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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
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読み終わって大きな息が思わず出てしまった。
怒涛の展開で連打の如く畳み掛ける言葉の嵐。今回の物語で要した章は289にまで上る。正味460ページ足らずの分量でこの章の多さ。いかに切りつめられた章立てであるかが解るだろう。 ウィンズロウの文体はもはや詩である。 短文の連発で散文的に書かれた語り口は彼独自のリズムで物語が展開する。固有名詞(62章を見よ!)に略語にスラングの応酬で綴られるその文章にはまぎれもなく行間から“声”が聞こえてくる。 つまりはこの声を生かしたままで日本語に訳している東江氏の素晴らしい仕事ゆえに私達はウィンズロウが耳元で囁くかの如きライヴ感溢れる文体に酔うことが出来るのだ。 ただそれがあまりに過剰になりすぎて、読者の理解を超えたところで鳴り響いている感じもする。恐らくこれはウィンズロウがあえて実験的に取り組んだ文体だろうが、この波は少々じゃじゃ馬すぎて、上手くライディングするのにはかなりの時間が必要だった。 今回扱っているテーマは麻薬商戦。相手はメキシコの大麻薬カルテル。そう、主題としては『犬の力』と一緒なのだが、『犬の力』がDEA(麻薬取締局)と一大麻薬カルテルとの血で血を洗う凄惨な戦いを描いたのに対し、本書は独立経営でやっている麻薬商業者ベンとチョンと一大麻薬カルテルとの戦いを描いたもので、ベンとチョン、それに彼ら2人の恋人Oが加わったオフビートな味わいの物語になっている。 このベンとチョン、そしてOの造形が素晴らしい。 精神分析医の両親を持ち、自身も精神療法のクリニックを経営しながらも独学で育てた大麻をチョンと共同で売って生計を立てているベンは何かにつけ、人の行動を分析する傾向にある。そして根っからの非暴力主義者で時にふっと世界のどこかで弱者を救いにボランティアに出かける、そんな人間だ。 片やベンのパートナーであるチョンはその名前からアジア系アメリカ人を想像するが生粋の白人。いつの間にか本名のジョンがチョンに変化してしまい、そのままで通している。海軍に所属し特殊部隊員となり、“スタンの国”で戦争の最前線に行き、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた男。感情を表に出すことはなく、誰かに優位に立たれるのを好まない武闘派。 そしてベンとチョンの恋人オフィーリアことO。美貌を誇る母親から生まれたOは自由奔放な精神の持ち主。知識は少ないがベンとチョンは彼女が頭がいいことを知っている。2人のオアシスで帰るべき家ともいうべき存在。 この三人には他者が入れない強い絆で結ばれている。兄弟よりも濃い関係なのだ。 そんな彼らに立ちふさがるのがバハ・カルテル。中でもその恐怖の象徴であるのがラド。元々麻薬対策特務組織の一員だったが、終わりのない戦いと一方で肥え太る麻薬組織の連中を見るにつけて仕事に嫌気が差し、カルテル側に移った人間。チェーンソーで人の首を切るのを何とも思わない冷徹な男。どんな嘘も見抜き、粛清を下す。組織の恐怖の掟が具現化した男だ。 さてそんな彼らが登場する物語、オフビートテイストが最後まで続かないのが最近のウィンズロウ作品の特徴。前作の『夜明けのパトロール』同様、物語は次第に暗い様相を帯びてくる。ベンとチョン2人の麗しの君Oにバハ・カルテルの魔の手が伸び、誘拐されてしまうのだ。云うことを聞かなければチェーンソーでの死刑が待っている。 大麻栽培と販売という犯罪と貧民国を訪れボランティア活動を行う慈善家の二足のわらじは上手く両立できると信じていたベンの信念に揺らぎが生じ、片や野蛮なる世界の怖さを知る武闘派チョンの暴力への信念はますます研ぎ澄まされていく。非暴力主義を貫けなくなったベンは全てを擲ってOを救おうとする。オフビートな犯罪小説から暗黒小説へ次第に物語はシフトしていく。 『犬の力』でも散々見られた惨たらしい拷問シーンは今回もふんだんに盛り付けられている。書かれた文字から否が応にも想像が働くその映像に目を背けたくなる。そんな暗鬱になりがちな展開の中で誘拐されたOの茶目っ気ぶりが一服の清涼剤になる。 淀みと気楽さ。 なんとこれは麻薬ではないか? もしかしてウィンズロウは文章という名の麻薬を実現しようとこのような実験的な文体を採用したのだろうか? やがて物語はハメットの有名な作品『血の収穫』で見せた二大勢力の麻薬戦争の様相を見せ、ベンとチョンがたった2人で巨悪に立ち向かう様が繰り広げられる。 これは彼ら三人の青春物語であり叙事詩であり伝説。 こんな物語、ウィンズロウにしか書けないわ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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リンカーン・ライムシリーズ7作目にしてもう1人のシリーズキャラクター、キャサリン・ダンス初登場作。
2008年版『このミス』で堂々1位に輝いた。ネットでの評判もすごく、傑作との文字がそこここに見られる。期待に胸躍らせながら書を開いた。 いやはやウォッチメイカー事件とはこういう事件だったのか、というのが正直な感想。つまり殺し屋ウォッチメイカーとはその名の通り、時計を動かす複雑な構造を備えた犯罪計画を立てる―作中では複雑機構(コンプリケーション)と述べられている―殺し屋という意味なのだ。 特徴的なのは今回3つの事件が並行して語られること。ウォッチメイカー事件に警察の汚職が絡んだ会計士の自殺偽装事件。そして同じバーの常連だったメインテナンス会社の経営者の強盗殺人事件。従って捜査メモも3種類書かれる。 そしてこの複雑な事件を見破るには何よりもキャサリン・ダンスが登場したというのが大きいだろう。カリフォルニア捜査局の捜査官でボディ・ランゲージや言葉遣いを観察して分析し、尋問する相手の心理と読み取るキネクシスのエキスパート。とにかく相手を観察し、何を考え何を隠しているのかを読み取ることが何よりも好きな“人間中毒者”だ。 今回は彼女の尋問で目撃者が何をどこで見たかが絞り込まれ、サックスの現場検証の精度が増す効果が得られている。 また中盤ウォッチメイカーの相棒ヴィンセントが捕まるのも彼女のキネクシスによる尋問からだし、そこからウォッチメイカーの正体さえも割り出していく。 つまりキャサリンには嘘が通じないのだ。どんな嘘をついても悟られてしまう。そんな尋問のエキスパートに嘘をつくことが自覚的でないウォッチメイカーをいきなりぶつけるところにディーヴァーのネタを出し惜しみしない潔さを感じる。 常に新作におよそ考えうる難問を導入する旺盛なサービス精神には毎度これを超える作品が次書けるのかと妙な心配すらしてしまうほどだ。 特に今回注目したいのはライムシリーズ1作目の『ボーン・コレクター』が内容に大いに関わっていることだ。詳しくは未読の方の興を削ぐので書かないが、こういう趣向はシリーズ物を愉しむ読者にとっては縦軸だけでなく横軸への広がりを見せ、大きな絵を描くように世界観が楽しめる。 逆に読者は記憶力をさらに試されることになるわけで、今まで他作品の主人公のカメオ出演だけでなく、事細かに設定されたリンカーン・ライムワールドを熟読しておくべきだろう。そうすればますますこのシリーズが楽しめるに違いない。 本書の題名は殺し屋ウォッチメイカーだが、原題は“The Cold Moon”。「冷たい月」を表すこの言葉はウォッチメイカーが現場に残した手紙に書かれた詩の一節であると同時に、太陰暦を意味する言葉。これはウォッチメイカーが現場に残した置時計が太陰暦も表示されることも関係している。 ただ今回はあまり原題は物語に有機的に関わっていないようだ。邦訳のウォッチメイカーの方が殺し屋の名前という単純な意味だけでなくてしっくり来る。 また前作ではセリットーが恐怖心に見舞われるというアクシデントが起きたが、今回はサックスにある事実がもたらされる。 それは尊敬して止まない元警官の亡き父が不正を働いていたという事実。街を仕切るギャングと懇意になり、商店主や土建業者から金を強請り取っていたのだった。サックスの元恋人の警官も不正で捕まった過去があるだけに警官の汚職にひどい嫌悪感を抱いていたサックスだったが、自分が警察官となるアイコンでもあった父親がそれに加担していたというアイデンティティが侵される事態に陥る。サックスは警察を辞する決意までする。 そんなサックスを上手くサポートするのが前作から登場した“ルーキー”ロナルド・プラスキーだ。彼もサックスの部下として時に警官、時に鑑識課員の卵として共に現場検証に当たるようになる。新人ゆえの熱心さと柔軟な物の考え方でライムたちの思いもつかなかったような助言もするようになり、前作に比べて格段に成長しており、キャラクターにも厚みが出てきた。 また一人ライムチームに魅力的なキャラが加わった。 他にもウォッチメイカーの相棒だったヴィンセント・レノルズの忌まわしい過去などはディーヴァーの騙りの上手さに少なからず驚いたのに、そんなことがもう忘れてしまうほどサプライズに満ちている。 本当にディーヴァーという作家は読者の心を上手く誘導するのが上手い。彼こそ本当の“魔術師”ではないだろうか。 全くこれからもますます目が離せない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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幾何学的な素っ気ないタイトルは三角関係を表している。第四辺とは父アシュトンと母ルーテシア、そして息子デインらマッケル一家の間の三角関係に現れたシーラという愛人のことである。
しかし通常ならば三角関係というのは一人の人物を巡って2人の恋敵が取り合うという関係を示す。従って本来ならば父親の愛人を頂点にした息子と父親の微妙な三角関係を示すことになろう。 事件はこの父の愛人であり息子の恋人であるシーラが何者かに殺害されるというものだ。彼女はマッケル一家が所有するマンションのペントハウスに住んでいる。 そしてまずは容疑者としてアシュトンが逮捕され、裁判にて無罪が確定し、次にルーテシアが逮捕され、同じく裁判で無罪が確定した後、今度は息子のデインが逮捕されるという三段重ねの裁判物となっている。 そして今回エラリイはなかなか登場しない。彼が登場するのは130ページの辺りである。しかも今回のエラリイは映画のエキストラの一員としてスキーで滑っているシーンを撮影中に事故に遭って入院をしている。つまり安楽椅子探偵という設定なのだ。 この3人のマッケル一家だけが容疑者であるという非常に登場人物の少ない事件。そんな事件でもクイーンはロジックを開陳させてみせる。 しかし物語はそのエラリイの鮮やかなロジックで解決した後、また別の真相が控えている。そしてこの作品でも探偵の能力の限界をエラリイは見せつけられてしまう。 さて今までクイーン作品では個性的な女性が出てきた。ニッキー・ポーターやポーラ・ハリスがその代表だろう。それらは過去の本格ミステリに見られがちなか弱き令嬢といった趣ではなく、男と対等に渡り合おうとする独立した女性の姿だった。 本書のシーラは彼女たちからさらに発展した女性像である。ファッション界の新鋭デザイナーとして名を馳せ、すでに金と栄誉を手に入れているので男には隷属せず、また養ってもらおうなどとは露にも思っていない。結婚は特に考えず、その時に好きな男をとことん愛し、お互いのどちらかが飽きるまで付き合う。その恋はある日突然火が着き、そしてまた同じようにある日突然冷めてしまう。常に恋をしなければならない女性。そして恋をしていることで輝きを保っている女性。昨今の女性の考えを持った近代的な女性である。 もう単なるパズラーやロジックで犯人を云い当てる推理ゲームから脱却したクイーンのこの頃の作品は逆にバランスを欠いているように感じ、釈然としない読後感を残す。この作品の真価が私の中で定まるのはまだしばらく時間がかかりそうだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これはすごい傑作ではないか!
