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決壊
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決壊の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.83pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全51件 1~20 1/3ページ
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まだ、上巻をよみおわったばかりです。いじめにあっている少年とバラバラ事件がどう関わりあっていくのか、下巻の展開を読み進めています。 | ||||
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人として、生きて行くなかで経験する事象は一体何であるのか、生物としての人間社会への矛盾を哲学的に裁き切れない人の本質を抉りながら、ワクワクと事件を楽しませてくれました。 | ||||
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「幸福の追求こそが人類最大の、否定できないイデオロギー」と「悪魔」が延べていたと思いますが、この言葉に脳も心も苦しく揺さぶられました。 また、登場人物を通して語られる死刑の意義についての考察も考えさせられました。筆者が死刑反対の立場とは知っていましたが、死刑が罰則になっていないのではないかという疑問が深まりました。 自分は加害者を罰したいのか、生きていて欲しくないのか。そういう感情の峻別がある。身内を殺害された傷を一生背負う被害者遺族を守る制度はこの国にはない。今までそんなことも考えて来なかったので衝撃を受けました。 事件の中で主人公がだんだん狂っていく描写に引きずられそうになりました。 刺激が強すぎて夜勤明けでも眠れませんでした。 | ||||
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深く考えさせられる。上巻のとっかかりは難しく、なかなか読み進めなかったが、わかり始めると話の中にのめり込んで下巻も丁寧に読んだ。せめて崇に生き抜いて欲しかったが、それは単なる傍観者の感想。実際に自分が同じ目に遭っていたら、生きていけるだろうか。心を消耗し尽くしてもなお生き続けることはできないと想う。「遺伝か環境か」。「悪魔」を名のる容疑者の生育歴は悲惨ではあるが、殺してもいいとは思わない。被害者と家族が悉くむに滅茶苦茶にされてしまうが、崇は死刑制度に反対。自ら命を断つことも殺人の一つではないのか。それにしても2002年にここまでネット社会が繁栄していた?と思いながら読んだ。 | ||||
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はた目から見ると何もかもが満たされ、やろうと思えば何でも出来るのに、自分の能力を社会で発揮しないまま生きていると思われている沢野崇。 彼の語る言葉は、奇異にさえ感じるほど文学的で、難しくピンと来ないかのように聞こえるものの、実は聞き手の奥深い場所にまで届くような、ひた向きで真剣な言葉である。 そんな才能に恵まれた人物と思われている沢野崇自身は、その実、 「生そのものの空虚を満たすための欲望を自分で信じられない」 と感じている。 自分の持つ言葉の能力に自覚的であり、その能力を活かせば愛されるべき人間として生きていけることも分かるがゆえ、その行為は功利主義的行為であると考えており、そんな利己的な欲望の中で他者と交わりながら生きていくことにウンザリしている。 「言葉ってのは、不自由にしか使いこなせない時よりも、巧みに易々と使いこなせている時の方が、本当に痛烈に人を裏切るものなんじゃないかって気がする。俺という人間の能力の中で使い物になりそうなものといったら言葉くらいのものだよ。他には何もない。だけど、その唯一の能力が、俺には時々、吐き気がするほど厭わしく感じられるんだよ」 本書は、そんな沢野崇を主軸に、彼の周りで起こる暴力に否応もなく巻き込まれ、精神が疲弊せざるを得ない状況に追い込まれていきます(というか、上記のとおり本書前半からすでに沢野崇が自身の精神の危うさを吐露しているのですが)。 