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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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今や『このミス』の常連となりつつあるミステリ作家長岡弘樹氏。本書は彼のデビュー作が収められた短編集である。
まず表題作は元市立中学校の校長だった老人のある出来事を綴った物。 物忘れに苦慮する老人が元校長というプライドから周囲にばれないようにどうにか取り繕う日々を送るさまが綴られる。そしてそのプライドの高さがかえって変な気遣いを自らに課せさせ、事態が思わぬ方向へと転ずるというスラップスティック・コメディの様相を湛えながら、忘れ物が見つかったことでふとある事実に気付かされるというツイストが憎い。 ほのぼのと心温まる1編だ。 続く「淡い青のなかに」はシングルマザーと不良の息子というよくある取り合わせの母子の物語。 仕事に専念するがために家庭を、自身では疎かにしていないとは思いながらも以前よりは子供の面倒を見ることが少なくなったシングルマザーの、どこにでもある家庭であろう。 そんな矢先に車で人を撥ねるというアクシデント。その日は課長に昇進した日。キャリアウーマンとして躍進の第一歩を踏み出した彼女が動揺する中、不良息子が身代わりになる、しかも刑法にも引っかからない。 なんともまあ誰もが陥りそうな悪魔の甘い囁きを作者は用意したことか。当事者だったら、息子の提案に従う人もあるのではないか? しかし私なら息子に罪を負わすよりも正直に警察に届け出ることを選ぶと思う。なぜならばそんな親に子供になってほしくないからだ。 そして本書でも思わぬツイストがある。つまり被害者はいったい何者だったのか? しかし本書もまた謎の男の正体に読みどころがあるわけではない。この男の正体をファクターとして不和の母子に関係修復の機会が訪れるところがそれなのだ。 またも温かい気持ちになれる作品だ。 しかしそんな温まる話ばかりではない。次の「プレイヤー」はある人物の隠された悪意に気付かされる。 市役所の駐車場で起きた転落死。しかも柵の横棒が外れていたため、事故死と判断される。通常ならば新聞の三行記事にしかならないような事件を警察の側からでなく、当事者である市役所々員の側から描くという着想が面白い。 そしてその所員は春の人事異動で昇進が有力的だったから、自分の不祥事を免れようと必死に事件を独自に調べる。サラリーマンである私にとっても自分の人事のために殺人事件に必死になる主人公という着想はなかった。 そして徐々に明らかになってくる被害者の不自然な行動から、主人公の崎本は自殺ではないかと推理し、それを裏付ける状況証拠を見つけるのだが、唯一の発見者である同じ市役所々員唐木の証言でなかなか事件が覆らない。なぜ唐木は嘘めいた証言をするのか? 公務員の歪みと切なさが漂う作品だ。 「写心」は他の作品とは異なり、誘拐という犯罪を前面に押し出した作品。 誘拐犯が逆に脅迫されるというアイデアが面白い。そこには夫に逃げられた水落詠子が抱える心の闇があるのだが、本作の焦点はまさにその闇の正体を探ることだ。 元報道カメラマンの守下が誘拐計画のために水落詠子の日常を観察しているときに一瞬捉えた彼女の笑顔の正体はいったい何だったのか? ただ本作のもう1つのサプライズである事実はさすがに気付くのが遅すぎる。この鈍感さは常に被写体に向き合うカメラマンとしては失格だろう。 「淡い青のなかに」では関係が上手くいっていない母と子が主人公だったが最後の「重い扉が」ではしこりを抱えた父と子の物語。 一緒にいた親友が重体になり、敵討ちを誓った息子が突然捜査に協力したくないと云った理由。そして事件現場の商店街の通りを間違えた理由、さらに過去祖父を亡くし、自身もサッカー選手の夢を途絶えさせることになった交通事故の真相がある1つのことですべて氷解する。 それらを承知し、また自分で調べて理解する克己の人格の素晴らしさが際立つ。よくできた高校3年生だ。そしてそれぞれが抱えていた確執が氷解する。実によく出来たストーリーだ。 今や現代を代表する短編の名手ともされる長岡弘樹氏。 彼のデビュー作は読者の町にもいるであろう人々が出くわした事件、もしくは事件とも呼べない出来事をテーマにした日常の謎系ミステリの宝箱である。 物忘れがひどくなった老人が必死にそれを隠そうとする。 自身のキャリアを高めるために必死に働くがために一人息子を問題児にしてしまったキャリアウーマン。 卒なく業務をこなし、出世の道を順調に上がろうとする公務員。 同僚にケガをさせたことで自責の念から職を辞し、実家の写真屋を受け継ぐが資金難に四苦八苦する元報道カメラマン。 ある事件から息子との関係が悪くなった荒物屋の店主。 全て特別な人たちではなく、我々が町ですれ違い、また見かける市井の人々である。そしてそんな人たちでも大なり小なり問題を抱えており、それぞれに隠された事件や出来事があるのだ。 これら事件や出来事を通じてお互いが抱いていた誤解が氷解するハートウォーミングな話を主にしたのがこれらの短編集。 中に「プレイヤー」のような思わぬ悪意に気付かされる毒のある話もあるが。 気付いてみると5編中4編はハートウォーミング系の物語であり、しかもそれらが全て親子の関係を扱っているのが興味深い。 「陽だまりの偽り」はどことなくぎこちない嫁と義父の、「淡い青のなかに」と「写心」は母と子の、そして「重い扉が」はと父と子の関係がそれぞれ作品のテーマとなっている。 それはお互いがどこか嫌われたくないと思っているからこそ無理に気を遣う状況が逆に確執を生む、どこの家庭にもあるような人間関係の綾が隠されていることに気付かされる。 逆に正直に話せばお互いの気持ちが解り、笑顔になるような些末な事でもある。 人は大人になるにつれ、なかなか本心を話さなくなる。むしろ思いをそのまま口にすることが大人げないと誹りを受けたりもするようになり、次第に口数が少なくなり、相手の表情や行動から推測するようになってくる。そしてそれが誤解を生むのだ。 実はなんとも思っていないのに一方では嫌われているのではと勘違いしたり、良かれと思ってやったことが迷惑だと思われたり。逆に本心を正直に云えなくなっていることで大人は子供時代よりも退化しているかもしれない。 作者長岡弘樹氏はそんな物云わぬ人々に自然発生する確執を汲み取り、ミステリに仕立て上げる。恐らくはこの中の作品に自分や身の回りの人々に当て嵌まるシチュエーションがある読者もいるのではないだろうか。 私は特に中学生の息子を持つがゆえに「重い扉が」が印象に残った。 いつか来るであろう会話のない親子関係。その時どのように対応し、大人になった時に良好な関係になることができるのか。我が事のように思った。 しかしこのような作品を読むと我々は実に詰まらないことに悩んで自滅しているのだなと思う。ちょっと一息ついて考えれば、そこまで固執する必要がないのに、なぜかこだわりを捨てきれずに走ってしまう。歪みを直そうとして無理をするがゆえにさらに歪んでしまい、状況を悪化させる。他人から見れば大したことのないことを実に大きく考える。 本書にはそんな人生喜劇のようなミステリが収められている。 全5作の水準は実に高い。正直ベストは選べない。 どれもが意外性に富み、そして登場人物たちの意外な真意に気付かされた。実に無駄のない洗練された文体に物語運び。 デビュー作にして高水準。今これほど評価されているのもあながち偽りではない。 また一人良質のミステリマインドを持った作家が出てきた。これからも読んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ドイル晩年のSF冒険譚。ウィキペディアで調べる限り、これがドイル最後の小説のようだ。
空想冒険小説ではチャレンジャー教授がシリーズキャラクターとして有名であるが、本書では海洋学者マラコット博士が主人公を務め、冒険の行き先は大西洋の深海だ。 潜降函なる金属の箱でカナリア諸島西にある、自身の名が付いたマラコット海淵から深海調査に乗り出したマラコット博士とオックスフォード大学の研究生サイアラス・ヘッドリーとアメリカ人の機械工ビル・スキャンランの3人が大蟹に潜好函が襲われてそのまま海底に遭難してしまうが、なんと独自の科学技術で深海で生活しているアトランティス人たちに助けられるという、ジュヴナイル小説のような作品だ。 もともとドイルは海に関する短編を数多く発表しており、新潮文庫で海洋奇談編として1冊編まれているくらいだ。そして深海の怪物に関する短編もあり、もともと未知なる世界である海底にはヴェルヌなどのSF作家と同じように興味を抱いていたようだ。 そしてそれを証明するかのようにマラコット博士一行が海底でアトランティス人たちと暮らす生活が恐らく当時の深海生物に関する資料に基づいてイマジネーション豊かに描かれている。 まずアトランティス人たちが海底で暮らすために透明なヘルメットを被っており、そこに空気が送られて一定時間活動できるというのは今の潜水服そのものだ。 調べてみると1837年にはイギリス人のシーベによってヘルメット潜水器の原型が発明されており、1871年には日本にも導入されているから本書が書かれた1929年では既に既知の技術だったことは間違いない。 しかし空気や水、食糧、ガラス材料などを作る装置が備わった海底でも暮せる防水建築という概念は今でも新鮮であり、さらに思ったことが映像として出てくるスクリーンなどは今でも発明されていない。 さらに彼らの生活を支えるエネルギー源が海底に豊富に眠る石炭であり、それらを採掘して動力にしているとなかなか抜け目がない。 またドイルが描く深海生物も特筆で博士たち一行を海中に追いやったエビと蟹の中間の大ザリガニのような化け物から、毛布のように人を包んで海底にこすり付けて食べるブランケット・フィッシュ、樽のような形をした電波で攻撃する海ナメクジ、群れで活動し、血の匂いを嗅ぎつけると集団で襲い掛かり、白骨になるまで食い尽くすピラニアのような魚、1エイカーほどの大きさを持つ大ヒラメなど、今なお未開の地である海底にいてもおかしくない生物たちが描かれている。 しかし物語のクライマックスと云える邪神バアル・シーパとの戦いは果たして必要だったのか、はなはだ疑問だ。 この戦いをクライマックスに持ってくるよりもやはり物語の中盤で描かれる、彼らの生還を詳細に書いた方がよかったのではないか。 唯一おかしいのは水圧に関する考察だ。本書では深く潜っても水圧が高くなるのは迷信であるとして彼らの深海行の最大の難関を一蹴している。 今ではそのような理屈だと物語の前提から覆るのだが、ドイルはどうしても深海冒険物語を書きたかったのだろう。最後の作品でもあるのでそこら辺は大目に見るべきだろう。 しかし最後の作品でも子供心をくすぐる冒険小説を書いていることが率直に嬉しいではないか。読者を愉しませるためには貪欲なまでに色んなことを吸収して想像力を巡らせて嬉々としながら筆を走らせるドイルの姿が目に浮かぶようだ。 翌年ドイルはその生涯を終えた。 最後の最後まで空想の翼を広げた少年のような心を持っていた作家であった。 合掌。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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メキシコの麻薬社会の凄まじい現実を見せつけた『犬の力』。あの大長編を要して語ったアート・ケラーとアダン・バレーラの戦いはまだ終わっていなかった。