なぜ当時ほとんど巷間で話題にならなかったのかが不思議でならないくらい、ミステリとしても読み物としてもすごいレベルに達した作品である。 本書で描かれる事件はある作家の死。一応鍵が掛かった部屋での殺人事件なのだが、そこにトリックなどもなく謎解きもあっさりとしており、あまつさえ犯人は全体の3分の1にも満たないところで加賀によって捕えられてしまう。 しかし本書のメインはそこからである。なぜ犯人、被害者日高邦彦の親友であり、同級生であった野々口修が彼を殺すに至ったかが本書の謎なのだ。 東野作品の転機は『宿命』からだというのは周知の事実である。彼は今までトリックやロジックにこだわった本格ミステリを書いていたのだが、人の心の謎こそが魅力的な謎だと着目し、それを意識して著したのが『宿命』だった。 その後東野氏は様々な手法を使って人の心の謎をテーマにした作品を紡いでいく。そして本書で扱われる人の心の謎とはすなわち「悪意」。ストレートな題名でそれを謳っている。 この作品は実は発表当時はさほど話題にならなかったが、ウェブ、書評家そして東野ファンの間では隠れた名作と云われている。 特に『赤い指』、『新参者』、『麒麟の翼』と昨今立て続けに発表された加賀恭一郎シリーズのクオリティが高く、人気が出た現在では同シリーズを遡って読む読者が増え、その中で再評価が高まっている。ちなみに講談社から出版された『東野圭吾公式ガイド』の読者人気投票ランキングでも16位に選ばれ、人気も高い。 さて横道に逸れるのはここまでにして、この悪意というのは犯罪を扱うミステリにおいてなくてはならない物、いや殺人や窃盗、詐欺、これら全ての犯罪は悪意から成り立っていると云える。 悪意と一言で云っても様々な悪意があり、私もさて本書で書かれている悪意とは一体何なのだろうかと思いながら読み進めた。 特に目立つのは被害者日高邦彦の悪意だ。 犯人野々口修が前妻初美と共謀して命を奪おうとしたことをネタにゴーストライターを強要した悪意。野々口の才能に嫉妬し、なかなか出版社に紹介しないという悪意。 自分本位で身勝手な人物像が描かれる。 また日高が盗作をしていたことがマスコミに知られ、遺族である妻の許へかかってくる悪戯電話、誹謗・中傷の手紙、はたまた野々口が受け取るべきだったと主張する野々口の親戚による訴え、これらも悪意と云えるだろう。 そして野々口の動機を調べるにあたり、加賀は彼と日高の学生時代に行われた「いじめ」に行き当たる。 直接暴力に訴える積極的ないじめもあれば無視して無関係性を装う消極的ないじめもある。さらにはいじめ仲間に加わらなければ自らがいじめられるということで加わるいじめもあれば、面白がって仲間になり、さほど罪悪感もなく加わるいじめもあったりと様々だ。 悪意が恐ろしいのはそれが当事者にはそれが悪意だと気づかずに行動の原動力となってしまうことだ。いやもしくは悪意、それと気付いていながらもその悪意の持つ悦楽のような物に酔わされ、止められない蠱惑的な魅力を備えていることだ。 しかしここに書かれた悪意はもうどうしようもない。この誕生を止めるのは小さな頃から負の感情を持たせず善意を養わなければならないだろう。 読後私はなんともやるせない気持ちになった。 このようにストーリーは読み応え抜群でしかも深い余韻を残す結末でありながらさらに本書がすごいのはミステリの技巧として優れていることだ。 いや文学の技巧としても優れているといった方が正しいかもしれない。 さらに加賀ファンにとっては加賀の教師時代の暗い過去が明かされることでも興味深いだろう。私も実に興味深く読んだ。警察官である父親に反発して教師になった加賀がなぜその職を辞したのかが本書では描かれる。 優秀な刑事としてまた優秀な探偵として、また人格者として描かれる加賀の弱さを知った。 昨今の高評価も頷ける、いやもっと高く評価されてもいい作品だ。最近増え続ける東野読者にも早く本書を読んで感想を聞かせてほしい。 私は上に書いたように大絶賛である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『不夜城』で衝撃のデビューを果たした元書評家坂東齢人氏こと馳星周氏。本書は彼の4作目に当たる作品。
今回も主人公のマーリオは日系3世のブラジル人で純粋な日本人ではない。鹿児島から移住してきた祖父太一の許で育てられ、厳しい教育と家督制度を叩き込まれ、そして激情家の太一の血を色濃く受け継いだ彼は日本人ともブラジル人ともどっちつかずの風貌、そして時折卑下したかのように呼ばれる“あいのこ”という言葉にどす黒い憎悪を抱き、押え切れない暴力的衝動を常に抱えている。 彼が行く所には屍の山が築かれ、そして彼に関わった人間は押しなべて不幸になる。胸に抱えたどす黒い憎悪、欲望が次第に肥大し、理性で押え切れなくなっていく。 彼の憎悪の根源は日本人なのに日本人として認められない血の呪いと彼を育てた日本人移民の祖父太一の存在だ。 彼の祖父佐伯太一は鹿児島からブラジルに移り、昔ながらの厳格な家長制度を重んじる男。彼が家族の全てであり、彼に従わない者は家族ではないという性格の持ち主。だから彼に歯向かう者には容赦はしない。そうやってマーリオの母と父は死に至った。 暴力は暴力を生む。これは昨今定説になっているがマーリオは祖父を憎むがゆえ、また彼もまた祖父と同じ性格になっていった。マーリオの行き着く先は闇。これはそんな真っ黒な物語。 そのマーリオが地獄への道行きを辿るきっかけが大金とヤク。それが本書のメインストーリー。 鬱屈した日常に嫌気が差したマーリオがひょんなことから漏れ聞いた関西のやくざと中国マフィアとのデカい取引の金を強奪し、あらゆる追手から逃げるというものなのだが、この強奪に至るまでが非常に長い。取引の情報を手に入れるのが49ページとストーリーの中でも非常に早い段階なのにもかかわらず、実際に実行に至るのは470ページあたりなのだ。 この間色んなしがらみに拘束されるマーリオの日常が描かれる。とにかく長い。 マーリオが犯罪に至るまでの心理を描くためなのかもしれないが、ストーリーには必要のない殺人やブラジルが日本に負けた腹いせに六本木のバーで勝利に浮かれる日本人サポーターたちを襲撃するシーンがあったりととにかく寄り道が多い。 しかしそれが退屈かと云われれば、そうではないと認めざるを得ない。文庫本にして770ページ弱の厚みを一気に読ませる求心力を持っている。 とにかく全編に亘って語られる内容は金とドラッグ、セックスと暴力の連続。憎悪と怒りの応酬だ。誰もがギラギラしており、誰かを利用しようと手ぐすね引いて待っている。 残忍かつ凶暴な性格で兄貴分すらコケにして憚らない伏見。恨みは絶対に忘れない中国人マフィアのコウ。その体と美貌を武器にして世間を上手く渡り、マーリオを虜にしていくデリヘル嬢のケイ。マーリオと同じブラジル移民であり、東京に住む外国人と強固なネットワークを持つリカルド。元極道で銃の密売でしのぎを削っている山田。荒んでいるマーリオの心や外国人たちの心を安らがせる歌声を持つ盲目の少女カーラ。他にもデリヘルクラブの社長有坂、極上のプロポーションを持つコロンビア娼婦のルシアなど一癖も二癖もある人物が己の欲望のため、または他者の企みに巻き込まれて翻弄され、入り乱れる。 この暗黒の群像劇を描く馳氏の筆致はものすごい熱量で読者の眼前に言葉を畳み掛け、叩き付ける。 いつの間にか時間を忘れ、ふと顔を挙げると大きく息を吐く自分に気付く。掌は汗をかいているのに指先は冷たくなっている。そんな魔力を秘めている。 だからこそ最後の物語の収束の仕方に不満が残る。 全てが上手くいくと見せかけ、やはり世の中そんなに甘くはないと思い知らせることがノワールなのか? “あいのこ”と呼ばれることを嫌悪し、そのたびに心にどす黒い憎悪をもたげさせながらもどうにか自制し、生きてきたマーリオの最期に全く美学がない。 こういうと「美学を求めるなら他の小説を読んでくれ。こちとらそんな小説は書きたくないんでね」と恐らく馳氏はそう嘯くことだろう。しかしやはりそこまでの物語と心をつかんで離さない文章があるだけに勿体なさを感じるのだ。 しかしこれもまた物語。しかし私が『不夜城』を読んだ時の違和感や不快感は本書でもまだ解消されなかった。 果たして私は馳氏のよき読者になれるのか。今後彼の作品を読むことで試してみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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女子プロゴルファー、リー・オフステッドシリーズ第2弾。前作第1作の9月の刊行から早々と2冊目が刊行された。
前作では“アーロン”エルキンズの作品という先入観があったため、妻のシャーロットのロマンス小説風味付けの濃さに戸惑った感があったが、今回は免疫が出来ていたこともあって、前作よりも物語の世界にすっと入ることができた。 今回の事件は憎まれ、殺したいと周囲に思われた人物が落雷に遭って事故死するが、実はそれは巧妙に仕組まれた殺人だったという物。そして第2の殺人として衆人環視の下で毒殺が行われる。 いずれも本格ミステリ的不可能趣味に溢れている謎なのだが、このシリーズの特色はそこにはない。 アーロン・エルキンズ作品の特徴である、特定の人物で形成されるコミュニティの中で嫌われ者である人物が事故に見せかけて殺される、もしくは明らかに何者かによって殺される状況が生まれ、関係者の誰もが一応の動機を持っている手法が本書でも採られている。 そして忘れてならないエルキンズの長所が魅力あるキャラクター。今回も前作から引き続いて登場のペグを筆頭にコットンウッド・クリーク・ゴルフコース理事の面々の個性的なこと。相変わらず実に読んでいて心地よいコージー・ミステリだ。 そんなミステリだからトリック云々を議論するよりもコミュニティの中で誰が一番動機を持ち、また機会があったかについてリーとグレアムの議論は費やされる。ここら辺は堅苦しいロジックのやり取りではなく、まさに好奇心旺盛なカップルが事件についてあれやこれや話し合うといったようなトークの趣があり、和やかだ。 特に第2の殺人については不特定多数の人がいる中でどうやって被害者だけに毒を飲ますことができたか?などということは一切語られず、誰が被害者を殺す動機があったかについてしか語られない。これがエルキンズの作風なのだと初めて本書を手にした本格ミステリファンは理解しなければならないことをここでは述べておこう。 2作目にして地方の警察官であったグレアムとツアープロであるリーの恋が成就するには困難なシチュエーションだったのが一気に解消される。この辺は実にご都合主義的な感じがするが、ロマンスミステリなんてものはこんなものだろう。 こういう風に書いているが、たまにはこんな夢物語的なミステリも読みたいのだ。 ただ主人公リー・オフステッドの風変わりな経歴―元米国陸軍所属―が単に奇抜さだけでしかなく、十分に活かされていないのが難だが、これもシリーズを重ねるにつれて持ち味が出てくることを期待している。 エルキンズのスケルトン探偵ギデオン・オリヴァー物の最新作を読みたいのが本音ではあるが、しばらくはこの夫妻の手によるこのシリーズでその渇きを癒すことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ第6作目。
