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決壊
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決壊の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.83pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全75件 21~40 2/4ページ
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アンチ・ドストエフスキー文學の傑作である。 神が死んだことでドストエフスキーも死んだからだ。 ミステリ的構造をもつ巨篇である。厳密には純文学作品だ。ゆえに、最小限のネタバレは御容赦いただきたい。無論、あらすじがわかっていても面白い物語こそ偉大である。中心人物は弟沢野良介と兄沢野崇および悪魔だ。弟沢野良介はばらばら遺体として発見される。兄沢野崇は事件当時、恋人と密会していたことから悲劇にまきこまれてゆく。一見、ひとつの殺人事件をめぐる単純なるドラマだ。後半におよぶと、弟沢野良介の悲劇を濫觴として、連続殺人事件、模倣犯による連鎖的殺人、悪魔による都内同時多発テロというように、純文学でえがけるかぎりの壮大さをみせてゆく。 我我読者は、ドストエフスキーの模倣だと錯覚する。 たしかに形式上はドストエフスキー的だ。物語の前半で、ドストエフスキー的に、精緻に登場人物のプロフィール=横顔がえがかれる。後半で一気呵成に事件を叙述してゆく。上巻では、一見、無理矢理に挿入したドストエフスキー的議論がふたつなされる。一方は、あきらかに形而下学と形而上学の対比の問題として物語につながっている。一方は、パクス・アメリカーナ対イスラム原理主義の対峙に託した善悪の問題として物語につながる。なによりも、クライマックスとなる悪魔の動画で物語られる『神』についての議論は、一見して、ドストエフスキー文學における犯罪者の独白にそっくりだ。そのうえで、実際には、根本的に、本作はドストエフスキーと対極的だといいたい。 神の死んだのちにドストエフスキーの倫理は通用しないからだ。 二〇〇〇年代の文壇では、しきりに『ドストエフスキー文學のポリフォニー(多声音楽)性』という論点が話題になっていた。本作も、たくさんの人物が登場して会話や議論をする。ドストエフスキー文學と相違するのは、家族や親友と対照的に、『社会的な会話のほとんどがうわすべり』だということだ。多声だが音楽になっていない。なかんずく、『なんでひとを殺してはいけないのか』『自分が殺されてもいいのならひとを殺してもいいのか』と尋問する少年に、大人たちが『だれひとりとして』核心的なこたえをだせないのは致命的である。すべては偽善で、欺瞞で、金儲けのこたえでしかなかった。 ドストエフスキーならば、神学によってこたえをだしただろう。 柄谷行人は『明治維新によりインテリゲンチャとしての武士たちが武士道というアイデンティティを喪失したことから、おおくが基督教徒に転向し、これが日本人の道徳観になった』と論じていた(『日本近代文学の起源』第三版)。実際の宗教は問わず、日本人にとっての道徳とは基督教である。『なぜひとを殺してはならないのか』という問題に、日本人は無意識的にせよ旧訳聖書にそう書かれているから殺してはならないという信仰でこたえるしかない。実際に言葉にすれば、『殺してはいけないから殺してはいけない』となる。 これは、あながちまちがってはいない。 証左として、基督教徒である佐藤優は『トートロジー(同語反復)がトートロジーだからただしいというかんがえは、基督教徒でなければ理解しがたい』とのべている(《群像》2019年5月号)。無論、このこたえで現実の日本人に『ひとを殺してはいけない』と納得せしめることはできない。ドストエフスキーには可能だったろうが、平野啓一郎にはできない。 『神は死んだ』のだからだ。 小林秀雄は『「白痴」についてⅡ』を発表したのち『基督教を理解できなければドストエフスキーを理解できない』という諦念により、ドストエフスキー研究から日本古典文學研究へと転向した(「小林批評のクリティカル・ポイント」山城むつみ)。平野啓一郎もおなじだ。批評家ではなく『小説家』として、初期の題材とした基督教から転向し、『神の死んだあとのドストエフスキー』になろうとした。神が死んだあとの小説家というだけでも、ドストエフスキーと平野啓一郎は対極的だ。 ドストエフスキーの倫理は、悪魔によって蹂躙される 悪魔はいう。『神なんていない』『幸福こそ現代の神だ』と。悪魔は『不幸』だった。沢野良介は『幸福』だった。だから、殺人事件がおこった。悪魔も沢野良介も共通している。『なぜだろう』とおもうのだ。