■スポンサードリンク
告白
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
告白の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.48pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全176件 41~60 3/9ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
科学が数字や法則を用いてこの世界の仕組みを解き明かす学問であるなら、文学は文字をもって物語世界を構築し、この世界の真理を顕らかにしていく学問であり、この小説『告白』は紛れもなく文学だ。 中盤過ぎまではエンターテインメントとして非常に楽しく読めるのだが、終盤は一気に文学性が加速し、ラスト・シーンが激しく胸に突き刺さって読了後しばし呆然となる。 不器用で自意識過剰な熊やんに共感する読者は多いはずだ。そして面白おかしく読み進ませて親近感を持たせた挙句に突き落とす作者はかなりえげつない。だがそれは作者ですら辛かったらしく、最後は「3行書くごとにそのへんにある本を手にして読んで」いたという(※)。 私も終盤はとにかく読み進めるのが辛かった。性根は善人なのにコミュニケーションの下手な主人公熊太郎に自分を投影して悲しかった。弟分の弥五郎も男前で義理堅くいいやつだからこそ、愚かな熊太郎を無邪気に慕う姿がもどかしい。 他の人々は脊髄反射的に会話を楽しんでいるのに、熊太郎は思弁してからでないと話せない。話しても共感は得られない。 社交性を欠く熊太郎は現実よりも、他者の上に自分で作った幻を見てそれを信じた。善や正義や神秘を信じた。そうした幻は多かれ少なかれ誰でも抱く。弥五郎が熊太郎の上に見ていた理想の兄貴像も同じものだったろう。普通は現実と幻になんとか折り合いをつけて生きていくが、熊太郎にはそれが全然出来ない。 他者とのコミュニケーションに断絶を感じ続けた彼が最後に行った告白に意味はあったのか。 その告白後もまだなお自己の内面を見つめて言葉を捜した彼が見たもの、作者がここまで彼を追い詰めて見せた風景こそが、この世界の真理の一面であると思う。 だがしかし、正直打ちのめされてしんどい。作者の描く熊太郎弥五郎が好きだ。彼らに幸せになってほしいが、このラストには妙に納得できてしまう。 多分読者の多くがこうしたやりきれなさを痛切に感じ、世界の不条理を嘆き、熊太郎弥五郎が胸のどこかに生き続けるのだと思う。この作品に出会えてよかった。 ※「作家の読書道」http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi52.html | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
最近の小説はほとんど読んでいませんが、新聞の紹介記事で読みました。 章立てがないので、切りなく読ま根がなりません。でも、河内弁のテンポで終わりまで読みました。 読了後、昔読んだ、今東光の河内風俗を描いたもののほうがよかった、と思いました。年齢のせいですね。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
町田康さんが読み手の告白を聴きたいです | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
時代物はなんとなく敬遠してきたのですが、なぜもっと早く読まなかったのかと後悔するほどの大名著。これは犯罪奇譚などではない、これほどまでに、私たちを含めた「ごくごく平凡な人間の自意識の中の中」までを描き切った作品がほかにあるだろうか。最後は嗚咽が止まらなかった。傑作。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
いつもの町田氏の迷走する文脈は だんだんと引き込まれて いつのまにか町田康の世界に陶酔し楽しい時間をいただきました。熊太郎と弥五郎が実存し河内音頭になっている事も読み終えてから分かった次第で衝撃的でした。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
