆきます。 そして、「人食」という問題に突き当たり、それを行っていた永松を殺してしまいます。 そうしたことから、「生」あるものを食することに拒絶反応を示し、拒食症に陥ります。 この究極の状況に置かれた時、人はどう考えどう行動するかということ、そして「生きる」とはどういうことなのかなど、いろんなことを考えさせられる一冊です。 同時に、「戦争」の狂気性、残虐性などを強く認識させられました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
物資の補給も十分にない太平洋戦争に召集され死んでいった兵士の無念さを思うと...... | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
戦時下、日々、死と隣り合わせの中で生きて行くとはこういうことなのかと、考えさせられました。また、極限状態で自分だったらどうしたか、自問自答してしまいました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
自然描写の美しい言葉に、日本語の素晴らしさを思いました。 もう小説など読まない日々でしたが、テレビなどでは味わえない感動を久しぶりに 感じました。 死と隣り合わせになると、こんなに自由になれる世界を悟りと言うのでしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
自己の戦場体験を基にしたノンフィクション的作品かと思っていたのですが、読んでみると難解で哲学的な純文学作品でした。純文学的な多彩な比喩表現や心象描写が多いので戦場の迫力はあまり伝わってこない気がしました。本書のキーワードはタイトルの野火と神であると思います。野火については冒頭と最後に細かく描写してあり、何かを象徴しているのだと思いますがよくわかりませんでした。そして、十字架を目指して村の教会に入り込み、「デ・プロフンディス」という言葉を聞くシーンも最重要なところだと思いますが、この意味もわかりませんでした。そして最後は「神に栄あれ」という言葉で終わります。わからない気分で読み終えましたが、読み返してみようという魅力も感じませんでした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
戦争の醜さを表現した素晴らしい小説だと思います。 この本を読んで映画を見る気になりました。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!