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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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93年に出版され、今なお評判が高く版を重ねているドン・ウィンズロウのデビュー作にして探偵ニール・ケアリーシリーズ第1作が本書である。
本書が斯くも高く評価されているのは、探偵物語としても上質でありながら主人公ニールの成長物語として実に爽やかな読後感を残すからだろう。 父なし児として売春婦の母親と一緒に劣悪な環境下で暮らし、掏摸で糊口をしのぎながらストリート・キッドとして生きていたニールが初めてしくじった相手が探偵のジョー・グレアム。二度目に遇った時はジョーが窮地に陥っているときで、ニールは咄嗟の機転を利かせてジョーを助ける。そこから探偵とストリート・キッドの師弟関係が始まる。 まずこの邂逅のエピソードが実にいい。 さらにニールが渋々引き受ける家出人探しの上院議員の娘アリーがお嬢様から転落していく一部始終、そして売女に身をやつしてしまいながら、母親から明かされるアリーの悲惨な境遇と心の叫び―父親である上院議員に幼い頃から性的嫌がらせを受けていた。しかも実の娘ではないことが解る―。 この衝撃の事実は本来ミステリ・エンタテインメント小説であれば物語の後半に持って来るべき真相だが、作者は早くもニールが捜索する前の家族への聞き込みの段階で明かす。それは物事は必ずしも一つの方向で見るべきではなく、多面的に見つめることで隠された真実が浮かび上がるのだと本書を読むにあたってあらかじめ注意を喚起しているかのように思える。 この予想は当たっていて、物語は二転三転して進行する。特にニールがアリーを見つけてからの展開はレナードの作品を思わせるような全く先の読めない展開で誰も予想できないだろう。 実際私は何度も予想を裏切られた。それもいい意味で。 また次期大統領候補の娘の捜索というメインのストーリーの合間に断片的に挟まれるグレアムがニールを教育し、一人前の探偵に育てていく探偵指南の挿話が実に面白い。 まずは部屋の掃除から始まり、料理の指導と人間として基本的なことから教え、その後尾行の仕方、顔の覚え方、探し物の探し方、姿の隠し方など、プロフェッショナルな探偵術を微に入り細を穿って教授する。これらの内容は実際作者は探偵をやっていたのではないかと思わせるほど専門的である。 訳者あとがきによれば作者の職業遍歴は実に多種多様で、履歴から人生を推測するだけでも実に様々な物語が展開しそうなほどだ。そしてその経歴の中にはその手のノウハウを身を以って経験するものがちらほらと散見される。 そして物語の各登場人物のエピソードの内容は実は社会の暗い世相を反映し、多様化する現代の病とも云える売春や近親相姦、麻薬密売に中国マフィアの台頭と気の滅入るような内容がふんだんに盛り込まれているのだが、上に述べたニールとジョーの師弟関係の挿話や“生きた”言葉を話す登場人物たちの会話のためもあって実に爽やかな読後感をもたらす。 リアルとフィクションのおいしい要素を上手くブレンドしたその筆致はレナードのそれとは明らかにテイストが違い、デビュー作にしてすでに自分の文体を確立している筆巧者なのだ。 さて本書の原題は“A Cool Breeze On The Underground”、直訳すると『地下に吹く一迅の涼風』とでもなろうか。 作中ニールがロンドンでアリーを捜索中、地下鉄を乗り渡る場面がある。そこでロンドンの地下鉄の暑苦しさについて語られており、涼風の可能性、存在自体をも否定するほどの暑さと述べられている。つまり存在しうる物でない物、一つの希望を表しているようだ。 また“Underground”は「地下」という意味に加え、「裏社会、暗黒街」という意味もある。すなわちこの一迅の涼風とは主人公ニールを指しているに違いない。裏ぶれた社会に青さと甘さを持ちながらも自らの道徳を大事に事件に当たる若き探偵ニール。このニールはチャンドラーのフィリップ・マーロウを現代に復活させた姿としてウィンズロウが描いた人物であるように思える。 ストリート・キッドから育てられた若き探偵ニール。若さゆえに自分の感情をコントロールするのに未熟なため、私立探偵小説でありながら青春小説特有のほろ苦さを醸し出す。 そして舞台はニューヨークからロンドンへ渡り、ヤクの売人にまぎれながらアリーを救出する活躍の様は探偵小説というよりもスパイ小説のような読み応えも感じさせる。 いやあ、これは版を重ねるわけだと頷かざるを得ない、本当の良作だ。 |
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オッド・トーマスシリーズ3作目。
前回の事件の後、オッドは元恋人ストーミーの伯父が司祭を務めるシエラネヴァダ山脈にあるセント・バーソロミュー大修道院に住み込むようになる。本書はそこでオッドが遭遇した怪事件について書かれている。 前回はダチュラという悪役がオッドの敵であったが、今回は骨の化け物と修道院の学校の生徒の1人ジェイコブに“いなかった”と呼称される顔の無い修道士の出現と、クーンツお得意のモンスターパニック小説の趣が強い。特に人間に寄生して生まれる骨の化け物はエイリアンを想起させた。 前2作での舞台ピコ・ムンドを出たオッド。従って彼の良き理解者だったピコ・ムンド警察署長ワイアット・ポーターもいなければその妻カーラもいない。さらに彼の心の支えでもあったベストセラー作家のリトル・オジーもいない。つまりお馴染みのメンバーがいないわけだが、それでも今回登場する修道士たちも個性豊かな者たちばかりである。 世界でもっとも優秀な物理学者とタイム誌に賞賛されながら、セント・バーソロミュー大修道院で隠遁生活を送るブラザー・ジョン。 ブラザー・ナックルズは元マフィアの用心棒で、修道院の中でオッドの理解者であり、一番親しい人物でもある。 そして今回の惨事の第一犠牲者となるのはキットカット中毒と揶揄されているブラザー・ティモシー。 LAでソーシャルワーカーとして働き、幾人もの若い少年少女を構成させたシスター・ミリアムは、一部の心無い者たちからその遣り方を非難され、否応無く解雇された過去を持つ。 しかし今回の影の主役は得体の知れないロシア人ロジオン・ロマーノヴィッチになるだろう。眼光鋭い眼差しを持ったクマのような男で決して他者と交わろうとはしないが美味いケーキを焼くことに長けている、となんだか訳が解らないとにかく怪しいロシア人なのだが、物語の終盤で彼の役割が明らかにされるに至り、キャラが非常に立ってくる。 このオッド・トーマスシリーズは死者が見えるというスーパーナチュラルな要素を盛り込みながらも物語の語り口にミステリ的手法を取り入れているのが興味深い。 つまりファンタジー的な約束事を前提にした物語を紡ぎながら、ミステリ的サプライズも用意しているという非常に贅沢な作品なのである。 よくよく考えると舞台設定も本格ミステリでは王道とされる「嵐の山荘」である。 そしてこの手法はこの前に読んだ『一年でいちばん暗い夕暮れに』でも見られた複数の事象が一転に収束する鮮やかさを髣髴させる。どうやらクーンツは特殊な能力・状況・現象を前面に押し出したスーパーナチュラル作品にミステリ技巧を施すジャンルミックス的創作法が非常に効果的であることに気づいたのかもしれない。 個人的にはこの試みは成功していると素直に認めたい。 しかし一点苦言を呈するならば、この広大な修道院を舞台にするならば、やはり見取り図が欲しかった。 聖堂に図書館に学校に寮と広大な敷地を東奔西走するオッドの様子がなかなか頭に入ってこない。位置関係が解らないため、オッドが今どこにいるのかが非常に把握しにくい。 本格ミステリ作家でないデミルでさえ、『ニューヨーク大聖堂』では大聖堂の見取り図が付けられていたのだから、これはやはり出版社の怠慢だろう。次作の舞台設定が解らないが、この辺の配慮はお願いしたい。ミステリを専門に出版する会社としたら当然の配慮だと思うからだ。 ところでクーンツの犬好き、レトリーヴァー好きは最近になってますます拍車が掛かったようだ。 本書でもブーという名の雑種ながらもラブラドル・レトリーヴァーの血を引く犬が登場する。そして最後に意外な正体が判明するのだが、彼のトリクシーという愛犬を喪ったバックグラウンドを知っているものの、昨今の犬好き露出振りにはちょっと辟易してしまう。 そんな理由もあり、本書は裏表紙の紹介文にあるほどには傑作とは感じなかった。バカミスと賞される可能性大だが標準作だといえる。やはり1作目のインパクトが大きすぎた。 今回で1作目から連れ添ってきたエルヴィスも成仏し、オッドの許を去り、シリーズとして一段落着いたような趣がある。しかしエルヴィスに変わり、最後にサプライズ・ゲストが現れ、物語は次作への続きがほのめかされて終わる。このサプライズ・ゲストがどういう風にオッドと絡み合うのか、興味が非常にある。 それを期待して次作を待つことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ライツヴィルシリーズ3作目。本作ではかなり意識的にライツヴィルという町がエラリイにとって運命的な何かを持っている存在として描かれる。