今まで『エンプティー・チェア』以外は題名に殺し屋の名前が冠されていたが、本書では殺し屋トムソン・ボイドが現場に残した遺留品の1つ、タロットカードに由来している。タロットカードの12番目のカードとは、作品の表紙にもなっている「吊らされた男」だ。このカードの持つ意味はその絵から連想する苦しみや拷問などというネガティヴなものではなく、それら暴力や死とは無縁であること。つまり精神的な保留と待機を表している。 なぜこれが題名になったのか。それは最後まで読むと明らかになる。 今回の敵は通称“アベレージ・ジョー”と呼ばれる殺し屋トムソン・ボイド。その異名はあまりに平均的な風貌と平均的な人物が身に着ける服装、乗る車とあらゆる個性を殺した男だ。したがって目撃者はいるもののさして記憶に残らないという特徴を持つ。つまり特徴のないのが特徴なのだ。 前作『魔術師』の殺し屋のインパクトが強かっただけにこの“アベレージ・ジョー”はその設定もあって地味なのだが、今までの殺し屋と違い、彼には家庭があることが特徴だ。それは彼が刑務所での日々で無くしてしまった感情―作中では無感覚と書かれている―が恋人とその連れ子を養うことでをかつてのように取り戻す一助になるのではと考えているからだ。風貌や持ち物はごく普通でありながら職業、感情は普通ではない。彼は心底普通になりたがっている殺し屋と云える。 また物語の趣向もこれまでとは違っていることに気付く。今まではシリアルキラーがどんどん人を殺していくのをライムチームが追うという構成だったのだが、今回はジェニーヴァ・セトルという女子高生を殺し屋の手から守るという構成になっている。守る側のいつ敵が襲ってくるか解らない恐怖が今までのシリーズと違った読み所と云えよう。 さらになぜ一介の高校生ジェニーヴァが殺し屋に狙われるのか?その理由が1868年にジェニーヴァの祖先チャールズ・シングルトンが関わったある歴史的事件に関係しているのだ。つまり今回は通常のジェットコースターサスペンスに加え、歴史ミステリ的要素も加わっている。 そして今回はレギュラーメンバーのロン・セリットーがスランプに陥る。事情聴取中に目の前で人が殺されてしまったことでPTSDになってしまい、殺し屋“アベレージ・ジョー”の影に終始怯えながら捜査に携わり、恐怖のあまり誤ってアメリアを射殺してしまいそうになるくらいだ。今回このセリットーがいかに再生するかが物語のサイドストーリーとなっている。 『ボーン・コレクター』で登場したリンカーン・ライムは現代に甦ったシャーロック・ホームズだというのは世のミステリ書評家もそして作者自身も認めているのだが、今回それが改めて強く認識させられた。それは殺し屋トムソン・ボイドの前職について。 捜査を進めるにしたがってどんどん増えていくメモの記述。そこに明らかにヒントが隠されているのに全く気付かなかった。ボイド自身が語る刑務所生活で失っていった感覚、つまり無感覚の境地に陥った話も含め、実に素晴らしいミスディレクションだ。 またミスディレクションと云えばディーヴァーの語りならぬ“騙り”の上手さが今回も光る。 そんな読者を驚かすことに腐心したエンタテインメントに徹しながらも底流に強いメッセージが込められているのだから畏れ入る。 最後に至り、冒頭に書いた「吊るされた男」のカードの意味がじわじわと胸に迫ってくる。カードの意味は精神的な保留と待機。つまり機が熟するのを待ち、それに備えているという意味だ。 そしてその時が来たのだ。 さてもはやお馴染みとなった他作品のキャラクターのカメオ出演だが、今回は前作『魔術師』で登場したカーラと『悪魔の涙』で主役を務めたパーカー・キンケイドが登場する。 特にパーカーは前作『魔術師』に次いで二度目の登場。相変わらずほんの数ページでの客演に過ぎないが、やはりこういう演出は嬉しいものだ。このファンサービスは継続してほしいが、未訳のノンシリーズのキャラが出ていないか気になる。版元はノンシリーズもかつてのように訳出してほしい。 また作者もパーカーをこれほど気に入っているのならばカメオ出演という形ではなく、ライムとパーカーがコンビを組む作品を書いてもらいたいものだ。 リンカーン・ライムシリーズで一般的に人々の口に上るのは『ボーン・コレクター』、『コフィン・ダンサー』やこの前作である『魔術師』で、本書はどちらかといえば地味な印象を持った作品だ。 しかし読後の今、私の中では本書はシリーズの中でも上位になる作品となった。最後に訪れるリンカーンのある変化も含め、希望に満ち溢れた結末が余韻を残す。 まだまだ衰えないなぁ、このシリーズは。天晴、ディーヴァ―! ▼以下、ネタバレ感想 |
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作者エラリー・クイーンが収集した事件について紹介した作品集。1編あたりが10ページ未満ということもあってショートミステリ的な作風になっている。
まず第一部はクイーンが世界中を周遊して聞いた話について書かれた「国際事件簿」。 まさに奇妙な事件ばかりだ。南スペインでは美女を彫らせるといつも同じ顔になる入墨師の話が、日本ではあの有名な帝銀事件が、フランスのノルマンディーではパリ警視庁でその人ありと謳われたフォス警部が突然引退するに至った事件が語られ、アルゼンチンでは知られざる名探偵ディエゴ・ゴメス捜査部長の活躍に、ルーマニアではある詐欺事件の一部始終が、そしてアルジェリアでは新婚初夜の夫婦に降りかかった密室での新妻殺人事件の顛末が語られる。 さらにメキシコでは富豪の未亡人の殺人事件、インドでは呪いによって殺された青年の話、ユーゴスラヴィアではヴェリカ・キキンダという町で起こった連続盗難事件、エクアドルでは浮気妻が浮気相手と2人きりの時に部屋で射殺された事件、パリでは愛のため両目を失った青年の話が、フィリピンではフィリピンで闇取引の大物になった元アメリカ軍人の殺人事件に西オーストラリアでは砂漠で白骨死体で発見された白人の話、チェコスロバキアの浮気娘がかかった奇病の正体の話、モンテカルロではカジノのクルーピエ(ルーレット係)が起こした神がかった犯罪、と続く。 そしてモロッコで起きたフランス軍人とベルベル人の美女との悲恋のお話に、トルコでハーレムの一人になったアメリカ人女性の不審死、中国は上海にあるフランス租界で起きた心中事件の意外な真相が語られ、スペインのマドリードで起きた無政府主義者の女性闘士が起こした狂気の殺人、エルサレムでは今なお謎とされる発見された男女の死体の真相で閉じられる。 第二部はアメリカで起きた奇妙な事件について語られた「私の好きな犯罪実話」だ。 まず「テイラー事件」は数奇な人生を経て名監督となり、女優たちとの浮名を轟かせたウィリアム・デズモンド・テイラー殺人事件を扱った物。まだグレタ・ガルボも登場していないサイレント時代のハリウッドで起きた映画監督殺人事件。しかし何よりもこのテイラーという人物の人生もドラマティックなのだ。才能さえあれば富と栄光が得られるハリウッドが持つ狂気の魔手。これはまさにそれに絡め捕られ人生を狂わされた人々の物語だ。 次の「あるドン・ファンの死」は実に興味深い。何しろ作者クイーンがエラリー・クイーンシリーズを書くきっかけになった事件だというのだから。この社交界の雄ジョゼフ・ボウン・エルウェルが自宅で殺された事件はなんとS・S・ヴァン・ダインのデビュー作『ベンスン殺人事件』のモデルになった作品であり、『ベンスン殺人事件』を読んだある2人が後の作家エラリー・クイーンとなったというのだ。 また社交界で浮名を沸かせたエルウェルが死体で発見された時にはカツラを脱ぎ、入歯も外し、引き締まった体に見せるためにはめていたコルセットを外した単なるハゲで歯のないデブのオッサンだったらしい。これは後にあるクイーン作品に繋がっていて興味深い。 第二部はこの2作までで最終の第三部は女性の犯罪を扱った物。女性が犯罪者だったり、被害者だった事件が紹介されている。題して「事件の中の女」だ。 いつの世もいざとなれば女性の方が度胸が据わっているもの。この第三部に挙げられた女性の犯罪者の悪女ぶりは女性の本当の怖さが滲み出ている。 結婚詐欺師を逆に手足のように使い、2件の殺人をさせた女。 6度の結婚を繰り返し、自身の殺人を実の息子に擦り付けた母親。 自分たちの世界を守るため障害となる母親を殺した2人の少女。 愛する赤ん坊におもちゃを買うために連続強盗、警官殺しを引き起こした鬼子母神のような女。 その美しさゆえに恋敵を殺させてしまった女。 陰と陽の境遇と性格を備えた2人のルームメイト。 夢で殺人事件を知った女性。 自分の死を“見た”女。 連続殺人鬼の餌食になった女性たち。 妻殺しの加害者でありながらその夫に殺された女。 別の殺人のあおりを食らって毒入りウィスキーを飲んでしまった不運な女性。 夫殺しの容疑者でありながら裁判で無罪を勝ち得た挙句に天罰が下ったとしか思えない死に方をした美女。 男のあしらい方を間違えたがために命を失った“国民の恋人”と称された絶世の美女。 自分に逆らう嫁が憎いため息子たちに殺させた姑。 恋多き人生を送っていたが一転して一人の男に尽くし、嫉妬のあまり殺してしまった女。 次々と夫、子供を毒殺していく女。 これらのうち、ある者は理解でき、またある者は理解を超え、そしてある者は不幸としか思えない末路を辿っている。 これら3部で構成された本書で語られているのはおそらく実話だろう。そしてそのどれもが意外な真相なのだ。 最後の一行で読者に知らされる“最後の一撃”はまさに「事実は小説より奇なり」であることを思い知らされる。 本書に挙げられているのは19世紀の終わりから20世紀の半ばにかけての犯罪記録である。こういった記録は実際貴重である。 日本でも牧逸馬氏が同趣向の世界怪奇実話集を編んでいたが長らく絶版となっていた。それを島田荘司氏が精選して復刻させた。本書は今なお本屋で手に入るのだからまだ幸運だ。東京創元社の志の高さに感謝したい。 世界で起こったフィクションを凌駕する奇妙な事件の数々を集めた本書はその内容ゆえに読後感が決して良いわけではないが、歴史に残る犯罪記録として実に貴重な作品だ。 さらに本書が書かれた“その後”について触れられた解説は本書の事件の驚きをさらに補完してもう一度驚かせてくれる(特に母親を殺した2人の少女のその後は強烈だ!)。その存在の意義と価値、そしてここに収められた話の奇抜さと作者の簡潔にして冷静な叙述ぶりを高く評価しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野氏のダークな笑いが炸裂するユーモア短編集第2弾。今回もその筆の勢いは止まらない。
