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【この小説が収録されている参考書籍】
カラマ-ゾフの兄弟の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.26pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全49件 21~40 2/3ページ
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読むのに10日以上かかりました…上巻より読みやすくなっているものの、会話の「」は長いし、改行はないし、使っている言葉は独特だし…。 いつの間にか殺人事件が起きていて、その供述のシーンに突入。 そこに入った部分以降は読みやすさは増していきました。 感想はこんなもんです。 何とも言えない自分が情けないですが…下巻ではなんとか少しでもメッセージ性を読みとって、感想を言えるくらいにはなりたいです。 著者:ドストエフスキー 発行:S53.7.20 – H24.12.20 75冊 読了:2015年/124冊(11月/2冊)★3.3 | ||||
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やっと読み終わった「読み終わった」というものの、物語の意味はほとんど不明、ただ活字を追っていく作業・修業、という感じでした。 ほとんどが会話で、ストーリー性はあるのか?『罪と罰』は筋があったものの、本書はなんて感想を言えばいいのか。感想に困ります。 他のレビューを見てもだいたいが同じような感想で、若干安心です。 今まで読んだ小説の中で一番長いのではしょうか。これが後、中・下巻があると思うと身震いしますが、ちょっとずつこの“作業”にも慣れてきました。次は、ストーリーを楽しむことが少しでもできれば僥倖です。 ───「それというのも、彼女を少しも愛していないってことが、わかったからさ!へ、へ!蓋を開けてみたら、大違いだったってわけだ。しかし、とても好きだったがね!さっき演説ぶったときでさえ、好きだったよ。そう、今だってひどく好きだ、にもかかわらず彼女から離れるのが、実にせいせいした気持ちなんだ。俺が虚勢を張っていると思うかい?」(p.583) 著者:ドストエフスキー 発行:S53.7.20 – H20.2.10 68刷 読了:2015年/121冊(10月/6冊)★3.2 | ||||
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フョードル・カラマーゾフは、ほとんど無一文から成り上がった強欲かつ好色な地主である。フョードルは裕福な名門貴族の娘・アデライーダと駆け落ち結婚し、長男ドミートリイ(ミーチャ)が生まれる。フョードルは結婚によって財産を手に入れるが、結婚生活は早々に破綻し、アデライーダも死ぬ。フョードルは、あとに残ったドミートリイをまともに世話せず、ドミートリイは召使や母方の親戚によって育てられる。 フョードルは、ソフィヤという美少女と再婚し、イワン、アレクセイという二人の男の子が生まれる。ソフィヤは病死している。フョードルはこの二人もまともに養育しない。イワンはインテリで理性主義的であり、アレクセイは純真で真面目な人道主義者。また、フョードルの家には、白痴の女が生んだスメルジャコフという若者が召使として働いている。スメルジャコフはグレゴーリイという老召使夫婦に育てられている。 フョードルとドミートリイは家の金の分配のことで揉めている。ドミートリイは、元上司の娘・カテリーナと婚約しているのだが、その一方で、グルーシェニカという女に惚れている。ドミートリイは、頽廃を愛し、頽廃の恥辱をも愛する、といい、どこか自己破壊的なところもある。ドミートリイは一時的な金銭問題でカテリーナを助けてやったことがあり、カテリーナは金銭問題解決後、ドミートリイを熱烈に愛するようになる。カテリーナは美人でしかも裕福。ドミートリイは自分はいま金がないと正直に伝えるためにイワンを差し向けるのだが、今度はイワンがカテリーナに惚れる。それでもカテリーナはドミートリイが好きなのだが、ドミートリイはカテリーナが愛しているのは自分の善行であってオレじゃない思っている。グルーシェニカは悪女だが、肉体がすばらしい。更に、フョードルもこのグルーシェニカを狙っている。フョードルは、本当に怖いのはイワンだという。 