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告白
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告白の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.48pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全176件 101~120 6/9ページ
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町田康氏の小説は『夫婦茶碗』に続いて二冊目。絶賛の嵐の中恐縮なのだが、そんなに凄い名作だろうか・・・?確かに-フェイクをかけた意味で無く-面白い。町田氏独特のユニークに笑わせる言語感覚もいいし、力作である。ただ、前述した『夫婦茶碗』にあったような緻密に行き渡っていた想像力が今一つ弱く、ディテールがあと一歩雑駁な仕上がりになっている印象を受けた。ただこの長い作品のためディテールを密に書き込み過ぎるとストーリテリングのテンポが落ちてしまう失敗は過去の純文学に散見されるのが実態であるため、その失敗を犯さないよう意図的に緻密さを排除したのかもしれない。ただ、新聞連載を途中で止め(たのかな?)あえて書き下ろしで出版するのであれば、もっとリライトを重ねて時代考証を突きつめた作品にした方が良かったのではないかと思う。なぜなら本作のテーマはかなり深く、僕自身は「町田さん、実は前半から書き足りないんじゃないんですか?」とお聞きしたくなる感想をもったからだ。主人公熊太郎の思弁的人格と当時の河内文化のズレ、といったメインモチーフは恐らくもっと緻密な細部によって、更に迫力をもった小説になったと思う。 | ||||
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ノンストップの800ページ越え それを一気に読ませる力量 なんとも表現しがたい悲しみにくれる読後感 すごいです。 町田康お得意のユーモアも、熊太朗の今後を考えると悲しみの増幅でしかなく、 次に熊太朗にどんな不幸が降ってくるのかと思うと先を知るのがつらい。 だが読まずにいられない。 熊太朗は不器用で不幸を呼び込む体質というか、 こういうタイプは幸せになれないだろうなーというか どんな極悪な殺人者も話を聞けばほぼ自分は間違っていないと答えるとか。 熊太朗は自覚があるようで、錯乱のようでもある。 小説にしかなしえない表現で小説の世界を越えてしまった町田康 これからもできるだけ彼の作品を読みたいと思う。 不器用で行き難い世の中を生きている人たち、心当たりありまくりなのではないでしょうか。 | ||||
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2000年代の10年の間に読んだ本の中で出色の一冊。 単行本で700ページ弱、文庫本で850ページの大著であるが、一気に読ませる力がある。ページをめくるごとに、泣けて、笑えて、憤って、一緒に喜べる。 それにしても、「他人に話が通じない」という苛立ちをこんなに明確に書けるのは、町田康しかいない。 人間は、規則に則って言葉をしゃべり、規則に則って理解され、規則に則って社会化される(社会に組み込まれる)。規則を共有できないものは、社会から排除される。村八分。このように人間と人間の間は(社会的)規則によって媒介されており、人と人が無媒介に(規則を共有しないで)結びつくということはまずないと言っていい。そこで、人間とつながろうとするときには、人間に向き合うというよりもむしろ、規則に則るため規則に向き合わねばならないという逆説的な事態が生じる。社会全体で共有している規則なんてもはやないのだから、社会でうまくやるためにはなおさら規則に向き合わねばならん。あほらし。 町田康という人はパンクの人だが、パンクというのは、このような安穏と規則に則ることへの反抗の行為なのではなかろうか。そりゃ反抗したくもなる。「他者を理解する」というとき、「他者」が上述のような媒介された他者なのだったら、「理解」とはせいぜい規則の再確認にとどまるだろう。あるいはせいぜい規則を共有していることを確認するにとどまるであろう。ひどい場合には、自分の規則を他者に一方的に当てはめて勝手に理解したつもりになる。