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城
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城の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.75pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全83件 61~80 4/5ページ
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私は鬱病である。 最悪の鬱状態の時、眠っては目的地は判っているのにたどり着けない、そう、私の見続ける夢は、この小説そのものであった。 目覚めては倦怠感でなにも出来ない。つらくなって眠れば、そこにはカフカの描いた「城」の世界にはまりこんで行く。そして、後味の悪い悪夢から覚めても現実が悪夢のようにつらい。 薄闇の中を延々と続く城へと続くはずの無い迷宮の中をさまよう。 悪夢だと判っているのに抜け出すことが出来ない。 カフカの描いた「城」は、まさに悪夢そのものである。 | ||||
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人間とは何か。 神が死が宣言され、人間が持つ主体性の確立が喫緊の課題となっていた20世紀前半、 この問いは計り知れない重みを持っていた。 カフカは本書で、「職業」という存在形式を剥ぎ取られた人間には何が残るのか、という観点から、 人間とは何か、という問いへの回答を試みる。 そして、「職業」による存在形式を失った人間は「まるっきりの無」であると喝破。 人間がアプリオリに持つ主体性の完全否定という絶望的な回答を提出する。 同時代の実存主義者サルトルが、人間とは本来なんであるか、という問いに 「人間の本性は存在しない」としつつも、「人間はみずからがつくったところのものになる」 と回答し、人間による自由な主体性創造の余地を残したのとは対照的だ。 職業を離れた状態で、一人の人間としての確固たる主体性を持ち得るか? 現代人にはカフカの絶望的な回答への反駁が求められている。 | ||||
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カフカというと真っ先に『変身』を思い出すかもしれませんが、僕は『城』が一番好きです。カフカの作品で、もっともカフカらしい文体で書かれているからです。 測量師として城から依頼を受けたKだが、なぜか仕事を与えられず、城からも敬遠される。Kは試行錯誤を繰り返す…ただそれだけの話で600ページ以上もあり、なおかつ未完。なんとも奇妙な作品ですが、文体がとても美しいです。『文学も芸術』と言うことを改めて思い知らされます。異常なほどの台詞の長さ、シュールな展開、時たま出てくるカフカ特有の複雑な比喩、登場人物の強烈な個性etc・・・仮にこの作品に結末があったとしても僕は知りたくないです。Kには一生彷徨っていて欲しい・・・そう思ってしまうほど本当に綺麗で鮮麗された文章です。 ちなみにこの作品、『掟』の超ロングバージョン…とまでは言い切れませんが、やはり『変身』『審判』『城』ともにテーマは似てますね。 | ||||
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測量士としての仕事の依頼で村に招かれたKであったが、どうしても目的地の「城」にはたどり着けない。 異邦人であるKは村の中では、測量士という「職業」のアイデンティティーしか持ち得ない。彼は「測量士だからこそ」助手をあてがわれ、 「測量士だからこそ」他人から奇異の視線を浴びる。フリーダはそんなKを唯一、彼だからこそ愛してくれた女であったが、そんな彼女も 実は、酒場の従僕たちの気を引くために、「測量士だからこそ」Kと付き合っていたということが発覚する悲劇。 異邦人である彼は、村人から阻害され、たらい回しにされていく・・・。 この作品は、合理性を追求するがゆえの縦割りにマニュアル化されたはずの城という名の「お役所」が、ささいな連絡の行き違いが発端となって 誤作動を起こし、一人の男の運命を次から次へと翻弄してしまう非合理を生む、というパラドックスも描いている。そしてその「お役所」 という官僚機構とKという一個人は、絶望的な距離によって隔てられている。それは物理的な距離であるのと同時に、Kがあらゆる手を尽 くしても、彼の訴えを訊いてくれるはずの役人「クラム」に会うことができないということでも示されている。村民の訴えを聞くために存 在する組織の末端に位置する役人にさえ、Kは会うことが困難なのである。 さらには、Kはもちろんのこと村民も「お役所」がいったいどのような仕組みで、内部で毎日何が行われているのか、漠然としか知り得ない。 それを知るための唯一の手段は、使者としてお役所に務めているバルナバスからの拙い伝聞だけである。この『城』の中で「お役所」は常に、 具体的な首長という人間の身体をもつことなく、Kや村人に対して不気味でとらえどころのない世界観となって去来する。 『変身』にしろ、この『城』にしろ、カフカ作品で書かれているのは家庭や村落という狭い領域を舞台にしたささいな出来事である。 だがしかし彼の小説の射程は、時空を超えて伏流する普遍的な問題をとらえている。 | ||||