アレクセイも、ドミートリイに頼まれ、別れを告げるためにカテリーナのところに行くがここでグルーシェニカに鉢合わせ。グルーシェニカは一見すると平凡であり、美しさもまあまあといったところ。グルーシェニカはカテリーナを愚弄し、カテリーナは激怒する。 フョードルは、イワンはフョードルがグルーシェニカと結婚しないように見張っており、そのためにドミートリイをけしかけていると考えている。そうやって、グルーシェニカにフョードルの金が渡らないようにしつつ、裕福なカテリーナを手に入れようとしている(?)。 カテリーナのようなタイプは相手を支配することが必要であり、彼女が支配しうるのはドミートリイのような相手だけでイワンのような人間は決して支配できない、とアレクセイは思っている。 イワンは、カテリーナは、カテリーナを侮辱するドミートリイを愛しているし、ドミートリイが立ち直るとドミートリイのことをすっかりきらいになるだろう、自分の貞節という献身的行為を鑑賞し兄の不実を非難するためにカテリーナはドミートリイを必要としている、と考えている。なぜなら、カテリーナはプライドが高い。やがて、イワンはカテリーナに別れを告げると自分がカテリーナのことをちっとも愛していなかったとわかりスッキリする。しかも、カテリーナが愛していたのは実はドミートリイではなく自分だと言い張る。 アレクセイは、修道院から出て、カテリーナを保護する夫人の娘・リーザ(車椅子の少女)と相思相愛。 | ||||
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4としてわざわざ独立させることが必要ですか。素人には、背景がよくわかりましたが・・・・・ | ||||
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同じ外国の本でも訳する人にとってこれだけ違うとは・・・? かなり読みやすいですし、ニュアンスまでかわってとらえられます。 良書です。 | ||||
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カバー絵が写真と実物で違うことをきちんと明記してほしかったです。 | ||||
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村上春樹氏のファンならば読んどかないといけない作品なので、2か月かけて読みました。 思っていたよりは、読みやすかったけど、やっぱり、大変だった。 | ||||
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村上春樹氏のファンならば読んどかないといけない作品なので、2か月かけて読みました。 思っていたよりは、読みやすかったけど、やっぱり、大変だった。 | ||||
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村上春樹氏のファンならば読んどかないといけない作品なので、2か月かけて読みました。 思っていたよりは、読みやすかったけど、やっぱり、大変だった。 | ||||
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次々と豊かな文が、表れ圧倒されるが、文学の才のない私にはなかなか難しい表現が多く、読み進むのに時間がかかった。 | ||||
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キリスト教に関する基礎的知識の不足を感じ、一旦、カラマーゾフの兄弟は休み、それらの本を読むこととした。 つまり、この小説は、よほどキリスト教に詳しくないと本当に理解は出来ないと言うことであろう。 | ||||
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<5巻まとめたシリーズとして> 村上春樹を始め、数々の評論家筋がベストに挙げる作品。 「読まずに死ねるか!」的なランキングには大体入っている。 まず、翻訳。以前、原卓也訳の新潮文庫版(かなり古い訳)で挫折したが、本作は確かに読みやすい。 だが、読みやすいかというと、そんなことはない。書かれたのが100年以上前であり、翻訳本であるということから致し方ないことではあると思うが。 肝心の内容であるが、確かに激賞されることはある。多様な登場人物とその人物造形。更に、生と死、聖と俗、男と女、父と子、富と名声、誇りと恥辱、などの人生においてキーとなるような要素が「これでもか」と盛り込まれており、あらゆる角度からの読み方に耐えられる。 