『なぜおれは不幸なのだろう』『なぜおれは幸福なのだろう』と。『この一枚の薄紙にして巨大なる壁』がふたりを乖離させた。 沢野良介は神によってではなく悪魔と対峙する。 悪魔は沢野良介にいう。『不幸だといえ』『不幸だといえば生かしてやる』と。沢野良介は本作のクライマックスであろう《愛のさけび》によって結果、殺される。たしかに『沢野良介の肉軆』は殺された。同時に、《愛のさけび》によって『沢野良介のこころは殺されなかった』のである。『沢野良介は殺されたが負けなかった』。『悪魔に勝った』のだ。 悪魔はいった。 『幸福は遺伝と環境できまる』と。『自分はシステムのバグなのだ』と。『だからおまえを殺すのだ』と。このくだりはほとんどゲーデルの不完全性定理である。『いかなる論理システムにもかならずゲーデル命題が存在するがゆえに不完全』なのだ。 神でなければ救えない致命的なエラーだ。 沢野崇は『すべては遺伝と環境による』と悪魔の言葉を諒承する。沢野崇は『肉軆は殺されなかった』ものの『こころは殺された』。沢野崇は『悪魔に勝てなかった』『悪魔に負けて』しまった。沢野崇は最終的に発狂(ストレスによる統合失調症の陽性症状を発症)する(個人的な統合失調症体験からだが、此処の描写は非常にリアルである)。 沢野崇が悪魔に勝てなかったのは『なぜだろう』。 終盤、兄沢野崇は弟沢野良介の端末に電子メールをおくる。『Permanent fatal errors(永続的な致命的なエラーです)』と自動返信される。『なぜひとを殺してはいけないのか』という少年の問いに我我が沈黙せざるをえないかぎり致命的なエラーは永続的につづいてゆく。『神』という論拠は死んだのだからだ。 神は死んでも沢野良介の愛は生きていたことが救いだ。 衝撃的で感動的な巨篇といううたい文句はうそではない。 | ||||
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平野啓一郎が〈分人主義〉を創作の前面に掲げる以前の時期の、最後の長編小説。 昨今の無差別殺人テロによってクローズアップされた所謂「拡大自殺」の起こる社会的・心理的背景をテーマにした作品でもある。 「共滅主義」を掲げ、社会的に満たされない人間たちを扇動して無差別テロを引き起こした「悪魔」は、こう嘯く。 「幸せになること」を全てに優先すべき至上命題として発達してきた我々の社会…そのシステムは、致命的なエラーを抱えている。誰もが認めざるをえない〈幸福主義〉、その幸福競争レースを「下りる」ことを選択した「離脱者」たちは、簡単にシステムそのものを覆すことができる…彼らの自身の命をも顧みない破壊行為は、誰にも止めることはできない、と。 確かに、私たちの幸福が、その成否を財力や名声・社会的地位・学歴・性的魅力などで測るものであれば、それは必然的に勝者と敗者を生み出すことになる。そうした社会的富は有限で、誰にでも等しく行き渡るものではないからだ。その敗者の中から「離脱者」が現れるのはもはや確率の問題でしかない。 社会的不平等それ自体は、人類の歴史に常に伴ってきた問題だろう。しかし科学技術の進歩、その大衆化によって、今やごく一般の人間にすぎない「離脱者」が、その破滅的意思を広範囲に発散できる時代が史上初めて到来した。それは昨今の米国や日本国内で散発した無差別殺戮を見ても明らかだ。 「悪魔」によって弟を誘拐・殺害された主人公・沢野崇は、様々な物証・証言から、首謀者の嫌疑を突きつけられる。彼は無実であるものの、長引く拘禁と執拗な尋問に耐えかね、犯人は己の分身なのではないかという妄想に陥りかける。しかし、これは決して只の妄想ではない。「悪魔」の掲げる思想・世界観に共鳴する心は、確かに崇の内にも存在するからだ。 これは、古今東西の思想家を悩ませてきた、古くて新しい問いだ。 「幸福」とは何なのか。すべての人が幸せになれる世界を築くことは可能なのか。 もしも、私たちの幸福が、現在の〈幸福主義〉のようなものでしか「ありえない」ならば、それを目指した社会は必然的に弱者・敗者の犠牲の上に成り立たざるをえなくなる。 「悪魔」によって「不幸せな人間」の代表として選ばれた良介(崇の弟)は、最期に「悪魔」に対してこう答える。自分は、妻を、息子を、この世界を「愛している」。自分は、自分であってそのままで〈幸福〉だ、と。その叫びは、死を目前にしての彼の本心だったのかもしれないが、「悪魔」の凶行を止めるにはあまりにも無力であった。兄の崇も、結局は自分が縋るべき希望を見出すことができずに、その命を自ら断ってしまう。 多くの才能と優れた容姿に恵まれながらも、信じる何物をも持たず、虚無主義に取り憑かれて滅びに向かうその深刻な人間像は、ドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンを思わせる(彼も、虚無主義の象徴たる「悪魔」を幻覚に見ていた)。 