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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
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ウェクスフォード警部シリーズ10作目は謎めいた一人の年輩の独身女性を巡る物語だ。
田舎の片隅の小道で何者かに刺された50歳の女性。その顔にはどこか嘲笑うかのような微笑が遺されていた。調べていくうちに彼女が誰にも自分の住所を明かさなかったことが解ってくる。 50歳の独身女性、しかも処女のまま死んだ女性の人生を巡るのが本書の物語だ。 本書でも語られているように変死体で見つかった彼女はもはやただの無名の存在ではなくなる。彼女を殺害した人物を探るために過去を一つ一つほじくり返され、人間関係がその為人が暴かれ、好むと好まざるとに関わらず、1人の人間の伝記が出来上がっていく。 しかしこの被害者の女性ローダ・コンフリーは調べども調べども住所さえも明らかになっていかない。彼の父親や叔母にでさえ自分の住所を教えなかった女性。 やがて捜査線上に一人の男性が浮かび上がる。作家のグレンヴィル・ウェスト。最初は年増女が勘違いして熱を挙げただけの存在かと思われたが、たまたま手に取った彼の著作の献辞にローダの名前を発見して、その関係性に太い繋がりが見えてくる。 ウェクスフォードの捜査の手は彼の方に伸びていくが、フランス旅行中というのは大きな嘘でイギリス国内に留まり、行方を転々としているのだ。ウェクスフォードは今度はグレンヴィル・ウェストという謎めいた男に囚われてしまう。 しかしそれはある一つの言葉でこれら1人の女性と1人の男性の謎めいた人生が氷解する。 このように一人の女性の死が人生という名の迷宮に誘う。 私や貴方が普通に言葉を交わすご近所相手、もしくは会社で一緒に働く相手は彼ら彼女らの多数ある生活の側面の一面に過ぎない。いつも見せる顔の裏側には数奇な人生の道程が隠されているのだ。 また本書ではこの50代の独身女性の謎めいた死を巡る謎と並行してもう1つの物語が語られる。 それはウェクスフォードの長女シルヴィアの夫婦不仲の問題だ。本書が発表された70年代後半は折しもイギリスではウーマン・リブ旋風が吹き荒れていたらしく、シルヴィアもその風に当てられて、家庭に籠って一生を終える人生に異を唱え、女性の自由を高らかに叫び、家庭に閉じ込めようとする夫に反発する。 そしてこのサブテーマが本書の核を成す事件と密接に結びつくのがこのシリーズの、いやレンデルの構成の妙だ。 容姿端麗のシルヴィアは歩けば周りの男が振り返り、口笛を吹かれるが、そこには敬意の欠片も感じられないことに苛立ちを覚えており、子供と夫の世話で明け暮れる自分の人生を悲観し、住み込みの女中を雇って社会進出したいと願うが、結局自分には夫が必要であると気付き、彼女は諦めて夫の許に戻る。 今や自立する女性が当たり前になり、結婚適齢期が20代の前半から後半、そして30歳でも独身で社会の一線で活躍する女性が普通である昨今を鑑みると、現代の風潮が生まれる黎明期の時代に本書が書かれたことが判る。 男が働き、女が家を守る。 当たり前とされていた価値観が変革しつつある時代においてレンデルは昔ながらの夫婦であるウェクスフォード夫妻と現代的な考えに拘泥する彼の長女夫婦の軋轢を通じて時代を活写する。 未だに解決しないこの男女雇用、機会均等の問題を上手くミステリに絡めるレンデルの手腕に感嘆せざるを得ない。 しかし『乙女の悲劇』とはよく名付けたものだ。この一見何の衒いもないシンプルな題名こそ本書の本質を突いているといっていいだろう。 なお原題は“A Sleeping Life”。作中で引用されているボーモントとフレッチャーの戯曲の一節にある“眠れる生”を指す。 50歳の無器量な女性の変死体から濃厚な人生の皮肉を描いてみせ、更には女性の社会進出という普遍的なテーマを見事に1人の女性の悲劇へと結び付けたレンデルの筆の冴えを今回も堪能した。 今更ながらやはりレンデルの作品も順を追って読み直してみたい衝動に駆られた。