ただ、読んでいる間に面白いかと思えたかというと「否」である。これは自分自身の読解力のなさが、この本を読むことを苦行とすることを招いてしまったのは多分にあるとは思うが、一つ思うのはこの本は「何度も読むのに適しているのでは?」ということだ。 最後に翻訳者が、本作を「ストーリー層、中間層、作者の自伝層」の3層で読むことができると述べている通り、最初の通読でストーリーを頭に入れて、"つまみぐい"しながら読み込んでいくというのが正しい楽しみ方なのではないだろうか。 そして、自分がそのような読み方をするか、、、というと図書館から借りたのもあり、かなり微妙なところ。ここまで苦労したのだから、再読すべきだという気もするが決心はつかない。 | ||||
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人間存在と神の実存をめぐる、めくるめくような議論が展開された第二巻とはうってかわって、この第三巻では、議論ではなく行動する男、ミーチャが前面に躍り出てきます。 ただ残念ながらこの第三巻以降、私にはこの作品が非常にわかりにくくなっていくのです。 その理由を正直に申し上げればーミーチャという男の行動原理、思考についていくことができないからです。 この作品が退屈だーというレビューを書いている方も居られますが、私なりに正しく言いなおせば、わけの分からない男の無茶苦茶な行動に3、400ページもつき合わされるから疲れるーと、感じてしまうのではないかと思うのです。 どうも私にとってミーチャという男は、典型的に救いようのない自己破滅的な人間に思えてしまいます。 老人を殴り倒したり、恋人のお金を使い込んだりしていながら、自分は常に高潔になろうとして苦しんでいる人間だー、などというのも小説ならともかく、現実に存在していたら耐え難いほどに見苦しい男に思えてしまいます。 “恋人のお金を全部使い込んだら泥棒だが、半分だけなら卑怯者であっても泥棒ではない”という有名な口上もずいぶん手前勝手な理屈です。 勿論こういう迷える熱血漢が偉大な聖者になることがあるーというつもりで作者は彼のことを創造したのでしょうし、こういう人は私の知っている限りでも世の中に間違いなくいます。 恐らくドストエフスキー自身もそういう人だったことでしょう。 彼はその偉大な文才よって明らかに人類に貢献しましたが、はたしてこのミーチャのなしえたことは一体なんだったのかー? これは作家の自己弁護的キャラではないのか?ミーチャという人間を肯定できるかどうかで、この作品の評価はまるで違ったものになると思うのですがどうでしょうか? | ||||
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壮大な物語もいよいよ佳境に入っていきますが、この父殺しの裁判は結局何を暗示しているのか、なぜ一殺人事件の行方がロシア全体にかかわる問題なのか、これは理解するのがかなり困難です。おそらく愛(アリョーシャ)・理性(イワン)・情熱(ミーチャ)の不整合によって起こされたこの世のカオスそのものがここに表現されていると思うのですが、結局そのカオスの果てに何がどうなったのか、いまひとつ不明瞭のままあの“カラマーゾフ万歳!”につながっているような気がしてどうも釈然としません。 さらにこの作品においてどうも納得いかないのが登場人物達の不思議な恋愛模様です。 例えばイワンは、ミーチャの恋人カテリーナに横恋慕しているのですが、その二人がどこでどういう風な心情でつながっているのかはまったく描かれていません。 さらにイワンはアリョーシャの婚約者、リーザにも懸想して彼女の人格すら崩壊させています。 しかし、表面に描かれているイワンの描写を読むにつけ、彼がなぜそんなことをする必要があるのかが分かりません。 ドストエフスキーの作品において登場人物たちは、恐るべき雄弁さで自分の哲学と思想を語りますが、最も人間的なナマの心情が現れる恋模様においては、作者は意図的ではないかと思えるくらいにことの成り行きをはしょります。 人間とは複雑怪奇な生き物だから、そんな心の内部のことまで描く必要はないーと、言う人もいるでしょうが、それはおかしいです。人間一人や二人の内面のことですらさじを投げる作家が、神とこの世の摂理を語ったところで、その言葉になんの意味があるのでしょう。 この作品に何か違和感を感じる読者というのは、こういう思想と感情のアンバランスさに敏感な人ではないでしょうか。ドストエフスキー最大の作品には、彼の作家としての長所と短所がものの見事に出ていると私は思います。 | ||||
