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テロ
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テロの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.23pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全13件 1~13 1/1ページ
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テロリストが乗客乗員164人を乗せた航空機をハイジャック。7万人の大観衆で沸き上がるサッカースタジアム墜落を目論む。緊急発進した空軍パイロットは、究極の判断を迫られ、航空機を撃墜。果たして、パイロットは、大観衆をテロリストから救った英雄なのか、それとも何の罪もない乗客乗員を殺害した犯罪者なのか。 ハリウッド大作映画のような大がかりな飛行シーンが描かれているわけでもなく、登場人物の人間描写があるわけでもなく、ただ淡々と、法廷内でのやり取りが繰り返されていきます。 これは小説ではなく、法廷を舞台とした戯曲(脚本)。 にもかかわらず、今まさに自分が戦闘機の操縦桿を握りながら究極の判断を強いられているかのように、緊迫した空気がひしひしと伝わってきます。さらに、数少ない登場人物のセリフを通して、争点となった航空安全法に対する軍部の見解や司法裁判所の見解の相違、当日の危機管理部門の対応の様子など、事件を取り巻く情勢も明らかになっていきます。もはや問題は、1人のパイロットの判断の是非だけではなく、不測の危機と向き合うべきなのか、我々一人ひとりに問われているかのようにズシリと響きます。 グスタフ・モーラーの映画『THE GUILTY』も、電話のやり取りだけで、息もつかせぬほど緊迫した雰囲気を充満させていましたが、シーラッハの『テロ』も同様に、言葉の力で命の尊厳と正義というシリアスなテーマを投げかけてきます。 これは傑作! この戯曲に何を感じどう演じるか、本作を取り上げる劇団などがあれば是非舞台を観てみたいですね。 | ||||
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出だしから引き込まれる設定。いつでも発生しうるであろう事態を前に、読者は登場人物として有罪にするか無罪にするか常に考えさせられる。戯曲という形式に一瞬戸惑ったがまさに内容とピタリとはまっている。あっという間に読んでしまった。シーラッハという作家の能力に驚くばかりです。 | ||||
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トロッコ問題をテロに置き換えたものに思えるが、作者の意図は哲学上の課外授業をするものではないと思う。 コナンドラムを鑑賞する立場に身を置くのでは現状維持しか招来させない。学ぶことがあるとすれば、私自身が何かを決めて現実事象を待つことだと思う。その待ち方を語る作品が待たれる。 | ||||
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テロリストに乗っ取られた、乗客等164名を乗せた航空機。この航空機がサッカースタジアムに集まる7万人に突入する前に撃墜した空軍パイロット。彼を裁く裁判の行方を描く戯曲。上演時には、観客が参審員となり評決するよう、有罪/無罪の両方の判決が用意されている。 人間は尊厳ある存在ゆえその価値は比較できないのか、「大きな悪」を阻止するために「小さな悪」を犯してよいのか、法や憲法の基準は絶対的であるべきなのか、「超法規的緊急避難」は認められるべきなのかについて、芝居の観客は否応なく結論を出さなければならない。それは読者も同じだろう。ドキドキしながら読む。 雑誌『シャルリー・エブド』に「いままでどおり、可能なかぎりつづけてください」と訴えるスピーチを併録している。こちらのスピーチを読む限り、上の状況についての著者の見解は明らかのようにも思われる。むろんそれが「正解」ではないわけだが。はたして原書にもこのスピーチは収録されていたのだろうか? | ||||
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結末が2つあるということで、事前の印象としてはもっと予想もつかない展開を期待する気持ちもあったのだが、意外とストレートな法律議論で、どちらの立場に立つかをシンプルに問いかけられるものだった。判決が読まれたところで話が終わってしまうのも、少し物足りない。 とはいえ、これは戯曲なので、実際に劇場で投票(というのですかね?)をする観客は、真剣に考え、結果にドキドキする感覚を味わえるのだろう、まるで陪審員になったように。 | ||||