既に物故作家となり、数多ある未訳作品の刊行も尻すぼみになりつつある現状を考えると、このまま忘れ去られるには非常に惜しい作家だ。 亡くなった2年前に刊行された『街への鍵』の高評価は決して餞のランキングではないはずだ。 絶版作品共々、再評価され再び書店の棚に彼女の作品が、別名義のバーバラ・ヴァイン作品も併せて並ぶことを願ってやまない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ハリー・ボッシュシリーズ3作目はボッシュのキャラクターを形成するエピソードとして描かれていた、彼がロス市警のエースから下水と呼ばれるハリウッド署に転落することになったドールメイカー事件。本書ではなんとこのボッシュの過去の瑕とも云うべき事件がテーマである。
彼が解決したと思われた事件の犯人は別にいた? それを裏付けるかの如く、かつての手口と同じ形で新たな死体が見つかる。更にボッシュは彼が射殺した犯人の家族から冤罪であったと起訴されている身である。 最初からどこをどう考えてもボッシュにとっては不利な状況で幕が開く。 特に被害者の一人が殺害された時間に容疑者が友人のパーティーに出席していたビデオを証拠として出された場面ではボッシュの誤認逮捕への嫌疑は最高潮に達するのだが、その疑問を実に鮮やかに本書はクリアする。 ただそこからが本書の面白いところで、当時記者にも隠していたドールメイカーの犯行の特徴を模倣犯がほぼ忠実に擬えていたことから捜査に関わっていた人物、すなわち警察関係者に容疑者が絞られることになる。 警察仲間の中に快楽殺人鬼がいる。 この油断ならぬ状況はさらに事件に緊迫度をもたらす。 またボッシュはこの裁判を通して過去に母親を亡くした忌まわしい過去を白日の下に曝され、直面せざるを得なくなる。 それまでの作品にも断片的に描かれていた母親。彼に実在する画家と同じ名前を付けた元娼婦だった女だ。 彼女マージョリー・フィリップス・ロウはレイプされた絞殺死体として発見された。そしてボッシュは施設に入れられた。その過去から娼婦やポルノ女優を襲ったドールメイカーに個人的な恨みを抱くようになり、ノーマン・チャーチという無実の男を怒りに任せて射殺したのではと原告側の弁護士ハニー・チャンドラーに詰問され、ハリーは動揺する。それまで一度も考えたこともなかった心理だが、彼自身も潜在的にもしかしたらそうだったのではないかと思うようになる。 濃密な人間関係が物語が進むにつれて形成されていたことが判り、更に物語世界が深化する。この世界に没頭できる感覚とサプライズは何ものにも代え難い至福だ。勿論やり過ぎると鼻白む気はあるが。 また前作『ブラック・アイス』で知り合ったシルヴィア・ムーアとの関係がまだ続いていることが本書では書かれている。しかもほぼ同棲状態で共に食事をし、寝泊まりして愛を交わすほどの仲になっている。かつて警官の妻であったシルヴィアは警察官相手の距離感を心得ており、ボッシュにとって帰るべき家といった存在にまでなっている。 ただ以前の夫の過去を敢えて問わないことで結婚生活に失敗したシルヴィアは愛するボッシュを話したくないがために彼の昏い過去をも知ることを欲する。しかし過去を捨てようとして生きてきたボッシュはその過去を思い出すことを拒む。 本書では2人の性格を的確に捉えている印象的な文章がある。 シルヴィアは物事の中に美を見出すが、ボッシュは闇を見出す。天使と悪魔の関係だ。 教師という職業に就き、人の清濁を理解した上で美点を見出し、そこを延ばそうとする女性に対し、常に人を疑って隠された悪を見出して数々の犯人を検挙してきた男。どちらもそれぞれの職業に、生き方に必要な才能を持ちながら水と油のように溶け込まないでいる。唯一共通するのはお互いが求めあっていることだ。 しかし法廷劇の濃密さはどうだろう! 百戦錬磨の強者弁護士ハニー・チャンドラーの強かさは男性社会の中で勝ち抜くことを自分に課した逞しい女性像を具現化したような存在だ。裁判に勝つために自らの容姿、敵の中に情報源を隠し持つ、更には被告側の隠したい過去をも躊躇なく暴く、容赦ない女性だ。 後にコナリーは弁護士ミッキー・ハラーを主人公にしたシリーズを書くが、早くも3作目でこのような法廷ミステリを書いているとは思わなかった。 