しかし翻って、じゃあそういう他者理解とは違う、無媒介で直接的な他者理解がありうるかというと、それも困難、というか絶望的であろう。どうしたらよいのか。とりあえず、どうしようもない。 ところで、パンクが「パンク」というジャンルを確立してしまうと、それはもう、「パンク」という新しいしばり(=規則)が生まれてしまうということになるので、元々規定性への反抗であったはずのパンクの本義に反する。例えば「パンクやってます」という発言は、「パンク」の規定性に依拠していることになる。したがって、自己を表現しつつも、表現した瞬間に自己否定に走らなければならない。他者を理解したような気になった瞬間に、その理解を解体しなければならない。だから、どれだけ「本当のこと」を言おうとしても、「本当の本当の本当のところ」には、決して到達し得ないのかもしれない。 そんなしどろもどろな一生涯がこの本には書かれています。特に最初の方で、他人の牛を橋から川に落として周囲の人にわめき散らしているシーンは、胸が痛むほどよく書けています。 | ||||
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吸い込まれるように一気に読みました。 主人公熊太郎のこと、よく理解できます。頭の中で色々考えているうち、 何処か深いところに入っていってしまう。。。そんな人たまにいるんですよ。 フツーはダメダメそんなに入っては、と自分を取り戻すのですが、 そのままどんどん異世界に入っていく熊太郎。 町田さんの頭の中とリンクされているような。 この本を理解できない人はそんな経験ないんでしょうねえ・・・ | ||||
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十人を殺す小説なんだから暗いのだろうと思っていたら真逆だった。 笑える。かといって野暮ったらしくなく、むしろ作品全体の空気を作り出している。 人はなぜ人を殺すのか。 その究極的な問いにこの作品は真っ向からぶつかっている。 明治期の農村社会という共同体の中で熊太郎は言葉を持っていなかった。 周りの村民が使う言葉だけでは自分の思弁を表現しきれなかった。 自分では理不尽だと思うことが他人には理解されない。 自分の言動が周りには異質なものに見え、煙たがられる。 自分が阿呆なのか周りが阿呆なのか。 もちろん熊太郎は周りが阿呆だと思っているのだが、その他人に伝わらない思いが熊太郎の人生を変えていく。 そんな愚直で滑稽な熊太郎の言動に、あかんではないか。とつっこむ筆者の声には思わず吹き出してしまった。 その、あかんではないか。にはじまり熊太郎の最後の言葉「−−−−」に終わる構成の妙には舌を巻いた。 特に熊太郎の最後の言葉は私の心の内に尾を引いていつまでも私の心をぐらつかせている。 | ||||
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町田康の小説は短編ばかり読んでいて、長編は久しぶりでした。 一言で言って、大変面白く読みました。 これほどの長編を飽きずに読ませ続けるのは、相当な作家としての力量がなくてはいけませんが、それをキチンとクリアしながら、丁寧に主人公、城戸熊太郎のマニアックな心情を描いています。 言葉と、心情がうまく一致しない、という孤独な悩みを抱えている熊太郎。 本当は、気が小さく、無理して強い自分を演じている熊太郎は、様々な他者の矛盾、酷薄さに孤独の影を深めていきます。 この熊太郎のぐだぐだと、やたら思弁的なところは、どこか自分と似ていて、重ね合わせていくことができたので、共感できるポイントが多く、その点でも印象的でした。 それに、町田康節炸裂の強烈なユーモアも見逃せません。 ゲラゲラ笑う、というのは良いものです。 なにぶん、暗くなりがちな性格なので、笑える、という事はそれだけで、「読みたい」と思えましたし。 ラストもやってくれましたね。 非常に良い本でした! | ||||
