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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 581~600 30/72ページ

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No.846:
(7pt)

まだまだ序の口

まだ2作目だが、映画のロケーションスカウトであるジョン・ペラムのシリーズはその職業の特異性から常に見知らぬ町を舞台にし、そこで彼が”A Stranger In The Town”という存在になり、町中の人間から注目を集め、忌み嫌われて四面楚歌になる状況下で物語が繰り広げられるといった内容になっているのが特徴だ。
特に彼が町中の人間から注目を集めるのに、映画産業という華やかな世界に身を置いていることが実によく効いている。この設定は実に上手いと思う。

そして常に彼の敵になるのがその町の権威者。前作では保安官であり、町長が彼を眼の敵にしていたが、本書では警察官が撃たれるという事件からさらに警察官からの理不尽な圧力が増しており、また検察官にFBI捜査官とペラムを付け回す勢力はさらに拡充されている。そして本来正義の側に立つべき彼らが自身の狙っているホシを捕らえるためにはありもしなかった証人と証言をでっち上げ、それをたまたまその場に立ち会った人間に強要するため、しつこくネチネチと陰険な嫌がらせを繰り返すさまが描かれる。

しかしペラムが巻き込まれる展開は違えど、物語構成としては基本的に『シャロウ・グレイブズ』と同じである。上に書いた四面楚歌状態に、数少ないペラムの協力者がその町の女性―しかも美人!―であるところも一緒だ。
ワンパターン、マンネリは基本的に嫌いではないが、ディーヴァーが、という思いが強く、過剰な期待をしてしまう。池上冬樹氏が前作の解説で書いていたが、やはりディーヴァーも普通の作家だったのかと認識を新たにした次第。

しかしこの作品には後のディーヴァーの技巧の冴えの片鱗が確かにある。特に後半の読者の先入観を見事に利用した人物の描き方による仕掛けは実に素晴らしい。実にさりげなく誘導される筆致には後の傑作群への期待を高まらせてくれた。

そして時折挟まれる映画撮影のエピソードも知的好奇心をくすぐる。映画でよくあるアクションシーンが今では許可が下りにくくなっているとは知らなかった。
例えば本書では川に車が転落するシーンについて語られるが、撮影が行われている町では車が落ちることでオイル漏れやガソリン漏れで汚染と景観が損なわれることを嫌う。そのためそれらの撮影は無許可でゲリラ的に行われるらしい。しかし公開されたら解るだろうし、それこそ訴訟沙汰になると思うのだが。
ハリウッド映画が世界でロケするときによくその国の重要人物を困らせる事態まで招くが、なるほどこういうことだったのかと得心した。これではますますCGが多くなるはずだ。

さらに映画で使う銃火器についても実弾を使わなくてもあらかじめ許可申請と登録がなされており、それがなければ撮影許可、使用許可が下りないなんて話も興味深い。
しかしそれにしてもアメリカは映画撮影に対して日本よりも寛容だと思うが。

またペラムの仕事ぶりを読んでいて、はたっと気づいたことがあった。
よく地方の都市を舞台にしたドラマがあるが、これが地元民の目から見ると実に辻褄の合わない距離感を覚えることがある。例えば走って逃げていた犯人が次の場面ではいきなり車で30分くらいかかる所まで走って逃げているといった具合だ。しかし製作側としては自分の頭に描いたシーンで物語を繋げるだけなのだから、2つのシーンの距離感などは考慮なぞしないのだ。彼らとしては全体として出来上がる映像だけに興味があるのだ。その監督の頭にあるシーンを探すのが彼らロケーションスカウトの仕事なのだ。

さて今回の事件も単純な構図ながら、ところどころにミスリードが含まれている。最後まで読んで冒頭に書かれたジャン=リュック・ゴダールの「映画に欠かせないのは銃と女だ」のエピグラフを読むとこの一文に潜む色んな意味合いに思わずニヤリとしてしまう。

最後のシーンを読んだ時、私には次の一文が頭を過ぎった。

“警官にさよならをいう方法はいまだに発見されていない”

レイモンド・チャンドラーのある有名な作品の最後の一行だ。チャンドラーが込めたこの一文の意味とディーヴァーの描いたラストシーンのそれは全く違うものだが、ディーヴァーはこの一文を美しい風景へと昇華させてくれたように感じた。

しかしこの時点ではまだ佳作の段階。光る物を感じるが、もう一歩と云ったところ。将来化ける可能性を感じはするが、まさか今ほど大家になろうとは思えない作品だ。
しかし1作ごとに完成度が増しているディーヴァー初期の作品群。作者自身が転機となったと云っている『眠れぬイヴのために』の前に果たして良作はあるのか。次が愉しみだ。


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ブラディ・リバー・ブルース (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.845:
(7pt)

クイーンが語るキングの死

今までのクイーン作品の中で最も舞台設定が凝っており、後期クイーンの諸作で深みが増した人間ドラマの一面にさらに濃厚さが増した、リーダビリティ溢れる作品だ。

特に軍需産業で一財を成し、世界各国の政府要人らに絶大な影響力を与えるほどの権勢を誇るキングが君臨する通称ベンディゴ王国はハリウッド映画としても実に映える舞台だ。

しかもドラマチックな設定の中、密室で銃で撃たれるという不可能犯罪が起こる。
被害者のいた部屋は周囲を2フィートのコンクリート壁に囲まれた窓のない堅牢な部屋で弾丸などは通るはずもない。それなのに部屋の外から弾が入っていない状態で引鉄を引かれた銃の弾が被害者の胸から摘出されるというなんとも魅力的な謎が提示される。

しかしこの魅力的な謎の真相は正直期待外れの感は否めない。せっかく魅力的な不可能状況を提供してくれたのなら、読者の盲点を突いた誰もが納得の行くトリックを用意してもらいたいものだ。

しかし犯行の動機には考えさせられるものがある。

そして忘れてはならないのは今回の事件に翳を落としているのはあのライツヴィル。ベンディゴ一族のルーツは因縁の町ライツヴィルにあったのだ。エラリイはいざなわれるようにライツヴィルへ向かう。
正に後期のクイーンにとってライツヴィルはなくてはならない拠り所なのだろう。特に『十日間の不思議』に登場したヴァン・ホーンまでもがキングの被害者になっている件はさらにキングの凄みを彩る。

そして今回着目したいのは作者クイーンが物語に溶け込ました戦争批判。死の商人キングを糾弾するジュダの言葉はそのまま先の大戦に対する作者のメッセージだろう。
人の死という尊厳を大量虐殺で名もなき屍に変えてしまう戦争への怒りがここには込められている。さらに最後死んだ帝王キングの後を継ぐ者の言葉は第二次大戦が終わっても、第二のヒトラーは必ず生まれるのだという作者の警告とも読み取れる。

しかしなんとも暗喩に満ちた作品だ。
まずベンディゴ一族の名前。次弟の名ジュダはキリストの使徒の一人ユダを指し、末弟のエーベルは旧約聖書に出てくるアダムの次男アベルを指す。さらにキングの本名はアベルの兄カインを表すケインだ。
しかもライツヴィルで彼らのルーツを探ると彼らの名前は旧約聖書を辿るかのような運命から故意に名付けられていたことが解る。なんとも業の深い話だ。

しかし最大のメタファーは主人公クイーンに対して相手の名はキングだということだ。つまりチェスや王国ならばクイーンの上に立つ存在だ。
しかしタイトルにあるようにキングは死す。
盛者必衰。
頂点に立つ者はいつか倒れるのだ。この示唆は当時のアメリカのミステリシーンとの何か関係があるのだろうか?

クイーン作品で軍需産業の王の島に連れ去られた中での推理劇という“嵐の山荘物”でありながらも内容が戦争を扱っているだけに冒険小説やスパイ小説の色合いも感じさせる本格ミステリの“キング”であるクイーンならではの作品。
兄弟の生立ちが事件の因縁と繋がるというロスマクを髣髴させるこの路線は正直歓迎なのだが、もう少しカタルシスが欲しいところ。特に今回は部屋の壁をすり抜ける銃弾という謎が非常に魅力的だっただけにその真相に失望してしまったのが大きくマイナスになった。

しかしまだライツヴィルは続くのか。ライツヴィルとクイーンが行く着く果てに何があるのか、今後見ていきたい。


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帝王死す (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-13)
エラリー・クイーン帝王死す についてのレビュー
No.844:
(7pt)

オッドは何処へ

オッド・トーマスシリーズ4作目の本書はなんとエスピオナージュ。
田舎町を牛耳る警察署長と港湾局の職員との軋轢。閉鎖されたムラ社会における一人のストレンジャーという図式に、来たるべき災厄を予知夢で察したオッドが奮闘する。その来たるべき災厄とは町の警察ぐるみで仕組まれた核実験用核爆弾の密輸の支援という、実に意外なものだ。
前回はスーパーナチュラルな怪物が相手だったが、今回は人間の悪意と欲が敵だ。

このためオッドはハリー・ライムと名乗って、核爆弾密輸を独りで阻止しようとタグボートに乗り込み、悪漢どもをやっつける。このオッドが名乗る偽名が映画『第三の男』の主人公であることからも本書の狙いが明らかである。

そしてそのためオッドは自ら課していた銃を使わないという禁忌を破り、密輸団の一味である港湾局の職員を銃殺する。これは本当に意外だった。
そして最後に現れる若き女性の悪党の仲間をオッドは迷いながらも国の平和を守るために撃ち殺す。この場面なんかはもろスパイ映画のワンシーンを切り取ったようだ。

このシリーズの売りはオッドの霊が見える能力で、いつも早いページの段階で霊が登場していたのだが、今回は181ページ目でようやく出てくる。しかも定番の災厄の象徴ボダッハは一切現れないという異色さ。
予知夢で大惨事が起こりうることを知りながら、なぜボダッハが現れないのか不思議でならなかったが、その理由についても作者はすでに準備済みだった。その内容については本書を当たられたい。

しかしこのシリーズには欠かせない存在、霊も新しい相棒フランク・シナトラ以外はこの181ページで現れた港湾局の一味の一人である死者となったサミュエル・オリヴァー・ウィトルのみ。
先に書いたように今回はオッドが未曾有の危機を救うため、そして自らと仲間を守るために銃を手に取り、人を殺めるのにも関らず、霊の存在は希薄だ。

しかし今回それを補うのは、第1巻からサブキャラクターとしてオッドに付き添っていたエルヴィス・プレスリーに代わって、連れ合いとなったフランク・シナトラ。
エルヴィス・プレスリーは彼に纏わる薀蓄を語るための道化師のような役割に過ぎなかったのに対し、シナトラはなんとオッドの窮地を救う活躍を見せる。彼は怒りが頂点に達すると周囲の物を動かし、嵐のように吹き飛ばすポルター・ガイストになるのだ。
この性質を上手く利用してオッドは彼をけなし、貶め、怒りを助長させて不当逮捕された警察署から逃げ出す。この展開は全く予想外であり、また霊を利用してピンチを脱するという新機軸の試みは大いに愉しめた。

ピコ・ムンドでは恋人ストーミー、オッドのよき理解者であるミステリ作家のリトル・オジーにワイアット・ポーター保安官を筆頭に魅力あるキャラクターがいたが、本書でもクーンツのキャラクター造形力は健在。

オッドが運命的な出会いを感じる女性アンナマリア。彼女は全てを知るが如く、物事を受け入れ、オッドの問いに明確な答えを出さず、「何事にもしかるべき時がある」と諭すミステリアスな女性だ。

そして幼少の頃に親にごみを燃やしていたドラム缶に落とされ、不具者となったブロッサム・ローズデイルも忘れがたい印象を残す。彼女は人生を悲嘆することなく、明るく生きるヴァイタリティに満ちている。
『対決の刻』のレイラニといい、クーンツは身障者の女性を実に魅力的に描く。

しかし何といっても今回のベストキャラクターはオッドが新たに雇われることになった元映画俳優のハッチことローレンス・ハッチスン。
齢80を超え、隠居の身である彼は独自の世界に閉じこもっているが、時折俳優時代のことを思い出してはオッドに語る。特に面白かったのはオッドがアンナマリアを助けに行く為に港湾局の男達が訪ねてきたら、嘘の芝居でどうにかごまかして欲しいと頼むと、役作りから始めるところだ。それがいささか過剰演出になってオッドに窘められて肩を落とすシーンで一気にこのキャラクターが好きになった。
それ故にハッチとの別れのシーンが胸を打つ。自分を大きく見せることが上手かった元俳優が抱擁した時に実に脆かった、なんて読まされると思わずホロリとしてしまう。

ただ非常に癖のある文体で語られるこのシリーズはクーンツ読者でないと好んで読まないのではないかと思う。
クーンツ作品にしては珍しく一人称なのはオッドが自身の体験を著すことでセラピーの役割を果たしているからだ。そのため内容はオッドの心の有り様と移り変わりを饒舌に語るようになっており、そのため物語の進行は亀の歩みのように遅い。短い時間の出来事をオッドの心情を交えてものすごく濃く語るので、読んでも全く読んでもストーリーが進まないという感を得てしまう。
これはクーンツ好きではない読者にとっては苦痛だろう。私でさえもっと刈り込んでページ数を減らし、コストパフォーマンスに貢献して欲しいと思う時があるくらいだ。