まず冒頭の著者による前書きに戦慄する。 延々3.5ページに亘って改行もなく連なる名前の数々。この段階で私はこれから始まる物語が途轍もない黙示録であることを想像した。 アダンが捕まった後のメキシコの麻薬勢力地図は数々のカルテルが生まれ、それぞれが勢力を拡大している群雄割拠の様相を呈していた。本書は複数のカルテルをアダン・バレーラとセータ隊の二大勢力が統合していく凄まじい闘争の物語だ。云わば日本のかつての戦国時代の構図であるのだが、それが生易しいものであると思わされるほど、内容は凄惨極まる。 まず物語は復讐の念を募らせたアダンの反撃で口火を切る。そして養蜂家として隠遁生活を送っていたケラーもアダンの復活と共に戦地へと赴く。賞金首になりながらもDEAの捜査官に復帰し、自らメキシコに入り、現地の組織犯罪捜査担当次長検事局(SEIDO)のルイス・アギラルと連邦捜査局(AFI)のヘラルド・ベラと共同してアダン逮捕に踏み切るのだ。 お互いに復讐の念を募らす2人だが、一旦現場を離れた2人の思惑通りにはことは進まなかった。アダンがいない間に勢力を伸ばしたカルテルたちはアダンに対して服従の意志を見せるどころか立場の逆転を誇示する。 一方DEA、SEIDO、AFIはアダン逮捕に踏み切ったものの、アダンの勢力がかつてほどでないと知るや否や、他の大きな勢力壊滅に力を注ぐ。すでに時代は2人の物ではなく、アダンとアートそれぞれが昔語りの主人公になってしまっている。 麻薬抗争は権力ある頭目たちが手下たちを使って報復と粛清を繰り返しながら勢力を拡大している構図は一緒ながらもその手下たちが元軍人や元警官もしくは現職警官だったりといわゆる戦いのプロたちによる私設軍となり、さらにエスカレートしている。湾岸カルテルには元軍人のエリベルト・オチョア率いるセータ隊、アダンの朋友ディエゴ・タピアはロス・ネグロス、フアレス・カルテルはラ・リネア。 報復が報復を生み、またお互いの利害が一致すれば敵同士も協定を結んで味方になる。そして利害にずれが生じればその逆もまた然り。 昨日の敵は今日の友であり、今日の友は明日の敵でもあり、さらに部下がボスを殺して自らがのし上がる下剋上が当たり前の世界でもあるのだ。 しかしこれほど麻薬ビジネスが国民と政府機関に浸透した国メキシコで麻薬の取り締まりをすることにどれほどの意味があるのだろうかと読みながらこの思いが錯綜した。なんせお隣のアメリカですら国家安全保障会議とCIAとホワイトハウスがメキシコの麻薬カルテルを利用してニカラグアの新米反共勢力コントラに資金援助しているのだから。 おまけにアメリカとメキシコの間で結ばれた北米自由貿易協定(NAFTA)は両国間を数万台のトラックが行き来することを許可した。それは両国の流通を活発にする目的だろうが、数年来から麻薬大国として知られるメキシコに対してどうしてアメリカはこんな無謀な協定を結んだのか? NAFTAはもはや北米自由“麻薬”貿易協定とさえ呼ばれているようだ。アメリカとメキシコの背景とはこんなものである。 さらには大統領選の資金までもが麻薬カルテルの売り上げから供与されている。しかもその仲介役がAFIの幹部の1人なのだ。 こんな世界では彼らDEA、SEIDO、AFIの戦いほど空しいものはないのではないだろうか。既にその協同作戦に参加するアート・ケラーは両機関の代表者ルイス・アギラルとヘラルド・ベラに対して不信感を抱いている。 麻薬カルテルに恩恵を受けている市民たちは掃討作戦で潜んでいる最中に周辺住民よりターゲットに通報され、もしくは捜査側にもカルテルの息のかかった連中がいるのを証明するかの如く、作戦を無視してわざと騒音を立てて注意を惹かせる者もいるくらいだ。 彼らはそんなことがバレても共犯として留置所に送り込まれるだけで、逆にカルテルからは情報提供者として報酬を貰える。それも一生彼らが手にすることの出来ないくらいの大金をだ。 そんな犯罪こそがビッグビジネスであるメキシコで何が正義なのかが読んでいるうちに解らなくなってくる。 社会を回しているのは司法の側なのか、麻薬カルテルの側なのか。これこそ単純に正義対悪では割り切れない複雑な社会の構図なのだ。 従って正義の側のケラーもこの善悪が混然一体と混じり合ったメキシコの現状を利用して情報操作をし、アダン側を翻弄する。 上に書いたように昨日と今日、今日と明日で味方と敵が入れ替わる団結力の弱い組織同士の結び付きを利用して、亀裂を生じさせる。身内を重んじるがゆえに他者を軽んじるメキシコ人の気質がどんなに勢力を拡大させようと決して一枚岩になり切れない脆弱さを無くしきれない。そこにケラーの付け入る隙があるのだ。 そして物語の中盤、裏切者が判明する。 メキシコ海兵隊FES指揮官ロベルト・オルドゥーニャ提督と隠密裏にホワイトハウス直下の組織として麻薬カルテル撲滅軍を組織する。敵の首領を索敵し、速やかに襲撃して命を奪う。頭を喪っても次の頭が生まれるだけという論理から、頭を次から次へ襲撃することで成り手を無くすという論理で敵との戦いに臨む。 最も懸念されるのが組織内に生まれるスパイの存在は高報酬と襲撃した敵からの押収品の略奪を合法化して奨励することで賄賂を受け取らない人材にする。つまり毒を以て毒を制する組織と云えよう。 さらにケラーが疑心暗鬼に陥った前協同者たちと違い、オルドゥーニャにはケラーと同じくカルテル達に私怨を持っていることだ。つまり任務を超えて天敵に対する復讐の念が強いこと。それが2人の絆を強固にする。 私怨は使命感を超える。ケラーとオルドゥーニャ、ここに最強のタッグが誕生した。 また本書で忘れてならないのは女傑たちの登場だ。 モデル並みの美貌を持つマグダ・ベルトラン。彼女はかつての情夫の指示で麻薬の運び屋をさせられた際に捕まり、刑務所に入れられたところをアダンに見初められ、彼の情婦となって共に脱獄する。そして情婦からアダンのビジネスパートナーとなって麻薬の元締めになり、ヨーロッパへの密輸ルートを展開する。 ケラーがパーティーで知り合った女医マリソル・サラサール・シスネロス。メキシコシティーで開業していたが、麻薬カルテルとの癒着が強い国民労働党が大統領選挙で勝つと、失望感から故郷のバルベルデに戻り、診療所を開設した後、政治の世界に参加し、町長となってセータ隊と戦う。 マリソルを慕って未成年ながらバルベルデの女性警察署長になるエリカ・バルデス。常にマリソルに付き添い、彼女のボディガードをしながら、セータ隊に蹂躙されているバルベルデの治安を守ろうと孤軍奮闘する。 延々と続く麻薬闘争。1つの大きな組織(カルテル)が壊滅してもまた新たなカルテルが生まれ、しのぎを削り、利益と勢力を伸ばし続ける。これはメキシコの果てることのない暗黒神話だ。 またこの戦いはカルテル対メキシコ捜査機関とアメリカの捜査機関だけでなく、麻薬カルテルの横行を許す政府への警告を発するマスコミたちの戦いでもあるのだ。 シウダドファレスの地元紙≪エル・ペリオディコ≫の編集者オスカル・エレーラを筆頭に新聞記者パブロ・モーラ、アナ、カメラマンのジョルジョは敢然とカルテル達の暴虐ぶりを紙面で非難する。しかし次々とセータ隊はジャーナリストたちの屍の山を築き、その毒牙がジョルジョに及ぶに至ってとうとう報道を自粛せざるを得なくなる。 そしてメキシコ人の母親を持つアメリカ人のケラーはこの混沌社会のメキシコを大いに利用しようとするアメリカそのものを象徴しているようだ。彼は自身に流れるメキシコの血で彼らの考えを理解し、先読みしながら、アメリカ人の頭脳で情報攪乱を生じさせ、手玉に取る。 アダン・バレーラ対アート・ケラーの戦いは実はメキシコ対アメリカの代理戦争を象徴しているのかもしれない。 後半はもう殺戮の嵐だ。 5人が10人、10人が15人、20人、30人、50人…。屍の山が累々とメキシコ各地でセータ隊によって築かれる。もはや死亡者数はメキシコの人々にとって単なる数字でしかなくなり、町中で転がる死者も市民にとっては単なるモノでしかなくなり、死に対する感覚が麻痺し、死体を跨いで出勤する風景が日常的に行われるようになる。何の罪もない一般市民が突然セータ隊に呼び止められ、セータ隊に従うか否かではなく、従うかもしくは死を選ばざるを得なくなる。 主要登場人物もその宴の犠牲になる。 そしてクライマックスのセータ隊を殲滅するグアテマラへの潜入作戦で物語はようやく結末を迎える。 作中でもはや麻薬産業は撲滅すべき悪行ではないと述べられている。世界に金融危機が起きる時、もっとも盤石なのが麻薬マネーだからだ。 軍需産業と麻薬産業。この世界で最も大きな負の遺産が実は経済の底支えをしているという皮肉。従ってアメリカはもはや麻薬カルテルを殲滅しようと考えていない。彼らにとって最も不利益なカルテルを殲滅しようとしているだけなのだ。これほどまでに世界は複雑化し、また脆弱化してしまったのだ。 そして本書の題名“ザ・カルテル”は単に麻薬カルテルを示しているわけではない。作中、無残に殺害された新聞記者パブロ・モーラの言葉を借りて作者のメッセージが伝えられる。麻薬カルテルの横行を許す富裕層、権力者、警察、政府、資本家たち全てが「カルテル」だ、と。あぶく銭で私腹を肥やし続ける者たち全てがカルテルなのだ。 アダン・バレーラが復活してアート・ケラーが現場に復帰した2004年からセータ隊そしてアダン・バレーラがこの世を去るまでの2012年までの、8年間の血生臭いメキシコ暗黒史。メキシコを牛耳ろうとした麻薬カルテル達の戦国時代絵巻。前作『犬の力』にも決して劣らない、いやそれ以上の熱気とそして喪失感を持った続編。 ウィンズロウは前作同様、いやそれ以上の怒りを込めて筆をこの作品に叩きつけた。 しかしアダン、セータ隊死後もなお新たな麻薬カルテルが横行している。メキシコの暗黒史は今なお続いている。 世界は実に哀しすぎる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ホテル・コルテシア東京に勤めるホテル・ウーマン山岸尚美と警視庁捜査一課の“ルーキー”新田浩介。
本書は2人が連続殺人事件で出会う前に経験したそれぞれの“事件”を綴った短編集。 「それぞれの仮面」ではまだ就職して4年と間もない山岸尚美が出くわしたある事件の話。 山岸尚美若き(?)日のエピソードといった導入部としてはなかなかな物語だ。入社5年目で毎日孤軍奮闘している様子を描きながらもホテル・ウーマンとしてお客様の細やかな観察眼が日々養われていることもきちんと書かれてあり、山岸尚美が後に『マスカレード・ホテル』で一流のホテル・ウーマンぶりを発揮する片鱗がそこここに散りばめられている。 ところで本作に登場する元プロ野球選手大山将弘は大阪弁と“大将”というニックネームからやはりあの男をどうしても想起してしまうし、またモデルであるだろう。従って宮原が彼の不倫を糊塗しようと奮闘するその理由が52ページで語られるのだが、麻薬事件が生々しいだけに余計に痛切に響いた。 次の「ルーキー登場」はもう一方の主人公新田浩介の若き頃の話。 ルーキー、即ち新田浩介の若き日(?)の捜査を描いた作品。都内で起きた実業家殺人事件に潜む人間の醜悪さを描いた作品だ。日常の何気ないシーンから事件の糸口を結びつける新田の思考はどこか加賀恭一郎を想起させる。 物語のツイストはもはや東野作品での常とう手段なので今更の驚きはないが、敢えてそれが解決に結びつかず、新田の苦い捜査経験の1つとして刻まれるようにしている。 もう1つの山岸尚美の物語は「仮面と覆面」は東野氏自身も経験したのだろうか、作家のホテルカンヅメを扱った短編。 覆面作家のホテルのカンヅメ中に熱狂的ファンが訪れ、ホテルは秘密を阻止すべく彼らとの駆け引きを繰り広げる。しかしその作家当人にも不審な点があるとなかなか面白い話である。特にファンの一目作家に会いたいという思いの強さは強烈で正直ここまでするのかと驚いた。 そして覆面作家のサプライズを逆手に取った真相も面白い。しかしこの正体を出版社も知らないわけだから、もしかして世間に出回っている覆面作家の中にも同様の人がいるのかも? またホテルの部屋の電話トリックも半ばで解った。しかし本当にできるのかな。今度やってみよう。 ちなみに本作で『~笑小説』で登場する出版社『灸英社』が出るのは作者のファンサービスだろう。 そして最後の表題作は山岸尚美と新田浩介の2人の人生が間接的に交錯する前日譚だ。 『マスカレード・ホテル』で覆面捜査官としてホテル・クラークに扮した新田浩介とその教育指導を務めた山岸尚美に意外な接点があったというのがこの作品。大阪に出来た支店に応援に来ていた山岸尚美が意外な形で新田の担当する事件に関わるというのがあらすじだ。 また本作で登場する穂積理沙という女性警官がなかなかいい味を出している。ちょっとがっしりしたタイプの女性で体力と粘り強さが取り柄の元気溌剌娘だ。 『マスカレード・ホテル』では新田の新人ホテルマンぶりが物語のアクセントとなったが、それ以前に新田にも応援者を教育する機会があったのだ。ベテランと新人のミスマッチの妙が本作でも発揮されている。まあ、新田はベテランというにはまだ若すぎるのだが。 事件は教授殺しの重要容疑者である准教授が殺人の容疑を晴らせるのにもかかわらずなぜか大阪での情事について黙秘を続けるという謎を探る物語となっている。こういう人の感情が作る一種の割り切れなさというか不整合性を扱わせると東野氏は抜群にうまい。 そんな事件の真相は女性の怖さを知らされる物語だ。 そしてこの人妻、畑山玲子と夫の義之の関係もちょっと特殊だ。お互いが存在を尊重しながらも夫婦生活は疎遠で、夫は妻の浮気をも甘受する。本作では仮面夫婦と述べているが、ちょっと違うだろう。同じ目的を持った同士といった関係に近いだろうか。 ちなみに事件の舞台となる泰鵬大学は『疾風ロンド』で炭疽菌が盗まれた大学である。事件の多い大学だ。 山岸尚美と新田浩介。本書は『マスカレード・ホテル』の文庫化を期に文庫オリジナルで刊行された名(迷?)コンビの2人の前日譚。 彼らの初々しさを髣髴させるエピソード集と云えるだろう。 例えば今ならば一流のホテル・ウーマンとなった山岸尚美ならばお客様に仮面を着けているなどとは心では思いこそすれ口には出さないだろう。1作目の「それぞれの仮面」の最後の方で元恋人宮原隆司と元プロ野球選手の不倫相手である女性に対して慇懃ながらも本心をオブラートに包んでチクリと皮肉を云うなどとは決してあるまい。 こういうところに未熟さを交えるところが東野氏のうまいところか。 そして「ルーキー登場」で捜査一課に配属になったばかりの新田の活躍が描かれる。これも若さゆえの青さを感じさせる物語だ。 また本書の美味しいところは山岸尚美のパートでは日常の謎系ミステリを、新田浩介のパートでは警察小説と2つの味わいが楽しめることだ。これらを卒なくこなす東野氏の器用さこそが特筆すべき点であるのだが。 この山岸尚美と新田浩介が登場シリーズは共通する題名から「マスカレードシリーズ」とでもいうのであろうか。 そもそもこのマスカレードは非日常体験を提供する一流ホテルの従業員山岸尚美が客は日常とは違う仮面を被ってホテルへ集う、そしてその従業員もまた仮面を被って接しているのだというホテルはマスカレード=仮面舞踏会の舞台のようなものだというところから来ているが、本書に収録されている作品はつまりこの世は全て仮面舞踏会に過ぎないのだと云っているように思える。 山岸尚美が接した元プロ野球選手の大山将弘も不倫相手との密会でホテルを使うが、その彼も実は外では皆に夢を与えるスポーツ選手としての仮面を被り、自らの真意は決して顔に出さない。 