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読み通して感じたのは、この小説は革命前夜のロシアにおけるナショナリズムを高らかに謳いあげるための小説だという印象である。 時代性と地域性をまるごと繁栄したために、19世紀から20世紀にかけて勃興した国民国家における普遍的な論点(市民権と王権のせめぎ合い、宗教的な倫理から実存的な倫理への転換、国民の繁栄と同一視される国家の繁栄、自由思想とその弊害)を描くための小説となっている。 著作そのものは、19世紀的、国民国家的全体小説であり、その最高傑作であると言える。 だが、この本が新訳としてベストセラーになってしまう現代日本社会は、危険をはらんだナショナリズムに何かを見出そうとしているのではないかと、勘ぐってしまう。 そういう読み方がしうる読書になってしまった。 文学とナショナリズムについて考えざるをえない小説。 一読はするに足りるし、何度も読み返すにも耐えうる小説だろう。 しかしながら、現代社会はナショナリズムを超えていかなければならないという個人的な主義主張から、この作品よりも良い小説に出会えることを期待したい。 | ||||
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世界文学屈指の名作との呼び声もある、カラマーゾフの兄弟。 「屈指の名作」だけあって、文学作品としても評価が高い。当アマゾンのレビューにおいてもまた然りです。 私はこの偉大なる名作に過去3回チャレンジし、3度目に読了を果たしました。1回目、2回目はほぼ同じところ、新潮文庫の中巻の途中で挫折しました。名高い「大審問官」だけは何とかクリアしようと頑張り、それを乗り越えたところでの挫折でした。 2度目のトライ中に版が現在のものに変わり、文字が大きくなりました。「文字が大きくなったので読みやすくなったのでは」と思い、新版を上中下3巻買いなおしました。それだけ、なんとしてでも読了したかったのです。何せ「屈指の名作」ですから、地平の向こうに何かがあるはずと、半ば強迫観念に取りつかれていたのです。 苦労しつつ、途中長い中断を挟んで足掛け2年半、3度目の正直で曲がりなりにも読了。 さて、私の感想。よくわからない。3回ともよくわかりませんでした。 3度目は、わからないながらも、「最後までいけば何かがわかるかも」と思い読み進め、ついに下巻。下巻も苦心惨憺読み進めたものの、最後になってもモヤモヤしたまま終局を迎えてしまいました。 たしかに「大審問官」をはじめ、読みどころは満載です。ただ、パーツを全体の中で位置づけることができず、「ひとことで言ってどんな作品か」とたずねられても答えられませんし、「すばらしいのでみなさんにオススメです」などどは、とてもいえません。 文学門外漢の私に、果たしてカラマーゾフが「世界文学屈指の名作」なのかかどうか、まったく判断つきません。。もっとも、比較できるほどたくさん読んでるわけでもありませんが。 まあ、おそらく、私レベルでは一度通読した程度では真意はつかめないのでしょう。一読明快では、それこそ世界の代表的古典として、あまりにこころもとない。 時間ができたら何度でも再チャレンジしたい。そして、本当にすばらしい作品と実感することができれば、みなさんに自信を持ってお薦めしたいです。 以下は余談ですが。 読んでいる最中に、あまりにわからないので、原書で読めばわかるのでは、とは思ったものの、そのためにはロシア語を学ぶ必要があるのでさすがにそれはあきらめました。ところが、どういうわけだか、「文章の論理展開がわかりやすいであろう英語で読めばもう少しわかるのではないか」という妄想に囚われ、英訳本をアマゾンで取り寄せ、届いた本の電話帳のようなボリュームに圧倒され、それは書棚の肥やしになったのでした。 | ||||
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過去異なる訳で2回挑戦して、途中で断念し 今回の訳で3度目の挑戦でした。 読んだというよりは、 辿りついたという感じです。 文豪の文章はタフで、 何度も畳みかけるように 繰り返し表現されます。 私にはそれが冗長に感じられ、 どうしてものめり込めませんでした。 自分の実力が本に及ばなかったのかも しれません。 ただこれだけの文章を書くには、 命を削らなくては書けないのではと いう感想です。 | ||||