シリーズ1作目『災厄の町』同様、本書では手紙が重要な役割を担う。『災厄の町』では夫が妻の毒殺計画をほのめかす3通の手紙だったが、本書では息子が母への恋情を認めた4通の手紙だ。 『フォックス家の殺人』が未読なので手紙が出てくるのか解らないが、本書は共通する手紙の内容がまったく正反対でしかもスキャンダル性を両者とも帯びている。 そして本書では『靴に棲む老婆』と同じ示唆殺人がテーマとして扱われている。『靴に棲む老婆』がマザーグースに擬えていたのに対し、本作では聖書の十誡がモチーフ。 したがって『靴に棲む老婆』のテーマ性に『災厄の町』の味付けを施した作品という印象を持った。 そしてそれら2作のエッセンスをさらに凝縮したかのような濃さがここにはある。特に本書の主要人物はエラリイと彼の友人ハワード、そしてその父親ディードリッチにその妻サリー、ディードリッチの弟ウルファートのたった5人というのが驚きだ。 そんなごくごく少ない人間関係の間で起きる殺人事件だから、必然的にドラマ性が濃くなる。 まずエラリイの友人ハワードは突発的に短時間の記憶喪失症に陥るという特異性を持っている。さらに彼の父親ディードリッチは捨て子だった彼を養子に迎え、さらには若き妻サリーも彼が支援していた貧しい家庭の娘を妻として引き取った経緯がある。 このハワードとサリーが姦通し、その内容を記した手紙が謎の脅迫者の手に渡ってしまうというのが物語の骨子といえよう。 本書におけるエラリイの役回りは謎の脅迫者を突き止める探偵役、ではなく、このハワードとサリーの2人に翻弄される哀れな使い走りであることが異色。前にも述べたがこういう役回りを配される辺り、国名シリーズ以降のクイーンシリーズはパズラーから脱却してストーリーを重視し、ドラマ性を持たせることに重きを置いているように感じる。 特に驚くのは事件の真相が解明するのは一旦落着した1年後であることだ。これほどまでに事件を引っ張ったことは今までなかったし、これがエラリイのに初めて犯人に屈服する心情を吐露させる。 しかしライツヴィルという町はなんとも問題を抱えた家族が多い町だ。事件に関わるたびに人間不信に陥りそうになり、探偵クイーンも気が滅入るのも無理はない。 また本書ではクイーン作品の弱点とも云うべき点が自己弁解気味に書かれているのが面白い。 華麗なるロジックを前面に押し出しているクイーンの諸作だが、そのロジックの美しさには惚れ惚れとするものの、いかんせん情況証拠の列挙に留まっていることが多々あり、実際私も感想にその事に触れ、苦言を呈しているときもある。本書ではその事に対し、エラリイが言い訳めいた理由を述べる。 曰く、「証拠集めは、証拠集めを仕事としている人たちに委せることにしている、(中略)ぼくの任務は犯罪者を発見することで、彼等を罰することではありません」 う~ん、なんとも苦しい弁解だ。つまり殺人事件など刑事事件を扱いながら警察捜査にはまったく自信がないと告白しているようなものである。 リアリティがないとチャンドラーたちハードボイルド作家連中にこき下ろされたことに対し、ほとんど屈服しているように思える。 エラリイが探偵業に自信を喪失したこと、そして上の台詞から読み取れる、作者のリアリティの追求を放棄したことを併せると本書は作者クイーンの敗北宣言とも取れる作品かもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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92年に『交通警察の夜』という題名で刊行された短編集。元の名が示すように本書に収められた短編は交通事故を題材にしたミステリである。
まずは改題された書名にもなっている「天使の耳」。 交差点での出会い頭の事故という題材に、盲目の目撃者をあしらい、信号機の色が変わる時間を秒刻みでロジックとして展開するところに実に面白く読めた。 被害者である女性を美少女に配し、加害者の疑いがある外車の運転手を軽薄なフリーターに設定しているところがミソ。最後に背筋が寒くなるどんでん返しが用意されているが、果たしてそれが真相か否かは解らない。 次の「分離帯」も午後11時過ぎと深夜の時間帯に起きた事故を扱っている。 これは非常に巧い。登場人物のエピソードとプロットが見事に呼応しており、それが最後のうすら寒さを感じさせる結末に見事に結実している。 そして「分離帯」という題名もテーマと溶け合い、もう1つの意味を最後に醸し出している。法律が時に見せる弱者への容赦ない仕打ちを逆手に取って復讐する彩子の執念がすさまじい。 誰でも一度は経験するだろう、初心者マークをつけた車の運転にいらいらすることは。「最後の若葉」はそんな経験が思いもよらない結末を迎える一編。 いやはやこれもよくある光景でしかもかつてそんな経験があったなぁと思わされた。 もし当て逃げされ、後日加害者から連絡が入り、修理しますと持ち出したらどうするだろうか。もちろんラッキーだと思って頼むだろう。「通りゃんせ」はそんな状況から始まる。 「分離帯」同様、路上駐車を扱った一編。このあまりにも身近な軽犯罪は一般的過ぎて罪の意識すら感じない人が多いが、本編ではその軽率な行動が復讐にまで発展する恐怖を扱っている。 続く「捨てないで」では実は警察はあまり介入してこない。そういう意味では元の『交通警察の夜』として編まれた本書では異色の作品とも云える。 実に上手い。小道具である缶コーヒーの空き缶が実に効果的に皮肉な結末に寄与している。 空き缶から犯人を突き止めるのかと思いきや、結局被害者側の役には立たないのだが、完全犯罪が深沢の知らないうちに放置された空き缶のために綻ぶという展開は秀逸。 仕返しをしていたことに気づかない被害者の2人もなんだか微笑ましい。 最後の「鏡の中で」はもっとも東野氏らしい作品と云えよう。 スポーツの世界ではスキャンダルが最も恐ろしい敵であるが、この作品はそれを扱ったもの。オリンピック出場が有力視される会社の選手が起こした事故をコーチが身代わりになって加害者となる。この手の真相の隠し方と物語運びはまさに東野圭吾氏の真骨頂だろう。 本書は今までの短編集と違い、交通事故という、通常のミステリで起こる殺人事件よりも読者にとって非常に身近な事件にクローズアップしており、それが非常に新鮮だった。従って諸作品で起こる事故が読者にとっても起こりうる可能性が高く感じ、私を含め特に車を運転する人々には他人事とは思えないほどのリアルさがある。 扱っている事件も交差点での信号の変わり目での出会い頭の事故、中央分離帯がある道路での急な飛び出し、初心者マークの車を脅かす煽り運転、雪の日の路上駐車中での当て逃げ、高速道路での空き缶の投げ捨て、交差点でのハンドルミスと、非常に日常的である。 そして事故に遭った人ならば誰もが一度は抱くと思うだろうが、交通事故の解決というのは被害者・加害者双方が納得いくようなものではなく、道交法に忠実に則って処理されるため、一種理不尽な扱いを受けたような思いを抱き、不平等感といったしこりが残る。つまり法律的には正当性が証明されても、感情的にはどちらが被害者か解らないといった感情を抱いたりする。 また交通事故の多い日本では機械的に処理する警察官もいるくらいだし、本書でも出てくるが、偶然起こった事件などは警察も捜査しても犯人が挙がる可能性が低いから、被害者の心情を慮らずに投げやりに応対したりもする。 そんな交通事故で遭遇する理不尽さが本書では語られている。特に前半の3編は泣き寝入りするしかない被害者側の、加害者に対する怨念が最後のサプライズとして用意されている。しかしそれは決して胸の空くような清々しいものではなく、弱者と思っていた者が最後に見せる狂喜や冷徹さが立ち上るようになっており、うすら寒さを覚える。 また他の3編でも被害者が実は間接的に加害者へ被害を加えていた、知らないうちに被害者が加害者へ仕返しをしていた、などとヴァリエーションに富んでいる。 個人的に好きな作品は「分離帯」、「通りゃんせ」、「捨てないで」の3編。特に「捨てないで」は先が読めないだけに最後の皮肉な結末にニヤリとしてしまった。 いやあ、しかし交通事故だけに絞ってもこれほどの作品が書けるのかとひたすら感服。 その読みやすさゆえに物語のフックが効きにくく、平凡さを感じてしまうが、実は完成度は非常に高い。この人はどれだけ引き出しがあるのだろうと、途方に暮れてしまう。この軽い読後感が私を含め本書の評価をさほど高くしていないのがこの作家の功罪か。 しかし東野作品を読んだことのないミステリ初心者がいたら、『犯人のいない殺人の夜』かもしくは本書を勧めるだろう。東野氏のエッセンスが詰まった、非常に損をしている作品集とだけ最後に云っておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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重厚長大とはまさにこのこと。