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池内訳をやっと読了。高橋義孝訳よりはこなれた訳文とは思うが、どちらが優れているかはわからない。最近の『カラマーゾフ』などは、明らかに亀山新訳がわかりやすいと思うが、とにかく『城』自体が読みにくい。特に後半は延々と続く対話的な進行がどこに向うのかままならず、正直言ってしんどい。その上、未完というのは、それこそが「不条理」? 保坂和志なら、これこそ小説というだろうが・・・・。 1883年、マルクスが死にカフカが生まれた。 マルクスは「朝には農耕民として、夜には批評家として」云々と一人の人間には本来様々な可能性があり何にでもなることができ、様々な活動を担うべきであるとし、職業人としてのみ規定される人間を開放しようとした。カフカは『城』において職業的な属性にのみ規定され、なおかつその職業からも疎外される人物を描いた。 以上は、これまでよく指摘されてきたことだが、『城』のKはとにかくよくしゃべる。少なくとも測量士であるだけでなく、おしゃべりな話者ではある。『変身』や『審判』といったイメージどおりの「疎外された人間」風の文体は、『城』では最初の4分の1くらいまでであって、それ以降は所謂カフカ的な登場人物とは全然違うことに気付く。対話的なやり取りは相互が大変饒舌だ。しかし、双方の理解ばかりはままならず、常に行き違っている。この点はカフカ的かとも思われるが、それにしても『城』はカフカ作品のなかでも特異なのではないか。 官僚機構の硬直性とか、僻村の閉鎖性とか、なるほどそうしたテーマも見えるかもしれないが、この饒舌性、対話への熱中、相互のディスコミュニケーション、話者自身が話していることと、やっていることの関連が把握できていないような不安定、不確定なあり方、むしろそちらのほうが大いに気になった。 | ||||
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2週間もあれば読める。カミュは“シーシュポスの神話”の中で、“城”では‘日常的なものへの服従が倫理となっている’世界を描いており、‘人間が不条理に忍従する、と、その瞬間から、不条理はもはや不条理ではない’と書いている。“城”は未完に終わっているが、最後の数ページでこの小説の世界は描ききられており、未完という印象は受けない。カミュも‘この作家がかりに最後の数章を書いたとしても、そこで小説全体の統一性が破れるようになるなどとは、とても信じられない’と書いている。英語版にはこの小説の本文に含まれなかった断片、カフカが省略した部分、異なる結末が紹介されており、本文の理解の助けになる。一見、城に描かれた村は、我々の住む社会とは関係のない閉ざされた架空の世界の話のように思われる。ただ、自らが異邦人として社会の何らかの壁に突き当たったことのある人にとっては、同じことが身の回りで容易に起こることだと気がつくのには時間はかからない(カフカの場合はユダヤ人差別が反映されているとする見方もある)。“城”では、異邦人である主人公は村の慣習を身につけようと努力するが、果たせずに、手ひどい非難を浴びる(村の慣習に反したことをしたため)。また、村で尊敬されていた消防団の家族が、その娘が、城の役人からの破廉恥な申し出を断った(これも村の慣習に反する)ことから、一家中が村八分になる逸話がある。これを極めて不条理な、ありえない話と思われた方は、病気療養中に、チャリテーに参加したことが原因で、日本国中から非難された横綱朝青龍の話を思い出すとよい。ここでは、診察した医師の診断書よりも、医師免許のないタレントや作家がくだした仮病という‘診断’が重んじられ、日本の伝統文化の屋台骨を一人で支えて来た大横綱の功績は忘れられてしまう。その意味で“城”に描かれた村は日本の中に実在する。 | ||||
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人によりますが、自分は本を読むとき観客目線で読むことが多いみたいです。 話し手の目線になることも多いです。(結局どっちじゃ) しかし観客席もない。共感できる人もいない。 この物語を棒立ちで眺めていくしかできない。 主人公Kには6割共感できますが。 中盤から物語は会話で進行していきます。 みな論理だてて会話する。かわってます。そして終点がバッッラバラ。同じ話を同じ人物がして。 感情がそれでやっとわかる。 「仕事」が徹底している場所です。 「よそから来た人は気に入らないんです。」と先生はいいます。そりゃそうでしょう。 「城」が気に入らないのではなく、この場所の掟が理解できないのですよ。 この物語を読むと釣りバカ日誌の「はまちゃん&スーさん」の関係が恐ろしくありえない。と思います。 | ||||