日本文学史に残る傑作なのはまちがいない。 文学以外に絶対に為し得ない表現を達成している稀なる作品なのだから。 けれど、精神が不安定な人は避けたほうがいい。 そうはない救いのない小説を読むことにはなるから。途中で本を置くことなどできないで。 読売新聞夕刊に連載されたが、中断され、後半が書籍になってはじめて完結したのも納得。 仕事が終わって帰宅して、やれやれと憩いのために読むようなものではない。前半はともかく。 読みはじめ、あれっ、思ったより通俗的なものを書いてるんだなと思った。 『くっすん大黒』しか読んだことなかったので。志はもっと高いはずじゃあと。 とにかく、物語の仕掛けを活用して、読者のエモーションをアップダウンさせまくり、 それでもって、「感動した」って言わせようとしてんだろうな、と。 後半、どんどん、鬱ぽくさせてるのでさえ、「嫌ミス」的なダークな感情を味あわせるのが目的だなと。 たぶん、新聞に載せられなかったあたりから、読み続けるのが恐ろしくて、わざわざ周りに人が一杯いる場に出向いて読み続けた。 物語りのエンジンは強烈なんで、どんなに恐ろしい破滅を見せられることになるか分かっていても、 降りることはできなかったから。 けど、最後までなんとか読みっ切って、予想していたよりもっともっと恐ろしい小説なんだと分かった。 まぎれもない文学作品だと。 「生きていることの真実」を本当に伝えよとしてるんだと。容赦なく。 決して、誰も決して開けたくはない地獄の釜の蓋をあけて。 「人はなぜ人を殺すのか」というフレーズがやたらついてまわるが、たぶん、うまく言えてない。 そんな、ほとんどの人にとってはどうでもいいテーマを描いてるわけではないんじゃないと。 「人が人を殺すに至る絶望・虚無の深さ、それにに渡りあう言葉はあるか」が正確なんじゃないかと思える。 私たちみんなが、日々、虚無から逃れようと右往左往している。それは「危機」としてはじめて自覚される。 「危機」に襲われるないことが約束された人生などどこにもない。だから、切実なテーマだ、誰にしも。 熊太郎の余りに深い虚無が生まれるプロセスを観察し、細大漏らさず、執拗に、恐ろしいほどのページを費やし、徹底的に言葉を与える。 町田さんが書こうとしているのがエンターテインメントではなく文学だから。それが文学の仕事だと町田さんは考えるから。 現実の犯罪記録をよんでも、「かっとした」とかまったく犯罪者の内面をなんにも伝えることができない言葉や、あるいは、なにか象徴的な言葉に回収させてしまうやり方ではなく。 また、映画なんかなら、犯罪の激烈さの描写に置き換えてみたり(肝心の十人殺しの描写は徹底的に圧縮され、サービスとしてのカタルシスはない)、あるいは虚無を象徴するシークエンスにするしかないものに言葉を与えようとする。 多分、町田さんが、絶望・虚無に言葉をあたえようとしたのは、 言葉こそが人間最大の武器であり、この武器で「虚無を檻に入れる」ことに成功すれば、 それこそが問い掛けへの答となり、救済は見つかるはずと考えたからではないかなと。 しかし、すさまじいまでの戦いを続けたのちに、熊太郎(=町田さん)はこう「告白」する。 「まだ、ほんまのこと言うてへん気がする」 熊太郎は思った。 俺はこの期に及んでまだ嘘を言っている。・・・・ 俺は生きている間に神さんに向かって本当のことを言って死にたい、ただそれだけなのだ。・・・・ そう思った熊太郎はもう一度引き金に足指をかけ、本当の本当の本当のところの自分の思いを自分の奥底の探った。 曠野であった。 なんらの言葉もなかった。 なんらの思いもなかった。 なにひとつ出てこなかった。 ただ涙があふれるばかりだった。 熊太郎の口から息のような声が洩れた。 「あかんかった」 銃声が谺した。 十人の人間を殺すしかなった人間の絶望・虚無に、徹底的に肉薄した。 けれど、その虚無の深淵はなお底を顕わそうとしなかったのだ。 救済は得られなかった。 たぶん、これが『告白』というタイトルの意味だ。 傑作であるとは、他人事の記録をおもしろおかしく無責任に(=批評的に)読むに終わらないということだ。 