新田浩介が事件で出会った田所夫妻は結婚3年目の仲睦まじい熟年夫婦と思わせながら、自分は哀れな妻を演じる。そしてその仮面が剥がれそうになっても若い刑事を嘲笑うかの如く決して仮面を脱ごうとせずにのうのうと人生を生き抜く。 そして覆面作家の仮面を被る中年男性。 ただ題名にマスカレードと冠しているためか、仮面、仮面と強調しているのはいささか煩わしい。 押しなべてミステリの登場人物はいずれも仮面を被っているもの。最初には思いもかけなかった動機と犯人の素顔が明かされるのがミステリのカタルシスなのだから、何もホテルに来る人物はいつも仮面を被っているなどと強調しなくてもいいのだ。 ホテルに来る人だけでなく、我々は皆仮面を被っている。公的な仮面と私的な場面における素顔、いや私的な場面においても仮面を被って演じなければならない時もある。それが我々人間の営みなのだから。 しかし改めて新田に再会してみると、上にも書いたように若さに任せた行動力と自分に対する甘さを持っているのが彼の特徴だが、東野作品の代表キャラクター加賀恭一郎とのキャラクターの棲み分けが上手くいっていないように思えて仕方がない。 事件に対する着眼点は鋭く、また父親がシアトルで日系企業の顧問弁護士を務める、いわば上流家庭の出で麻生十番に住んでいるというサラブレッドであることから、高級調度品への造詣が深いのも特徴的だが、アメリカ帰りの金持ちのボンボンといった印象も否めない。そこに新田の個性を持たせているようだが、ちょっとまだ印象としては弱い。 しかしホテル・コルテシア東京のデラックス・ダブルのデポジットが7万円。プレジデンシャル・スイートが1泊18万円!我々庶民には泊まれない高級ホテルである。 さらに新田の登場シーンもホワイトデーの夜に都内のホテルで女性と一夜を過ごしたシーンから幕を開ける。さらに上に書いたような新卒の刑事とは思えない裕福な暮らしぶり。 う~ん、双方バブリーの香りがしてちょっと時代錯誤な印象があるなぁ。 ともあれ、日常の謎を含んだホテル・ウーマンのお仕事小説と初々しい若さ溌剌のルーキー、新田浩介が活躍する軽めの警察小説という万人に受けやすいブレンドコーヒーのような作品で、じっくり読むというよりも息抜きで軽く読める読み物といったテイストである。 思えば探偵ガリレオシリーズもそうであったが、果たしてこの2人の今後の活躍に我々の胸を打つような重く味わい深い作品に出会えるのか。 いやそれよりもまだシリーズは続くのか、そっちの方が心配だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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殺し屋ケラー4作目の本書は長編でケラーに最大の危機が訪れる。
第2作品も長編だったが、構成としては連作短編集のような作りであったのに対し、本書はケラーが州知事殺しの犯人として追われるという逃亡劇が全編に亘って繰り広げられる。 今回は前短編集のうち「ケラーの遺産」と「ケラーの適応能力」に登場した謎の依頼人アルが本格的にケラーを抹殺しようとする物語だ。 不穏な空気を纏わせた正体不明のアルが本性を現してケラーたちに牙を剝く。それは実に用意周到に計画された罠で、ケラーは依頼で訪れたオハイオ州で州知事暗殺の冤罪を着せられるのだ。犯行にはケラーの指紋がべったり付いたグロッグが使われ、それが警察に凶器として押収される。そして全米にケラーの顔写真が貼り出される。 さらに衝撃的なのはケラーの相棒であったドットの死だ。頭に銃弾を2発撃ち込まれた挙句にホワイトプレーンズの自宅を放火され焼死体となって発見される。 正直この展開には目を疑った。死体は人違いではないかと何度も繰り返して読んだほどだ。それほどまでにシリーズにとって衝撃的な出来事だった。 おまけにケラーの自宅にも魔の手が伸び、彼の唯一の趣味だった切手のコレクションが軒並み押収される。つまりケラーの住まいも安全ではないため、彼は逃亡生活に踏み切るのだ。 そして流れ着いたニューオーリンズでレイプされそうになった女性を助けたことでその女性、地元で教師をしているジュリア・エミリー・ルサードの協力を得て、ニコラス・エドワーズと名乗って建築業の仕事にありつき、別の人生を歩みだす。 どうだろう、この教科書通りの起承転結の物語運び。まさに無駄のないストーリーテリングでしかも読者の予想通りにはいかないのだ。 そんなストーリーの中にはケラーという人物を改めて再認識させるエピソードが散りばめられている。 例えば自宅の切手コレクションを盗まれることに気付くシーン。通常ならばこんな状況になればコレクターならば誰もが多大なる喪失感に襲われるだろう。しかしケラーは事実は事実として受け入れるだけなのだ。 おまけに250万ドルもの資産もドットがいなくなったことで引き出せなくなるのだが、それに対しても大して執着しない。普通悪に手を染めた人間ならば金に対する執着心が人一倍強いはずなのに、ケラーにはそれがなく、あるがままに受け止め、他人事のように処理する。 これは殺し屋であるケラーが標的に対して感情移入せずに常にドライに対処することから来ているのだろう。つまり殺しをただの仕事として捉え、人の命を奪うという行為に罪悪感を覚えないのだ。 ならばケラーは精神異常者かと云えばそれも違うような気がする。但し殺しのスキルは身についており、レイプされそうになったジュリアを救うためにレイプ犯を何の躊躇いもなく殺害するのだから、心の置き方が人とは違うのだろう。麻痺しているというのが正しいのかもしれない。 しかしそんな彼でさえ、今回自身が標的となって全米で追われる身になって初めてこれまで殺害してきた人物に思いを馳せる。 特にこのシリーズの第1話とも云える証人保護プログラムで身元を変えた人物を殺害した件に関してはニコラス・エドワーズという別の人物に成りすましたことで自身のことのように彼のことを考えるのである。単なる仕事のための標的でしかなかった人々に初めてケラーは自身の感情を向けるのである。 また逃亡中にショッピングカートを回収する仕事をしている少年を見て、殺し屋稼業に就いた自分の人生について初めて過ちだったと後悔したりもする。 さらには赤の他人には決して明かさなかった自分の名前を初めてジュリアに打ち明ける。もうケラーはニコラス・エドワーズとして生き、ジュリアと2人幸せに過ごして暮らす覚悟がついていたのだ。 さらにケラーを追いつめる宿敵はアル、作中ではミスター“私のことはアルと呼んでくれ”とも表記されているが、恐らくこれは原文では“You Can Call Me Al”ではないだろうか。つまりポール・サイモンのヒット曲のタイトルである。 そんな風に考えて読むのもまた一興か。 閑話休題。 ケラーが逃亡者の境遇に置かれることで過去の仕事で始末した人々を回想するシーンがたびたび挿入されるため、本書はシリーズの総決算的な作品のように読める。 特にドットが亡くなった時点でブロックがこのシリーズにけりをつけようとしているのだと強く思った。 しかしそんな読者の感傷めいた思いを見事にユーモアで翻すのがブロックの筆さばきの妙だ。 しかしこの殺し屋を主人公にしながらも終始落ち着いた雰囲気で展開するこの物語はなんとも不思議な余韻を残す。 今まで書いてきたように今回ケラーは州知事暗殺の犯人に仕立て上げられ、全米に顔写真が出回り、指名手配され、逃亡の身となる。 しかしそれでもケラーには次から次へと危難が訪れるわけではない。見知った顔のマンションのドアマンには賄賂を渡して口封じをし、立ち寄ったガソリンスタンドで独り身の経営者に面が割れるくらいだ。それまでは終始逃亡者としてのケラーの猜疑心と過去に葬ったターゲットに対する思いが延々と綴られる。 やがて全米指名手配にもかかわらず、ケラーの周りにはとうとう警察の捜査の手は及ばず、ニューオーリンズでケラーの新パートナーとなるジュリアに出会ってからは髪型と色を変え、眼鏡をかけて人相が若干変わり、また新しい身分を手に入れたことで解決してしまう。 直接的にせよ関わりがないにせよ7人もの死人が出る物語である。これだけ人の生き死にも扱っていながら熱を帯びない作品も珍しい。血沸き肉踊らない殺し屋の物語なのだ。 しかしだからといって面白くないわけではない。エキサイティングには程遠いが読み進めるうちにケラーの足取りと読者自身の思いが同調するが如く、先の読めない展開を味わいながら愉しむのだ。 そう、美味しい酒をチビリチビリと呑み、悦に浸る味わいが本書の持ち味なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズ第3作。本書では前作『人形式モナリザ』で小鳥遊練無と共にペンションでバイトしていた森川素直が阿漕荘に引っ越してくる。さらに同じく前作で登場した瀬在丸紅子の元夫林の恋人である祖父江七夏もまた登場する。シリーズを重ねるにつれてメインキャストも増えていくようだ。
そしてまたもや事件は密室殺人。1作目はヴァリエーションの中の1つだったが、2作目は衆人環視という密室。そして本書では鍵の掛けられた部オーディオ・ルームでの殺人と正真正銘の密室である。 このオーディオ・ルームが周囲の建物と構造が切り離されているのが通常の密室と違うところだ。 音の振動を壁に伝えない、つまり完全に防音するために別構造としているのだが、建築に携わる私は解るものの、素人にこの内容が十分伝わっているだろうか?簡単な図解があれば理解がしやすいと思うのだが。 さてそんな密室で服がズタズタに引き裂かれ、周囲は血塗れでさんざんに引き摺り回された跡がある。さらに被害者の直接の死因は頭を何か重い鈍器のようなもので激しく叩かれ、出血はそれによって生じたものだった。そして遺体の手首・足首には何か獣ような物が噛み付いた跡が残っており、なぜか部屋の一部は水で濡れていた。 本書では物語のガジェットとして月夜のヴァンパイアやオオカミ男が現れる屋敷といったオカルティックな噂がかけられているものの、物語のテイストは全くそのような雰囲気とは無縁でいつもの雰囲気。決しておどろおどろしいものではない。読中は正直何のためのガジェットなのか解らなかったが、真相を読むとこれこそが森氏なりのミスリードであることが解る。 彼のエッセイを読むと解るがいわゆる熱心な本格ミステリファンではない。従って彼はいわゆる本格ミステリのお約束事に頓着せず、自身の専門分野の視点からミステリを考える。 そして殺人の動機に頓着しないのも、結局人の心なんて解らないし、人間の行動や事象全てのことに意味を持たせることが愚かであると自覚的であるからだ。 それは確かに私も同感なのだが、現実社会がそうであるからこそ、ロジックで物語が収まるべくところに収まる美しさをせめてミステリの世界で読みたいのだ。それが読書の愉悦であるというのが持論なのだが、森氏はどうもそこに創作の目的を持たないようだ。 さらに加えていただけないのは小鳥遊練無達一行が飲酒運転をするシーンだ。これは今ならば校正で一発で撥ねられるだろう。 理由として非常事態、すなわち「小事にこだわりて大事を怠るな」と云っているが、作中人物とはいえ、こういうことをさせる作者の倫理観に大いに問題がある。またこのまま内容を修正せずに出版した講談社の倫理観もいかがなものかと甚だ疑問である。版を重ねる際はぜひとも修正願いたい。 このVシリーズはいわゆるミステリのお約束事を逆手に取って、読者の予想を裏切る真相が特徴的だと感じる。 また瀬在丸紅子も決して読者の共感を呼ぶキャラではない。美しい容貌ながら冷徹さと周囲とは別の次元で生きているような浮世離れした雰囲気を持ち、また元夫を巡って恋敵の刑事祖父江七夏へは決して歩み寄らない。女の怖さと扱いにくさの極北にいるような人物である。 しかし今まで述べたように小鳥遊練無と香具山紫子の存在がそんな陰の側面を彼らの陽の部分で埋め合わせている。 登場人物たちの関係に歪みと不安定さを備えたシリーズ物としては実に奇妙な風合いを持つVシリーズだが、特に瀬在丸紅子と保呂草潤平の2人の関係はどうなるのか? 恋愛パートではなく、好敵手同士としての2人の行く末が少し気になる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2010年のミステリシーンに突如現れた新星梓崎優氏。その年末の各種ランキングで上位を獲得した珠玉の短編集が本書。
