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北の詩人
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【この小説が収録されている参考書籍】
北の詩人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.79pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全10件 1~10 1/1ページ
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日帝から米国への権力移行で激動する朝鮮社会-結核の死に怯える詩人はどう生きたか、自分だったらどうするか? | ||||
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実在した朝鮮の詩人林和を主人公とした松本清張の作品。清張は、そのときは些細とすら思えないような出来事が、強大なボタンの掛け違いとなって、後々に、当人や周囲、社会を翻弄させていく展開を記述するのが非常にうまい。 人間の主体的な決断を悲劇的な結果として裁断してしまい、決断した人物を翻弄して、逃げ道を与えない清張の筆致は人間精神や社会というものの襞をよく捉えているともいえるし、清張自身がどこかルサンチマン的で、人間の運命をそのように描いてしまうのかなとも思う。清張自身は非常に遅咲きの作家であるし、天衣無縫且つ陽性な人物では無かったんだなという推測は、折々の清張作品を読むと、より一層に強まる。 「北の詩人」の舞台は主に日帝支配からのくびきが外れた戦後すぐの朝鮮半島が舞台ではあるが、実はくびきの状況下に置かれた人間は日帝なら日帝が消え去っても、その残滓に苦悶せざるを得ない。そしてその残滓は現在や未来をも束縛する。実に息苦しい。 残滓にはより陽性で明るいものもあるはずだが、清張は陰性な面をいつも掬い取る。果たして本作もそうであった。 物語のかなり最後の方に北朝鮮政府による林和やその他の人たちに対する判決文が記載される点では、実際に綿密な取材結果に基づいて考察された清張ならではのノンフィクション作品の赴きもあるように思えるが、本作はあくまでも清張ならではのニヒルな人間や社会観察に基づく、フィクションとしての小説である。 ※私が読んだのは旧版本なので、内容に相違のある可能性があることをご承知おきたい | ||||
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朝鮮のプロレタリア詩人・林和(リムファ)の人生を描きます。 一九四五年、日本が敗れ、日韓併合の時代が終わる。いよいよ朝鮮民族独立の機運が盛りあがりかけたのもつかの間、半島は北緯三八度線で南北に分断されてしまいます。 林和は南のソウル(京城)を舞台に、朝鮮文学の再興にむけて力を尽くす。しかし、アメリカ軍政の厳しいしめつけにあい、一九四七年、北へと向かう(=越北)。 朝鮮戦争が始まったのは一九五〇年。休戦は一九五三年。その直後、林和は北朝鮮で粛清されてしまうのです。アメリカ諜報機関のスパイとされて……。 小説は、日本の敗戦から越北までの日々を描きます。ほんの2年ちょっとの期間です。北でどのように過ごしたかの記述はありません。 その代わり末尾には、北朝鮮の軍事法廷における裁判記録が掲載されている。林和のように、南から来たプロレタリアートたちは、朝鮮戦争のとき、南の米韓軍と戦いました。それなのに、休戦となるやいなや、金日成(キムイルソン)は彼らを容赦なく死刑にしてしまうのです。 そもそも『北の詩人』という作品の構成が、なんだか中途半端です。北に渡った林和の暮らしと心の風景も、少しは書いてほしかった(資料が無かったんだとは思いますが……)。死刑判決の裁判記録をのせて終わりにするのは、味気ない。清張さんは、なぜこのような作品を書いたのか。 『北の詩人』は「中央公論」に連載されました。一九六二年一月号から翌年の三月号まで。 一九六二年は、映画「キューポラのある街」が公開された年でもあります。若々しく、はつらつとした吉永小百合が印象的でした。 あの映画の最後には、北朝鮮へと渡る人たちの姿が描かれます。