1作目が典型的な一匹狼の刑事のハードボイルド小説ならば2作目はアメリカとメキシコに跨った麻薬組織との攻防と思わぬサプライズを仕掛けた冒険小説、そして3作目が法廷ミステリとコナリーの作風のヴァラエティの豊かさとそしてどれもがストーリーに深みがあるのを考えると並外れた才能を持った新人だと思わざるを得ない。 さて本書の原題は“The Concrete Blonde”、即ちボッシュの誤認逮捕を想起させるコンクリート詰めにされて発見されたブロンド女性の死体を指している。 一方で邦題の『ブラック・ハート』はヒットした2作目の『ブラック・アイス』にあやかって付けたという安直な物ではない。いや多少はその気は出版社にもあったかもしれないが、本書に登場する司法心理学者が書いた本のタイトル『ブラック・ハート―殺人のエロティックな鋳型を砕く』に由来する。 即ちブラック・ハートこと“黒い心”とは誰もが抱いている性的倒錯であり、それが砕けるか砕けないかという非常に薄い壁によって犯罪者と健常者は分かたれているだけで、誰もが一歩間違えば“黒い心”に取り込まれて性犯罪を起こしうると述べられている。 恐らく原題も最初はこの『ブラック・ハート』としていたのではないだろうか? というのも第1作『ナイトホークス』の原題が“Black Echo”で2作目が邦題と同じ“Black Ice”。それらはいずれも作中で実に印象的に扱われている言葉でもある。その流れから考えるとコナリー自身もボッシュシリーズの題名は“Black ~”で統一しようと思っていたのだが、それまでの題名に比べて“Black Heart”はいかにもありきたりでインパクトがなさすぎるため、エージェントもしくは出版社が本書でセンセーショナルに描かれるコンクリート詰めのブロンド女性の死体を表す「コンクリート・ブロンド」にするよう勧めたのではないだろうか。 しかし本書の題名はそのどちらでも相応しいと思う。邦題の『ブラック・ハート』は本書の焦点となるドールメイカーの追随者を正体を探る作品であることを考えると、その犯人の異常な、しかし誰もが持つ危うい心の鋳型を指すこの単語が実に象徴的だろう。 一方で『コンクリート・ブロンド』ならば、新たに現れたドールメイカーの追随者による犠牲者たちを衝撃的に表した単語であることから、それもまた事件そのものの陰惨さを指す言葉として十分だろう。 しかもコナリーはこの言葉にもう1つの意味を込めている。 今回のボッシュの宿敵となって立ち塞がる原告側の弁護士ハニー・チャンドラー。コナリーが敬愛する作家のラストネームを冠したこの女性こそが「コンクリート・ブロンド」だったのではないか。 彼女は裁判所にある正義の女神テミスの像を指して、これこそが“正義”である、被告人の話を聞かず、姿も見ない、気持ちも解らないし、話しかけもしないコンクリート・ブロンドとボッシュに話す。自分で信じた正義のためにはどのような手を使ってでも戦い、勝利を勝ち取ると誓った、コンクリートのように強く揺るがない意志を持ったブロンドの戦士。 卑しき犯罪者を糾弾する自分だけは自分の正義を守ろうとしたのが彼女だとしたら、だからこそコナリーは彼女にその名を与えたのではないだろうか。 一方でボッシュはこのチャンドラーに公判中、怪物を宿した刑事だと糾弾される。そして自身もまた自分の中にその怪物がいるのかと自問し出す。自分もまた“黒い心”の持ち主であり、チャーチを撃ち殺した自分は彼らとなんら変わらないのではないかと。 つまり原題がボッシュの宿敵を指すのであれば邦題はボッシュ自身をも指示しているとも云えるだろう。 ハリー・ボッシュがロス市警の花形刑事から下水と呼ばれるハリウッド署へ転落させられたドールメイカー事件。彼の刑事人生で汚点ともなる疑惑の事件が今回見事に晴らされた。1作目からのボッシュの業は1つの輪となって一旦閉じられることになるとみていいだろう。 次作からは再び己自身の過去に向かい合う作品となるだろう。 そして最後に彼の許に戻ってきたシルヴィアとの関係も決して十分だと云えない。お互い愛し合っているからこそ、続けるのが困難な愛もある。危険に身を投じるボッシュは彼のせいでシルヴィアもまた危険に巻き込むかもしれないと恐れ、一方でその姿勢を高貴なものと尊敬しながらも、以前警察官だった夫を喪ったシルヴィアは再び同じような失意に見舞われるのを恐れている。 