そしてエスピオナージュを装いながら、それらのジャンルの小説と違うのは最後オッドが人を自分が殺めてしまった罪の意識に苛まれ、縮こまってしまうところだ。
幼少の頃、一晩中母親に銃を突きつけられて一言も泣き声を漏らすこと許されなかった過酷な経験をしたこの男が非情に徹しきれないところにオッドの魅力があり、だから読者はこのキャラを愛してしまうのだろう。

オッドが向かう先は育った町ピコ・ムンドなのか。それともまた霊的磁力に誘われて、地図にもない町に行くのか。
そしてアンナマリアはストーミーに代わるオッドの魂の安らぐ場所になるのか。
解説の瀬名氏によれば本書以降、オッドシリーズは書かれていないとのこと。このまま棚上げにするにはなんとも割り切れなさが残る。いつかまたクーンツがシリーズ再開することを切に願おう。


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オッド・トーマスの予知夢 (ハヤカワ文庫NV)
No.843:
(7pt)
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映画産業大国アメリカならではの作品

映画の舞台となる町を探す、いわゆるロケハンを生業にしているロケーションスカウトのジョン・ペラムシリーズ第一弾が本書。
解説によれば本書は1995年に『死を誘うロケ地』で訳出されていた旧版をディーヴァーが新たに手を加え改稿した作品らしい。ちなみに旧版は本国アメリカはもとより日本でも全く話題にならなかった。

その前のもう一つのシリーズキャラクター、ルーンもまた映画業界を扱った作品だった。初期のディーヴァーはなぜか映画に纏わる話が多いが、それは自身の作品をいつかハリウッド映画に、といった願望から生じていたのだろうか。

しかしどこか流れ者気質のルーンとは違い、ジョン・ペラムは過去に新進気鋭の映画監督として名を馳せた過去、そして冒頭に会話で語られているだけで真偽は判らないが、スタントマンもこなしていたロケーションスカウトと、映画産業に若くから関ってきた生粋の映画人である。そのためルーンシリーズよりも物語に映画産業の色合いが濃く表れている。そしてこの設定が物語を動かすのに実に有効に働いているのがディーヴァーの上手いところだ。

ジョン・ペラムが新作映画のために撮影にあったロケーションを探しにニューヨークの田舎町を訪れる。刺激のない町に住む人たちは華やかな映画産業から関係者が来たことを噂で知り、ある者はペラムに取り入ってどうにか銀幕デビューを果たそうとし、またある者は彼と関ってこの田舎町を出るきっかけを摑もうとする。そして中には彼の来訪を面白く思わない輩もいる。
恐らく田舎町が映画の舞台となるとはこんな騒動が起きるのだろう。そしてそれが一見平穏に見えた町の暗部を表出させることになる。

ペラムを招かねざる客として、町ぐるみで彼を排除しようとする。町長はじめ保安官や有力者が彼に対して慇懃ながらも明らかに歓迎していない態度を示し、何かを隠している節を見せる。この四面楚歌の中、ペラムは相棒を殺され、麻薬所持の疑いをかけられ、また暴力で迫害を受け、あらぬ罪まで着せられそうになる。
セオリーに則った物語展開だが、実にそつがない。

そしてディーヴァーといえばどんでん返しが代名詞だが、本書でも最後の最後で思いもよらぬ真相が待ち構えている。確かに布石はあるものの唐突すぎ、またパンチも弱く、どんでん返しというほどの驚きはなかった。
もっとなるほど!と手を打つような内容であれば点数はもっとよかっただろう。読者を最後まで飽きさせないサービス精神は窺えるが、巷間の口に上るほどの印象もないといった感じだ。

というわけで作品の出来は佳作というのが妥当だろう。
ペラムの造形は普通の人よりも経験が豊富で危機を察知し、臨機応変に対処するが、いわゆる万能なタフガイではなく、格闘すれば負けることもあるという、昨今の現実味ある主人公である。ただ彼には映画産業界に従事しているという特徴があり、またそれがこのシリーズの強みだろう。
残る2作でいかに有効に活用して物語に溶け込ませているか、見ていこう。


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シャロウ・グレイブズ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.842:
(5pt)

読みにくいのが難

いわゆる文豪と云われる非ミステリ作家たちの手になる犯罪を扱った作品を集めたアンソロジー。
1951年に編まれた本書は現在日本で北村薫氏らによって日本の文豪らの手による作品集が編まれ、文化として継承されている。

その初頭を飾るのはノーベル文学賞も受賞したシンクレア・ルイスの「死人に口なし」だ。
在野の詩人の未発表の傑作詩を手に入れた駆け出しの教授とくれば、すぐさま自身の作品として発表し、富と名声を勝ち取るという展開を予想するが、本作ではその在野の詩人の研究者としてどちらが第一人者であるかを競うことがテーマになっているのがなんとも健全と云えよう。主人公わたしが手に入れた在野の詩人の情報を悉く覆す著名な教授のニュースソースを突き止めるのが本書の謎なのだが、最後の結末は冗談話に過ぎないと思うのは私だけだろうか。

次もノーベル文学賞作家の手によるもの。パール・バックによる「身代金」はアメリカの中流家庭に起きた誘拐事件を扱った作品だ。
非ミステリ作家による誘拐物とはなんと捻りのないことか。
本書で書きたかったのはミステリとしての意外な犯人・身代金の手渡し方法・誘拐の意図などではなく、誘拐事件が被害者に及ぼす周囲への疑心暗鬼や不安な日々といった心理面と近所の誰もが容易に犯人になれるというアメリカ社会への警鐘なのだろう。

すでにミステリ作品を物にしているW・サマセット・モームの「園遊会まえ」は実に変わった味わいの物語。華やかな催し事に出席するそれぞれの人々にはそれまでに何か厄介事を抱えているものだ、もしくはどんな厄介事が持ち込まれても人は皆パーティには出席するものだというモームなりの皮肉なのだろうか。

エドナ・セント・ヴィンセント・ミレーの「『シャ・キ・ペーシュ』亭の殺人」も純文学作家らしい奇妙な作品。
モームの作品「園遊会まえ」と封印された殺人が明かされるという意味では同趣向の作品と云えるだろう。

次はまたしてもノーベル賞作家の登場。ジョン・ゴールズワージーの「陪審員」は題名からしてミステリど真ん中の作品と思えるが、やはりそんな予想を覆す物語である。裁判の陪審員として裁判に立会い、妻と離れなければならないことを悲しんで自殺を図る陸軍兵士の被告人に同情して、尊大な義勇軍大佐である主人公が妻への愛を再確認するという、なんだか焼けぼっくいに火が着いたみたいな作品。
男尊女卑として妻に追従を求めるだけだった男がその存在の大切さに気付くというのはいいが、やはりそんな男は不器用で思ったようには上手く思いを表現できないところはリアルといえばリアルだが。

作品を読んだことが無くてもその名前は知っているジョン・スタインベックの作品はその名もずばり「殺人」。こちらの感想はネタバレにて。

ルイス・ブロムフィールドの「男ざかり」もまた語られる主人公ホーマー・ディルワースがなぜ犯罪に至ったかを記した作品だ。
非常に純文学的な内容。妻に尻を敷かれ続けた男に急に訪れたモテ期。そして今よりも若く肉感的な女性と恋の逃避行をし、挙句の果てにその相手を喪うことを恐れて、女性を追ってきた男共々殺してしまう。1900年前半の時代では48歳といえばもはや男としては人生の黄昏時とも云うべき時期で男ざかりの時が訪れた男の動向が本書の読み応えなのだろうが、現代ではまだまだこの年ならば現役だろう。

さて出てくるべくして出てきた文豪チャールズ・ディケンズは保険金詐欺師を扱った「追いつめられて」が収録されている。
生命保険をかけては被保険者が死に、その利益で生きてきた男を陥れる復讐譚とも云うべき作品。色んな仕掛けが施されており、最後に明かされる男の仕返しはそれまでで最もミステリらしい。犯罪小説ならぬミステリも文豪は書けるのだというのを証明したような作品だが、いささか摑みどころがない作品でもあるのが残念。

本書にはノーベル文学賞受賞者だけでなく、ピューリッツァー賞受賞者の作品も数多く収録されているがこのウィラ・キャザーもその1人。
彼女の作品「ポールのばあい」はその容貌と仕草、そして言動から同級生、先生に忌み嫌われている男の物語。彼がそんな境遇で過ごした町をあるきっかけで出て行き、ニューヨークの一角で自分の居場所を見つけ出すというもの。
本書に登場する主人公ポールのように、生理的に風貌が受け付けられない、悪気はないのは解っているがその不躾な言動が非常に気に障るといった輩は確かにいる。そんな彼が抱いていた「ここではないどこか」への思い。そして辿り着いたのがニューヨークの地。彼はそのエキゾチックな地では彼もただ1人の人間だったのだ。
本書で語られる犯罪は横領罪だがもちろんそれが主眼ではない。ここではポールという異端児の人生がテーマなのだ。文体は全然違うがなんだかアイリッシュとの近視感を覚えた。

『トム・ソーヤの冒険』で有名なマーク・トウェインがミステリを書いていたのは有名な話だが、本書では数ある作品のうち、「盗まれた白象」が収録された。
知る人は知っているがマーク・トウェインは実はかなり捻くれた作家である。本書はシャム国からイギリスに贈呈された白象が盗まれ、それを警察が追う話だが、ターゲットである白象は逃げる先々で沢山の公共物や建物を破壊し、また沢山の食料や飲料を消費し、そして沢山の死体の山を築き上げ、助け出す存在が災厄の元凶になっているのが面白い。特に白象について作中、人を食べるだの聖書を食べるだのと、いい加減極まりない記述はトウェイン独自のユーモアであり、そこからもこの作品が笑劇であると宣言しているのが判る。

オールダス・ハックスレーは「モナ・リザの微笑」で妻殺しと冤罪をテーマに扱っている。
やたらともてる優男とそれを取り巻く女達の執着を描いた作品、というほどにはドロドロしていなく、寧ろ最後にサプライズがあるあたり、作者はミステリとして本作を著したように思える。本書では題名にもなっているモナ・リザの微笑を持つ女ジャネットをファム・ファタールとして配したようだが、それほど印象に残る人物として描かれていないのが残念だ。

ホーンブロアーシリーズで有名なC・S・フォレスターによる「証拠の手紙」はその題名の通り、証拠物件である手紙のみで構成された作品である。
そこには事業家の妻がその部下と次第に親密になり、暴君振りを発揮する邪魔な夫を殺害するに至るまでが描かれている。書かれている内容は非常にオーソドックスだが書かれたのが1900年代前半ということを考えると非常に斬新な作品だったと思え、歴史的価値の高い作品と云えよう。

リング・ラードナーの「散髪」は床屋の主人と思しき語り部が町の悪戯好きの男が死に至った顛末を語るというもの。
床屋の主人の一人語りで語られる形式を取った物語はたった20ページの作品ながら出てくる登場人物は個性に溢れ、町の空気や匂いがわかるほどの筆致は実に素晴らしい。謎めいた結末―つまりジムは殺されたのか事故だったのか、そしてそれは誰の企みだったのか―も敢えて曖昧にすることで物語の雰囲気を醸し出している。けっこう好きな作品だ。

ウォルター・デ・ラ・メアの「すばらしい技巧家」は独特の雰囲気を持った作品だ。
物語の発端から非常に状況が解りにくく、最初はハツカネズミが主人公の話かと思ったくらいだ。やがて発覚する故意の殺人を自殺に見せかけようと企むあたりでストーリーが見えてくるが、最後はまた幻想めいた形で終わる。文学的ではあるが、好みではない。

ジェイムズ・サーバー「安楽椅子(キャットバード・シート)の男」は最近入社した同僚を抹殺しようとする男の話。
完全犯罪を企む男の話と思いながら読むと、物語は実に意外な方向に向かう。いやはや邪魔者を消すというのはこういう方法もあるのかと思い知らされた次第。
予想の斜め上を行くこの展開は素直に脱帽。サーバーの着想の妙を褒め称えたい。

『宝島』で有名なロバート・ルイス・スティーヴンソンの「マークハイム」は哲学的な内容の作品だ。
叔父の骨董品を売っては遊び、悪事にも手を出し、決して堅実な人生とは云えない道程を辿ってきた男が殺人を犯して、窃盗を働いていた最中に出逢ったこの世の存在とは思えない男とは一体何だったのか?最初マークハイムが云うように彼の犯罪の幇助をするその男は悪魔だと思ったが、最後にマークハイムが見せた一握りの良心に反応したその男の表情の優しさは彼の良心そのものだったのかもしれない。
しかしそれよりも冒頭に書かれているクイーンの作者紹介でまさかかのスティーヴンソンが闘病生活の中で執筆活動を続けていたという事実に一番驚いた。