まず最初の作品は「誘拐天国」。 孫と遊ぶために狂言誘拐を計画する、という着想の妙も東野氏らしいが、さらう側の老人たちが大会社の元経営者で隠居の身というのがミソ。 身代金の1億円がはした金にしか見えないくらいの大富豪ぞろいで、ハイテクを駆使した誘拐騒動の顛末を徹底的にマンガチックに東野氏は語っていく。 次の「エンジェル」では核実験が盛んに行われた南太平洋の島で見つかった新種の生物エンジェルのお話。 一読星新一氏の作品のような味わいを残す。新生物の発見から社会に浸透しやがて起こる新たな社会問題に、最後の皮肉な結末とまさに星テイスト。 こんなのも書けるのが東野氏の芸達者なところだ。 「手作りマダム」は思わず「あるある!」と声を出したくなるような作品だ。 Yahoo!知恵袋の相談にも出てくるような話だ。 いわゆる社宅族たちの抱える問題。会社で地位のある方の奥さんが無類の世話好きだったというもの。善意と思ってやっているからこれがまた性質が悪い。人によっては他人事とは思えない話だろうなぁ。 「マニュアル警察」は題名から察せられるようにマニュアル化した警察のお話。 星新一の作品になんかこういうのがあったなぁ。これは題名からネタも解ってしまうし、実に東野氏らしい皮肉に満ちた内容。 確かこの頃マニュアル社会とかサラリーマン教師とか色々云われていたっけ。 「ホームアローンじいさん」もB級ネタで笑わせてくれる。 東野氏のB級路線が色濃く出た作品。そりゃあ教職に就いていた爺さんだってAVは見たいだろう。メカ音痴であるのがここではミソだろう。そしてそこへ空き巣の侵入を絡ませるあたりが上手い。 しかし男の哀しい性よのお。 マザコンというのが注目されたのがもしかしたらこの頃だったのか。「花婿人形」は全てを母親に仕切られて生きてきた男が結婚を迎える話。 極端な過保護で育てられた男が結婚式の段に母親に聞きたかったこととは?この謎で引っ張るのだが、これがホントしょうもないこと。 「女流作家」は思いもかけない展開を見せる。 妊娠になった女流作家が休筆するという当たり前な導入からSF的な展開になるのがミソ。 「殺意取扱説明書」も一風変わったお話。 殺人計画立案が書かれているわけでなく、殺意の醸成の仕方、殺人行為に至るまでの心構えなどを解説している取説という設定が面白い。 いざ殺る段になって躊躇する心理なども扱われていたりとケーススタディが事細かに書かれているあたりが理系作家東野氏の遊び心だといえよう。もう少し結末にパンチがあればよかったが。 「~笑小説」と書かれているが全てがユーモアの話ではない。中にはジーンとくる作品もある。次の「つぐない」がそれだ。 意外な導入部、ピアノレッスンの生徒が50のオッサンというギャグのような冒頭から最後はジーンとなる結末に持っていく東野氏の上手さが光る1編。 「栄光の証言」は会社でも冴えない男が殺人現場を目撃して、それを証言したがためにいきなり会社はもちろんご近所からも注目されるというお話。 普段誰からも注目されない男が一躍注目の的になるというのは気分がいいもの。ここに書かれているしつこく何度も同じ話を繰り返されることや、いつもしゃべることでどんどん肉付けがなされていき、いつの間にか想像のことを恰も見たかのように話してしまうというのもよくある。 最後のオチのしょうもなさといい、ショートフィルムに使われそうな作品だ。 「本格推理関連グッズ鑑定ショー」はその名から想像されるように「なんでも鑑定団」をパロッた作品。 東野氏の悪ふざけが横溢した作品。というよりもこの頃1996年から「なんでも鑑定団」ってやっていたのだなぁと感心してしまった。 単に番組のパロディに終始するわけではなく、逆にそれを素材にして意外な真相を導き出すというのがアクセントになっているがミステリとしてはあまり出来がよくないので、やはりこれはパロディを愉しむのが吉だろう。 しかし番組司会者の名前が黒田研二というのは何か意図があったのだろうか?また鑑定品が天下一大五郎の事件ゆかりの物というのが面白い。天下一大五郎は東野ワールドの影のシリーズキャラになりそうだ。 最後の「誘拐電話網」も実に東野氏らしい作品。 他人の誘拐児の身代金を要求されるというアイデアと学校や会社で使われる連絡網を組み合わせることで実に皮肉に満ちた作品になった。 東野氏の裏ライフワークと呼ばれている(?)ブラックユーモア短編集『~笑小説』シリーズの第2弾。 発表されたのは1996年。その頃の世相を反映していることもあってかネタ的には古さを感じる物もあった。 子供の「お受験」対策の過熱化する多くの習い事や社宅族にある上司の奥さんとの付き合いやマニュアル社会や母親の過保護のせいでロボット化するマザコン息子など。テーマとなった社会現象や当時のドラマが目に浮かぶようだ。 女流作家が題材となった作品は宮部みゆき氏や髙村薫氏ら女性作家の台頭や海外の女性ミステリ作家、いわゆる4Fブームが反映されているのだろうか。 『あの頃ぼくらはアホでした』で吹っ切れたかのようにお笑い路線でも才能を発揮した1作目の『怪笑小説』からさらにその路線はエスカレートし、なんだか子供じみたネタまで躊躇せずに開陳するところがすごい。 日常でありそうな事象を実に皮肉に、時に淡々と語る筆致はB級ギャグの応酬ともいえる。特にAVを観るために留守番を買って出るおじいさんなどは話としては脚色されているが、実際こんなジイサンいそうだな。かように慎ましく生きている庶民に訪れたある変化を面白おかしく綴っている。 ここで注意したいのはこれらお笑い小説を書きながらも手法はミステリのそれであること。シチュエーション・コメディやSF的な設定においても最後のオチにつながるのは意外な結末である。「 女流作家」や「つぐない」などはある謎が最後に明かされる(「花婿人形」もそれに当たる)。さらには「誘拐天国」や「誘拐電話網」など犯罪そのものの作品もその過程を愉しむことができる。 いわばお笑いのオチとはミステリの謎解きにつながるものがあるのだ。 余談だが、この短編集は誘拐で始まり、誘拐で終わっている。ミステリ読者を笑いの世界へさらっていき、最後にまた笑いの世界からさらわれたという隠喩と考えるのは…さすがに穿ちすぎか。 特に国民的ベストセラー作家になった今でも『歪笑小説』と最新作を出すのだから作者の芯は全くぶれていないと云っていいだろう。それは全ての作品が絶版されていないことからも窺える。 ふつうここまで売れっ子になると過去の出来の悪い作品などは封印してしまうのだが、東野氏は全ての作品に全力投球していると公言しているからそういうことは全くしない。素晴らしいことだ。 東野作品を読む方はその作者の心意気をきちんと汲み取るべきだろう。 とはいえあまり難しいことを考えて読むのもまた作者の意図には反するだろう。本書はその名の通り毒のある笑いを何も考えずに愉しむことが正しい読み方だろう。 決して名作とか傑作とか評されることのない短編集だが、こういうのがあってもいいではないか。これもやはり東野圭吾氏なのだから。 次の『黒笑小説』も楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人生の酸いも甘いも経験した大人たちを書かせたら一級品の作者による初の短編集。
開巻の1本目は「アメリカン・ルーレット」。 元相場師で今作家というおよそ作者自身を投影したような主人公。ここに書かれているバブル時代に合った高額金を賭け合う秘密の麻雀クラブは作者自身が経験したことだろう(しかし時効になっているのかな?)。 相変わらず気障な台詞回しが気になるが読み心地は悪くない。 「イヴの贈り物」は大手商事会社の部長である主人公戸辺と若い娘との交流の話だ。 亡き娘の代わりとばかりに可愛がる女性と大手企業で働く男の交流を描いた作品と思わせて、後半はガンに侵され余命幾許もない男の復讐の話へと展開する意外な物語運びが印象に残る。 戸辺と恵子の交流は男にとって理想的な関係であるのだが、結局借金で高利貸しから風俗で働くことを余儀なくされた恵子の境遇を知らずに父親代わりにと振舞っていた男のエゴに過ぎないことが解るところが、男の身には抓まされる思いがする。末期のガンが発覚し、退職してまで恵子をレイプし、死に至らしめた男に立ち向かう姿も、女性の目から見れば単なる自己満足の世界に過ぎないのかもしれないがこういう話は結構好きだ。 クリスマス・ストーリーにまた名作が誕生した。 続く表題作はこれまた泣ける1作だ。 時折挿入されるナミカジキら三人のエピソードが眩しい。まだ無限の可能性を秘め、何をやるのも無敵感を感じていた若いエネルギーが溢れてくる。 白川氏の筆致は決して起伏に富んだものではなく、むしろあふれ出るエネルギーを抑制するかのように淡々と語るのだが、それでもなお彼ら彼女らの青春は太陽のごとき眩しさを備えている。 その眩しさがあるからこそ並木、その妹理絵、そして梶らの「今」が痛切に響いてくる。 「浜のリリー」も切ない。 法月のリリーと過ごした日々の回想が良くて、とても読んでいて心地よい。愛媛に住んでいた私にとって舞台が松山だったのもその一因かもしれない。都落ちの気分で東京から愛媛へ異動になった当時の主人公の心情も今月で東京から異動になった私の境遇と似たものがあり、さらに仕事は建築関係とのことでますます親近感が湧く。 そんな彼がフラッと入った高級クラブで出会った一人の女性がリリー。横浜のクラブで歌姫として鳴らしていた彼女の歌をここで聴いた者は誰もいない。必然の如く法月とリリーは付き合うようになっていく。 15年後突然のリリーの夫から呼び出しに抱える法月の不安。そしてやはり訪れる哀しみ。とても切ない。そして都落ちした法月のように私もこの地でリリーが見つかるのだろうか。そんな気持ちにさせられる一編だ。 最後の「星が降る」も切ない物語だ。 これも愛する者を死に追いやった者への復讐の物語。復讐の相手がノミ屋で復讐の方法が巨額の賭け金による多額の損失というのがいかにも白川氏らしい。 ただなぜかこの手のギャンブルや株といった自分のフィールドの話になると結末をぼやかした終わり方をしてしまうのだろうか?闇麻雀の世界を扱った「アメリカン・ルーレット」もそうだったが、株やギャンブルの世界の結果を書くといかにも作り物っぽいと思う作者の照れなのかもしれない。 実際にその世界に身を置いた人にはこんなドラマチックなことはそうそう起こることはない、と嘯いているのかも。 全5編。とにかく胸を打つ短編集だ。主人公や登場人物たちはどれも40代以上。そう、もはや限られた未来しか残されていない人々だ。 人生も半ばまで来た男と女たちの何かを諦めた思いが行間から伝わるのが非常に心に染み渡る。全てが丸く収まることはなく、良しとなるにはお互いが何かしらの痛みを伴わなければならない。理想に描いていた未来とは違った人生だがそれでも一生懸命に明日を生きる。夢とか理想とかそんなものではなく、生きていくために現状に甘んじ、しがみつく。 そんな人間たちの物語が本書には収められている。 若い頃に読んでいたならばこの作品の味はこれほどまでに深く心に染み込まなかっただろう。私も齢四十を過ぎた今だからこそ、そうこの物語の登場人物たちの年齢に近づいたからこそ胸に響く音ははるかに大きくなっている。 それは過去との対峙がどの作品にもあるからだ。前述したように今を生きることに体と心が馴れてしまった4、50代の男女に訪れる報せ。それは若かりし頃に付き合い、愛を交わした、もしくはバカをやって楽しく暮らしていた記憶を思い起こさせる。そのどれもが美しいからこそ胸にこみ上げてくる物がある。 そのこみ上げてくる物とはやはり喪失感だろう。 若い頃はこんな楽しく、またお互いを愛しむ日々が永遠に続くと思っていた。が、しかし今ではそう思っていた彼らとは疎遠になってしまい、日々の生活を送るだけになってしまっている。そして4、50代にもなると訪れるのが体への変調。死につながる病だったり、一生抱えていかねばならない病だったりする。そんな現実があるからこそ喪失感もまた否が応にも増すのだ。 そして人生を重ねたからこそ気付かされる人と人との思いもここにはある。特に良かれと思ってしたことが逆に相手にとって重荷になってしまう、愛しているからこそ、思い切り生きさせてやりたい、そのためなら自分とは違う相手と愛を重ねても構わない、などという若い頃には想像もできないような人と人との交わり方が白川氏の豊かな人生経験に裏打ちされた感情論が登場人物たちの口から繰り出される。 思わず頷いたことが何度あっただろう。 闇麻雀の話の「アメリカン・ルーレット」が巻頭を飾り、ノミ屋の競輪を扱った「星が降る」で幕を閉じるのは、切った張ったの世界で生きてきた白川氏の矜持かもしれないが、ギャンブルだけの話ではなく、先に書いた人生の折り返し地点に差し掛かった人々の人情譚の物語だ。 私が特に好きなのは「浜のリリー」だ。こんな話が私は読みたかった。 昭和の香りがするといえばそれまでだが、読み終わった後、暗い部屋でアルコールを片手にじっと浸りたくなる、大人の小説集。その味は一級であることを保証しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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創元推理文庫から訥々と刊行されていたドイル短編集もこれで5冊目。どうやら本書で最後になるようだ。
