■スポンサードリンク
写楽 閉じた国の幻
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
写楽 閉じた国の幻の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.54pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全50件 21~40 2/3ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
上巻では、東洲斎写楽は何ものだったのかをめぐる、本格的な絞り込みにはまだ入っていかない。江戸中期の万能型才人=写楽説がアワのように浮上はするものの、これはストーリーを面白くするための「曲折の芸」といったところか。 導入部は、主人公である中年の浮世絵研究者が事故で息子を失い、離婚に直面し、落魄の一途をたどる様子の描写から始まり、過剰なまでに粘っこい、畳み掛けるような筆致でこの「序論」がずっと続いていく。このあたり「写楽の謎の解明」という「本論」へのつなぎとして成功しているかどうか、評価は分かれるかもしれない。また、上巻の後半に出てくる、週刊誌の中傷記事に対し、単行本で反撃するという展開の仕方にも、若干の無理が感じられた。とはいうものの、飽きさせない、腰の強い文体はいつもながら。ということで、多少甘めになるが、☆は四つ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
下巻ではいよいよ「写楽とは何ものだったか」を追求する世界へストーリーが収斂していく。もっとも、その本筋部分は、やや不自然なところがあって「完全大正解」とは言い難いような気がする。とはいえ、想像力豊かに大風呂敷の、荒唐無稽一歩手前の「物語」を構築していく手並みは、やはり島田荘司ならでは、といったところ。ということで、下巻にも大甘の☆四つを進呈。 あとは、文庫版で「江戸参府日記」(作者訳)が追加されたワケが今ひとつ読み解けず、あちこちに片付いていない話も残したままのようなので、続刊「閉じた国の幻'2」に期待することとしたい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
謎解きの軸がブレないというか、もっと先を知りたいと読者に思わせる島田荘司氏の筆力と気合い(?)で、とりあえず本巻も一気読みでした。但し、他の評者の方々も指摘している通り、上巻の冒頭に出てきた大阪市立中央図書館蔵の肉筆画の話はどうなったのか、静岡県相良の源内屋敷の件は、ウィレム・ラスに本当に絵心があったのか等々、missing piecesも多く、Q.E.D.の地点までは未だ辿り着いていないような気がします。 他方、上巻の冒頭に出てきた回転ドア事件については一定の説明が付されており、それにしてもかなり牽強付会の感はありますが、まあいいかという感じです。(なお、この点に関する田中優子氏の解説というかフォロー(474頁)は秀逸でした。) 「グロテスクなまでに肥大した、機械式の、あの重々しい六本木の怪物ドア。あれもまた、オランダ人と日本人の共作だったのだ。正確にはオランダ人が創り、日本人がそれを磨いて製品化した。写楽のように−!」(166頁) 「あの事件そのものが、のちの写楽問題を暗示していました」(419頁)。 それにしても、財布を忘れていた(37頁)の蔦屋重三郎が、長崎屋の前では銭差しを持っていた(276頁)のは何故? いずれにせよ、島田氏も云う通り、追加取材による「閉じた国の幻II」(450頁)の発刊に期待したい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
他の評者の方々も指摘のとおり、大雑把で破綻をきたしている点も少なからずあるもののの、まずは大変面白く読みました。プロットの骨太さが何と云っても島田荘司氏の諸作品の魅力だと思います。 それはさておき、本書では「歌舞伎を初めて観たときの感動や驚き」が写楽を特定する上での最重要視点の一つとされていますが、この点には些か疑問を覚えました。仮に何回か歌舞伎を観た者であっても、突然その素晴らしさに開眼することもあるでしょうし、まして地方(例えば阿波)から出てきた者が江戸で本物(?)を活気溢れる大劇場において観れば新たな感動を呼び起こすこともあるでしょう。 評者が単純なのかも知れませんが、人間とはそのようなものではないでしょうか・・・ | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