かつての思想家たちは、ある者はストア主義の哲学者のように克己と心の平安の内に幸福を求め、ある者は仏陀のように煩悩を断ち切った悟りの境地に幸福を求め、またある者はイエスのように地上を超えた希望と神と共に在ることに、幸福を求めた。 現代の私たちは何を選ぶのか。 科学の進歩によって刷新された新しいストア主義なのか、なお科学では解明されない神秘をも包摂する神への信仰か、それとも富・名声・地位・健康・享楽などの指標によって測られる〈幸福主義〉を肯定し続け、一定の犠牲を容認し続けるのか。 この物語では、沢野良介は「愛」に答えを求め、沢野崇は答えを見つけることができなかった。 救いのない結末だが、古くて新しい問題を、現代の社会問題や時代思潮に則って捉え直した一冊である。 特に犯罪捜査や尋問のシーンで発揮される丹念な取材力、リアリティのある作品世界を構築する緻密な構成力は本作でも健在である。この辺りの筆力は現代でも指折りの作家だと思う。 犯罪を巡る一つの物語と、その底流にある思想的テーマが一つに融合した作風は、全体的にかつての文豪ドストエフスキーを彷彿とさせる。 作者自身の思想的展開・精神性の深さは到底及ばないものの、現代社会の空気や、無差別殺人を取り巻く世間の反応を幅広く、的確に捉えた観察力は注目に値する。 平野啓一郎の「代表作」として、お薦めしてよい。 | ||||
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現代風なテーマを扱っているが、そこにマーケティングは感じられても著者の必然性は感じられない。この人は、結局恋愛小説作家なのだと思う。小説の形式的な構成と堂々巡りの衒学的な独白体をつかってごまかしてはいるが、肝心なところ、ここという一言に到達しえていない。現実の闇、おぞましさに完全に負けていることを自覚すらできないことは、目を覆うばかりの惨劇だが、この作家の衰弱の表れなのか、現代文学の質の低下なのだろうか。ドストエフスキー、永山則夫、ジュネなどすばらしい遺産が文学にはあるのだが。。 | ||||
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平野啓一郎の『決壊』と、イアン・マキューアンの『土曜日』をほぼ同時に読み終えた。平野が芥川賞をとる前年の1998年に、マキューアンはブッカー賞を受賞している。2005年に『土曜日』の初版がイギリスで出版されたとき(邦訳は2007年)、ニューヨークタイムズは「9・11以後、最も優れたフィクション」と絶賛した。『決壊』は、2008年に執筆された。が、その年起きた秋葉原の通り魔事件を髣髴させるということで、話題をよんでいる。この二作、書かれた時期は3年ほどずれているが、驚くほど似通ったテーマが扱われている。それは空気のように私たちを包み込む不安、顕在化する格差の本質、日常あるいは幸福の脆弱性、そしてこれらはすべて「つながっている」ということ。平野はインターネットで「つなげて」みせた。マキューアンは反戦デモという小道具をつかって「つなげて」みせた。ネットも反戦デモも、グローバル化の象徴である。 二つの小説はまた、家族のあいだの、ありふれた確執や連帯をことこまかに書いている点も共通している。そのありふれたやりとりのズレや綻びから、当人たちがまったく知らないところで醸成された悪意や敵意がしのび込んでくる不条理、そして恐怖。『決壊』の冒頭では、主人公、沢野崇の弟が、帰省する列車のなかでふと「なぜだろう……」というなぞめいた疑念の言葉を思い浮かべる。『土曜日』の冒頭では、不眠症気味の主人公、ヘンリー・ペロウンが、明け方、ぼんやり窓の外を眺めていたときに飛行機らしきものが火を噴いて降下するのを目撃してしまい、動揺する。こうして、ふだんは潜在意識のなかに隠れている不安がふと頭をもたげ、物語がすすむに従って輪郭を現し、顔を持ち、そして「文字どおりに」刃物を持って切りかかってくる。それは、『決壊』では劇場型の無差別連続殺人事件のかたちをとり、『土曜日』では、密室の傷害事件として描かれる。事件の「犯人」たちは、可能性を閉ざされ、人生に絶望し、自分らの命をもてあまし、他人の命をもてあそぶ。 『決壊』の連続殺人犯、「悪魔」こと篠原は言う。「多少智恵のある人間は、気がつくものだよ。結局、遺伝と環境の不公平はどうにもならない、と。努力次第で人間は変わる。そんなのは、まったくのでたらめだとね。最初から与えられている人間のようにはなれない。絶対に」。まさにその「環境と遺伝の不公平」を一身に背負っているのが『土曜日』の家宅侵入犯、バクスターである。まだ20代半ばの若者だが、学校はドロップアウト、両親は亡くなっている。