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HHhH (プラハ、1942年)
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HHhH (プラハ、1942年)の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.04pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全52件 21~40 2/3ページ
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僕が本書を読み始めたのは2014年なので、今日読み終えるまで4年の時間がかかっています。 大作でもない作品にこれだけ時間を要したのは、シンプルにつまらなかったからとも言えますが、 2014年当時はけっこう評判の作品で、帯にも賛辞が並んでいます。 本書は変な書名をしています。 「HHhH」とは「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」を意味するドイツ語の頭文字です。 ラインハルト・ハイドリヒはナチスの高官で、チェコの総督代理を務めた人物です。 ユダヤ人問題の最終解決を発案したのも彼だと言われています。 ハイドリヒはロンドンに亡命したチェコ政府が送り込んだ暗殺部隊によって殺されました。 本書はこの暗殺事件をクライマックスとした歴史小説なのですが、 著者自身が本書を書くプロセスをまじえて小説化しているところが、評価を受けた要因なのはまちがいありません。 M・バルガス・リョサが「傑作小説というよりは、偉大な書物と呼びたい」と賞賛しようが、 僕はこの作品が偉大だとも傑作とも思いませんでした。 その理由は、フランス人らしいポストモダン的手法で知的な演出をしているため、 知的な興味以外を引き起こさない傍観的小説でしかないからです。 結果、反ナチズムという「正義」によって助けられた小説というのが僕の印象で、 別の題材で同じことをやっても、これほどの評価は得られなかったのではないかと感じています。 (フランス人はもちろん、ユダヤ人やチェコ人の喝采を得られるよう計算されていた気がします) まず、大きな問題はこの小説が断片の集まりで構成されていることです。 通し番号で257の章段で構成されているのですが、そこに作者の創作談話と歴史記述がごちゃまぜになっています。 いわゆる歴史小説は時系列に物語が進んでいくため、読者が自身を歴史世界へと「投企」することになるのですが、 それが断片化して書き手の自意識に吸収されるため、歴史のスリリングさは体験できません。 この自意識を書き手が歴史と誠実に向き合う葛藤だと感じられれば、賛辞も寄せられるでしょうが、 残念ながら僕にはそのような「誠実さ」はそれほど感じませんでした。 むしろ、前述したようにポストモダン的な手法を用いたために、非歴史性が表面化した内容になっています。 具体的に言えば、ハイドリヒという人物は「金髪の野獣」と恐れられた人物のはずなのですが、 書き手の興味は、生きた人間ハイドリヒではなく、断片化したハイドリヒというキャラへのオタク的関心であるため、 読者はハイドリヒや彼の引き起こした歴史的事実の恐ろしさをあまり感じることがありません。 つまり、著者であるビネは恐ろしい歴史と安全な距離を確保したまま、 傍観者の立場を明確にした人間不在の小説を書いているようにも見えてくるのです。 この小説に登場する歴史人物はみんな自分とは無関係な遠い人に思えます。 だから、彼らが死んでも特に胸が疼いたりはしませんでした。 本書のような傍観的な立ち位置だと、クライマックスの暗殺場面は臨場感を失ってしまいます。 どうするのかと思ったら、その場面になったら断片化を捨てて普通に歴史小説的な記述を始めるのです。 そんな「おいしいとこだけ歴史小説」みたいなつまみ食いで騙されるかよ、と思いました。 暗殺者たちの最期も語り手が読者を置いてきぼりにして自ら感傷的な語りを始めるので、 こちらはシラけてしまいます。 利口ぶった「歴史小説を書くとはどういうことか」などという自己言及的な問題は、 本来、歴史小説そのものの中に居場所を持つべきではありません。 すぐれた歴史小説は作者はもちろん読者をも当事者にしてしまうものです。 自己言及がメインになって歴史のただ中に踏み込めない小説など、力量のない筆者の陳腐な小手先の芸でしかないと思うのですが、 この程度のものが評価されてしまうのは、逆説的ですがナチスの悪の力あってのことだと感じます。 断片的であるために、細切れに読み進めて4年かけて読むことができたわけですが、 他人の知的な興味にいたずらに付き合わされたような読後感でした。 歴史を題材とした知的な小説であることは認めても構いませんが、 歴史小説としては駄作と言えると思います。 | ||||