かといって、決して難しく哲学的な作品というわけでなく、特に下巻に入ってからのアクセルをグッと踏み込んだかのような物語の牽引力により、気が付いたら数百ページを一気に読んでいる(外が明るいうちに読み始めた本書、気が付いたら外は真っ暗でした)。これぞページターナー。 純文学でありながら読者を惹きつけて離さないエンタメ的読ませる力があります。 警察での取り調べ場面では、いかにして冤罪が生まれるのかを感じさせ、またマスコミからの一方的な情報を信じて疑うことなく、自分勝手な正義感で突っ走り他人を攻撃する社会の恐ろしさ(SNSの普及により、この現象はますます社会問題化していますよね)に心が震えます。 そして攻撃しまくっていた対象が、実は非難されるべき人間でなかったことが判明したとたん、今まで過激な非難をしていたことなど何もなかったかのごとく、手のひらを返した対応を見せる社会。 また、一旦容疑者と見られてしまうと、後で無実の人間だということが判明しても、完全に救済されることがない(有罪となる徹底的な証拠がなかっただけで本当は有罪だ、と疑っている人間が絶えない)。 本書は、いつ自分自身がそんな攻撃に巻き込まれてもおかしくはない、そんな社会の現実的恐ろしさ感じさせながらも、人間の心って何なんだろう、と考えさせられるとても良質な文学作品です。 平野啓一郎の作品を読むのは『ある男』に続き2冊目でしたが、いずれの作品も読みごたえがあり読後の満足度も高いです。 更に彼の他の作品も読んでみたい、そう思います。 | ||||
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人間の弱さは過去に徹底的に暴き出されているが、現代ではそれは巧妙に隠蔽されている。そして、それ故の愚かさは民主主義のもと、時に権利として正義にさえなる。他人の愚かさは理解できても自らのそれは理解されない。逆に人間の強さは、高潔さではなく脆さ、いかがわしさとして認識されるか、または例外として扱われ共感の対象にはなり得ない。 自分が何者かわからないのは共通しても、その深刻さは人それぞれだ。それは同時に、自分がいかに邪悪かという認識においても当てはまる。 自らにも、そして他者に対しても誠実であろうとするほど自らが悪魔であることを自覚せざるを得ず、他者はその存在を疎ましく思う。自分を保とうとすれば欺瞞に陥り、他者に対して無関心で、ときに平気に傷つけていることに気づけない。しかし、そうでなければ正気を失いかねない。 人生を肯定しようとすれば、その代償を払う羽目に陥り、それを他者は皆、無意識に望む。その死が期待され実現されることは、公然の秘密だ。そしてルサンチマンによって、幸福を語る者は生贄になる。人々の無意識の期待はそれを望んでいる。不幸こそ格好の餌食なのだ。 果たして、我々は地獄に居るのだろうか? | ||||
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テストの流れと問題・解答が全て載ってます。 軽く考えないほうがいいようですが、受かるかどうかは本人次第です。 | ||||
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最後のシーンを読み切ったとき、自分も決壊した!と思いました。人の心の闇を文学としてここまで表現できる著者の力量に、随所で驚かされました。私はいつも読むスピードが遅いのに、こんなに暑い夏なのに、数日で読了して、しびれて、何度も繰り返し読み返しています。 | ||||
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とても早く届き、しかもきれいでした。 ありがとうございます! | ||||
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早くて綺麗でした。 満足です。 | ||||
