小銭をかぞえる
- 悲喜劇 (46)
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「……警察呼びたきゃ呼んでみろ。どうで呼ぶんならもう面倒だからよ、お巡りが来るまでにはおまえを殴り殺しといてやるから」 「聞こえたか? 撲殺、だからね」 「……」 「馬鹿が。なら一生聞こえねえフリをしてろい。えらそうに澄ましてやがると、卵巣を蹴潰してやるぞ」 ひどすぎワロタ | ||||
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これまで赤裸々な私小説を読んだ記憶がない。 | ||||
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主人公が余りにもクズ思考過ぎて、何度か投げ出そうかと思った。 だがなぜか、そのリアリティーと精神性に引き込まれてゆく。 こんな人は、この世にいないほうがいいのかもしれない。 正直そこまで思った。だがだからこそこの話のメリハリが 効いてくる。 小説を書くうえで必須な条件は、主人公の精神性の成長 (または退廃)だと聞いた気がするので、 小説という表現手法において、そういった退廃的、悲観的、 悲劇的要素というのは、実は生身の人間に対して真摯であり、 ここまで落ちてはいけないという教訓や、落ちきった意識の 醜穢な有り様が、あたかもグロテスクな生き物を 見つめ続けていることが、止むを得ないような、 醜悪な美学というものに、惹きつけられていく。 そのグランジ・ノベルの価値をおそらく理解していたであろう 著者は、やはりただの人ではなかった。 | ||||
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いわゆる『秋恵もの』の中篇二篇をまとめた一冊である。 めずらしく、北町貫多(西村賢太)が『私』、秋恵が『女』として表記されているが、一連の『秋恵もの』の一部と考えてよいだろう。 ―― 「焼却炉行き赤ん坊」は、『犬のぬいぐるみを溺愛する秋恵と、そのぬいぐるみを虐殺する私』という設定で、『秋恵もの』のなかでも異色な、反出生主義文學の傑作となっている。 反出生主義といえば、『この世界は苦しみばかりなのだから、苦しむのは我我だけでよく、我我は苦しむだけの世界に子供たちをつくるべきではない』というような主義であるというくらいに要約すればいいだろうか。 無論、此処では、反出生主義の是非は問わないし、いまのところ、反出生主義を主張するかしないかは各人の自由である。 斯様なる前提のうえで、本作の主人公、『私』すなわち西村賢太は、あきらかに反出生主義の立場に屹立している。 本作では、『犬がほしい』という恋人(おそらく『秋恵もの』の秋恵)に、『私』が犬のぬいぐるみをプレゼントするが、毎回恒例の痴話諠譁のすえ、『私』が犬のぬいぐるみを『虐殺』し、恋人が悲嘆して棲家から遯竄するまでがえがかれている。 本作ではわかりやすく描写されているが、本作における『犬』とは、ヘミングウェイの「雨の中の猫」における『猫』とおなじように、『子供』の隠喩であり、恋人が『私』とのあいだに子供をもうけたいと考えていることがあきらかになる。 その『犬』のぬいぐるみを虐殺するという行為は、『私』にとって、はっきりとした『子供をつくりたくない』という反出生主義の心理として現前している。 ゆえに、題名は「焼却炉行きぬいぐるみ」ではなく、隠喩的な意味で「焼却炉行き赤ん坊」なのである。 此処において、『私』は『子供をそだてるには金銭がたりない』という一般的なる理由にくわえて、『中卒のうえ、前科持ちで犯罪者の倅』だから、『私』の子供もおなじようになるのではないか、という、不条理なる心理を披瀝している。 つまり、世間一般の人間における反出生主義とは、いささか相違するのだ。 と雖も、『私』にとって『子供をつくる』ことは斯様なる恐怖につながるものであり、その点において、『私』は自然なる心理によって反出生主義に目覚めることとなる。 繊細な問題であり、なかなか人前では物語れない『反出生主義』という問題を、寓意的な小説というかたちに結実させた傑作である。 ―― 「小銭をかぞえる」は、『秋恵もの』としては定番の『秋恵がかわいそう』小説である。 『私』は私淑する小説家の全集を上梓するために金策にはしり、恋人(秋恵)の父親からも借金し、罪悪感から恋人にご馳走せんとするが、結局、恋人をいじめて欷歔させる。 西村文學を未読のかたは、秋恵ものといえば、『秋恵への暴力』がえがかれている連作だというイメージがつよいかもしれない。 が、実際には、秋恵ものでは、直截に肉軆的暴力がえがかれる場合と、最後に暴力がはじまろうかという箇所で結末をむかえる場合にわかれる。 大抵の場合、『主人公が秋恵に暴力をふるうことを決意し、暴力をふるう直前の嗜虐への恍惚感がえがかれる』ことで物語は終焉をむかえる。 これは、読者に、(言葉どおり)『筆舌につくしがたい暴力』を想像させるという効果もあるだろう。 同時に、主人公が秋恵に暴力をふるった『証拠』も湮滅されるので、秋恵ものは基本的に、結末が読者にゆだねられる、いわゆるリドル・ストーリーとなっている。 これらの意味で、「小銭をかぞえる」は、『殺人』にいたるまでの暴力を読者に想像させるかたちで完結するので、その意味では、秋恵もののなかでも冠絶する作品といえるかもしれない。 といえども、無論、秋恵を殺害していたら、西村賢太は刑務所にいるはずで、私小説として成立しないので、本作も矢張り、『言葉の暴力』で物語はおわったと考えるべきだろう。 あえていえば、本作までゆくと、この罵詈雑言は『魂の暴力』であり、『魂の殺人』とも考えられるかもしれない。 ―― いずれにせよ、秋恵という女性は素晴らしい人物であり、すくなくとも、西村賢太による秋恵のえがきかたには、逆説的な愛がある。 曩時、車谷長吉が三島賞を受賞した爾時、選考委員の筒井康隆が、『私小説ともなれば、かならずモデルとなっただれかを作品をとおして傷付けなければならないが、車谷氏の場合、『自分だけが悪役になって傷付けばいい』という点において圧倒的である』というように賞讃していたはずである。 これはそのまま西村文學に当て嵌まるものであり、西村賢太のえがく『秋恵』はいつも『完全なる善人』であり、北町貫多はいつも『完全なる悪人』である。 其処で、西村は私小説作家なのだから、自然と視点は『完全なる悪人』である貫多のものとならざるをえないわけで、ゆえに、おおくの読者には嫌悪感をいだかせる。 だが、斯様なる構造で西村がえがいている作品の本質は、『自分のまわりの人間がどれだけ素晴らしいか』ということであり、かれらの素晴らしさを際立たせるために、いつも貫多は婆娑羅狼藉をなし、罵詈讒謗して、自己の露悪を徹底しなければならないのだ。 窮極の恋愛小説とよばれる『マノン・レスコー』は、主人公の男が、窮極の悪女であるマノン・レスコーにふりまわされながら、最期まで愛しつづける物語だった。 西村賢太の秋恵ものは、窮極の悪漢を愛する女性をえがいた『逆マノン・レスコー』であり、逆理的に、『秋恵の窮極の愛の物語』なのだ。 もしも、西村賢太が、このように自覚的に秋恵の愛をえがいていたとしたら、畢竟、西村賢太は、日本文學史上最高峰の恋愛小説家だったといえるのである。 | ||||
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ヌイグルミ文学の最高峰 | ||||
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