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「城」はたいへんおもしろい。これが高校生のときどうして読めなかったか(途中で放り出してしまったのだ)いまならわかる。あの人見知りで陰険で素朴で図々しくかわいらしい村の連中のことを、当時の私はまるで知らなかったからだ。いまは読んでいくほどに村の人たちが自分の知り合いになってゆくし、もともと知り合いだったと思うほどになる。そう、これらのことはみんな「ほんとう」のことだ、あなたのことで私のことだ。 疲れ果てた K がねむくてねむくてたまらずビュルゲルの話を夢うつつで聞くとき、我々もいっしょに海綿の穴に入りこみ、その入り口を縫い閉じるみたいに非現実の現実に入っていくだろう。そしてそこが現実なのか非現実なのか知ろうとする試みなど忘れるだろう。 それにしても、ふたり組の助手は、とても人間とは思われない。なんだろうあいつらは。ぴょこぴょこ無邪気に邪悪にはね回り、さながら二匹のオコジョのよう。助手についてはハネケの映画を観てもそのとおりのふたりだった。カフカがいかに正確にひとつのイメージを描出していたかがうれしく納得される。 | ||||
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通読は容易で2週間あれば十分。カミュは“シーシュポスの神話”の中で、“城”では‘日常的なものへの服従が倫理となっている’世界を描いており、‘人間が不条理に忍従する、と、その瞬間から、不条理はもはや不条理ではない’と書いている。“城”は未完に終わっているが、最後の数ページでこの小説の世界は描ききられており、未完という印象は受けない。カミュも‘この作家がかりに最後の数章を書いたとしても、そこで小説全体の統一性が破れるようになるなどとは、とても信じられない’と書いている。英語版にはこの小説の本文に含まれなかった断片、カフカが省略した部分、異なる結末が紹介されており、本文の理解の助けになるが、この日本語訳にはそれらは含まれていない。一見、城に描かれた村は、我々の住む社会とは関係のない閉ざされた架空の世界の話のように思われる。ただ、自らが異邦人として社会の何らかの壁に突き当たったことのある人にとっては、同じことが身の回りで容易に起こることだと気がつくのには時間はかからない(カフカの場合はユダヤ人差別が反映されているとする見方もある)。城”では、異邦人である主人公は村の慣習を身につけようと努力するが、果たせずに、手ひどい非難を浴びる(村の慣習に反したことをしたため)。また、村で尊敬されていた消防団の家族が、その娘が、城の役人からの破廉恥な申し出を断った(これも村の慣習に反する)ことから、一家中が村八分になる逸話がある。これを極めて不条理な、ありえない話と思われた方は、病気療養中に、チャリテーに参加したことが原因で、日本国中から非難された横綱朝青龍の話を思い出すとよい。ここでは、診察した医師の診断書よりも、医師免許のないタレントや作家がくだした仮病という‘診断’が重んじられ、横綱は出場停止に追い込まれてしまう。その意味で“城”に描かれた不条理な世界は日本の中に実在する。 | ||||
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今まで読んだ文学作品の中では、最も印象深い作品です。普通の小説を読みなれている人にとっては、荒唐無稽なシーンが連続しているように感じると思います。しかしそれは、通常の小説の予定調和に慣れてしまっているからです。アリストテレスの言うように、善人が滅んで悪人が栄える劇は観衆にとって受け入れがたいものでしょう。しかし現実は劇とは違い荒唐無稽なものです。この作品を読んで感じるのは異様な現実感、既視感です。冒頭の景色からして、自分の最も古い思い出したくない体験がよみがえります。他人の家に招待されたり、部下の仕事振りを見ていたり、仕事の相手から仕事をもらおうとするそれぞれのシーンが、自分のこととして体験されるのです。「救急車のサイレンで悪夢から目が覚めた」というリアリズムに毒されている人には理解できないでしょう。本当の体験とは「目が覚めた」から始まるのです。荒唐無稽なことを荒唐無稽なまま思わせぶり書いている村上春樹とはレベルが違います。現実をこれほど痛く感じてきたカフカという人間は不幸な人間だったのでしょう。最もカフカに近いと感じるのは「ねじ式」を描いたつげ義春です。 | ||||
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「変身」もよかったが、この「城」はさらにすごい。もちろん、これは政治の話ではないし、お役所批判の話ではない。「城」の話だ。 小説を読んでいると、文章に埋め込まれたへんな回路が発動して、変な気持ちになってくるときがある。僕はその部分が本当の「小説」だと思っている。で、カフカの「城」のすごいところは、もうあちこちにまんべんなくその回路がしかけてあって、読んでいて常にへんな気持ちでいられる。なんなんだこれは、と常にぞわぞわした気持ちを味あわされる、まったくおそろしい小説である。特に助手が役割から解放されたことでの豹変、フリーダの裏切り(?)、最後のほうのおかみの服に関するまったく意味のわからないやり取り。 間違いなく歴史上の文学の中でも最高峰の作品だ。 | ||||