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ぎりぎりと警察にツメられる崇。しかし、崇は尋常ならざる精神力で「俺はやってない」と言い続ける。 そんななか、ひょんなことから「真犯人」の一人が逮捕される。 そして「離脱者」と称する、ネットで繋がった真犯人も明らかに。 しかし、真犯人の篠原勇治は逮捕される前に自爆テロ。 やがて、篠原の影響を受けた「離脱者」たちが勝手に事件をおこすようになる…。 なんか、中村文則っぽさがあるなぁ、と思いながら読みました。 ただ、ネットで簡単に協力者がみつかったり、篠原が爆弾作ったりとか、そこがすごく違和感あるんですよ。 そんな簡単に爆弾作れないでしょ、と思っちゃうんですよ。 また、貧困と環境が原因で篠原が生まれた、とするのも紋切り型ですし。 「真犯人」のうちの一人友哉の歪みも、母親の過保護からって感じですけど、そんな紋切り型で…とか思っちゃう。 崇とか良介とかの描写に心を砕きすぎて、犯罪者側の描写がおざなりになっているような気がします。 といっても、平野啓一郎さんはとても健全なエリートだから、犯罪者側の心理とか、わからないかもしれません。だから紋切り型なのかも。 また、終わり方も、「えぇ~そういう終わり方しますかぁ…」という脱力系でしたね。 いや、最近読んだ本では突出して面白かったのですが、それ故に、ちょっといやごとを言ってしまいました。 面白い本です。現代という時代を切り取っていると思います。 | ||||
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平野啓一郎さんの本です。 中村文則っぽさがある作品なのですが、むしろ中村文則が平野啓一郎を模倣しているのでしょうね。 東大に行き、将来を嘱望されつつも国会図書館の調査員をしている沢野崇。 その兄に対して劣等感を持ちつつ、平凡な家庭を営む弟良介。 北九州に帰郷したさいに、どうやら父が鬱で、母も疲れ果てているのを知る。 良介は父と母のケアをすることを決意しつつ、しかし兄のことにわだかまりがある。 そんななか、大阪で会うことに。 しかし、崇と良介が大阪で会ったあとに、良介は何者かに惨殺される。 当然、崇が疑われ、警察の執拗な取り調べを受けることに。 上巻は、こんな感じでしたね。 もちろん、真犯人は崇のはずはない。真犯人は、なんというかネットの闇と現代っ子の闇って感じですね(ネタバレを避けている)。 登場人物たちの独白が長く、いささか冗長に感じますし、なんか意味ねえ会話してんなぁ、と思わないところもあるような気がしますが、 それなりに面白いです。 | ||||
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普段意識していないような、無意識のレッテル貼りが自分にもあったんだと最後に気がついた。タイトル通り色々なものが決壊していく。厳しい内容だけど今の日本に実際ある問題が反映されているので、読んでよかった。悪意がある人はほぼ居なくて、それぞれが善意と思ってすれ違っていく様が悲しい。 | ||||
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この作品は小説として、真っ当になりたっています。 それ故、読後に私は自身のメンタルが瓦解しそうになりました。 崇は、この物語に登場してあまり間がないタイミングで、自身の住むマンションのベランダから飛び降りて死ぬまでの数秒と数十年後に死ぬことに何が違うのかと、自問する箇所があります。私はその描写が、読み進めていく間、ずっと通奏低音の様に流れ続けました。 崇の父親が鬱病として描かれていますが、私自身が躁鬱を患っていますので、筆者がよく調べて書き記しているのが、分かりました。 崇は決壊を起こしましたが、取ってつければ色んな理由が該当するのでしょう。 個人の意思を、感情を一言で語ることはできません。 しかし世の中の大勢は、個人をカテゴライズしたがります。それは、未知のものを拒否し、ある場合は恐れ、ある場合は過剰に評価し、ある場合は卑下することに繋がります。崇に関わらず誰もがいろんなものが、ごちゃ混ぜになって、知らず知らずのうちに作り上げられているものです。それは、最早当人の思惑からは遠く離れた場所にあるのかもしれません。 気付いた時には、取り返しのつかない場合もあるでしょう。 私は躁鬱病を患っていると、わざわざ書きました。 同病者や鬱病の方は、この作品は余程調子の良い時でない限り手に取ることは避けた方が賢明かもしれません。 筆者の選んだ単語、その組み合わせ、構成、物語そのものの引力は相当なものです。 私は、自身がぐらついてる時に読み始めたものですから、その引力から離れることが出来ませんでした。 小説を読んで、ここまで打ちのめされたのは初めてでした。 レビューのタイトルに「分からない」と書きましたが、この言葉は、本文中に何度も出てきます。 詰まるところ、この物語が提示しているのは「分からない」ということなんだと思います。 このレビューを読んで下さったあなたの横にいる人のことをどれだけ知っているでしょうか? そして、自分のことをどれだけ知っているでしょうか? | ||||