しかし単に長くて厚いだけなら退屈を促すだけだが、驚くべきことに本書とはそれは無縁の言葉だ。一言で云うならば、圧巻。この言葉に尽きる。 日本のミステリシーンにその名を留めさせたのが本作『深海のYrr』。上中下巻の三分冊で合計1,600ページ以上もありながら、刊行された2008年の年末の『このミス』では11位に食い込んだ。 深海に埋蔵されているメタンハイドレードの氷塊に巣食う大きな顎を持ったゴカイの発現を皮切りに、クジラやオルカたちが人間を襲い、世界中で猛毒性のクラゲが異常発生する。そしてフランスの三ツ星レストランではロブスターがゼリー状の物質に侵食され、人間にも害を及ぼす。 さらにゴカイはメタンハイドレードを侵食し、とうとうノルウェー沖の大陸棚の崩壊を招き、大津波がヨーロッパに起き、数万人もの命を奪う。そして被害の外だったアメリカにも白くて眼のないカニが数百万匹という単位で上陸し、病原菌を撒き散らし、ニューヨークを死の街にしてしまう。 地球全体の7割を占める海だが、その正体はほとんど謎に包まれており、作中でも語られているがメタンハイドレードなる次世代エネルギー資源が地球規模で埋蔵されているのが発見されたのもつい最近の事だ。 この未知なる神秘の世界で起こる世界的変事を大部のページを費やし、詳らかに作者は語っていく。神秘であるが故にそれが起こりえると納得してしまうような内容だ。 さてこのイールと名づけられた太古からの単細胞生物の襲撃はもちろんこれには人類が地球に及ぼした環境破壊が根底になっているのだが、それにも増して強調されるのは人間がイルカやクジラ、オルカなどの海棲類にしてきた仕打ちに対する怒りが込められている。 本当かどうか解らないが、本書ではアメリカ軍がイルカやオルカの脳に電極を入れて思考回路を解明しようとし、動物兵器を作る計画があったことが語られる。その仕打ちは正に人類のエゴ以外何物でもなく、動物愛護者でなくとも憤懣やるかたない所業だ。 しかし裏返せばこれほど西洋人の自然に対する保護意識を高める内容もないなと気付かされる。最近のマグロ漁獲規制やシーシェパードによる蛮行とも思える捕鯨反対運動など、こと海の生き物に対する西洋人の反発の強さは最近日に日に強さを増している。 本作が書かれたのは2004年だから現在に続くそれらの運動に繋がっているように感じる。作者シェッツィングはドイツ人だが、彼も海棲類にはそれらのグループに共通する愛着以上の感情を抱いているのかもしれない。 またパニック小説でありながら、登場人物のキャラクターにも彫り込んでおり、そこにもページを随分割いている。 主役の1人、レオン・アナワクは自身がネイティヴ・アメリカンの出自である事をひたすらに隠そうとする。翻って彼が忌み嫌うジャック・グレイウォルフはアイルランド人の父親とネイティヴ・アメリカンの混血児である母親の間に生まれたが故に、自身がネイティヴ・アメリカンであるアイデンティティがないのだが、逆に彼はオバノンという姓を使わず、グレイウォルフと名乗り、ネイティヴ・アメリカンたろうとする。 この両者の二律背反な位置づけは、逆にレオンをして近親憎悪を抱かせている。つまり彼はジャックが鏡に映った自分のように感じられてならなく、それがかえって彼の反感を買っているのだ。 またもう1人の主役シグル・ヨハンソンもスタットオイル社の社員で友人であるティナ・ルンを愛していると知りながら、恋人がいることを知るが故、本心を隠す。 そしてティナも恋人がいて初めてヨハンソンへの恋慕に気付かせられるのだ。 彼ら以外の脇役にも人物造形にはページを割いており、中編から陣頭指揮を執るジューディス・リーは真の天才である人生が語られ、くじけることがない強靭な精神が起因するところまでしっかりと描かれる。 ティナの退場で新たなヒロインとなるジャーナリストのカレン・ウィーヴァーもまた、どんな僻地や未踏の大地まで恐れずに身体を張って取材する姿勢が過去両親を幼い頃に亡くした際に心が折れ、転がるように堕落していった人生がある日入水自殺からの生還を期にタフな心と身体を持つに至る経緯が語られる。 彼女の造形には『砂漠のゲシュペンスト』の主役ヴェーラを想起させるものがあった。 本書3冊で登場人物表に挙げられた人数は37名。それらのほとんどにエピソードが織り込まれているからこれだけ長くなるわけだ。 さらに加えて様々な分野に関した詳細な情報がふんだんに盛り込まれており、読者の知的好奇心をそそる。 最新の深海調査内容については前述したとおりだが、他にもジョディ・フォスター主演の映画『コンタクト』で取り上げられた地球外知的文明探査機関、通称SETI―おそらく実在するのだろう。数万年後に返事が返ってくる地球外知的生命体との情報交換を生業としている国の機関があるというのはアメリカという国の懐の深さに感服する。日本ならばかつて話題となった事業仕分けで真っ先に切り捨てられることだろう―や石油会社の台所事情、津波のメカニズムについての詳細な記述、最新鋭空母についての詳細な説明、などなど、通常我々が触れることのない分野の情報が事細かに書かれている。 本書を著すにこの作者が費やした労力を考えると気が遠くなるような思いがする。 それらの中でも特に興味深かったのが、長年枯渇が叫ばれている原油について実はそれが全てではないことが書かれている。 本書によれば原油はあるにはあるのだが、それを採掘するコストと売上の採算が合わなくなってきているというのが実情らしい。自噴する油井がやがて圧力低下により、人工的に汲み上げるしかなくなったとき、莫大なコストがかかり、ここでコストバランスが崩れてしまうため、撤退せざるを得ないらしい。従って石油採掘会社は現在オートメーション化を推し進めているが、それにより従業員の大幅な解雇が問題になってきているというのだ。 また産業界と学術界の価値観の相違についても興味深く読んだ。 曰く、学術界は不明な点について明らかになるまでゴーサインは出さないが、産業界は不明点が致命的と判断されないならば、すぐさまゴーサインを出すというもの。この辺は学術探求者集団と資本主義者集団の意識の違いが如実に表されていて面白かった。 そしてこれまでの著作ではドイツ、しかもケルンと、自身の熟知したフィールドを舞台に作品を著してきたシェッツィングだが、本作ではノルウェー、カナダのバンクーバー、ニューヨークからはたまたイヌイットの住む北極、そして空母の上まで舞台がワールドワイドに展開する。なにしろ最初のプロローグの舞台はペルーの沖である。 開巻と同時に今まで読んだ彼の作品とは一味も二味も違うことが一目瞭然なのだ。 そして各地で語られる内容もまた濃密である。舞台となる場所の名所やレストランはもとより、そこに生活する人々の独特な風習や生活様式まで書き込まれている。個人的にはアナワクが父親の死を悼むために帰郷する北極圏のイヌイットでのエピソードがとりわけ印象に残った。 特に本書はイールに対抗する国として全てのディザスター作品の例に漏れずアメリカ合衆国を中心に据えており、そして例によって世界のリーダーシップを取りたがるアメリカ人の醜いエゴが揶揄的に描かれている。 この辺はフリーマントルの諸作でも常に見られる傾向だ。欧州人はやはり似たような反米感情を持っているだろうか。 とにかく派手派手しく大規模なカタストロフィを次から次へと繰り出しながらも内容は全く荒唐無稽さを感じさせない。それは上述したように作者はその1つ1つに現代科学の最新情報を織り込み、専門知識を詳細に説明しながら、それらが起こりうるべくして起こったのだと納得させる。 上に挙げたような構成だから各々ページの上中下巻という大部になるのはもう致し方ないか。しかし不思議な事に全くだるさを感じない自分が居た。むしろ毎日読むのが愉しみでパニック小説でありながらも結末を早く知りたいといった性急さにも焦がれなかった。ただこの作品に出てくる人物達の生き様や世界が崩壊していく行く末をじっくりと読みたい自分がいた。 今までシェッツィングの作品を読んできた私の感想は決して好意的ではなかっただけにこれは今までになかった感情である。 正にフランク・シェッツィングが作家として全身全霊を傾けた渾身の一作である本書。『砂漠のゲシュペンスト』で見せたエンタテインメント作家としての洗練さが花開いた感のある大作だ。 しかしだるさを感じないとはいいながらもやはり1,600ページ強はやはり長く、再読するには躊躇ってしまう。次作はもっとコンパクトにさらにエンタテインメントに徹した作品を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(7件の連絡あり)[?]