本書が特徴的なのは全ての短編が海外を舞台にしており、その国の、その土地の風習や文化で醸成された日本人の価値観から離れた尺度での考え方に立脚した論理で構成されている点にある。 彼のデビューのきっかけとなったミステリーズ!新人賞受賞である冒頭の短編「砂漠を走る船の道」だ。 砂漠の民にとって何が大事か。それが本書の謎を解くキーとなる。 人殺しを最凶最悪の犯罪とみなす先進国の考え方は警察も介入することのない砂漠では一切通用しない。迷うと即死に繋がる過酷な状況下では生きることすら困難である。 続く「白い巨人(ギガンテ・ブランコ)」の舞台はスペイン。 冒頭の1作目に比べると謎解きの妙味、論理の斬新さというのは独自性を感じない。 むしろ本作では斉木の学友サクラが失恋を乗り越えていく過程とハッピーエンドに転じる物語に焦点がある。苦い青春の1ページは1年後の幸せのための一種の試練だったのだ。 斉木が取材で向かった先はロシア。「凍えるルーシー」は南ロシアにある修道院に祀られている250年前より変わらぬ姿で眠っているリザヴェータという不朽体を列聖、つまり聖人認定の調査のため、司祭に同行していた。 これも修道院という特殊な環境と風習ゆえに起こる錯誤がうまく物語に溶け込んでいる。 そして一種独特の環境で成り立つ狂気の論理はチェスタトンのそれを彷彿とさせる。重苦しく、ストイックな雰囲気も抜群である。 再び斉木は熱いところへ取材に赴く。「叫び」は先住民族の取材のため、アマゾン川に今なお生息する部族のうち、ボランティアの医師アシュリー・カーソンに同行してデムニという名の人口50人程度の小さな部族を訪れる。 先史時代的な生活を送る部族がアマゾンの地にはまだ複数存在するらしい。本作はそんな部族の1つをテーマにした物語。 これぞまさに梓崎節とも云える日本人の尺度では測れない彼らの価値観によって殺人の動機が看破される。 エボラ出血熱に侵された部族。もう僅かばかりの生存者も感染の疑いがあり、ほぼ全滅することが決定的だ。そんな死を間近に控えた部族の中で生存者が次々と殺される。なぜ待てば死にゆく者たちを敢えて殺すのか? この発想の違いはかなり斬新だった。これこそが私が本書で求めていた論理なのだ。 そして物語は最後の短編「祈り」で閉じられる。 最後は斉木本人の物語。世界を巡る物語に相応しい1篇だ。 2016年の現在(当時)、たまたま海外に住んでいる私にとってここに書かれている独特の論理や倫理観は全く特別なことではない。日本人の考え方は世界のグローバルスタンダードではなく、先進国となり、儒教の教えが今なお残っている日本の長い歴史で培われた独特の考え方であることを再認識させられる。 本書もまたそうで、国、地域そして宗教の数だけ独特の考え、倫理観がある。 砂漠という過酷な環境で生活せざるを得ない人々にとって何が一番大事なのか? 聖女の存在を信じた修道女にとって聖人とは決して腐敗しない存在でなければならなかった。 強烈な伝染病に侵された部族が滅ぶしかない状況の中で敢えて連続殺人が起こる理由とは? これらの問いの答えが明らかになる時、我々に刷り込まれた人の命を尊ぶ道徳観が脆くも崩れ去る。先進国に住む平和な我々には想像できないほど明日への保証のない後進国では自身が生きるために他者を殺すことなど平気でするのだから。人の死もまた自分の生活のために利用するのが彼らの論理だ。 また梓崎氏がミステリシーンにもたらしたのはこのような海外の国々で醸成された倫理観や価値観を導入しただけではない。 携帯電話の普及や最先端の科学を応用した警察捜査が横行する現代にあってまだそれらが介在できない状況があることを示したのもまた本書の大きな成果の一つだ。 目の前に広がるのは砂の海ばかりという砂漠の只中や携帯は圏外となるアマゾンの奥地では人が死んでも容易には警察は来られない。この事実には目を開かされる思いがした。 21世紀の今でも警察が介入できない状況があることを梓崎氏は斬新な手法で我々に示してくれたのだ。それはやはり日本だけで物語を繰り広げていては嵐の中の山荘程度の発想しか出来なかっただろう。世界へと外側へミステリを開いていったことがこの成果に繋がったのだ。 そして平和な日本では測れない尺度で物事が進行し、容易に人の命でさえ奪われる環境に身を置いた斉木もまたこれらの物語に取り込まれていく。彼が記憶を無くす物語「祈り」で彼が抱えた心の傷の深さがしみじみと伝わってくる。 そしてこういう作品を最後に持ってきた作者の手腕に感嘆する。 創元推理文庫で上梓される新人の短編集は最後の1編で今までの短編に隠されたミッシングリンクが明かされるのが常だが、それが時にキワモノめいてやりすぎの感が否めないものもあった。 しかし本書では主人公斉木が回復するファクターとして用いられる。 最後まで読むとなぜ本書のタイトルが『叫びと祈り』なのかが解る。 世界を巡る斉木は人間にとって生きることが困難な世界の残酷さとそこで生きざるを得ないために残酷な道を選ぶ人々に対して叫んだのだ。しかしそれでも世界は美しいと信じたいがために祈りを捧げる。明日を信じてまた斉木はまだ見ぬ世界へと旅立つのだろう。 日本の本格ミステリよ、新たな論理を求めて海の外へ繰り出そうではないか。まだまだ未知なる謎と論理の沃野は果てしなく広がっているのだから。 本書を読むとそんな風に思わせてくれる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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モダンホラーの巨匠スティーヴン・キングのデビュー作にして幾度も映画化された有名作。
本書がこれほど好評を持って受け入れられたのは普遍的なテーマを扱っていることだろう。 いわゆるスクールカーストにおける最下層に位置する女生徒が虐められる日々の中でふとしたことからプロムに誘われるという光栄に浴する。しかし彼女はそこでも屈辱的な扱いを受ける。ただ彼女には念動能力という秘密があった。 この単純至極なシンデレラ・ストーリーに念動能力を持つ女子高生の復讐というカタルシスとカタストロフィを混在させた物語を、事件を後追いするかのような文献や手記、関係者のインタビューなどの記録を交えて語る手法が当時は斬新で広く受けたのではないだろうか。 さてとにもかくにも主人公キャリーの生き様の哀しさに尽きる。 狂信的な母親に育てられ、過剰なまでの清廉潔白ぶりを強要され、日に何度もお祈りを捧げる日々を送らされ、母の意志にそぐわなければ即刻クローゼットに閉じ込められる。そんな家庭環境であるがために一般常識的な知識さえもまっとうに与えられず、初潮という生理現象さえも知らないために自身の陰部から血が出ることでパニックになり、学校でクラスメートからタンポンを投げつけられる始末。従って幼少の頃はまるで人形のような整った顔立ちだったのが今ではニキビと艶のない髪の毛で、作中の表現を借りれば「白鳥の群れに紛れ込んだ蛙」のような有様だ。 そしてとにかく主人公キャリーの母親の狂信ぶりが凄まじい。 姦通することを何よりも忌み嫌い、自分が妊娠したことすらも穢れとする。そして自身の娘キャリーを男たちの誘惑の手から遠ざけるため、キャリーに他者との関わりを絶つことを強いる。もし自分の意志に背こうものならば、折檻をした上でクローゼットに何時間も、時には一日中閉じ込めて悔い改めさせる。 とても親とは思えない所業だ。 しかしそれまで母親に服従するしかなかったキャリーにある芽生えが生まれる。それが念動能力だった。 最初の兆候は彼女が幼い頃。折檻を受けたキャリーは突然氷の雨と石の雨を降らせる。しかしそれは常に起こるわけではなかった。そしてキャリーが初潮を迎えた後、その能力が開花する。そして彼女の思春期による親への反抗心と相俟って、彼女はついに母親からの逸脱を試みる。それがプラムへの参加だった。 初めて彼女が母親の反対を押し切り、自分の意志で選択した行動。それが大惨事の引き金になるという皮肉。報われなかった女性にキングは壮絶な復讐と凄絶な死にざまを与える。 ここでやはり注目したいのはキャリーの親の束縛からの自立だろう。 異様なまでの執着心で母親の支配を受けていた彼女が抵抗し、ついに自由を得る困難さは途轍もない大きな壁だっただろう。彼女に念動能力が無ければ叶わなかったことではないだろうか。親という大きな壁への抵抗というこの非常に身近な人生の障害もまた万人に受け入れられた要素なのかもしれない。 さらに本書が特異なのは女性色が非常に濃いことだ。 それは主人公キャリーが女性であることから来ているのだろうが、キャリーを虐めているのは男子生徒ではなく女子生徒ばかりでキャリーの生活の障壁となっているのも前述のように狂信的な母親だ。 さらに生理という女性特有の生理現象がキャリーの念動能力の発動を助長させ、またキャリーの死を看取ったスージー・スネルがその直後生理になっているのも新たなる物語という生命の誕生を連想させ興味深い。 これはキング本人が母子家庭で育ったからかもしれない。キングにとって母親は自分を女手一つで育ててくれた偉大で尊敬すべき存在だったことだろう。 つまりキングの成長には常に母親という強い女性の存在があった。それがゆえに女性の強さ、そして怖さというのを知っていたのではないだろうか。男にはない生理という現象すら毎月血を流しながらも家計を支える逞しさに何か人間以上の存在を感じていたと考えるのは穿ちすぎだろうか。 ところでキングがボストン・レッドソックスの大ファンだというのは公然の事実だが、このデビュー作で既にレッドソックスが出ているのには笑ってしまった。キャリーをプロムに誘ったトミー・ロスの死に関して同チームの監督がコメントを残しているのだ。三つ子の魂百までとはまさにこのことか。 閑話休題。 既に物語の舞台であるメイン州チェンバレンで大量虐殺が行われたことは物語の早い段階で断片的に語られる。 従って読者は物語の進行に伴い、訪れるべきカタストロフィに向かってじわりじわりと近づいていくのだ。しかしながら1974年に書かれた本書で描写されるキャリーの虐殺シーンはいささかおとなしい印象を受ける。 プロムの舞台となった体育館で突然扉が閉められ、スプリンクラーが回り、バンドたちの楽器のアンプなどから電気のコードが自然に放たれ、見る見るうちに感電していく。そして電気の発火による火災が起き、体育館は火の海に包まれる。 さらに外に出たキャリーは消火ができないように消火栓を次々と破壊しては水を大量に放出し、ガソリンスタンドやガスタンクに引火していく。 そして電線を切断しては街行く人たちを感電させる。いわば歩く無差別テロの様相を呈しているのだが、今日のこのあたりの描写はもっと強烈だろう。 血の匂い立つような細かくねちっこい描写や痛みを感じさせるほどの迫真性に満ちた生々しさが本書には足りない。 前後見境なくなったキャリーはチェンバレンの町を練り歩くのだが、その所業を町の人たちはなぜかキャリーの仕業だと認知する。私はここにキングの先駆性を見た。 いわば念動能力という脳内で発動する能力が活性化するとその者の意識は外側に放たれ、それを他者が感知することを示唆しているのだ。いわば外に開かれた意識の共有化ともいえる現象をこの1974年の時点で描いていることに驚嘆を覚えた。 440名もの死者と18名の行方不明者を出し、町は崩壊する。そしてキャリー自らも母親から受けた傷と恐らくは酷使しすぎた能力の反動で命を落とす。彼女は一身に背負った不幸を町中にばらまいたのだ。 そして物語は第2のキャリーの誕生をほのめかして終わる。この惨劇はあくまで一過性の物ではないとして。もしかしたら貴方の町にもキャリーはいるのかもしれないとメッセージを残して。 今では実にありふれた物語であろう。 が、しかし物語にちりばめられたギミックや小道具はやはりキングのオリジナリティが見いだせる。“to rip off a Carrie”などという俗語まで案出しているアイデアには思わずニヤリとした。 識者によればキングの物語にはあるミッシングリンクがあるという。本書を皮切りにそのリンクにも注意を払いながら読んでいくことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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チャーリー・マフィンシリーズ5作目の本書は前作『罠にかけられた男』同様、チャーリーは保険会社の調査員という役職でローマに赴くことになる。
そしてとうとうチャーリーは英国情報部の手に堕ちてしまう。彼が組織に大打撃を与えて3作目で、作中時間では7年目のことだった。 全てはKGB議長ワレーリ・カレーニン将軍が仕組んだ罠だったのだ。一連の英国情報部員暗殺、ローマ駐在イギリス大使館盗難事件はチャーリー・マフィンという男を社会的に抹殺するために入念に仕組んだ罠だった。つまりそれほどカレーニンはチャーリーという男を恐れていたことになる。 これはその後の作品でもそうで、KGBが関わる工作にチャーリーの影を見るとカレーニンと彼の親友ベレンコフの頭には危険信号が灯るのだ。 本物を知る男は本物を知る。権謀詐術でKGBのトップまで上り詰めた男はチャーリーの頭脳明晰さと策士ぶりを何よりも恐れていた。つまりそれほどチャーリーは優秀なのだ。 また本書ではチャーリーが英国情報部の工作員になるまでの経歴が紹介されている。まずチャーリーの最初の職業が百貨店の社員であったことが意外だった。その時代に妻イーディスと結婚し、その後情報部の試験を受け、そこで才能が開花したのだった。 またチャーリーの悩みの種であり、また彼に危機を知らせるシグナルの役目をする不格好な横に平たい足は軍隊時代に重い長靴で長時間歩き回された結果だったことも判明する。 ここに彼の行動原理の源流があると私は思う。つまり彼の足はいわゆるマチズモ色濃い上下関係に対する反発の象徴なのだ。だからこそチャーリーは他の工作員とは違い、自らを犠牲にして国に使えるのではなく、自らが生き残るために国さえも犠牲にするのだ。 この親友ルウパート・ウィロビーの妻クラリッサの存在はそういう意味では忘れらない存在となった。彼女はチャーリーが妻イーディスを喪った後に彼に執着し、チャーリーを追ってローマに向かう。 うだつの上がらない風体でキャリアウーマン風女性からは決して親しまれる風貌をしていないチャーリーなのだが、なぜかモテる。この次の作品『亡命者はモスクワをめざす』彼はシリーズ全体を通してなかなか結ばれない運命の女性ナターリヤ・フェドーワと出会うのだが、クラリッサはその出会いまでの―失礼な書き方になるが―前菜といった感じだろうか。逆にクラリッサのような女性がいるからこそナターリヤとの恋が真実味を持ちうるのかもしれない。 さて本書で第1作から8作『狙撃』までのチャーリー・マフィンシリーズがようやく私の中でつながり、未訳の9作目を飛び越して残るは10作目の『報復』のみとなった。ここまで読んできたことでこのシリーズもある変容が見られることが分かった。 第1作目と2作目は対となった作品で属する組織に裏切られたチャーリーが復讐を仕向ける話でいわば半沢直樹のように“倍返し”をする話だ。 続く3~5作目は親友ルウパート・ウィロビーが経営する保険会社の調査員として事件に出くわすチャーリーでこれは逆に作者自身がシリーズの動向を手探りしていた頃の作品だろう。 そして6作目で再び諜報戦の世界に舞い戻ったチャーリーはその後もKGBとFBI、CIA、さらにはモサドとも丁々発止の情報戦、頭脳戦を繰り広げていく。これこそがこのシリーズの本脈だろう。 つまり本作はチャーリー・マフィンを諜報戦の世界に戻すために必要だった物語であったのだ。訳者あとがきにもあるように作者自身シリーズを終焉させようと思いながら書いた本書が起死回生の作品となったことが推測される。 さて未訳作品以外で残る未読のシリーズ作品はあと1作。私のチャーリー・マフィンを追いかける旅もようやく彼と肩を並べるところまで来そうだ。実に楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シャーロック・ホームズに次ぐドイルのシリーズキャラ、ジョージ・チャレンジャー教授第1作目の本書は今なお読み継がれる冒険小説だ。