最後にボッシュが呟いたように、少しでも関係が続くよう、もはや願うしか手がないのだろう。最後の台詞に“Wish”という言葉が入っていることに私はボッシュのもう1人の女性のことを思い出さずにはいられなかった(この最後の台詞はまさに珠玉!)。 つくづくこのシリーズは数珠繋ぎだと思わされる。次作『ラスト・コヨーテ』は本書の裁判でも取り上げられたボッシュの母親に纏わる話なのだという。このように作者コナリーは実に周到にボッシュという一人の刑事の人生を魅力あるエピソードで語り出していく。 さらに本書で登場したホームレスの弁護士トマス・ファラディも記憶しておかねばならない人物の1人かもしれない。彼が凋落したエピソードは語られたものの、一連のボッシュサーガに再び登場するやもしれないからだ。 巻を重ねるごとに深みを増すハリー・ボッシュシリーズ。 もう読むことを止めることは私にとって実にこの上ない苦痛に感じることを正直に告白してこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ヘンリー・メリヴェール卿ことHM卿シリーズ第10作目で『読者よ欺かるるなかれ』の後に書かれた、まだディクスンが脂の乗り切った時期に書かれた作品である。しかしこの作品は長らく邦訳されず、創元推理文庫、ハヤカワミステリ文庫のラインナップからいずれも漏れていた作品であり、初邦訳となったのがなんと1999年でしかも新樹社から刊行された。本書はそれを底本にして全面改稿された文庫化作品である。
田舎娘が初めて書いた小説がいきなり大ヒットとなり、それを契機にロンドンに出てきて映画会社で脚本の仕事にありつくというシンデレラストーリー的設定に、当時のイギリス映画業界の内幕を絡めたストーリー展開にすぐさま引き込まれてしまった。 脚本家の卵として田舎町からロンドンに来たモニカはカートライトの人柄に魅かれながらもなかなか素直になれず、年不相応の髭について不平不満を並べ、遠ざけようとする。一方カートライトはそんな田舎娘に次第に魅かれていく。 その間に立つのはハリウッドから招聘された名脚本家のティリー・パーソンズ。この50代初めのヴェテラン女性脚本家が2人の恋路を取り持っているのか邪魔しているのか解らない奔放さが実にいいアクセントになっている。 しかし彼女もまたモニカ殺人未遂の最重要容疑者とみなされる。彼女の筆跡がモニカに送られた脅迫状その他と酷似していたからだ。しかしティリーもまた毒入り煙草によって昏倒し、病院に運ばれることになる。 このモニカとカートライトを中心にした映画業界の人々を巻き込んだ殺人騒動で物語は進行し、シリーズの主人公であるHM卿が登場するのは150ページ過ぎと物語も半ばを過ぎたあたり。 しかしそれでもHM卿は事件解決に乗り出さず、戦時下という状況故か、映画会社が失った海軍の主要戦力となる軍艦が撮影された8000フィートものフィルムの行方を気に揉む次第。情報部々長という立場故、戦時下で軍の機密情報が敵国に知れ渡ることの方がHM卿にとって非常に重要なのだ。 残ること約50ページになってようやくHM卿は現場に乗り出し、快刀乱麻を断つが如く名推理を発揮して瞬く間に一連の騒動の犯人を名指しする。 カーター・ディクスンは事件関係者の勘違い、もしくは想定外の出来事で殺人計画が捻じ曲げられ、それがために不可解な状況が起こるという、ジャズ演奏で云うところの即興、インプロビゼーションの妙をミステリに非常に巧みに溶け込ませるのを得意としているが、本書においてもそれが実に巧く効いている。 本書で唯一不可能状況下での犯罪は封も開けていない、モニカが駅で買った煙草にどうやって毒入り煙草を忍ばせたかという物だが、案外無理があるトリックだとは感じる。 題名が差すように一人の男が殺人を犯すまでに至った一連の騒動こそがこの物語だが、本書が書かれたのが1940年。4年後にクリスティーが犯行に至るまでを描いた『ゼロ時間へ』を著しているが、私は彼女が同作を著すときに本書のことが頭にあったのではないかと考えている。 つまり本書はディクスン版『ゼロ時間へ』なのだと。そう考えるといかにもディクスンらしい味付けが成されているなぁと感心してしまう。 