当時、そこは「地上の楽園」とうたわれ、みんなわくわくしながら北へと向かったのでした。地獄の生活が待っているとも知らずに……。 在日朝鮮人の帰還事業を「キューポラのある街」は肯定的に描いています。日本共産党のみならず、保守政党もこの帰還事業を後押しした。 帰還にあたり、朝鮮総連は、持参金は一人四万円までとした。残りは全部、朝鮮総連に寄付をさせたという。アコギなやり方です。 いま(二〇二二年)、旧統一教会の問題が世間を騒がせています。多額の献金をさせられて、生活が破綻してしまった人も後をたたないという。ふりかえってみれば、朝鮮総連のやり方に対抗したかったのかもしれません。どっちもどっち、というほかありません。 ことし、「スープとイデオロギー」というドキュメンタリー映画が公開されました。監督はヤン・ヨンヒさん。彼女には三人の兄がいた。大阪に住む母親は帰還事業に賛同して、三人とも北朝鮮に送ったそうです。その後も仕送りを続けた。監督は内心で、そんな母を非難し続けてきました。その母がアルツハイマー病をわずらい、語り出したのは「済州島四・三事件」だった。 一九四八年四月三日、済州島では韓国軍・警察による島民虐殺事件が起きました。母はその被害者だったのです。それゆえ南を恨み、北にあこがれた……。北緯三八度線の悲劇、帰還事業の悲惨は、今日なお尾を引いている。 「地上の楽園」という宣伝文句にのせられて北へ渡った人たちを、浅はかだったとして、嗤(わら)うことはできません。後世のわたしたちがくだす判定とは、後出しジャンケンのようなもの。その時代の渦中で苦しみ、迷い、懸命に生きようとしていた人びとの思いを、軽々に論じることはできません。 『北の詩人』の林和は、プロレタリア詩人と呼ばれます。しかし清張さんはこの小説で、彼の抒情性を浮き彫りにしています。 「林和には、戦闘的な詩がつくれなかった。ほかの詩人のように、野放図に闘争をうたい、革命の情熱を駆り立てる詩がどうしてもできなかった。……そのような詩を書こうとすると、先に同胞の貧しい牧歌的な姿が浮かんでくるのだ」(文庫本二四一ページ) 「――ああ、哀しくも、美しい詩を書きたい。暗鬱な弱者の詩(うた)を作りたい。運命的な人生と自然を見つめて瞑想したい。怒号するような詩は自分の得手でなかった。心に沁み通るような低い音色を自分は愛している」(同二六八ページ) 階級文学(プロレタリア文学)と民族文学の対立は、半島の北と南の対立を映していた。しかし林和は、そうした対立を哀しんだ。ソ連とアメリカの思惑を超えて、半島の人びとをひとつにしたかった。それが越北の理由ではなかったか、と感じました。 その林和を、北は無惨にも処刑したのです。 北朝鮮への帰国事業は一九五九年に始まり、一九八四年まで続きました。約九万三〇〇〇人が渡ったということです。 『北の詩人』連載当時は、帰還事業の危うさなど語られることはなかった。しかし清張さんは、その危うさを予感して、この作品を書いたのではないでしょうか。 北と南の権力のはざまに揺れて、ひとり苦悩した詩人に寄り添うような、清張さんのひそかな思いのこもる作品であると感じました。 | ||||
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本書は 松本清張(1909-1992)による 『松本清張全集17』(文藝春秋 1974) です。次の3篇が収められています。 「北の詩人」(1964 中央公論社) 「象徴の設計」(1976 文藝春秋) 「小説帝銀事件」(1959 文藝春秋) ここでは 「象徴の設計」について述べます。 タイトルから内容の推測がつきにくいと 思いますが、これは 山縣有朋(1838-1922)の小伝です。 ただし一生にわたるものではなく 「軍人勅諭」を制定したころを中心に 描いています。 「軍人勅諭」を制定することによって 天皇制を強固にしていく過程が 「象徴の設計」 というタイトルに暗示されています。 また見方を変えれば 山縣の評伝であると同時に 明治10年代記・20年代記とも言えます。 自由民権運動が次第に高まるのと同時に それを上回る速度と量と質で 弾圧していく過程を描いています。 いま私の手元に小冊子 『詔勅集』(財団法人偕行社)があります。 その2ページから17ページまでが 「陸海軍人ニ賜ハリタル勅諭」 (明治十五年一月四日)です。 