まず冒頭は表題作から。 産業革命喧しい19世紀末に書かれた似非化学を材に採り、もっともらしい錬金方法を発明した無尽蔵の富を誇る男を巡ってそれまで貧しいながらも慎ましく暮らし、いつか生活が良くなるだろうと夢を抱いていた片田舎の人々が彼の登場で狂っていく。その様子をマッキンタイア家を物語の軸として描いたペシミスティックな結末が印象的な作品。 画家で大成することを目指していたロバート・マッキンタイアはその誠実さを買われながらもラッフルズの富を目の当りにして自分の人生に次第に意味を失っていくし、ラッフルズに見初められたロバートの妹ローラは婚約者がいるのにも関らずラッフルズの富に目が眩み、婚約破棄をしようとし、彼らの父は事業に失敗していたが今なお再起を狙っており、ラッフルズの富をその足がかりにしようと虎視眈々と狙っている。 これは恐らく産業革命で爆発的な富を得た人と逆に失った人が実際にいたことから生まれた作品なのだろう。物語としてはファンタジーだが、ここには当時の“狂気の19世紀”という誰もが一山当てようと躍起になっていた世情が鮮明に描かれている。 続く「体外遊離実験」は今でもよく題材として使われる人格交換物の一編。 幽体離脱した霊魂が戻った先は逆の肉体だったという今ではよくある話だが、発表当時の1885年ではかなりぶっ飛んだ話だったのではないだろうか?もしかしたら人格すり替わり物の原型だったのかも? この話の面白味はそれぞれ霊魂がすり替わったことに気付かずにお互いの生活をするところ。しかし実験が終わった時点で相手を見て気づきそうなものだけれど、そこは目を瞑るべきなんだろうな。 「ロスアミゴスの大失策」は電気による処刑を実施したところ、死刑囚は死なずに逆に不死身の肉体を得てしまうという似非科学物。 当時まだ電気による死刑方法がそれほど知られてなかったからこその1編か。おそらく着想の素になったのはメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』からではないだろうか?電気ショックによって甦った死体から作られた不死身の人造人間が不死の肉体を持つ死刑囚と非常に設定が近似している。この短編が1892年の作品で『フランケンシュタイン』が1818年の作品だから年代的にも合う。ただしシェリーがホラーなのに対し、コミカルな作品にしているのがドイルの味付けの上手さだろう。 「ブラウン・ペリコード発動機」は新発明を巡る技術者二人の争いを描いたもの。 これも産業革命で発明が盛んになっている当時の世相を表した作品と云えるだろう。共同開発者のうちのどちらかが功績を我が物にしようと相手を出し抜いて特許出願するなんてことは日常茶飯事だったのかもしれない。 「昇降機」は奇妙な味わいを残す。 人間というものはその思考が環境に左右されることは今ではよく知られているが、これも昇降機のメンテナンスをすることで高所へ行き来するうちに地上の人間がちっぽけな存在に見え、自分を神と近い者、神の言葉の代弁者だと思い込んでしまった男が起こす狂った所業を扱っている。 おそらくはこの作品には高さを競い合うように高層の建造物を建てている当時の流行を見て、ドイルが神への冒瀆ではないかと警鐘を鳴らしているのが裏のテーマかもしれない。 女の嫉妬も怖いが、男の嫉妬もかなり怖いと思わされるのがこの「シニョール・ランベルトの引退」だ。 黙々と発声法に関する論文を読み、医者に質問し、浮気相手を前に医療器具を出していくスパーターの様子が不気味で話としては単純だが印象に残る。 「新発見の地下墓地」は仲の良い2名の考古学者が一方が発見した新しい地下墓地を見に行くことになるのだが…というお話。 特に何気ない冒頭の会話が復讐者が自身で発見した地下墓地に友人の考古学者を案内するという動機に繋がっていたのが判明するところにカタルシスを感じた。結末の皮肉さといい、短いながらも上手さが光る好編。 最後の「危険!」はヨーロッパの小国がいかにしてイギリスの艦隊を破ったかを語った話。その作戦の中心人物ジョン・シリアス大佐の秘策とはイギリスに航行する食糧貨物船をことごとく潜水艦にて撃沈させることだった。つまりはイギリス国内を兵糧攻めにして内部から疲弊させてしまおうという作戦なのだ。 しかしこの作戦の内容は早いうちから明かされており、あとは延々とその戦いと終戦までの顛末が語られる。馴れない海洋小説ということもあって特に興趣をそそられなかったのが残念だ。 一読した印象は古き懐かしい古典の名品ともいうべき短編集だ。 本書では科学や学問をテーマにした作品が多いのが特徴だ。錬金術に心霊学、電気工学に機械工学、考古学など。学問そのものをテーマにしたものもあれば、学問を巡る人物たちの浅ましさを描いたものもある。 学問そのものをテーマにしたものは押しなべてコミカルなファースになっており、学問を巡る人々を描いた作品は悲劇やホラーといった負の味付けがなされているのが興味深い。 前者でいえば幽体離脱した霊魂がすり替わることで起こる様々なアクシデントを描いた「体外遊離実験」、強大な電気ショックを与えることで不死身の肉体を得た死刑囚を描いた「ロスアミゴスの大失策」などが該当し、後者でいえば無尽蔵の富を生み出す錬金術を目の当たりにした街の人々が堕落していく様を描いた表題作を筆頭に新発明の特許を奪い合う2人の技術者の話である「ブラウン・ペリコード発動機」、昇降機のメンテナンスを請け負っていた男がいつしか万能神と自らを思い込むようになった男の狂気を描いた「昇降機」、そして「新発見の地下墓地」では親友同士の考古学者が片割れが持つ密やかな復讐心が語られる。 これらはやはり産業革命によって劇的に変化した当時の社会情勢が人心へ招いた異様な熱気と狂気がこの作品群には込められているように思えてならない。アイデア一つで誰しもが一攫千金を手にできた時代。だからこそ誰しもが相手を出し抜こうと躍起になっていた。 そんな科学がもたらした社会の歪みを時には滑稽に、時には皮肉なまでに、そして時には陰湿に描いたのがこれらの作品群ではないだろうか? しかしドイルは実に幅広い作風を持った作家であることか。これまでに刊行されたドイル傑作集も今回で5冊目を数えるが、ドイルがホームズシリーズだけの作家でないことを知るのに実に充実したラインナップだったように思う。特に新潮文庫でも編まれたホームズシリーズ外の短編集に未収録の作品を多く読めたのが収穫であり、ホームズシリーズでは気付かなかったドイルの作家としての姿勢や彼のジョン・ブル魂、騎士道精神などが行間から窺えたのが大きな収穫だった。 本書でこのシリーズが最後だというのは非常に残念でならない。選者であった北原尚彦氏、西崎憲氏、そして影の編者藤原義也氏のきめ細やかな選出に拍手を贈りたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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再びのウェクスフォード主任警部シリーズ。縁あって神保町の古本屋で購入した3冊のレンデル作品のうち、2作がこのシリーズの作品となった。
しかし本書はこの前読んだ6作目『もはや死は存在しない』からずいぶん経った作品で11作目となる。この両作品との間には10年の隔たりがあり(『もはや死は存在しない』が1971年発表で本書は1981年の作品)、そのため作中時間の経過が見られる。 『もはや死は存在しない』のラストで亡き妻の妹グレースと結婚を匂わせる幕引きを見せたバーデンだったが本書で判明する再婚相手はジェニーという女性。 『もはや~』から本書に至るまでシリーズ作のうち『ひとたび人を殺さば』と『指に傷のある女』は既読なのだが、全く覚えてなく、どこで彼が再婚したか判らない。グレースとの関係がどうなったのか、『もはや~』の次作である『ひとたび~』で確認する必要があるな。 またウェクスフォードの娘シーラが女優として活躍しており、本書では彼女の結婚式のシーンが盛り込まれている。この娘が有名人という設定が前面に出されているせいか、本書に登場する主要人物はやたらと有名人が多い。 まず被害者のマニュエル・カマルグは有名なフルート奏者であり、莫大な遺産の持主。彼の友人フィリップ・コーリーもまた有名な作曲家であり、さらにその息子ブレーズは人気番組の司会者でもある。 イギリスの片田舎の町キングスマーカムに斯くも芸能人やら文化人が住んでいるというのも実に面白い話ではある。 さて本書のテーマは相続人の前に突如現れた音信不通だった近親者は果たして本人か否かという物。この手の話は古くからあり、例えばカーの『曲がった蝶番』とかがそうだろう。また財産目当ての悪女物となればカトリーヌ・アルレーの『わらの女』が有名だ。 あれが当事者の側から描いたものとすれば、これは捜査側から描いた悪女物と云えるだろう。 そして物語の展開として意外なのは高名なフルート奏者の遺した莫大な遺産をせしめようと周囲を騙し通そうとしたナタリーの素性からどんな手を使ってでも遺産を手中に入れるという悪女ぶりととっかえひっかえ男を換えては誑し込み、恐らく自分の望みを適える手伝いをすらさせていた当の本人が第2の被害者として見つかるところだ。 この辺のストーリーの切返し方は実に上手い。 そして本物か偽者かという二者択一でしか有り得ないシンプルな謎の真相が実に意外で、また実に納得の出来る物であることに驚きを感じた。 こういう状況って確かにあるよなぁと思わせ、それを謎に結びつけるレンデルの上手さ。恐らく作者は友人や知人らと交わす会話の中に同種のエピソードを聞くに及んでこのプロットを生んだのではないだろうか。 単に笑い話に終始しそうな話を膨らませて1冊のミステリを作ってしまうレンデル。さすが英国女流ミステリの女王だ。 今回はある種の先入観を持って聞き込みをすることの危うさを説いている。それは刑事の聞き込みだけではなく、我々日常生活においても同様だということだ。 あの人はあんな感じだからああではないかと思うと自分の見込みに都合のいい情報ばかりを選び、齟齬を感じる情報は例外や何かの間違いだと思いがちだ。実に腑に落ちる形で我々読者に投げかけてくれる。 レンデルの作品は必ずしもページを繰る手が止まらないほどのエンタテインメント性・サスペンス性を備えているとは云えない。寧ろ単純な謎に対するアプローチが長く、やきもきする方もあるだろう。 しかしやはり最後の真相を聞くとそれまでのモヤモヤが雲散霧消する爽快感が得られる。だからレンデルは止められない。 絶版した作品や未文庫化の作品が多いのはなんとも残念なこと。さらに未訳作品も多いのはなんとも嘆かわしい。海外ミステリの出版状況が厳しいのは判るが、版元は最後まで責任を持って出版してほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ディーヴァーによる初の歴史小説。舞台は第二次世界大戦前のドイツ。台頭してきたヒトラーの頭脳とも云えるラインハルト・エルンスト暗殺を命じられる殺し屋の物語だ。
