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神無き月十番目の夜
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神無き月十番目の夜の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.59pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全41件 1~20 1/3ページ
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幕藩体制の確立時に常陸国北限の村が皆伐されたという言い伝えを、200年後に調べ記した「探旧考証」及び明治時代に刊行された「水戸歴世譚」を基にした小説です。四部構成となっていて~ {序章}1602.10.13 比藤村で肝煎(庄屋)を務める大藤嘉衛門が、皆伐された小生瀬村の肝煎を託されるべく幕府使者から呼び出され、事件から数日後の惨状を目の当たりにする場面から話は始まります。 徳川治世になり再検地が行われ、それまで村人の自治を尊重されていた半士半農の日々から単に徳川に年貢米を供出するだけの百姓とならざるを得ないことを思いながら~小生瀬での蜂起を最後に郷士・保内衆は滅びて時代が変わりつつあることを痛感した嘉衛門は「ともかく生きることだ」と、自らに言い聞かせます。 {第一章}1589.10.26~関東進出を目論む伊達政宗が須賀川城を攻め、対して関東勢の一翼を担う常陸佐竹の一員として参戦した小生瀬の肝煎・石橋藤九郎が弱冠16歳でありながら敵・白石騎馬武者三騎をほふり一躍近隣に名を馳せる顛末の後、1602.5.8に家康の覚えの良くなかった藩主・佐竹義宣が領地没収され出羽秋田へ転封されることが書かれています。 {第二章}1602.7.1~24 小生瀬を含む佐竹氏統治下の依上保の地の背景・風習が述べられた後、田の検地方法や年貢米の上納割合を案じた藤九郎は幕府の起請文に署名せず帰村して七名からなる村顔役に相談、厳しい取立ての中で恩典のある肝煎を辞退する旨伝えます。やがて検地が始まり、藤九郎が検地に同行している間~大切にしている稲田を検地を理由に踏み荒す検地役人、村人が楽しみにしている盆の風習を無視するそのやり方に危機感を募らせた村の若衆組頭・辰蔵が絵図にない隠田を探しに赴く検地役人の一派を殺戮。 また、事件調査の為に新たに水戸から送られた検使一行を謀を用いて月居峠で惨殺してしまいます。 {第三章}1602.8.2~関東郡代が小生瀬に密偵を放し得た情報を知らされた検使・芦沢信重は小生瀬征伐の意を固め1602.9~水戸から袋田に武田24将の一人・穴山梅雪以下400名の兵を呼び寄せます。 一方、辰蔵以下村の若衆は血気にはやり武器を準備しますが、戦となっては甚だ勝算ないことを知っている藤九郎は己一人が責を負い村を救おうと検使のもとへ向かいますが、辰蔵らとの行き違いから事故死。 1602.10.10 梅雪の兵が一村皆伐します。皆伐前日の夕暮れ時、生瀬四か村随一の鉄砲術をもつ直次郎が一人守備を離れ、自分の子であると思われる娘と産んだ母を隣村に訪ね、夕暮れ時の透き通った光のなかで陰から二人を見つめながら「霊魂というものが本当にあるとしたら、己の魂はこの沢水を引いた洗い場を見下ろす杉木立の陰にやって来て、コトとこの女童をずっと見守り続けていくような気がした」この場面、胸が熱くなります。 読み終えて~今更ながら、ありふれた日常を生きていることの有難さ大切さを思いました。 p.s. 脇差しについての記述も心に残ります。藤九郎は須賀川城へ出陣の際に戦死した幼なじみの彦七と脇差しを差し換え、月居峠で事故死した際には直次郎が自分の脇差しと差し換えます。10.10 死を覚悟した直次郎は、弟・弥三郎に「藤九郎様の脇差し」として託します。常に身につけている脇差しですから、その人をも写し込んでいると考えていたのでしょうか。(刀身の細くなった室町期の脇差しです) | ||||
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江戸時代初期に起こったといわれる悲惨な事件を元にした小説。 文章は硬いが、導入から引き込まれる。それぞれの立場のボタンの掛け違いや思い込みから最悪の結果となるのが恐ろしい。 | ||||