父が苦しめられたパーキンソン病を自分も患っているが、まともな治療も受けられない。日々、自分の肉体と精神の自由が奪われていく恐怖に怯えながら、その日暮らしの生活を送っている。まったくの偶然から、篠原やバクスターのような「絶望犯」たちと人生が交差することになったこの小説の主人公たちは、とにかく恵まれている。いい学校を出て(沢野は東京大学)、いい仕事に就き(ぺロウンは脳外科医)、いい家に住み、(沢野は親戚の所有する北青山のマンション、ぺロウンはロンドンの邸宅&フランスの別荘)、そして愛されている(沢野はやたらと女にもてて、ぺロウンは人も羨むような家族に囲まれている)。もちろん、家族も仕事もある大の大人が毎日能天気に過ごしているわけではないが、篠原やバクスターから見れば、彼らの悩みなど「蚊に刺された」程度のものだ。何よりかれらはまだ、「失うもの」を山ほどもっている。失うものさえすべて失った者からしてみれば、彼らの「持てる」悩みなど、単なる暇つぶしのようにしか見えないだろう。 絶望犯たちが恵まれし者たちに刃をつきつけるまでの展開は、二つの小説においてみごとにパラレルだが、その後の展開はかなり異なる。事件にまきこまれた沢野とぺロウンは、犯人に対する憎しみのなかで煩悶する。犯人たちは圧倒的に悪いが、こんなことになってしまったのは「自分のせいでもあるのではないか」と。そしてそれぞれに「オトシマエ」をつける。そのつけかたが沢野とぺロウンでは対照的なのだ。もっとも沢野が直面したのは猟奇的な無差別殺人で、しかも自らが殺人犯と疑われるという異常事態だったのに対し、ぺロウンが遭遇した事件にはそこまでの凶悪性はなかった。というか、そこまで凶悪な事件に発展する一歩手前で免れた。だからオトシマエのつけ方が違うのは当然だ、といってしまえばそれまでだが、たまたま2作品をほぼ同時期に読んでいたので、そういうふうに「もっていった」それぞれの作家の意図はなんだったのかを考えさせられた。 事件を乗り越えたあとのペロウンは自問する。「最低まで落ち込んだみじめな連中の中にも、名門校出身者はいる。職業上、全てを理論的に還元する癖のついているペロウンは、そうした事柄は分子レベルで暗号化されて人格の中の見えないひだや捩れに書き込まれているのだと考えてしまう。生活費を稼げない種類の人間であること、もう一杯の酒を我慢しきれない人間であること、昨日に決心したことを今日は思い出せない人間であること、それらは暗い運命なのだ。いかなる量の社会正義を注入したところで、あらゆる街の公共空間に群れ集う衰弱した人々の軍勢を癒すこともできなければ追い散らすこともできない。では、どうすればいいのか? おなじく事件のあと、沢野は友人に問い詰める。「生物としてのヒトは、絶滅を回避するために、交配を通じて多様性を維持する進化のシステムを採用しているんだろう?その圧倒的に多様な個体が、それぞれに、ありとあらゆる環境の中に投げ込まれる。そうした中で、一個の犯罪が起こったとして、当人の責任なんて、どこにあるんだい?殺された人間は、せいぜいのところ、環境汚染か、システムクラッシュの被害の産物程度にしかみなされないよ。犯罪者なんて存在しない。ただ、犯罪が存在するだけだ。――違う?」 善意も、悪意も、瞬時にしてつながるようになった時代に私たちは生きている。一方で、個人の生活や人生が密に絡み合うほど、そこで起きる出来事の因果関係が限りなくぼやけていく。私たちはいま起こっていることに対して全員責任があるともいえるし、全員責任がないともいえる。そんなぼやけた世界の中で、絶望という底なしの穴があちこちに口をあけて待っている。『土曜日』のペロウンは、穴の淵までは行ったが、そこに落ちることはなかった。『決壊』の沢野は、穴に引き寄せられ、しまいにはひきずりこまれてしまうのだが、800ページ近い物語のどこかで、登場人物の誰かが、少しでも違う行動をとっていれば、最悪の事態が避けられた可能性はある。それは私のせいかもしれない、あれは私だったかもしれない、そういう思いを、「何か」が起こってしまう前に、私たち一人ひとりがかすかにでも持ったならば、そうした思いが繋がって、誰か(あるいは自分自身が)が穴に落ちるのを防ぐセイフティネットになりえるのではないか。少なくとも、そういう希望を持っていたい。(2008年に執筆) | ||||
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登場人物の気持ちの細部まで描写が細かく、共感できる部分はたくさんありました。でも、最終的に救われない気持ちと「なぜ」という疑問が残ったままでした。 | ||||
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表現の豊かさだけをとっても十分満足できますが、ストーリーも面白いです。 | ||||