未開の地アマゾンの奥地に隆々と聳え立つ台地の上に独自に発展した生態系があり、そこには絶滅したとされた恐竜が生息していた。 この現代に蘇る恐竜というモチーフは現代でもなお様々な手法で描かれているが、今なお映画化されているクライトンの『ジュラシック・パーク』の原典が本書であると云えよう。 しかし本書ではイグアノドンやステゴサウルス、もはやおなじみといえるティラノサウルスなどの恐竜のみならずブドウ大ほどもある吸血ダニに、翼を広げると優に6mはあろうかと思える翼竜たち、魚竜のイクチオサウルスに巨大テンジクネズミのトクソドン、そして進化の過程に存在したと思われる猿人たちなど非常にヴァラエティに富んだ生物が数々登場して読者を飽きさせない。 しかし最も特筆すべきは冒険の舞台であるメイプル・ホワイト台地の精密な描写である。あたかもジュラ紀に舞い込んだジャングルの風景を詳細に描写する様はまさに目の前に映像が浮かび上がってくるようで、しかもそれらの映像は先に述べた映画『ジュラシック・パーク』シリーズの映像で補完されるがごとくである。 ジャングルの蒸し暑さと未知の世界を行く登場人物の緊張感の迫真性はとても1912年に発表された小説とは思えないくらい、リアリティを持っている。ドイルの想像力の凄さを改めて思い知らされた。 そして何より忘れてはいけないのは主人公チャレンジャー教授の特徴豊かなキャラクター性だろう。がっしりとした幅広い樽のような図体の上には語り手の新聞記者マローンが見たことのないほど巨大な頭が乗っており、ゲジゲジ眉毛を備えた雄牛そっくりの面構えは高慢な雰囲気を醸し出しており、とてもお近づきになりたい人物ではない。それを裏付けるように喧嘩っ早く、同業者や無知蒙昧な素人に対して口論ならびに毒舌を吐き、しまいには怪力で暴力を振るうという、とても主人公とは思えないほど性格の悪い人物だ。 しかし物語が進むにつれてこの傲岸不遜なチャレンジャー教授に好感を覚えてくるのが不思議だ。彼がたとえ英学会で干され、無視されようとも自分が正しいことを曲げずに主張するという一貫性に満ちているからだ。彼はどれだけ反論されようが決して諦めない、不屈のジョンブル魂を持った孤高の人物であるのが次第に解ってくる。 今やその原題“The Lost World”が全ての失われた秘境冒険物語の代名詞ともなっているまさに原型とも云える本書は現代の冒険スペクタクル小説に比べれば多少の見劣りはするが、上に述べたようにドイルの想像力が横溢して読者を退屈させない。 さて上にも述べたように本書は秘境冒険小説の原型とも云える記念碑的作品であるが、実は本書でドイルが最も語りたかったのは男の成長譚ではないだろうか? 特に語り手である弱冠23歳の新聞記者エドワード・マローンが野心だけが大きな実のない男から苦難の冒険を経て他者に認められる男として帰ってくるための物語、そんな気にしてならない。 そしてまた学会で異端児として扱われているチャレンジャー教授が自説を証明するための苦難の道のりを描いた物語でもある。 つまり権威として認められるには男は冒険をすべきだというのが本書の真のテーマではないだろうか? それが特に最終章に現れている。 南米で原始の時代から生息する生物のみならず独自の進化を遂げた生物の発表をするために舞台に立ったチャレンジャー教授、ジョン・ロクストン卿、サマリー教授、そしてエドワード・マローンのなんと晴れやかなことよ!困難に立ち向かい打ち勝った男の晴れ晴れとした姿こそドイルが書きたかったものではないだろうか。 あくの強い面々によってなされた冒険譚。失われた世界に生きる生物の神秘よりもこれら愛すべき男たちの成長にエッセンスが込められていることに気づいたのが本書を読んで得た大きな収穫だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾作家生活25周年記念として3冊の作品が2011年に発表された。
1つは加賀恭一郎シリーズ『麒麟の翼』、もう1つは探偵ガリレオシリーズ『真夏の方程式』、そして最後が本書だ。 そして本書は東野作品2大シリーズと並んで新シリーズと謳われている。 このシリーズ第1作は昨今流行りのお仕事小説にこれまた昨今ブームとなっている警察小説を見事にジャンルミックスした非常にお得感のある小説となっているのが特徴だ。 まず導入部で一流ホテルウーマン山岸尚美の有能ぶりを小さなエピソードで読者に紹介し、一方で新田浩介の粗削りながらも一刑事としての有能さをまたもや小さなエピソードで読者に浸透させる。 人を笑顔で迎え、常に感謝の気持ちを忘れないと心がけるホテルウーマンと常に人を疑ってあらゆる可能性を考える刑事という職業のミスマッチの妙を実に上手く物語にブレンドしている。東野氏が書くと実にたやすく感じるが、実はこのような真逆の分野を無理なく溶け込まして物語を進行させる技量の高さを感じさせないところが東野圭吾氏の凄さだろう。いやはや東野圭吾氏の着眼点の鋭さには恐れ入る。 また本筋の殺人事件の捜査とは別に本書ではホテルを舞台にしていることでヴァラエティに富んだ珍客が登場するのがいいアクセントとなっている。 妙齢の老婦人はなぜ目が見えないふりをして、不可解なクレームをつけるのか? 写真の男を決して近づけないようにホテル従業員に強要する女性。 新田を名指しして不可解なクレームをつける年齢不詳の小男、などなど。 これらの謎が解き明かされた時にまた1人1人の客が様々な思いを抱えてホテルという非日常空間に来ていると知らされる。 これらはいわば日常の謎である。 こんなエピソードをちりばめながら水と油の存在だった山岸尚美と新田浩介の関係を近づけていく。そして後々にこれらのエピソードもメインとなる事件に有機的に関わってくるのだからまさに抜け目のない出来栄えだ。 山岸尚美と新田浩介。 この相反する2人がそれぞれのプロ意識をお互いに認めながら次第に打ち解けあうのはこのようなミスマッチコンビ物語の常ではあるが、東野圭吾氏はそこに組織の問題をうまく挟んでそう易々と名コンビを誕生させない。 さて今回山岸尚美と新田浩介という二大主人公のキャラが立っているのが本書の面白みの1つであるが、彼らを支えるバイキャラクターの存在も忘れてはならない。 まず1人目はコルテシア東京の総支配人藤木。 山岸をホテルウーマンになろうと決心させた上司で彼女を一流のホテルウーマンに育て上げた人物でもある。常にお客の安全と満足を考え、今回の捜査で何かが起これば辞職も辞さない決意を持った生粋のホテルマン。 もう1人は能勢という所轄の刑事だ。 最初に起きた品川の事件の捜査で新田と組むようになった中年太りの髪の薄い、一見うだつの上がらなさそうな風体の刑事だが、刑事コロンボのように相手を油断させておいて常に鋭い目で人間を見つめている有能さを備えている。特に若くして捜査一課の刑事の抜擢された新田の本質を見抜き、ヴェテラン刑事が素質ある有望な若手を育てようとする温かみが感じられる好キャラクターだ。 これらのバイキャラクターの存在が山岸と新田の人物像に厚みを持たせ、物語に深みをもたらしている。 さてこのようにまさに面白い小説の良いお手本のような本書であり、まさに完璧だと思われるのだが、1点だけどうしても気になるところがある。 それは監視カメラについて警察があまり言及がなされないことだ。 例えば犯人が毒入り(と思われる)ワインを送った際、警察は購入先を捜査し、コンビニで買ったことを突き止めるが、対応した従業員による聞き込みしかせずに防犯カメラの映像を確認すらしない。そこに違和感を覚えるのである。 他にも監視カメラや防犯カメラを使えばいつどこに誰がいるか、もしくはいたかが解るにも関わらずである。 クライマックスシーンの山岸尚美の行き先についてもそうだ。候補として挙げられた部屋番号が判明しているのだから、当該階にあるホテルの廊下に設置されている防犯カメラを調べればいいのである。 昨今のTVドラマでは防犯カメラの映像が実に効果的に使用されており、また他の警察小説でも同様の手法を取り入れているのに、なぜか東野作品における防犯カメラを警察が活用する頻度が実に低いのである。 特に本書の場合、携帯電話を使った電話番号差し替えのトリックや闇サイトにおける重層的な交換殺人と実に現代的な犯行計画が用いられているのに、捜査側のアナログ感が非常にアンバランスだと感じた。これは作品にとっては瑕疵にすぎないかもしれないが、他の作品でも同様に感じたことでなかなか改善がなされないので今回も敢えて挙げさせてもらった。 さて上にも書いたように本書は新シリーズ1作目ということですでに2作目の本書の前日譚である『マスカレード・イヴ』が発表され、それは本書の事件以前の山岸尚美と新田浩介の物語とのこと。しかしそうそう刑事がホテルと関わり合いを持つことはないだろうから、3作目『マスカレイド・ナイト』がどんな形になるのか気になるところだ。 個人的には名バイキャラクター能勢と新田のコンビの復活を願いたいところだ。まあ男2人の、しかも一方は小太りで髪の薄い中年オヤジだから絵としては実に栄えないのだが。 しかし25周年記念作品で『麒麟の翼』、『真夏の方程式』、そして本書といずれもクオリティが高いのがすごいところだ。一体どこまで行くのだ、この作家は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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恋に破れた女性の心の旅路。
このジェレミーとカーチャの再会は私自身同じような経験をしたことがあるだけに痛切に胸に響いた。 それは悲しみではなく、懐かしさだ。私もかつて愛した女性への未練が断ち切れず、別れた約3ヶ月後に一緒に食事に行った。その時は別れたことが何か間違いであって、もう一度顔を合わせて話せば寄りが戻るはずだという期待を込めた再会だったが、彼女の吹っ切れた笑顔に彼女の中で自分のことはもう整理がついたことを思い知らされ、逆に私の中で彼女に対するわだかまりが無くなったのだった。 あれは私にとって必要な再会だったと今でも思う。ジェレミーとカーチャもまた同じだったに違いない。 しかし人と人との間に生まれるドラマを描かせるとやはりブロックは上手い。決して特別なことを書いているわけではなく、むしろドラマとしては典型的であろう。 しかし一つ一つのエピソードが読者の人生に擬えられ、共感を覚える。 別れた女性への未練、子の親への反発、振られることで迎える狂おしい日々などは私もかつて経験しただけに痛切に心に響いた。こんな経験をして今の私があるのだなと再認識させられた。 分量としては1時間もあれば読み切れるが、心に残る印象は今までの人生が一気に蘇ってくるほど濃い。 新しい恋をするために自らの人生を磨いたエリザベス。 これは決して甘くはない大人の恋の物語。実力派の描いた物語は実に極上でした。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズ第2弾の舞台は長野県の別荘地蓼科(ちなみにシリーズの“V”は瀬在丸VENIKOのVから来ているらしい)。そこにある人形博物館で殺人事件が起きる。