リンカーン・ライムシリーズとは違い、最初から目くるめくサスペンスの応酬といった物語運びではなく、主人公ポール・シューマンがひょんなことから任務に就くことを余儀なくされ、ドイツに潜入して現地工作員と落ち合い、標的の暗殺計画を練り、実行に至るまでのプロセスがじっくりと描かれていく。 もちろん稀代のストーリー・メーカーのディーヴァーのこと、ただ単純に経過を辿るのではなく、いきなりナチスの突撃隊員殺害というアクシデントが盛り込まれ、なかなか容易に物事が運ばないようになっている。 それはポールという謎めいた男を追うクルポ(ドイツ刑事警察)の凄腕刑事ヴィリ・コールが徐々に追い詰め、いつもあと一歩というところですり抜けるスリルを生み出している。 この物語運びから私は読んでいる途中、しばしば想起されたのはバー=ゾウハーの作品だ。ギリギリのところで捕まらない、他国へ潜入した者の緊張感は彼の作品に通ずるものを感じた。 しかしこのナチス統治下のドイツの緊張感とはなんと恐ろしいものか。学生たちはヒトラーの信奉者集団であるヒトラー・ユーゲントに入ることを強いられる。それは名目上は自由参加なのだが、非加入者は加入者からユダヤ人呼ばわりされ、蔑まされるのだ。そんな上下関係を打破する為に子供達が誰かを告発しようと考える異常な状況。 ゲシュタポやSDが平気で盗聴器を各家庭に仕掛け、不穏な会話をすればすぐさま逮捕され収容所に連れて行かれる。そのため市民は夜中にノックされればゲシュタポやSDではないかと恐怖に慄くのだ。 さらに近所の気のいいおばさんが実は反政府分子ではないかと疑いをかけ、笑顔で挨拶をしながらもその実いつも監視をしており、確信に至るやSDに通報して逮捕させたり、仕事の同僚や部下だと思っていたら実はゲシュタポのスパイだったり、そして最後の明かされる「ヴァルタム研究」の悪魔のような内容―偽りの理由でアーリア人以外のドイツ在住民や反政府分子を集め、それを虐殺する様を見せる兵士の心理状況を観察して軍事情報とする研究―と、まさに題名どおりナチス統治下のドイツは「獣たちの庭園」なのだ。 しかし本当の題名の意味は舞台となるドイツにある「ティーアガルテン」から採られている。これはそのまま原題の"Garden Of Beasts"の意であり、帝政ドイツ時代の王族が狩りをした場所という由来があるのだが、勿論この言葉には別の意味もあり、ポールが潜伏している下宿屋の女将ケーテ・リヒターの恋人がかつて突撃隊に殺された場所でもある。つまり動物を表す「ティーア」には暴漢、罪人という意味もあるのだ。 しかしそれ以上にやはり私はこの題名には上に書いた作品の舞台となっている戦時下のドイツそのものを指しているように思う。 いつもはジェットコースターサスペンスの如く、ページを捲る手が止まらない物語運びをみせるディーヴァーだが、本書では実にじっくりと語り、ポール・シューマンが標的ラインハルト・エルンストを暗殺するまでのプロセスを描いていく。 派手さに欠けるものの、ディーヴァーならではのどんでん返しもあり、最後のポールの決断ともう一人の主役ヴィリの決断はなかなか渋さを感じる。ディーヴァーはこんなものも書けるのだなぁと思った次第。 ジェフリー・ディーヴァーという作者名からいつもの作風を期待すると肩透かしを食らうかもしれないがこれもまたディーヴァーなのだ。 暗殺者と標的、そしてそれを追う者の攻防に焦点を当てず、敢えてナチス統治下のドイツを克明に描くことを選択したディーヴァーの意図を是非とも汲み取ってもらいたい作品だ。 |
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あえて犯人が誰かを書かない本格ミステリという野心的な作品である本書は発表当時非常に話題になったものだ。
これは『名探偵の掟』にも登場人物の口から語られていた 「本当に推理しながらミステリを読む読者なんているのか?」 という疑問を解き明かす為に東野氏が読者に挑んだ作品なのだ。 その昔からもエラリイ・クイーンに代表される「読者への挑戦状」という形式で読者との知的ゲームを演出していたが、本書のように真相すらも読者の推理次第で変わるという風に徹底したのは初めて。 しかしそれを成立させる為には読者が真相を解明できるためのヒントは全て開示しなければならないというリスクも発生する。つまり東野氏もまた挑戦者でもあるのだ。 殺人事件の容疑者は2人というシンプルな設定も意気込みを感じる。エラリイ・クイーンも後期は登場人物がどんどん少なくなっていったが、本書はさらにその上を行くシンプルさ。 しかしそれだけでは終わらない。妹和泉園子の仇を討つために兄康正が現場を自殺に見せかけてまで、自身で犯人を捉え、復讐を企む相手に疑問を投げかける加賀。つまり本書はどちらも犯人を捕まえる目的でありながら、自殺に見せかけようとする康正と他殺の線がどうしても拭いきれない加賀との、警官同士の一騎打ちという構図もまた現れる。 やはり東野圭吾はただの推理小説は書かないのだ。 さすがに真相が語られないとなると読書も通常よりも緊張感が増すように感じられる。元々私は推理をしながら読む方なのだが、それでさえなおそう感じる。まあ、推理しながら読むといいながらもその勝率はかなり低いのだから、仕方がないのだが。 さらに感心したのは犯人が誰かを明かさないという読者を突き放した結末でありながらも欲求不満を感じるものではなく、きちんと小説としての結末が成されていることだ。妹を殺され、佃潤一と弓場佳世子の前に立ちふさがる和泉康正の復讐とそれを阻止せんと奮闘する加賀との対決が物語の読みどころになっているところが素晴らしい。 最後に容疑者2人と康正と加賀が犯行現場の園子の部屋で一堂に会して繰り広げるサスペンスフルなやり取りは非常にスリリングで読み応えがある。しかもそこで語られる内容が犯人を特定する重要なヒントになっているのだから読書にも熱が入るのだ。 しかしかような本格ミステリに特化した物語でありながら、東野氏の数少ないシリーズキャラクター加賀恭一郎の存在感が更に厚みを増したように感じる。ディック・フランシスの競馬シリーズでいうならば、東野作品のシッド・ハレーというと云い過ぎだろうか? また改めて本格ミステリが読者との知的ゲームであることを再認識させてくれた東野氏に感謝したい。本当にミステリは当っても外れても面白い。それが作者の挑戦に真っ向から勝負したとあっては尚更である。同趣向の『私が彼を殺した』では是非ともリベンジを果たしたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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神保町の古本屋で手に入れた久々のレンデル作品はウェクスフォード主任警部シリーズの1つだった。
シリーズ6作目であり、1作目の『薔薇の殺意』を除いて連続してシリーズを読むことになり、また幸運にもこの後の作品『ひとたび人を殺さば』に至るシリーズの空隙を埋めることになった。 今回の事件は失踪事件もしくは誘拐事件だ。12歳の少女と5歳の男児の行方不明事件をウェクスフォード警部が捜査するという構成だが、物語の主軸は寧ろウェクスフォードの部下マイク・バーデンにあるといっていいだろう。 愛する妻ジーンをクリスマスに喪い、失意のどん底にいた彼の目の前に現れたのが失踪した息子を探してほしいと請う女性ジェンマ・ロレンス。母子家庭で一人息子のジョンを育てていた彼女の事件を担当するマイクは次第に彼女に惹かれていくのだ。 一方で亡きジーンの代わりに息子と娘の世話を義妹のグレースに頼みながら、ジーンの思い出に浸って家庭を顧みない一面を見せる。そんな態度に憤りを覚えずにはいられないグレース。彼女は家事を完璧にこなした亡き姉の存在からの見えないプレッシャーもあり、バーデンのサポートを待ち望んでいる。 ジェンマとグレースに対する感情に揺れ動くバーデンは、亡き妻の埋め合わせをどちらに求めるべきか思い惑う。時にはエキセントリックなジェンマに惹かれ、時には亡きジーンの面影を見出し、彼女に代わって家庭を切り盛りするグレースこそ理想の妻と考えもするが、情緒不安定な時期にある彼は鉄のように熱しやすく冷めやすいその感情にほだされ、シーソーのようにどちらに傾いては引いていく。 そんなバーデンに振り回されるグレースの存在が切ない。かつては有能な看護婦として自立していた女性だった彼女が姉の死によって義兄の子供達の世話をするようになった。当初は半年ぐらいの予定だったがそれがどんどん延びていき、今では職場復帰することは諦めてさえいる。そんな彼女がほしいのはバーデンが少しでも家庭を顧み、そして労いの言葉をかけてくれることだ。 しかしそれがバーデンには伝わらず、お互いが誤解を生み、すれ違っていく。この辺の感情の機微が生む男女の齟齬を書かせるとレンデルは抜群に上手い。 さらにバーデンはジェンマの魅力とセックスの快楽に溺れ、ジェンマに結婚を申し込む。さらには失踪しているジェンマの息子がこのまま見つからなければいいとさえ願うようになる。 ウェクスフォードの良き片腕だった彼の凋落ぶりには同じ男として情けないものを感じてしまった。 また今回の子供の失踪事件がウェクスフォードやバーデンの心に翳を落とし、町の人々たちがわが子を肌身離さずに買い物に行ったり、雨天の日には迎えに行ったりしている光景を見て、我々警察の仕事というのは一体何なのかと自問する。 さらに失踪した娘のことはもはや眼中になく、恋人同士の思いに戻ったステラの両親アイヴァーとロザリンドのスワン夫妻の歪んだ感情など、こういう点描を紡いで事件から波及する現代社会の問題を浮かび上がらせるところはただ単純にミステリを書いているわけではないというレンデルの作家としてのプライドだろう。 物語の焦点はやがてジェンマの息子の失踪からステラの死体が見つかったことからステラの失踪事件の方にシフトしていく。そしてステラ殺害の犯人は実に意外な人物なのだが、今までの物語で語られてきたエピソードの数々がパズルのように当て嵌まって事件の構図を描き出す。イギリス本格の構成の妙味を感じさせ、久々に爽快感を味わった。 物語、そしてミステリとしてもやはりレンデルの上手さは感じたが、納得のいかない部分もあったので評価は7ツ星としておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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リンカーン・ライムシリーズ第5作の本書はシリーズの中でも1,2を争う傑作だという下馬評が書評家のみならずネット読書家からも漏れ聞えて来ていたのでものすごい期待値が高い状態で読み始めた。