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私の友人で哲学マニアがいる。話題はいつもフーコーやヘーゲルのことばかり。ある時、ウイトゲンシュタインの話になった時、ウイトゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を50回精読したという逸話を語ってくれた。私には『カラマーゾフの兄弟』を50回も精読するほどの根性はないが新潮文庫の原卓也訳で2回、亀山訳で1回読み直した。回数を重ねれば読後感が深まるかと思ったがまだよくわからない。ドストエフスキーがそんなに簡単に分かるわけはないんだと思った。これからもウイトゲンシュタインの50回めざして(一生のうち何回読み返せるか分からないが)読み続けることだろうと思う。 | ||||
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ま、「エピローグ」という言葉からも予想される通り、この第5巻での『カラ兄』本文の残りはごく僅か、366ページ中なんと63ページまでしかない。残りの部分は訳者による「ドストエフスキーの生涯」「年譜」「解題」「あとがき」である。つまり本文は解説の5分の1しかない、ってこと。 訳者の意向により、このエピローグだけで一分冊にしたかったらしいけど、営業的にはどうなんでしょ?なんか、訳者が自分のカラ兄解説書まで買わせる「抱き合わせ商法」にも感じられる。 で、本編「エピローグ」ですが、やはり大幅なストーリーの展開は無く、最後のアリョーシャの子供たちに対する歯の浮くような「お説教」の後、唐突な「カラマーゾフ万歳!」って、どうよ?冤罪で流刑になっちゃったミーチャはどうなんのよ?脱走計画は?まだ、全然話終わってないでしょうってば! ま、元々作者前書きの部分で本作は物語の前半部、つまり続きがありますよ〜、って断ってんだから仕方ないかも知れないが、じゃ世間はもっと「カラ兄は未完の作」って事を周知徹底して欲しいよ。 「ドストエフスキーの生涯」は読みやすい文章で分りやすかった。「解題」の方は思い入れたっぷりに書いているのは分るが、ここまでやると贔屓の引き倒しでしょう、って気がしてきた。むしろこれだけ歴史的、伝記的、文化的考証が必要な原作はもはや現代の一般読者が読むにはそぐわないとの感を強くした。 全巻通読後の最終結論=ドストエフスキー代表作は『罪と罰』で決まり、『カラ兄』通読必要無し! | ||||
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文体は饒舌で情緒的、観念的。登場人物は歓喜し絶望し冷笑し絶叫する。その感情の起伏はジェットコースターのよう。 あらすじ的には父親殺しを巡る推理劇と言えなくもない。しかし、メインプロットとはどうみても無関係に思われるサブプロット、ディテール、登場人物が、要するに枝葉がこれでもかとばかりに繁茂している。いったい今読んでいるこの部分は、この大木の幹につながっているのだろうか?とたびたび不安になり、うんざりしてくる。 たとえば神の存在について登場人物が開陳する持論。それが、先述の「過剰な」叙述でもって延々と描かれる。 第5巻の大半が費やされる訳者による「解題」によって、そうした「うんざり」の大半が相応の意味付けを与えられはするのだが、もし解題なかりせばとんでもない徒労感が読後に残ったことだろう。 ところで、本書が世に出た19世紀ロシア(もくは欧州)の人々は、この大作をどのように読んだのだろう。 もちろん解題などないわけで、その中でこうした収まりの悪い「過剰な」エピソードやディテールをどう咀嚼したのだろうか。 少なくとも現代日本のスピード感や文化的問題意識においてはどうにも向きあうことのシンドイ諸々の内容も、当時のロシアの人々にとっては同時代性を持った切実なテーマとして捉えられたのかもしれない。 また振幅の激しい感情をもった登場人物のキャラ設定も、当時のロシアの「情緒」からすれば別段の違和感はなかったのかもしれない。 そうとでも考えなければ、この壮大すぎるストーリーをそのまま受け入れるなんてことは出来ようもないと思われてならない。 とはいえ、この作品に触れておくことは「読書経験」としては決して無駄ではあるまい。 その意味でも本書は一読の価値はある。 もう一度読め、と言われたら「ご勘弁を」かもしれませんけど。 | ||||
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