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リアルな現代日本の状況を描いたミステリー小説としてなら受け入れられたかもしれない作品です。 私が、嫌悪を感じるのは、主人公である崇の存在です。 優等生で人望も厚い人物として、説明されていますが、崇の台詞からは、酷くナルシスティックで面白みの無い人物像しか想像できません。 会話においても、ほとんど相手の話を聞く事がなく、ただ一方的に自分の考えを垂れ流し続けます。 それをただただ、肯定してくれる聞き手が次から次へと登場します。 崇の元には色んな名前の女性が、好意的に何人もやってきます。こんな面白みのない人物の何処に魅力を感じているのか、正直不思議です。 失礼かもしれませんが、崇に好意を抱く女性達にも個性が感じられません。 作品中唯一、面と向かって崇を批判するのは、取り調べを行う警察だけです。マスコミや世間の人々から誹謗される場面もあります。 が、しかし、彼らはすべて愚者として登場するので、まったく力を発揮しません。 故に、崇は反省する事もなく汚れません。 作品は一見、崇の苦悩と葛藤が描かれている風になっていますが、完全なフェイクだと感じました。 彼は最後まで崇のまま、自己中心的な能書きを垂れながら美しく終わっていく。 本の装丁が黒いのは、読者も手を汚すべき!とのことですが、馬鹿にされてるようで、腹が立ちました。 崇の存在が、著者自身の自慰行為を見せつけられているようで、耐えられませんでした。 ほんと、落ち込みました。。。ある意味、スゴいです。。 図書館でお借りした書籍ですので、丁寧に返却いたしますが、所持品だったなら、破り捨てるか、燃やしたいです。。 | ||||
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読み手を物語りに引きずりこむ。 という筆者の意気込みが見事に結実している。 中くらいまで読み進んだところで「すごい、小説だ」と思った。 まるで映画を見ているかのように情景が浮かんでくる箇所がいくつもあり、こころ動かされた。 しかし、殺人に伴った「死」の描写には、そんなものじゃないのでは?という疑念が頭を離れなかったので、後半はやや読みづらい。 「死」が情報として扱われる社会の有り様に対する筆者の問題意識がうかがえる。 衝撃的とも言えるラストシーンは、人の弱さを一見荒々しい仕方で救済する社会の日常を描いているのかもしれない。 | ||||
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作者の代表作の一つと言われているようなので読んでみたが、壮大なクライム・ノベルを 試みて見事に空回りしているというのが、率直な感想だ。 本書で感心した点があるとすれば、上下巻800頁にもわたって、よくもまあこれほどの饒舌を 弄してくるものだということに尽きるが(「ああ、しかし、影という隠喩自体が、既に恣意的だ!」 (上巻p.76)とか、確信犯的な三島もどきの美文が散見されるのには、つい苦笑してしまった)、 「14歳の殺人」やネット上の表層的な人間関係といった、いかにも「現代的」なテーマが数多く 詰め込まれている割には、その饒舌がこちらの心に刺さってくることはなく、どこか紛い物 めいた読後感しか残らなかった。 (★★★以下、物語の核心部分が書いてあるので、未読の方は注意してください★★★) 最大の問題は、テーマを詰め込み過ぎているせいか、一つ一つが未消化に終わっていて、 作品の焦点がどこか曖昧なままであるように思えることだろうか。犯人が語る「思想」は いたずらに饒舌なだけで、ドストエフスキーとは比べるのもおこがましいというレベルでしか ないし、彼がいささかあっさりと自爆して果てた後は、いかにもな悪環境での生い立ちが 簡単に語られるだけで、それ以上、彼の「思想」について真剣に追及される気配もないので、 何か「都合よく出てきて、都合よく消されてしまった、実はどうでもいい人物」という印象が あったことは否めない。 全篇を通じて重点が置かれているのは、犯人よりはむしろ崇の人物像のほうなのだが、 これがまた、いかにも三島作品の主人公めいた紛い物臭い人物で、冷血かと思えば変に 涙もろく、情緒不安定なところもあり、「頭は切れる一方で、それを生かして何事かを成そう とする意欲はなく、しかし複数の女と寝ることには大いに意欲がある」といった、おそらく 意図的に一貫性を欠いた人物設定になっている。