調べてみたがこの人形博物館は実在せず作者の創作らしい。 さて今回の事件は大きく分けて3段階に分けられる。 まずは劇場で上演されていた人形文楽の最中に出演者が襲われ、もしくは殺される事件。 一方が毒を呑まされ、その騒ぎの間隙を縫って何者かが櫓上の老婆に近づき、背中から刺殺する。 もう1つは2年前に起きた悪魔崇拝者岩崎亮が何者かによって刺殺された事件。 死体発見者の妻麻里亜は3メートルを超す馬頭人身と人頭馬身の2種類の悪魔が現れ、神の白い手によって殺害されたというオカルティックな事件。 最後は瀬在丸紅子が巻き込まれた真夜中の人形博物館で起きた館長岩崎毅の毒殺事件と密室状態の病院に何者かによって喉を切られた麻里亜殺害未遂事件。 上に書いたように事件は3段階で起きるが、事件の種類は大きく2つに分かれる。 毒殺と刺殺。 毒殺は未遂も含めて岩崎麻里亜と岩崎毅の2人。刺殺は未遂も含めて岩崎亮と岩崎雅代と岩崎麻里亜の3人。 どちらの事件にも遭遇しているのが岩崎麻里亜でしかもいずれも未遂である。この辺がキーだと思われる。 しかし森ミステリのもはや定番ともいうべきか、本筋の殺人事件の真相には驚きがなく、むしろサブストーリーの謎やガジェットの真相の方に実は大きなサプライズがあるが、本書も例外ではなかった。 本書はタイトルにもあるように人形がモチーフとなっている。 世界中の人形を集めて展示している人形博物館にそこで上演されている人形を操って劇を行うばかりか演者自らが人形となって演じる乙女文楽なる伝統芸能。さらに著名な彫刻家が遺した千を超えるモナリザ人形と数々の人形が物語を彩る。 しかし人間こそが操られた人形ではないかと保呂草は最後に辿り着く。 誰かに操られているという意識は実は自らを苦難から解き放つのに最適の思い込みなのかもしれない。 さてこのVシリーズ、S&Mシリーズと違い、男女の恋のもつれ合いが前面に押し出されている。前シリーズでは西之園萌絵が准教授の犀川にアピールするものの、犀川が知らぬふりをしてさらりとかわす一方で、萌絵のピンチになると命を擲ってでも彼女を救おうとするギャップがファンには受けていたが、このシリーズでは主人公の瀬在丸紅子に離婚歴があり、その元夫林は愛知県警の刑事でダンディーな風貌で女性にもて、結婚中に部下の女性刑事と愛人関係にあったというドロドロとした愛憎劇が底流に含まれている。 かてて加えて本書の登場人物の岩崎家も乙女文楽の創始者岩崎雅代の夫の家族と彼女が愛人だった彫刻家江尻駿火との間に生まれた子供たちの家族とが混在している奇妙な関係性がある。つまり通常の家族の形とは違ういびつな関係の人々が物語を形成しているのだ。 前作のシリーズを踏襲しているのは惚れやすい香具山紫子と保呂草潤平との関係だろうか? 保呂草に恋心抱く紫子が冗談交じりでモーションをかけるのに対し、保呂草は常にクールに切り返すが、相手にしないわけではない。そして保呂草はどこか瀬在丸紅子を気にしているといった奇妙な三角関係にある。 女装癖のある小鳥遊練無はそれらの関係の中ではニュートラルな位置にあり、紫子のグチ相手となってこの奇妙な4人の関係の緩衝役といったところだろうか。 しかしどこか浮世離れしたシングルマザー瀬在丸紅子の特異なキャラクターに、謎めいた探偵保呂草潤平に紅子の元夫で刑事の林とどこか善人とは云いきれない怪しい魅力に満ちた登場人物が主役であることで実際何が起こるか解らないミステリアスな雰囲気に満ちている。 それを中和するのが小鳥遊練無と香具山紫子のコミカルな2人。実に面白いバランスで成り立っている。 あらゆる意味で先行きが興味津々なこのシリーズ。次作も非常に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はHM卿シリーズ14作目で比較的後期の作品だが、実に読みやすく、また展開も早いため、クイクイ読まされた。
決して許されない恋に落ちた男と女が先のない行く末を儚んで心中する、というよくある悲劇が一転して2人は至近距離で何者かに撃たれた後に崖から転落したという不可解な犯罪へと転ずる。この辺の転調が実にカーらしいケレンに満ちている。 この実にシンプルかつ不可解な事件を調べていくうちに意外なことが次第に判明してくる。 本書のテーマ“信用のならない語り手”の裏には “家族であってもそれぞれが十分に理解しているとは云えない”という実に普遍的なテーマが隠されていた。 駆け落ちする男女を犠牲者にすることで色恋沙汰の悲劇という実にオーソドックスな作品かと思いきや、ディクスンの思わぬ意図に感心させられてしまった。 そして本書ではさらにイギリスに迫りくる第二次大戦も本書にほのかに影響を与えている。 ところで毎回HM卿のコメディアンぶりがこのシリーズの定番になっているのだが、本書でもそれは健在。 足の指を骨折して電動車椅子に乗っての登場となるが、車椅子の性能を存分に試そうといきなり暴走しながら登場する。実にはた迷惑なオッサンである。 毎度毎度カーもいろんな趣向を考え出すものだと呆れるやら感心するやら。未読作品でもこの無茶ぶりが健在なのか、手に入れ次第確認していきたい。 また本書ではカー自身が得意としていた足跡トリックを当時の最新科学でミステリのように偽装することは不可能だと作中で解説しているのが実に興味深かった。作者自らがお得意のトリックを敢えて封じたことに潔ささえ感じた。 今回は新訳改訂版であったため、上にも書いたが実に読みやすかった。せっかくのカーの諸作を旧訳の古めかしい文体で読むよりも遥かにいいので、東京創元社にはこのまま新訳改訂版の出版を継続してもらいたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ニューヨークはマンハッタンを舞台にした短編のアンソロジー。
そもそも本書以前に本国アメリカでは『ブルックリン・ノワール』というブルックリンを舞台にした同趣向の短編集が編まれ、それが好評だったため、シリーズ化することになり、マンハッタンを舞台にしたアンソロジーの編纂をマンハッタン在住のブロックに編者として白羽の矢が立ったらしい。 さてそんな小洒落たアンソロジーの一幕を担うのはディーヴァーの「見物するにはいいところ」。 ヘルズ・キッチンを舞台にした本作は実はディーヴァーの短編集『ポーカー・レッスン』所収の「遊びに行くには最高の街」である。正直『ポーカー・レッスン』で読んだ時はレナード張りの小悪党と悪徳警官が蔓延るクライム・ストーリーにディーヴァー特有のどんでん返しを加えた粋な作品と云う風に捉えていたが、本書のようなマンハッタンに舞台を絞ったワンテーマのアンソロジーではその読み応えは異なる。 酸いも甘いも呑み込む世界一の街マンハッタンの裏側にいきなり招待してくれるイントロダクションとして実に軽妙な一編となるのだ。 『ポーカー・レッスン』では掉尾を飾ったが本書では冒頭を飾り、いきなり読者をマンハッタンへと誘う。同じ話なのに編まれ方で斯くも味わいが違うとは、これもアンソロジーならではの妙味だろう。 続くチャールズ・アルダイの「善きサマリア人」の舞台はミッドタウン。 チャールズ・アルダイと云う作家の名は初めて聞き、当然ながら初めて読んだが、実に叙情豊かな作風で好感が持てた。 浮浪者の傍にふと佇む1人の紳士。彼は微笑みを湛えながら煙草を勧める。浮浪者にとってそれは嬉しい施しの1つであったが、それは死に向かう前のひと時の安楽に過ぎなかった。 グリニッチ・ヴィレッジを舞台にしたキャロル・リー・ベンジャミンの「最後の晩餐」は離婚の手続に訪れる夫をバーで待つ女性の物語。 夫を待つ間に様々な思いを巡らすエスターの思考が面白い。やはり女ほど面白く、そして怖い存在はないのだと思い知らされる好編。 現代アメリカミステリを代表する1人、トマス・H・クックの「雨」は雨降りそぼるマンハッタンで様々な人々が織りなす大なり小なりの犯罪を描写した群像劇。 雨は誰にでも降り注ぐ。殺人者にも窃盗犯にも変質者にも遺棄された赤子にも。そしてまた犯罪を捜査する警察官にも、そして犯罪の世界から足を洗う男にも。本作はそんなマンハッタンに住む人々を点描した作品だ。 ジム・フジッリの「次善の策」はろくでなしのバンドマンと同棲する女性の物語。 同棲男が企む銀行強盗を逆手にとって彼女を慕う女性がまんまと金をせしめ、逃亡するという市井の女性の汚れたアメリカン・ドリーム。叙情豊かな文体は悪くない。 「男と同じ給料をもらっているからには」はガーメント地区を舞台にしたロバート・ナイトリーの作品。日本から出張で来たホシ・タイキという日本人が娼婦殺人の容疑で逮捕され、警察署内をたらい回しにされるのがストーリー。 意外な展開に正直面食らうが、外国人のホシが体験する警察署での尋問の一部始終は実に面白く、興味深かった。 大御所ジョン・ラッツの「ランドリールーム」は奇妙な後味を残す作品だ。 ローラは洗濯中、息子デイヴィッドの衣類に血の痕のような痕跡を見つける。どうも最近学校にも行っていないらしく、夫のロジャーに相談するが彼は一笑に付して相手にしない。しかし彼女の懇願もあってロジャーは息子の後を付けることにした。 息子の行先は物凄いブロンド美人の住むアパートだった。ロジャーは妻に電話し、場所を説明する。ローラが現地に着くと既にデイヴィッドは帰った後だった。ローラは息子の訪れた女性を訪ねることにする。しかし彼女2人が見たのは喉を掻っ切られて横たわる女性の遺体だった。 ここまではよくある話だが、さすが『同居人求む』というサイコサスペンスを書いたラッツ。本書でも同種の展開を見せてくれる。 リズ・マルティネスの「フレディ・プリンスはあたしの守護天使」は実在したコメディアン、フレディ・プリンスが一ファンだった少女の守護天使として現れる。 どこか不思議な浮遊感を持った本作はジョー・ヒルの短編に似たテイストを持っている。実在した人物が登場し、実に軽い調子で人の人生に忠告する雰囲気が似ているのだ。 しかし結局ラケルを不幸に追い込んだフレディ・プリンスは一体何だったのか?明らかに守護天使ではなく、疫病神でしかないのだが。 マアン・マイヤーズの「オルガン弾き」も奇妙な話である。 ロウアー・イーストサイドという貧民地区で手弾きのオルガンを鳴らしながら歌を歌っては小銭を稼いで糊口をしのいでいるアントニオ・チェラザーニの生活を中心に、弱い者が常に食われるような荒んだマンハッタンの最低部での生活風景が語られる。 一介のオルガン弾きをからかい、その小銭を強奪する悪ガキたち。拾った金歯を金に換えようとする警官。そこに巣食うイタリアの犯罪組織の内偵を続ける警察官。そして何者かに殺され遺棄された身元不明の女性。 それらがロウアー・イーストサイドの空気を、臭いを感じさせる。 マーティン・マイヤーズの「どうして叩かずにいられないの?」も荒廃とした物語だ。 本作もまた社会の底辺で生きる人々の物語。ろくでなしを好きになってしまう男好きの女性の哀しい物語だ。 題名は彼女が男を殺害した後に吐露する言葉だ。しかし逆に私は「どうしてそんな男を好きにならずにいられないの?」と問いかけたい。 創元推理文庫で好評のリディア&スコットシリーズを刊行中のS・J・ローザンは私がいつか読みたいと思っている作家の1人だが、彼女の手によるハーレムを舞台にした「怒り」もまた社会の最下層の人々の物語だ。 犯罪者の再犯率は極めて高いというデータがあるらしいが、それがために前科者は更生して出所しても身の回りに犯罪が起きると真っ先に疑われる。 レックスも怒りに駆られて見境なく暴力を振っていたが、その衝動を改めて真っ当に生きようとする。しかし彼の周囲で犯罪が起こると刑事たちが執拗に訪ね、尋問する。犯罪大国アメリカで今でも起こっている哀しい事実なのだろう。 少年を救うためにレックスが起こした行動はレックスが更生した証なのだが、少年以外誰も気付かないことが哀しい。 マンハッタンでもハイソな場所チェルシーを舞台にしたジャスティン・スコットの「ニューヨークで一番美しいアパートメント」は弁護士と不動産という中流層の人たちを主人公にした物語で他の作品とは一線を画しているように思えるが、中流層は中流層なりにある狂気に駆られていることがこの作品を読むと解る。 安定した職業を持つ人々にも上昇志向という性があり、それが行き過ぎると狂気に及ぶ。これはそんな物語だ。 今まで全てにおいて2番手に甘んじていた主人公が今度こそ一番を目指したのがマンハッタンのチェルシーにあるクラシックなアパートメント。そここそが彼が子供の頃に夢見たニューヨーク・ライフの象徴だった。 一方で極上のアパートメントを妻に奪われた不動産屋もそのステータス・シンボルを略奪された思いから妻の殺人衝動を日増しに募らせ狂気へと進む。アパートメントと云う富の象徴が生んだそれぞれの執着。スコットが上手いのはそこからのツイスト。 所詮人々は幻影を求めて生きているのだと痛感させられる1編だ。 C・J・サリバンの「最終ラウンド」は下りを迎えたプロボクサーの物語。 新聞の社会欄の片隅にほんの数行のみ報じられるであろう小さなニュースだが、そこに至った人々にはかくも深いドラマが眠っている、そんな気にさせられる1編だ。 恐らくは中国系作家と思われるシュー・シーの「オードリー・ヘップバーンの思い出に寄せて」はニューヨークに暮らす中国系移民の女性のある半生の物語。 栄枯盛衰。誰しも訪れる人生の光と影。やはりこのような話はしんみりとして哀しみを誘う。 最後は編者ブロック自身による「住むにはいいところ」。 いわゆるハニー・トラップの話。 いやはや都会の夜は恐ろしい。 冒頭にも書いたように本書は先に『ブルックリン・ノワール』なるブルックリンを舞台にしたアンソロジーが先にあり、それに続くシリーズとして今度はマンハッタンを舞台にしたアンソロジーをローレンス・ブロックが編者を務めた物。 従って原題は『マンハッタン・ノワール』であり、マンハッタンの暗部を活写するようなクライム・ストーリーで構成されている。 作者の選出はブロック自身が行ったようだが、日本の読者には馴染みのない作家の作品で構成されているのが特徴的だ。本書に収録されている作家の内、日本で知られているのはジェフリー・ディーヴァー、トマス・H・クック、ジョン・ラッツ、S・J・ローザン、そしてブロック本人ぐらいだろう。その他10名の作家は邦訳がなく、あっても1冊のみと云った未紹介作家の名前が並ぶがそれぞれが個性的でしかも読ませる。