そしてだいたい作者が映画業界を舞台にした作品を書くときは作者自身がその業界に関わったことがあるからだからだが、やはりディクスン自身もその例に洩れず、解説の霞氏によれば本書が発表される2年前の1938年にイギリス映画界で脚本家として携わったらしい。その時の経験は散々だったようで、そのことが作品にも色濃く表れている。特に最後の台詞 「映画産業にはよくあることだ」 はその時の思いがじっくりと込められているように思える。 また余談だが前年の1937年に映像をふんだんに物語に取り込んだ『緑のカプセルの謎』が刊行されているのもまたこの時の経験が関係していると考えると非常に興味深い。 私はその後のHM卿シリーズも読んでいるわけだが、なにせ時系列的に読んでいないため、各作品での繋がりに対する記憶がほとんどない。本書に登場するHM卿の部下ケン・ブレークとスコットランド・ヤードの首席警部ハンフリー・マスターズ以外の登場人物は私の中では消失してしまっている。 その原因はカーター・ディクスンならびにディクスン・カー作品の訳出のされ方にもある。例えば近年新訳で刊行されたHM卿の作品は以下の通りだ。 2012年『黒死荘の殺人』;第1作目 2014年『殺人者と恐喝者』:第12作目 2015年『ユダの窓』:第7作目 2016年『貴婦人として死す』:第14作目 2017年本書:第10作目 このように順番はバラバラである。この辺が改善されると今後の読者も系統だってシリーズを読めるので助かるとは思うのだが。 しかしこうやって見ると上には書いていないが、ジョン・ディクスン・カー名義の作品も合わせると毎年コンスタントに新訳が出されていて、ファンとしては非常にありがたい状況ではある。ただ贅沢を云えば上に述べたようにシリーズが前後しない刊行のされ方をしてもらいたい。 また新訳となって実に読みやすく、しかも平易な文章で解りやすいのだが、一方で昔の訳本に載っていた注釈が全くないのが気になった。原作に挿入されていた原註はあるが、訳者による注釈は皆無である。 登場人物たちが引用する固有名詞は、例えばラリー・オハロランの絞首刑などと唐突に挟まれる比喩はその内容自体が解らないため、そのまま読み流すような形になったのが惜しい。恐らくは注釈を入れることで読書のスピードを削がれるのを懸念したためにそれらを排除したのかもしれないが、新たな知識や蘊蓄を得るのもまた読書の醍醐味であると思っているので、これらについてはきちんと注釈を入れてほしかった。勘繰れば逆に訳者がそれらの手間を省いたとも取られかねない。 いやもしくはWEBが発達した現代では注釈などは必要なく、興味があれば読者の方で検索サイトで気軽に情報を得ることが出来るから、注釈は不要とみなしたのかもしれない。 時代の流れともいうべきか。単純に昔の訳書を読みなれた者にとっての贅沢とすべきか。なかなか難しい判断である。 しかしやはり長らく文庫化されなかったカーター・ディクスン/ジョン・ディクスン・カー作品がこのように刊行され読めることは実に嬉しいことだ。まだまだ絶版の憂き目に遭って読めないでいるカー作品をこれからもコンスタントに刊行してくれることを東京創元社には大いに期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2003年から16年に掛けて講談社が企画した少年少女たちのための小説シリーズ<ミステリーランド>。
本書は田中芳樹氏がその企画のために書き下ろした1作であるが、まさに少年少女が胸躍らせる一級の娯楽冒険小説となっている。 カナダから単身フランスに渡ってきた少女コリンヌ。彼女は祖父と逢うが、祖父は自分の許を去ってカナダへ移住し、伯爵位を捨てて先住民と結婚した息子を許せず、コリンヌを孫娘と認めようとしない。代わりに出した条件はライン川の東岸にあるという『双角獣の塔』に幽閉している人物が処刑されたと云われているナポレオン皇帝か否かを確かめて50日以内に戻って来たら孫娘と認め、5000万フランの遺産も与えようという物。 タイトルの「ラインの虜囚」とはつまりこの双角獣の塔に幽閉された人物を指しており、決して某SNSに依存している人々を指しているわけではない。 