いわゆる「軍人勅諭」(1882)のことです。 この16ページにわたる勅諭は 旧漢字+万葉仮名で書かれています。 総ルビが振ってありますが 万葉仮名に慣れていないと 読みにくいかもしれません。 他の勅語が漢文調であるのに比べると 国文調(古文調)であるのが特徴です。 (個人的には漢文調のほうがまだしも 理解しやすく暗記しやすいです) はじめの6ページが前文です。 前文においては 神武天皇から始まり 大友氏・物部氏を経て 2500年あまりの兵制の沿革について くどくど述べます。 (神話と歴史の境界や 2500年の根拠についてはここでは 触れずに内容の紹介にとどめます) 後半は 一定の年齢以上の方 (つまり軍隊に行かれた方)なら覚えて いるかもしれませんが 有名な5つの本分を述べます。 一 軍人は忠節を尽すを本分とすべし 一 軍人は礼儀を正くすべし 一 軍人は武勇を尚ぶべし 一 軍人は信義を重んずべし 一 軍人は質素を旨とすべし もちろん原文は上述の通り テニヲハは万葉仮名ですし ひとつひとつの項目を 敷衍する内容がついていますから 後半が10ページに及びます。 陸海軍の兵は「軍人勅諭」を暗記させられました。 上述の通りいわゆる教科書版で16ページ しかも万葉仮名の古文調ですから あまりリズムが良くありません。 『山本五十六』などの海軍ものや 『きかんしゃ やえもん』 (国語の教科書に掲載)で有名な作家 阿川弘之(1920-2015)は 旧海軍出身ですが 「軍人勅諭」を覚えさせられ 覚えましたけれどネ‥‥と 丸暗記させることに批判的でした。 山縣有朋が 「軍人勅諭」を制定した 直接の原因は 1878(明治11)年8月23日の 「竹橋事件」です。これは 西南戦争に対する論功行賞をめぐる不満から 近衛砲兵第一大隊が起こした反乱です。 背景に自由民権運動の影響があったと 考える人もいます。 陸軍卿だった山縣は事件直後に 「軍人訓戒」を出しますが それでは不十分と考えます。 そして参謀本部長になった山縣は 西周(1829-1897)に起草させて 天皇から陸海軍人に賜る言葉 つまり勅語というかたちで 「軍人勅諭」を制定しました。 庶民を描くことが多い松本清張ですが 「設計の象徴」においてはめずらしく 弾圧する側・反動の側から その手法と考えをあぶり出しています。 小説としては 決して面白おかしく読めるわけでもなく ストーリーが卓抜なわけでもありません。 資料を読むようなつもりで ゆっくり丁寧にお読みいただければ幸いです。 「象徴の設計」はおおむね 1887(明治20)年ころまでを描いています。 このあと 1889(明治22)年12月24日 山縣は首相になります。 これより先 黒田清隆(1840-1900)が首相だった 1889(明治22)年2月11日 帝国憲法が発布されていました。 第1回帝国議会が開かれるのは 1890(明治23)年11月29日ですが その直前 1890(明治23)年10月30日 「教育ニ関スル勅語」 いわゆる「教育勅語」が発布されます。 これは首相であった山縣有朋の主導で 井上毅(1844-1895)らの起草で 本文315字で漢文調です。 ①「軍人訓戒」(1878 M11)陸軍卿 ②「軍人勅諭」(1882 M15)参謀本部長 ③「教育勅語」(1890 M23)首相 と3つ並べてみますと いずれも山縣有朋が制定しています。 手元の『詔勅集』で「教育勅語」は 18ページから19ページの 見開き2ページに収まっています。 「軍人勅諭」に比べると短いのが特徴です。 「教育勅語」の要点は 「一旦緩急あれば義勇公に奉じ 以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」 (原文のテニヲハはカタカナで 旧仮名遣いです) であり具体的にはその前半の 「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」 がアルファでありオメガです。 「教育勅語」は 「教育に関する勅語」ですが よく読んでみると あまり教育には言及されていません。 「学を修め業を習い 以て知能を啓発し」とはありますが 抽象的な内容に終始します。 それよりも一日一善みたいな 「夫婦相和し朋友相信じ」などの 余計なお世話みたいな小言が続きます。 