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決壊
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決壊の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.83pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全75件 41~60 3/4ページ
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この作品は残虐で気持ち悪い描写が多く、しかも登場人物が皆とてつもなく不幸になるので、読んでいて暗く絶望的な気分にさせられる。それは、作者による《幸福の追求を強制する社会》への攻撃であると言えよう。その意味で、《悪魔》は作者の一面である。 また、詳細な記述により現実感を強く出している。下巻に頻出するTV番組と2ちゃんねるのパロディは、良く出来ていて感心させられた。 しかし、私はそれが良い作品の条件とは思わない。芸術とは、美しい表現を目指すべきものではないか。この小説は、現代社会の邪悪で醜い面を上手に表しているものの、それを超えるような希望・理想・善意を欠いている。勿論、現実を見ればこの世界が改善されるとは思えない。しかし、これはフィクションであり、読者は何らかの感動を求めているのだ。 《悪魔》が自爆テロを行うのは、勿論、この前年の9・11の影響だろう。そして友哉の殺人は、下巻末の参考文献によれば、神戸の酒鬼薔薇事件のパロディだと分かる。だから、この作品の事件にはオリジナリティは感じられず、規模や世界への影響はアルカイダの方がずっと大きく、猟奇性も現実の殺人の方が強い。よってこの作品にオリジナリティを求めるとすれば、それは《悪魔》の殺人理論になるだろう。《誰もが幸せになるための努力を強制される社会》はたしかに恐ろしく不公平であり、そこから《離脱》するというのは魅力的である。しかし、それがなぜ無差別に他者を殺すことにつながるのか、それが語られていない。作中でも一言で《共滅主義》と表されているのだが、一言で表せることを、「幸福のファシズム」や「レースからの離脱」がどうのこうのと引き延ばしていたに過ぎないのではないか。 また、物語の始めから、崇は自殺を強く意識しているのだが、彼がなぜそこまで追い詰められたのか説明されていない。これだけの長編なのに、そのような重要なプロローグが無いのは気になった。 | ||||
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強い思想やテーマの盛り込まれた作品だ。 しかし、真の天才が書いたようなデーモニッシュなものはなく、「頭」で書かれたに過ぎない小説に思われる。 良介を殺した「悪魔」や友哉の人物造形も、どこか既視感があって、借り物のよう。 「悪魔」があんな人間になったのを酷い家庭環境のせいだと描写しているのも、友哉を育てた両親を、単に過保護的なママと子供に無関心っぽいパパと描いているのも、陳腐でオリジナリティが感じられず、作者がしょせん既存のデータでしか創作できない「秀才」どまりの作家であることを認識させる。 現代の異常性を「猟奇殺人」に象徴した作品はいくらでもあるし、犯人の動機が、怨恨や殺人趣味ではない、個人の奇妙な哲学に置かれるというのも、飽きるほど見てきた。 平野はまたそれを、お得意の華麗な修辞で焼き直したにすぎない。 平野は頭はよく、膨大な文学のデータベースを駆使する力を持っていると思う。 だが彼の才能は、ただその駆使の仕方が上手いという点だけに留まるものだ。自分で新たな思想や物語を創り出せる書き手ではないということを、この作品を読んで確信した。 「三島由紀夫の再来」。 このデビュー時の宣伝文句が、時が経つごとに虚しく感じられる。 | ||||
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他の方も書いているが読みながらタイトルのようなことを考えていた。 この作者の本を最初に読んだのは「日蝕」だったが、大学在学中に執筆されたと聞いて驚愕した覚えがある。 ただ妙に難しい文章を書く人だという印象が強く(その後の「葬送」もそう)しばらく敬遠していたが、今回この作品を立ち読みしたところ面白そうだったので購入してみた。 ネタバレになるので中身の話を書くのはやめるが、とにかく次へ次へと読ませる迫力がすごい(どんどんページをめくりたくなる)小説で、こういう本も書けるんだと作家の印象が大きく(好ましい方に)変わった。 また発行時期から考えると、この作品を書いた時の作者の年齢はどう計算しても30そこそこ。その年齢でこれほど家族の内実(特にいくつかの夫婦)に迫る描写ができることに再び驚愕。 何度か読み返さないと分からない部分も多く、読むのが苦痛になるほど残酷な部分もあり、読者を選ぶ本だと思うが、それでもこの本は21世紀の日本文学の中で重要な位置を占めると思う。 | ||||