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評判が良いので購入しました。 元々期待値が高かったのですが、その期待を遥かに超える見事な作品でした。 物語の結末を予め読者は知っているわけですが、 熊太郎が松永を殺そうと決意する、それ以降常にどきどきしながら読んでいました。 特に熊太郎が松永家で殺戮を始めた直後の錯乱している状況下では 読み手まで錯乱してしまうようなスピリチュアルな描き方が印象的でした。 読み終えてから本を眺めると、最初は味気ない様に思えた装丁が 作品の雰囲気にぴったりな気がして四六時中眺め愛でたい気分になりました。 蛇足ですが飛び魚の切り方で揉めている場面は、「夫婦茶碗」で主人公が冷蔵庫内で卵をどう置くか、 そんなどうでも良いことで思考を深めている場面と重なり笑えました。 作品の全体部、というかテーマについては多くのレビュアーが言及していますので割愛します。 | ||||
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知的財産とはこうゆうものだよ。 すごいんだから。読んでていろんな感情になんの。ほんとに感動すんのさ。心が。 | ||||
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物語の最初の辺りはいつもの町田康がいて、有り得ない展開や落語的な笑いが満載で、相変わらずダラダラとした軽快なロックを聞いているようでしたが、縫が姦通する辺りからの心理描写や結末に向かっていく勢いや痛みはもの凄く、ヘラヘラした町田康が徐々に仁王になっていく様を想像してしまいました。 最後に金剛山の洞窟で、唯一の友であると思っていた弥五郎に対する“告白”と、それに対する弥五郎の態度の表現の仕方が町田康にしては至ってシンプルで、逆に凄い虚無感や絶望が文章から立ち上っています。 そして、そこから自害までの緊張感と、最後の告白”あかんかった”の一言が衝撃的でありました。 このたった一言の、クライマックスの告白の言葉と、それまでの膨大で執拗な思弁の言葉とのコントラストの凄みは圧倒的で、久々に本で震えましたよ。 今までの町田康には無かった、真剣さと生々しい痛みがあり、火花が飛ぶ様な鮮烈な小説でした。 | ||||
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町田康のこれまでの諸作品というのは、音楽に例えるならリズムはギンギンに決まってるのだけれどメロディアスな展開というものは無かったと思う。 それは著者が意識的にやってきたことで、別に町田康にはドラマチックなメロディが書けないと断じた事は無いが、リズムこそが氏の持ち味であると思ってきた。 だから、今回の作品はいい意味で裏切られました。 こんなドラマを書くのかー という驚きがあり、さらにこんなにドラマチックでありながらリズムは以前と変わらぬギンギンの町田節。 この二つを両立させたの事は驚きを超えて畏敬にあたいする。 これが文学だ! 私は十年に一度の読書体験をした。 熊ちゃん(あえてそう言わせて下さい)にはホント胸が痛くなる。 フェリーニの「道」を観て「ザンパノは悪くない!」と叫びたくなる様に「熊ちゃんも悪くない!!」 熊ちゃんの思い、行動、至極真人間である。 さらに聡明でもある。なのに弥五郎よりも寅にシンパシーを抱く熊ちゃんが歯がゆかった。 清浄ゆえに少し愚かなんだな。熊ちゃんは。 熊ちゃんが武力を持たぬ後醍醐帝なら、確かに弥五ちゃんは楠木正成だったのに。 弥五ちゃんと二人、落伍者であっても面白可笑しく生きて欲しかった。 熊次、寅、ようじょこのオッサン・・・ 周りの者が悪すぎた。 駒にはもっと親身になって欲しかった。 縫との出会いはとても美しかったのに、結果的には会ってはいけない人だった。 熊ちゃんを思うともう・・・。 もうしんどく無かったらいいとか、そんな事を思ってしまう。 | ||||
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江戸末期に河内に生まれた城戸熊太郎は子どもの頃からあふれるような思考と口に出す言葉とが合一することのないことに思い悩みながら育った。長じて博打に興じるばかりの生活を送るようになるが、明治26年、妻お縫が男と通じたことをきっかけに、舎弟の弥五郎とともにその男の一族郎党10人を次々と殺害するに至る。「河内十人斬り」に歌われた史実をもとに描く840ページの大長編小説。町田康に付された「文筆の荒法師」という修飾語がまさにふさわしい、俊敏で諧謔味あふれた魔術的な文章が大変魅力的な作品です。 