次の作品も巨匠の物だ。数多くの傑作を残したH・G・ウェルズは「ブリシャー氏の宝」が収録された。
うだつの上がらなさそうな男が語る過去。それは婚約者と結婚しなかったのが宝物を手に入れたからだという理由だった。
そんな魅力的な導入部からどんどん引っ張られるように物語に入っていくのだが、最後のオチは捻りすぎてなんだか訳が判らなくなった。

聞き慣れない作家デイモン・ラニヨン。しかし彼の「ユーモア感」という作品は現代にも通じる軽快な筆致と意外性を持っていた。
マフィア映画の一編を切り取ったような内容。街の雰囲気とジョーカー・ジョーを筆頭にキャラクターが立っている。たった16ページの作品だが、一気に作品世界に引き込まれるし、最後の痛烈なオチも効いている。本書でのベスト。

またも聞き慣れない作家フランク・スウィナトンの「評決」は3人の女性達の茶飲み話を通じてある女性の裁判の顛末が語られるというもの。
有閑マダム達の茶飲み話という形式で裁判の顛末が語られるというスタイルは今でも斬新だといえよう。ただ夫に無罪判決が下った時に見せた妻の青ざめた表情というのはなかなか面白いのだが、ちょっとパンチに欠けるか。

ファニー・ハーストの「アン・エリザベスの死」は奇妙な味わいを残す。
いわゆるマタニティー・ブルーを扱った作品だが、主役を務めるジェット夫妻のエマ・ジェット夫人の狂気ともいえる情緒不安定さは一種のホラーを思わせる。
魚屋を経営する夫ヘンリー・ジェット氏は仕事柄魚の臭いが染み付いており、妻のために事前に臭いを消す処置を施している。しかし妻はそんな夫の気遣いを不憫に思い、その臭いを気にしないようにしているというおしどり夫婦なのだが、妊娠中にエマは夫を巨大な魚のように幻視し、忌み嫌う。その狂乱振りは戦慄を覚えるほど。
なんともやり切れない作品だ。一種カフカの『変身』のような不条理小説の趣も感じた。

締めの作品はノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーによる「修道士(マンク)」。
知的障害ゆえに善悪の区別がわからず、望み望まれるまま犯行を犯した男の話。マンクの人生が幸せだったのかどうか、それは彼自身しか判らない。


なぜ本書が『ミステリ傑作選』ではなく「犯罪文学」と題しているのか?それはここに収められた諸作が犯罪を扱いつつも、ミステリのロジックやトリックなど、サプライズを主眼にした物ではなく、あくまで犯罪を介入することで人々の感情の機微や心境の変化、隠された記憶や振舞いなど、心理面を扱った作品だからだ。

確かにここに挙げられている作品にはそれぞれ犯罪が含まれている。誘拐、殺人、命令違反、現金横領、保険金詐欺、盗難、偽装工作、強盗、窃盗、悪戯。

そして考えなければならないのがクイーンがこのようなアンソロジーを編んだ動機だ。
本書の刊行は1951年。つまりクイーンの作品はすでにライツヴィルシリーズの『ダブル・ダブル』を書き上げた時期だ。その後ライツヴィルはクイーン作品で出てくるものの、添え物に過ぎない。したがってこの時期のクイーンはライツヴィルに実質的に区切りをつけたような心境だったと思われる。
つまり後期クイーン問題のさなか、このアンソロジーは編まれた訳だ。クイーンにとってこの頃ミステリはロジックを扱いながらもパズル的要素に特化した作品ではなく、犯罪が介在することで及ぼす人々の心の変容だとか人間関係の綾、そして罪を暴くことの意義に関心は移っていたことは周知の事実。そんな時期だからこそ世の文豪が物した犯罪小説とはいかな物なのかと収集したのではないだろうか。
いや収集家のクイーンのこと、それらの作品は後期クイーン問題に差し掛かる前にすでに手元にあったのかもしれない。しかし単なる個人的趣味の範疇から逸脱し、それらを編纂し世に出したことに大変な意味を感じる。そしてここに収められた作品の数々は犯罪そのものへの興味よりも前に述べたように犯罪に纏わる人々の心理や及ぼした影響に焦点が当てられている。つまりこれらはクイーンにとってこれから自分達が書く作品とこのような趣向の作品になるのだと宣言するために、出すべきアンソロジーであったのではないだろうか。この推察については今後未読のクイーン作品を読むことで確認したいと思う。

さて全21編中、個人的ベストはウィキペディアにも載っていない作家デイモン・ラニヨンの「ユーモア感」。
その他にはトウェインの「盗まれた白象」、フォレスターの「証拠の手紙」、ラードナーの「散髪」、サーバーの「安楽椅子の男」、スティーヴンソンの「マークハイム」、ハーストの「アン・エリザベスの死」が印象に残った。
これらは犯罪を皮肉ったものや一読考えさせられる内容を持っていたり、また現代でも通じる語り口に工夫が見られるものだ。例えば「マークハイム」や「アン・エリザベスの死」は幻想小説としての趣もあり、犯罪を扱いながらもジャンルを跨った作品になっている。特に後者は家族殺しという犯罪の真相が歪な味わいを残し、被告人の心の傷はちょっと想像がつかないほど痛ましい。

しかし一読して思ったのは押し並べて非常に読みにくいこと。見開き2ページに文字がぎっしり詰まっているのは別段気にはならないものの、訳が悪いのか古いせいか判らないが、非常に頭に浸透するのに時間がかかる。恐らく1ページ1分以上掛かっていることだろう。
復刊してくれたのは嬉しいが、その際は訳も見直して欲しいものだ。


▼以下、ネタバレ感想
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犯罪文学傑作選 (創元推理文庫 104-25)
エラリー・クイーン犯罪文学傑作選 についてのレビュー
No.841: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

先駆的作品だったんだね

多彩な作風を繰り広げる東野圭吾氏のジャンルの1つに医学系サスペンスというのが挙げられる。
古くはスポーツミステリ『鳥人計画』も人間の能力を科学的に向上させるある計画が通奏低音であったし、東野圭吾氏の作風の転機となった作品『宿命』と『変身』も医学の闇をテーマにして人間の心の謎を扱った作品だった。さらに変化球としては女性版ターミネーター、タランチュラが登場する『美しき凶器』もまた当て嵌まるだろう。
そして本書はその2文字の題名からして『宿命』、『変身』に連なる作品といえるだろう。

本書は全く同じ容貌をした氏家鞠子の章と小林双葉の章が交互で語られる形で物語は進む。題名とこの構成からも明らかだろうからネタバレにならないので敢えて書くが、この2人は同一の遺伝子から生まれたクローンなのだ。体外受精で生まれた子供たちが成長した姿である。

本書で語られる学問は発生学という耳慣れない学問。刊行されたのが93年なので現在同じ呼称なのか判らないが、細胞分裂の過程でどの細胞が目となり、口となるのか、その現象を探る学問と作中では書かれている。即ち『宿命』、『変身』と脳から遺伝子へと続く系譜が本書で垣間見える。

『宿命』では何が過去に起きていたのかを巧みに隠し、それが最終的に晃彦、勇作、美佐子の三人の隠された関係へ発展していくのに対し、『変身』、『分身』では先に何がなされているのかが判るようになっている。つまり医学的なミステリがこれら2作の主眼ではなく、それに伴う人間ドラマがメインテーマなのだ。

そして本書で描かれるのは母性。たとえ本当の自分の子ではなくとも母は子供を愛するのだという深い母の愛だ。
しとやかなお嬢様として育てられた氏家鞠子の母、男勝りの活発な女性として育てられた小林双葉の母、それぞれ方法は違っても、根底に通じるのは鞠子、双葉への献身的な愛だった。だからこそ2人は性格の違うのにも関わらず、我が子と自らの境遇の行く末を思い、悲嘆に暮れるのだ。特に事件の発端となった、頑なに禁じていた我が子のTV出演を叱りつける事無く、受け流した小林志保の母性が印象に強く残った。

鞠子と双葉がお互いの出生の秘密を探る道筋は交錯しながらもなかなか交わらず、なかなか邂逅に至らない。この最後に2人が出逢うラストシーンは作者が本書でやりたかった事なのは判るが、そこに至るまでが濃厚だっただけに最後は駆け足で過ぎた感じがするのが残念だ。
鞠子、双葉それぞれの旅程のパートナーだった下条、脇坂講介が途中退場するのもこの構成のために致し方ないがなんとも尻切れトンボのような結末に感じてならない。

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分身 (集英社文庫)
東野圭吾分身 についてのレビュー
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(8pt)
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警察もまた“人”であることを濃厚に描く傑作

D県警を舞台にした殺人課ではなく、警務課諸氏を主人公にした警察小説連作短編集。

表題作は警務課の人事担当二渡真治警視が主役を務める。
なんとも渋みの効いた作品。何を考えているのか解らない元刑事の鬼、尾坂部の存在感が途轍もなく大きい。
そして過去に未解決に終わった娘のレイプ事件が人事拒絶に絡み、その犯人が意外な形で明らかになる。全て無駄の無い作品だ。
正に横山伝説の始まりを告げるに相応しい一篇。

続く「地の声」は警務部監察課に務める新堂隆義が主人公。
人を疑うのが仕事の警察。それは犯人を挙げる外部の人間のみならず、自らの出世を企む内部の人間でさえ同じことだ。昇進の人事査定が迫った時期に密告がなされる弱肉強食の世界の警察内部の醜さと過酷さがここには描かれている。
第1話で主役を務めた二渡がここでは人事の鬼という存在で物語に大きな影響力を与えているのが非常に興味深い。

続く「黒い線」は警務課婦警担当係長である七尾友子が主人公。
実直で真面目な婦警が手柄を立て、マスコミにも報じられた翌日になぜ無断欠勤するのか?
この矛盾を感じる突然の行動に実に納得の行く結末が用意されている。しかもそれは実に残酷な結末。社会に生きる女性の厳しさや、パワハラといったサラリーマン社会にも通じる苦いその内容は組織に生きる一人の人間として心に響いた。
特に驚いたのが男性の横山氏がよくもこれだけ女性の、しかも警察という男性社会の只中で奮闘する女性の心理を描いたものだと感心した。本書の中でも個人的ベストだ。

最後の「鞄」は警務部秘書課の柘植正樹が主役を務める。
国会答弁があらかじめ質問事項が決まっており、それに基づいて部下の官僚などが答弁の原稿を書き、大臣や議員はそれを読むだけになっているというのはもはや周知の事実だが、県議会での警察への質問も同じとは知らなかった。そして警察もまた専用の担当官がおり、それが本編の主人公柘植の仕事だ。
権力と面子が物を云う世界で、質問する側される側双方の顔を汚さずに無事議会を終えるために奔走するこの仕事は非常にデリケートで神経を使うものだが、D県警初の30代警視になるという野心を持つ柘植にとって、それは出世への階段の近道であるため、かつての友人とも云える同期や周辺の人物を利用することを辞さない。
本編でも二渡は登場するが、ほんのカメオ出演というくらいで、それよりも2編目の「地の声」で主役を務めた新堂がここで再登場し、作品のその後の彼の姿がそのまま上昇志向の強い柘植と対比させるようになっている。


ミステリといえば、殺人事件。したがって警察が主人公となる警察小説の主役といえばやはり殺人事件を扱う捜査一係が専らで、変わったところでは大沢在昌の『新宿鮫』の鮫島の生活安全課というのがあるくらいだが、あえて横山氏は殺人課を使わずに事件性を持たして警察小説が書けることを証明した。
ここに出てくるのは警務課で主人公それぞれが就いている職務は人事、監察、婦警の管理、秘書課と事件に直接的に関わる部署ではなく、警察の内務をテーマにしながらも事件を描くという点が新しい。

しかも扱われる謎は云わば“日常の謎”なのだ。
辞任の時期が来たのに、なぜ辞めようとしないのか。
悪意ある告げ口としか取れないメモ書きの真意とその犯人は誰か。
前日に手柄を立て、マスコミにも大きく扱われ、一躍メディアの主役になった若き婦警はなぜ翌日無断欠勤し、失踪したのか。
ある県議員が議会で本部長を陥れるためにぶつける質問、即ち“爆弾”の正体とは何か。

これらが警察組織で起これば、事件性を伴い、背後に隠された事件・犯罪を浮かび上がらせ、十分警察小説になりうることを横山秀夫氏は見事に証明した。これは正に新たなジャンルの誕生とも云える発想だ。
綿密な取材と落ち着いた文章と過不足ない引き締まった内容で横山氏はそれを高次元のレベルで成し遂げたのだから、確かにこれは歴史的快作といえるだろう。

ただ横山氏は必ずしも犯罪を描くことに腐心しておらず、特に後半は警察官それぞれの矜持や権力闘争、面子を重んじる風潮から生じた齟齬や弊害を上手く絡めて、謎に仕上げている。その微妙な駆け引き、上司のために自分を殺さなければならない理不尽さを受け入れる姿勢などは警察の世界のみならず私も含めサラリーマン社会にも通ずるものがある。
各4編でのテーマをそれぞれ抜き出すと人事問題、賞罰審査、部下の監督不行届け、会議を円滑に進めるための水面下での根回しなど、おおよそ警察小説とは思わず、企業小説としか思えないだろう。
こんな普通の会社でも起こりうる出来事が警察機構に組み込むことで事件性を持ってくるのだから、繰り返しになるが、本当にエポックメイキングな作品である。
これほど警察内部の男社会に切り込んだ作品を読んだのは『新宿鮫』以来だ。今までミステリを読んできた人間にとって警察とは本格物であれば、名探偵の引き立て役や道化役であり、警察小説であれば探偵役であり、警官同士が協力して事件を解決するものと思っていただろう。
そんな外側から見た警察の内部はこれほどまでに面子を重んじ、複雑な駆け引きと微妙な均衡の上に成り立っていることを知らされれば、単なる探偵役としての警官や刑事の見方も変わってくるだろう。

また全4編に共通して登場する人物は表題作で主役を務めたD県警のエースと呼ばれる二渡真治警視の存在感が物語の裏に影響を及ぼし、次第に増してくるのも興味深い。今後横山氏の作品で彼がどのように絡んでくるのか興味深いところだ。

組織で動きつつも個人の個性と上昇志向が強く、せめぎ合う警察機構の内部をここまで詳しく書いた横山氏。残る作品を読むのが非常に愉しみな作家だ。また追っかけなければならない作家が増えてしまった。



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陰の季節 (文春文庫)
横山秀夫陰の季節 についてのレビュー
No.839:
(3pt)

案外しっかりT〇Rを愉しんだのでは?