今回の敵は題名どおり“魔術師”。英語ではイリュージョニストと呼ばれているが、日本では手品師というのが一般的だろう。 しかし早変わり、クロースアップマジック、読心術、腹話術、動物のトリックにピッキング、さらには脱出マジックなどの細かで繊細な物から大掛かりな物まで全てをこなすオールマイティのマジシャンだ。 とにかく今までと違うのは犯人である魔術師ことマレリックが殺害の途中に警官たちに囲まれてしまうところだ。それにもかかわらず逮捕の寸前まで行きながらも逃れてしまうのだ。この顛末が非常にスリリング。 手錠を掛けようとすればフラッシュコットンを使って閃光で目眩ましをして逃れたり、腹話術や目線などで気を逸らせたりと、マジックの手法を巧みに利用して捕まらないのだ。さらには手錠を掛けても脱出トリックで解錠技術に長けたマレリックにしてみれば一瞬に解除出来てしまうからすぐに逃れてしまう。まさに最強の殺人犯なのだ。 毎回その作品でスゴイ!と唸らされる連続殺人鬼を生み出すディーヴァーだが、今回も今までの作品の更に上に行く犯人を送り出してきた。いやはやホントこの作家のアイデアの豊富さには畏れ入る。 原題は“The Vanished Man”。「消された男」だ。つまり見事に他人になりきることでその存在自体を消し去る男のことを云っている。まさに変幻自在の殺人鬼「魔術師」に相応しいタイトルだ。 この魔術師に絡めてカルト集団「愛国同盟」の指導者アンドリュー・コンスタブルの手下によるチャールズ・グレイディ検事補の暗殺計画が並行して語られる。 この2つの事件はやがて複雑に絡み合うのだが、とにかく二転三転するストーリー展開に読者は何が真意なのか、そして誰が魔術師なのか疑心暗鬼に陥ってしまう。 しかしよくよく考えると今回もディーヴァーが創案した魔術師は実は日本のミステリ読者ならば誰もが一度は読んだことがある古典的な名シリーズを思い浮かべるだろう。そう、江戸川乱歩の『怪人二十面相』シリーズだ。 しかし西洋人であるディーヴァーならばやはりここは同じく変装の名人怪盗ルパンがモチーフであるのだろう。つまりディーヴァーは古くからある物語を現代のマジシャンの最新技術とライムの鑑識技術と装置とを使うことで新たなエンタテインメントを紡ぎだしているのだ。 まさに古き器に新しき酒を注いで現代に新たな本格ミステリを生み出すこのディーヴァーの着想の冴えにはただただ感服するばかりだ。 今までのシリーズと違うところはライムが何度も魔術師と対面するところだ。その都度ライムは推理を開陳し、戦いを挑む。しかし魔術師はその名の如く逮捕されるたびに誤導や手錠解錠、偽造死などマジックの技法を使って巧みに脱出を繰り返す。 さらに興味深かったのは魔術師が以前火を使ったイリュージョンの失敗で重度の火傷を負い、かつ妻を失った過去を持つことだ。それは捜査で事故に遭い、四肢麻痺に陥ったライムと似た者同士だということだ。 しかし一方は犯罪に走り、一方は正義の道に戻ったこの二人の対照が物語の陰と陽を象徴しており、なかなか考えさせられた。 また今回も他の作品からのカメオ出演があった。パーカー・キンケイド。『悪魔の涙』で主役を務めた文書検査士だ。この辺の演出はディーヴァーの他作品への売り上げを上げるためのコマーシャルなのだろうか。 しかしこれまでの作品の中で最高のどんでん返し度を誇ると著者が豪語した割には読めてしまったというのが正直な感想だ。つまり読者として作者の手筋が見えてきたのだろう。 ちょっと過剰にサーヴィスしすぎた感が無きにしも非ずだ。この辺は哀しいかな、シリーズのマンネリ化を防ぐが故に生じた弊害だろう。 逆にもっと意外なところで不意打ちを食らいたいものだ。そう、作者の企みに満ちた微笑が行間から見えるような不意打ちを。 個人的にはライムシリーズを映像化したような『CSI』シリーズや『ミッション:インポッシブル』などのドラマや映画に触れている小ネタにニヤリとしてしまった。これら実在のドラマや映画に触れるということは逆に作者自身も対抗意識を燃やしているという表れなのだろう。 期待値が高かったせいもあって、10ツ星献上というほどのサプライズは感じなかったが、サプライズよりも今回は魔術師とライムら捜査側の騙し合いの攻防が非常にスリリングで面白かった。 まだまだネタは尽きないディーヴァー。次も読むのが愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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犯人との推理合戦とでも云おうか、連続殺人事件を画策する「Y」なる人物とエラリイの推理の闘いという原点回帰の作品だ。
後期クイーン問題と現在でも称されているように、国名シリーズの後は探偵の存在意義について深く悩むエラリイの姿が作品のテーマになっており、そのためか純然たるパズラーとして読者との知恵比べを前面に押し出した知的ゲームの要素は成りを潜め、登場人物の家庭に潜む問題や人間関係の軋轢などを深く描き、事件は地味ながらも、人間の心がもたらす犯罪を扱っていた。 しかし本書では原点に立ち返ったかの如く、限定された土地に構えられた4つの城に先代の遺言に従って住まう一家の人間達に起きる殺人計画へのエラリイの挑戦という、犯人対探偵の図式を前面に押し出しているのだ。 舞台はヨーク・スクエアなるヨーク家の4つの城が四方に立ち並ぶ一角。そこに住まうそれぞれの城主たち、とおよそ20世紀とは思えない閉鎖的な空間と限られた登場人物たちで構成される、本格ミステリど真ん中な設定。そんな古典的な設定を敢えて晩年期のクイーンが持ち出したことに私の関心は向かってしまう。 しかしこの『Yの悲劇』との近似性は一体何だろうか? 題名にもなっている盤面の敵である匿名の犯人が使う名前はYだし、『Yの悲劇』で一番最初に死体で発見されたのはヨーク・ハッターならば本書の連続殺人の被害者はヨーク一族。そして何よりも両者とも示唆殺人であるところが一致している。 以前私は『Yの悲劇』の感想で「『Yの悲劇』はまだ終わらない」と締め括ったが、本書は舞台を変えた『続Yの悲劇』とも云えるのではないだろうか? 後期クイーン問題を経て、再び『Yの悲劇』の主題に立ち返ったと思われる本作。さて件の作品から約30年経って著されたのだが、そこに何かの発展があったかといえば確かにこの作品にはあるだろう。しかしそれは現代から見れば使い古された設定に過ぎない。 しかし新しい物は生まれた時点で廃れる運命にある。本書は当時の先進性ゆえに現在では逆に古さを感じる内容になってしまった哀しい作品であるのだ。 しかし本書をそれだけで論じてしまうのには早計だ。題名にあるようにクイーンならではの遊び心が横溢している。 チェスに見立てた登場人物設定と、「クイーン」という名が犯人と探偵とのチェス・ゲームにマッチしている妙味はやはり枯れてもクイーンかと思わせる発想の冴えを思わせる。 クイーンの諸作を発表順に読み続けている私はどうしても彼の過去の作品を対照化して考えてしまうため、そこに隠されている作者の意図を考えずにいられない。したがって前述のように本書は第二の『Yの悲劇』として意識して読んだきらいはある。それゆえ自分の中の期待値のハードルを挙げてしまったのだが、それを差し引いても本書が現代に残るべき作品なのか真相を読むだに疑問だ。 しかし作者クイーンがミステリに対していかに新たな血を注ごうかと精力的であったのは存分に窺える。本書を読む人はそんな背景も汲んで是非とも臨んでいただきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾氏が本格ミステリにありがちなお約束事やコードといったものを痛快に皮肉った名探偵天下一大五郎と大河原警部二人のシリーズ連作短編集。
密室殺人を皮肉った「密室宣言」。Whodunitでお決まりの意外な犯人像を探し当てる「意外な犯人」。「屋敷を孤立させる理由」は本格の王道「吹雪の山荘」の中で繰り広げられる殺人事件を追った物。「最後の一言」はダイイング・メッセージが、「アリバイ宣言」はその題名どおり、アリバイ崩しのミステリ。変わった趣向なのが『「花のOL湯煙温泉殺人事件」論』は二時間ドラマのシステムを踏襲した内容。「切断の理由」はバラバラ殺人事件の「なぜ犯人は死体をバラバラにしたのか」を解き明かす。 「トリックの正体」は作中ではそれを語ることでネタバレしてしまうと伏せられているがここでバラしてもたぶん大丈夫なので書いてしまおう。一人二役トリックを扱っている。そこでは小説が文字でしか読者に表現していないことを逆手に取ったギャグで最後は締められる。 「殺すなら今」は童謡殺人を扱っているが、その中身は便乗殺人である。東野氏の捻くれた物の考え方がうまくブレンドされ、特にタイトルの意味が解る最後の一行は秀逸。 「アンフェアの見本」はどんなトリックは書けない。しかし東野氏がある有名な作品に対して持っている考えが解ってしまった。 「禁句」は首なし死体を扱っているが、まさに禁句のオンパレード。死体に首がない時点で被害者が他人と入れ違っているのは当然だろうとか、特に最後の台詞―ご都合主義はトリック小説には付き物でしょ―は、それを云っちゃあおしまいだよというものだった。 「凶器の話」では消えた凶器の正体がテーマ。これはその凶器の正体よりも最後に判明した新事実を名探偵の推理を守るために警部がもみ消すところが最大の皮肉。 エピローグはシリーズキャラが犯人という意外性を扱っている。これは当時連載されていた推理漫画『金田一少年の事件簿』を皮肉ったものなのか。 そして最終エピソード「最後の選択」は西野刑吾というどこかで聞いたような名前の符号が所有する無人島に天下一含め10人の探偵が集い、連続殺人が起こるという話。それぞれの探偵が古今東西の名探偵を髣髴させるキャラであり、それぞれを辛らつに貶している。そしてタイトルにある「最後の選択」はシリーズ探偵の存在意義を問うもので、案外内容的には深い、かな? 本書はとにかく普通の短編集ではない。登場人物が小説世界にいながらにして途中でメタの存在となり、自らの置かされている状況について色々不満を述べ、時には作者を貶したりする。事件も通常のストーリーのようには展開せず、ミステリにありがちな手続きに関しては省略されるし、時には事件に直接関わりあいのない人物は男性Aだの女性Bだのと簡略化される。 そう、本書で語られるのは物語ではなく、本格ミステリという作り物の世界が抱える非現実的な設定や内容に対する揶揄や疑問のオンパレードなのだ。 しかしそれでも一応トリックはあるし、それなりにオリジナリティも感じられる。自分の知っている限り、他の作家のトリックをそのまま転用した物は見当たらなかった。 もともと東野氏はトリックを創出することに苦労はしないと云っているから、これは東野氏の数あるトリックネタの棚卸しなのでもあろう。 とにかく本格に対する揶揄の連発が非常に小気味良い。エッセイで東野氏のギャグと毒のある語り口は一躍有名になったが本書でもそれは健在。いわゆる本格ミステリのお約束とも云える暗黙のルールについて敢えて鋭いツッコミを入れることを辞さない。 これは東野氏の本格ミステリからの訣別の書なのか? いやいや逆に本格ミステリを愛するが故の提言と理解しよう。 なぜならこの後、東野氏は敢えて最後に犯人を明かさずに読者に推理をさせる実験的小説『どちらかが彼女を殺した』や『私が彼を殺した』といった野心的な本格ミステリを続けて書いているし、科学とトリックを融合させたガリレオシリーズも書いているからだ。 逆に云えば、ここには本格ミステリが抱える不自然さを敢えてこき下ろすことでその後の自作については決してそんな違和感を抱かせないぞと、ハードルを挙げているような感じさえ取れる。 本書における東野氏には、今まで作者自身が抱いていた違和感を忌憚なく語ることでふっきれた感さえ感じられる。 そしてこの作品を読んで「ああ、面白かった」で済ませてはならないだろう。これは東野氏が今までのミステリではもうダメだと明言しているのだから、今の本格ミステリ作家、これから本格ミステリを書く人たちは本書に書かれた示唆を踏まえてミステリを書かなければならない。 本書が刊行されたのが1996年6月。既に22年以上が経過しているが、果たして本格ミステリは変わっているだろうか? この“本格ミステリ啓発の書”は本書で終わらず、さらにもう一冊『名探偵の呪縛』が刊行されている。 そちらもまたどんな東野氏の皮肉と歪んだミステリ愛が語られているのか愉しみだ。 |