確かに、かつての実際の事件をモデルにしたと思しき回転ドアと子供の死の挿話にはかなり違和感を覚えた(回転ドアの薀蓄話は面白かったが)。社会派の作家として、技術のみが肥大化しもともとの工学思想を忘却しがちな日本のある種の側面を撃とうとしたのであろうか。また、ミスコン美女(準ミス川崎、主人公の妻の千恵子)や美人東大教授(片桐教授)を登場させた設定も、作者の趣味が濃厚に出たものか。 それはさておき、歴史マニアにとっての五大謎解きと云えば、邪馬台国の所在地、本能寺の変の真実、東洲斎写楽の正体、明治天皇すり替え説の真偽、坂本龍馬暗殺の真犯人といったところあろうが、そのひとつである東洲斎写楽の正体をめぐる主人公(佐藤貞三)の謎解行を描いた本作、まずは上巻での謎の導出が見事。一気に読ませる筆捌きではありました。 「欧州の名画群が、被写体が一分間我慢のピンホール・カメラなら、写楽は千分の一秒の高速シャッターを持っているんです」(245頁)。 「歌舞伎という芸術に予断をもたない、子供のようなういういしい感性による歌舞伎との初対面、またその驚きによる創作の衝動、といったまことにあり得ない空想を、私にさせるのである」(392頁)。 「そういうことなら蔦屋一派、歌麿、北斎、一九、京伝、あるいは蔦屋自身、そばで写楽現象の一連の経過を見ていたこの者たちが、何故写楽について、いっさいの口をつぐむのか。これだけ特殊な人間なら、大なり小なり話題にしそうではないか」(401頁)。 平賀源内(福内鬼外)から始まり、後半でオランダ人の姿が見え隠れし始めた一巻。ともあれ下巻が楽しみです。(なお、342頁の説明書きには「斎藤与右衛門」とありますが、実際の地図(図版)上では評者には「安藤与右ヱ門」としか読めませんでした・・・ | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
小説としてのバランス以上に、異様な迫力で読者に訴える、島田荘司ならではの一冊です。 不運な浮世絵研究家である主人公が、栄達の道から外れ、妻の実家からも当たられ、六本木の回転ドア事故で息子をなくし、義父が起こす訴訟の余波で、自身の浮世絵研究の中身も誹謗され・・・というどん底転落人生から幕が開きます。 なぜか彼に好意をもってくれる工学部の女性教授の力添えと、編集者の後押しで、主人公は写楽の正体についての新説を立ち上げなくてはならなくなり、初めは平賀源内かも、という説に傾きますが、同時代の歌麿の主張などを読んでゆくうちに、ある推理にいたりつき、後半はその状況証拠固めで国際的にストーリーが広がってゆきます。 小説として無理なく整っているとは言えないでしょう。主人公の自己述懐が頑なで単純に自虐的な繰り返しの多いこと、彼を援助する女性教授の意図が最後までよくわからないこと、そして写楽研究がこれまでどのように展開されてきたかを読者に説明する部分が、編集者や女性教授らとのセリフの受け渡しで行われていて膨らみに欠けること、さらに江戸篇が挿入されていますが、状況説明やご政道批判が蔦屋重三郎のひとりがたりにも近いセリフのみで展開されることなど、小説としての完成度に欠け、筋を急いだ感は否めません。 しかし、それでも読み終えた現在、何とも言えない感慨が残るのは、さすがにこの著者だと思います。 自分の中に残っているのは、もちろんこの新説のスケール感ですが、この論は文献的考証的にがっちりと構築された論かと言えば、その点は弱いと思います。しかしなぜか説得されるのは、主人公の直観です。写楽の大首絵がかたちではなく、人間の体が内にためた力に肉薄しており、これは歌舞伎を見慣れた絵師のものではない、という直観。 見たことがないから、子どものように直截的な驚きと、裸の王様を見抜く目をもって、あれだけのデフォルメがなしとげられている。 そのことは下巻の蔦屋重三郎の驚きにも、よく語られています。重三郎はそれによって、人気に驕った役者の世界の批判も合わせて行おうとしており、まさに江戸のジャーナリストの面目躍如です。 そして目鼻や指の形といった表面的な細部ではなく、絵の内包する躍動感や単純化の背後にある視線に焦点を合わせたところが、小説家島田荘司ならではの論になっています。 