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わたしを離さないで
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わたしを離さないでの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.10pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全75件 1~20 1/4ページ
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「臓器提供者」としての役割を持って生まれてきた人達のお話で 「ひとであって人でない」という複雑な存在である事を感じながら読ませてもらいました。自分の身体が誰かのために 提供されていき順番待ち状態というのはある意味死刑宣告と同じなのではないか?とさえ思う。小説と言いながらも この世のどこかに その存在があるのではないか?と思うような小説でした | ||||
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正直あまり楽しめませんでした。 ああそうか、私は読書に楽しみを求めていたんですね。 そういうひとにはあまり合わない作品かもしれないです。 ノーフォークでの出来事は好きでした。 | ||||
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御伽草子さんのやたらと長すぎるレビューを読んで物申したくなった。やたらと長い文章にしなくても伝えることは出来ると思う。それを踏まえた上で、私はカズオイシグロのこの作品の感想を書こうと思う。 読んだのはかなり前だった。私は精神科のデイケアを利用していた時期があったので、施設で生活をするこの小説が擬似体験されたように自分には感じられてしまい、大変怖かった。ある心理職の人がこの小説をTwitterのタイムラインで言及していた時は、そんな内容だとは全く思ってなかったので軽い気持ちで手に取った。小説をそもそもそんなに読まなかったけど、文化資本豊富で高学歴な人達の学ぶことに積極的な様子を見習って、自分も読んでみようかと思ったのがきっかけだった。 その本がとても怖いものに思われたのは、私がデイケアに通っていたから特にそうだったということもあると思う。精神科のデイケアには様々な人が通う。長いこと引きこもっていた人や、お年寄りの人、若い人、普通に仕事をしててそこそこ元気な人も、鬱になったりして社会復帰するために利用してたりもする場所だ。そこには医師の他に看護師、精神保健福祉士、作業療法士などの資格を持つ専門職がおり、彼らスタッフの運営のもとに、利用者が各々の課題に合わせて利用時間を過ごすのだけど、社会復帰するためにと言われても何か特別にそのためのサプリメントが与えられるわけじゃない。利用者の中には長年不調を抱えていたり傷ついた人もいたりして、将来は未確定で希望があるのかもわからない状態で通院している人も多かった。ふと無力感を感じると、同世代の活躍する医療スタッフと自分を対象的に比べ、自分の何も持っていなさに傷つきを感じたり、弱々しく思ったりもする。それは登場人物たちの置かれた環境とは全く違ったものだけど、「患者」として位置付けられた自分たちに与えられているのはあくまでも表面的な対応なんだと感じてしまう瞬間があり、その表面的な言葉と本心との乖離にゾッとしたような経験と登場人物達の特殊に孤立した立場の印象が結びついて感じられた。 読んだ時、ちょうど台風が通過していた。びゅうびゅう風の音がなり、雨が叩きつける音を聞きながらページを捲りながら、恐ろしい気持ちに取り憑かれながら、最後まで読むのを止めることができなかった。読み終わったあとも気持ちを落ち着けるのに時間が必要だった。しばらくして「これは妄想だ」とやっとのことで言わないと気持ちを取り戻せないくらい、恐怖に引き込まれていた。 しばらくして、自分と同じような恐怖を感じた人と気持ちを分かち合いたくて、本のレビューサイトに行ってもう一度びっくりした。この小説に描かれた登場人物の気持ちの描写の素晴らしさを褒め称えた、陶酔した様子のレビューをいくつも見つけたからだ。私は怖くなった。自分にとってはどう考えてもディストピアで、同じ人間をこんな風に扱う人間がいるなんて思いたくもない。当然そんな風にみんな思うと思っていたのに、私が見た限りでは誰一人としてそのことに言及していなかったからだ。そのことが物凄く恐ろしかった。これを恐ろしいと感じる人はいないんだろうか?と思って、いくつかのサイトを見た。 私にとって、この本はそんな意図ではなかったのにリトマス試験紙のように働いてしまった。私は普段小説をそんなに読まない。高尚な文学をいくつも読んだり作品を評論することに慣れている人はまた別の作法をもってこの小説を読んだりするのなのかもしれない。だけど、どんなに高学歴であったとしても、恐ろしいことを恐ろしいと言えずに、このディストピアが現実に起こることを回避して世界を作ることが出来るだろうか?と思ってしまった。他者に興味のない人は自分たちの作り出す世界がどんなもので誰に何を及ぼしているかなんて、何も考えずに生きているんだろうかと思った。そういうことを気にせずに生きていられる人もいるのかもしれない。