アメリカ作家の懐の深さを思い知らされた次第だ。 人種のるつぼニューヨーク。冒頭ブロックがニューヨークで“街”と云えばマンハッタンを指すと述べている。つまりマンハッタンこそがニューヨークの中心であり、アメリカの中心であり、そして世界の最先端の街である。 しかし本書に収められた作品に描かれたマンハッタンはそんな大都会の片隅で這いつくばりながら生きる人々が描かれている。彼らの生活は決して華やかではない。むしろ弱肉強食の世界に放り込まれた弱者たちで力に従い、したたかに生きている人々たちだ。 それは原題にノワールと掲げられているからかもしれないが、全体的に物語は暗鬱でペシミスティックだ。そしてどちらかと云えば誰もが誰かを出し抜こうと手ぐすね引いて待っている、そんな悪意が行間から立ち上ってくる。 そんなノワール色濃い短編集だが、個人的ベストはS・J・ローザンの「怒り」、ジャスティン・スコットの「ニューヨークで一番美しいアパートメント」、C・J・サリバンの「最終ラウンド」を挙げたい。 ローザンとサリバンの作品は底辺で暮らす人を主人公に据えながらも最後に前向きで明るい光が見えるような話になっているからだ。罪のない子供が冤罪で逮捕される所を身代わりになる元犯罪者と最盛期を過ぎ、家族を強盗で喪ったプロボクサー。決して明るい結末ではないが、善行による魂の救済が見られる。 そしてスコットの小説は中流層の人間が陥りがちな資産に自分のステータスを見出すことによる過ちを描いたのが特徴的で他の作品群と一線を画す。最後の皮肉な結末も含めて飽きさせない。 最近は編者としての技量も発揮しているブロック。創作よりもアンソロジーを編むことに専念する大御所作家が多い中、ブロックはその後も自作を発表しているところが素晴らしい。本書はニューヨークに馴染みのない日本人にはなかなか街の空気までも感じられないだろうが、日本未紹介作家の佳作たちに触れる数少ないチャンスである。 ジャスティン・スコットとC・J・サリバンの作品が読めただけでも収穫があった。他の未紹介作家の邦訳が進めばいいのになと思わされた短編集である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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久々の御手洗潔シリーズ長編はなんと島田荘司氏の故郷福山を舞台にした瀬戸内海を巡るミステリ。
短編からは『進々堂世界一周 追憶のカシュガル』以来2年ぶりだが、長編としては2005年に出版された『摩天楼の怪人』以来、なんと8年ぶりの刊行となった。 本作は『ロシア幽霊軍艦事件』の後1993年頃に遭遇した瀬戸内海を舞台にしたミステリで、つまり海外を舞台にしたミタライではなく、往年のシリーズファンには非常に馴染みやすい石岡和己との名コンビが味わえる作品となっている。 本書は文庫で上下1,140ページ物大長編であるが、文字のフォントが大きいため、90年代に毎年のように記録を更新するが如く刊行された大長編ほどの大部では無いように感じられる。そして物語の枠組みはそれらの作品で見られた様々なエピソードをふんだんに盛り込んではいるものの、全てが御手洗の扱う事件も含めて広島県の鞆という町が舞台となっている。 まず御手洗が今回扱う事件は愛媛県の松山市の沖合にある島、興居島で頻繁に死体が流れ着く怪事から物語は幕を開け、やがてその源である福山市の鞆に行き着き、そこで新興宗教が起こした奇妙な征服計画に対峙する。 この物語を軸にして他に3つのエピソードが盛り込まれる。 1つは小坂井茂という鞆で生まれ育った男が巻き込まれた数奇な半生の話。 もう1つは村上水軍と福山藩主阿部家について研究している大学助教授滝沢加奈子に纏わる『星籠』という謎めいた言葉に関する物語。 そしてもう1つが鞆で飲み屋を営むシングルマザーの子供宇野智弘と彼を支える造船会社々長忽那との世代を超えた交流の話。 しかしこれらのエピソードが実に読ませる。これだけで1つの話として十分読むに堪えうるものとなっている。 特に1つ目の小坂井茂という端正な容姿だけが取り柄の優柔不断な男が辿る、女性に翻弄される永遠のフォロワーの物語が後々事件の核心になってくる。一歩間違えば誰しもが陥るがために実に濃い内容となっていてついつい先が気になってしまうほどのリーダビリティーを持っている。 小坂井茂自身が事件を起こすわけではない。この主体性の無さゆえにその時に出遭った女性に魅かれ、云われるまま唯々諾々と従いながら人生を漂流する彼の生き方が自分を犯罪へと巻き込んでいく。つまり何もしない、何も考えないことが罪であると云えよう(ここで重箱の隅を1つ。小坂井の友人田中が経営する自動車整備工場でガソリンをポリタンクに入れているという件があるが法律では禁じられているのでこの辺は重版時に修正した方がいいかと)。 また3つ目の忽那と智弘との交流のエピソードにも島田氏は社会問題を盛り込むことを忘れない。1993年が舞台である本書であるが、原発のある南相馬で育った智弘は幼い頃から川や海で遊んでおり、工場排水に含まれる放射性物質で被曝して白血病を患って亡くなるのだ。実は放射能問題は大震災前から起きているのだと島田氏は現在稼働している原発周辺の住民にも警鐘を鳴らす。 また今回御手洗が立ち向かう相手は日東第一教会というネルソン・パクなる朝鮮人によって起こされた新興宗教というのも珍しい。最終目標の敵が明らかになっていることも珍しく、いかに彼を捕えるかを地方の一刑事である黒田たちと共に広島と愛媛を行き来する。 とにかく今回は御手洗が瀬戸内海を舞台に縦横無尽に動き回るのだ。私は読んでいてクイーンの『エジプト十字架の謎』を想起した。 御手洗によって語られる日東第一教会は世界的規模で信者を増やしており、日本の鄙びた港町鞆を足がかりに日本の侵略を計画しているという。 都会よりも限られた人口で共同意識を持つ田舎の方が、逆に御しやすく、牛耳りやすい。そして狭いコミュニティでは異分子は排他されるがために同一行動を採らざるを得なくなる。日本だけでなく世界でも田舎ほど怖い所はないのだ。 政界、財界の有力者を信者にし、反米感情を植え付けるような怨嗟教育を施し、誘導する。さらに本国で作った覚醒剤を持ち込み、日本で売り捌いて金や貴金属を購入し、本国に持ち帰る。そして犯罪者を匿うことで信者を増やし、それが更なる信者を生んでいく。 また異性と縁のない独身者に信者から候補者を紹介して結婚を斡旋する。聞こえはいいが、その実は朝鮮からの流れ者をあてがうだけで、いざ結婚したか思うと言葉も通じず、困り果てるが、教祖が紹介した相手を断ると報復が待っているから離婚も出来ないと二重苦三重苦に苛まれる。 これらは恐らくある実在する新興宗教をモデルにしているのだろうが、このようなことが実際に行われていると考えると実に恐ろしい。 社会的弱者に対してこのような宗教は巧みに心に滑り込み、救済という名目で洗脳を行う。それは自分も含め、誰しも起こり得ることなのだ。今現在自らに縁がなくて本当に良かったと思う。 この瀬戸内海に関する情報も実に面白い。 本書に登場する中国工業技術研究所は実在するようで、産業技術総合研究所で1973年に瀬戸内海を模した水理実験室が建設されている。瀬戸内海が他の海と違って急流があり、地形の複雑さ故に潮の流れが複雑で、また6時間ごとに潮流が変化する、ど真ん中を境に潮の流れが分断されていると述べられている薀蓄は実に興味深い。 恐らくは長らく瀬戸内海沿岸で暮らす人々にとっては既に当たり前の事なのだろうが、実に興味深く読んだ。 本書は比較的万人受けするミステリだろう。 とはいえ、死体が流れ着く島からやがて地方都市で繰り広げられる新興宗教の陰謀へと繋がり、そこに一介のベビーシッターの過失が奇妙に絡まって、更には村上水軍に纏わる『星籠』という兵器の謎と歴史ミステリの要素もありと単純に人が殺されて誰がどうやって何故殺したのかを追うだけのミステリに留まっていないのが御大島田氏の凄い所だ。 ただかつて90年代に出された、古代エジプトやタイタニック号沈没などのエピソードに大部の筆を費やし、一大伽藍を築くような荘厳たるミステリを経験してきた一ファンとしては物足りなさを覚えるものの、御手洗が初対面の人物の性格や生活の有様を一目で看破し、次から次へと暴露していく辺りはかつてホームズのオマージュである御手洗シリーズの原点回帰であり、特に嬉しいのが御手洗の奇人ぶりが復活しているところだ。アメリカでは歯を抜いた後、歯医者がアイスクリームを勧めるとか、本当かどうか解らない薀蓄を語るのが実に御手洗らしい。 ドイルが築いた本格ミステリに冒険的要素を加えた正統な御手洗ミステリの復活を素直に喜びたい。とにもかくにも故郷を舞台にした島田氏の筆が実に意欲的で、作者自身が渾身の力を込めて書き、また愉しんでいるのが行間から滲み出ている。 本書は映画化されたのでそちらも愉しみだが、それを足掛かりに国内のみならず世界を駆け巡る御手洗の活躍をスクリーンで今後も観られることを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本から戻り、再び閑職のデスクワークに従事して燻っていたチャーリーにもたらされた任務はまたもやロシアからのKGB要員の亡命に関するもの!
いやあ2作続けてロシアからの亡命者をテーマにするということは、恐らく彼が取材で得たKGBの情報を余すところなく自作で使いたかったようだ。 前作『暗殺者を愛した女』ではKGBの暗殺者の亡命がテーマだったが、本書ではKGBの暗号作成部門の上職位者による亡命で名も無きKGBの暗殺者がどこかの誰かを暗殺するという情報からチャーリーがその計画を阻止するという、いわばフリーマントル版『ジャッカルの日』とも云うべきミステリとアクション風味が色濃く合わさったエンタテインメント作品になっている。 そんな謎の暗殺者を突き止めていくMI6、CIA、モサドのそれぞれの代表者たちのうち、やはりチャーリーの冴えが光る。自分が生き残ることを第一義としてきた窓際スパイゆえの周囲の欺き方、身の隠し方、振舞い方に加えて一時期ロシアで暮らした事で得た彼らの国民性をも熟知しており、一見何の隙もないと思われた影なき暗殺者のロシア人故の不自然な振る舞いを手掛かりに突き止めていく辺りは実にスリリングでしかも痛快だった。 そんなチャーリー・マフィンの明敏さを目の敵として本部より非協力的であれと命ぜられていたCIAエージェントのロジャー・ジャイルズも認め、本部の命令に背いてまでチャーリーに力を貸す。 プロがプロを認めたこの瞬間だ。こういうエピソードは本当に胸のすく思いがする。 そして本書のミソは舞台がスイスのジュネーヴであることだ。 永世中立国であるスイスではテロに対する部門はあるものの、そもそもテロが起きるという発想がなく、平和のイメージを損ねることを嫌う。従って本書の防諜部長ルネ・ブロンはそんなスイスの空気の読めなさを象徴するような道化役になっている。 さて本書では今までにも増して諜報機関に従事する人々の織り成す人間喜劇と云う色合いが濃くなっている。 まず前作から引き継がれるハークネス次長とチャーリーの確執は一層強まっており、経理畑の長かったハークネスはチャーリーが経費を騙くらかそうとしているのをどうにか阻止しようと様々な書類を提出させようとしている。この辺はもう会社のお堅い経理部長そのもので、日本のサラリーマンならば苦笑を禁じ得ないところだろう。 そしてチャーリーの経費に腐心するあまり、MI6としての本来の任務―工作員の捜索と国の安全維持―に関する作戦の立案については全く考えていないところを部長のウィルソン卿に指摘され、何も云えなくなる件は実に傑作だ。 またチャーリーだけに留まらず、各国の諜報活動に携わる人物たちも同様で、例えば円満な離婚を迎えようとしているCIA情報部員のロジャー・ジャイルズの妻バーバラは離婚の理由については思い当たるふしがないとしながらも、情報部員の妻であるのに夫の仕事に何もドキドキハラハラしない事が不思議でならないと述べる。 つまり彼女にとって情報部員の妻として描いていた生活が一般人のそれとなんら変わらないことが不満だったのだ。 しかし本書のタイトルはディック・フランシスの競馬シリーズを想起させる『狙撃』の二文字のみでシリーズに共通してきた『~した男』や『~した女』という定型から離れている。 また原題もそれまでチャーリー・マフィンの名前が冠されていたが本書では“The Run Around”と異なっている。さらに本書は『亡命者はモスクワをめざす』から始まったKGB対チャーリー・マフィンの流れを汲んでいるようだ。 しかもエピローグではKGBのベレンコフがとうとうナターリャ・フェドーワに目を付けたところで幕を閉じ、不穏な空気を纏わせている。 それなのに次作“Comrad Charlie”は未訳のままで、恐らく邦訳はされないだろう。 ナターリャに一体何が起きたのか。シリーズのその後を読んでいる ので彼女らの安穏は保たれたようだが、シリーズ読者としてはその経緯を読みたいのが性。どんな事情があるのか不明だが、全く残念でならない。 さて失礼だが、高齢ゆえにシリーズの先々が気になるところ。新潮社には決して途切れることなく最後まで邦訳を出してほしいと切に願う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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チャーリー・マフィン、アジアへ!