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日頃は東野圭吾などのミステリー小説を多く読んでいる人でも楽しめます。 時代物に読み慣れていない人は、最初の数頁、物語の情景がどうなっているのか掴めないかもしれません。 しかし、一旦ストーリーの中に入ってしまったらもう抜け出せません。 面白くて頁を捲る手が止まらず、次から次へと読み進めてしまいます。 読んで後悔することはないので、是非とも読んでもらいたい一冊です。 | ||||
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とても良かったです。 | ||||
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不思議な題名のこの歴史ミステリーは、帯や背表紙を見ると、おおよその内容は分かってしまう。現代で言うところの「大量虐殺」とか、「ジェノサイド」であろう。悲劇の結末に向かって、物語は進行するのだ。 だが、読ませます。悲劇を「おもしろい」というのも語弊があるが、ぐんぐん読み進めたくなってしまい、寝不足になってしまうほど。 興味深かったのは、当時のオオカミや馬などの動物の習性、森の藪の中でヤマカガシに噛まれないように歩く方法、まるでこの時代にタイムスリップしたかのような生活のこまごまとした様子、などなどの時代考証である。 人物描写も説得力があるので、おもしろい。 神域の森に入った役人たちが次々に「やられて」ゆく場面は、過酷な「検地」にて生活の糧を土足で荒らしまわられた村民の「仇討ち」の心理をよく表しているので、読んでいてもなんだか小気味好いとすら思ってしまう。 実際の史実には詳細は伝わっていないらしい。 どなたかが書いておられたが、「教科書の歴史」は「勝者の歴史を記載したもの」ということなのだろう。 それに近い、年貢をめぐるいさかいはあったのかもしれないが、為政者(この場合は徳川家)による見せしめとして、歴史上よくあることだったのかもしれない。 理不尽に殺されるほうは、堪らないが、「人権」の概念はなかったのだ。 御沙汰があれば、即刻、命のない時代。とはいえ「人権」のあるはずの近現代でも、日本でも、世界のどこかでも、ああ、いろいろあるなぁ、とまた考えてしまう。 作中は、自治独立の村が、徳川幕府の年貢納め直轄地になる、という設定だが、その対比がまた現代社会の縮図を見ているような錯覚を起こすのはなぜだろうか。 「それぞれに課された年貢に追いかけられ、そのあげくお互いの暮らし向きにしじゅう気を向け、ささくれだった日々しかありえない」、「妬っかみと僻(ひが)みに身を焼く毎日」、「他人の不幸ばかりを願って夜も満足に眠れん」。 ああ、こういう人、いるよな、と思ってしまう。(それにしても、本書の描写は見事。) 苛烈な「年貢」のせいなのね、と少し思う。 「倉入れ地(幕府直轄地)としての暮らしの耐えがたさは、その貧しさなどよりも、絶え間ない退屈さにある。」 「拠り所」のあるのは、幸いなのだと思う。はたして現代の日本は、どちらなのだろうか。 幕府の役人にとっては「隠し田」だが、自然相手の村民にとっては、それは自前のセキュリティシステムなのだった。 長雨の夏も、「予備の田んぼ」があれば、ぎりぎりの食でも翌年の種もみは確保できる。 他国に攻め入られても、「神域」の森に逃げ込めば、数日間、生き延びられる。 現代人の我々に、そんな「余力」のようなものがあるだろうか。「森」さえあれば、「土地」さえあれば、厳しいけれども十分な暮らし、という世界が、この日本にもあったのだろう。 作中にこの虐殺を逃れた、ごく少数の者は、「森」も「土地」もなくしたが、”己(おのれ)の生を信じ、己を拠り所にして”、生き延びたのだろうか。 そうだったらいいな、と思う。 | ||||