この新説では、同じように芸術の機微に即したもうひとつの面、すなわち下絵とそれのコピー、また彫りの段階で、どんどん絵が変わってゆく、という指摘にも驚きました。下絵がだれか、という推理につなげて、最終的なあの絵にどうやってなったか、についての説はかなりアクロバティックですが、学術論文ではない、芸術家の直観ならではの看破力に打たれます。 ラストは唐突に終わっており、裁判の推移や論争の行方、女性教授の人物像なども描ききれておらず、そこはやはり小説として足りないところだらけなのですが、なぜか、それも作者ならではの持ち味として心に残ります。冒頭の回転ドアでの子どもの惨たらしい死と、鎖国時代の写楽の意外な正体が対置されたかたちでの、奇妙に強烈な後味です。 島田ファンであれば、そして写楽の正体探しに一度でも興味を持ったことがあれば、読んで悔いのない本だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
小説としてのバランス以上に、異様な迫力で読者に訴える、島田荘司らしい一冊です。 不運な浮世絵研究家である主人公が、栄達の道から外れ、妻の実家からも当たられ、六本木の回転ドア事故で息子をなくし、義父が起こす訴訟の余波で、自身の浮世絵研究の中身も誹謗され・・・というどん底転落人生から幕が開きます。 なぜか彼に好意をもってくれる工学部の女性教授の力添えと、編集者の後押しで、主人公は写楽の正体についての新説を立ち上げなくてはならなくなり、初めは平賀源内かも、という説に傾きますが、同時代の歌麿の主張などを読んでゆくうちに、ある推理にいたりつき、後半はその状況証拠固めで国際的にストーリーが広がってゆきます。 小説として整っているとは言えないでしょう。主人公の自己述懐が頑なで単純に自虐的な繰り返しの多いこと、彼を援助する女性教授の意図が最後までよくわからないこと、そして写楽研究がこれまでどのように展開されてきたかを読者に説明する部分が、編集者や女性教授らとのセリフの受け渡しで行われていて膨らみに欠けること、さらに江戸篇が挿入されていますが、状況説明やご政道批判が蔦屋重三郎のひとりがたりにも近いセリフのみで展開されることなど、小説としての完成度に欠け、筋を急いだ感は否めません。 しかし、それでも読み終えた現在、何とも言えない感慨が残るのは、やはり島田荘司ならでは。 この新説のスケール感も理由のひとつですが、この論が文献考証的に堅実な論かと言われれば、その点は疑問。しかし、それでも説得されるのは、写楽の大首絵が、かたちではなく、人体が内に矯めた力に肉薄しており、これは歌舞伎を見慣れてマンネリ化した絵師のものではない、という主人公の直観の白熱性ゆえです。 見たことがないから、子どものように直截的な驚きと、裸の王様を見抜く目をもって、あれだけのデフォルメがなしとげられている。 そういう体感から得た推理です。 (そのことは下巻の蔦屋重三郎の驚きにも、よく語られています。重三郎は、この異様なデフォルメの絵によって、人気に驕った役者の世界の批判も合わせて行おうとするほどです。) つまり、目鼻や指といった表面的な形の考証ではなく、絵の内包する躍動感や、単純化の背後にある芸術家の視線に焦点を合わせたところが、芸術家、島田荘司ならではの論になっています。これが面白さの第一点。 そして、この新説の二つ目の面白さは、下絵とそれのコピー、また彫りの段階で、どんどん絵が変わってゆく、という芸術生成のプロセスに着目したところです。下絵がだれか、という推理につなげて、最終的なあの絵にどうやってなったか、についての説はかなりアクロバティックですが、これまた確信的な看破力に押し切られました。 そして第一点と第二点の二段構えで説得性をもたせたところが、本作のミステリとしての最大のポイントだと思います。この仕掛けが凄い。 ラストはやや唐突に終わっており、裁判の推移や論争の行方、女性教授の人物像なども描ききれておらず、小説として不満が残りますが、島田作品の場合は、なぜかそれも作者ならではの持ち味にも感じられます。 島田ファンであれば、そして写楽の絵に興味を持ったことがあれば、お勧めしたい一冊です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
