■スポンサードリンク
野火
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
野火の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.47pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全101件 61~80 4/6ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
これはとても良い先品です。 最後まで飽きずに読みました。 読み応えがあり、最後まで一気に読みました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
ここに書かれていることを知ったならば、二度と戦場に市井の人々を送り出すまいと思うのが本当の政治家ではないのか。過った歴史を繰り返してはならない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
久しぶりに再読しましたが、名作です。 朝日新聞に漱石の作品が掲載されていますが、この時代にはこういう戦争の過酷さを描いた作品を朝日新聞に掲載して、多くの人に読んでもらうべきだと思います。大岡昇平はすごい作家ですね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
手持ちカメラで映したかのリアルな描写が続く。 しかしある程度エンターテイメント性も持っていて、 読む者を飽きさせない。 戦争文学の不朽の名作。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
レイテ島でアメリカ軍と泥沼化した戦いによる飢餓のために人肉を食すかどうか、という話ですね。日本兵は大戦中に兵站を疎かにして殆ど現地調達という形で食糧を確保していたらしいです。戦争末期になると(レイテ島の戦いは終盤ですね)アメリカ軍が島を包囲し、もともと少なかった輸送船の支給は絶えて、日本兵は現地の住民から略奪して糊塗をしのいでいたらしいです。それが戦争末期にフィリピン人が日本兵に敵対するようになった理由でしょうか。間違ってること書いてたらすいません…。で、この主人公が敵だらけの島の中で極限に飢え、どこまで己の倫理・宗教が現実に耐えられうるか、また哲学的成分も含みつつ、試されていきます。この手記は、自分がまだまだ未熟なのでその深みを知ることができませんでした。何度も読み返してみたい本です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
大岡氏の正確な文体、知的な処理、そして誠実な姿勢がそこかしこから感じられる。 戦争文学でなく、なにか精神彷徨の文学と思える。と考えるのは私だけでしょうか? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
うーん。何とも言えん。 私も病人だが、あそこまで生きれるだろうか。 どうして主人公は、あそこまで生きれたんだろうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
壮絶な世界。経験したもの、当事者でしか書けない事を、如何しても書かずにおれずに、書いた。戦争とはこういう理不尽をしいるもの。私たち、非体験者は想像を最大限に働かせて追体験すべきである。以下に為政者が勇ましいことを囁いて、あるいは声だかに嘘を並べても、当時者の体験を消すことはできない。平和憲法を泣きものにしようという企みが、公然と進められている今、若い方にこそ読んでいただきたい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
あれれ、解説に「しなかったのは何故か」とか書いてあるんだが能動的ではないとはいえしてるよな。 どういうことだ。 極限状態における人間のわがままさ、自分本位さを描き出す本作。 神だ信仰だとか言っても食欲にはかなわなかったよ、そんな話。 尊厳とかなんとか言っても所詮肉だし。 まあ私も完全に戦後世代で餓死戦死に近い状態など全く経験したことがないから、本作の描写が本当にそんなものなのかはわからないですが。 んで結局野火は何だったんだ。爆撃の目印? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私はこの小説の文体が好きです。一つの自分の作品が、同じ理由で褒められたり貶されたりすれば、作品がうまくいったなと思う、と安部公房が講演の中で言っていました。大岡昇平の文体もそうでは。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
若い頃だったら、意味を理解しようと何度も読み返して、結局わからないのは自分が馬鹿だからだろうと思っただろう。まるで大学受験の現代文の難問を読んでいるみたい。たいした内容でもないのに持って回ったような言い回しで高級に見せているだけの悪文。まあそういう時代だったんだろうなあ。こんな「文学」につきあう時間があるならほかにもっと優れた本がいくらでもある。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