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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アイリッシュ=ウールリッチお得意のサスペンス。1人の女性の運命が翻弄されるプロットが実に心憎い。やはりアイリッシュは、こうでなくてはならないという期待に必ず応えてくれる信頼できる作家だ。
アイリッシュの作品の登場する女性には悪女という冠がつくことが多いが、本書の主人公ヘレン・ジョーゼッソンは列車転覆事故がきっかけで実業家の息子と結婚した女性に成り代わるのに、彼女は決して悪女ではないのが特徴的だ。 彼女は運命に翻弄されるか弱い女性であり、常にいつ自分のついた嘘がばれないか、怯えている。しかも彼女を受け入れてくれたハザード家がこれまた善人たちの集まりであり、そんな善良な人たちを騙す行為に常に罪悪感が抱いているのだ。 しかし彼女は決して真実を話そうとはしない。なぜならば折角得た幸福を逃したくないという願望が強いからだ。 冒頭で語られる人生が変わるまでの彼女の人生はなんとも悲惨なものだ。8ヶ月の胎児を孕んだ身重でありながらその父親は賭博師で認知もせず、彼女にたった5ドルと彼女の故郷までの切符を郵送で送りつけただけ。貧乏のどん底に逢った彼女のよすががこのろくでなしの彼スティーヴンだけだったのだ。 そんな彼女に降って湧いたような豊かな生活。これは誰しもそう簡単に手放せるわけでないだろう。 アイリッシュのプロットはよくよく考えると非現実的だ。本書でも実業家の息子ヒューの花嫁パトリスが相手の両親に逢った事もないのに結婚をしている。これは今では考えられないシチュエーションだ。 しかし詩的な文体が織成す前時代性的雰囲気、そして行間に流れる登場人物の哀切な心情が読者の共感を誘い、一種の酩酊感すら覚え、これが一種荒唐無稽な設定に疑問を抱かせず、流麗な筆致で語られる物語へ没入させられるのだろう。 しかし私が本書で語りたいのは本来の幸せの形ということではなく、作者アイリッシュに対する母親という存在についてだ。 本書が発表されたのは1948年。『暗闇へのワルツ』、『喪服のランデヴー』と同時期に書かれ、正にアイリッシュが作家として爛熟期にあった頃だが、実はこの頃アイリッシュは同居していた母親が重病となるという不幸に見舞われている。恐らく彼女の看病をしながらの執筆活動だったと思われるが、本書でも義母グレースが重病に瀕しており、いつ死んでもおかしくない状況であり、ヘレンを含めた家族はとにかく刺激を与えるような事を知らせないように神経質に動いている。 まさにこれこそ当時のアイリッシュの状況を髣髴とさせる。 そんな意味からも本書は今まで読んだアイリッシュ作品の中でも、実に彼の素顔が色濃く現れており、それが悲痛な叫びと感じられる、物語の外側が妙に意識させられる珍しい作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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いやあ、バー=ゾウハーの新作がまさか読めるとは思わなかった。なんと原書刊行2008年。正真正銘の新作だ。
私がこの作家が好きなのはエスピオナージュを書きながらもストーリーやプロットにミステリマインドが溢れているからだ。私が好んで読む同じジャンルの作家フリーマントルも同様だが、バー=ゾウハーの場合はスピード感と緊張感に溢れている。 さて本作ではどうだろうか。 まず冒頭、ロンドンで宿泊していた男がベルリンのホテルで警察に叩き起こされ、そのまま逮捕されてしまうという、いきなり窮地から始まる。その逮捕もなんと60年以上も前に犯した元ナチス将校殺害事件の容疑者としてだから驚きだ。 作中人物の話によればドイツには殺人罪には時効がなく、市民が訴えれば捜査は開始されるらしい。 そこから長らく絶縁状態だった息子ギデオンが登場し、ルドルフがロンドンにいた事実を探ろうとする。しかし何かを恐れるかの如く、ルドルフに関わった人たちは彼と逢ったことを否定する。 この辺はアイリッシュの『幻の女』を髣髴する。 更にネオナチの狂信者たちのルドルフに対する感情は募り、やがて魔の手が迫り行く。 今回の主役は逮捕されたルドルフと疎遠だった息子ギデオン・ブレイヴァマン。父親の意向に背き、世界中を旅した後、民俗学者になった男だ。 彼が拘束中の父親の許を訪れ、久方ぶりに邂逅するシーンは2人の間に広がる溝が明らかにまだ存在している事を感じさせ、ぎこちない。しかしギデオンは父親が訃報逮捕された証拠を掴もうと躍起になる。 そして彼の前に立ち塞がるのがベルリン州女性上級検察官マグダ・レナート。 今回の任務に賭ける意欲は並々ならぬものがあることを知らされるのだが、それも無理もないことが物語半ばで判明する。なんと彼女の祖父はユダヤ人のパルチザンだったルドルフによって殺されたSS将校の1人だったのだ。 しかしその事実もある事実で彼女にとって屈辱に代わる。親しかった祖母から教えられた亡き祖父像は第2次大戦で英雄的な戦死を遂げた将校ではなく、ユダヤ人収容所でのホロコースト実行の中心的人物だったからだ。 このくだりを読むと、やはりドイツ人はナチスが第2次大戦で行ったホロコーストを忌むべき過去とし、歴史の汚点としているのが解る。自分の先祖が大量虐殺行為に関わっていた事はやはり不名誉であり、隠したい過去なのだろう。この憶測が裏打ちされるのは、ルドルフ逮捕に隠れた陰謀が明かされる段になってからだ。 ルドルフが今回の陰謀に巻き込まれる引鉄となったのはかつて愛した女性をロンドンで見たという戦友からの手紙である。第2次大戦の恐怖を伴う呪わしき記憶が残る彼の地ヨーロッパを踏ませた原動力が愛する人に一目逢いたいという想いだったのはなんともロマンチックではあるが、これが実に共感できる。 もし私にも同じ報せが入れば、どうにかしてそこを訪れ、再会したいと思うだろう。私もそんな齢になってきたのかと苦笑してしまった。 北上次郎氏も云っていたが率直に云ってかつての名作から比較すれば冒頭に述べたスピード感は減じている。 しかしそれを補う物語はここにはある。 傑作とは云えないまでもやはり続けて読みたくなる作家である事は確か。 バー=ゾウハー御齢80歳。同年代のフリーマントルが旺盛な執筆活動を見せている今、この作家にも次作を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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この頃の東野作品には『宿命』や『変身』といった人間の心や過去の因果によって引き起こされる運命の皮肉を扱ったミステリと、片や『白馬山荘殺人事件』、『仮面山荘殺人事件』など、昔からのトリッキーな舞台設定でペンションや館といった閉鎖空間で繰り広げられるオーソドックスなミステリと、2つの大きな流れがあったように思うが、本書はその題名から連想されるように後者の流れを汲むミステリだ。
かつて愛した人を、その男が実業家の隠し子で遺産を相続する権利があるという理由で無理心中という形で殺された元秘書が、実業家一族と懇意である老婆に変装し、遺言公開が行われる回廊亭という旅館で、犯人を見つけ出し、復讐するというプロットがメインだが、やはり東野氏はそんな通り一辺倒に物語を展開せず、容疑者の目処が付いた時点でその容疑者を殺し、復讐者が警察と一緒になってその犯人を探し出すという物語の転換を見せる。つまり倒叙物に犯人探しを織り込んだ作品だといえる。 実にさらっと書いており、しかもその流れが実に淀みが無いので普通に読んでしまいがちだが、限られた登場人物で捜査が進むに連れて判明する新事実に容疑者が二転三転するこの物語運びはなかなか出来るものではない。 特にその淀みない筆致こそが曲者であり、読んでいる最中、どうにか作者の術中に嵌らないことを念頭に読んでいたが、今回もすんなりと騙されてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『深海のYrr』でミステリ界の話題を攫ったフランク・シェッツィングは第1作は歴史サスペンス、2作目はコージー・ミステリと作風をガラリと変えてきたが、邦訳最新作で実質3作目となる本書は女探偵を主人公にした正々堂々たるミステリ。湾岸戦争の怨念の正体を追う探偵物にして、本格ミステリ風のサプライズまで備えた作品となっている。