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「ある男」の戸籍ブローカー小見浦、「マチネの終わりに」の早苗、「空白を満たしなさい」の警備員佐伯。いずれも「悪」を描いているが、主人公に、善し悪しを綯い交ぜに耳打ちし洗脳する佐伯には、特に気味が悪い印象があった。それに比べると、小見浦や早苗はインパクトが弱かった。その後「決壊」を読んだが、そこにあった「悪の表現」には驚いた。「えげつない心理描写と人物描写」に胸が悪くなって途中で本を閉じることもあった。「二、沢野崇の帰郷」では、崇の精神内部が語られ、一般人には理解しがたい思考パターンで、「危ない人」のイメージが頭にこびり付いた。確かこの章は、一日の出来事を約百ページにわたり、ほとんど崇についての表現だったと思う。よくここまで書くもんだなと半ば呆れた。上下巻読んだ今から考えるとこの章が一番辛かったと感じる。 その後「三、秘密の行方」「四、悪魔」「五、決壊」と展開していくが、やはり「四、悪魔」は読み応えがあった。イジメを受けている友哉のやられ方がエグい。こんなことまでするのか?子供のレベルじゃない。しかし、イジメられている友哉の方がもっと「悪」だったと切り返してくるあたりがドキドキした。友哉の歪んだ性癖も興味深かった。自転車のサドル事件とリコーダー擦り付け場面も気味悪い。そして「悪魔」の登場ですが、最初のシーンで阪急梅田駅ビックマン前が出てきたのが個人的に地元でリアルだった。悪魔に友哉が近くのカラオケボックスで、約二時間缶詰にされる場面を、数十ページにわたり表現していて、こんだけよく引っ張れるなぁと唸ってしまった。悪魔は中学生の友哉を洗脳するというよりも、潜在意識を活性化する「言葉」を浴びせ続けたということだろう。 「悪魔によって、人間の悪意を呼び覚ます言葉」「沢野崇の体や心と一致しない言葉」「ネットに浮かぶ無責任な言葉」「テレビや新聞、週刊誌のカメラ目線の正義感をもった言葉」 「決壊」を読み解くキーワードは、「言葉」「悪意」「空虚」「赦し」なのじゃないか。 本作品は三十代前半に書いたもので、表現も尖っている部分もあって良かった。しかし、最近の作品は、なにか「マイルド平野」になってスリルある言葉が少なくなってきているように思える。色んな事情があるかも知れないが「ある男」に続く作品には「少しおくびが出てしまう」「三日くらいうなされる悪」を描いてもらいたい。もちろん、こねくり回した比喩も期待している。白を際立たせるには「黒」が必要だし、善意の裏の「悪意」や、悪意の中の「善性」もリアル感を持たせるには必須だろう。次は「ドーン」を読み進めて行く予定。また分厚いな。 | ||||
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アンチ・ドストエフスキー文學の傑作である。 神が死んだことでドストエフスキーも死んだからだ。 ミステリ的構造をもつ巨篇である。厳密には純文学作品だ。ゆえに、最小限のネタバレは御容赦いただきたい。無論、あらすじがわかっていても面白い物語こそ偉大である。中心人物は弟沢野良介と兄沢野崇および悪魔だ。弟沢野良介はばらばら遺体として発見される。兄沢野崇は事件当時、恋人と密会していたことから悲劇にまきこまれてゆく。一見、ひとつの殺人事件をめぐる単純なるドラマだ。後半におよぶと、弟沢野良介の悲劇を濫觴として、連続殺人事件、模倣犯による連鎖的殺人、悪魔による都内同時多発テロというように、純文学でえがけるかぎりの壮大さをみせてゆく。 我我読者は、ドストエフスキーの模倣だと錯覚する。 たしかに形式上はドストエフスキー的だ。物語の前半で、ドストエフスキー的に、精緻に登場人物のプロフィール=横顔がえがかれる。