そんな彼女に作家のアレクサンドル・デュマ、元海賊のジャン・ラフェット、そして身元不詳の剣士モントラシェが同行する。 デュマが同行し、更に一人の少女に彼を含めた3人のお供。そのうち2人は剣と銃の達人とくれば、これは『三銃士』以外何ものでもない。本書ではデュマはまだ駆け出しの作家だが、本書には明確に書かれていないものの、彼が経験したコリンヌとの冒険をもとに『三銃士』を著した、というのが裏設定ではないだろうか。 更に18世紀に流布していた『鉄仮面』伝説にコリンヌ達の時代にドイツで話題となっていた「カスパール・ハウザー事件」など後のデュマの作品のモチーフや当時の謎めいた逸話も盛り込まれ、まさに学校では教えてくれない世界史の、面白いエピソードに溢れている。 とにかくどんどん物語は進んでいく。この流れるような冒険の展開はヴェルヌの一連の冒険小説を彷彿とさせる。 田中氏特有の19世紀当時のフランスを筆頭にしたヨーロッパ各国の情勢、はたまた海を渡ったアメリカとカナダの状況などがほどなく平易な文章で織り込まれており、物語を読みながらそれらの知識が得られる贅沢な作りになっている。 特徴的なのは通常このような蘊蓄を盛り込む際、田中氏は自身の見解を皮肉交じりに挿入するのだが、本書では読者対象が少年少女であるためか、そのような文章は鳴りを潜め、むしろ教科書に載っていない歴史の面白さを教える教師のような語り口であるのが実に気持ちいい。 さらにパリに戻ってからコリンヌが知る真相は意外な物だ。いささか少年少女には解りにくい真相ではあるが、ちょっと聡明な子供であれば逆に大人たちの権謀詐術なども理解できる、いわばちょっとした大人入門的な役割を本書は果たしていると云えよう。 加えてやはり特筆すべきは魅力ある登場人物たちが全て実在の人物であることだろう。 作家のアレクサンドル・デュマはもはや上述している通り、説明するまでもない著名な作家だが、ジャン・ラフィットは海賊でありながらフランスの二月革命、ウィーンのメッテルニヒ宰相の追放、ポーランドの独立運動に尽力し、さらにパトロンとしてマルクスの『共産党宣言』の刊行にも助力した人物である。 またモントラシェことエティエンヌ・ジェラール准将は後にコナン・ドイルが著す勇将ジェラールその人であり、剣の達人として鳴らした人物である。 このジェラールはドイルによる創作上の人物らしい。すっかり実在の人物だと思っていた。 逆にこの中で私は主人公のコリンヌこそが唯一創作上の人物だと思ったが彼女もまた後にカナダでペンを武器にしてアメリカの奴隷解放に努めた実在の人物だった。 そんな偉人たちの偉業もまた簡略的ではあるが知識として得られる最高の冒険歴史活劇物となっている。 大人の視点から読むとコリンヌを取り巻くラフィット、モントラシェの2人の無双ぶり、またミスマッチと思われた作家デュマもその巨体を生かしたアクションであれよあれよと敵と互角に立ち向かうことで少しも主人公たちが窮地に陥らないところに物足りなさを感じるものの、本書が収められた叢書<ミステリーランド>のコンセプトである、「かつて子どもだったあなたと少年少女のために」に実に相応しい読み物であった。子供の頃に嬉々として冒険の世界に浸った読書の愉悦に浸ることが出来た。 こんな物語が書けるならば田中芳樹氏も安泰だ。未完結のシリーズ作品の今後が非常に愉しみになる、実に爽快な読み物だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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哀しき超能力者の物語。