今回の物語の舞台は東京ザナドゥ・ランドと警視庁内部。前者は千葉にあるのに東京という名前を冠し、さらに愛くるしいキャラクターで日本では無類の人気を誇るアミューズメントパークという説明から、名前を呼ぶのも公共のメディアでは著作権の関係から憚れる東京ディ〇ニー・ランドのことを婉曲的(?)に指したものであるのは明白。

この東京ザナドゥ・ランドについて述べる内容が特に辛辣。グリム童話やアンデルセン童話を堂々と流用し、恰も自家薬籠中の物のように振舞うといった件はその極致だと思った。
かようにこのシリーズは田中氏が日頃抱えている日本の政治と歪んだ社会のシステムへの不満という毒を存分に吐くために書かれているといっても過言ではないほど、本書は痛烈な皮肉と罵倒に満ちている。

例えば本書に登場する外務大臣はマンガ・アニメ好きのA元大臣をモデルにしている。その描写と人物説明に込められた皮肉はこれまた強烈で田中氏がいかにこの政治家を好きではなかったのかが目に見えて解るほどだ。

しかし本書にも書かれているが本書刊行当時2007年12月では次期首相の有力候補だったA元大臣が実際に首相となったのに、文庫が刊行されたちょうど3年後にもはや彼が首相だったのは遠い昔となり、彼の退陣後、与党も変わってしかも首相も2人も変わっているというたった3年間での日本の政治の激変振りに思いを馳せると呆れるしかない。

今回の敵はゴユダという名のワニ人間。メヴァト王国に昔から存在し、時に君主に成り代わって国政を支配していた怪物である。メヴァト王国は作者の産物であるから、これは全くの田中氏の創作か、もしくはメヴァトが位置する周辺の国、インド、ネパール、チベット、ミャンマーのいずれかの国に昔から伝わる言伝えから取ったのかは解らないが、それにしてもワニ人間とはちょっと発想が貧困のように思う。

そういえばこの薬師寺涼子シリーズは筆致や設定はライトノヴェル風だが、書かれている内容は必ずしも中高生が読むほど健全ではない。
主人公の涼子は己の財力を傘に堂々と買収を持ちかけるし、相手の弱みを握って常に優位を立とうとし、恐喝を行いもする。つまり情操教育上、あまりよろしくないのだ。
前にも書いたが、このシリーズは田中氏が日本の現状に対して声高に存分に不満を並べ立てるために書かれている節があるので作者の想定する読者層はもっと高い年齢層にあるのだろう。逆に大学生や社会に出た若者には日本という国の歪みを認識させるのに実にとっつきやすい読み物かもしれない。

しかし前作も軽井沢で今回も東京と舞台が日本。それまで海外を舞台にしていたことを考えると取材費の縮減という創作の外側の台所事情が気になるところだ。
とはいえ、今回の舞台の東京ザナドゥ・ランドのモデルとなったテーマパークのオフィシャルホテルについて作中で書かれていることから取材のために宿泊したと察せられるので、それなりにやはり取材費は割かれているのだろう。う~んこんなことを感想に書くなんて私もずいぶん卑しくなったものだ。


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水妖日にご用心 薬師寺涼子の怪奇事件簿 (講談社文庫)
No.838:
(7pt)

チェスタトンの奇想は好きなんだけど…

新聞記者の前に鎮座する泥棒、藪医者、殺人者そして反逆者からなる4人の重罪人たちが自分達の過去を打ち明けていくという構成で物語は語られる。

第1話目「穏便な殺人者」はエジプトに隣接したポリビアと呼ばれる国で起こった総督射殺未遂事件をテーマにしている。犯人であるジョン・ヒュームは人が撃たれることを妨げる為にその人物を撃ったという奇妙な動機を話す。
非常に状況設定が判りにくい話。なかなか進めないストーリーにいつ起きたのか解りかねるうちにいつの間にか事件が起きていたという漠然とした展開でしか読み取れなかった。
しかし作中で出てくる単眼鏡をつけた巨躯の大男グレゴリーはどう考えても作者自身のように思われる。どちらもイニシャルはGだし。自作にカメオ出演するというのはヒッチコックが自身の映画でよくやっていたことだが、実はそれに先駆けてチェスタトンがやっていたとは思わなかった。一種の読者サービスといったところか。

次の「頼もしい藪医者」は古くからある古い大木を庭に持つ画家兼詩人であるウォルター・ウィンドラッシュ氏とジャドスン医師2人の物語。
これも非常に解りにくい展開の話だ。自分の庭の大木を愛す芸術家ウォルター・ウィンドラッシュ氏と若く、妙に自分の論理に固執するジャドスン医師との交流が描かれ、さらにそこにウィンドラッシュ氏の娘イーニッドが加わるという流れが、いきなり精神病院送りの展開が訪れ、さらには殺人容疑の話にまで発展していく。
作者は二重三重の解明を用意しており、私もこの真相の一歩手前の真相と医師が氏を精神病院に入院させた意図が判ったときには思わずニヤリとしてしまった。しかしエピローグでさらにどんでん返しが行われるのだが、これといった衝撃度は薄い。
しかしチェスタトンの話で使われる樹には一種独特の雰囲気がある。私の好きな短編に「驕りの樹」があるが、本作の巨木も奇妙で歪な形をし、文中の表現を借りるならば「足を一杯に広げた蛸あるいは烏賊にそっくり」で強い印象が残る。この樹が正に物語のキーで、なんとなく「桜の木の下には死体が埋まっている」という、美しいもの、生命力に溢れるものにはそれに伴う犠牲があるものだ、といった日本人的観念に通じるものを感じた。

「不注意な泥棒」は本書の中での個人的ベスト。
逆説のチェスタトン。実に先の読めない展開で読者の予想の裏を常に行く物語展開の真骨頂が本作だと感じた。数年ぶりに島送りにされたオーストラリアから戻ってきた放蕩息子アランの、家名を汚すことに執着するかの如き犯罪行為に隠された真意は、多分納得できる人はさほどいないのではないだろうか。

最後の1人は「忠義な反逆者」。
本書の唯一ミステリらしい趣向である包囲された一軒家から一瞬の間で4人もの人間が消失するという謎の真相は人の先入観を利用したものでなかなか面白かった。
風評や噂で人は簡単に権威者を創り、有名人を創っていく。実体の無い物を有難み、敬うという奇妙な群集心理を痛烈にチェスタトンはこの作品で批判している。

本書をミステリとして捉えるか、寓話の形を借りた啓蒙書として捉えるか、ひとそれぞれ抱き方は違うだろう。私はそのどちらでもなく、その両方をミックスした書物、即ちミステリの手法で描いた啓蒙書として捉えた。

しかし約80ページ前後で語られる各編の内容はなかなか要旨を理解しがたい構成を取っている。舞台設定の説明はあるが、事件、というか出来事は筍式にポツポツと語られ、それが物語の総体をなす。つまり探偵役、犯人役が不在のため、物事を思うがまま、起こるがままに筆を走らせているように取れた。
しかし最後にチェスタトン特有の皮肉と警告がきちんと挟まれているのはさすが。特に先にも書いたが「不注意な泥棒」についてはまさかあんな自らの過去(ネタバレに記載)をフラッシュバックさせるような話が読めるとは思えなかった。

常人には全く理解できない各編の登場人物の行動が最後になって腑に落ちるのは実に鮮やか。21世紀の今でもその特異性は十分通じる。
しかし知の巨人チェスタトンよ、もう少しすっきりとした文体で書けなかったものだろうか?情報過多で実に読むのに苦労した。
この齢にもなると理解する力も衰えてきたようで、学生の頃に読んだようにはなかなか読めなかった。訳者の苦労も窺えるが、もう少し柔らかい日本語で読みたかったかな。

しかし最近筑摩書房は過去に単行本で出版されて絶版となっていた作品を落穂拾いのように文庫化して再販してくれる。チェスタトンに関してはこの次は是非とも「マンアライブ」もしくは「知りすぎた男」の文庫化を期待したい。
頑張れ、筑摩書房!


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四人の申し分なき重罪人 (ちくま文庫)
No.837:
(1pt)

幻想的切裂きジャック

本書はミステリ作家ならば誰もが一度は触れたくなるという、いまだにその正体が不明の、1888年のロンドンを恐怖のどん底に陥れた切り裂きジャック譚。
通常切り裂きジャック事件の検証をありとあらゆる文献に残された証拠やデータから推測し、正体を解き明かしていく方法を取るが、本書ではその正体をあらかじめ17歳のイタリア人、アルドゥイーノ・デッラ・アルタヴィッラとして物語る。

アルドゥイーノ、すなわち切り裂きジャックが娼婦達を殺し続ける理由を篠田氏は異国の生活で疲弊していたアルドゥイーノがかつて彼を慕っていた女給マッダレーナを探し求めて徘徊していたこととした。夜の街行く女性をマッダレーナと勘違いし、近づいた途端、その醜悪な姿形を嫌悪し、思わずナイフを振るったというのが切り裂きジャック事件の篠田氏的解釈である。

しかし本書の切り裂きジャック譚は通常のミステリとは違い、幻想小説風味になっている。

まず切り裂きジャックとなるアルドゥイーノは「怪物」と呼ばれ、不死身の肉体を持つ。ナイフで自らの手を切りつけても血一滴流れず、また首を吊っても正気を保ったままである。

重ねて彼を殺人の衝動に駆り立てる内なる「私」の存在。そして全てを見透かしたような謎の女性、そしてアルドゥイーノには身に覚えの無い切り取った臓器を送りつけ、さらに切り裂きジャックと名乗り、世間を恐怖たらしめた彼を見つめる存在といったように、これは前世紀最大のミステリであった切り裂きジャック事件の真相を論理的に解明する謎解きではなく、世に残る切り裂きジャック譚をモチーフにした幻想小説といった方が妥当だろう。

切り裂きジャック=アルドゥイーノの一人称で終始語られるこの物語は、作者の独りよがりの観念的な話が延々と続き、その世界観に浸りこめる読者以外にとっては読後の爽快感を得るところとは対極に位置するものだろう。

不死身の肉体を持つアルドゥイーノの正体は、再生を繰り返しては転生した各時代でその都度自分の永遠の伴侶となる者を探し、出逢い、そして別れを繰り返すという無限の苦行を繰り返す存在だった。魂の枯渇を癒すため、片割れを探し求める手段は彼のその時の時代と身分で異なり、1888年に現れた彼は、娼婦を殺し続けるというものだった。

しかし篠田氏は本当に美しい男性が好きなのだなぁ。彼女のシリーズ建築探偵桜井京介もまたハッとするほど美しい容姿を持った男だし、思う存分作品で趣味に淫している感じがする。

こういうところが私の波長と合わないように感じる。雰囲気を出そうと過分に捏ねくり回した文体もまた読書の波に乗ることを妨げているようにしか思えなかった。
本書で唯一読書の興趣を引いたのは切り裂きジャック事件で当時のロンドン市民がどのように噂をし、どのような悪戯をし、また云われの無い疑いをつけられ、暴力を被ったのかが断片的に語られるところだ。このような知的好奇心がそそられるエンタテインメント性がもっと欲しいものだ。


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ルチフェロ (学研M文庫)
篠田真由美ルチフェロ についてのレビュー
No.836:
(7pt)

原点回帰のスケルトン探偵

舞台はメキシコのテオティトラン・デル・バリェ。メキシコが舞台となったのは第5作目の『呪い!』以来、実に20年ぶり。
そして期待どおり、その時に地元警部として出てきたハビエール・マルモレーホが再登場する(ちなみに私が持っているミステリアス・プレス文庫版ではハーヴェア・マーモレホとなっている。訳者は同じ青木久恵氏なのだが)。