後半で一気呵成に事件を叙述してゆく。上巻では、一見、無理矢理に挿入したドストエフスキー的議論がふたつなされる。一方は、あきらかに形而下学と形而上学の対比の問題として物語につながっている。一方は、パクス・アメリカーナ対イスラム原理主義の対峙に託した善悪の問題として物語につながる。なによりも、クライマックスとなる悪魔の動画で物語られる『神』についての議論は、一見して、ドストエフスキー文學における犯罪者の独白にそっくりだ。そのうえで、実際には、根本的に、本作はドストエフスキーと対極的だといいたい。 神の死んだのちにドストエフスキーの倫理は通用しないからだ。 二〇〇〇年代の文壇では、しきりに『ドストエフスキー文學のポリフォニー(多声音楽)性』という論点が話題になっていた。本作も、たくさんの人物が登場して会話や議論をする。ドストエフスキー文學と相違するのは、家族や親友と対照的に、『社会的な会話のほとんどがうわすべり』だということだ。多声だが音楽になっていない。なかんずく、『なんでひとを殺してはいけないのか』『自分が殺されてもいいのならひとを殺してもいいのか』と尋問する少年に、大人たちが『だれひとりとして』核心的なこたえをだせないのは致命的である。すべては偽善で、欺瞞で、金儲けのこたえでしかなかった。 ドストエフスキーならば、神学によってこたえをだしただろう。 柄谷行人は『明治維新によりインテリゲンチャとしての武士たちが武士道というアイデンティティを喪失したことから、おおくが基督教徒に転向し、これが日本人の道徳観になった』と論じていた(『日本近代文学の起源』第三版)。実際の宗教は問わず、日本人にとっての道徳とは基督教である。『なぜひとを殺してはならないのか』という問題に、日本人は無意識的にせよ旧訳聖書にそう書かれているから殺してはならないという信仰でこたえるしかない。実際に言葉にすれば、『殺してはいけないから殺してはいけない』となる。 これは、あながちまちがってはいない。 証左として、基督教徒である佐藤優は『トートロジー(同語反復)がトートロジーだからただしいというかんがえは、基督教徒でなければ理解しがたい』とのべている(《群像》2019年5月号)。無論、このこたえで現実の日本人に『ひとを殺してはいけない』と納得せしめることはできない。ドストエフスキーには可能だったろうが、平野啓一郎にはできない。 『神は死んだ』のだからだ。 小林秀雄は『「白痴」についてⅡ』を発表したのち『基督教を理解できなければドストエフスキーを理解できない』という諦念により、ドストエフスキー研究から日本古典文學研究へと転向した(「小林批評のクリティカル・ポイント」山城むつみ)。平野啓一郎もおなじだ。批評家ではなく『小説家』として、初期の題材とした基督教から転向し、『神の死んだあとのドストエフスキー』になろうとした。神が死んだあとの小説家というだけでも、ドストエフスキーと平野啓一郎は対極的だ。 ドストエフスキーの倫理は、悪魔によって蹂躙される 悪魔はいう。『神なんていない』『幸福こそ現代の神だ』と。悪魔は『不幸』だった。沢野良介は『幸福』だった。だから、殺人事件がおこった。悪魔も沢野良介も共通している。『なぜだろう』とおもうのだ。『なぜおれは不幸なのだろう』『なぜおれは幸福なのだろう』と。『この一枚の薄紙にして巨大なる壁』がふたりを乖離させた。 沢野良介は神によってではなく悪魔と対峙する。 悪魔は沢野良介にいう。『不幸だといえ』『不幸だといえば生かしてやる』と。沢野良介は本作のクライマックスであろう《愛のさけび》によって結果、殺される。たしかに『沢野良介の肉軆』は殺された。同時に、《愛のさけび》によって『沢野良介のこころは殺されなかった』のである。『沢野良介は殺されたが負けなかった』。『悪魔に勝った』のだ。 悪魔はいった。 『幸福は遺伝と環境できまる』と。『自分はシステムのバグなのだ』と。『だからおまえを殺すのだ』と。このくだりはほとんどゲーデルの不完全性定理である。『いかなる論理システムにもかならずゲーデル命題が存在するがゆえに不完全』なのだ。 神でなければ救えない致命的なエラーだ。 沢野崇は『すべては遺伝と環境による』と悪魔の言葉を諒承する。沢野崇は『肉軆は殺されなかった』ものの『こころは殺された』。沢野崇は『悪魔に勝てなかった』『悪魔に負けて』しまった。