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これ以上ないシンプルなタイトルの本作ですが、様々なテロを扱った本ではありません。 ひどく狭い範囲です。 つまり、たった一件の事件を記録したものです。 しかしながら、実在のテロの裁判記録、現場に居合わせた方たちの発言そのまま文章になっており、リアリティがあります。 行間があり、読む際にストレスが少ないのもポイントです。 | ||||
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この作品においては「緊急避難的措置」は最高裁によって否定されており 被告人コッホは「法的には有罪」が確定しています。 後は陪審員(読者?)がそれを踏まえた上でどう判断するか?と言う問いかけでもあります。 ただどういう意図なのかコッホにかなり有利な状況であり 彼を有罪とするのはそれこそ「法的にはアウト」の一事しかありません。 そしてそれすら陪審員の胸先三寸でもどうとでもなる以上、思考実験としてはお粗末です。 もう少しコッホに不利な状況設定にして読者が頭を悩ますような状態ならいいのですが 作中で問われる是非は「法か理か」と言う情の入り込む余地もないシロモノです。 法が絶対でも完璧でもないことを承知の上であえて「法に沿い有罪」とは なかなかしにくいものです。 それこそただの思考停止でしかないですからね。 思考実験としては作中で引用された「列車事故(予定)」の亜種バージョンの方が はるかに気が利いていますし作中で水を向けられたコッホも口ごもっています。 もう少し悩めるような設定でないこと、あと分量が少ない上に全体的に淡泊なのが惜しいところ。 あっという間に読み終え、自分の中で無罪として終わりました。 正直値段分ほどの価値は見出せません。 蛇足ですがあとがきにあった「風刺画(と言う体裁あれば)なら何してもオッケー」と言う 向こうの感覚とは半永久的にわかり合えないと思いました。 こういう感覚がまかり通ってる以上いつまで経ってもテロはなくならないし「我々も」彼らと仲良くも出来ませんね。 そのクチで言論弾圧と思想統制がまかり通ってると言うこのアンバランスさが非常に気持ち悪いです。 よくこれで彼らの中で矛盾が起きないものだと感心しますね。 | ||||
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欲しい情報はすぐに見つかる世の中になった。 どんな意見を述べるのも生き方を選ぶのも、人権や自由の名のもとに大抵許される。 でも何が、どれが正しいかを教えてくれる絶対的な人はいない。 「最大多数の最大幸福」が正しいかどうか? それもそのひとつだろう。 どちらも無辜の164人の乗客乗員の命と7万人の命、どちらを選ぶか? 安易に数で割り切ることが妥当かどうか、被告人・空軍少佐への弁護人、検察による質問によって 私たち読者が検証することになる。 9・11後すぐにドイツで旅客機を武器にされるテロを想定して法整備に取り掛かったことは もちろん、日本とドイツの司法の独立の程度の差にも苦笑してしまう。 人間の行動の選択、決断には様々な要因が内包され、 一見「理性的」といわれる態度が極めて個人的な事柄に影響されている可能性を考えろ、と テロや法律、憲法だけにとどまらない、ものごとの判断をするための基本的姿勢を教えてくれた。 | ||||
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テロリストにハイジャックされた旅客機に乗った164人と、その飛行機が突っ込む先のサッカースタジアムにいる観客7万人−−。どちらかしか助けられない状況に、もし自分が陥ったら−−。空軍少佐は164人が乗った旅客機をミサイルで撃墜し、スタジアムの7万人の命を救った。そして少佐は逮捕され、裁判所で有罪か無罪かの評決を受ける。裁判ではさまざまな意見がかわされ、有罪を主張する検察側も無罪を主張する弁護側も、どちらの意見もまっとうであり理解できる。さて、評決は? 有罪でも無罪でも議論が沸き起こるだろう。結末はネタバレになるので書かないが、この裁判の模様を読むことで、本書は、各自がどのような態度をとるべきか考える良い教材となる。道徳の教材にぴったりではないだろうか。 | ||||