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カフカの最長の作品で最も寓話性の高い作品。測量士として村にやって来たK。しかし、仕事はないし、肝心の目的地"城"にはどうやっても辿り着けない。村で起こる全ての事は"城"から指令が出ているようなのだが...。Kは最後まで"城"に辿り着けない。読者はKと共に物語の周りで彷徨うだけだ。 寓話性があまりにも高いので様々な解釈が可能だが、一般にはKに象徴される人間の孤独を表現したものとされる。"城"はこの世を操る何者かで、現実社会を考えれば政府のようなものが想定される。反体制作家としてのカフカを考えれば、政治に翻弄される民衆の無力と孤独を描いたものと解せる。自分自身を振り返っても、毎日何のために生きているのか分からなくなる事がある。もし知らず知らずのうちに誰かの意志で動かされているかと思うと怖い。 その他、様々な解釈が可能であり、寓話性作家カフカの本領を発揮した傑作と言える。 | ||||
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日常でも時々この「城」に登場する測量師のような気分になることがある。 この仕事は何のためにしているのだろうか? 決定は誰がしているのだろうか? 指令は誰から来ているのだろうか? 自分は本当に測量師(私の場合はSE)なのだろうか? そしてそれらの問いに答えてくれる人など決して現れてくれない。 この小説は音楽で言えばジャズとプログレの混ざり合ったもののように聴こえる。 どこへ行くのだろうか?何が待っているのだろうか?その場その場での和音に整合性はあるが、どこを歩いているのか?どちらが北か南か?自分はどちらから来たのだったか?さっぱりわからない。 読み終えて初めてこれが未完だったということを知ったが、未完であったことなどどうでもいいと思った。あのままストーリが続いていったとしても、どこで終わっても未完だっただろう。 1週間で読み終えたと知人に話したらそれは早いと驚かれたが、日常が「城」のようなことを自覚しているので、「別に1週間で読めるやろ」と思った。 逆にこの小説がとらえどころがないと感じるならば、「城」から指令がこなかった自分自身に幸せを感じてみてはどうだろう。 | ||||
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「城」は1回読んでスゴク面白いと思った。でも何回も読む気になれないのはなぜだろう。 読者は「K」とともに、城の周りを期待を込めてウロツキながら、ページをめくっていく。そうして永遠に核心に近づけない悪夢のようなこの物語の寓意を、「K」の徒労の数々から悟るわけで、そのとき初めてこの物語の面白さを知るのであろう。カフカ自身が「この物語は永遠に書き続けられる」というようなことを言っていたように永遠の徒労がこの物語の核である以上、スタート地点からほとんど進んでいない「K」のスタート地点に再び戻る気にはなれないのだ。 社会の中の人間の日常を見事に形象化させ、現代を抽象化した物語の傑作である。 | ||||
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フランツ・カフカといえば変身が有名だろう。 しかしカフカでもっとも面白い作品はこの城だと思う。 測量士として城に雇われた主人公K(カフカの本に出てくる主人公はすべてカフカ自身をモデルにしている)は、城のある街までやってくるのだがいつまでたっても城にはたどり着けない。 Kが城に近づこうとすればするほど城へたどり着けなくなる。 Kの中の測量士という誇りも努力も何もかもが不条理に城という概念によって消されてしまう、、 1度目はわけがわからない 2度目はなにが言いたいんだろうと思い 3度目に味が出る そんな作品です | ||||
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ある町に測量師として雇われて赴任してきたはずのKは、そんな職などないことを宣言され、村中の何もかもから翻弄されるような毎日を送るようになる。すべての指示は城から出ているようなのに、城に近づくこともできなければ、城の人間と話すこともできない。目に見えないヒエラルキー、タブー、暗黙のルールにしたがって行動する村民たち。その中においてKはまさに異物である・・・。 Kの測量師、つまり外から観察する人、という職業の設定がすでにKの存在の危うさを暗示しています。そんな職業を持つ人間が存在するということ自体がすでに何かの間違いなわけです。必要なのは、システムに組み込まれ、働く人であり、見るだけの人など不要なのです。複雑な生い立ちをもちアウトサイダーとして生きることを宿命づけられたカフカ自身の、共同体のシステムに入り込めないことによる悲劇、孤独、疎外感のようなものが、Kというキャラクターを通して体現されているようです。 私的なことはあまり描かれず、すべての登場人物がその職業を通して規定されているというのも現代的です。職業のないものは限りなく無に近い。高度にシステム化された社会における、そんな思想が反映されているようです。何もかもが整理され、すべてがシステム化されていく20世紀初頭の世相を反映してか、硬直したシステムがもたらすであろう暗い未来を見据える視点に、この本の現代的意義があるように思えます。人間が作ったはずのシステムのもつ逆説的な非人間性を喝破しているのが本書ではないでしょうか。 | ||||