つまり、読者は、熊太郎の絶望・虚無を追体験することになる。 人間が最も目にしたくないもの、自分の中心にポッカリとあいている虚無に正対することになる。 だから、星ひとつしかつけない人たちにわたしはむしろ共感する。 こんな経験、嫌悪感しかないのが素直な反応だと思えるからだ。 それがこの本にたくさんのレヴューがついている同じ理由じゃないかなあと。 重量感のある読後感を担うのに、なにかが要るんじゃないかなあと。 町田康という作家は恐るべき作家だ。 その軽妙な文体が達成するのは、凶暴といえるほどの倫理性だから。 狂おしいまでの「自由」への希求が、世界を燃え尽くしてしまうから。 偽物の希望を語らず、本当の絶望を語るから。 真の改革者が持ちえる資質、野蛮さを溢れさせているから。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人と同じことが出来ない不器用な少年が、博打でだらしなく身を持ち崩した挙句大量殺人を犯すまでのお話。以上。 殺人を犯す理由が人より思弁的だから、だから何!?としか思わなかった。 言い訳がましくくどい文章が延々と続いて非常に苦痛。 謎めいた出来事が謎のまま放り出されているが、(著者について詳しくない)推量出来ない読者にとっては意味不明でしかない。 イライラしながら読んでいたせいか、作者がユーモアとして書いているらしき部分も全然笑えずスベりまくりだった(あくまでも私の中ではの話)。 高かったし頑張って読了したけど時間の無駄だった。この値段ならもっと面白い文庫が2冊買えてるw 面白くなかった理由として、全然感情移入出来なかったことを挙げようと思ったが、同じように他人とのコミュニケーションに苦しんだことのある身としては、それを安堵するべきかも知れない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
主人公の熊太郎が殺人犯なのに、余りにキュートで愛せずにはいられないキャラクターで最後まで目が離せなかった。作者の分身のようにも感じる。 中上健次のような世界観に、中島らものようなユーモラスで少し哀しみを帯びた河内弁が音楽を聴いているよう。ラストどうなるのかと思っていたら着地も素晴らしく圧倒されました! | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
河内出身です。 セリフが全部「聴こえた」小説でした。 この素晴らしい作品をそんな風に読めただけで、河内に生まれて良かった!と思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
作者と一緒に、主人公の住む世界に透明人間になって入り込み、巡って見ていくような、そんなアトラクションみたいなワクワク、ドキドキする本だった。これはもう、何という言葉の匠。文字を目で追う事が心底、楽しかった。こんなに話の中に入り込んだのは、ロマンロランの「ジャン・クリストフ」を読んで以来かもしれない。とにかく町田康さんの作品を今後生きていく楽しみの一つとして、全部読んでいきたいと思う。出会うのは遅かったけれど、その分、まだまだこれから読む作品があるのだ、という嬉しさでいっぱい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
11年の歳月を閲してなお…と云うのが、作者にとって良いのか悪いのか。 普通に考えたら「あかんではないか」なのでしょうけれども。 初読後、10年経ったら読み返そう、とは思ったのですが、 途中で何度か斜め読み再読して、気が付けば11年経っていました。 「あかんではないか」…と云いつつ、最初に読んだときは、 こんな作品を出した後も書き続けられるのか?と心配に なる程の力作だったので、仕方ない、勇退か、と思ってしまった。 でも本作、「分かるわあ」とラスト1行まで読んだ人というのは、 その過半数(いや、もっとかも)が「町田ファン」ではないの? という、二度目の「あかんではないか」ランプが点灯中。 勿論、何かオススメの本ない?と訊かれたら、喜んで名前を 挙げますが、彼もしくは彼女が町田作品を初めて読む人の 場合、どこまで受容してくれるのかが、非常に謎。 