定まった仕事も持たず、放埒な生活におぼれる熊太郎ですが、彼の内に秘めた河内弁による思弁の流れを見ると、彼が私たちとは縁遠い単なるヤクザ者の一人ではなく、明治前期に立ち現れた悩める近代日本の精神であるように思えるのです。ですからこの小説は平成に書かれたものとはいえ、明治文学を読むかのような錯覚を覚えます。 一方で、岩室の中で起こる森の小鬼とその兄・葛木ドールとの一件は熊太郎の精神と行動を生涯にわたって縛る大事件なのですが、人間の理知が届かね奇怪きわまりない描かれ方をしていて、あたかもガルシア=マルケスが描く南米の呪術的小説世界に紛れ込んだかのようで、大いに惑乱させられます。 さて、熊太郎は大量殺人に手を染めるための思考を巡らせますが、実のところこの殺人の理由は理詰めで解きほぐせるような類いのものではないように思えます。熊太郎は事実、「ほんのちょっとの駒の狂い」(514頁)という言葉を使い、また「もっと早くに勝負を降りるべきだった」(838頁)という悔悟の念を抱きます。私はそこにこそ、ひょっとしたら第二、第三の熊太郎になりかねないかもしれない危うさをはらんだあなたや私が生きる上での知恵が秘められているように思えてなりません。 | ||||
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朝日新聞の「ゼロ年代の50冊」に含まれていたことで購入。 面白い大作でした。 駄目人間、袋小路、自殺。大量虐殺、実話。 馴染み易い河内弁の演出。 人間の孤独と弱さを浮き彫り、言葉の限界を指摘、主題は明示しない。 ゼロ年代のまさに文学だと思います。 仕事本、実用書、レビュー本、指南本の合間に必要な文芸書。 楽しめました。 | ||||
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河内弁のリズムはこの小説の主題である大量殺戮と,主人公の突き抜けた脳天気さにはぴったりだ。 町田康ファンにはたまらないだろう。 しかし、河内人なのにこのリズムについていけない河内人がいたら、かわいそうだなあ。 大阪河内弁 「熊、なにしてんね」 「見てわからんか。笛吹いてんねん」 「笛吹いてんねて,笛みたいなもんあらへんやんけ」 「そら笛はない。笛はないけどや、わいかてやで、いつ何時、笛吹かなならん ようになるかわかれへんやろ。しゃあからそんときのためにちょう稽古してんね」 「ほんな暇なことしてる間ァあんにゃったらわしと一緒に田ァ行て草取らな あかんやろ。馬に食わせる草も刈らなあかんやんけ」 山形村山弁 「熊、なにすてんな」 「見でわがらねが。笛吹いてんだべ」 「笛吹いでるて,笛などねえべ」 「んだ笛はね。笛はねっげど、おらだでな、えづ、笛吹がねぐならんねがもしゃねべな。 んだがら,ほだなどぎの為さ稽古すてんだべ」 「ほだな暇なごとすてる時間あんだったらおらと一緒に田さ行(え)って草取ら ねばだめだべつ。馬さ食(か)せる草も刈らねばだめだべつ」 河内弁と比べて、山形村山弁のなんともっちゃりしたことか。 ちなみにWordでは,河内弁14箇所、山形村山弁16箇所が表記の間違いだと (標準語表記だとすると)指摘されました。 | ||||
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町田作品にはいつもあきれる。そこに描かれる人物のなんたるだらしなさ。それこそパンクなのだろう。私自身は非常にお堅い。クラシックファンだし。 初めてエッセイ「正直じゃいけん」を読んだ時には、読んでいてその許せない生き方にのたうち回った。が、我慢して半分を過ぎた頃から、そのパンク世界に<すぱぱ〜ん>と嵌り、そういう人生もあるのだなぁ…と自分自身の世界転換が起きた。すっかり町田康ファンに。自分にはできない生き方、考え方をバーチャル体験させてくれる貴重な作家だ。 そして今回この「告白」を読んだ。実は今月映画化される別の「告白」と間違えた。しかし、こっちの告白こそが素晴らしい傑作だった。いつも通りあきれる主人公、いやほとんどの登場人物たち。今回は実際の事件「河内十人切り」を元に深く心象風景をパンクに切り込んで大書に仕上げた作品。描かれる風景、言葉遣いの考証は綿密で素晴らしい。その中に突如、パンクな感情表現やファンタジーな情景が放り込まれる。まことに町田康にしか作れない世界に、世の人々に理解できない内省的堕落者の頭の中を徹底的に追いかけた作品が誕生した。 レビュータイトルにした<これまでに文章化できなかった思考世界>という意味は、こういうタイプの人の思考は表現できないということ。情動や現象で表現した作品はあるが、だらしない思考そのものを深く、的確に書いたのは初めてだと思うし、追随できないのではないか…あっちの「告白」とは違って、こっちの「告白」は映画化はできないだろう。思考を読み、そして思いに耽らせるこの作品に出合えたことを喜びたい。町田さん、大いにあきれました。 | ||||
