(短編集)
記憶の盆をどり
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楽しい | ||||
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ページを開くたびに不気味に笑ってしまいました。 | ||||
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町田康の短編は、読んでどう、というようなものではなく、つまり感動したり勉強になったりということもなく、人に話したくなることもなく、ただ読んでいて面白い。これぞ文「芸」。なかでもお気に入りは「付喪神」。古くなって捨てられた茶碗、俎、壺、扇子といった家財道具たちに命がやどり、化け物となって人間に復讐する、という荒唐無稽な話な話にもかかわらず、ありありと頭の中に傘のお化けや鬼の顔をつけた猫の置物のなどの怖いんだか滑稽なんだかわからない姿がが浮かび、まるで紙芝居を見ているような感覚だった。『御伽草子』からの一篇とあとで知って納得。人間を襲うなどやめませんかとよびかけて排斥された数珠の一連入道とその一味がひそかに山奥で怪しい修行を続けていて、都で破壊活動にいそしむ物たちを鎮めるために人間たちに乞われて立ち上がる…というくだりで思わず「なんだこれ」と声にだして噴き出した。いやわかっていましたよ、そういう展開になる感じ、ありありでしたもん。筋を知っていて読んでも面白いから古典になる。その古典をその辺にいそうなキャラで再現する技がすごい。『ギケイキ』も中2病のようなありえない義経が意外にアリエールな感じで描かれていたし。人間を抹殺せんとする器物派の破壊的ビームを一連率いる人間派が読経によって形成された透明バリアで跳ね返す、という場面はありえないようで、映画などにしたらめちゃくちゃ面白そうな気がした。最後は器物派のラスボス変化大明神と、人間派の祈りが生んだ護法童子の一騎打ちになり…っていうか、これって本当にこういう話だったのかなー。まあでもそんなことどうでもよろしと思うくらいにおもしろかった。ほかには「エゲバムヤジ」「100万円もらった男」「狭虫と芳信」がよかったです。ちょっと「笑うせぇるすまん」のテイスト。人間の業。笑える悲哀。 | ||||
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本書中の九編の短編、どれもたいへん面白かったです。 どこが、って語り口かな。文章が短くて、スパッと切れがいいところ。 表題作「記憶の盆をどり」から読み始めました。 おっと。作品名は「記憶の盆おどり」 本書のタイトルの『記憶の盆をどり』の「を」に引っかかりました。 どうして「を」なの? 表紙カバーの「装幀」も不思議です。 ナイフでスパッと切って、血がにじんだような直線。 そのナイフは、著者名「町田 康」もバッサリ。「講談社」もバッサリ。めったぎり。 そんな物騒な短編は、この本の中にあったかなあ? そう思いながら、もう一度、記述をたどりました。 状況証拠でしかありませんが、事件と関係しそうな表現を抜粋してみます。 〈記憶の盆おどり〉 「頭のなかに雨が降る」(198頁) 「頭のなかに雨が降りだし」(198頁) 「少し時間が経つと記憶が闇に消えていく。真っ暗ななかを手燭(てしょく)ひとつで歩いているように」(221頁) 「なにも覚えていられないというのに。無明長夜(むみょうぢょうや)を歩いているというのに」(222頁) 「とにかくこのナイフを隠さないと大変なことになる」(222頁) 「シャワーの音がやむ」(223頁) おしまい。この後が怖そう。 〈エゲバムヤジ〉 「犬のようでもあり、猫のようでもあり、小鳥のようでもあった」(12頁) 「後はただひたすらの虚無」(14頁) おしまい。可愛いエゲバムヤジ。 〈山羊経〉 「山羊の目は横線なのだが」(47頁) 大日如来の目も横線? 「経は果てしなく続いていつ終わるとも知れなかった」(49頁) おしまい。悪臭も続く。 〈文久二年閏八月の怪異〉 「さびしいよ。だからいろんなものを翻訳するのさ。私を天に翻訳したり、天を私に翻訳したりね。つまりは文久の改革さ」(88頁) 「大方、相模屋久兵衛の死体でも転がっているんだろう」(88頁) 「それだけがはっきりとした間違いのない事実なのだ」(89頁) おしまい。則天去私? 〈百万円もらった男〉 「たとえそれが五千円であってもいまの俺には干天の慈雨」(98頁) 「どこかから随分と上手いピアノの音が聞こえてきます。そのピアノの音に混ざって時折、呻き声のようなものが聞こえるのは、気のせいでしょうか。本当に気のせいなのでしょうか」(124頁) おしまい。セロニアス・モンクの呻き声では? 〈付喪神〉 「その本然・本質は付喪神というチンケな神で、不動明王の直属・直系である護法童子とは月とすっぽん、提灯に釣り鐘、これと闘うなどというのはそこらのヤンキーの兄ちゃんが米海兵隊と闘うようなもので」(174頁) 「私たちは私たちで私たちの護法童子を招喚しなければならないのだ。この令和の頃合いに。この頃合いの令和に。私たちの力で」(176頁) おしまい。令和のゲーム始まり始まり? 注) 短編〈付喪神〉は、初出も底本も「2015年」。令和になる前の話では? 「お伽話の現代語訳」? 〈ずぶ濡れの邦彦〉 「それらが沛然(はいぜん)として降る雨に濡れていた」(179頁) 「邦彦はずぶ濡れに濡れていた」(180頁) 「邦彦は、絶対に走らないこと、を条件に瑠佳と結婚した」(182頁) 「瑠佳がかつて使っていたランニングウェアであった」(193頁) 「ベッドの上のウェアの傍らに、瑠佳のものよりひと回り大きな真新しいウェアが、並んで、あった」(193頁) おしまい。走れば、濡れないかも。 〈狭虫と芳信〉 「広原狭虫」(227頁) 広くて狭いのは? 「従二位六頓です」(239頁) 「僕のことはジュニーと呼んでくれてけっこうだ」(239頁) 「広原はいつまでも手を握って放さず、ちっともやめてくれない」(259頁) おしまい。今も昔も。 〈少年の改良〉 「少年の中の理想のロックはその実地のロックによって射殺されるのではないか」(275頁) 「その事実の銃弾は少年を貫いただろうか」(286頁) 「私は仕方なく女の手を取って歩き始めたが行く当てはさらになかった」(296頁) 全部 おしまい。 この本には、前書きか、後書きか、解説みたいなものがほしかったです。 どう読めばいいのかわからないので。 特に、表題作の〈記憶の盆おどり〉について、 「僕」の「頭のなかに降る雨」が何なのか? シャワー? 闇の中に消えていく、ずぶ濡れの「僕」の記憶? 闇の中をずぶ濡れで歩く感覚? 白いグニャグニャのなかに捨てたナイフとは何? 「シャワーの音がやむ」とき、「頭のなかに降る雨」もやむだろうか? 作者「町田 康」さんの言葉を聞いてみたいと感じました。 | ||||
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