(表向きは優秀な公務員だが、下半身に 節操がないという理由で心証を悪くして断罪されるあたりは、ドストエフスキーだけでなく、 『異邦人』のムルソーあたりも念頭に置いているのかもしれない。) どうもこのあたりは、作者が唱えている「分人主義」(詳しく知らないが、人間の人格は個々の 場面ごとに別の現れ方をするもので、それらを無理に一貫性あるものと捉える必要はない、 といったことらしい)そのままの描き方になっているようで、実際に崇自身がそのような主張を 展開する場面もあるのだが、そのことが、彼を作中人物として魅力的で説得力ある存在に しているかといえば、必ずしもそうとは言えないような気がした。また、彼が事件とは無関係に、 終始何事かを深刻に悩み続けている理由も、結局はよくわからないまま終わってしまうのが、 どこか拍子抜けの感があって残念だった。 (ひょっとすると、崇が『カラマーゾフの兄弟』のイワン、犯人がスメルジャコフに相当する存在で、 「崇の無意識裡の指嗾に感応して、犯人が犯行に及んだ」と読んでほしいのかもしれないが、 それもさすがに無理があると言わざるを得ないだろう。) | ||||
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エンターテイメントは物語の結末があり、謎解きがあり、最終的にどんなものになったとしても一定のすっきり感をもたらしてくれる。 そういう意味ではこれはバリバリの純文学である。投げかかるだけ投げかけて、なにも解決しない。 最後に残るのはいやーな気分と、現実の救いのなさだったり。生きてくのが嫌になるような変な示唆だったり。 しかしこれも、小説の醍醐味だと思う。時に登場人物が吐く哲学的で難解な言葉の数々は、物語に巧妙にまぶされると意外にグサリとくる。 人間の幸福に関する独白は秀逸。なるほどと思った。 | ||||
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優れた小説が常にそうであるように、本作も互いに入り組んだ重層構造を有している。それをどのレベルで読み取るかは、読む人の知識と知性によるだろう。ではそれはどのような「重なり合い」であろうか。 先ず表層のレベル1では、猟奇殺人事件が描かれる。ここにはアーチストの壬生が「暴力とは善悪の彼岸ですよ」と評する、悪意に満ちた世界が記される。この次元でおぞましさを感じ、読書を中断してしまう人がいるが、読書の素人だ。 レベル2もこれに続く。ここで書かれるのはちょっとしたきっかけで崩壊する家族、支えにならない夫婦・親子関係である。 レベル3は言葉をめぐる問題だ。言葉は全てを表現できない。逆に言葉が人間をがんじがらめにする。人間存在における言語の限界(つまりロゴス中心主義の限界)が示され、そして言葉に代わるものとしての原初的な感覚「触覚」が浮上する。崇が千津を抱きながら思う。「明らかに官能とは別種の喜び…….ここに自分がいてその傍らに別の人がいる。それはなにか救いのように熱を帯びている」。その反対に、良介と佳枝の距離感は二人の間に肉体的接触がなくなった時から始まったと読める。崇と甥の良太もそうだ。まだ幼くて、思うように言葉を操れない良太は、崇と会うたび、彼に抱きつき、背中によじ登る。この身体による存在確認が「理性で凝り固まっている」崇をどれほど安らげたか。良介が死んだ後の崇の喪失感は、もうこの先良太に抱きつかれることのない寂しさで増大する。 レベル4は分人・全人の問題。現代思想の潮流を知り尽くしている知識人の崇は、ロマン主義的に統一された人間像などは存在しない、人は様々な場において人格を使い分ける、と考える分人主義者だ。それに対し弟の良介は殺される間際まで愛を信ずる全人である。全人と分人の人間存在としての優劣は明らかだ。全人である良介を失った分人の崇に何が残されるのか。崇の自殺はこのレベルで解き明かされなければならない。 最後のレベル5では、カミユのいう「世界の優しい無関心(『異邦人』)」が言及される。例えこの世がどんなにおぞましい世界であっても、誰もが世界の片隅に居場所が用意されているという実感。良介を失った佳枝は感じる。夫がいないという事実の脆さに反して、「彼の気配を何ひとつ留めていないこの世界は、何と瑞々しく、彼女の周囲に充満していることだろう」。そして佳枝には、亡き夫の遺伝子を受け継いだ、アトピー性の喘息を克服しつつある息子良太がいる。人間がこの忌まわしい世界の中でも代々引き継いできた命の継承。それは他の動物の単なる「生」の継承とは異なる、もっと意識的なものだ。人間存在にとってこれが最大の救いと安らぎでなかったら、他に何があるだろう。 平野啓一郎は、世界を透視する眼の確かさに関して、村上春樹に次ぐ日本人のノーベル賞候補作家だと私は固く信じている。是非その才能を使い潰さないように祈る。 | ||||