ケルンで起きた拷問の末の殺人事件が91年に起きた湾岸戦争で仲間に置き去りにされたスナイパーの復讐劇の始まりのように思わされる導入部。これに纏わって当初は謎めいた捜索願が女探偵の許へ依頼されるという形を取っている。 しかしこの謎は上巻の220ページ弱のあたりで早々に明かされる。 しかし冒頭のプロローグから連想されるプロットに反して、ヴェーラの捜査が進むに連れて、登場人物はどんどん増えていく。お宝に関わった3人以外にも外人部隊、それもZEROと呼ばれる精鋭たちで構成された部隊に所属していた戦争の亡霊たちが次々と事件に関わっていく。 そして復讐者と思われたマーマンも実は湾岸戦争時代の類い稀なる残忍さと拷問の技量を備えたイェンス・ルーボルトの標的である事が解り、物語は混迷を極める。 その混迷は下巻の242ページでようやくすっと霧が晴れるように消失する。 そして本書ではプロットのみではなく、登場人物の描写力も格段に良くなっている。今までは平板でプロトタイプ的な登場人物ばかりで、物語が上滑りしているように感じられたのがシェッツィングの欠点であったが、本書では登場人物の過去が因果となる性格形成をプロファイリングで説明するという手法を取っているからだろうか、なかなか厚みがあった。 ヴェーラの依頼人バトゲはヴェーラのガードを解きほぐす魅力を備えており、また謎めいた物腰がなかなか興味をそそる。 そして災厄の根源ルーボルトも怪物として描かれているが、単純に人智の及ばない怪人物として描かず、彼がなぜ怪物となったのかを生い立ちから語ることで、創造上の人物からどこか現実的にいる人物に感じられるようになっている。 その中でもやはり最も印象に残る人物は主人公である女探偵ヴェーラ・ジェミニだろう。最初はコンピュータに精通した、活きのいい気の強い女性と典型的な女探偵像で語られ、実に画一的な印象を受けたが、下巻、依頼人のバトゲにとうとう身体を許すようになって回想される彼女の結婚生活の失敗のエピソードで彼女の人物像に厚みが出てくる。 かつて同じ警察の鑑識員として働いていた元夫カールと離婚に至るまでに受けた彼女の肉体的、精神的苦痛と残る傷痕。そこで吐露されるヴェーラの男性観がなかなかに鋭く、身につまされる点もあった。カールの、男が社会で気を張って頑張らざるを得ないがために陥った自我の崩壊が理解できるだけに痛い。このエピソードでヴェーラの貌がようやく見えた。 さらに個人的にはほんの少ししか登場しなかったが軍隊時代のルーボルトの上官であったシュテファン・ハルムが印象に残った。こういう端役の人物に深みを感じるようなことは今まで彼の作品を読んで、初めてのことだ。 しかしそれに反して警察の面々は戯画化されたように書かれている。この凄惨な事件を任されたメネメンチやその部下クランツのやり取りは、残忍な事件を語る物語に挟まれる笑劇のようである。特にメネメンチは独身である事を実に悔やんでおり、前回読んだキュッパーもまた長く付き合っていた恋人との別れに愚痴を連ねていた。 シェッツィングはどうも警察官を女々しい人物と描く傾向があるようだ。それは権威的存在である警察官を読者のレベルまで引き下げる事で親しみを持ったキャラクターにしているのかもしれないし、黄金期の作家たちがよくやっていたように、権威を貶める事で読者の溜飲を下げているのかもしれない。 そうそうキュッパーと云えば、本作でカメオ出演しており、プロファイリングを披露する。『グルメ警部キュッパー』を読んだ時はそんなことしたかいな?と首を傾げるような感じではあるのだが、ケルンを舞台にして作品を著す著者にしてみればやはり警察に所属するこの2人が面識がないというのもおかしな物だと思ったのかもしれない。 本書の登場人物に共通するのは自らの存在意義への問い掛けだ。 自分が自分であることはどうやって証明できるのか? また自分はどこから来て、どこへ行くのか? 誰かに見ていられることで自分は存在するのではないか? そういう問い掛けを登場人物は行う。夫の暴力を克服して獲得した自分という物は果たして誰かに必要とされるのかと疑問視し、人に愛される事で自らが存在する事を解りながら、過去の結婚の過ちがトラウマとなり、一歩踏み出せない主人公ヴェーラを筆頭に、厳格な父親に育てられる事で、自分が幼少の頃にされた仕打ちを部下に強いる事で父親の翳を克服しようとするルーボルト、名前を変え、異国に隠れてルーボルトという驚異に怯えて暮し、あえて自らの存在を殺そうと務めるマーマン。現実世界に愛想を尽かし、仮想空間に真実を求めるマーマンの妹ニコラ、などなど。 最後にルーボルトが演説する、メディアに見られてこそ、事件は事件となり、存在は存在として認識されるという言葉は、名前ではなく、エンジニア、運転手、スナイパーと役職だけで語られるプロローグの匿名性を示唆しているようで興味深い。 匿名性と存在に対する他者の認識、そして人ならば必ず抱える自らの存在意義など、本書の主題とこれらのテーマが結び付いて、前作、前々作よりも明らかに出来映えが増している。 本書の後に1作挟んで発表されたのが『深海のYrr』である。ますます期待感が高まる。 しかしやはりこの邦題はどうにかならないだろうか?宣伝効果を煽るために「ゲシュペンスト」なる聞き慣れないドイツ語(「亡霊」という意味らしい)を冠するのはなんともダサい。 逆にドイツ語を知る人はそれほどいないのだから、自由に邦題を付けられるのだから、それを利点にしてもっとしびれるような邦題をつけてほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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晴れて浪速大学に合格し、念願のミステリ研に入った吉野桜子とミス研の面々、黒田、清水、若尾ら3先輩が遭遇する日常の謎系ミステリ短編集。
「消えた指輪(ミッシング・リング)」は浪速大学ミス研の面々が合宿先のセミナーハウスにて入浴中に密室状態の脱衣所で起こった財布と指輪の盗難事件の謎を解くという物。 正に軽いジャブのような作品。事件はあまりに単純で犯人も容易に解る。工夫がなされているのは指輪の隠し場所と犯人の動機だろうか。日常の謎系ミステリを作るために少しばかり無理を感じさせる謎である。 表題作はこの短編集を貫く1本の軸のような物語。桜子の大叔父の暗号で書かれた遺言状をミス研の面々が解き明かそうとチャレンジする。しかしこれは発端に過ぎなく、この遺言状の謎を巡って桜子はある決意をする。 インタールード的な作品となろうか、その間に挟まれる2編は実に軽いミステリ。 まずその1編「『無理』な事件」は関西ミステリ連盟交流会、略して関ミス連のイベントでミステリ作家大槻忍先生を招いてのトークショーで起きた、睡眠薬入り緑茶事件を浪速大学ミス研の諸氏が推理する話。 もう1編「忘レナイデ・・・・・・」は小学校の時に転校で別れ別れになった男の子から届いた十年以上も前の暑中見舞い。しかし相手はつい最近交通事故で亡くなっていたという謎を扱う。 1枚の葉書きから男女の三角関係に潜む複雑な心情を推理する本編はどこかケメルマンの「九マイルには遠すぎる」を髣髴させる。 そして物語は再び表題作によって閉じられる。 光原百合氏が創元推理文庫で出版した文庫オリジナルの連作短編集。 彼女の実質的なデビューは東京創元社から単行本の版型で出版された『時計を忘れて森へ行こう』だった。しかしその前に彼女は光文社が主催する鮎川哲也が審査員を務める『本格推理』シリーズに投稿をしており、実際に作品が掲載された。本書にはそのシリーズに掲載された作品(「消えた指輪」)も挟まれている。そして投稿時のペンネームが本書で主人公ならびに語り手を務める吉野桜子でもあった。 浪速大学ミステリ研究会に所属する吉野桜子が出くわすちょっとした謎をミステリ研究会の面々が解決するというスタイルで語られているが、そのメンバーの個性が類型的過ぎて、なんとも少女マンガ的だなぁと苦笑してしまった。 よく似ているなぁと思ったのは田中芳樹氏の『創竜伝』シリーズの主役、竜堂4兄弟である。 例えば黒田はやんちゃな終であり、清水はおっとり型の余、そして若尾は毒舌家の続と家長の始以外、非常に似通ったキャラクター設定である。 ミステリとしての出来映えは中の下ぐらいか。どれもが見え見えの内容で、解けない謎でも真相は想像の範疇、つまり読み手が予想していた選択肢の中に納まっている物である。 しかしこの連作短編集はミステリそのものとして読むよりも語り手の吉野桜子のある成長物語と読むのが正しいだろう。日常の謎系ミステリの先駆者である北村薫氏が描く主人公「私」も確かに物語を重ねるにつれ、純粋な文学少女から大人の女性への階段を上っていく味わいがあるが、それは彼女が出くわす事件を通じて、大人の世界を知っていくといったもので、これといった主軸があるわけではない。 しかし本書では大学受験に合格し、憧れのミステリ研究会へ入会した吉野桜子が本書の表題作に登場するミステリ好きの大叔父との「遠い約束」、大人になったら大叔父と2人でコンビを組んでミステリ作家になる約束のため、いつか作家となる夢に向かう姿が描かれている。自分の身の回りの小さな宇宙を通じて作家になることへの覚悟を固めていく姿が背景になっている。 この吉野桜子が前にも述べたようにかつての光原氏のペンネームであったことから解るように、作者自身を投影した人物であるのは想像に難くない。従ってその文章からは自身がようやく憧れのミステリ作家になれた歓びが満ち溢れているのだが、いささかはしゃぎすぎて苦笑を禁じえないのも確か。 一人称叙述で語られる地の文はライトノベル好きの文学少女が書きがちな、ユーモアと皮肉に溢れており、悪く云えば悪ふざけが過ぎるように感じる。高校生の時に読めば、この手のミステリ愛好者をくすぐるような、ところどころに挟まれる古典ミステリへのオマージュや固有名詞にはニヤリとさせられるのだが、やはり40代の身には、白けて映ってしまう。 しかしそれらはやはりこの光原百合という作家が抱くミステリへの愛の深さゆえの発露であることがひしひしと伝わってくる。読み手から書き手へと脱皮したい衝動を主人公吉野桜子に存分に投影しているし、とりわけラストの大叔父の手紙ではミステリを愛する者が必ず抱く思いが綴られていて、胸を打つ。 こういうのにやっぱり弱いんだな、私は。 斜に構えて評価しようとも思ったが、それはやはりこの作家に対して失礼だと感じた。ミステリを愛する人、特に高校生に読んで欲しい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クーンツの犬好きは非常に有名だが、とうとう犬をテーマに小説を著したのが本書。