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ミステリーとしての評価が高いようだったのでkindleで購入。 面白いことは面白いのだけど、、、という感じ。 帯は「歴史の闇に葬られた大事件」とあるけれど、読んでいて感じたのは、その事件に太平洋戦争に突き進んでいく日本の状況を当てはめたのだな、という思い。 老若男女を問わない殺戮はまぎれもなく大空襲のアナロジーだ。 つまりは、集団戦というのはその大義から個人的な事情からいろんな要素がどこかしら似通ってしまうということなのだろう。そしていつの時代でも繰り返される。 果たしてその繰り返しを防ぐ知恵は人間に備わっているのだろうか。 時代の描写は少しくどい感じがするけれども、筆力には脱帽。 著者の作品は初見だけど、他の作品も読みたいと思わせる力作だ。 | ||||
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読み始めて数ページで断念しました。 伝えることより難しく書きたいってタイプの本で、苦手です。 | ||||
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初めて読む著者でしたが、序盤からどっぷり世界観に引き込まれました。 正直暗く、重いテーマですが、 為政者の考え、若者故の視野の狭さなど、非常に考えさせられる本でした。 | ||||
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ある村の村民全員が役人によって殺害された小説。 ちなみに、これが真実であったのかフィクションであったのか、はっきりした証拠が残っていない。 事件が起こったとされる年代も確定していない。 不気味な出来事であるが読み応えもばっちり。 ネットで調べるといろいろと出てきて興味深い。 | ||||
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一村が皆殺しに近い状態になるほどの何かがあったことは確からしいのに、実際に何があったのかについての記録がほとんど残っていない事件について、作者が想像力を膨らませて作った物語。正史に残っていないということは、権力者側にとって都合が悪い何かがあったということであろうから、判断に落ち度があった(そこまでする必要はなかった、と後で後悔した)ので記録に残せなかったか、村民が抵抗した背景に隠したいことがあった(当時の小生瀬村に残っていた制度や考え方をこそ根絶やしにする必要があった)か、どちらかであったろう。飯嶋和一が作り上げたのは、民衆の暮らしに戦国時代からの名残が残るなかで全国支配の仕組み作りに苦慮していた徳川家サイドと、軍役を優先させるための検地しか受けてこなかったために自治能力の高い風土に育った依上保との、それぞれの意図が食い違ったための壮大な悲劇である。同じ風土に育っても村民一人ひとりは完全な一枚岩ではない。幕府の方向性も、上が下した命令が直接実行する下級官吏に降りるまでの間に本来の意図とは別な形で解釈されることもある。よって、自分の頭で考えて全体の利益を考えて行動する者と、日頃の不満から分不相応な動きに出る者との齟齬が、次第に取り返しの付かない事態を生んでゆく。前者が例えば石橋藤九郎であり、谷沢の新左衛門であり、小生瀬の直次郎である。後者が例えば、吉弥・しげ母子であり、馬場兵庫介であり、帯金君松である。その歯車の狂い方が読んでいて見事に組み合わされている。これだけの人間の思惑をまるでタペストリーのように編み上げる力量は生半可なものではない。飯嶋和一、恐るべし。戦の場面も、具体的に痛みが伝わる。体の痛みも、心の痛みも、そして、客観的に見たときの、人の営みの虚しさや愚かさも、沁みるほどに、痛い。改行が少なく、非常に中身が濃密なので、読み進めること自体、かなりヘビーである。心して読まれたし。ただし、そこを乗り越えて、人間模様が絡み始めたとき、それを超える醍醐味を感じられるはずである。強くお勧めする。 p.S.しかし、直次郎とコトには幸せになって欲しかったなぁ。 | ||||
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袋田の奥、奥久慈のある村の全員虐殺で消し去った事実が隠されていた。今スポーツ界で問題が起きて居るように、言葉が足らず、悲劇が起きてしまう。マイナーな著作だが、地元の人には現場を見に行く人もあるのを知った。 | ||||