でも、何を言うのも自由、という建前を振りかざして、自分の言葉によって他者がどんな思いをしても追い詰めずにいられないSNSでの書き込みなどを見ていると、その自覚のなさがこういったディストピアを作り出していくことになるのではないかと思い、やはり自覚的であるべきではないのかと思った。 別の視点で見ると、抑制したような表現、という解説がよくされているこの小説の登場人物の中には、抑制されているだけでそこに感情と生きる意志があるのだと感じた。言葉に表せないような、表したくもないような破壊された内心になるのはそれを外の世界から見る読者である自分の気持ちで、登場人物の気持ちとは違うかもしれないけど、それでも主体性を持った人間としての尊厳を保とうとしないと、介護人になることなんて出来ないだろうと思う。そのことを、感動したなんて気持ちで感想を言っていいのかと思ってしまった。私の記憶では、この小説は語られていないことがたくさんあり、読む人によって全く違うものが想起され、違うものになり得るのではないかと思う。そのわからなさを明確にされることなく、美しい賛辞を形だけ述べた人もいたのではないだろうか。それは定かではないけど、この小説を通して私が感じたものはそういうものだった。 小説をどんな風に読むかに別に正解なんてないと思う。難しい学びをしている人こそ、その世界を知らない人にはわからない配慮や作法などがあって、思ったことを自由に言えないものなのかもしれない。必ず教訓を得たり感動したり、何かを学んだりなんて、別にしなくてもいいのだと思う。ただ私は、その体験によって自分の人生や生活にとって何か印象に残ったものや学びになることを見つけたいと思った。それは必ずしも重々しいものだけではなく、明るい気持ちや楽しい気持ちになるもの、希望になるものと同じように。 | ||||
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子供の日記のような翻訳にとてもがっかりした。 この作品の原文を読んでみたいが、日本語のように理解はできないので残念だ。 他の作品も読みたいが、全て同じ翻訳者なので読む気がしない。 別の翻訳者で改めて発刊してほしいものだ。 | ||||
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この話は未来とか臓器とかを奪われる苦しみの話ではない気がする。ではどんな話か?それはトミー曰く提供人でなければわからないという。だがキャシーはトミーを失うことでそれを悟ったのだと思う。 提供人が俺たちと同じなのか? これはわからない。何故なら提供人の例えにモーニングデールという強化人間? のことが上げられたからだ。ホモ・サピエンスはネアンデルタールを駆逐した。それがモーングデールと人間の間に起きたと私は思っている。つまりこれは我々人間と同じ存在かどうか疑わしく、人権的前提で語ることが難しいことが示唆されてると思う。 展示会においてはそういった意味で絵と魂の問いがなされたのだろう。だが教師たちはそんなことは予想しておらず、恐らく子供達がこの世界で資本主義的な発明や発展に寄与できるなら救うべきではないか?という問いがあったかのように思う。しかしこの物語の人類は自身のエゴのためにそれを無視することに決めたようだ。そしてトミーはその構造に怒り狂った。しかし提供人は未来がないことを洗脳されて来た存在で、猶予の話も本気だったのかわからない。彼が何に怒り狂ったのか? それがわからないままでいる。 カズオイシグロは『ホモ・サピエンス』に優れた作品だと寄稿している。ホモ・サピエンスの中では人間は虚構に生きる存在だと言われている。よって猶予という虚構に踊らされた彼らは間違いなくモーニングデールではなく人間だったと定義できる。 トミーはだから明らかに(お客様扱い)人間扱いされてないことに昔から怒っていたのかもしれない。だがキャシーはトミーを失ったことに明らかに反応を示す。だが、それは愛する人を失ったからではないハズだ。彼女はそれ以前にすっぱりと別れを経験したのだから。 私の感想としてはキャシーが失ったものはヘーシャルムで育まれた仲間とか覆っていた世界像を奪われたことだと思う。マダムのように幸せだったヘーシャルムやトミー、ルーシーの記憶を抱いて『私を離さないで』と念じるがそれが帰ってこないというシーンに帰結すると思われる。そのシーンへの回帰だけを見るならこの作品は芸術的に昇華されているだろう。 つまりこの話は過去の約款とかモラルに囚われた人間の話だったのかもしれない。しかし言うほど過去の話だろうか?と言う気はする。何故ならこの世界では未だに約束事で成り立っている第三世界があるからだ。 とにかく私にとってはこの作品の提供人は自分の精神を超越しすぎて共感でき難いというのが実情である。もし私がキャシーだったら「残念だったね、ご愁傷様」といって本を閉じて、どこかの野原で歌いながら踊るキャシーの様に思いふけるぐらいしかできないだろう。そういう意味では私もキャシーの抱く過去に思いを馳せながらも彼女達の未来に思いを飛ばすことができない存在を共有できてるのかもしれないが。 | ||||
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後を引く作品なのは間違いない。 でもテーマが好みではないので 評価が難しい。 | ||||