犬を前面に押し出した作品では既に『ウォッチャーズ』という大傑作があるが、本書ではもっと犬と人間との関わり合いについて書かれている。何しろ主人公はエイミー・レッドウィングといい、<ゴールデン・ハート>というドッグ・レスキューを経営しているのだ。 このドッグ・レスキューとは、その名のとおり、ペット虐待が日常化している家庭などで育てられている犬を買い取ったり、繁殖犬として劣悪な環境で育てられ、生殖機能を酷使され、人間の愛情すら受け付けられなくなった犬を保護したりする職業だ。このような仕事が実在するのか、はたまた犬好きのクーンツの生み出した願望の産物なのか、寡聞にして知らないが、とにかく犬に対する愛情なくては出来ない仕事である。 そして今回の目玉はニッキーという名のゴールデン・レトリーバーの存在。逢うもの全てが魅了され、どこか普通とは違う特別な犬だと悟らされる犬だ。 またも例に出して悪いが、『ウォッチャーズ』のアインシュタインを彷彿させる犬キャラだ。そういえばアインシュタインも同じ犬種ではなかったっけ? そして昨今のクーンツ作品に顕著に見られる裏テーマが幼児虐待だ。『ドラゴン・ティアーズ』で“狂気の90年代”を謳ってから、彼は一貫してこの虐待を扱っているように思う。 今回は幼児のみならず、犬に対する虐待を大きく取り上げ、声高らかに反論する。今回も“仔豚(ピギー)”と呼ばれる母親から虐待を受ける少女が現れる。彼女はダウン症で、母親は娘のせいで幸せが摑めないのだと逆恨みをぶつけて虐待を重ねるのだ。 そんな物語は実に緩慢に流れる。ドッグ・レスキューのエイミーとその恋人ブライアン、そして何か人智を超えた力を感じるゴールデン・レトリーバーのニッキーの話を軸に、ハローとムーンガールという不気味なカップル、そしてエイミーの過去を探る探偵の話が交互に語られる。そしてそれらはやがて一点に収束する。 しかし最近のクーンツ作品にありがちなエピソードを幾層にも積み重ねる語り口からはどうも最初にこのプロットありきとは感じられず、筆の赴くままに物語を書いていった結果、こうなったという印象が強い。 特にそれが顕著に感じられるのは、謎めいた存在を醸し出すゴールデン・レトリーバーのニッキーの謎が最後まで明かされないところ。 しかし本書の冒頭の献辞には、恐らくクーンツ自身が飼っていたであろうガーダ(解説の香山二三郎氏は瀬名氏による『オッド・トーマスの受難』を引用し、トリクシーが犬の名であるとしている)という名の犬―しかもゴールデン・レトリーバーのようだ―への感謝の気持ちが綴られており、どうやらその犬も既にあの世へと行ってしまったようだ。 そして虐待された少女ピギーことホープがニッキーのことを“永遠に光り輝くもの”と呼ぶことからも、これはガーダへ捧げる物語だったのだろう。エイミーが犬と暮した日々の追憶は作者のそれが重なっているに違いない。彼にとってガーダはニッキーであり、だからこそニッキーの謎については触れなかったのかもしれない。 犬を飼っている人にはこの気持ちが解るだろう、そう、クーンツは云っているようにも取れる。 本書の題名は原題をそのまま訳したものである。この「一年でいちばん暗い夕暮れ」とは実は登場人物たちが抱える闇を指しているのではなく、クーンツが経験したガーダを喪ったその日の夕暮れを指しているのではないか。 消化不良感がどうしても残る作品だが、愛犬を亡くしたクーンツを思うと、これは彼が哀しみを乗越えるのに書かねばならなかった作品だと好意的に解釈すれば、それもまた許せるというものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『災厄の町』から始まった第3期クイーンシリーズだが、この2作に共通しているのは事件が起こる前にクイーンが渦中の家族の中に潜り込み、その過程に隠された秘密を探っていくという趣向にある。これは調査を進めるうちに家庭内にどんどん入り込むチャンドラーのマーロウやロスマクのアーチャーなど私立探偵小説に通ずる展開がある。
もっと下世話に云えばドラマ『家政婦は見た!』のようなワイドショー的な立入り捜査となるだろうか。 今回は6人の息子を持つ靴屋チェーン店をアメリカに展開する老婆の家で起こる殺人事件を扱っている。その6人の息子というのが前夫の間に生まれた3人が気違いであり、現在の夫の間に生まれた3人が優秀でそのうち双子の兄弟は実質的に会社を切り盛りしているといった具合。 そしてこの靴屋の老婆と6人の子供という状況がマザーグースの歌に出てくるのだ。そしてその歌の歌詞を具現化するかのように事件が起きる。 マザー・グースの歌に擬えた殺人事件。この童謡殺人というテーマは古今東西の作家によっていくつもの作品が書かれているが、クイーンも例外でなかった。 しかしクリスティの『そして誰もいなくなった』然り、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』然りと、他の作家たちのこのマザー・グースを扱った童謡殺人の作品が傑作で有名なのに対して、本書はクイーン作品の中ではさほど有名ではない。 読了した今、それも仕方がないかなという感想だ。 今回の事件というのは、空砲での決闘になるはずだったサーロウとロバートの異父兄弟が実弾が放たれたがためにロバートが死に、そしてまたその双子の弟マクリンも決闘する段になってその前夜、何者かに撃たれて死んでしまうという物。 さらにポッツ一族の長であるコーネリアが死の間際に遺した告発状に自身がそれをやったのかと残されていたが、その告発状は偽物である事が発覚する。 空砲にすり替えたはずの銃弾を誰が実弾にすり替えたのか? そしてマクリンはマザーグースの歌に擬えるが如く、死んだのか? さらにコーネリアの告発状を偽造したのは誰か? これらが謎の焦点になっているのだが、事件としては小粒でいささか牽引力が弱い。 最後の蛇足交じりの重箱の隅を。 ロバートが決闘にて射殺される事件が起きるにいたり、ポッツ製靴会社の社主コーネリアはスキャンダルによる株価下落を予想して自身の所有する株を売りに出すことを命じるが、これは明らかにインサイダー取引だ。 まあ、恐らく本書が刊行された1940年代にはそういったモラルが確立されていなかったのだろうから、インサイダー取引に関する法律も整備されていなかったのだろう。当時の常識を知る意味でもなかなか興味深い一幕だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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切ない。なんとも切ない物語だ。
脳を移植された男が次第に移植された脳に支配され、性格を変貌させていく。 プロットを説明するとたったこの一行で済んでしまうシンプルさだ。しかしこのシンプルさが実に読ませる。 この魅力的なワンアイデアの勝利もあるだろうが、やはり名手東野氏のストーリーテラーの巧さあっての面白さであろう。 実はこの作品にはかつて別の形で接していた。 それはこの作品の漫画化作品で確かヤングサンデーで『HEADS』という題名で連載されていた。作者は『イキガミ』でも名を馳せている間瀬元朗氏。 当時私は東野作品を読むことは全く考えていなかったのですぐに読んだが、脳移植手術を施された主人公が徐々に自分らしさを失っていく当惑と恐怖が次回への牽引力となっていたのをよく覚えている。そしてその作品がきっかけで間瀬氏の作品を読むようにもなった。 しかし幸いにして当時の私はどんな理由だったか解らないが、その漫画を最後まで読むことはなかった。従って結末は知らないままなので、初読のように読めた。また各登場人物のイメージが『HEADS』で描かれた人物像だったのは云うまでも無い。 人の臓器を移植された時点で人はもうその人そのものでなくなってしまう、そんな感慨を抱く人もいるようだ。 そして本書は臓器の中でも人格を形成する脳を移植されるわけだから、アイデンティティに揺るぎが出てくるのは必然だろう。 21世紀になって18年経つ現在、本書に書かれているような脳移植手術は実現していない。現在から遡る事28年前に発表された本書は、脳移植がアンタッチャブルな領域である事をひしひしと感じさせ、その恐ろしさをじわりじわりと感じさせる。 しかし作者は別に警鐘を鳴らしているのではない。本作の前に書かれた『宿命』では脳を対象にした人体実験が物語の隠し味として扱われていたが、本書ではそれを前面に押し出して実験体となった男の行く末を一人称で語っていく。 つまり脳、そしてそれによって形成される自分という物の正体を脳移植というモチーフを使って探求しているようだ。 確かに科学的根拠としてこんな事が起きるのかという疑問はあるだろう。出来すぎな漫画のようなプロットだと思うかもしれない。 しかしそんな猜疑心を持たずに本書に当って欲しい。 90年代に自分探しというのがちょっとしたブームとなった。 自分は一体何者でどこから来たのかというルーツを探る、一人旅をして裸の自分と向き合う、そんな風潮が小説はもとより映画やあらゆるメディアで用いられた。この作品はそんな自分探し作品の変奏曲だ。 失われつつある自分を必死に引きとめようとすることで他者を意識し、自分という存在を意識する。脳移植をモチーフに変身していく男の苦悩と恐怖を描く事で凡百の自分探し作品に落ち着かない作品を描く東野氏。さすがである。 自己のアイデンティティへの問い掛けから最後は人生について考えさせられる本書。 物語の閉じられ方がそれまでの過程に比べ、拙速すぎた感が否めないが、ワンアイデアをここまで胸を打つ物語に結実させる東野の物語巧者ぶりに改めて畏れ入った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フランク・シェッツィング第2作目。1作目が13世紀のケルンを舞台にした歴史物で、2作目はグルメ警部が主人公のコージー・ミステリとガラリと趣向を変え、多彩振りを見せている。