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読んでいるうちに、江戸時代の小生瀨に入り込んでいきました。美しい袋田のすぐそばで、こんな悲惨な事があったなんて!飯嶋さんの作品は、その時代に入り込んでしまう。恐いくらいに。 | ||||
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「神無き月十番目の夜」 (飯嶋和一) うーん。またしてもやられたー。 飯嶋和一さんの話のその筆致と迫力に感嘆の声を上げざるを得ません。作品「始祖鳥記」では、江戸時代に「羽をつけて滑空した町民の記録」を見つけ、壮大な物語を作り上げ、「雷電本記」では、雷電とその周囲の人たちの人情を克明に描き、この「神無き月十番目の夜」では、江戸の初期、茨城県「小生瀬」で起きた一村皆虐殺の記録から、虐殺に至る経緯を頁を繰るのももどかしいくらいの魅力的な物語に仕立て上げました。 私の稚拙な文では、この作品の良さを言葉で表現することなどとてもできません。それに、この作品の内容に深く触れたなら、この本を読む楽しさを削いでしまうことになりかねません。それは、したくないのです。もし、無謀にもこの本を「読んでみたい」と思う方がいたら、申し訳ないからです。 ただ、これだけには触れてもいいと思うのですが、感情を表す直截的な文は一切なく、淡々と語られながら、これだけの登場人物のひとり一人の生活や思いが、読み手にここまでしっかりと伝わってくるというのは、尋常な力量ではありません。とても信じられないことです。この本を読んだ方は、きっとその描写力に感激することでしょう。 星が5つでも足りないくらいです。要保存。取っておいてまたしばらく経ったら、読んでみたい! | ||||
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飯島和一に外れなしとどこかの書評で見かけたので読んでみましたが、外れどころか凄い小説でした。決して読みやすい方ではないかもしれませんが物語の雰囲気や登場人物の心理がとても伝わって来ました。作者はこの小説を書くのに相当の心血を注いだのだろうと思います。本当に凄い小説です。他の作品も読んでみたいです。 | ||||
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私はこの作品の舞台になっている地域にずっと住んでいる者です。 生瀬の村人の皆殺し事件は代々話し継がれてきて、私も聞いたことがあるのですが本書とは違う内容でした。 役人を装った無頼の徒が生瀬村の年貢米を騙し取り、後にそれを知った村人は怒り心頭、 今度また来たら叩き殺してやる、となった。 しかし、次にやってきたのは本物の役人で、それを知らず、村人は役人を殺害してしまい、徳川の兵隊が押し寄せ村は壊滅した。 というのが伝え聞いた話です。 いったい真相はどうだったのか、これから先調べていこうと思っています。 歴史小説では吉村昭さんのものを多く読ませてもらっていますが、、本書は吉村作品を越えたかもしれません。 それほど引き込まれる作品でした。 | ||||
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山川菊栄著『覚書幕末の水戸藩』は、この小説の題材ともなった生瀬の農民騒動から書き起こされています。それによるとこの百姓一揆の原因となったのは、年貢とりの役人が数日も置かず二度も来たので、村人は二度目の役人をニセ役人と思い込み惨殺。ところがこのニセ役人が本物で、これに激怒した家老芦沢伊賀守は兵を率いて小生瀬を襲撃、300人とも500人とも言われる村人を皆殺しにしてしまったという話です。この農民騒動は徳川の治世下約300年の間封印され、公になったのは明治も終わりになってから。史実がどうであったか今となっては検証は困難です。このことは著者も小説の最後の部分で述べています。小説はこの言い伝えとはだいぶ異なったものとなっており、そもそも単に検地の役人が殺されただけのことで村の住民を皆殺しにするとは、いかに封建時代のこととはいえ正気の沙汰とは思えません。小説家として著者はそこに重大な「何か」を感じ取ったのでしょう。歴史小説の本質が、虚構でしかない小説をそれがあたかも歴史上の史実かのようにいかに読者を騙すか、ということにあるとするならば、本書はまさに歴史小説中の歴史小説。わずかの疑義も差し挟む余地のない完璧な展開は、歴史上の新たな真実を読む者に突きつけているかのよう。改めて小説家の想像力、構想力とはスゴイものだ、と感心させられた一冊でした。 | ||||