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内容の衝撃にくらべ、静かにストーリーがすすむ 主人公たちが自分の運命を受け入れているところに違和感を強く感じつつ そういう仕組みの存在を語っているということを理解して 不思議な感覚になる。 受け入れつつも、愛があれば、提供を間逃れるという伝説が生まれ その伝説に希望をかけるという物語が秀逸 | ||||
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2度、目を通した感想を書きます。 1度目は前知識なしで読んだんですが、あまりの退屈さに耐えられず途中で読むのをやめました。 2度目は、この物語の真実を人から聞いて驚き、そういう話だったのか!と知った上で読み直したんですが、その真実までやっぱり辿り着けませんでした。 タイトルもジャケットも好きなのに肝心の中身が好きになれず、なんだか無性に悔しくなる作品です。 | ||||
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別に言葉にしなくていい部分の描写が長いかなと思いました…。そんなん読まんでも分かってるよというか……。え、こっちは分かってないと思ってんの?というか。変に敬語だし、ガチで朝礼聞いてる気分になりました……。 | ||||
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ありがとうこざいました。 | ||||
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物語の登場人物たちは一見どこにでもいる普通の人たちだけど、全く普通ではない人生を生きている。そのことをナレーション的に説明はされないし、登場人物のセリフにも明言はない。ただ読んでいるうちにいくつかのヒントがあってそれらを拾い集めるとそういうことだろうな、と理解できる程度。だから少しもどかしい思いが後味として残るかもしれない。 | ||||
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僕の感性の問題かもしれないが、これを読んで深く考えさせられたり世の中の見え方が少しでも変わったりするということはなかった。しかし物語後半における草原の場面は印象深かった。 世界から見放された若い男女がいる。男は誰もいない原っぱで泥まみれになって飛び跳ね、暴言を吐き、腕を振り回す。やり場のない怒りを爆発させている。フェンスを乗り越えて男に駆け寄った女は、必死で男にしがみつき、やがて落ち着きを取り戻した二人は抱き合いながら無言で立ち尽くす、という場面だ。 あくまで憶測だが、作者の頭には最初この情景がひらめいて、これに肉づけする形でこの小説は書かれたのではないか。クローンやら提供者やらの「設定」は後づけに過ぎないのではないか。 いずれにせよ、これは生命倫理や運命について考えを深めるものというよりも、映像や景色を味わうように鑑賞する小説だと僕は受け止めた。 | ||||
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詰将棋や、パズルのピースがはまっていくのを眺めていくような小説。 文章の力があり謎解きも心理描写も風景描写も素晴らしいと思った。 しかし、クローン人間が『【人間】では無い』と公に認められるような世界などあり得るのだろうか。 並行世界のお話だとしても、自然発生した人間と同じ姿をした生物を【人間】と認めない世界など信じられない マダムが恐怖する描写から、もしかしたら、クローン人間が本来の人間の姿とかけ離れていて、この本の中の『クローン人間』というものはタコや豚に人間の内臓を詰め込んだような存在なのかもしれないと思ったが、この文章の描写からは普通に買い物できたり『親』が自分と似ていると考えることから、それも考え難い。 飼い猫飼い犬にさえ、その気持ちに機微があることが心ある人間ならわかるだろう。 まして見た目同じ人間なのに、感情、深い愛情があるかどうか疑うことなどあり得るのだろうか。 教育によって人がどんな残酷な運命にも疑問を持たずに流されてしまうことを描きたかったのだろうか 教育によってヒトが人になること そういうことを考えれば、現状、学ぶことを放棄して暴力に走る世界の兆候を皮肉ったお話なのかも知れない | ||||
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主人公や女性の話し言葉は気になりませんでしたが、 男性の言葉遣いが、なんというか、昔の映画の吹き替えの言葉遣いというか、古い昭和初期のドラマみたいというか、、、それが気になり過ぎていまいち感情移入できまけんでした。。別の人の訳で読みたいというのが正直なところところです。 | ||||