文体も1作目に比べると軽妙だが(まあ、訳者も違うのだが)、どうもこの作家の文章は私には合わないように感じた。 今まで私は数多くの海外作品を読んできた。従って普通の読者がよく云うような、人物の名前の区別がつかない、舞台が海外で馴染みがないので解りにくいといったような抵抗感無しに物語に入っていけるのだが、この作家の場合は少しばかり勝手が違うように感じる。 一番感じるのは、本書で作者が前作にも増して散りばめているウィットやユーモアがこちらに頭に浸透してこない事。そのため、各章の最後に書かれた締めの台詞が私にはビシッと決まらず、頭に「?」が浮かんだり、もしくは「ふ~ん」という程度で終ってしまうのだ。 もしかしたらこれは作者のユーモアセンスではなく、ドイツ人共通のユーモアセンスなのだろうか?アメリカやイギリス、そしてフランスの作家の作品を読んできたが、これらの国のユーモアに比べて、洒落てはいるとは思うが、機知を感じるとまではいかない。 ではミステリとしてはどうかというと、2つの殺人事件が起きるわけだが、この真相はなかなかに入り組んでおり、なるほどとは感じた。 さて題名に「グルメ警部」と謳われているように、主人公キュッパーは美味い物に目がないが、この手の作品にありがちな料理に関する薀蓄が展開されるわけでもないため、際立って美食家であるという印象は受けない。 むしろ、普通に美味い物が好きで料理も出来る男が警部だったというのが正確だろう。 また巻末にはケルンの街の有名な店の名前と料理のレシピが載せられているが、これらが作中に登場したのか確信が持てない。読み慣れないドイツ語表記の料理名は私がドイツと料理の双方に疎い事と相俟って、想像を掻き立てられなかった。 そんな私はこの本を読む資格がないと云われれば素直に認めざるを得ないが。 登場人物も個性があり、例えばドイツ人なのに、イギリスの執事に憧れる召使いシュミッツを始めとして―ただこの特異さについては日本人である私にはいささか解りかねるところがある。なぜならドイツも城が多くあり、貴族も多いため(「フォン」とは貴族の称号だし)、執事がいることがさほどおかしいとは感じないのだが―、被害者インカの夫フリッツとその影武者で元俳優のマックス、絶世の美女であるフリッツの秘書エヴァに大富豪の娘でありながら、動物園の飼育係であるマリオンなど、役者は揃っているが、彼ら彼女らの台詞が前述のようにこちらの頭に浸透してこないので、作られた紙上だけのキャラクターとしか映らなかった。 しかしこの作者はきちんとクライマックスシーンをアクションで見せるところに感心する。『黒のトイフェル』にも大聖堂の屋根上での迫力ある格闘シーンがあったし、今回は動物園を舞台に追跡劇とライオンの柵の中での攻防ありと、サービス満点だ。 この2作に共通するのはこれらアクションシーンが非常に映像的だという事。広告業界で働いた経歴を持つ作者だから、こういったお客に“魅せる”手法を常に意識しているのだろう。 まあ、しかしまだ2作目。この作者の真価を問うにはまだ早すぎるか。次の『砂漠のゲシュペンスト』で上に述べたような不満が解消されるのか、はたまた世評高い『深海のYrr』まで待たなくてはならないのか。 ともあれ、過大な期待をして臨むことだけは避けて、次作に取り掛かることにするか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今やバカミスの第一人者として名高い霞流一氏。
彼は動物を作品のモチーフにしているのが特徴だが、本書はその題名が示すように全編に馬に纏わるものが散りばめられている。 まず物語の舞台となるのが岡山県の羅馬田町。勿論これは架空の町である。 そこに纏わる平家の落ち武者伝説に端を発した馬の頭をした馬頭観音に、一瞬にして馬を巻き上げ、落命させる堤場風の伝説から派生したダイバ神。さらに第2の死体はユニコーン像によって撲殺されている、などなど。 そしてそんなガジェットに包まれた事件は死体の周囲に足跡のない不可能犯罪、密室殺人に、袋小路で消え失せた犯人と、本格ミステリの王道を行くものばかり。 それらは実に明確に解き明かされる。その真相は島田氏の豪腕ぶりを彷彿させるような離れ技が多い。 しかし霞氏のコメディに徹した文体が不可能犯罪の謎を薄味に変えているように感じてしまった。 本格ミステリの不可能趣味とはその謎が不可解であればあるほど、魅力的に読者の目には映るわけだが、霞氏の軽い文体はその不可能趣味を茶化しているように感じて、謎の求心力を薄めてしまっているように思えてならない。 従って、私に限って云えば、いつもならば謎解きを考えながら読むのに、今回は物語が流れるままにしてしまった。謎解きを主題とした本格ミステリのフックを感じなかったのだ。 また読者の心に残す物語の主要素の1つ、キャラクターだが、これも設定がマンガ的に留まっており、個性的であるものの、読者の共感や憧れを抱くような血が通った者は皆無である。これは探偵役天倉とそのパートナーで語り手を務める魚間もそうで、非常に記号化された駒のような扱いである。 そのため、最後天倉が謎解きを魚間の前で開陳した後の事件関係者の成行きは後日端的エピソードの域を出ず、そこに関係者の台詞は全く挟まれていない。従っていわゆる一昔前のノベルス版で数多書かれたような本格ミステリという風に私は感じた。 しかし改めて振り返ると本書に挙げられた謎とその真相はなかなか面白いものである。 本書は1999年の書でようやく世間にバカミスなるジャンルを声高にアピールした頃に書かれたものだ。その時期に敢えて馬鹿の字の「馬」を選び、作中人物に事件の状況を指して「バカミステリー」と云わせているところが霞氏の歩む道を謳っているようで興味深い。 初めて彼の作品を読んだ印象としては、彼の言葉遊びの要素、コメディタッチのストーリー運びと戯画化されすぎたキャラクターが逆に損をしていると感じた。 しかし昨今の作者の評判は年々高くなっている。ここはしばらく彼の作品を追ってその真価を確認していこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のチャーリー・マフィンシリーズ。前作『城壁に手をかけた男』でナターリヤとの結婚生活に終止符を打ったチャーリーがまたまたロシアを舞台に暗躍する。
騙し騙され、嵌め嵌められ。全く諜報活動の世界とは何が真実で何が虚構なのか全く予断を許さない。 最後まで読んだ今はそんな思いでいっぱいだ。 今までと一味違うと思ったのはチャーリーが嵌められて、いいようにあしらわれることだ。大使館内のスパイ潜入疑惑の捜査の一環としてチャーリーそのものが嘘発見器にかけられ、危うくナターリヤとの生活がばれてしまうのではないかと恐れを抱く。 また記者会見を開く直前にロシア民警捜査官で、チャーリーの協力者であるパヴロフの部屋に招かれた際の一部始終をVTRに撮られ、全国ニュースにその内容がロシア側に同情を誘うように編集され、世界中の笑い者になるなど、今までのチャーリーに比べるといささか精細さを欠く。 文中で時折挟まれる自身の技能の衰えの有無に関する独白から推定すると、本作では現場を離れた超一流スパイのブランクを描く事が1つの目的であったのではないだろうか。 例えば『待たれていた男』や『城壁に手をかけた男』などは身元不明の死体の正体捜しや暗殺の模様が映された映像の分析や容疑者の尋問など、謎の核心にチャーリーが関係する諸外国の機関との軋轢を乗り越えながら迫っていくものだったが、本作では身元不明の片腕の男の死体があるにもかかわらず、その身元を探るところから始まるのではなく、この死体が英国大使館内で殺されたか否かにまず腐心する。 まあ、大使館内で死体が発見されるというシチュエーションだからこの手続きは定石なのだろうが、どうにか探りを入れて事件に介入しようとするロシア側と事なかれ主義を貫こうとする大使館の面々からの妨害や横やりへ対処することばかりが語られ、一向に被害者の正体探し、犯人探しへ進まない。 まあ、これらはいわゆる役所仕事と揶揄されるずさんな仕事ぶりや1つのことにいろんな部署が介在してたらい回しにされるところも想起させられるのが面白いところではあるのだが、それでも謎解きの牽引力よりも状況の打開策に苦心する姿と、再会したナターリヤとの関係修復に苦悶する姿の繰り返しなのはちょっと引き延ばしているのでは?と上巻を読んでいるときは感じてしまった。 今回の話は物語の冒頭に引用されている2006年に起きた元KGBのアレクサンドル・リトヴィネンコをロンドンで暗殺した容疑者アンドレイ・ルゴヴォイ引渡しを当時のロシア大統領プーチンが拒否した事件をモチーフにしている。グラスノスチ以後、ペレストロイカで資本主義社会にシフトしていったロシアが今なお社会主義的秘密主義に覆われている事を世界に知らしめた事件だ。 フリーマントルはここにエスピオナージュの鉱床を見つけ、更にロシアの暗部と畏怖を掘り下げようとしている。その好敵手として選んだのがロシアで長年海千山千の強者どもを出し抜き、危機を脱して生き残ってきたチャーリー・マフィンだ。 しかしこの引用ですら、実はフリーマントルによるミスディレクションだった事に最後になって気付かされるのである。これについてはネタバレで述べよう。 しかし本当にこのシリーズは一流のエスピオナージュ小説でありながら世のサラリーマンの共感を得る、中間管理職の苦労を痛感させられる作りになっているのが面白い。 例えばチャーリーが派遣されるロシアの英国大使館の警備責任者を含む面々は、歴代の駐在員たちから見れば、信じられないほど楽天的で牧歌的な雰囲気を纏った人物ばかりだ。かつてのロシア駐在員たちはいつ謂れのない理由で民警に逮捕され、監禁されて拷問を受ける恐怖が常に付き纏っていたのに、彼らは壊れた監視カメラの修理でロシア人を何の疑問もなく大使館内に入れ、おまけに再び壊れた監視カメラを直さずに何日も放置しているという体たらくだ。しかもその行為に誰も疑問や危機感を感じない鈍感さも伴っている。しかもチャーリーは派閥争いで劣勢に立っている現部長の地位堅守のため、どうしてもこの事件を解決しなければならないのだ。 これをサラリーマンに照らし合わせると、万年赤字を抱えている地方支店に配属され、そのあまりにひどい現状に幻滅する姿が目に浮かぶではないか。派閥争いに巻き込まれるあたりはもうサラリーマンの苦悩そのままである。 そしてそんなチャーリーが最後の最後に誰もが信じて疑わなかった真実から開眼し、事件の裏に隠された真実を突き止める。 訳者あとがきによれば本作は新たな3部作の第1作目であるとのこと。恐らくチャーリーとナターリヤの関係もこの3部作で結着が着くことだろう。即ちようやくフリーマントルは長きに渡ったチャーリー・マフィンシリーズに終止符を打とうとしているのだ。 本書の評価は上に書いたとおり、個人的には全面的に受け入れ難いため、7ツ星評価に落ち着いたが、三部作の最後を読んだ後ではまた変わるかもしれない。 とにかくフリーマントルのライフワークとも云えるこのシリーズの恐らく掉尾を飾る三部作の最終作を愉しみにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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海外を舞台にすることが多かった薬師寺涼子シリーズだが、本書では前作に引き続き日本の避暑地軽井沢が舞台となっている。不況による取材費の引き締めか。