かつてベラスケスの「侍女たち(ラス・メニーナス)」がTVで特集された折、ベラスケスの専門家であるとある大学教授が、どうやらミシェル・フーコーの「侍女たち」を読んでいないらしい、ということに気付いた。高田崇史の『QED 百人一首の呪』で展開された説の方が、学界で主張されている説よりも説得力があると思えた。専門家が意外に狭い視野しか持っていないということは、常に真実のようだ。 本書は写楽の正体について、実に突拍子もない説を展開する。しかもその説は突拍子もないのだが、見事にすべての謎を説明しているように見える。もちろんそこには小説だからこそ許される省略や誇張があるのかもしれない。それを割り引いてなお、この説には魅力があるように思える。 回転ドアの事故と裁判の行方、オランダ語の入った肉筆画など、序盤に持ち込まれながらも宙吊りなまま着地させられていないエピソードも多い。その点でこの物語は完結しているとは言い難い。作者も「後書き」で触れているが、一刻も早く『閉じた国の幻II』を発表して欲しい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
(これは上下巻あわせてのレビューになります。) 不運な浮世絵研究家である主人公が、栄達の道から外れ、妻の実家からも当たられ、六本木の回転ドア事故で息子をなくし、義父が起こす訴訟の余波で、自身の浮世絵研究の中身も誹謗され・・・というどん底転落人生から幕が開きます。 なぜか彼に好意をもってくれる工学部の女性教授の力添えと、編集者の後押しで、主人公は写楽の正体についての新説を立ち上げなくてはならなくなり、初めは平賀源内かも、という説に傾きますが、同時代の歌麿の主張などを読んでゆくうちに、ある推理にいたりつき、後半はその状況証拠固めで国際的にストーリーが広がってゆきます。 主人公の自己述懐が頑なで単純に自虐的な繰り返しの多いこと、彼を援助する女性教授の意図が最後までよくわからないこと、そして写楽研究がこれまでどのように展開されてきたかを読者に説明する部分が、編集者や女性教授らとのセリフの受け渡しで行われていて膨らみに欠けること、さらに江戸篇が挿入されていますが、状況説明やご政道批判が蔦屋重三郎のひとりがたりにも近いセリフのみで展開されることなど、小説としての完成度に欠け、筋を急いだ感は否めません。 しかし、それでも読み終えた現在、何とも言えない感慨が残るのは、さすがにこの著者だと思います。 自分の中に残っているのは、もちろんこの新説のスケール感ですが、この論は文献的考証的にがっちりと構築された論かと言えば、その点は弱いと思います。しかしなぜか説得されるのは、主人公の直観です。写楽の大首絵がかたちではなく、人間の体が内にためた力に肉薄しており、これは歌舞伎を見慣れた絵師のものではない、という直観。 見たことがないから、子どものように直截的な驚きと、裸の王様を見抜く目をもって、あれだけのデフォルメがなしとげられている。 そのことは下巻の蔦屋重三郎の驚きによく語られています。重三郎はそれによって驕った役者の世界の批判も合わせて行おうとしており、まさに江戸のジャーナリストの面目躍如です。 そして目鼻や指などの形の細部ではなく、絵の内包する躍動感や単純化の背後にある視線に焦点を合わせたところが、小説家島田荘司ならではの論になっています。 この新説では、同じように芸術の機微に即したもうひとつの面、すなわち下絵とそれのコピー、また彫りの段階で、どんどん絵が変わってゆく、という指摘にも驚きました。下絵がだれか、という推理につなげて、最終的なあの絵にどうやってなったか、についての説はかなりアクロバティックですが、学術論文ではない、芸術家の直観ならではの看破です。 ラストは唐突に終わっており、裁判の推移や論争の行方、女性教授の人物像なども描ききれておらず、そこは逆に小説として足りないところだらけなのですが、なぜかそれも作者ならではの持ち味として心に残ります。回転ドアでの子どもの惨たらしい死と、鎖国時代の写楽の意外な正体が対置されたかたちでの、奇妙にシュールな絵のような後味です。 島田ファンであれば、そして写楽の正体探しに一度でも興味を持ったことがあれば、読むべき本だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
従来の『写楽=斎藤十郎兵衛説』はピラミッド建造法に例えると「傾斜路説」ですが、本書は私が初めて納得した「内部回廊説」です。読んで思わず膝を叩いてしまいました。完結の意味で続編に期待します。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