キングの、リチャード・バックマン名義の物を除いた長編第5作目の本書は事故により予知能力が覚醒した青年の物語だ。 1979年に発表された後、デイヴィッド・クローネンバーグによって1983年に映画化され、その映画の評価も高いという作品。そして今でもキングの名作の1つとして挙げられている。 そして本書は『シャイニング』を皮切りに特別な能力を持つ特定の人を扱った、つまりシャイン―かがやき―と称される能力を持つ者たちの系譜に連なる作品でもあるのだ。 まずシャイン、もしくは“かがやき”という特殊能力を持つ登場人物は『シャイニング』のダニー・トランス少年、『ザ・スタンド』でもマザー・アバゲイルがそれぞれ予知能力を持つ人物として登場した。前者はまだごく一部の人間にしか認知されていない一介の少年で、後者のマザー・アバゲイルは実質的な主人公ではなく、救世主的な役割を果たす人物であった。 この三者の能力も巷間に流布している超能力の種類で云えばサイコメトリーであり、彼らはサイコメトラーとなるだろう。 しかしダニー少年が生来この能力を備えているのに対し―マザー・アバゲイルもそうだったのかは記憶が定かではないため、割愛する―、ジョン・スミスの場合は脳の一部を損傷するほどの交通事故に遭い、約5年に亘る昏睡状態から目覚めてから能力が発動する。 さて今回ジョン・スミスが他の2人と大いに異なる点はその能力ゆえに人から畏怖され、時には、いや往々にして関わりを持ちたくないと嫌悪の対象になることだ。 まず『シャイニング』のダニー少年はその能力を隠して生活をしていた。さらに物語も冬の山奥のホテルのみが舞台であり、それも一冬の出来事であった。また『ザ・スタンド』の舞台は新種のインフルエンザによって死に絶えた世界であり、マザー・アバゲイルがその不思議な力で救世主のように崇められていた。 翻ってジョン・スミスは1975年のアメリカで超能力に目覚めた人物。人々は自分の秘密を暴かれることを恐れ、ジョンの存在を恐れるようになる。 ところで本書の題名ともなっているデッド・ゾーンとはいったい何なのだろうか? 交通事故に遭ったジョン・スミスの脳には不完全な部分があり、イメージが喚起できない、もしくは名称が浮かばない場面や物が発生する。それら欠落した部分をデッド・ゾーンと呼んでいることに由来する。本書の言葉を借りれば発語能力と象徴機能双方に障害を発生させている部分ということになる。しかしこの不完全な部分を補う形でジョンにサイコメトリーの能力が発動するのだ。 しかしこの能力は最終的には幼少の頃のスケート場で遇った事故にて既にその萌芽があったことが明かされる。そしてその時の衝撃に後に肥大する腫瘍が備わり、そしてそれこそがジョンの隠された能力を拡充していったこととジョンは理解するようになる。 そんな特殊能力に目覚めた青年の物語をしかしキングは相変わらず丹念に描く。例えば通常主人公が事故に遭って4年5ヶ月後に目覚めるとなると、事故のシーンから主人公が目覚めるシーンまで物語は飛ぶものだが、なんとキングはその歳月を丹念に描いてそれまでのジョンに関係していた人々の生活を描く。 まず恋人のセーラは弁護士の卵と結婚して、その夫も司法試験に合格して弁護士となっている。一番痛々しいのはジョンの両親ハーブとヴェラのスミス夫妻だ。もともと信仰に傾倒していた母はジョンが昏睡状態に陥ったその日からいつか目覚めると信じてますます信仰にのめり込む。キリストのみならず円盤に乗って宇宙に行って選ばれし民を連れてくるために戻ってきたという怪しい夫妻が運営するコミュニティにものめり込み、狂信ぶりに拍車がかかる。 さらにその後もジョン・スミスが各所で能力を発揮して事故や大惨事を未然に防いだり、連続殺人鬼の逮捕に協力したりとエピソードを重ねていく。 触れられるだけで自分の内面を丸裸にされるような思いがさせられ、周囲はジョンがサイコメトリーを発揮した後ではよそよそしい態度を取るようになる。また新聞記者はジョンの能力に興味深々であるものの、触れないでくれとはっきりと告げる。 更に連続殺人事件の犯人逮捕の援助を頼んだ保安官はジョンが発見した真相に嫌悪感を示し、その真実を認めようとせずに罵倒する。 卒業パーティーの会場が落雷によって大火事に見舞われることを予見し、パーティーの取り止めを促すが、人々はせっかくの晴れの席を台無しにされたと怒り、彼を非難する。息子の家庭教師にジョンを雇った実業家は理解を示そうと代わりに自宅をパーティーの会場にして、賛同する者のみを招待する。そして実際に火事が起こるや否や、人々はジョンの能力に感謝するどころか畏怖し、あまつさえ実はジョンが超能力で着火したのではないかとまで云う―ここで「小説の『キャリー』みたいに」と自作を宣伝するのが面白い―。 そしてようやく物語の終着点となるジョン・スミスの宿敵グレグ・スティルソンを目の当たりにするのが下巻の170ページ辺りだ。