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スリリングな歴史小説を想定して本書をひらけば、いきなりクンデラを引用しての命名の恣意性を吟味するから驚いた。 「●●(名前)は〜〜していた。」といったふうに始まるエンタメ小説を思い浮かべれば簡単なことだが、登場人物名とはまず第一に作家と読者が結託すべき暗黙の了解である。いくらそこにレトリックや技巧をこらしても、こうした名付けは児戯めいた行為である。児戯めいた振る舞いを許さないのなら、そもそもフィクションなど読まなければいいのである。 読み進めるとすぐにクンデラはチェコとフランスを結ぶために選ばれた作家でないことがわかる。作家と登場人物の不均衡な関係を象徴する作家として引用されたのだ。そうして、本書は歴史を語ることめぐって進行していく。 もしそれが可能ならば歴史からすべての”恣意性”と”不確実性”を取り除いたとき、いったい小説家は何が語れるのか? この疑問の射程はものすごい広い。なぜならあらゆるメディアが恣意性と不確実性を含んでしまうからだ。災害報道を見ればいい。なぜマスコミはいつも被災地の現場を悲劇として語ってしまうのか。情緒を伝えることが何かを語ることに値するのか。こうした不実に対し、現代人はことに厳しい。もうマスコミに騙されたくはないと願っている。 とはいえ、本書の素晴らしいのは後半だ。あんなにも語りが促す”捏造”を拒否しつづけた作家がついに語ることの呪術に飲み込まれていくとも読める。プラハでの暗殺作戦の描写のスリリングさとあいまって、小説を語る綱渡りもクライマックスになる。 「ファシズムとは、何かを言うことを強制する」とバルトは言ったが、まさに語ることを強いる歴史物語のファシズムに小説家は対抗しようとする。そう、レジスタンスのように。 | ||||
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タイトルからは何の話かまるでわからないが、歴史の秘部を小説で仮構するという見事な試み。 歴史の進み方を作者の想像力で自由自在に操る内容に一気読みだった。 | ||||
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ハッキリいってジャケ買いしてしまいました。史実としては 興味深いので、個人的には面白く読みましたが、この 小説は途中で投げ出してしまう人も多いかもしれず、 こういった小説を本屋大賞に選んでしまうと、本屋は さらに衰退してしまうのではないかと思いました。 | ||||
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主題を描きながら同時に執筆時の自分の状況を挿入する形なんですがそれが一体何の意味があるのか理解出来ません。 その度物語から引き剝がされるので没入出来ません。 肝心の主題も物語として上手く描けているのか疑問です。 | ||||
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リアリティーを追究するあまり、小説内に浸透していく著者の狂気を描くのかと思いきや、小説の技術論に昇華してしまい、予想が外れた。理論についてはよくわからないが、純文学としては非常にリーダビリティが高く、ハイドリヒの暗殺について知る上でも格好の一冊だと思う。 | ||||
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この小説、各所でたいへん絶賛されていますが、本当にそれほどのものでしょうか? まず第一に、小説でありながら作者が登場するという構成の斬新さが強調されているが、 はっきりいってこんな構成はもはやありきたりであり、それこそ作者が作中で苦言を呈している ミラン・クンデラの作品ではおなじみの手法です。 それから、これに付随して作者は、小説で架空の人物を登場させることを疑問視し、 『僕の考えでは、クンデラはもっと遠くまで行けたはずだ。そもそも、架空の人物を登場させることほど俗っぽいことがあるだろうか?』 とまで言っていますが、私の考えでは、歴史上の人物(とくに本書のように戦争の犠牲者)を小説の主人公に据えておきながら、 作者である自分がしゃしゃり出て、書いてる途中でこんなことがあったよ(女に振られたとか)などと書き連ねるほうが よっぽど俗っぽいことなのではないかと思われるのですが とはいえ、その構成ゆえに、まるでひとつの小説作品がだんだんと完成されていく瞬間に立ち会うような感触を覚えながら 読み進めることができたのはおもしろかった。 また、作者の自分語りではない小説部分は、ドラマティックでスピーディな展開が続き読み応えがありました。 ですので、絶賛されるほどの作品ではないにしろ、佳作ではあるといえるのではないでしょうか? | ||||