本作はこのシリーズの原点回帰ともいうべき作品と云えるだろう。スケルトン探偵シリーズと銘打っているだけに、本書の最たる特徴そして魅力は形質人類学教授ギデオン・オリヴァーの学術的な骨の鑑定にある。それが最近の諸作では観光小説の色合いが強く出ており、それがおざなりになっていた感がある。特に前々作の『密林の骨』では骨の鑑定そのものが添え物でしかなかったくらいだ。

それが本書では3つも骨の鑑定が盛り込まれている。
1つはミイラ化した身元が解っている死体の死因についての鑑定。
もう1つは白骨化した身元不明の死体の性別・年齢を解き明かす鑑定だ。
そして3つ目は最後の最後に本書の真相解明として大きく寄与する博物館に展示されている古代サポテク族の頭蓋骨の鑑定。
しかもこれら全てが専門家に一度検分され、身元が推定された物であり、それらをギデオンが鑑定することにより、覆されるという複雑な特色を持った骨ばかり。正に題名に相応しく専門家達を「騙す骨」なのだ。

また1つ目の鑑定は早くも80ページで行われ、昨今長々と舞台となった外国の観光ガイド的な情報とエルキンズお得意の魅力あるキャラクターの説明に紙面が割かれる傾向とは全く異なり、スケルトン探偵シリーズの特色が色濃く現れた作品で、久々にギデオンの緻密な鑑定を存分に堪能した。

そして魅力あるキャラクターは本書でも健在。
エルカンターダ農場の面々、ジュリーの従妹のアニーとその父親カールのテンドラー父子に、オーナーのトニーと会計係のジェレミーのギャラガー兄弟に、無愛想ながらも極上のメキシコ料理を提供するシェフ、ドロテアに、文句ばかり云うホセーファ・ガリェゴスなどはもちろんのこと、特に印象が強かったのは地方の警察署長であるフラヴィアーノ・サンドバール。
この任期満了を間近に迎えた事なかれ主義のノミの心臓持ちの警察署長が、自らの不運を呪いながらもギデオンに協力していくところが非常にいい。事件を穏便に済ませようと願いながらも決して自らの権力で揉み消そうとせず、正義を貫こうとする健気さが実に好ましい。個人的に本書の助演男優賞を捧げたい。

同じメキシコを舞台にしながらウィンズロウの殺伐とした殺戮と麻薬の日々を描いた『犬の力』とは打って変わって終始牧歌的な調子で物語が進むエルキンズのギデオン・オリヴァーシリーズ。その心和む作品世界は第16作になっても衰えるところが無く、慣れ親しんだところに帰ってきた感があり、非常に読んでいて心地がよい。

ミステリとして一読忘れ難いトリックやロジック、そしてどんでん返しがあるわけではないが、ユーモア溢れる文体とコミカルで愛すべきキャラクターが常に登場し、なおかつ骨やギデオンが訪れる地方ならではの知識が得られるこの雰囲気は離れがたい魅力がある。
愛すべきキャラとの再会を喜ぶ人がいるからこそ現在なお訳出され続けているし、私もそれを愉しみにしている人の一人だ。

またこの素晴らしきマンネリ作品の新作を待たなければならないのは、なんとも云えず待ち遠しいではないか。
解説によれば現時点での次作の原書の刊行もまだとのこと。
エルキンズ御齢75歳。ファンのエゴかもしれないがまだまだ健筆を奮っていただきたいなぁ。

騙す骨 (ハヤカワ・ミステリ文庫 エ 3-11)
アーロン・エルキンズ騙す骨 についてのレビュー
No.835:
(7pt)

ディーヴァーがまだ普通のミステリ作家だった頃

現代気鋭のヒットメーカー、ジェフリー・ディーヴァーの最初期の作品でルーン三部作とされるシリーズ物の第2作。
第1作は『汚れた街のシンデレラ』という邦題で早川書房から訳出されていたが、現在絶版。3作目は未訳と数あるディーヴァー作品の中でも不遇な扱いを受けているのがこのシリーズ。特に早川書房は早く復刊して欲しい(全くの余談だが、最近の早川書房の絶版の速さは驚くものがある。出版不況の中、余剰在庫を抱えるのはリスクであるのは承知しているが、出版業が文化事業だという意識の欠落が感じられる。トールサイズという独自の規格で本屋さんを泣かせてもいるし、最近すごくエゴとサーヴィスの低下を感じるのだが)。

さてジェフリー・ディーヴァーと云えばどんでん返しと云われているが、最初期の本書も正にそう。なかなか予断を許さない展開を見せる。

ハリウッドに数多ある映像プロダクションに勤める駆け出し社員ルーンが遭遇するポルノ映画館の爆破事件。その時たまたま上映されていた映画の主演女優シェリー・ロウに興味を覚え、この爆破事件のドキュメンタリーを撮ることを決意する。しかし爆破現場には<イエスの剣>なるテロ組織の犯行声明文が残されていて、続く犯行を予見させる。

ポルノ業界のみならず映像業界、しかもハリウッドスターが彩る華やかな銀幕の世界ではなく、弱小のプロダクション会社の日々を綴り、さらにそこに爆発物処理班の生活を絡める。

これら描かれる映像業界の内幕と爆発物処理班の日常そして爆発物処理の過程は確かに読み物として読み甲斐はあるものの、読書の愉悦をそそるまでには届かなかった。説明的で食指が動くようなエピソードに欠けた。あくまでストーリーを修飾する添え物の領域を出ず、プロットには寄与していない。
この辺はまだ作家としてのスキル不足を感じた。

また登場人物たちがステレオタイプで、あまり印象に残る人物がいないのが気になった。主人公のルーンは好奇心旺盛のやんちゃ娘タイプだが、読書中、なかなか貌が見えなかった。ルーンという中性的な名前のせいか、読む前はてっきり男性の主人公だと思っていたので、女性と解った時はびっくりした。ハウスボートに住むなど個性的な設定もあるが、作り物の感じは否めなかった。

彼女の相手役となる爆発物処理班のサム・ヒーリーやルーンが一連の爆発事件の容疑者として一方的に疑っているマイケル・シュミット、ダニー・トラウヴ、アーサー・タッカーもどこか類型的だ。

一つだけ鮮烈な印象を残すのは爆発事件の犠牲者となったシェリー・ロウだ。
爆発事件を彼女にスポットを当ててドキュメンタリーを作ることにし、ようやく撮影が始まった矢先に死んでしまったシェリーに共感を覚え、彼女の死の謎を追うことにしたルーンが辿る彼女の関係者から聞かされるシェリーの人となりはポルノ女優という卑しき職業に就きながらも気高く聡明さを感じさせ、掘り下げられるうちにその存在感が鮮烈さを増してくる。彼女の才能が類稀であることが解っていくにつれ、映像業界がポルノ映画、すなわちブルームービーへの強い偏見と嫌悪を抱いている現状と才能あるポルノ女優の恵まれない環境が読者の頭に次第に刷り込まれていく過程は見事だ。
それゆえにラストの余韻が生きてくる。詳しくは書けないのでこれくらいにしておこう。
しかし一方で他の登場人物の色合いがくすんで見えてしまったのは計算違いだったのではないだろうか。

といったようにこの作家が売れるようになった『静寂の叫び』やリンカーン・ライムシリーズを未読なので比較はできないが、若書きの印象を強く抱いた。

ただこの作者のミスリードの上手さは本書でも味わえる。後の作品の物と比べれば、それはあまりに当たり前すぎる手法かもしれないけれど。
逆に私はこの作品からどのように今、常に絶賛を以って新作が迎えられるようになったか、つまり“化ける”ようになったかを発表順に追っていくことで見ていこうと思う。
死の開幕 (講談社文庫)
ジェフリー・ディーヴァー死の開幕 についてのレビュー
No.834:
(7pt)

一気に読むべし!

久々のクーンツのスピード感と畳み掛けるサスペンスが冴え渡る良作だ。本書はクーンツの数ある作品の中で1つのジャンルを形成している“巻き込まれ型ジェットコースターサスペンス”の1つだ。

今まではとにかく訳が判らなくて命を狙われるという展開だったが、本書の主人公、突然の災禍の被害者ビリーの場合は、自身に被害が及ぶのではなく、警察に連絡するか、もしくはしなくても誰かが殺されるという脅迫を受けるのだ。つまり問われるのはビリーの良心なのだ。

最初は関係のない人たちが殺され、次のターゲットは友人のラニーに。そして自分にも被害が及びつつ、犯人は自らが行った殺人をビリーにかぶせようと周到な用意をする。やがてメッセンジャーが告げたのは自分に関係のある人の中から一人殺す奴を選べという衝撃の言葉。

真綿で首をじわりじわりと締めるようにビリーの生活は侵されていく。しかしビリーには気を休める暇もない。題名の“速さ”が示すように次から次へと犯人から残酷な要求が襲ってくるからだ。

さらに正体の解らぬ犯人が勝手に連続して殺しを行うだけでなく、全てがビリーを犯人だと示唆するかのように偽造証拠を残し、さらに犠牲者とビリーとの関係性が徐々に狭まっているところが恐ろしい。

しかし多作家のクーンツだが、よくもまあアイデアが尽きないものだ。彼の作品はワンパターンだという評価が巷間では囁かれている。確かに物語の構成は確かにそうだ。
絶望的なまでに強力な悪の存在に突然主人公が襲われ、それにいかに立ち向かい、勝利するかというのが物語の骨子だ。
しかしそのヴァリエーションの豊富さには目を見張るものがある。毎回よくこれほど悪意溢れるサイコパスを生み出せるものだ。これほどまでの人非人を考え付くものだと作者の創造力に恐れすら覚えるくらいだ。
実際の事件に題を取ったのか判らないが、彼の小説を見て同じ事を真似しようと考える犯罪者が現れないか心配すらしてしまう。

それは犯人だけでなく、例えば保安官のジョン・パーマーも同様だ。ビリーが14歳の時の彼との間のエピソードは人の悪意をまざまざと見せつける。しかもとにかく容疑者を犯人に仕立てようとする保安官なんて、こういう人間がいそうだから恐ろしい。

また物語の肉付けとなるエピソードの豊かさと小道具の良さにも注目したい。
腸卜なんていう占いがあったなんて知らなかった。これは作者の想像の産物なのだろうか?動物の死骸の内臓の配置から未来を読み取るなんて、実に奇抜で異色かつグロテスク。小学校の頃、よく食用蛙や猫の轢死体を見かけたが、あの腹を引裂かれて内臓が四方八方へ飛び散った死体を凝視するなんてちょっと想像するだに怖気が出る。
作者のオリジナルだとすれば、それもまたその創造力に感心する。

そして溶岩トンネル。これが非常によい。苦境に陥ったビリーの唯一の拠り所と云ってよいだろう。これがどのように使われるのかは作品を当ってもらいたい。

さらに物語のキーパーソンとなるビリーの恋人で植物人間のバーバラ。彼女が昏睡状態に陥った原因となるヴィシソワーズの缶詰が不良品だったというエピソードなど、当時の米社会で問題となった事件から材を得ていると推測されるが、食の安全を脅かし、明日は我が身である問題の身近さが忘れがたい印象を残す。

しかしこのバーバラの使い方は実に上手い。昏睡状態の彼女が呟く寝言の意味など、物語的にはさほど重要性はないと思っていたが、この意味が判明し、最後の感動的なエンディングに繋がっていくのだから、クーンツの物語作家としての余裕が感じられて非常によい。

本書と似たようなジェットコースターサスペンスに『ハズバンド』があったが、それと比べると断然出来はこっちの方がよい。あの作品は主人公が絶体絶命の犯罪者として仕立て上げられる状況がどんどん重なっていくのに、敵を倒したらいきなり何のお咎めもないエンディングを迎えるのに面食らったが、本書ではビリーを犯人とする偽造証拠を回収し、さらにあのハッピーエンドを用意している。
しかも今回のエンディングは読者の予想をいい意味で裏切る希望的な結末であるのがよい。最近の傑作『オッド・トーマスの霊感』と比肩すると云えば云いすぎかな。

まあ、でもクーンツに興味を持った読者が取っ掛かりとして読むにはバランス的にちょうどいい作品だろう。
クーンツはモダン・ホラー界のジョン・ディクスン・カーと個人的に思っているので、その出来は玉石混交。しかも昨今の作品ではその長大さとは裏腹な内容の薄さと回りくどい云い回しが目に付き、金額に見合ったパフォーマンスを見せてなかったと感じていたので、本書の物語のサスペンスの高さと長さ(総ページ数600ページ弱で上下巻なのが納得しかねるが)はお勧めだ。
クーンツ作品のスピード感(ヴェロシティ)を是非とも感じていただきたい。


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ヴェロシティ(上) (講談社文庫)
ディーン・R・クーンツヴェロシティ についてのレビュー
No.833: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(5pt)