大岡昇平氏の作品を初めて読みました。「戦史小説」のつもりで読み始めたのですが、読後は何かとても大きな文学作品を読んだ気がしました。非常に大きな衝撃を受けた気分です。氏の文体も気に入りまして、これからしばらく氏の作品をいろいろ読むつもりです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
戦場と飢餓という極限状況、そしてそこにおいてぽっかりと、恰も颱風の眼のように立ち現われた解放空間における主人公の思索と行動を通じ、人間の実相と魂の救済を描いた第一級の世界文学。本書については、何を語っても贅言になってしまう。世評のみで済まさずに、とにかくテキスト(原典)を読んでみなければ分からない一書であると思う。 「「わかりました。田村一等兵はこれより直ちに病院に赴き、入院を許可されない場合は、自決いたします」 兵隊は一般に「わかる」と個人的判断を誇示することを、禁じられていたが、この時は見逃してくれた」(6頁)。 「行く先がないというはかない自由ではあるが、私はとにかく生涯の最後の幾日かを、軍人の思うままではなく、私自身の思うままに使うことが出来るのである」(11頁)。 「私の質問する眼に対し、永松は横を向いて答えた。「猿の肉さ」」(141頁) 「しかし銃を持った堕天使であった前の世の私は、人間共を懲すつもりで、実は彼等を食べたかったのかも知れなかった。野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこにあったかも知れなかった。もし私が私の傲慢によって、罪に堕ちようとした丁度その時、あの不明の襲撃者によって、私の後頭部が打たれたのであるならば− もし神が私を愛したため、予めその打撃を用意し給うたならば− もし打ったのが、あの夕陽の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人であるならば− もし、彼がキリストの変身であるならば− もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば− 神に栄えあれ」(176頁)。 遠藤周作『沈黙』とも通底するモチーフを感じた至高の作品でした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人間というものは、高潔にも卑劣にもなれる だが、どちらにせよそれを極めるのは難しく、相反する感情があるから一線を越えたときに壊れてしまうのだろう 人間すべてを信じられなくなり、それでも自分の見いだした神だけは賛美する その姿は悲しいくらい孤独だ 刹那的な感動を求めて本作の根幹を見失っている人もいるかもしれない。 ライトノベルや娯楽小説が溢れる世の中にあっても、このような作品は読み継がれていかねばならない | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
日本人が日本人を食べて戦地で生き延びた事は参戦した兵士の 多くが知っていたのでしょうが、それは暗黙で誰も口外しなかった 事でしょう、それを敗戦後7年も経たずに敢えて小説として発表した 著者の勇気に感謝しながら読ませていただきました。発表後60年以上 経っていますが少しも色あせていません。 小説家が自分自身と向き合って結実させた傑作です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
古い話ほど人間の深いところを語りかけるのではという良い例でしょう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
タイトルに興味があり買ってみました。よんでみて楽しかったです | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
田村一等兵が生死の淵をさまよいながら、彼の頭をよぎる想念がどこから来ているか。その源を出来るだけ探ってみる(カッコは章番号)。 (エピグラム)「たといわれ死のかげの谷を歩むとも」ダビデ:詩篇 第23編 (12)「「恋愛とは共犯の快楽である」のごとき西欧のカトリック詩人の詩句」:ボードレール『赤裸の心』 (14)「「デ・ブロフンディス」突然その唇が言った」/「われ深き淵より汝を呼べり」De profundis clamavi:ボードレール詩集「悪の華」から「深淵からの叫び」−原典はラテン語訳の聖書詩篇第130 (14)「私はかねてベルグソンの明快な哲学に反感を持っていた……」:Henri-Louis Bergson,1859.-1941『創造的進化』 (18) 「われ山にむかいて目をあぐ、わが助けはいずこより来るや」:讃美歌21(詩編121:1‾8) (18)「書架の中に……2冊のエドガー・ウオーレスを認めた」:Richard Horatio Edgar Wallace, 1875-1932,ミステリ作家『キングコング』が有名 (19)「ドストエフスキーの描いたリーザの著しい類似が……」:『罪と罰』の金貸し老婆の妹リザヴェータ・イワノヴナのことか (20)「昨夜のように山鳩がベエトヴェンの交響曲の主題を二小節鳴いた」:ベートーベン交響曲6番『田園』第1楽章 (28)「しかしもし私が古典的な「メデュース号の筏」の話を知っていなかったなら……」:フランスロマン主義派の画家・版画家テオドール・ジェリコーによる油彩画。 (29) 「汝の右手でなすことを、左手をして知らしむることなかれ」:マタイ伝第6章3節 (29)「「起てよいざ起て…….」と声は歌った」:賛美歌第380番 (30) 「野の百合はいかにして育つかを思え……」:マタイ福音書6:28 (35)「声が聞こえた「ここに働かざりしわが手あり」:ヴェルレーヌ 「英知」 ここから判るように田村一等兵は非常なインテリである。キリスト教の造詣も深い。だが信仰は知識ではない。鈴木大拙は、神が信じられるためには「個人的宗教体験」が必要だと言う(『善の研究』。この書を田村の「個人的宗教体験」物語として読むのはどうだろうか。 幼い頃教会に通っていた田村だが、“神を信じる欲望”を、長ずるに従って得た「無神論」的“合理思想”で押さえつけて来た。死を覚悟した彼が、山上から海岸の部落の屋根に光る十字架を見た時、“抑圧”が解かれ、それがなければ味わっていたはずの経験が「既視感」として彼を捉え始める。 田村は村の教会で棺に収まった自分を見て当惑する。思わず「われ深き淵より汝をよべり、主よ願わくばわが声を聞き……」の詩句が彼の頭をよぎる。田村は心のなかに神を呼び込んだと読める。 しかし数時間後、彼は全く卑小な嫉妬心からフィリピン女を殺してしまう。罪の意識がキリストを更に身近にする。彼は始終キリストに見られていると感じる。実際にキリストとおぼしき人物も彼の前に立つ。「俺を食べても良いよ」と右腕を差しだす将校だ。彼は将校の血を吸った蛭を食べ、腕を切り取ろうとするが、その右手を左手が押さえる。彼はキリストが禁じたと思う。すぐ後で再会した永松に貰った人肉を神は拒否しない。そこには彼がキリストの血肉が与えられたと考えるに足る時間的連続がある。この解釈以外に「人を殺したが食べなかった」という彼の主張は理解できない。 キリストはもう彼から離れない。山中でゲリラに後頭部を殴られ捕虜にされた時、彼は確かに「生かされた」と感じる。だが何故彼は生かされたのか判らない。神はそこまで親切ではないのだろう。帰国した母国では性懲りもなくまた開戦の噂だ。彼は、「野火」の下で死んでいった、殺されていった人間を思い浮かべながら武蔵野の精神病院で過ごすのが最も適切な「生かされかた」だと考える。インテリに相応しい、一つの「回心」のあり方と納得できる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
餓死寸前の兵士が「共食い」を選択すべきか否か葛藤する姿が、極めてリアルに描かれている。 この本から私が得られたものは2つ。 ・戦争が一般人に与えた残酷な現実を、他の多くの本のような美化的表現は一切無しに知ることができた ・これまで宗教の必要性を実感したことが無かったが、極限状態に追い込まれた精神を救うためには必要であることを理解できた | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、 主の死を告げ知らせるのです(『コリントの信徒への手紙 一』11章26節)。 「病院へ帰れ。……どうしても入れてくんなかったら――死ぬんだよ」 太平洋戦争末期、食糧の枯渇したレイテの前線、結核を患い、隊を追われた「私」は、 「病院へ行くのである。無駄な嘆願を繰り返すためではない。あそこに『坐り込ん』でいる 人達に会うためである。……ただ私と同じく行く先のない彼らを、私はもう一度見たかった」。 立ち去る「私」に差し出された6本の芋、「私の生命の維持が、……この6本の芋に 尽きていた」。死を半ば運命づけられた「私」、「私はとにかく生涯の最後の幾日かを、 軍人の思うままではなく、私自身の思うままに使うことが出来るのである」。 もし本作をキリスト教倫理、受肉論のアレゴリーとして解釈しようとするのならば、 少なくとも私の読む限り、この物語の寓意が正確に機能しているとは思えない。 「殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、私以外の力の結果であるが、たしかに私の 意志では食べなかった。だから私はこうして彼等と共に、この死者の国で、黒い太陽を 見ることが出来るのである」。 「私以外の力の結果」、「私」の不能性、不可能性、「太陽」。 そんなキーワードを見れば、ソクーロフ『太陽』やカミュ『異邦人』などが想起される ところであるが、そうしたモチーフがこの『野火』の中で、一貫したイメージとして叙述 されているか、この文章が敢然たる説得力を持ち得ているか、と問われれば甚だ疑問。 それでもなお。 血に、肉に、抉るように突き刺さる本作の文体表現の見事さは、そうした欠落をも はるかに凌ぎ、本作の価値を崇高に担保する。 「林の中は暗く道は細かった。樫や檪に似た大木の聳える間を、名も知れぬ低い雑木が 隙間なく埋め、蔦や蔓を張りめぐらしていた。四季の別なく落ち続ける、熱帯の落葉が 道に朽ち、柔らかい感触を靴裏に伝えた。静寂の中に、新しい落葉が、武蔵野の道の ようにかさこそと足許で鳴った。私はうなだれて歩いて行った」。 例えば冒頭間もなくの、これほどに濃密な記述が息切れなく畳みかけてくるというのに、 どうしてのめり込まずにいられようか。 何を書くか、よりも、どう書くか。 肉を領することばの凄み、身体性をも触発する文体の迫力、その一点で類い稀なる佳品。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!