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『葬送』を描き切った力量で現代社会をどのように描くのか。 注目していた作品の文庫版が出たので購入した。 端的に言って期待を裏切られた。 装飾的な漢語を駆使した心理描写は、とにかく古臭くて食傷気味。 三島由紀夫的な著述能力は確かに逞しいのだが、別に21世紀に"再来"していただかなくても結構なのだ。 大江健三郎が大きく崩し、村上春樹や村上龍が切り拓いた純文学の新しい地平に、この作者は立っていない。 より複雑に進化して豊かになっている漫画や映画といった表現物に拮抗するだけの深みや新しさをこの作品は備えていない。 扱っているテーマは重苦しいものだが、作中で繰り広げられる哲学論理や政治分析の長い論述はただただ平凡で陳腐、冗長。右脳が抉られるような烈しい視点の転回や想像力による跳躍は見られない。 拉致被害者の実名を出したり、実在の都知事やお笑い芸人を揶揄する姿勢は疑問。また、社会の諸問題についてひととおりどこかで聞き古したような批評を散りばめるあたり、百科事典のCD-ROMを読んでる様な感がある。 作中の人物が打ちのめす事件の重さの割に、苦悩の描写は軽い。所詮は机の上での苦悩しか知らない秀才の表層的お勉強のレベルに留まっている。この軽さは、実際に近い立場で苦しんでいる人々を愚弄していると感じる。 最終的に主人公が自殺するのも、どうかと思う。破壊的悲劇にただひたすら耐え、壊れた人生を修復するために戦っている人間の神性というものがある。それを見出し、ぎりぎりであっても提示するのが作家の務めであると思う。 バッドエンドにこそリアリティがある、などと思っているのだろうが、現実に多くの不幸に耐え、乗り越えている人間は存在する。その心境に到達できず、作品がバッドエンドを選択するのであれば、「事実は小説よりも奇なり」という格言に裏付けを与えているだけだ。そんな作品に一体どういう価値があるのか。 はっきり言って駄作。問題意識は評価するが、力量を伴っていない。 必要もないのに、衒学的に難解な哲学史の専門用語を並べ立てるのもやめたほうがよい。 平野啓一郎は天才ではなく、秀才。著述能力に長け、編集能力に優れているが、ホンモノの物語を創れない。そのことがよくわかった。 | ||||
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あらすじ 「悪魔」によって人生を狂わされた人々が壊れていく様が描かれます。 感想 「自分のやりたいことをやる」 「人にされたら嫌なことは人にやらない」 という2つをバランスさせ続けることが、 現代社会では、全うな人の生き方でしょう。 でも、この物語の「悪魔」の、 そんな全うな生き方から離脱しちゃえよ! というメッセージは、 一定数の人に共感をもたらすのではないかと感じました。 物語のTVの討論番組の中で、 「なんで人を殺してはいけないのか」と問うあの学生に、 腑に落ちる答えを用意できる人は多くないのではないでしょうか。 私は自信がありません。 救いようのない物語を読み終えて、私は少し混乱しています。 しかし、無理に前向きになってみると、 自分の中の闇を見つめることで、 他人の中を闇を感じることができ、 そこに光を当てることもできるのではないか、と考えました。 | ||||
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感想 登場人物のいろんなところに共感できてしまうので、 物語にスッと入り込んだ感じです。 崇やその友人との会話は難解で、 そこはついていくのがやっとなんですが。。。 智哉は「悪魔」に簡単にコントロールされてしまった感じもしますが、 智哉が学校や家庭で置かれていた環境や、「悪魔」と対峙した状況を考えると、 無理もないかなと思い直しました。 「悪魔」が簡単にコントロールできる人物として、 智哉を選んだということもできるわけで、そう考えると納得です。 すなわち、これはフィクションですが、 実際に起こりえる話ってことになります。おー恐っ。 | ||||