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本作はノーベル文学賞受賞後にカズオ・イシグロ氏の代表作として『日の名残り』とともにあげられていたので、私自身にとっても初カズオ・イシグロ作品として読み始めました。 イシグロ氏の公式出版としては本書を含めて「長編7作品」「短編集1冊」というわずかに「8冊」しか出ていないのに世界中に多くの読者を持ち、ついにノーベル文学賞まで受賞したのは凄いことだと思います。 そうしたこととは別に、私自身がイシグロ氏の作品を読ませてもらうと、そうした華やかな経歴とは裏腹にどうにも納得し難いイシグロ文学への疑問が湧いてきてしまいました。 まず本作は単純に「設定が甘すぎる」というのが私の感想です。 最初から最後まで「提供者」であるキャシー・Hという女性による独白という設定で物語が進行しますが、読者ならば当然疑問にもつであろう「各種基本設定」というものについて、最後まで語られることはありません。 「提供者」というのは臓器移植提供者であって、クローンによって誕生しているということが「クローン」という表現を用いながらたった1回だけ語られます。 この作品は細部についてはイシグロ文学の特徴である「記憶の曖昧さ」ということから保護されているからなのか、そういうシステムでクローンが行われているのかという決めて重要なことすら語られず、後味の悪い疑問満載のまま終了してしまいます。 これが完全に「寓話」の体をとっているならばそうした逃げ道はあってもいいでしょう、しかしそういう文体ではありません。 提供者が何度も提供するということが書かれているのですが、それは一体全体人体のどういう部位なのか?そうしたことすら著者は書くのは避けてすませます。 私は本作についての専門家による多くの分析や批評も読んでみましたが、どの専門家評を読んでもこうした疑問は解消されませんでした。 専門家からみれば「技巧的」で新しいのかもしれませんけれども、私には完成度の低い稚拙な小説としか思えません。 | ||||
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今回、体験入会でオーディブルを利用してみました 一度読んでみたかったイシグロさんの作品があったので読んで(聴いて)みたのですが… オーディブルにはもっと軽い作品、ラノベなんかが向いているように思いました 紙の本を読んでいる時は無意識に緩急をつけていますし、必要に応じてちょっと読み返してみたりしながら読み進めるものですが、オーディブルではそうもいきません ただ、睡眠導入効果は抜群で聴きながら知らないうちにぐっすりと寝入ってました。 | ||||
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TVを観てから購読なので、水川あさみ、綾瀬はるかなどが演じていた表現とダブってしいましたが、あら筋を知ってからの購読はちょっともったいなかったかもしれません。でも、カズオイシグロさんのテーマは、死とは何かではないでしょうか。もう、生まれた時に決定された将来を、いかに解釈しようと同じ無力感・荒涼感が漂っていて、振り返ってみると、ある種の犠牲によって成り立っている現在社会とかなりダブってみえました。一度、階層社会の底辺にいると抜け出せない。誰かのために生きていく。それを、アクティブにとらえるか、受身にとるか。など。考えさせられました。 | ||||
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ノーベル文学賞をとった作者が気になりどの作品を読もうか迷い、タイトルが切ない感じなのでロマンス寄りかなと思いこれに決定。 いつ感情の盛り上がりが来るのかと期待しながら一気に読み進めたものの、特に盛り上がりはないまま読了へ。 読み終えたあとに再読なり反芻して考えるタイプの文学作品なんでしょう。実際、冒頭を再読しました。 「細部まで抑制が利いた」との賛辞はその通りですが私はもっと感情移入できるような作品が好きだからこういう評価になりました。 「蜜蜂と遠雷」を読んだときの、(せっかく長編読んだのに期待と違うまま終わったな)という寂しい読了感と似ていました。 この作者は作品により書き方が異なるそうなので、機会があれば他の作品も読み比べてみます。 テーマは深く、考えさせられる作品です。 | ||||
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内容は良かった。生まれ落ちたときから地獄に住んでいるはずの少年少女の精一杯の生き様とでもいうのでしょうか。 しかしどうにもいっぱい突っ込みを入れたくなってしまうのはサガなのかな…… そういう設定であると納得して読むしか無いのだろうけど 先生達はなんかやりきった感いっぱいだし 生徒達は養豚場の豚みたいに諦観しかないし それなのに生徒達は市井で普通に隔離もされず生活している……作者も突っ込みを予想してるだろうけどね。 茫漠とした青空みたいな読後感 | ||||
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主人公が語る思い出話が、あまりにも些細な悩みが多くて、勘弁してくれと言いたくなる。ただ、そのようなエピソードが延々と続くのも、作者の狙いなのかなとも思う。特殊な人間である主人公たちの人生を通して、通常の人間の人生の短さ・理不尽さを暗に示しているのかな。 本作の主人公たちは30歳くらいで死んでいくみたいで、短い人生を悲壮な思いで生きているのだが、普通の人間でも80歳くらいで死を迎えるわけで、長い目で見れば大して変わらない。歳をとってから新しいことを始めたくても、今からでは遅過ぎる、と思ってしまう。また、寿命を伸ばすためなら、怪しげな噂にわずかな希望を見出してそれにすがる、ということもあるだろう。根拠のない「死後の世界」にさえすがる。一方で希望が打ち砕かれれば、それを淡々と受け入れて生を全うするしかない。 些細なことに悩まずに、精一杯生きよう。そう言われている気がする。 | ||||
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