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実行部隊以外の歴史の闇に埋もれた人々の事を掘り起こしている点は評価に値するが 他者が著した同事件への文献や映像作品に対する個人的な見解と 作者自身の生活や思い入れによる関係のない比喩的な文章の挿入が非常に鬱陶しい 完全なドキュメンタリーにした方が史実として伝わり読み易かったのでは。 | ||||
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著者が歴史にどう向き合うか自伝的な内容が入った新しいスタイル。 そうしたスタイルが面白いと感じるかどうかで評価が二分される。 前半は著者自身の話が多い感じでなかなか歴史に入り込めないが、後半はテンポがよくなる。 私はどうも著者自身が歴史に入り込むという感覚が受け付けないので後半だけで十分ではないかと思う。 後半の記述は悪くないので星3つ。 | ||||
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金色の野獣、ハイドリヒ。 ナチズムの嵐が吹き荒れるチェコ・プラハで 祖国を追われた2人はいかにして、野獣に一矢報いたのか。 圧巻の読み応えでグイグイ惹きつける「物語」に、 まるで史実であることを忘れさせるほどのストーリー性を感じました。 いや、逆にこれが史実(に極めて忠実な話)であるということに、改めて驚嘆します。 一つだけ、たった一つだけ残念なのは、著者の知識の引けらかしに若干の「幼稚さ」を感じた点。 歴史に倒れた人々に敬意を示し、我を隠さず悪を憎むその姿勢は、嫌いではないのですが……。 もう少しエスプリの利いたインテリジェンスだとなおよかった、かな。 | ||||
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良い作品ですが、翻訳家が解説で書いている「ノンフィクションや歴史的小説で、書き手が登場する作品は非常に希れ」というのは間違いだと思う。 書き手が登場したり、事実やその文学的手法について語るのは、常套的方法です。 ましてやそれがこの作品の最大の評価とは、間違いでしょう。 すくなくとも「ほかにもそうした作品はあるが」というような一文を、校正の段階でチェックでいれるべきだと思います。 | ||||
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新人賞をとり、海外部門第1位の小説という触れ込みで、読んだのだが全くもって期待外れの作品だった。これが、どうして秀作なのか?私には理解できない。新しい形の歴史小説というが、書き手が恋人に振られたとか、読み手にはどうでもいい話が続く。 国の英雄の話をここまでつまらない話に仕上げてしまうのか。他の作家が書いた小説でこれらの英雄の物語を読んでみたかった。 メディアや広告に騙されて買った私が悪かったのか~これからは、こういうものに乗っかって購入するのはやめようと反省した。 | ||||
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小説の革命といえるこの作品に感動し、歴史の中に消滅していった人々に黙祷する。 今に生きているすべての人たちに推薦する。これほど感動した作品に出会った記憶はない。正に新しいジャンルの文学だ。 | ||||
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ストーリーだけでいいのに、本文の大半が作者自身の創作に至る経緯だとか苦労話やら、知識(情報)のひけらかしがあまりにも多くて鼻に付く。文章自体は学生向けの参考書のように説明的で読み易すぎるし全く文学的でない。バルガス・リョサの『密林の語り部』はまだストーリーに創作性があったし構成も巧みだった。作者はただ単に歴史的な事実に関する情報を集めて書き起こしただけなのに、完全にインテリ作家ぶったナルシストだと思う。フローベールやクンデラの作品を上から目線で論じるなんぞ身の程知らずにも程がある。 | ||||