沢野崇は最終的に発狂(ストレスによる統合失調症の陽性症状を発症)する(個人的な統合失調症体験からだが、此処の描写は非常にリアルである)。 沢野崇が悪魔に勝てなかったのは『なぜだろう』。 終盤、兄沢野崇は弟沢野良介の端末に電子メールをおくる。『Permanent fatal errors(永続的な致命的なエラーです)』と自動返信される。『なぜひとを殺してはいけないのか』という少年の問いに我我が沈黙せざるをえないかぎり致命的なエラーは永続的につづいてゆく。『神』という論拠は死んだのだからだ。 神は死んでも沢野良介の愛は生きていたことが救いだ。 衝撃的で感動的な巨篇といううたい文句はうそではない。 | ||||
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平野啓一郎が〈分人主義〉を創作の前面に掲げる以前の時期の、最後の長編小説。 昨今の無差別殺人テロによってクローズアップされた所謂「拡大自殺」の起こる社会的・心理的背景をテーマにした作品でもある。 「共滅主義」を掲げ、社会的に満たされない人間たちを扇動して無差別テロを引き起こした「悪魔」は、こう嘯く。 「幸せになること」を全てに優先すべき至上命題として発達してきた我々の社会…そのシステムは、致命的なエラーを抱えている。誰もが認めざるをえない〈幸福主義〉、その幸福競争レースを「下りる」ことを選択した「離脱者」たちは、簡単にシステムそのものを覆すことができる…彼らの自身の命をも顧みない破壊行為は、誰にも止めることはできない、と。 確かに、私たちの幸福が、その成否を財力や名声・社会的地位・学歴・性的魅力などで測るものであれば、それは必然的に勝者と敗者を生み出すことになる。そうした社会的富は有限で、誰にでも等しく行き渡るものではないからだ。その敗者の中から「離脱者」が現れるのはもはや確率の問題でしかない。 社会的不平等それ自体は、人類の歴史に常に伴ってきた問題だろう。しかし科学技術の進歩、その大衆化によって、今やごく一般の人間にすぎない「離脱者」が、その破滅的意思を広範囲に発散できる時代が史上初めて到来した。それは昨今の米国や日本国内で散発した無差別殺戮を見ても明らかだ。 「悪魔」によって弟を誘拐・殺害された主人公・沢野崇は、様々な物証・証言から、首謀者の嫌疑を突きつけられる。彼は無実であるものの、長引く拘禁と執拗な尋問に耐えかね、犯人は己の分身なのではないかという妄想に陥りかける。しかし、これは決して只の妄想ではない。「悪魔」の掲げる思想・世界観に共鳴する心は、確かに崇の内にも存在するからだ。 これは、古今東西の思想家を悩ませてきた、古くて新しい問いだ。 「幸福」とは何なのか。すべての人が幸せになれる世界を築くことは可能なのか。 もしも、私たちの幸福が、現在の〈幸福主義〉のようなものでしか「ありえない」ならば、それを目指した社会は必然的に弱者・敗者の犠牲の上に成り立たざるをえなくなる。 「悪魔」によって「不幸せな人間」の代表として選ばれた良介(崇の弟)は、最期に「悪魔」に対してこう答える。自分は、妻を、息子を、この世界を「愛している」。自分は、自分であってそのままで〈幸福〉だ、と。その叫びは、死を目前にしての彼の本心だったのかもしれないが、「悪魔」の凶行を止めるにはあまりにも無力であった。兄の崇も、結局は自分が縋るべき希望を見出すことができずに、その命を自ら断ってしまう。 多くの才能と優れた容姿に恵まれながらも、信じる何物をも持たず、虚無主義に取り憑かれて滅びに向かうその深刻な人間像は、ドストエフスキーの『悪霊』に登場するスタヴローギンを思わせる(彼も、虚無主義の象徴たる「悪魔」を幻覚に見ていた)。 かつての思想家たちは、ある者はストア主義の哲学者のように克己と心の平安の内に幸福を求め、ある者は仏陀のように煩悩を断ち切った悟りの境地に幸福を求め、またある者はイエスのように地上を超えた希望と神と共に在ることに、幸福を求めた。 現代の私たちは何を選ぶのか。 科学の進歩によって刷新された新しいストア主義なのか、なお科学では解明されない神秘をも包摂する神への信仰か、それとも富・名声・地位・健康・享楽などの指標によって測られる〈幸福主義〉を肯定し続け、一定の犠牲を容認し続けるのか。 この物語では、沢野良介は「愛」に答えを求め、沢野崇は答えを見つけることができなかった。 