シリーズ7作目の舞台はアジアでまず最初に訪れるのが何と日本!題名も“Charlie Muffin San”とフリーマントルらしく人を食ったタイトルだ。 今回のチャーリーの任務は亡命を企むKGBの暗殺要員ユーリー・コズロフの奇妙な依頼に対応することだ。それは彼自身はアメリカへ、妻イレーナはイギリスへ亡命させたいというもの。しかしMI5とCIAは共同作戦と云いながら両方を得ようと企んでいる。そしてその作戦の白羽の矢が立ったのがチャーリー。 まずコズロフがCIAと出会う場所が鎌倉と云うのがミソ。東京タワーや東京駅といった80年代当時の外国人が抱く日本の典型的な観光地を選ばず、都心から離れた観光地を選ぶところが日本の情報に通じていることを感じさせる。 しかしその後は銀座線に乗ったり、銀座でしゃぶしゃぶを食べたり、イレーナと落ちあうのにはとバスを思わせる観光バスに乗ったりと、恐らくは来日したフリーマントルが経験した日本訪問時の出来事をそのまま利用しているように感じ、なかなか面白い。 また80年代当時の日本の風景も懐かしさを感じる。この頃はまだ駅の改札口は自動化されてなく、切符バサミの音を蟋蟀の鳴き声のようだと例えるフリーマントルの発想が実に興味深い。 とにかく前述したように今回フリーマントルは日本での滞在で入念に取材を重ねたようで特に複雑な東京の鉄道網の乗継について正確に説明しているところに驚きを覚えた。恐らく海外作家でこれほど細かく日本の公共交通機関の乗継に触れたのは彼の他にはいないのではないだろうか? しかし本書の邦題には唸らされた。 『暗殺者を愛した女』とは妻イレーナを指しながら、コズロフのために馴れない暗殺に挑戦する愛人オーリガをも示している。どちらもしかしこの1人の暗殺者の犠牲者であるのは間違いない。作中でしきりに描写されるイレーナの、女性としてはあまりにも大きすぎる体格について彼女自身が涙ながらに自身のコンプレックスについて吐露するシーンには同様の悩み―その体格ゆえに女性らしく淑やかに慎ましく振舞おうとしても威圧的になってしまい、相手が委縮してしまう―を抱える女性には痛切に響くのではないだろうか。 ただ1つだけ重箱の隅をつつくなら、日本はちょうど雨季の最中だったという件だ。 これは恐らく“rainy season”を訳したものだと思うが、雨季とは熱帯地方のそれを指すのであり、日本に雨季はない。ここはやはり梅雨時と訳すべきだろう。実に細やかな訳がなされている稲葉氏の仕事で唯一残念に思ったところだ。 しかしフリーマントル作品でこのチャーリー・マフィンシリーズは安心して読める。それはチャーリーが必ず生き残るからだ。 フリーマントルのノンシリーズの主人公の扱い方のひどさには読後暗鬱になってしまうほど悲劇的である場合が多い。 確かにこのシリーズもチャーリーが生き残る為に周囲に行う容赦ない仕打ちによって情報部員としての生命を絶たれる登場人物も多々あり、読者は決して組織の中で正当に扱われていない風貌の冴えない一介の窓際スパイが長年培った処世術と一歩も二歩も先を読む明察な頭脳でMI5のみならずCIAやKGBを手玉にとって最後には生き残る姿に胸のすく思いを抱くからだ。 これは今日本で多く親しまれている池井戸作品と同様のカタルシスがある。本来であれば池井戸作品同様に評価されてもいいのだが、国際政治という舞台が日本の読者に敷居の高さを感じさせるのであろう。 しかしそれでもチャーリー・マフィンシリーズはフリーマントル特有の皮肉さが上手く物語のカタルシスに結びついた好シリーズであるとの思いを本書で新たにした。 となるとやはり読みこぼしたシリーズ作品は読まないといけないな。新作は期待できないが過去の未読作品で改めてこの窓際スパイの活躍を愉しむことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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おとり捜査と云えばたとえば婦人警官が一般女性に成りすまして、痴漢を誘って実行犯逮捕するといったチープな物を日本では想像するが、アメリカでは特にFBIによって大々的に行われており、その仕組みも複雑だ。
題名がその物ズバリである本書ではさすが一流ジャーナリスト出身であるフリーマントルだけあってダミーの投資会社設立による麻薬カルテルのマネー・ロンダリングの実体を掴んで検挙する方法での一斉検挙を目論むFBI捜査官と、図らずもFBIの思惑で架空の投資会社の代表取締役を担うことになったウォール街随一の投資家ウォルター・ファーを主人公に物語が進む(ちなみに原題は“The Laundryman”つまり『資金洗浄屋』とこれもかなり直接的)。 このウォルター・ファーの深い知識を通じて会社設立の詳しいノウハウやさらには中南米のいわゆるタックスヘイヴンと呼ばれる小国で実際に行われている複雑な資金洗浄の方法や資金運営のカラクリが語られ、一流の企業小説、情報小説になっているところが面白い。 本書では囮捜査のターゲットとしてフリーマントルは麻薬大国コロンビアの一大麻薬カルテルの元締めの検挙を取り上げている。南米、とりわけコロンビアやボリビアの麻薬事業はもはや地元の警察も袖の下を摑まれ、全てが麻薬カルテルの意のままにされており、その市場がアメリカのマフィアを通じて拡大しているのは現代でも問題となっており、ドン・ウィンズロウの『犬の力』でも圧倒的な熱を持って語られたのは記憶に新しいところだ。 1985年に発表された本書でもその状況は変わらず、唯一違うのは本書でFBIのターゲットとされる元締めのホルヘ・エレーラ・ゴメスが一大麻薬組織のボスとなるため、アメリカのイタリア系マフィア、アントニオ・スカルレッティと組んで、一大麻薬コネクションを作り、さらに市場をヨーロッパに拡大する取っ掛かりであることだ。つまり現在の大組織メデジン・カルテルをモデルにした物語であるということだろうか。 高校生の息子が実はヤクの売人だった廉でFBIの麻薬捜査に協力するため、業務の合間を縫ってカイマン諸島に資金洗浄を目的とした投資会社を設立させられるマンハッタンの一流投資家ウォルター・ファーの敏腕ぶりが実に際立つ。 業務の合間を縫ってカイマン諸島とニューヨークを行き来し、長らく没交渉だった息子の回復の様子を見にボストンにも赴く。さらに作戦に参加したFBI女性捜査官ハリエット・ベッカー(美人でグラマラス!)と恋に落ち、再婚するに至る。開巻当初は8年前に病気で亡くした妻アンへの未練を引きずっているセンチメンタルな人間だったが、ハリエットと出遭ってほとんど一目惚れ同然で徐々にアタックしていき、恋を成就させる、まさに仕事もでき、恋も充実する絵に描いたような理想の男性像で少々嫌味な感じがしたが、いやいやながら協力させられた囮捜査で頭角を現し、作戦の指揮を執るFBI捜査官ピーター・ブレナンを凌駕して捜査のイニシアチブを取るほどまでになる。 世界を股にかけた彼の投資に関する緻密で深い知識も―正直私が全てを理解したとは云い難いが―彼の有能ぶりを際立たせ、次第に彼を応援するようになっていく。 しかしそこはフリーマントル。すんなりとハッピーエンドとはいかない。 現実は甘くないと、マフィアの恐ろしさを読者に突き付ける。主人公のやむを得ない善行の報いがこの仕打ちとは何とも遣る瀬無い。 本当、フリーマントルは夢を見させない作家だなぁ。 目には目を。歯には歯を。古くはハムラビ法典にも書かれている復讐法をウォルター・ファーは実行する。 しかしそこに達成感はなく、荒涼とした虚無が広がるばかりだ。正義を成すにはその代償も大きい。 フリーマントルはフィクションだからと云って単純なヒーロー物語を描かない。しかしこれほど現実的なエンディングを描くことでますます市民が正義を成すことで恐れを抱くことを助長させているように思われ、正直手放しで歓迎できない。 せめて物語の中では勧善懲悪の爽快感を、市井のヒーローの活躍譚を味わいたいものだ。 しかし今なお麻薬カルテルの際限ない戦いの物語は紡がれており、それらの読後感は皆同じような虚無感を抱かせる。 それは麻薬社会アメリカの深い病巣とも関係しているのかもしれない。麻薬を巡る現実は今も昔もどうやら変わらないようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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チャレンジャー教授シリーズである本書ではドイル自身も晩年傾倒した心霊主義を前面にテーマにした作品である。
自分の見た物しか信じなく、持論を疑おうとする人物を徹底的なまでにこき下ろすチャレンジャー教授はもちろん本書では心霊術を疑っており、頭ごなしに非難する。心霊術を肯定するドイルが真逆の人物を主人公に据えて心霊術をテーマにしたことが実に興味深い。 また本書では1920年前後の心霊術に対するイギリスの冷たい反応と司法による魔女狩りさながらの弾圧裁判の様子が描かれているのも当時の世相を反映した貴重な資料となっている。 新聞記者マローンの目を通して本書では恐らく当時方々で行われた心霊術の会合やエクトプラズムの実体化の有様が語られていく。それらは心霊の存在とそれを視認できる霊媒師の特殊な能力が実在したかのように迫真性をもって描写させられる。 シャーロック・ホームズシリーズにおいては不可解事を論理的な解明がなされるのに対し、このチャレンジャー教授シリーズでは超常現象はそのまま超常現象として語られる。 そしてこのシリーズの進行役である新聞記者エドワード・マローンがチャレンジャー教授に霊媒師に引き合わせ、霊の存在を信じさせようと決心してからが実に長い。142ページでマローンが決心した後、ようやくチャレンジャー教授が重い腰を挙げるのが264ページと、実に120ページが費やされる。 この幕間に何が書かれているかと云えば、マローンが重ねる交霊会の模様と心霊術信者たちが当時被った警察による不当な逮捕の数々である。キリスト教やカトリックと云った神の存在を信じる一方でイギリス人は霊の存在を否定し、詐欺だとして魔女狩りめいた弾圧を行うのが矛盾しているのだが、見えない何かを信じる事、また産業革命以来、科学の最先端を行く時代において、いかがわしい物を信じることが異端であり、また潜在的に恐ろしく思っていたのだろう。 さてこの120ページ強の話を経てようやくチャレンジャー教授のお出ましとなるのだが、実は彼の登場こそがこの物語のクライマックスであったのだと気付かされる。 正直物語としてはこれだけの話なのだが、ドイル作品の中では文庫本にして約340ページとかなりの分量を誇る。 これはドイルがいかに世間一般に交霊会を信じさせることに腐心したかを思い知らされる。つまり本書はドイルにとって心霊術布教の書であるのだ。 そして頑なに心霊術を信じず、撥ね退けてきたチャレンジャー教授こそ作者ドイル自身を投影させたキャラクターだったと気付かされる。つまりチャレンジャー教授のようにドイルもまたなかなか霊の存在を信じようとしなかったのだろうか。 このチャレンジャー教授シリーズは超常現象を題材にしたSF古典とジャンル分けされている。 しかしホームズシリーズと違って、謎が論理的に解明されるカタルシスに欠けている。ただ頑迷な教授が霊の存在を信じるに当たり、娘のイーニッドが霊媒になるという展開は予想外であり、また心変わりするのに十分説得力のある設定だった。 しかしながら―シリーズ第1作目が未読なので正しい理解とは云えないだろうが―このシリーズは物語の構成として起承転結の結が実にすっきりせずに終えてしまうのが実に残念だった。 ただ題材は面白いので、誰かが設定を借りて新しいチャレンジャー教授物語を映像化してくれることを願いたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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