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最初は、作者がしばしば現れる文体(これが文学として斬新だとは知らなかった)が鬱陶しく、読みにくいなあ、と思いながら読み始めたが、後半一気に速度が上がり、とても印象に残った1冊。ホロコースト関係の小説はよく読むし、東欧を舞台にした本も好きで、チェコの知らなかった歴史を知り、読み終わった後勢いで「チェコの歴史」を読んでいる(こちらも面白い)。 この本はKindleで読んだが、Kindleだと資料(写真や地図、歴史年表など)に気になるたびにアクセスできるので、ハイドリヒや夫人の写真も、該当するだろうと思われるものを探してじっくり眺められて良かった(地図も、google mapで詳細を眺めた)そういう意味ではKindleに向いた本だと思う。 | ||||
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図書館で随分待って借りた本です。 出だしは非常に読みにくかったですが、後半はあっという間に読み終わりました。 創作小説は限界が来てドキュメンタリーに取って代わる。と聞きますが 本書がその良い例でしょうか。 作者が随所に顔を出す新しい形式と言うが、太宰治は小説に中で作者として突然読者に語りかけていたしな。 そういえば日本放送協会が同じ手法で歴史ドラマを放映していたな。 作者は読者の記憶に留めるために小説の手法を選んだと書いています。 何を記憶させたいのかな。 ハイドリヒの異常性か。 二人の青年の英雄的働きか。 異常な人間と英雄によって歴史は変わるのだろうか。 しかしナチスドイツを叩く本が巷に溢れているな。 戦争に労働力は大切だ。 そして今はフォルクスワーゲンの車はチェコ製だ。 最後の襲撃シーンで思いだしました。 映画で見たことあるシーンだと。「暁の7人」 しかしなんと言っても本書の中でも数字でしか表現されない 訳も分からず銃殺された一人にはなりたくない。絶対に。 | ||||
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ナチ高官としてユダヤ人問題の“最終的解決”計画の推進者であったラインハルト・ハリドリヒは、プラハ市内で1942年に暗殺されました。暗殺の実行犯はイギリスからパラシュート降下で送りこまれたチェコ人とスロバキア人の混成部隊です。冷酷無比なハイドリヒを指して親衛隊の間では当時<HHhH>(Himmlers Hirn heisst Heydrichヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)という渾名が流布していました。(ssの部分は原文ではエスツェット) 著者/作者であるローラン・ビネは彼の暗殺までの日々を描くにあたって独特の手法を取りました。それは、<ハイドリヒの人生をたどる物語を描く作家ビネ>を描くという手法です。 ハイドリヒに関する膨大な過去資料や先行創作物を果てしなく渉猟し、それを隅から隅まで読みこむ。そしてハイドリヒ暗殺という厳然たる史実を文字にする途上で、<想像>によって<創造>することの可否を自らに飽くことなく問い続けるのです。歴史上の人物がこの場面、あの場面でこういう会話を交わしたといえるのかどうか。どこまで自らの予測に信憑性を持たせることができるのか。歴史物語における書き手の手法の妥当性とは一体いかなるものなのか。著者/作者の焦慮の念は尽きることがありません。 ですから物語のそこかしこにビネは姿を現すのです。大戦中のプラハの街のあちらこちらに、そしてナチのくびきに恐れおののく人々の雑踏の中に紛れて、歴史の目撃者然として佇み続けます。果ては登場人物に憑依したかのように歴史を生きるのです。自作の歴史小説に顔を出すことで広く知られる司馬遼太郎先生もかくや、と思うほど。 耳慣れぬ姓名を持つ異国の人々のが陸続と登場するため、時として人物相関図を見失いそうになります。それゆえに大いなる疲労感を覚えるかもしれません。暗殺実行犯を裏切るカレル・チュルダは184章に「1942年3月27日から28日の夜に落下傘降下している」(260頁)と明記されているにもかかわらず、彼のことを落下傘部隊員ではないと勘違いする読者もいるそうで、それも無理からぬことです。 ですが、小説の後段に実行されるハイドリヒの暗殺、そしてその直後から始まる苛烈な実行犯追求劇は、“目撃者”ビネの筆によって緊迫感を伴って進行し、読者をぐいぐいと牽引していきます。翻訳文の読みやすさはひとえに訳者・高橋啓氏の力によるものです。 ビネは兵役のためフランス語講師としてスロバキアに赴任した経験からこの戦時下の事件に興味をもったのでしょう。果たして次はどんな史実のもとへ彼は自ら赴き、そして読者を導くのでしょうか。 *156頁に「第二回目」とありますが、「第二回」もしくは「二回目」とするのが正しい表記です。 *165頁「総督の職務に中断があってはならないことを鑑み」とありますが、「〜ことに鑑み」とするのが正しい日本語です。「鑑みる」という使い慣れない言葉を使うよりも、「〜を考慮し」としておけばよかったかもしれません。 *228頁「ロバート・ハリスの『ファザーランド』を脚色したもの」とありますが、ここで言及されているロバート・ハリスの小説『Fatherland』の邦題は『ファーザーランド』(文春文庫/絶版)です。またこのテレビ映画化作品の邦題は『ファーザーランド〜生きていたヒトラー〜』(廃盤)です。英語のfatherlandの最初の母音は短母音ではなく長母音です。 | ||||