写楽探しは、知的探究心をくすぐるもの。 この謎にミステリー界の大御所が臨んでいる。 基礎研究が進んだ現状に感謝し、 本書の視点、探究共に面白く、核心に迫っているのでは、と。 図版があれば、なお良かった。 「権力を笠に着て」なんていつの時代も共通項、 なんて洒落せーこともつぶやきたくなりますよ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
写楽は誰かというある意味手垢のついた謎に正面から挑み、それなりに説得力ある仮説を立てている作者の情熱に脱帽。現代と江戸時代を交互に描写する構成も巧みで、江戸時代の雰囲気が生き生きと伝わってくる力量もさすが。しかし、主人公が危機に陥ると必ず側にいる東大教授の美女とか、主人公を取り巻く環境にはご都合主義的な展開が多いのが惜しい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この本は、日本社会に巣食う権威主義を「打ち壊す」精神が根底に流れる、爽快なエンターテインメントだ。 1、飛ぶ鳥を落とす勢いの千両役者は、そうは言っても、白粉を顔に塗りたくったただのオジさんである。 2、「写楽は歌舞伎への造詣と愛情が深いはずである」という通説は、「世界三大肖像画家」という外国人による賞賛が元になっていて、誰もそれを疑わない。 このような島田氏の視点は、氏が海外に居住していることも少なからず影響してはいないだろうか。 外国の社会に住むことで見えてくる、日本社会が持つ滑稽な一面。 それは特に、権威に対する信心深さや、時として、西洋社会による評価が何の疑問もなく権威になってしまうバカバカしさだったりする。 それを知っているからこその発想のようにも見える。 写楽に対する名声や、歌舞伎に対する威信が、私たちの目を曇らせてはいないか。 私たちの目を曇らせている物事は、身の周りに沢山ある。 それを島田氏は「世の中鋭く見抜いてよ、・・そこから逃げちゃいけねぇんだ。・・自分でそいつを何とかしようと考えるんだ。」と蔦屋重三郎に言わせている。 ひとつ残念なのは、片桐教授が生身の女性に見えてこないことである。 主人公の佐藤にはさんざんな目に会わせているのに。 「フォーチュン・イン フォーチュン・アウト」と書かれた画の謎もあわせて、ぜひ続編に期待したい。 おすすめです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
浮世絵史上、のみならず日本の美術史に於ける最大級の謎に、本格ミステリのオピニオンリーダーが挑みました。 このジャンルの先行作品としては、高橋克彦さんの『写楽殺人事件』をはじめとして名作も少なくない訳ですが、 そこは流石に島田荘司というか。 まあ、このテーマの答えなんてあって無いようなもんで、とすると「正解」が何かというより、 そのロジックの展開にこそ主眼を置くべきだと思うのです。 御手洗潔も吉敷竹史も登場しない訳ですが、豪腕で捻じ伏せられる論理の畳み掛けと描写は、まさに島田荘司。 特に矢張り、時代小説パートの痛快な面白さはお薦め。 異色作かもしれませんが、読み応えある佳い作品。 続編あるんでしょうか。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
島田荘司の写楽ものということで読んでみました。氏の作品だけあって素直に面白いです。 ページ数は多いですがグイグイ読ませます。 ただ、風呂敷をひろげたままで終わっている感は否めません。キャラクター、エピソードいずれもです。 単行本にしては珍しくあとがきがありますが、そこに書かれている出るかもしれない「続編」が是非必要な作品だと思います。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
初めは悲しく暗い話が続くが、その後は写楽探しの推理が、ある面淡々と続く。とにかく長いというのが読み終わっての感想だ。 現代と江戸時代が交互に描かれたりして、ミステリーとその解答編といった感じだ。 ただ、著者もあとがきで書いているように、初めの悲劇的な話などは生かされていない。あまりに写楽のなぞにのめりこみ過ぎたそうだ。 写楽の正体の指摘にはとても説得力がある。写楽が消えたなぞかよくわかる。トリックではない島田荘司ワールド全開といったところだ。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