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読後に不快感が残ります。・・・仮に現代の日本社会に不満感、不完全感などが鬱積しているとするならば、その不快感、不満はこういうものだよね、と作者は「『決壊』を読む、読書そのものから得る不快」と「社会に対する不快」を重ね合わせて読者に提示したがっているかのようです。 つまり読者が不快に感じれば感じるほど、それが作者の意図である、というような。 ぼくにはそれが作者の「勘違い」であり「悪趣味」であるように思えます。好きじゃないですね。 ・・・・というか、「好きじゃないよ、こんな本燃やしちゃえ!!」と僕が思うように、社会的な不満を小説に託して読者が個人的に怒りを顕在化させる、そのためにこの小説をスケープゴートとして利用する、してほしい、というようなことまでを作者は想定しているように思えるのですが。作者にもて遊ばれている感じがして、そういうのがすごく嫌な感じでした。 | ||||
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推理小説なのか、何なのか、現代を取り巻くいろいろな問題について書いてあり、面白いとは思いましたが、ただこの物語に上下合わせて1000ページ近くの長さが必要なんでしょうか?! 読むのにすごく時間がかかりました。 | ||||
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講談社のSYに勧められて読了。ブンガクとしてははっきり言って古臭い。インテリが生きる目的を見つけられずに狂っていくという筋書きは、明治時代からある。たとえば、『それから』によく似ていると思う。結末とか特に。代助を狂わせたのは三千代との恋愛だったが、崇を狂わせたのは無差別犯罪だった。恋愛もこの殺人も、(文字通り)無差別で非論理的だというところで似ている。明治時代の昔から、小説の主人公たちは非論理的出来事に弱い。 クラシック関係の人が読んだら怒るだろうなあ。「これは一体何なのだろう?」って、ラジオから流れるクラシック音楽に対する崇の疑問だが、一般読者の「ブンガク」に対する疑問と重なる。ブンガクも所詮、ちんどん屋に毛が生えたような作家たちと、馬の尻から伸びた毛のような批評家とかの戯言に過ぎないものなのかもしれない。平野啓一郎は、その辺自覚してこんな挑発的な書き方しているように思える。ただのナイーブな人じゃないのだろう。 エンターテイメントとしてははっきし言ってとてもおもしろいし、久々にブンガクって何だろうって考えるきっかけになった。結末が気に食わないんだが、印象度を加味して五つ☆。 | ||||
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想像や未来の予知などと言うよりは、明らかに現状を写実したものに近い。初めに素晴らしいと言ったように私自身はこの事を高く評価したいが、それでも同時にこの小説に欠点があるとすればその写実性になるだろうとも言わねばならないと思う。つまりそれは写実以上のものではない、現代日本に蔓延する病理とそれに対して実際にある悲鳴や批判、戸惑いやさらには共感、支持など、そういう実際にあるものだけをよく描いた、という「だけ」という言い方も恐らく全くの不可能ではないだろう、という事だ。その場合、本作の極めて優れた長所や意義はそのままケチをつける理由にもなる。実際本作で語られることは極めて切実で我々の身に、いや心に迫ってくるが、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いを初めとして、どれもこれも殆どがどこかで聞いた事ある事ばかりである。小難しい言葉で飾られた思想のごときものも実質は同じであり、結局のところそれは今の時代の状況、現代人の抱える思いや言葉を代弁し語り、時代精神をそのまま描いただけなのである。本作のそういう時代精神・時代状況の写実は専ら殺人事件や犯罪をめぐる諸問題や諸言説を対象としている。責任能力や精神病の問題から警察の取調べの問題まで現代日本で騒がれる犯罪関係、法律関係のあらゆる問題が本作内には凝縮され扱われていると言えよう。それは私としては高く評価できる極めて意義ある事に思えた。 | ||||
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読み終えて30分くらい放心してしまった。 未成年の犯罪、家庭内の犯罪、家族の崩壊、ネット社会の闇…、ある事件を通して現代性を描ききっている。 そして考えたくもないが、家族というものが、その言葉だけで力を持っていた時代は終わった、その言葉が何かを繋ぎとめているというのは幻想に過ぎないと、喉元に突きつけてくるかのような救いようのない結末をもって、じゃあどうすれば?の前に、まずはこんな時代だという現実を正しく認識しろと言わんばかりだ。 「ホテルルワンダ」という映画の中に、「(難民や内戦をニュース映像で見て)可哀想ね、と言いながら食事を続ける(先進国の人々)」という意味のセリフがあるが、この本は、読後未成年や家族間の犯罪などのニュースを見ると、食事が続けられなくなる位の威力を持っている。 その種の犯罪が、自分の住む町で起こったと考えられる位、その恐ろしさが皮膚感覚に迫ってくる。 少年の母親の描写も秀逸。 親子関係…特に女親と息子の間には、多かれ少なかれこういう面があると思う。 だからこそ、この描写が一番恐ろしかった。 人に勧めにくいが、現実に起こっていることを描ききっていること、文学的に極めて高度な構築力があること、現実を直視するという意味で、覚悟をして読んで欲しい。 自分より若い人が、これを書いたということにも、ショックを受ける。 | ||||