救いのない結末だが、古くて新しい問題を、現代の社会問題や時代思潮に則って捉え直した一冊である。 特に犯罪捜査や尋問のシーンで発揮される丹念な取材力、リアリティのある作品世界を構築する緻密な構成力は本作でも健在である。この辺りの筆力は現代でも指折りの作家だと思う。 犯罪を巡る一つの物語と、その底流にある思想的テーマが一つに融合した作風は、全体的にかつての文豪ドストエフスキーを彷彿とさせる。 作者自身の思想的展開・精神性の深さは到底及ばないものの、現代社会の空気や、無差別殺人を取り巻く世間の反応を幅広く、的確に捉えた観察力は注目に値する。 平野啓一郎の「代表作」として、お薦めしてよい。 | ||||
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平野啓一郎の『決壊』と、イアン・マキューアンの『土曜日』をほぼ同時に読み終えた。平野が芥川賞をとる前年の1998年に、マキューアンはブッカー賞を受賞している。2005年に『土曜日』の初版がイギリスで出版されたとき(邦訳は2007年)、ニューヨークタイムズは「9・11以後、最も優れたフィクション」と絶賛した。『決壊』は、2008年に執筆された。が、その年起きた秋葉原の通り魔事件を髣髴させるということで、話題をよんでいる。この二作、書かれた時期は3年ほどずれているが、驚くほど似通ったテーマが扱われている。それは空気のように私たちを包み込む不安、顕在化する格差の本質、日常あるいは幸福の脆弱性、そしてこれらはすべて「つながっている」ということ。平野はインターネットで「つなげて」みせた。マキューアンは反戦デモという小道具をつかって「つなげて」みせた。ネットも反戦デモも、グローバル化の象徴である。 二つの小説はまた、家族のあいだの、ありふれた確執や連帯をことこまかに書いている点も共通している。そのありふれたやりとりのズレや綻びから、当人たちがまったく知らないところで醸成された悪意や敵意がしのび込んでくる不条理、そして恐怖。『決壊』の冒頭では、主人公、沢野崇の弟が、帰省する列車のなかでふと「なぜだろう……」というなぞめいた疑念の言葉を思い浮かべる。『土曜日』の冒頭では、不眠症気味の主人公、ヘンリー・ペロウンが、明け方、ぼんやり窓の外を眺めていたときに飛行機らしきものが火を噴いて降下するのを目撃してしまい、動揺する。こうして、ふだんは潜在意識のなかに隠れている不安がふと頭をもたげ、物語がすすむに従って輪郭を現し、顔を持ち、そして「文字どおりに」刃物を持って切りかかってくる。それは、『決壊』では劇場型の無差別連続殺人事件のかたちをとり、『土曜日』では、密室の傷害事件として描かれる。事件の「犯人」たちは、可能性を閉ざされ、人生に絶望し、自分らの命をもてあまし、他人の命をもてあそぶ。 『決壊』の連続殺人犯、「悪魔」こと篠原は言う。「多少智恵のある人間は、気がつくものだよ。結局、遺伝と環境の不公平はどうにもならない、と。努力次第で人間は変わる。そんなのは、まったくのでたらめだとね。最初から与えられている人間のようにはなれない。絶対に」。まさにその「環境と遺伝の不公平」を一身に背負っているのが『土曜日』の家宅侵入犯、バクスターである。まだ20代半ばの若者だが、学校はドロップアウト、両親は亡くなっている。父が苦しめられたパーキンソン病を自分も患っているが、まともな治療も受けられない。日々、自分の肉体と精神の自由が奪われていく恐怖に怯えながら、その日暮らしの生活を送っている。まったくの偶然から、篠原やバクスターのような「絶望犯」たちと人生が交差することになったこの小説の主人公たちは、とにかく恵まれている。いい学校を出て(沢野は東京大学)、いい仕事に就き(ぺロウンは脳外科医)、いい家に住み、(沢野は親戚の所有する北青山のマンション、ぺロウンはロンドンの邸宅&フランスの別荘)、そして愛されている(沢野はやたらと女にもてて、ぺロウンは人も羨むような家族に囲まれている)。もちろん、家族も仕事もある大の大人が毎日能天気に過ごしているわけではないが、篠原やバクスターから見れば、彼らの悩みなど「蚊に刺された」程度のものだ。何よりかれらはまだ、「失うもの」を山ほどもっている。失うものさえすべて失った者からしてみれば、彼らの「持てる」悩みなど、単なる暇つぶしのようにしか見えないだろう。 