豪腕が強引になりすぎている

最近の島田作品には多い形式の200ページ前後の中篇を併せた中編集。本書には表題作と『傘を折る女』が収録されている。

表題作は、題名が指すUFO大通りはその名のとおり、夜な夜な行列を成しては現れるUFOと宇宙人の集団戦争話と、密室状態の中、白いシーツを体にぐるぐると巻き付け、オートバイ用のフルフェイスのヘルメットを被り、バイザーも閉め切った上にマフラーを首に巻き、両手にはゴム手袋を死んでいた男の謎についての話である。

う~ん、これは明かされる真相に論理の光明が差すとまでの驚きはないなぁ。逆に普通のことを大げさに比喩したことを謎にしただけという感慨が強い。

続く『傘を折る女』は御手洗が留学する直前の春、1993年頃の事件の話。

島田版『九マイルは遠すぎる』とでもいいたくなる作品。夜中に土砂降りの雨の中に必要不可欠な傘を故意に折る女性の奇妙な行動の話を御手洗が演繹的論理展開から殺人事件の発生を推理するというもの。

さらにラジオの深夜放送の奇妙な話から全てを見通したが如くの御手洗の推理は新たな事実の浮上により、再考を余儀なくされるのだ。
これには読んでいる私も思わず身を乗り出した。御手洗の神の如き推理が覆される趣向に新味を感じたからだ。同じ構成で単にソフトを変えただけの話を読まされるだけかと思っていたが、自作を発展させた次のステップが上乗せされている。
そしてまたもや御手洗の奇妙な推理に眩暈に似た当惑を覚えてしまった。もう読者はこの当惑を理解に変えるために次へ進まざるを得ない。
いやあ、もろに島田氏の術中に嵌ってしまった。

とはいえ、たった少しの事実で事件の背景に隠された雑多な事実をあれほど正確に見抜くのは御手洗の天才ぶりを感じるというよりも、作者が描いたプロットの代弁者になっているだけのように感じ、非常に人為的な物を感じてしまった。


御手洗潔物の短編には奇想がふんだんに盛り込まれているが、本書もとんでもない設定だ。

表題作ではUFOと宇宙人が現れた怪事と実に奇妙な服装と状況で密室状態の部屋で死んだ男の謎を扱っているし、『傘を折る女』ではその題名どおり、土砂降りの雨の中、わざわざ傘を車に轢かせて折る女性の奇妙な行動の謎がテーマだ。

そんな魅力的な謎をいかに論理的に解明するか。これが本格ミステリそして巨匠島田荘司作品を読む最たる悦楽だが、しかし昨今の作品では逆に御手洗の登場と共に色褪せてしまうように感じてしまう。
最近の御手洗物に顕著に見られる“全知全能の神”としての探偵というテーマを強く準えているため、快刀乱麻を断つがごとき活躍する御手洗の東奔西走振りを読者は手をこまねいてみているだけという印象が強くなってしまった。

謎が奇抜すぎて逆に読者が果たしてこの謎は論理的に解明されるのだろうかという心配が先に立ち、明かされた時のカタルシスよりも腰砕け感、これだけ風呂敷を広げといてこんな真相かという落胆を覚えることが多くなった。

また謎を過剰にするが故に、明かされた真相に現実味を感じないようになった。2作目では傘を折る動機はなかなか面白いにしても、その後の現場に別の女性の死体があった真相は話としては面白いが、果たしてここまで奇妙な偶然が重なるだろうか?と疑問を感じてしまう。

本格ミステリの醍醐味はどう考えても不可能な事象や不可解な状況が、至極当たり前の常識でもって腑に落ちていくところに謎が解かれる魅力やカタルシス、そして論理の美しさを感じることだ。しかし本書ならびにこの頃の島田氏の作品は強引にありえなさそうな現象や事実が積み重なって起きたという、作り事の色合いが濃くなってきているように感じ、こんなの思いつくのは島田氏だけだよ的な謎になっているのが残念。

確かに元々その傾向はあり、この作者しか書けないスケールの大きな謎が魅力でもあったのだが、本書などを読むと幻想的な謎を創出しなければいけないあまりに無理が生じてきているように思えてならない。

本書は島田が怒涛の連続出版を行った2006年の出版ラッシュの時の作品でこの頃に出版された一連の作品群は構成が似ている。

特に2編目の「傘を折る女」は御手洗が推理を開陳し、それを裏付ける加害者側のストーリーが展開する。これは『最後の一球』と同じ構成と見てよいだろう。
もっと遡るならば『ロシア幽霊軍艦事件』の構成と同じだ。そしてそれは本格推理小説の始祖アーサー・コナン・ドイルが創出したシャーロック・ホームズの長編と同じ構成でもあるのだ。
すなわち鮮やかな推理で真相と犯人が解明された後の、なぜ犯人は犯罪に至ったのかというサブストーリーを語る2部構成の作品といってよい。これは当時島田氏が提唱した物語性への回帰を実践するものだが、犯人側のストーリーにだんだん比重が置かれ、構成がアンバランスになってきている。
確かに第2部で語られる話は実に面白い。日本人の判官びいき気質を助長する社会的弱者、ボタンを掛け違えたためになぜか人生が上手く転がっていかない者たちの話は犯人を応援したくなる味を持っている。それら犯人側のストーリーに島田氏の社会的弱者への眼差しが強く盛り込まれ、社会の理不尽・不条理さに対する怒りのメッセージが色濃く投影されているが故にそのパートがどんどん長大化してきているのだ。
正直脱稿後読み返しているのかと疑うくらいのバランスの悪さを感じてしまう。

しかし島田氏も冤罪事件に関係することでわが国の裁判における証拠物件の内容や法医学の知識も増え、そして脳生理学への興味からその知識も得ているだけに、短編にそれらの知識を盛り込んでしまうため、昔なら50~100ページ弱で終わっていた短編が膨らみすぎて200ページくらいまで拡大してしまっている。
確かにこの辺の専門分野の話も面白いが、そのために話が無駄に長くなり、スピード感に欠けてきているように感じた。もっと謎に特化した往年の切れ味鋭い作品を期待する。特に昔の奇想溢れる長編が読みたい。

とはいえ、もう60過ぎだからなぁ。難しい注文かもしれないなぁ。


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UFO大通り (講談社文庫)
島田荘司UFO大通り についてのレビュー
No.832:
(10pt)
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無敵の殺し屋を過去が追いかけてくる

前作『犬の力』は同じマフィアの話でも麻薬を軸にしたメキシコマフィアの話だったが、本作はアメリカの裏社会を題材にした小説の定番ともいうべきイタリアマフィアのお話。
加えて齢60を越える元凄腕の殺し屋が命を狙われる本書はウィンズロウ色が色濃く溢れたオフビートな作品。しかも主人公フランクの趣味はサーフィンと私の好きな『カリフォルニアの炎』の主人公ジャック・ウェイドと同じだから期待せずにはいられない。
そしてその期待は見事に適えられた。

とにかく主人公フランキー・マシーンことフランクがカッコいいのだ。
どんなタフな奴が来ても動じない度胸と対処すべき術を心得ている。よくよく考えるとウィンズロウ作品の主人公というのは自身の信ずる正義と矜持に従うタフな心を持った人物だったが、腕っぷしまでが強い人物はいなかった。つまり本書はようやくタフな心に加え、腕っぷしと殺人技術まで兼ね備えた無敵の男が主人公になった作品なのだ。
今まで伝説の殺し屋と噂されるキャラクターは色んな小説に出てきたが、その強さを知らしめるのは単に1,2つのエピソードだけでお茶を濁される作品がほとんどだった。しかしウィンズロウはその由縁をしっかりと描く。だから読者は彼がまごう事なき伝説の殺し屋であることを理解し、その伝説を保たれるよう応援してしまう。

物語はフランクがフランキー・マシーンになった「成り立ち」とフランクを殺そうとする者たちを探索する現代の話とが平行して進む。フランクが過去を回想するたびに、殺した人間の係累に思いを馳せ、もしやそれが現状の引鉄かと推測し、そこへ向かうといった具合だ。
『犬の力』では30年以上にも亘る麻薬捜査官とマフィアとの闘争を描き、上下巻併せて1,000ページを超える大著であったが、本書はフランクの回想シーンが1963年の19歳だった頃から始まることを考えれば、62歳の現代から振り返れば43年分の歴史が語られているわけだが、上下巻併せても630ページ弱で『犬の力』よりも長い。しかも字の大きさは『犬の力』よりも大きい(昨今の出版状況の厳しさが偲ばれる)から、1冊にまとまるくらいのコンパクトな長さである。
つまり本書がいかにスピード感あふれ、なおかつエッセンスが詰まった作品であるかが解ると思う。

そして抜群のストーリー・テラーであるウィンズロウ、この過去のパートそして現代のパートが共に面白い。
このイタリア・マフィアの悪党どもがそれぞれの思惑を秘めて絡み合うジャムセッションは全くストーリーの先を読ませず、以前から私が云っているエルモア・レナードのスタイルを髣髴させる。特に本作は悪役の描き方といい、ストーリーの運び方といい、そして女性の描き方も付け加えて、さらにレナードの域に近づいているように感じた。元々“生きた”文章を書くことに長けたウィンズロウだったが、本書はさらに磨きがかかっている。ここぞというところにこれしかないという台詞や一文がびしっと決まっているのだ。

さらになかなか解らないのがなぜフランキー・マシーンを消そうとしているのか?そしてそれは誰の企みなのか?というメイン・テーマだ。殺し屋稼業だから、過去の恨みは数知れなく、フランクは思いつく限り現代に禍根を残す人物たちに接触を図る。浮かんでは消え、接触しては否定される動機の数々。

それらを通じて語られるのはマフィアの世界の非情さ。使える者はとことん利用してあぶく銭を得てのし上がっていく。それを面白く思わない輩が武力を以って横取りしようと画策する。勝ち残るには権力とそれを保つ勢力が必要。だから下っ端は顔になろうと姑息な手段と殺しを請け負い、ボスへの信頼を得ていく。
前作『犬の力』では“犯罪はペイする”という言葉を立証するかの如く、メキシコの麻薬組織が他国の政府に資金援助をして磐石の組織基盤と資金システムを築いていくのに対し、本作のイタリア・マフィアはポルノ産業や賭博産業、高利貸し、クラブ経営といった浮世商売で一攫千金を狙い、他組織からの妬みと裏切りと麻薬とで崩壊していく。
フランクの元相棒マイク・ペッラが死に際に放つ「マフィアの世迷い言なんぞ、もうたくさんだ。そう、何もかも世迷い言だった。名誉も忠誠もあるもんか。初めっからなかった。おれたちは自分をだましてたんだ」述懐が象徴的だ。

そしてウィンズロウ作品の特徴の1つにプロットに政治が絡むことが挙げられる。表向きの目的に隠された政治的工作や陰謀、もしくは犯罪が絡む政治的倫理。それは初期のニール・ケアリーシリーズから盛り込まれていた。
特に本書ではその現在の腐ったアメリカ政治に対する作者の怒りとも嫌悪とも取れる“魂の叫び”が作品の最後の方にフランクの台詞として述べられている。その、政府が犯罪組織を撲滅したがるのは彼らが商売敵だからだという過激な論調は数々の職を転々としながら、自身も裏社会に通じてきたウィンズロウしか云えない言葉だろう。
というよりもこの部分がよくも検閲に引っかからなかったものだとアメリカ出版業界の懐の深さに感心する。

そしてまだまだ尽きないキャラクターのアイデア。本当に個性的だ。
主人公フランクは先に述べたとおりだが、彼のサーフィン仲間でFBI捜査官であるデイヴ・ハンセン。彼もある意味影の主役といえよう。『カリフォルニアの炎』のジャック・ウェイドを思わせる自分の信念と正義のために上司からの圧力にも屈しない不器用な男である。

そしてフランクの元相棒マイク・ペッラ。彼はフランクが抑制していた強欲を象徴する人物といえよう。フランクが長いこと彼と相棒そして友人として付合っていたのは彼の中に己の戒めるべき姿を見ていたからに違いない。久しぶりに見たマイクの凋落振りに自分の未来像なのかとフランクが絶句するところが象徴的だ。

また伝説の殺し屋フランキー・マシーンを殺して自らの伝説を築こうと息巻く若きマフィア、ジェームズ“ジミー・ザ・キッド”ジャカモーネも忘れられない男だ。ヒップホップに嵌り、エミネムのファッションを真似る男は組織のボスや幹部達を老いぼれと軽蔑し、かつてのイタリアマフィアの隆盛を取り戻そうと野心を募らせている。伝説の殺し屋を畏怖する人物が多い中で唯一恐れない男だ。

さらにフランクの別れた妻パトリシア、フランクの若き頃のボス、バップことフランク・バプティスタ、ラスヴェガスの高利貸しハービー・ゴールドスタイン、元警官でいくつものクラブを経営していたホレス“ビッグ・マック”マクマナスなどなど、フランクの過去に関わり、通り過ぎていった人物たちそれぞれも重ねられたエピソードが実に味わい深いゆえに鮮烈な印象を残す。
個人的にはフランクが標的として追っていたカジノの金を持ち逃げした警備主任のジョイ・ヴォールヒーズのエピソードの印象が最も強い。ほんの末節に過ぎないこのエピソードに追う者と追われる者の奇妙なシンパシーと逃亡人生の末路の悲惨さが痛烈に込められ、忘れがたい。こんなエピソードが書けるウィンズロウはどんな人生を歩んできたのだろうか?