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純文学が日本の現在を描くことは、ありそうであまりない。ネット社会の現実取り込もうとするとアホらしい小説になってしまいがちなところ、さすが平野啓一郎!ジジイ作家はたぶん理解が及ばないところもわかった上で、知的レベルが高く、読むに値する、馬鹿馬鹿しくない作品になっている。 エンタメ/ミステリとして見るとそもそものプロットにも強引な展開にも難があり過ぎ、エンタメ寄りの物語にしてしまったため、純文学としても?なことになってしまっているものの、この野心作はかなりの成功を収めたと言っていいのではなかろうか。 | ||||
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多くの方の評にあるのが、その時代の先取り。いじめ・引きこもり・無差別殺人など、この作品を追うかのように現代は進んでいる。シンクロニシティという言葉が非常に合う。本屋によってはミステリーかのように売っているところもあるが、純粋な純文学。作者もその派手なプロフィールばかりが取り上げられているが、その筆力は圧倒的である。家族の姿をさりげない言葉で描写し、心の不安も時代の不安も書いている。ただし「悪魔」の演説は、時代の闇を示すものであるが、まだ不足であった。共感するところが少ない。 | ||||
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凄い。 ドストエフスキー没して百年余。ネットや映像等のメディア内では、誰もがラスコーリニコフになりうると同時に、誰もがラスコーリニコフを裁く判事となりうるし、イヴァン・カラマーゾフに殺人を示唆されたというスメルジャコフになりうる。そしてこの小説においては、スメルジャコフ的遺伝子をもち、スメルジャコフ的成育環境にあった者たちの復讐とも言うべき事態が起こる。 この小説の凄さは、ドストエフスキー的な対話を軸に、ネットやメディアに溢れる言説を本物そっくりに活写し、かつ登場人物ひとりひとりの血を、体温を、リアルに濃密に伝えてくることだ。 残虐な連続殺人に対して、メディアの新情報を今か今かと待ち、残虐な事実を知るたびに、やり場のない怒りを紋切型の喋りでしか表現できないもどかしさに腹立つ、という状況は、まるで現実そのもので、犯人の少年や家族の言葉は雑誌やテレビというメディアを通して、実在の事件そのものだ。そこに生身の少年がリアルに描かれることで、コメンテーターや教育者の正義の言説の空疎さが浮き彫りになってしまう。 殊に沢野一家の悲劇は、前半のリアルな一家団欒の描写を経て、痛ましく胸に迫り、はからずも平成のスタヴローギンとなってしまう沢野崇の造形は真に魅力的だ。 かなり前に同じ作者の「高瀬川」のレビューで「リアルな細部はおもしろいけど、急にエラソーな作者がカオ出すと興ざめ」と書いたけれど、平野啓一郎がここまでの構築力を持つに至るとは……不明を恥じる。ドストエフスキー以来のドストエフスキー的興奮で、寝食忘れて読んでしまった。 | ||||
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本の内容について賛否両論あるでしょうが、これほどまでの分量が必要だろうかと疑問を感じてしまった。特に会話については、ムダなものが多いと思えた。 恐らく、圧縮すれば一冊にまとまるはずだ。 それと本文中に新潮社の宣伝が出てくるのもいただけない。 新しい手法のCMなのだろうか? 2chからそのままコピペしたような話もつまらない。 | ||||
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推理小説なのか、純文学の応用なのか、社会批評なのか、どのように読んでも読者の自由なのだろうが、この小説の場合は、いずれにしても生煮えの感が否めない。最初はアンチミステリーかとも思ったが、それには中井英夫『虚無への供物』という古典があり、その足元にも及ばない。犯罪に手を染める少年を生み出す現代的な家族への批評としては、スーザン・フォワード『毒になる親』などのノンフィクションが持つ迫真性と深みに欠ける。イラク戦争論の部分は興味深く読んだが、それでもトニー・ブレアの議会演説での参戦論には勝てない。作者によればこの小説は「ドストエフスキーの影響を受けている」そうだが、純文学を読むならドストエフスキーや、この作者の他の作品を読めばよい気もする。新しいタイプの小説の模索なのかもしれないが、完成品ではない。 | ||||