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カフカの代表作のひとつだが『変身』や『審判』と同じく、根底にあるのは不条理でしょう。どう力を尽くしても目的地にたどり着けないというストーリーは、読んでいても疲労を覚えます。さらに物語は唐突に終了。わざと完成させていないわけではないのですが、この作品はある意味、未完であるがゆえに完成しているともいえるでしょう。その妙な読後感はカフカならでは。個人的には『流刑地にて』『判決』といった短編のほうが好きなのですが。 | ||||
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寒い夜、旅人Kはある村で宿を請うが、「村人以外は宿泊できない」と追い出されかける。そこで、Kはとっさの嘘をつく「城に雇われた測量士だ」。村人は城に問い合わせる、「嘘がばれる、追い出される」Kはあきらめていた、しかし城の答えは"Yes"。「確かに彼は我々の雇った"永遠の測量士"だ」 Kは思った「確かに今はお前(城)が上手だ。だけど、そんな余裕がいつまで持つかな?」 こうして、Kと城の関係が始まった。 Kはひたすらに城を目指して頑張ります。そして城は徹底的にKを拒みます。 なんで? Kに村にとどまる許可を与えたのは城。Kが城を求めるよう仕向けたのも城。だけど、城はKを拒否するためだけに、存在を認めたかのように、Kが城に近づくのを阻みます。村から追い出すほど異質ではない、城に入れるほど同じでもない。Kの存在は何? 周りから奇異の目で見られながらも、Kはいつかは城に入れるものだと信じ、(傍から見れば)空しい努力を続けます。そしてどんどん泥沼の中にはまっていきます。 しんどい本です、だってKがかわいそう過ぎるんだもん。つらくなるし、イラつくし。Kに言いたいことは「頑張れ」じゃなくて「もうやめれば?」。―最初っから無駄だったの、無理だったの、無謀だったの。もう忘れて眠ってしまえば。 こんな気持ちにさせる本なんて、しんどいでしょ? けど、それでも読まずにはおれず、考えずにはいられません。Kとは?城とは?この本の意味とは?何一つ、回答をくれないと解ってるのに、それでも答えを探してしまう。捉えどころの無い不安、こんな気持ちにさせられるのできっとすごい本なんだと思う。 | ||||
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目的が無ければ努力の必要もありません。目的があり、そこにたどり着きたいと思えばこそ努力がなされます。 この場合もっとも悲惨なのは、「目的に向かって努力しても、永遠に報われない」ことを宣告されることだと思います。 「目標はある。しかし道は存在しない」このカフカの言葉がどんなに辛い意味を持っているのか、また 「存在を否定されること」が、人間にどんな結果を及ぼすのか、を表わしているのがこの小説だと思います。 全編から、暗く冷たい印象を受けます。 昔最初にこの小説を読んだとき、「なんだろう、これは?」と思いました。 「存在」ってどういうことなんだろう?と思いました。 しかし後年「マルクス」をかじって、ぼんやりとわかったような気がしました。 職業以外に人間としての存在形式がないのです。つまり「仕事」に就いていなければ「その人の存在」は 無いということでしょう。 そして、「存在」とは「所属」なのですから、どこにも所属していない存在はありえないということ なのでしょう。 そして、カフカも「存在のない、疎外された存在」だったのでしょう。 カフカもマルクスもユダヤ人でした。これは偶然でしょうか? もちろん、この「城」には他に、(フロイトの)心理学的な解釈など、他の考え方もあるようですが・・・ この本の解説は必ず読むべきだと思います。しかし、この解説が冷戦中に書かれたことは 念頭に置く必要があると思います。 冷戦は終わりましたが、ユダヤ人問題は確実に世界に危機を与えていると思います。 | ||||
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ラビリンスワールド。「あなたは、誠実というものがどんなものかご存知ないのよ」「人の好意を受けることに慣れてしまうことはそれほど難しいことじゃない」「たとえ救済がやってこないとしても、いつ何時でも救済にふさわしい人間になりたい」 | ||||
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