いや下衆の勘ぐりはよそう。 今までのシリーズ同様、ドラ避けお涼こと薬師寺涼子の自由奔放、傍若無人ぶりは健在で今回も権力の壁を乗越えて、カツカツとハイヒールの音高らかに闊歩する。 今回の敵はアメリカの食品業界を牛耳るUFAのオーナーである女性大富豪マイラ・ロートリッジ。不老不死を夢見るこの女帝は実の娘を若返り用クローンとして育てているというのが今回の趣向。 この自らの延命のためにクローンを育てる金持ちというテーマは21世紀になって数多書かれた物で、内容的には驚きはもたらさない。このシリーズはアイデアの斬新さを求めるのではなく、色んな敵に薬師寺涼子がいかに勝利するか、そのプロセスを愉しむべきだろう。 しかしこのシリーズに放り込むオタク度、マニア度の高いカテゴリーの豊富な事。コスプレ、メイド、女装趣味と現代日本の歪んだ多様性、いわゆる萌え要素があらゆる限り反映されている。 そしてそれらに没入する社会的地位の人間が警察や官僚の高官だったり、医者だったり、実業家だったりとかなり高い地位の人々であるのが皮肉か。ストレス社会と云われる日本の現在を田中氏なりに毒を込めて盛り込んでいるのだろうか。 で、今回いつもにも増して気付かされるのが薬師寺涼子の部下泉田警部補に対する愛情だ。 今までは単純に独善的に泉田を引っ張りまわし引き連れていた感があるが、今回は泉田と共有する時間を敢えて取ったり―冒頭の軽井沢へ向かう列車にわざわざ乗り合わせる―、泉田に女性としての自分を売ったりー交通事故に遭った泉田に食事を手ずから食べさせる―する。 シリーズも7作目になってようやく単なる師従の関係から進展してきた感がある。まあこれは鈍感な私が今までの作品でそれに気付かなかったところもあるかもしれないが。 しかし無敵の美貌を誇る薬師寺涼子はある意味究極のツンデレだ(これももはや死語か)。 とはいえ、やはり読みやすいが故に1ヵ月後には忘れてしまいそうなお話ではある。まあ、嫌いではないので次巻が出たら買うだろうけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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第3期クイーンシリーズで後期クイーンの代表とされるいわゆる「ライツヴィルシリーズ」の第1弾が本作。
第1の事件として架空の町ライツヴィルの創設者となったライト家に起きた妻毒殺未遂事件を扱っている。 題名の『災厄の町』とはすなわちライツヴィルを指している。但しこの町に悪党共が巣食い、荒廃しているとか、基幹産業が斜陽になり、過疎化が進んでいるとかそんな類いのものではなく、町の著名人であるライト家に起こった妻毒殺疑惑事件について、町中の人間が伝聞からあらぬ噂を掻き立て、それが歪んだ憎悪を生み、容疑者のジム・ハイトのみならず、被害者のライト一家へも誹謗・中傷を浴びせていくという、1つの事件が町に及ぼす狂気を謳っているのだ。 扱う事件は妻殺し。夫であるジムは金に困り、飲んだくれ、しかも殺人計画を匂わす手紙まで秘匿していた、と明々白々な状況証拠が揃っていながら、当の被害者である妻が夫の無実を信じて疑わないというのが面白い。そしてその娘婿の無実を妻の家族が信じているというのも一風変わっている。 この実に奇妙な犯人と被害者ならびにその家族の関係が最後エラリイの推理が披露される段になって、実に深い意味合いを帯びてくる。 そして特徴的なのはエラリイが敢えて真相を語るのを先送りにし、今までの作品と違い、ごく限られた人物にしか明かさなかったことだ。 『スペイン岬の秘密』でも見られた、真相を明かすこと、犯人を公の場で曝すことが必ずしも正義ではないのだというテーマがここでは更に昇華している。 知らなくてもよいこと、気付かなくてもよいことを知ってしまったがために苦悩している。興味本位や己の知的好奇心の充足という、完全な野次馬根性で事件に望んでいたエラリイが直面した探偵という存在の意義についてますます踏み込んでいる。 さてこの幸せに見えた新婚夫婦の、知られざる狂気と殉教精神が故に起こった悲劇というモチーフはロスマクの諸作を連想させる。 私はそれが故に今までのロジックの妙で驚きを提供していた作品よりも余韻が残る思いがした。 もう1つだけ本書に関して付け加えよう。今回は『中途の家』以来となる法廷シーンが挿入されている。この辺の内容はけっこう手馴れた物で読み物としての面白さがある。通常法廷物であれば法廷シーンで一発逆転劇が繰り広げられるのだが、クイーンの場合は逆に容疑者が更に苦境に追い込まれていく模様が書かれており、逆に危機感を煽り立てるところに特徴がある。 クイーンが法廷シーンを盛り込んだのは当時人気を博し、ドラマにもなったE・S・ガードナーのペリー・メイスンシリーズの影響を受けたからではないだろうか。出版社の要望もあったのかもしれないが、あくまで真相は法廷シーンではなく、古くから一同を集めて館で披露するスタイルを固執しているのがクイーンらしい。 しかし今なおミステリ評論家の間で俎上に上る後期クイーン問題。ようやくその入口に立った喜びは確かにある。 さて悩める探偵クイーンの道程を一緒に辿っていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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文庫上中下巻という大巻でありながら、世の好評を得た『深海のYrr』。
その作者フランク・シェッツィングの作品を読むに当たって、まずはデビュー作となる本作から読んでみた。 13世紀のドイツ、ケルンを舞台にした貴族の陰謀に巻き込まれた盗人の物語。 『オリヴァー・ツイスト』のような物語を想像したが、濃厚さに欠けるように感じた。 大聖堂の建設が行われるケルンでその建設監督であるゲーアハルトが転落死する。しかしたまたま大司教の林檎を盗みに入ったヤコプは現場を目撃してしまう。事故と思われたその事件にはゲーアハルトに寄添う影があり、ヤコプはそれを捉えていた。 この殺し屋ウルクハートはある陰謀の下、集った貴族の結社が雇った殺し屋。彼はヤコプが目撃した自分の犯行と死に際にヤコプに漏らしたゲーアハルトのメッセージを抹殺せんと執拗に追う。 痛いのは物語の主役を務めるヤコプがさほど聡明ではなく、偶然の連鎖で身に降りかかる災難を避けているに過ぎないことだ。 こういう物語ならばやはり社会の底辺でしたたかに生きてきた盗人が狡猾さと悪知恵で大いなる陰謀を乗越えていく姿を見たいものだ。 そして物語の背景を彩ると思われた大聖堂建設が全く響かないことだ。 物が作られるというのは、物語が作られることの暗喩となる。特に今回のような話では大聖堂の建設が最高潮に達するに従って、貴族らの陰謀もまた最高潮に達するという劇的相乗効果が出来たはずなのだが、シェッツィングはそれをしなかった。これが非常に勿体ない。 大聖堂建設、貴族らの陰謀、そして1人の殺し屋の暗躍と物語を盛り上げるに事欠かない要素をこれだけ盛り込みながら、熱気がほとんど感じさせないとは、ほとんど罪のような小説である。 そしてケルンの貴族連中で結成された結社がなぜゲーアハルトを手に掛けたのか、この謎が曖昧模糊として物語の牽引力になっていないように感じた。少しずつ陰謀の手掛かりを晒しながら徐々に全貌を明らかにしていく語り口を期待していただけに残念。 これがデビュー作なのだからそこまで要求するのは高望みか。 しかしこの物語の主人公はヤコプというよりもこの殺し屋ウルクハートだと云えよう。金髪の長髪を湛えた長身のその男は目に奈落の底を感じさせる。彼の脳裏に時折過ぎるのは暗闇に鳴り響く人のものとは思えない悲鳴の波。元十字軍騎士だった彼がなぜ殺し屋に身を堕としたのかが物語の焦点の1つとなっている。 原題である“Tod Und Teufel”は英語に直すと“Death And Demon”だろうか。ドイツ語には明るくないのでWEB辞書でそれぞれの単語を調べて繋げると「死と悪魔」となる。この悪魔とは即ちウルクハートのことだろう。 しかし『黒のトイフェル』という題名はミステリアスで、読者に「どういう意味だろう?」と食指を動かす魅力はあるが、読み終わってもその意味が伝わらないのは明らかにマイナスだろう。 ドイツ語の「トイフェル」と聞き慣れない一種蠱惑的な響きを敢えてそのままとしたのだろうが。やはり題名というのは人の興味を惹きつけつつ、読了後にその意図が明確になるのが一番だろう。版元はもう少し配慮をして欲しいものだ。 しかしあとがきによれば、本書は本国ドイツでベストセラーを記録したらしい。ドイツにはよほど面白いミステリ・エンタテインメント小説がないのだろう。 まだ見ぬ傑作が山ほどあるドイツ国民はなんとも羨ましい限りだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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