島田さんの小説は初めて読みましたが、本当に面白いですね。歴史にあまり興味のないわたしでも、つい引き込まれました。考証もすごいし、ストーリーも秀逸。文章力があるのもわかるのですが、最近読んだ神崎和幸のデシートのほうが文章力はありました。新人作家の神崎和幸でもデシートぐらいのものが書けるのだから、島田さんにはもっと上を目指してほしいです。でも「写楽 閉じた国の幻」は本当に面白かったです。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
もしかしたらこの作品は、従来の島田ファンには受け入れられないきらいも少なからずある。しかし長年に亘り収集した綿密な歴史考証に、著者本来のエンターテイメントというスパイスを振りかけ、そして最後は圧倒的な筆致によって、最後まで息の抜けない快作に仕上がっている。 パズラーの良作が息を潜めている昨今、著者には従来のようなベタベタの本格推理を上梓して欲しいという希望はあるが、この作品も島田荘司の記念碑的名作になる事は間違いない。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
私のようなかつての島田荘司のファンにとっては、 賛否両論あることだろう。人によっては認められないものかもしれない。それほどまでにスタイルが違う。極論すればこれは島田荘司の写楽の研究本だ。東州斎写楽は日本美術史上、最大のミステリーだ。突如として現れ、活躍した期間はわずか10ヶ月。そして忽然と姿を消す。写楽という絵師に関する記録は何も残っていない。文献はもとより噂話の類いもないのだ。他の絵師達はこのようなことはない。有名無名を問わず、おおよその素性や絵師になるまでのエピソード、風貌、人柄、性癖までも大なり小なり後世に伝わっているのだ。このようなものがないのは写楽ただ一人。写楽がどういった人物なのかは完全な謎である。本書はその「写楽探し」が題材だ。浮世絵研究家・佐藤貞三が、この「写楽探し」に挑むのだが、佐藤は島田荘司その人だ。彼は今回自分では敢えてミステリを作らず、既にそこに存在して誰も解き明かせなかったミステリに挑むことにしたのだ。立てた仮説を検証し壁にぶち当たり、それを突破したと思ったら、また新たな壁が立ちはだかる。まさにスクラップ&ビルドだ。そしてこの「写楽探し」の旅は、かつて誰も想像しえなかった結論へと着地する。「本格ミステリー宣言」を掲げた島田荘司でなければこの視点はなかったかもしれない。学術書ではないゆえの自由な発想と着眼点は、しかし説得力がある。このイマジネーションこそが、本書の高評価の理由だろう。全体としての出来はよくはない。元々彼は直観型の作家であり、最初に入念に計算して書くタイプではないだろうし、しかもこれは週刊誌の連載ものだったから、余計にまとめるのが大変だったのだろう。息子の回転ドア事故の裁判の結末も、肉筆画の謎すらも解明されておらず、明らかに何かの伏線であろう美貌の東大教授の存在もなんら理由を持たせず、お預け状態。本書だけではまだ道半ば。小説としてはまだ完成されていないのだ。課題は次に持ち越された。が、私は充分価値あるものだと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
大力作。本作の詳細なバックグラウンドと緻密な論理構成は、おそらく美大卒の本格推理作家である氏以外には書けないだろう。もちろん「物的証拠」は存在しないわけだが、示された「状況証拠」には、一点の曇りもないように思われる。しかも、後書きを読むと(最初に読まないこと。ネタばれです)、本編の証拠集めの進行が実際の作者の執筆経過にも存在したことに驚く。本筋は見事と言うほかない。惜しむらくは、作者の思い入れの故か副筋があまりに饒舌で、優れた推理小説の条件である「一見無関係に思われるエピソードが最後に収束する」あの快感がない(例えば「回転ドア事故」のエピソードは、工学部教授を登場させる伏線でしかないように思われる)。後書きによれば、こぼれたエピソードは続編で書かれるそうなので期待したい。今年の本屋大賞の本命の一つと思うが、副筋の弱点を克えて余りある本筋の見事さをどう評価するかで、意見は分かれるだろう(もちろん筆者は「余りある」と思っている一人である)。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!