今までウィンズロウの作品で唯一不満だったのは物語の閉じ方だ。ペシミスティックで感傷的な終わり方はどの作品も魅力ある主人公を書いているだけに、同じ物語の世界を旅してきた読者の一人として、なんとも不完全燃焼な感じを抱いていた。ニール・ケアリーしかりジャック・ウェイドしかり。
しかし本書はこれこそ私が待ち望んだ結末といわんばかりの、静謐さと希望が入り混じった思わず笑みが零れる極上の終わり方だ。だから私は迷わず星10を献上する。ウィンズロウ作品初の星10を。

フランキー・マシーンの冬 上 (角川文庫)
No.831:
(7pt)

「謎」への執念を感じさせる

エラリイ、再びハリウッドの土を踏む。
国名シリーズとライツヴィルシリーズの架け橋的な存在だったいわゆるハリウッドシリーズと云われている『悪魔の報酬』、『ハートの4』、『ドラゴンの歯』以来、実に約12年ぶりにハリウッドを舞台にしたのが本書。ロジックとパズルに徹した国名シリーズからの転換期で方向性を暗中模索していた頃の上の3作と違い、ライツヴィルを経た本作ではやはりロマンスやエンタテインメント性よりも人の心理に踏み込み、ドラマ性を重視した内容になっている。

今回も宝石商を営む裕福な家庭に隠された悪意について語るその内容はロスマクを思わせ、なかなか読ませる。
半身不随の夫に美人の妻、そして好男子の秘書、そして裸で樹上に設えた小屋に住む巨人ほどの体躯を持つ息子に自然と戯れる妻の父と、明らかに何か含みがありそうな一家が登場する。しかしロスマクと違うのは、事件は毒殺未遂に蛙の死骸散布と、本格のコードを踏襲した奇想で、ぐいぐいと読者を引っ張っていくところだ。

特に今回は作者クイーンのなみなみならぬ謎に対する異常なまでの迫力を感じた。

犬の死骸、砒素の混じったマグロのサラダ、何百匹もの蛙の死骸、札入れ、焼き捨てられた本、無用になった株券、見えない脅迫者から送られてくる箱の中身は脈絡のないものばかり。
これだけの材料を与えられながら、読者は犯人の正体とその意図を推理することは出来ないだろう。逆に混乱を招いてしまって一つの筋道を見つけることが困難になっていると云った方が適切か。

つまり本書もまた『九尾の猫』との類似性を感じるのだ。
『九尾の猫』は連続して殺されていく被害者を結ぶ手がかり、つまりミッシングリンクを探る物語だった。翻って本書は被脅迫者へ脅迫者が次々と送ってくる品々が意味するところを推理する物語である。つまりこれもミッシングリンクを探る物語なのだ。
つまり『ダブル・ダブル』と本書は『九尾の猫』を要の位置としてそれぞれ連続殺人物、ミッシングリンク物と『九尾の猫』が備えているエッセンスを解体して、別の手法で作り上げた作品のように感じられた。

また本書では今までクイーン作品ではあまり語られることのなかった当時の世情についても触れられている。エルロイ作品で有名なブラック・ダリア事件に朝鮮戦争の勃発と、暗い世の中の状況が出てくるのが意外だった。
そして特に朝鮮戦争では明白に大量殺人の中で名もなく埋もれてしまう何万人もの人間の死に対する憤りを感じた。1人の死に対して推理に推理を重ねて苦労する一方で、兵器によって簡単に何百人もの人間が殺されていくことの不合理さ。
笠井潔氏が現在もなお揺るがない「大量死と密室」論が本書でも同等の意味で語られている。寧ろ1990年代に至るまでなぜこのエラリイの述懐に気付かなかったのかが不思議に感じた。

さて本書の舞台がハリウッドであることの理由について作中でちらりと触れられている。映画の都ハリウッドでは世間の一般基準から逸脱した者たちさえも個性ある人物として逆に評価される、従ってこの夢の都では何が起きても不思議ではないというわけだ。
今後エラリイの活躍の場がホームタウンのニューヨークからこの地へ移るのか解らないが、なるほどなと思わされた。

人間の心理へ踏み込み、探偵が罪を裁くことに対する苦悩を描いてきたこの頃のクイーン。
前作『ダブル・ダブル』では作品の軸がぶれて、殺人事件なのかどうか解らなかったところがあったが、本書では次々と起こる奇妙な出来事の連続技で読者をぐいぐい引っ張ってくれた。
しかしその内容と明かされる真相および犯人の意図は現実的なレベルから云うとやはりまだ魅力的な謎の創出に重きを置き、犯行の必然性とマッチしないところがあって、手放しで賞賛できないところがある。
しかしミステリに対するエラリー・クイーンの凄みを感じる作品だったので今後の作品に期待しよう。


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悪の起源 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-9)
エラリー・クイーン悪の起源 についてのレビュー
No.830:
(4pt)

この行動力の源は一体何?

最愛の人が政情不安定な異国の危険地帯で拉致されたら貴方はどうしますか?

本書の主人公ジャネット・ストーンはCIAや関連組織に連絡を取ってもなしのつぶてだったため、マスコミと政治家を味方につけ、世論を巻き起こし、さらに若き女性のみでありながら単身、現地へ乗り込むことを選択する。

そうした時に起こりうる利害関係者が取る対応について知るのにうってつけの小説と云えるだろう。CIAの慇懃無礼な対応や現地大使館、現地警察の圧力など非常にリアルに迫ってくるものがある。

過去に夫を肝臓癌で亡くし、そのときに何もしてやれなかった無力感がジャネットのレバノン行の原動力となっているのはわかるものの、非常に脇の甘い女性だなぁと終始思ってしまった。
レバノン渡航へのつてを得ようと、現地の詐欺師に簡単に騙され、一万ポンドのもの大金を簡単に渡してしまうわ、漁師たちの船に若い女性の身でありながら単身で乗り、強姦されそうになるわと、作中でキプロスの刑事がいうように「甘やかされた、金持ちの、愚かな女」で、「安っぽい小説の主人公のようにふるまっている」のだ。
この台詞は本書が安っぽい小説だと作者が自虐的に述べているようにも読み取れるがさすがにそれは穿った読み方か。

しかしハーレクインとして発表されてもおかしくないほど典型的なロマンスミステリではないか。フリーマントルが別名義で発表した作品かと思ったが、調べてみると違っていた。

ジャネットの年齢は明記されていないが、前夫との死別を経験していることから、おそらくは20代後半から30代前半と推測できる。つまりは分別のついた大人の女性であるはずなのだが、何かにつけ女性蔑視だと決め付け、それに対し激しく嫌悪し、激怒する。特に微妙な国際間の緊張を孕んでいるだけに無難かつ穏当に拉致事件を処理したい政府側に対して常に喚き、強引に関わろうとする。
さらに読み進めるにつれ、ジャネットはジョンの救出に力を貸すフリージャーナリストデイヴィッド・バクスターと恋に落ち、愛を重ねるようになるのだ。この辺、それまでのジャネットが経験してきた辛い仕打ちを考えれば、ようやく辿り着いた拠り所となるのだから判らないでもないが、救出するのが婚約者であることを考えると、どうにも共感できかねる背徳行為だと云わざるを得ない。
フリーマントルには『ディーケンの戦い』という誘拐された妻のために夫が奮闘するという小説があるのだが、本書の展開はその作品のやるせなさと救いのなさを思わせる。このような似た趣向の趣向の作品を2作も書いているフリーマントルは男女の真実の愛なんてものは存在しないとはなどと鼻であしらっているように思える。

以上のような性格だから、このジャネット・ストーンはなかなか読者の共感を覚えるキャラクターではなく、境遇は解るものの、物分りの悪い上昇志向の自意識過剰のヒステリックな女性としか見えず、応援しようと思えないのが本書の欠点だろう。

さて本書のタイトル『裏切り』。実に素っ気無い題名だが、この本には数々の裏切りが含まれている。
まず夫ジョンのジャネットに対する裏切り。職業が実はCIA工作員だったことを婚約者ジャネットに隠す。
まあ、これは裏切りと捉えるかは微妙なところだろう。文中にもあったがスパイは職業柄家族にも自らの職業については伏せておくようだから。

さらにジャネットの金を狙って次々と協力を装い、大金をせしめようとする詐欺師ども。これも裏切りだ。
そして最大の裏切りはジャネットのバクスターへの愛情だ。その他ストーリーが進むにつれてCIAのジャネットを利用した作戦やバクスターが実はモサドの工作員で自分達の捕虜を奪還する為にジャネットの愛情を利用して取引する作戦など、裏切りとも取れる物は数々ある。
しかしこういった諜報物にはこの手の二重三重のカバーストーリーは付き物だから、上のように書いていてもしっくりこない。通常諜報物にはFBI、CIA、KGBやSISなど情報を操作することに長けた人物達しか出てこないが、本書はそれらの人物に素人の女性が関わっているところが特徴なのだろう。
つまり一般人にとって彼らのやる情報戦やカバーストーリーは裏切り行為としか取れないのだ。
が、やはりタイトルの真の意味は最後にジョンが語る、自身を正気に繋ぎ止めておいたジャネットへの想いを読むと、ジャネットの浮気以外何ものでもないことは明白だ。

さて冒頭に書いた問いかけの答えとなりうる手法がここには書かれているが、マスコミ、政治家を利用するというのは実に普通だったなと思ったものだ。もう少し捻りが欲しかったが、一個人が同様の事態に陥ったときに取るべき行動の指南書としては参考になるだろうと思う。

しかしどうしてフリーマントルはこういう後味の悪い作品を書くのだろう?英国人はこういう苦いジョークが好きなのだろうか。不思議でならない。

裏切り (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル裏切り についてのレビュー
No.829:
(7pt)
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この作風の違いに戸惑う

一大麻薬王国メキシコ。中米の麻薬カルテル組織の壊滅に闘志を燃やす男アート・ケラーと、メキシコ巨大麻薬組織の長アダン・バレーラとの約30年に亘る闘争の歴史を描いた物語。
それは血よりも濃い忠義の絆で結束される世界があり、そこにはアイルランド系マフィアもイタリア系マフィアも絡む惨劇の物語だ。

麻薬。この現代の錬金術とも云える、人を惑わす物質はそれに関わる人々の人生を流転させる。
正義を謳い、悪を征する側に付いていた者は賄賂と便宜にまみれた一大情報ネットワークを構築し、巨大組織を殲滅せんとする。が、しかしそのネットワークが次なる麻薬王誕生の足がかりとして悪用され、正義が巨悪へと転ずるのだ。

フリーマントルはかつて自身の著書で「犯罪はペイする」と唱えたが、正にそう。ここに登場する人々はペイするがゆえに危ない橋を渡り、巧妙な麻薬密輸ルートと販売網を確立する。発展途上の国では警察を含め、役人は薄給に不満を持っており、誰もがその制服と肩書きが持つ力を悪用し、賄賂という“副収入”を得ようとする。
しかしそれは自らが逃れられない粛清の鎖に絡め取られる端緒となることに気付かないのだ。いや気付きはすれど貧しさゆえに目先の収入に抗うことが出来ないのだ。そして誰もがその恩恵に与ろうと待っているのだ。

そしてそれは麻薬の密輸ルートの確保を生み出す。地続きの大陸だからこそ起こるこれほどまでに巨大な密輸作戦。なんせ中南米の貧しい国々は北に向ければ莫大な消費力を誇るアメリカがすぐ近くにある。この巨大なマーケットは実に魅力的。ハイリスクハイリターンの典型的なモデルだ。
このメキシコを中心とした中南米の麻薬戦争の一大叙事詩。本書のドン・ウィンズロウは最初からフルスロットルだ。ゴッドファーザーといえばイタリア系マフィアが有名だが、ウィンズロウはメキシコ人の血よりも濃い“家族(ファミリー)”の絆を描く。赤茶けた砂漠と土塊で作られた建物が林立する埃立つ町並みが、常に汗ばみ、黒々と日に焼けた皮膚で佇む男どもの体臭が、そして灼熱の太陽が行間から立ち上ってくるようだ。

暑さが人の心を狂わせるように、麻薬を摑んで一攫千金を狙う男達の心は次第に歪んでいく。それは権力だったり、愛だったり、憎しみだったり、そして麻薬そのものだったりする。それは悪を狩る者でさえそうなのだ。
捜査官アートは自らの正義を重んじ、自らの矜持に従い、どんな権力にも屈せず、単純に悪党どもを殺さず、法の手に委ね、裁きを受けさそうとするが、そこで直面するのはアメリカの政治原理の壁。中米の共産主義国ニカラグアを第2のキューバに、つまりソ連の属国にさせないためにコントラを配備し、その資金源をなんとメキシコ麻薬組織に頼っていたのだ。
持ちつ持たれつのこの関係にアートは一度屈するが、部下のエルニーの凄惨な拷問死に直面し、鬼となる。そこにはもはやかつて正義と使命に燃えていたアートはいず、不可侵の復讐鬼がいるのみだった。正義をなす為にあえて悪の手に染める。毒には毒を以って制さねばならないという、弱肉強食の原理が存在するだけだった。