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あるがままの出来事をあるがまま直視できない人間が居るのだと痛感、自分もその一人であると。 それは勿論 物事の本質を見極める事とは全く別に。 登場人物がありふれていると感じたならおそらくそれは読み手の都合であり、仮にそうでないなら この世の多くは一見つまらないそれでいて一人一人にとってはかけ代えのない時間を生きているのだと思う。 一人一人のある部分共感し 最期まで特定の人物に感情移入することなく読了。 非日常やジェットコースターのようなストーリーを期待し、自分の人生を平凡だと信じて疑わない人にとってはつまらないのかもしれないと思った。 | ||||
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僕はこの小説を読みながら、「どうもドストエフスキーを意識しているのかな?」という印象が読みながら頭から離れなかった。次々に盛り込まれるテーマ、登場人物の過剰なモノローグetctc・・・。読後に他のレビュアーの方のレビューを読んでいたら、実際著者はドストエフスキーのスタイルを意識してこの作品をものしたらしい。だが、僕は上巻から盛り込まれすぎたテーマが後半にどうまとめるのか気になっていた。率直な印象をいうと上巻の完成度が低い。主人公崇の友人や同僚との観念的な芸術論や国際政治論も難解なだけで、主人公の人格描写としてストーリーラインに巧く融合していない。そして前半で家族問題もふくめたテーマを広げすぎた結果、それを下巻でまとめようとしているが、確かに下巻は前半のある意味伏線となったような家族問題らや「悪魔」と称する人間の問題もしっかり構成できている。しかし、一番欠けているのは、ドストエフスキーにみられる登場人物のある意味病的な人格の描写やモノローグにあるような、作品全体を貫く緊張感をたたえた筆力だ。このような多岐にわたるテーマを盛り込んだ場合、読者をひきつけつづけるのは前述した筆力が必須となるし、それがストーリーテリングの核となると思う。残念ながら本作にはそれがない。そのパワーがないと、こういったスタイルの小説は「理に落ちる」結果に終わる。著者の平野啓一郎氏が一切の手抜きなく本作をものしたのはよくわかるし、現代をとらえた大力作であることは間違いない。だが、折々に挿入される特に崇の長セリフのような言葉も盛り込みすぎたテーマに収拾をつけるための「理に落ちる」結果に終わっているような結果にしか見えないし、前述した筆力の欠落からどうも引き付けられない読書となったのが本作の率直な印象だ。 追記・本作発表前に『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス)』という圧倒的におもしろい漫画が発表されているが、平野氏はその作品も意識していたのではないかな・・・。 | ||||
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平野啓一郎を読むのは2作目です。消費されるのではない、咀嚼して呑み込むのに骨が折れるうえ消化しきれないものがいつまでも残るような文学です。現代日本を背景として描かれるのは、文学的主題としてはあまりにも普遍的な「悪」。物語の奥行きと叙述の肌理の細かさとは不均衡に荒削りなところを感じて当初は戸惑いましたが、月刊誌の連載として書かれたことを知って納得しました。遡及的に修正できないという形式もむしろこの物語にはふさわしく、結果としてこれでよかったのだと思います。できれば物語世界にその都度同期するように、連載として読みたかったと思いました。現代をきちんと書こうとする作家に出会えたこと、その誠実さに、救われる思いがしています。その誠実さが、「決壊」で垣間見せた深淵をさらに抉ってみせる決壊後の物語を可能にしてくれることを心から願っています。 | ||||
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それは、礼儀だから。 違う考え方、肉体をもつ人間が共に生きるために用意されているのが、この世界であるかぎり、相手と共存をはかる、それが礼儀だ。 礼儀が死んだのなら、もう殺人は正当化されるだろう。 神の名のもとに、正義の名のもとに国家的に日々繰り返される殺人、それが戦争である。あれが容認されている限り、個人の殺人事件がなくなるわけない。国家や大人のまやかしに否を唱えるある種の決壊なのだから。 悲しい現実であるが、これを打破するためには、個人が自分自身を裁き、治められる資質をもつしかないのではないだろうか? | ||||