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“ワイドショー”(と、ワイドショー化した報道番組)は相も変わらず、 陰惨な殺人事件に多くの時間を割いている。 加害者(とTVが断じた人物)も被害者も徹底してプライバシーを暴かれ、 そしてこれが最大の問題なのだが、あらかじめ裁いてしまう。 それで、“冤罪”が頻出することになる。 たとえば、事件当時メディアを席巻した“和歌山カレー事件”にしろ、 “仙台・北陵クリニック事件”にしろ、 被告たちが無罪を主張する裁判は今もつづいている。 しかし、それについての報道はほとんどない。 もちろん、TVだけの責任に帰するつもりはない。 平野啓一郎著『決壊』は、 そんな“ワイドショー”が間違いなくトップニュースとするような 猟奇的な事件とその背景を、文学的な表現をもってていねいに書いている。 それでも、物語の前半でその後の事件に関わる関係者たちの日常を描いて、 それさえワイドショー的に見えてしまう。 ただ、私はミステリーの流儀に疎いが、 終盤になって新たな人物を登場させるのはどうなのだろう。 この物語を動かすもうひとつの要素──それは、ネット社会だ。 2004年にイラクで高遠菜穂子さんら3人が拉致された際、 彼女が海外からの連絡に使っていた掲示板に 書込みが殺到して閉鎖されるということがあった。 安否を心配するものばかりかと思ったら、そのほとんどは誹謗中傷だと聞いて驚いた。 当時も今も、ネット上にはびこる卑劣な言葉と精神とは 最も遠いところにありたいと願っている。 この作品では、たやすく増殖してしまう憎悪と他を排除する閉鎖空間が、 悲劇へと導いていく。 それにしても、救いのない物語だ。 これだけの筆力を持つ著者が800ページ近い紙幅を費やして描きたかったのは、 TVモニタが日々映しつづける“事件”と同等のものだったのだろうか。 あえて小説として読み直す必要があるのか、疑問が残った。 | ||||
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分かりにくい比喩表現が多かったです。 ん?と一瞬立ち止まって読み返し、「ああ、比喩か」っていう感じで なんども読みが止められてしまって非常に読みにくかったです。 上下巻本でも次のページが待ち遠しいほどの内容の本なら3日あれば 読めてしまうと思いますが、はっきりいってこの作品の場合は 最後まで読むのに非常に時間が掛かりました。 | ||||
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主人公をとりまく日常を描写した幕開けから既に不穏な雰囲気。どんな事件が起きているという訳でもないのに、登場人物たちが生活の中で感じている不安は、読者である我々が今現在抱えているもやもやしたものと同様であり、その分析力、および筆力に脱帽である。。 人物描写がカテゴライズされすぎというきらいはあるが、ケータイやネット問題、雇用や生活不安、教育、政治等現代社会が抱える負の要素をうまく一人一人に背負わせて交互に語らせる展開はスリリングであり、読み手のページを繰る手を休ませない。 特に、絶対に好きになれないだろうエリート公務員でモテ度も高い「崇」は作者の代弁者のようでだ。論理の肥大化した「悪魔」と徐々にシンクロしてきて同一人物か?と思わせ、ミステリー要素も抜群である。 大江健三郎が神話的、土着的であるのに対し、作者は現代的で都市的という違いはあるが、その小説の作法というか、文学に対する姿勢は非常に近しいものがあるように感じる。 デビュー10年にして、ようやく私は作者の作家としての才能を骨の髄まで感じている。 | ||||
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いかにもな作としか言いようがない。犯罪小説としてとにかく壮大な小説にしようという意気込みが空回りして、ただドストエフスキー風の無意味な思弁がちりばめられ、90年代以来の犯罪のあれこれを混ぜ合わせただけの、犯罪小説としても中途半端なしろもの。つまらんです。藝術選奨新人賞受賞。 | ||||
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