もし本当に「教育」を説くのであれば 「英語を身につけよ」 (明治の時点では英語はまだ 敵性言語ではありません)とか 「数学を勉強しろ」とか 「二宮金次郎にように勉強すべし」 「電子計算機(コンピュータ)に習熟しろ」 などに相当する具体的項目があっても 不思議ではありません。 それらが一切なく 「親孝行しろ」 など小言幸兵衛のようなセリフが続きます (三流四流の儒学者でも言いません)。 何回も繰り返して読むうちに これは教育に関する内容ではない と思うようになりました。 結局 「一旦緩急あれば義勇公に奉ずべし」 のひとことが言いたかっただけなのに それを隠蔽ないし希薄化するために 前後に一日一善のような修飾を ほどこしたと考えられます。 逆に 「一旦緩急あれば義勇公に奉ずべし」 を核心とするこの勅語は 臣民(国民)に対する「軍人勅諭」と 理解すると納得が行きます。 つまり「教育勅語」とは 山縣による「臣民版 軍人勅諭」 であると私は考えています。 著者の松本清張には 「軍人勅諭」の制定で終わらずに 「教育勅語」制定の裏舞台を 弾圧する側から描いてほしかった と思います。 たいへんユニークな作品になったことと 思います。 | ||||
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「・・・ 解放後、外国の軍隊の都合で仮に区切られた三十八度線が、このように朝鮮民族全体を二つに引き裂き、それぞれの人間の運命を決定的にしようとは予想もしなかった・・・」 侵略や戦争に翻弄された詩人の運命は・・・ | ||||
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「・・・解放後、外国の軍隊の都合で仮に区切られた三十八度線が、このように朝鮮民族全体を二つに引き裂き、それぞれの人間の運命を決定的にしようとは予想もしなかった・・・」 侵略や戦争に翻弄された詩人の運命は・・・ | ||||
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北朝鮮は怖い国ですね。今も昔も。北朝鮮を知るための第一級の作品だと思います。 | ||||
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「北の詩人」、「象徴の設計」、「小説帝銀事」の3作品。いずれも大変面白かった。 一般文学通算32作品目の読書完。1973/08/01 | ||||
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これは林和という有名な朝鮮の詩人の生涯を題材にした 小説です。 舞台は植民地から解放された直後のソウル、登場人物は ほとんど韓国人です。 彼は左翼詩人として有名でした。日本留学のときに書いた 「横浜埠頭にて」などの作品が残っています。 朝鮮動乱の混乱の中で越北しましたが、かの地でスパイ 容疑を受け殺されました。 当時周囲から東洋のバレンテイーノと呼ばれたほどの二枚目だったそうです。 とにかくあの松本清張がこういう大変異色な題材の小説を 残していることは記録されるべきです。 小説としての出来も決して悪くありません。 これほど可能性を秘めた小説がなぜ、このように埋もれて いるのでしょうか? | ||||
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これは林和という有名な朝鮮の詩人の生涯を題材にした 小説です。 舞台は植民地から解放された直後のソウル、登場人物は ほとんど韓国人です。 彼は左翼詩人として有名でした。日本留学のときに書いた 「横浜埠頭にて」などの作品が残っています。 朝鮮動乱の混乱の中で越北しましたが、かの地でスパイ 容疑を受け殺されました。当時周囲から東洋のバレンテイーノと呼ばれたほどの二枚目だったそうです。 とにかくあの松本清張がこういう大変異色な題材の小説を 残していることは記録されるべきです。 小説としての出来も決して悪くありません。 これほど可能性を秘めた小説がなぜ、このように埋もれて いるのでしょうか? | ||||
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