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「決壊」に限らず、僕が平野作品を読んでいつも感じることは、登場人物に魅力がないということです。 その理由を考えるに、筆者が作品に対して完全にメタな位置を確保して、自分を脅かすような「他者性」を抱く人物を造形できないという点にあるように思います。それが端的に表れているのが、登場する女性の「薄っぺらさ」でしょう。筆者の人物造形には「人間こんなものだろう」というような侮り、もしくは人生経験の乏しさが現れてしまっています。 筆者の適性は文学より批評なのでしょう。ペラペラと筆者の代弁をする人物が出てくるとそう感じてしまいます。 「臆病な自尊心」を持つ筆者が葛藤の末に通俗性あふれる題材を描ききった点を評価して、虎の子の星三つです。 | ||||
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読後感は、今まで読んだ本の中でかなり上位に入る後味の悪さでした。 といってもつまらないとか読んで損したとかという言う意味ではなくて、全編を通して、なんの希望も、その糸口らしきものさえ見つけられなかったからだと思います。 難しく、咀嚼するのに時間がかかる文章ではありましたが内容は引き付けるものだったし、妙にリアルな展開の先を早く知りたくて、下巻はぶっ続けで読んでしまいましたから、面白いことは面白かったのです。 でも自分はどこかで、そういった希望の類が用意されていることを無意識に期待していたのかもしれません。 おそらく筆者は意図してなんの希望も残さないようにしたのだと思いますが。 あまりの救いのなさに、絶望感だけが残ります。 何となく友人に最近読んで面白かった本としておすすめするのは憚られる。 でもこの本に出会ったことが何の意味もないことだとは思えない、そういう感じがします。 | ||||
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自分の中で、もやもやしていたものが、明確にされたような気がします。現代社会が抱える問題を、うまく理路整然と言語化出来ていると感じました。難しすぎて理解不能なところもありましたが……。 器用で何でも出来てしまう、頭が良すぎて何でも分かってしまう兄の崇。それ故に陥った人生の溝。弟である良介の存在は、ある意味、崇にとって希望だったのかもしれません。 | ||||
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「お台場で自爆テロ」という設定は過激過ぎて現実味が薄いかもしれませんが,「中学生による殺人」や「センセーショナルなマスコミ報道」「警察の横暴」など,今の社会に対してある意味問題提起しまくる作品なので,小説でありながら妙に考えさせられてしまいます。 そして何より印象に残るのが,「沢野家の悲劇」。あまりに切ない。 小説に「ハッピーエンド」や「救い」を求める人は,本書を読まない方がいいと思います。 | ||||
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この作品の『二 沢野崇の帰郷』で崇が幻に向かって喋る場面、そして兄弟の会話の場面は、「崇は『カラマーゾフの兄弟』のイワンを参考にしているのだな」と感じながら面白く読めた。しかし、作品全体を振り返ってみると、ドストエフスキーと比較するのは失礼ではないかと思う。 ドストエフスキーの長編には《キリスト》という大きなテーマがあり、殺人事件はその中で起こるエピソードの一つであった。だが、『決壊』では殺人事件そのものの比重が大きく、ほとんどそれだけを描くに留まっている。もっとも、『四 悪魔』でキリストの話が少し出て来るが、福音書とは無関係の表面的な話であり、作者のキリスト教への関心の低さが伺える。 しかし、詳細な描写によって、読者が作中の出来事をまるで眼の前で見ているかのようにリアルに感じさせる技能は素晴らしいものである。北九州の沢野家・TV番組・インターネット・警察・犯行現場などが迫真の筆力で表され、読者はそこで暗い衝撃を受けるだろう。 だがそれだけでは小説として素晴らしいということにはならない。作者は自分の外にある世の中をリアルに描いているものの、作者の内から溢れ出る情熱を感じられないのが残念だった。勿論、作者は作品に対して徹底的に忠実であろうとして、このように絶望的なストーリーにしたのだろう。だからストーリーへの文句は無いが、これだけの作品を書く際の創作意欲はどこから来たのか、その一端をもっと表してほしかった。この作者の『葬送』は面白かったし、素晴らしい技能を持っていることは本作で再確認できたのだから。 最後に言いたいのは、結末で崇は点字ブロックを跨いだものの、「線路に落ちた」とは書かれていないことだ。よって、崇が死んだとは決まっていない。崇の生死は読者の想像に委ねられている。私が思うに、線路に落ちていたら目線の高さからして運転手の顔など見えないだろう。 | ||||
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