そういえば、昨日はジロキチでライヴでしたね、って 自分で話を逸らしてどうするよ。実のところ、 それで思い出したわけですが… 文体で押しまくるので、どんなにイイこと書いても、 結局「町田節」に集約される危険性があったり。 「町田節」だけに音読しても楽しいんですけれど… 音読する読者って怖いですか。怖いですね。 上記「分かんなかった」と云ってくる方には、 さりげなく朗読します。まあ「さりげなく朗読」は ちょっと無理で、止めて〜とゆわれて止めてます。 次作「ギケイキ」に期待。なんとなく儚い期待に 終わりそうな予感はあるものの、その辺は無視。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
12いや13年前になるか・・・当時の本購入の参考にしていたラジオ番組で取り上げられていたので購入。あまりにも分厚いのでずっとおきっぱなし。昨年末から少しづつ読み始めたが,どうにもこうにも面白くなく,とうとう年明け。内容が馬鹿か利巧か・・・使えない三下ヤクザ気取りの熊太郎のクズ日常の話が延々と続き・・・「なんだこれ?」と。この作者の書き方なのか,章の区切りがなく,空欄1行で,だらだら話が続く続く・・・メリハリがないというか・・・とうとう今日までかかりましたが・・・今はちょっと感無量です。特に300ページ過ぎたあたりからがぜん話が面白くなり。昨日今日と200ページを激走しました。(「フ~!」というところです) この話はモチーフが河内10人切りという事件が題材だそう。北海道人にはピンときません。河内音頭ぐらいは知ってますが(菊水丸でしょう?)どうして大量虐殺事件の犯人である二人が・・・ですよね~それはこの町田康の作品を読めばなんとなく・・・・ 最初,八墓村の事件と混同しましたが,あれは津山30人殺しでした。こっちは昭和で,河内事件は明治でした。以外に日本て大量殺人事件って過去あるんですね?その河内事件の主犯・城戸熊太郎の生まれから事件に至って死ぬまでの内容です。正確なドキュメントではないのではないかと思います。モチーフであり,あとは町田康の想像(?)。史実では熊太郎は別に本妻がいて,”縫”は愛人らしい。前半出てくる葛城ドールなる者は,何?・・・・分からん! 読んでいて感じたのは,この作品は,NHKの朝の連続テレビ小説のような,ナレーターがいて,時代劇ながら,現代のナレーターが言葉を話しながら,ドラマが進んでいる,そういう作り方と思う。 <<<<「これがこうじゃろ~だから~~~なんじゃ」と熊太郎。アホである。今でいえばM1でも取り上げられないネタである。>>> と終始こんな表現が使われている。さしずめナレーターは西田敏行とかがいいかも・・・まあちがうか?(笑) どう見ても熊太郎がやった行為は許せない。ましてはラストの相棒への・・・はどうかと思うが・・・それでも・・・ ストーリーではまるでキリストに祈りながら殺しを生業にしている殺し屋か?神がかり的は表現はどういう意味があるのか?不思議! 河内という地区では憎いけど,愛されているそんざいなのかな~この熊太郎という男は。 それとタイトル「告白」とは何でしょうか?「懺悔」ということですかね?やっぱりわからん。 ・・・・・・・・・・・ナニコレ!・・・・ どうしても読み終わった今,レビューを書かないといられなかったので,とりとめなく書きました。 長いですが,興味のある人はどうぞ。でも星3つ。 ※ドラマなら熊太郎にふさわしい役者は思い浮かびません。弥五郎は文句なく桐谷健太,縫は菜々緒がいいです。どうですかね~? 補足 ※一晩寝て,熊太郎に似合うのは役者の古田新太ではどう? | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この本は町田さんの代表作であり、町田文学の最高峰といっていいと思う。 たびたび読み返すことができるほどの分量ではないが、ずっと手元に置いておきたい。 わたしにとってはお守りのような一冊。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