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話を途中で止めて読者に判断を委ねるという手法であれば古来よりよく用いられていますが、有罪と無罪の結論を併記するのは小説としては破綻しています。いみじくも被告のセリフに「言い尽くされている」とありますが、有罪と無罪の結論部分の内容は本文中で言い尽くされた内容であり屋上屋、蛇足の類と言えるでしょう。 カネ返せ。 | ||||
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私の中では、早い段階で有罪か無罪かの結論はでていた。 しかし、他方の主張に関する説明・論拠(=御託)も非常に興味深かった。 法体系のあるべき姿、民主「国家」のあるべき形、テロとどう相対していくのか、という点について洞察に富んだ示唆を与える良書だと思う。 この本の上梓されたあとにも、フランスでのトラックを使ったテロや、バングラデシュでの凄惨なテロが相次いでいる。 本の最後におまけ的に付け足されている数ページも非常に関心をもって読んだ。 「犯罪」のような娯楽性には乏しいものの、是非、一読をお勧めしたい。 | ||||
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『』、『』、『』、『』――。 フェルディナント・フォン・シーラッハは、人が罪を犯す理由の捉えどころのなさや、その罪を現代の司法制度で裁くことの限界について、乾いた文体で冷徹に描いてきたドイツ人作家です。巧みな物語構成にすっかり魅了されて、私は新刊が出るたびに欠かさず手にしてきました。 先月(2016年7月)半ばに出た最新作『テロ』は、ドイツ軍少佐コッホを被告とする裁判劇です。コッホ少佐は2013年にドイツ上空でルフトハンザ機を撃墜し、164人の乗員・乗客を殺害した罪を問われています。航空機は離陸後にテロリストによってハイジャックされ、7万人が試合観戦中のサッカースタジアムに突っ込むことを目論んでいたのです。少佐は7万人を救うために160余人の命を犠牲にしたわけですが、果たして彼は有罪か、無罪か。 6年前にNHKで放送された『ハーバード白熱教室』(その1年後には早川書房から『』として書籍化)でも取り上げられた倫理学の思考実験「トロッコ問題」を、テロの時代に改めて提示した戯曲といえるでしょう。 もちろん「トロッコ問題」に<正解>はありません。この舞台劇『テロ』の中でも検察側・弁護側、双方はそれぞれの立場からコッホ少佐の行為を解釈しようとしていくものの、多くの読者は両者の主張の渦の中に呑み込まれ、もみくちゃにされていくことが必至でしょう。 ただ、私は弁護人が主張する「より小さな悪」という言葉が目に留まりました。「the lesser evil」という言葉を私は1998年の で覚えました。160余人もの命を奪うことは確かに悪ではあるけれども、7万人の命を見殺しにすることに比べれば「より小さな悪」だ、という弁護側の主張は一理あるように思われます。 ですが、日本人の私にはひっかかりを覚えるのです。<広島・長崎の原爆被害者がどんなに多くとも、戦争がその後も継続した場合に仮定される戦没兵士の数を減らすことができたのだから、原爆投下は「より小さな悪」だ>という主張を聞かされたときに、被爆国日本に生きる私は、こうした「より小さな悪」論に与することがとても難しいと感じてしまうのです。 私たちは否が応でもテロの時代に生きざるをえなくなりました。 最後に著者が綴る次の言葉に光を見出したいと思います。 「近代国家は、人間が私的制裁を放棄したから成立したのです。人間は自分の怒りや復讐心を国家に委ね、武器を置いたのです。」 「マックス・ウェーバーは、それを説明するために「国家による暴力の独占」という概念を使用しました。」 「それは市民と国家のあいだで交わされた契約です。わたしたちが共生する基盤です」 「この契約の歴史は今日ある法秩序の発展の歴史です。法秩序によってはじめて、わたしたちはわたしたちになれるのです」(151-152頁) | ||||
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ここまでの情報と(6thが実は9th)と言う設定の存在から (テロと宗教は実は変わらない)事が判明するのである つまり(何か)の違いが原因で扱いが違うことが判明するのである ここまでの情報から導き出される答えはこうである (恐怖の布教)が(テロの定義)で(安心の布教)が(宗教の定義)だと言うことである これがテロと宗教の違いなのである | ||||
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