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なみいる優れたレヴューに言を重ねても仕方がないのだけれど、この小説がもう一つおまけに素晴らしい点は、文体=人称の設定の妙にあります。 なんと、「作者視点の一人称」! 文体がストーリー、ひいては結末を決めてしまう、といわれますが、この文体(人称)なくしてこの小説は成り立たなかったでしょう。 作者がこの小説を書くまでの前日譚や、執筆の苦悩は一人称で。 そして歴史上の人々は、当然執筆者の視点から見た三人称で書かれる。 そしてそして最後には登場人物に寄り添いすぎた作者は紙上で登場人物の隣に佇むことになる……。 そんなアクロバットな表現もこの文体があったればこそ! 史実を正面から扱うため、21世紀の執筆時点から見たノンフィクションとしての記述となれば冷めた文体に陥りそうだし、当時そこにいた人物の視点を借りた表現だと熱気を帯びすぎたり、見てないものも見たことにして書くという矛盾も出てくるものだけど、アクロバットな文体故のなんとアクロバットな解決方法!! この文体と構成を思いついた時点で、成功は約束されたものでしょうね。本当にもう空前絶後! もう文学、小説に新しいスタイルなんてないのかと思っていたけれど……、うーむ、唸らされるばかり。 作中に作者が堂々と出てきてしまうのは、ミシェル・ウェルベックもよくするように、最近の仏文学の流行りなのでしょうか。 一種のリアリティの獲得なのか、時間的距離感の超越なのか、それとも歴史の一事件に近親感を持たせる手法なのか……。 ……おっと、空前絶後とか言いましたが、ありましたね、日本に、「作者の一人称」ってやつ。 司馬遼太郎。 しばしば作中に登場して、私見を語るくだりがありました。ありましたよね。 歴史が好きすぎると、外野でのほほんと見てられない、もうおれが出て行かねえと収まらねえや、ってかんじなんでしょうかね。 決してでしゃばることのないクールな歴史家ではなく、小説家ってのはこう熱くないと、足らないところは切った張ったしてでも、ってかんじでないと名作は書けないんでしょうかねえ。 とすれば、こういった文体も歴史的必然ってやつなんでしょうか。 | ||||
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作者はいろんな資料や、特に写真を見ながらこれを書いたようで、 「ハイドリッヒがこれこれした時の写真が手元にあるが、 この時の彼はこんな様子に見えるが、もしかしたらこれこれだったかもしれない」 といった描写がたくさん出てくる。 いっそ、手元資料を見せてくれ!と言いたくなった。 普通、歴史小説を読んでいて資料を見たくなることはほとんどないと思うが この小説?に限っては、 ディアゴスティー二のムック本「類人猿作戦」にまとめてくれんかなあと真剣に思ってしまった。 (できれば関連映画のDVDも付けて) ヒムラーやらハイドリッヒやら現場の教会やらの写真をググりながら読んだ。 これは、小説としてどうなの? | ||||
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ナチスの金髪の野獣ことハイドリヒ暗殺までの本筋と並行して語られる、著者のものと思われる人物の思索は、この部分が評価されているのだとは思うものの、読みづらくしているのも事実。 自分のような凡人には少々ハードルが高かったようです。 ナチスやハイドリヒの行った非道な蛮行は弾劾されて当然だし、命を賭して暗殺を決行する二人の青年の勇気は称賛されて然るべきで、ここに異論はありません。 でも、事実以外書きたくないと言いながら著者は、ナチスに対しては憎んでも憎みきれない絶対悪、二人の青年に対しては憧れのヒーローというような感情を持っているので、内容にも多少偏りがあるような印象を受けました。(著者は1972年生まれで、ナチスの被害を直接にも間接にも受けていません) 被害国の作家が書いた作品なので当然かもしれないけど、つまり、史実と言いつつも勧善懲悪の色がやや強いのかな、と。 | ||||
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