美しく筋の通った狂気が炸裂していた。 読み進めるうちに熊太郎、弥五郎の魂が私の身体の中に宿り、読み終えた今も尚息づいている。 「宿屋めぐり」も「ホサナ」も傑作だったが、この小説は別格かもしれない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
六合目までは非常に面白い。 なにがどう面白いのか十分に説明できる語彙がないのが残念なのだが、いくつか列挙すると、 まず「思弁的」すぎて人ができることを思うようにできずにいる熊太郎の心理描写が面白い。 決して思いやりからではなく、自分自身が醸成したある種の倫理的な世界認識によって他者の意識に配慮しすぎた結果、常に周囲との間に齟齬が生じてしまう描写には、一部の読者は強い共感を受けるに違いないと思う。 そして森の中を酢醤油が吹っ飛んでいくとか、一言主が「蕎麦」と一言言うだけでその説明を一切しないとか、妙に深みのある因果な変人の描写とか、 九割方の読者が「こう」と感じている地点でいちいち「こうである」理由を常識的社会通念の立場からくどくど説明するなど、 町田康しか書き得ないであろう独特のギャグのような哲学のような言語的センスは間違いなく面白い。(動物が和食を食らうネタがあまりに多いのは若干レパートリーが狭い気もするが。) 正味、本書を読んどると河内弁の心地よさっちゅうもんに気づくさかい知らん間にうつってまう。 何より、幼少期の遊び仲間との力関係に端を発し、次に何が起こるか分からない世界の中でも 熊太郎があれこれ思弁しつつ、不器用でありながらも本人なりに全力で生きてゆく様は読んでいて止まらなくなる。 しかし熊太郎が縫に告白するあたりからいきなりつまらなくなる。 第一に先の展開が見えているからで、例えば縫が寅吉に寝取られるという筋書きが予め分かっているのに、何の手も打たずにだらだら酒を飲んでいる熊太郎の思弁を延々と読んでいると話の進まなさにイライラしてくる。 第二に、縫や寅吉の人格にリアリティがなさすぎる。おそらくぐうたら三昧の熊太郎が妻を娶り→寝取られ→逆上して殺すという筋書きに辻褄を合わせるためにあえて心理描写を排したのだろうが、現実感がなさ過ぎて浮いてしまっている。自分は縫の最期に同情も反発もできずすっきりもしなかった。 第三に、傳次郎に暴行されてからの熊太郎の心理が、思弁を放り出して「正義」の遂行それ一色に染まったため、本書の主要なテーマである熊太郎の「思弁癖」を塗り替えるでも乗り越えるでもなく放棄していること。この思弁は最後の20ページでようやく復活するが、結局最初の数ページから何の進歩もしない最も「あかん」形で終わりを迎える。ハードカバー本の帯に「人はなぜ人を殺すのか」とかえらそうなことが書いてあるが、自分にはそんな深遠なテーマ性は見いだせなかった。熊太郎は不条理なボコられ方をして逆上していきなり人が変わっただけである。ボコられる前の500ページにわたる熊太郎との連続性がない。出版社に告ぐ、帯にウソ書くのはやめろ。 第四に、十人斬り以降の警察視点の叙事的な描写はまったく面白みがなく、単なる情報の羅列に終わっていること。私はここを読んで初めて町田康はイカれた文章を書く才能は凄まじいが学級新聞のような平易な内容を魅力的に書くのがかなり下手くそであることに気づいた。こんなのは2,3行で済ますか省略したって一緒ではないか。 第五に、これがいちばんでかいのだが、作中で何回も反芻される葛城モヘアと葛城ドールに関する謎が完全な投げっぱなしのままに終わること。なぜ駒太郎と証言が食い違うのか、なぜドールの死体が消えていたのか、なぜ熊次郎とモヘアが瓜二つなのか。熊次郎が盗掘の事実を知っていたのは寅吉からの伝聞だったのか。そもそも奴らは何者だったのか。熊太郎は先天的に人には見えない神のような物が見えたということなのか、あるいは熊太郎の凶行はドールを殺した地点で背負わされた呪いのようなものだったのか?そういった問いの答えに期待しながら最後のページに行き着いた時のがっかり感は半端ない。作者は本当に何も考えずに適当に書いただけという可能性があるがせやったら正味許せん。 上記のうち第一から第四までのつまらなさの原因はある一点のみに集約されると思う。