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あの名作『ゴールド・コースト』から18年。まさか続編が作られるとは思わなかった。期待と不安の入り混じった思いを抱きながら手に取った。
作品内の時間は前作から10年後の世界で9・11テロの9ヵ月後という設定。民族テロという色合いを持つこの事件がデミルに多大な影響を及ぼしているのは昨今の作品からも明らかだが、本書ではそれを上手く『ゴールド・コースト』の作品世界に絡ませている。 即ちワスプたちの世界であったゴールド・コースト一円にいきなりイタリアマフィアという異文化の人間が介入してきて弁護士夫婦の生活に変化をもたらしたのが前作なら、本書はさらにそこに政治的亡命者のイラン人資産家を加え、さらにかつての使用人だったインド人に終身居住権を持たせて単なる召使いという存在からジョンの生活に影響を与える存在に押し上げている。 今回も隣に引っ越してきたマフィアの息子アンソニー、そしてスタンホープ屋敷を除く一円を買い取った怪しげなイラン人アミール・ハシム、もちろん別れた妻スーザン。さらには永遠の宿敵で目の上のたんこぶであるスーザンの父親ウィリアムと帰米したジョンの周辺は何かと物騒で物々しい。 とにかく懐かしい面々が揃った物語は上下巻併せて1380ページという大書だが、全く飽きが来ない。全てのキャラクターに貌があり、全てのキャラクターに血肉が備わっている。 彼ら彼女らのアクの強い面々の織り成す物語は云わばデミル版『渡る世間は鬼ばかり』。ミステリのようでミステリでない、人間喜劇ともいうべき作品なのだ。 やはりこの物語の功績はジョン・サッターの一人称叙述にしたことだろう。 古くから住まうアメリカ高級貴族の生活を、NYで事務所を構える弁護士であり、それなりに身分の高い人物でありながら俗物根性が抜けないジョンの、ワイズクラックに満ち、権威を鼻で嗤い、持ち上げては突き落とすおちゃらけ振りが、一般人には理解しがたい高級階級の人たちの生活や考え方を荒唐無稽な非常識として我々に提供してくれている。 確かにジョンの減らず口の連打には冗長に過ぎるという感を抱く向きもあるだろう。厚さの割りには物語が進まない、長すぎる、という声は至極尤もだと私も思う。 しかしこの作品はその長さを愉しむのであり、ジョンの俗物根性と斜に構えた思考が繰り出す皮肉の数々を味わうのが正しい読み方なのだ。 私は逆にこの作品がこれだけの長さでよかったと思っている。上流社会のおかしさや体面を保つことを重視する面持ちをジョンの下らない洒落や愚痴を通じて長く愉しめるのだから。 そして今回ジョンの心に翳を落としているのは元妻スーザンと彼女が射殺したフランク・ベラローサの件だ。10年経った今、ゴールド・コーストの面々は一応の折り合いをつけ全ては終わったこととして振舞っているが、この地で10年の空白期間があるジョンにとっては彼らの変化を今一つ信用しきれなく、いつスーザンが報復されるのかが心配で堪らないのだ。 その実彼はなかなか彼女と会おうとしない。この妙な自尊心と騎士道精神の葛藤が面白いのだが、それがまたジョンの雄弁さを本書では助長しているような気がする。 しかしそれはスーザンと逢うと全く一変する。いい別れ方をしなかった元妻にどんな顔をして逢ったらいいのか判らなかったジョンだが、スーザンが今なお彼への愛に変化がないことを知ると、以前の如く、仲睦まじく魂と身体で通じ合った絶妙なコンビネーションを発揮するのだ。 この展開になるまで約360ページを費やす。1本の小説分の分量だ。これは確かに長すぎると思われても致し方ないか。 今回はスーザンとの復縁を成就する為に障害となるのが彼女の父親ウィリアム。とにかく彼は支配することを全てとし、彼が支配できないこと、人を忌み嫌う。その存在こそがジョン・サッターその人なのだ。 今回ウィリアムはスーザンが復縁すると彼女を遺産相続人のリストから外し、彼らの子供エドワードとキャロリンをも遺産相続人から外すと脅しをかけるのだ。この絶体絶命の窮地を実に意外な展開で一気に逆転するのが実に小気味よい。この辺はぜひ本書を当たってもらいたい。 そんな物語はやはりこれはミステリではないのでは?と思わせながらも、やはりマフィアの息子アンソニーの登場で実に緊迫したクライマックスが訪れる。 しかし1990年に書かれた作品の続編がなぜ18年後の2008年に書かれたのか。それはこの作品の設定された時間に答えがあると云えよう。 先にも書いたが本書の舞台は9・11の同時多発テロが起きた9ヵ月後。その後のアメリカ人、特にニューヨーカーたちの人生に対する考え方、死生観に変化が起きたことを今までデミルはジョン・コーリーシリーズを通じて語ってきた。 一日一日を大事にする者、家族との絆をより一層深める為に仕事の一線を退いた者、テロ発生の可能性が高い都会を離れた者、そして無力な政府に代わってイスラム社会へ神の鉄槌を下そうと画策する者、などなど。 作中ではジョンの息子エドワードが黒一色の服装をしているせいか、空港で別室に連れて行かれた、なんてことも書かれている。その変化は俗社会から一線を画した建国時代に栄華を誇った貴族階級の人間達が住まうニューヨーク郊外の「ゴールド・コースト」の住人たちにもテロによって何らかの変化が訪れたであろうことを書きたかったのだろう。 つまりこれはデミルが今後ライフワークとして取り組むであろう、「9・11によってアメリカに何が起きたのか」というテーマに沿った作品の一部であるのだ。 そしてやはり最後のアンソニーの襲撃もまた、個人レベルで起きたテロなのだ。そしてスーザンとジョンが取った行動には決してテロには屈してはいけないというメッセージが明示されている。 最後にスーザンがFBI捜査官マンクーゾに次のように語る。 「(前略)あの男はわたしたちを辱め、その後のわたしたちの人生を変えたいだけだったのよ」 「(前略)あの男はわたしたちの魂を殺そうとした……わたしにはそれが許せなかったの」 これは“あの男”をビン・ラディンと読むとデミルの9・11同時多発テロに対する怒りの主張に取れないだろうか? あのテロを経験したことで価値観や生活がガラリと変わってしまったことを肌身で感じながらも、結局ビン・ラディンは何をしたかったのかが見えてこない。そんな卑劣漢に対する彼の見方と怒りがここに現れているように感じる。 そしてそれを敢えて質さずに認めるマンクーゾもまたデミルの分身だろう。即ち大量破壊兵器があるという大義名分で現地に乗り込んだ当時の大統領ブッシュを支援しているかのようにも思える。 しかしそんな硬いことを考えずともこの作品は楽しめる。 特にスーザンと離婚後、ヨットで世界一周をし、ロンドンに住んでいたジョンやジョンを待って独身を通したスーザン、そして長年スタンホープ家に使えていたエセルらの人生で重ねた後悔への述懐などは我が身を摘まれる思いがする。 云うべき言葉を発しなかったことで人生が変わってしまった、云うべきことを云えなかったのは得てして人は希望よりも恐れを抱く傾向にあるからだ、云々。 なんとも含蓄溢れる人生への教訓ではないか。 読書前の心配は読後の今、全く以って杞憂に終わった。 ただもう少し物語はスリムに出来たかもしれない。ジョンとスーザンの生活に影響するはずだった存在アミール・ハシムがなんとも影が薄くなってしまったりと無駄な設定、エピソードも目立ったからだ。 それでもジョンとスーザンの魅力あるカップルに再び逢えたのは嬉しかった。もう恐らく彼らと逢うことはあるまい。 まだまだデミルからは目が離せない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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国名シリーズの後に書かれた3作は通称ハリウッド三部作と呼ばれているが、本書はその第一弾。ハリウッドに脚本家として呼ばれたはいい物の、特に催促もないので時間を持て余していた彼が富豪の殺人事件に挑むというもの。
従って本書では撮影現場の華やかさとか映画産業の喧しさとかは全く描かれていないため、ハリウッド三部作といいながらも全くハリウッド色を感じさせない。 さて今回エラリイが挑む事件はたった一つ。ある富豪の不可解な死。 犯行時刻に現場にいたのは富豪の息子なのだが、たまたま富豪の共同経営者のオーバー―この云い方ももはや死語ですな。今判る人はいるのだろうか?―を間違って着て行ったため、破産宣告を受けた共同経営者が容疑者となってしまうというもの。しかしなぜか共同経営者は頑なに富豪の息子をかばおうとする。彼が娘の婚約者だからという理由だけでは理解しがたいほど頑なに。 本当のことをしゃべれば自分は救われるのになぜか話さないというのは後の傑作『災厄の町』でも見られた手法だ。本書は出来栄えからしても『災厄の町』の下地となった作品という風に解釈できる。この作品があったからこその『災厄の町』なのだと云い直してもいいくらい既視感を抱いた。 さて今までのエラリイは父親のリチャードがニューヨーク市警の警視という立場を利用して門外漢ながらも警察同様に現場にずかずかと立ち入り、捜査をし、あまつさえ証拠品を隠蔽したりとおよそありえない所業を繰り返していたのだが、父親の威光が届かないここハリウッドでは、ヒラリイ・キングと名乗り、事件の渦中にいる共同経営者の娘が親族しか判らない犯罪の内幕を新聞記事として毎日連載するお手伝い役―お目付け役―として新聞記者に雇われて一介の記者に扮して捜査に携わるという設定を取っている。これはなかなかに面白いアプローチだと思った。 そして事件の発端であり、背景となるのがインサイダー取引、粉飾決算といった21世紀の今でも行われている犯罪であるのも興味深い。しかしこの後の『靴に棲む老婆』でも書かれていたが会社の社長が自身の会社の経営状況が悪いと知ったことで株を売るという行為に関しては罰せられるような記述がない。まだ株取引が法的に厳密に取り締まわれていなかったのだろうと推測される。 今回の事件は地味で、なかなか前に進まない印象を受けた。事件は早々に起きるものの、真犯人を特定する証拠、証言に手間取り、またレッド・ヘリングのためか全く関係のないエピソード―特に専任弁護士ルーヒッグと故社長の被保護者ウィニの結婚の件は全くといっていいほど事件には関係がなかった―が挿入され、右往左往しているだけと感じた。 また今回の犯人は判ってしまった。 もちろん犯人へと至るエラリイのロジックは相変わらず冴えており、事件の容疑者に当て嵌まる条件から消去法でどんどん犯人へと絞り込んでいく。 しかし残念ながらこの作品に書かれているようには今では犯人は捕まらないだろう。それは全て状況証拠に過ぎないからだ。こういった推理だけならば今の読者は納得しないだろう。作者クイーンの詰めの甘さをどうしても感じてしまう。 個人的には本書読書中は出張もあり、精神的にキツイ仕事のため、尾を引くところがあって読書を存分に愉しむ精神状態ではなかったのだが、それでも作品としては小粒だと思った。 題名の意味も最後になって恐らくあのことなのだろうなとは想起させられるものもあるが、合っているかどうかは判らない。 もう少し事件とストーリーに起伏があれば楽しめただろうに、と勿体無さが先に立つ読後感だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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