絶望犯たちが恵まれし者たちに刃をつきつけるまでの展開は、二つの小説においてみごとにパラレルだが、その後の展開はかなり異なる。事件にまきこまれた沢野とぺロウンは、犯人に対する憎しみのなかで煩悶する。犯人たちは圧倒的に悪いが、こんなことになってしまったのは「自分のせいでもあるのではないか」と。そしてそれぞれに「オトシマエ」をつける。そのつけかたが沢野とぺロウンでは対照的なのだ。もっとも沢野が直面したのは猟奇的な無差別殺人で、しかも自らが殺人犯と疑われるという異常事態だったのに対し、ぺロウンが遭遇した事件にはそこまでの凶悪性はなかった。というか、そこまで凶悪な事件に発展する一歩手前で免れた。だからオトシマエのつけ方が違うのは当然だ、といってしまえばそれまでだが、たまたま2作品をほぼ同時期に読んでいたので、そういうふうに「もっていった」それぞれの作家の意図はなんだったのかを考えさせられた。 事件を乗り越えたあとのペロウンは自問する。「最低まで落ち込んだみじめな連中の中にも、名門校出身者はいる。職業上、全てを理論的に還元する癖のついているペロウンは、そうした事柄は分子レベルで暗号化されて人格の中の見えないひだや捩れに書き込まれているのだと考えてしまう。生活費を稼げない種類の人間であること、もう一杯の酒を我慢しきれない人間であること、昨日に決心したことを今日は思い出せない人間であること、それらは暗い運命なのだ。いかなる量の社会正義を注入したところで、あらゆる街の公共空間に群れ集う衰弱した人々の軍勢を癒すこともできなければ追い散らすこともできない。では、どうすればいいのか? おなじく事件のあと、沢野は友人に問い詰める。「生物としてのヒトは、絶滅を回避するために、交配を通じて多様性を維持する進化のシステムを採用しているんだろう?その圧倒的に多様な個体が、それぞれに、ありとあらゆる環境の中に投げ込まれる。そうした中で、一個の犯罪が起こったとして、当人の責任なんて、どこにあるんだい?殺された人間は、せいぜいのところ、環境汚染か、システムクラッシュの被害の産物程度にしかみなされないよ。犯罪者なんて存在しない。ただ、犯罪が存在するだけだ。――違う?」 善意も、悪意も、瞬時にしてつながるようになった時代に私たちは生きている。一方で、個人の生活や人生が密に絡み合うほど、そこで起きる出来事の因果関係が限りなくぼやけていく。私たちはいま起こっていることに対して全員責任があるともいえるし、全員責任がないともいえる。そんなぼやけた世界の中で、絶望という底なしの穴があちこちに口をあけて待っている。『土曜日』のペロウンは、穴の淵までは行ったが、そこに落ちることはなかった。『決壊』の沢野は、穴に引き寄せられ、しまいにはひきずりこまれてしまうのだが、800ページ近い物語のどこかで、登場人物の誰かが、少しでも違う行動をとっていれば、最悪の事態が避けられた可能性はある。それは私のせいかもしれない、あれは私だったかもしれない、そういう思いを、「何か」が起こってしまう前に、私たち一人ひとりがかすかにでも持ったならば、そうした思いが繋がって、誰か(あるいは自分自身が)が穴に落ちるのを防ぐセイフティネットになりえるのではないか。少なくとも、そういう希望を持っていたい。(2008年に執筆) | ||||
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表現の豊かさだけをとっても十分満足できますが、ストーリーも面白いです。 | ||||
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読み手を物語りに引きずりこむ。 という筆者の意気込みが見事に結実している。 中くらいまで読み進んだところで「すごい、小説だ」と思った。 まるで映画を見ているかのように情景が浮かんでくる箇所がいくつもあり、こころ動かされた。 しかし、殺人に伴った「死」の描写には、そんなものじゃないのでは?という疑念が頭を離れなかったので、後半はやや読みづらい。 「死」が情報として扱われる社会の有り様に対する筆者の問題意識がうかがえる。 衝撃的とも言えるラストシーンは、人の弱さを一見荒々しい仕方で救済する社会の日常を描いているのかもしれない。 | ||||
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