すなわち本書が嫌でも河内十人切りと同じ筋書きをなぞらざるを得ないという、呪いのような制約を受けている点である。 河内十人斬りをテーマにする以上、どこかで「結婚→寝取られ→踏んだり蹴ったり→逆上→十人切り→弥五郎と自決」というプロットをなぞらざるを得ないのであり、 400ページも原作を無視して無茶をやってきた町田康も、後半以降はお約束を踏襲した構成を展開せざるを得ないということだ。 私はそのお約束にこそ退屈さを覚えたのである。 「ページ数は多いのになかなか十人斬りが始まらなくてうんざりした」旨のレビューが少なくないが、私はこれと真逆の感想をもった。 すなわち、「町田康オリジナルの部分は面白いけれど、史実と辻褄を合わせている部分はつまらない」というものである。 作者が本当に書きたかった「河内十人斬り」は最後の20ページだけなのではないか?という気がしてならない。このさいもっと原作をぶち壊した話にしても良かったのではないか?と思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
明治時代で着物を着ているような時代の小説はおそらく初めて読んだんですが面白かったです。 単純に語り口が、ときどきふざけているのかと思わせる箇所が多々あり、気楽に読めました。人の心情をこれでもかと、仔細に軽妙に語ってくれるところが良かったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
最近、町田康の小説をよく読んでいる。この「告白」は、単行本にして670ページに及ぶ大作で2004年から05年にかけて、読売新聞夕刊に連載していたそうで、文庫本も出ている。 「河内十人斬り」という明治時代に実際にあった事件を元にした小説で、その主犯となった主人公の生涯が描かれている。とはいえ、犯罪小説の匂いはなく、河内弁の文章が生き物のように躍動して、私は、町田康の小説だからというだけで、何の予備知識もなく読み始めて、どんどん、引き込まれてしまった。最後が悲惨な事件で終わるという結果に唖然となった。 城戸熊太郎という主人公、幼少期から頭の中で思い描く思考と実際に口から出る言葉が一致しないという問題を抱えて生きている。まっとうな人間になれず、極道に身を落としていくのだが、決して悪人というのでもなく、なぜか、周りの状況が絡み合い、悪いほう悪い方へと落ちていく。 仏教思想が底流にあるのが、町田康の小説の深さかもしれないが、この小説も、観音様が出てきたり、神様みたいなものが出てきたりする。 日本版「罪と罰」のようなスケールの大きさ、人間というものの不思議さを感じる。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
あっという間に読み終えるほど面白かったです。こういう人も居るのだと興味深かったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
熊太郎の、思考と言葉の不一致という、思考の高度さと言葉の幼稚さの対比が切なくなりました。 思弁的な人は破滅していくのか、という視点で読み進めました。 熊太郎にはそこに見栄が混じってアウトローな生き方しかできなくなります。 思考ですべてを知って悟ろうとする生き方は、苦しいのですが、社会が高度化すればするほど、つまり現代においては、熊太郎のような苦しみを抱える人が大多数なのだと感じました。 思考と言葉が一致しないという人は、意外に多いようにも感じますが、結局、一致、不一致が問題なのではなく、その人の資質や性格が問題なのだと感じました。 つまり、資質や性格によっては、熊太郎のように、思考と言葉が一致しなくても愛される人もいれば、言葉が即ち思考という人であっても愛されるのだと思いました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
これぞ文学、と言わざるを得ない作品!底力をこれほどまでに感じたことはない。 読み終えてなぜか涙が止まらなかった。 多くの人に呼んでいただけきたい、そして感じていただきたい。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!