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漠然としたイメージのある一揆とは違う。 江戸時代のもっと後になって追い詰められた農民が主体の物とはおそらくありかたも全く異なっていると思う。 時代物が好きでいろいろと読みあさっていますが、そのほとんどは大小、有名無名有れどもその時代の英雄達の物語。江戸時代の物語では一揆という単語は頻繁に出てくるけれど、背景として語られるだけで、そこにスポットを当てた小説は今まであまり読んでいなかった この小説は違う。 戦国の世では半農半士であり、誇りを持って人として生きているけれど、それでも無名の人々の物語。 情報伝達に何日もかかるような時代。関ヶ原の混乱の直後、為政者側としては例外を認めない統一の条件の下でで政に臨まなければいけない事情もわかる。 このような時代、臨機応変の対応はおそらく現地で指揮する人間にかかっていると思うが、ちょっとしたズレから事態は最悪の方へ転がっていく悲劇。 スポットの当て方が少し似ている?吉村昭さんの本も好きですが、飯島さんの他の本も読んで見たいと思います。 | ||||
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10年ぶりに再読しましたが、時を経ても色あせることのない傑作です。 正史から抹消された小生瀬の一揆に題材を得て、 綿密な取材の上に、縦横無尽に想像力を広げ、 あたかも見てきたかのような現実感のある小説世界が展開されています。 女子供も含め、村人全員が惨殺されるに至る経緯が描かれるのですが、 「ボタンの掛け違い」といってしまうには、あまりに悲劇的な齟齬の積み重ねです。 心ある者たちの思いは通じず、思慮分別のない愚か者の愚行が、 倍々ゲームで事態を悪化させていきます。 その構成は物語を徐々に加速し、端正な人物描写と相まって、 スリルとリアリティを生み出しています。 実に誠実に書かれた小説だと思います。 「ハズレなし」と言われるのもうなずけます。 その上でですが、あえて、あえてどうしても言いたいことがあります。 気にしない人は気にしないんでしょうが、私はどうしても気になるんです。 この著者の他の作品でも見受けられるのですが、 「誰が話しているのかわからない」描写が時々あることです。 全般に三人称の独白の視点で語られ、それが移動するのですが、 描写の途中で相手の心理描写が入りこんできたり、 話者が交代したことが明示されなかったりします。 いわゆる「神の視点」でもなく、著者が話者でもない、 非常に曖昧な叙述が散見され、そこで感興が冷めてしまいます。 それだけが残念でなりません。 緻密な著者だけに、なぜそうなのか不思議でなりません。 | ||||
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ある書評で飯嶋和一さんの事を知り『神無き月十番目の夜』を読んでみました。 これは主人公のいない時代小説というより 正論を阻害してしまう愚かな気質の人の愚かな行動、誠実で能力もあるが視野の狭さから誤った行動に走ってしまう人、さらには自己保身に走る人によって、立場の違う有能な人同士の知恵で避けられたかもしれない悲劇的な結末がもたらされてしまう。 まさに何時の時代でも、現在でも繰り返される人間世界の姿を戦国時代の終焉の時を舞台に描いている素晴らしい傑作です。 | ||||
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様々な人達の思惑や巡り合わせから破滅へと向かう型の話としては、陰欝ではなく文も淡々としていて読み易いとおもいます 余りにも陰惨だったり手が込んでる話は途中で投げ出したくなっちゃいますしね | ||||
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