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こんなにも笑い・泣き・転げ周り・感情移入して叫んだ 本は生まれて初めてです。 自分の人生を変えた宝物の本はいくつかありますが、 この「告白」はその中に入りました。 とにかく、あらゆる意味で人が生き・笑い・泣き・叫び・喜び・怒り・哀しみ・ そして殺し・死ぬことのリアルが饒舌な文体とともに、 流れるように疾走していきます。 これに匹敵するのは、中上健次の「枯木灘」しか思い浮かばない。 まことにもって、「1Q84]なんか読んでいる暇は無いのである。 こういう本を読むという行為こそが、読書なんだなって思う。 とにかく、いままであったこともない恐るべき才能・傑作です。 | ||||
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初めて読んだ町田康作品が「告白」なのは幸運なのか?不運なのか? 私は不運でした。 だってあまりの面白さに、この後から読んだ町田作品が、今ひとつ 物足りなくなってしまうから。スピード感ある文体は短編で素晴らしい切れを 見せているのにもかかわらず、だ。 疾走したままこの分量を突っ走り、最後に息切れどころか、最高潮に達する「告白」。 大笑いしつつ、自分の中にも熊太郎がいることに読み初めから意識せずには いられなかった。 どうしようもない「社会のくず」熊太郎...。 でも生涯忘れられない存在だ。 | ||||
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軽快かつ、重厚さをにじませる文章にただただ凄まじさを感じ、残るのは寂しさ。 宿屋めぐりを先に読んでいたので、どうにもならない状況に翻弄される主人公という点が共通していると感じた。 ただ、宿屋めぐりの主人公が運命に翻弄されて、他者にすがり、言い訳を繰り返すのに比べ、熊太郎はどうにもならない状況を思弁のうちに見つめ、納得してもがいているように見えた。 それがまた、寂しさを感じさせる。 | ||||
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この本で書かれていることは徹頭徹尾、 「熊太郎がなぜ傳次郎一家・親族ら、妻、乳幼児、そして…を殺したか」 という主題に終始している。 「人はなぜ人を殺すのか」という帯のコピーはその無神経さもよいところだ。 熊太郎は、そのように抽象され一括りにされることを最も忌避していたのだ。 だが、 その結果のあの結末を示唆して、 結局は彼も没個性化された犯罪者の一人だったという 皮肉を表現した上での、 「人はなぜ人を殺すのか」であるなら、 実に秀逸なコピーであると言わざるを得ない。 | ||||
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人間の業や偏りを詰め込み表現しきった一冊。いや、とにかく素晴らしい。 冒頭より贅肉の少ないノイズ交じりのタイトな文体でリズムを作り後半にかけて頂点に達する。 最終コーナー回って少し変調。プログレな感じがする。 リズム偏重で考えれば短編のクラスターで本小説が再構成されているものも読んでみたいと【浄土】を併読して思った。 | ||||
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町田康の凄さは一瞬の感情を数頁に渡り表現している所だと思う それが顕著に表れているのがこの作品 しかも結末に向って様々な感情の糸が一本に紡がれて最後は数頁に纏まっていく そして最後の一言で熊太郎の本当の言葉として吐露される 知らない間に涙していた 間違いなく日本文学最高の作品 | ||||
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