麻薬の利権争いが拡充するにつれて、覇権争いも次第にエスカレートしていく。
下克上の世の中、身内が身内を売り、部下がボスを売り、のし上がる。そんな欺瞞と裏切りの日々の連続であり、狩る側狩られる側双方が情報を操作して内乱を起こさせようと企む。そしてついには彼らの家族にまで手をかける。
キリスト教圏の国でありながら、姦淫そして父親殺し、子供殺しなど、その内容は罪深いことばかり。麻薬王国の礎にはどれだけの屍が必要なのか、目を塞ぎたくなる光景が続く。それは正に殺戮の螺旋とも呼ぶべき血みどろの戦いの連続だ。

そんな凄惨な物語ゆえに、登場人物たちもウィンズロウならではの個性的な面々が出てくるが、裏切りと疑心の生活にまみれた者たちばかりなので、自然に各々の性格は歪んでくる。

CIA勤めからヴェトナム戦争を経験し、復員して犯罪を撲滅しているリアルを感じたいがためにDEAへ志願した主人公アート・ケラーも麻薬組織そしてその長で近しい者たちの仇でもあるアダン・バレーラら巨悪を壊滅するために自ら悪の道へと堕ちていく。

敵役のアダン・バレーラは血を見ることを嫌う麻薬組織の王だという面白い性格付けがなされている。

そして後半物語の牽引役となる美貌の高級娼婦ノーラ・ヘイデン。類稀なる美貌を持ちながら、男の心を読み、なおかつ何年もの間メキシコ麻薬王のそばで密告者として潜入する度胸を備えている。

その他風変わりな司教ファン・パレーダ、本能の赴くままに生きるアイルランド人の殺し屋ショーン・カラン、無頼派捜査官アントニオ・ラモス、などなど個性の強い人物が登場する。ただそこに道化役がいないのだ。

話は変わるが、ウィンズロウという作者の名を聞いたときにどんな作品を思い浮かべるだろう。私はシンプルな導入部から次第に錯綜する組織の利害関係が絡み合う複雑な構図を持ったプロットを、減らず口まじりの軽妙な会話とペーソスの入り混じった叙情を持たせた文体で語る作品を真っ先に思い浮かべる。
恐らくこの作家の読者の大半はそうではないだろうか?
そしてこの麻薬が生み出す凄惨な物語は一部ウィンズロウお得意の軽妙な語り口が混じってはいるものの、基本的にはハードヴァイオレンス路線の作品である。そして今までの作品の中でも最も長い上下巻合わせて1,000ページ以上にもなる大著は、面白いとは思うものの、世評の高さほどには愉しめなかった。
先にハードボイルド路線に徹した作品『歓喜の島』というのがあるが、私が楽しめなかった作品の1つでもある。この作品の出来栄えの素晴らしさは認めるものの、5ツ星を与えるほどの何かを残す作品ではなかった。
しかしこれは全く好みの問題。恐らく『ゴッド・ファーザー』が好きな人は本書を21世紀版のそれとして読み、愉しむことが十分出来る濃厚な作品である。

とにかく一口では語れない色々な内容を含んだ作品だ。本書に書かれた麻薬密輸の証拠の獲得方法―飛行場で待っているよりも偽装の滑走路を設けて逆に敵を引き寄せる―、コカインが通貨として成立する社会の話、隠密裏になされた“赤い霧”作戦、“コンドル作戦”、などなど書き足りないことは数多ある。

最後にこのなんとも素っ気無い題名「犬の力」について。
これは旧約聖書に謳われた悪を行使する心の奥底から立ち上る力のことだ。悪を滅するためにあえて悪に染まるアートの断固たる決意をメインに謳われている。もはや純然たる正義は存在しないのだ。
今までの作品でも正悪が反転し、価値観を惑わすプロットを駆使したウィンズロウが心底抱いた滾りを本書にて前面に押し出したといっていい。血と金なき正義はもはや存在しないのだとウィンズロウの叫びが感じ取れる。しかしやっぱりそれでもニール・ケアリーもしくはジャック・ウェイドの再登場を願ってしまうのだった。

犬の力 上 (角川文庫)
ドン・ウィンズロウ犬の力 についてのレビュー
No.828:
(4pt)
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ダブルで愉しめるとよかったのだが

実に摑みどころの無い事件である。
最初に心臓病で死んだ隠遁生活を送っていた老人に端を発した事件はその後、実業家の自殺へと続き、“町の乞食”もしくは“町の呑んだくれ”と称されていた男は行方不明になっているが、追いはぎに殺された可能性が高い。“町の泥棒”と呼ばれた男は揉み合ううちに銃の暴発により死亡する。そして“町の聖者”とも呼ばれる清貧の医者は交通事故で死んでしまう。
これら自殺を除けば、不運な事故の遭遇もしくは人命を全うしたとしか思えない連続する死亡事件。また雇われる先々で雇い主が奇妙な死を迎える“町の哲人”ハリイ・トイフェルの存在もオカルト風味をもたらしている。つまりこれら殺人事件とも思えない連続的な事故に対し、エラリイは誰かの作為が介在して意図的に起こされた殺人なのだと固執して事件の関連性を調査するというのが、本作の主眼なのだが、上に書いたようになんとも地味な内容なのだ。
そしてエラリイが周囲の反対を押し切って捜査を続ける理由が、“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒・・・”と歌われる童謡どおりに事件が起きている事実、それのみ。

人智を超えたところで作用する避けられない巨大な意図が今回のエラリイの敵、それがテーマなのだろうか?
つまり偶発的に連続する死亡事故にも実は論理の槍を付きたてて事件性を見出すというのが作者クイーンが語りたかったことなのだろうか。

話は変わるが、本書はクイーン作品としては珍しく素っ気無い題名だ。これは事件に纏わる二という数字から来ている。

まずはエラリイが述べる「物事には二通りの見方がある」という台詞から端を発している。
その後、この二の符号は広がり、上に述べた童謡には二通りの文句が存在すること―“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒。お医者に弁護士、インディアンの酋長”と“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒。お医者に弁護士、商人のかしら”―、さらにその二つ目の文句には句点の入れ方で二通りの解釈が出来ること、などなど。
二が二を生み、どんどん拡散していく。その他にも二に纏わる符号は出てくるが、それは本書を読んで確認して欲しい。

今回、エラリイは明敏な探偵ではなく、迷える名探偵という位置づけだ。この作品の前の作品に当たる『九尾の猫』でもリアルタイムで起こる無差別殺人に手をこまねいていたエラリイだったが、本書でもそのスタンスは変わらない。

しかし後期作品のエラリイは事件に翻弄される役回りばかりだ。初期のエラリイは事件を高みから眺め、全てを見抜く、全知全能の神のごとく振舞う存在だったのがはるか昔のことのように感じる。
唯一の救いは今までの作品では真実を知ることで失う代価の多さから打ちひしがれる姿が多かったのが、本書では清々しく閉じられていることだ。
前作のエラリイの探偵廃業を決意するまでに絶望に落ち込んだ彼は一体何だったんだと叫びたいくらい、立ち直りが早い。まあ、これはよしとして次作がもっと面白いであろうことを期待しよう。


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ダブル・ダブル〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリー・クイーンダブル・ダブル についてのレビュー
No.827: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

続編が望まれる肝っ玉女先生の奮闘記

前作『浪花少年探偵団』から5年。あのしのぶセンセが帰ってきた。
本書も前作同様、しのぶセンセこと竹内しのぶと彼女の元教え子の2人が主要登場人物の連作短編集となっている。そしてタイトルが示すとおり、本書がシリーズの幕引きとなる一冊でもある。

まずは復活の一発目「しのぶセンセは勉強中」。
本書が刊行されたのは1993年だから本編が発表されたのはそれ以前であろう。当時はまだ私も学生の身だったので、その頃のパソコンの普及率を考えると世の中の変化についていけない者が出てきて、社会に淘汰されていくというニュースも出ていた記憶がある。
時代と共にやはり内容も古びてしまう。それでも今なお本書が当時の内容で刊行されているのは東野人気のためだろうが。

続く「しのぶセンセは暴走族」ではしのぶセンセは子供達に交通事故の恐ろしさを教え、守ろうという動機から自動車教習所へ通って免許取得にチャレンジ中。
恐らく読者のほとんどが経験しているであろう自動車教習の部分がやはり面白い。確かに金払っているのにあれだけ傲慢に振舞い、罵倒されなきゃならない境遇は珍しい。私もそう毅然と云えればよかったが、やっぱり無理だよね。謎としては小粒か。

次の「しのぶセンセの上京」は文字通りしのぶセンセ東京進出の話。
前作で新藤の恋敵役だった本間義彦再登場。彼は大阪から東京に転勤しており、しのぶセンセの東京ガイドという役回り。とはいえ、やはりここに新藤が絡まないと単なる道化役にしかなっていないのが惜しいところだ。

さすがのしのぶセンセも病気には勝てなかった。「しのぶセンセは入院中」では急性虫垂炎で入院したしのぶの所にも事件は訪れる。
ここは素直に登場人物たちのやり取りと小出しに発生する事件に頭を捻りながらストーリーに身を委ねて、愛すべき登場人物たちが織り成す笑劇に浸るのが吉。

とうとう学生生活から先生へ復帰するしのぶセンセは実家に戻ることを決意する。「しのぶセンセの引っ越し」では住んでいたアパートに最近越してきた母子が、新藤が担当する強盗殺害事件に絡む。
非常に狭い範囲で展開する物語。真相は小粒で、安西と松岡老人とのミッシングリンクを探る物であるが、本格ミステリ度はやはり低く、読者が推理して解明できるプロットではない。真相を知ることで加害者と被害者どちらが悪いのかという正義のあり場を考えさせられる話だが、シリアス度はさほど感じられない。

そしてシリーズの最後を飾るのが「しのぶセンセの復活」。
シリーズ最後の本編は原点回帰ともいうべき、しのぶのクラスで起きる事件を描いたもので刑事事件でもなく、虐めの萌芽と馴染んでくれない生徒達に何とか立ち向かうしのぶの姿が描かれる。したがってこの短編にはレギュラーメンバーである田中と原田は登場しない。それこそしのぶセンセの新たな出発の象徴といえよう。

シリーズ1作目同様、肩の力を抜いて楽しく読めるキャラクター小説である。こちらの独断かもしれないが、物語の構成が手がかりを提示した本格ミステリの風合いから次々と事件が起きて読者を愉しませるストーリー重視の犯罪物に変わっているように思う。
それぞれの短編の雑誌掲載時期が載せられていないので、どの作品がいつ頃書かれたか解らないため、これが東野氏の作風の変遷と同調しているのかが解らないのが残念なところだ。
しかしあとがきにも作者自身が作風の変化を自覚していることを述べているからこの推察は間違いないだろう。読者の推理の余地がないので、本格ミステリ度は薄いが、逆に東野氏のストーリーテリングの上手さと、関係のないと思われた事象がどのように繋がっていくのかを愉しんで読める作品になっている。

従って推理するという作品ではなく、しのぶセンセとレギュラーメンバーである浪花少年探偵団(といってもたった2人だが)こと田中鉄平と原田郁夫、そいて新藤刑事に恋敵本間義彦らが織り成す涙と笑いのミステリ風大阪人情話なのだ。

そして今回しのぶセンセは教師ではなく、兵庫の大学に内地留学している身である。
これが本作にどう影響しているかというと、教え子が絡む小学校に関係する事件ではなく、しのぶセンセを取り巻く環境で起きた事件を題材にしている。そして前作でレギュラーだった田中鉄平と原田郁夫が元教え子として絡む。従って自由度は以前よりも上がっているから事件も学校・生徒という限定空間から外側に広がっている。

各短編の出来は平均的といってよく、駄作もなければ傑作もない。強いてベストを挙げるとなるとやはり最後の「しのぶセンセの復活」となるか。子供の跳び箱事故からある家族の家庭事情に繋がり、教師の転勤へと繋がっていく話の妙はさすがだが、この短編の読みどころは教師生活にブランクを置いたしのぶの再起する姿にある。シリーズの終焉に相応しい好編だ。

大阪弁を前面に出した軽妙なストーリー運びと下町の姉ちゃんと呼べる威勢のいい女教師のこのシリーズ、シリアスな作品が多い東野作品の中でも異色のシリーズだっただけにたった2冊でシリーズを終えるのは惜しいものだ。
現在押しも押されぬ国民的人気作家となった東野圭吾氏がこのシリーズを再開するのは限りなく0%に近いだろうけど、執筆活動の気晴らしとしてまたぼつぼつと書いて欲しいものだ。


▼以下、ネタバレ感想
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新装版 しのぶセンセにサヨナラ (講談社文庫)