しかしそれまでのエピソードの積み重ねが決して無駄になっておらず、このクライマックスに向けてのオードブルであるところにキングの物語力の強さを感じるのだ―特に避雷針のエピソードは秀逸!―。 人に触れることでその人に関する未来や過去をヴィジョンとして捉える能力はしかし本書でも述べられているように、現実世界では人間はことが事実になるまでは本当に信じる気になれないのが世の常であり、人々はことが起きた後でその正しさを心に刻み込む。従って未来を正確に予見できるジョンは常に異端者であり、場合によっては忌み嫌われる存在になるということだ。 『ザ・スタンド』の舞台となった人類のほとんどが死に絶え、明日が見えない世界においてはこの能力を持つ者は導き手として崇められるが、では現実世界ではどうかというと逆に恐怖の存在となる。 苦悩する、理解されない救世主の姿が本書では描かれているところに大きな特徴があると云えるだろう。 ただ唯一の救いは作者が決してジョン・スミスをただの狂えるテロリストとして片付けなかったことだ。 さてキングに登場する人物、特に母親に関してはどうもある一つのパターンを感じる。 本書ではジョンの特殊能力を救済のために使うのだと告げ、死後もなお呪縛のようにジョンを苛んだ母親ヴェラはそれまでのキング作品に見られる、狂信的な母親像として描かれている。上にも書いたようにこの女性はジョンが昏睡状態に陥ってからは狂気とも云える神や超常現象にのめり込んでいく。 どうもキングが描く母親にはこのような神や信仰に病的にすがる母親がよく登場し、一つの恐怖のファクターになっているようだ。 また一方で男性には癇癪もちや暴力的衝動を抱えた人物も出てくるのが特徴で今回はグレグ・スティルソンがそれに当たる。彼の略歴が下巻の中盤で語られるが、高校を卒業して早くから独り立ちし、雨乞い師という異色な職業を皮切りに塗装業、聖書のセールスマン、保険会社外交員から政治家へと転身した彼は暴力と恐怖で敵を制圧し、ヒトラーを思わせるほどの雄弁な話術とパフォーマンスで人気を獲得していく。一皮剥けば野獣―本書では笑う虎と称されている―といった圧倒的な権力や支配力を備えた敵の存在はキング作品におけるモチーフであるようだ。 ところで本書ではちょっとした他作品とのリンクが見られる。ジョン・スミスがサイコメトリーを発揮したニュースを観て脳卒中を起こした母親が担ぎ込まれた病院のある場所がジェルーサレムズ・ロットの北に位置する町にあるのだ。即ち吸血鬼譚である『呪われた町』の舞台である。この辺りはキング読者なら思わずニヤリとしたくなるファンサービスだ。 さて2016年アメリカは第45代大統領にドナルド・トランプ氏を選出し、そして2017年就任した。この実業家上がりの大統領が本書で後にアメリカ大統領となり、全面核戦争の道へアメリカを導くと恐れられたグレグ・スティルマンと重なって仕方がなかった。 現実問題としてトランプ大統領は北朝鮮に対して核戦争も辞さぬ挑戦的な態度を取り続けている。本書はもしかしたら今だからこそ読まれるべき作品かもしれない。 彼らが選んだ大統領はスティルマンのように一種狂宴めいた騒ぎの中で選んだ過ちではなかったのか。1979年に書かれた本書は現代のまだ見ぬ過ちを予見した書になる可能性を秘めている。 実は本書のタイトル“デッド・ゾーン(死の領域)”はスティルマン選出後のアメリカをも示唆しているのであれば、まさにそれは今こそ訪れるのかもしれないと背筋に寒気を覚えるのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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どんでん返しの王と云えば現代の海外ミステリ作家ならばジェフリー・ディーヴァーだが、日本では最近中山七里氏の名が挙がるようになった。実際「どんでん返しの帝王」という異名もついているらしい。
本書はそんな彼がデビューするに至った第8回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作である。 まさに新人離れした筆致とストーリー展開であれよあれよという間に物語に引き込まれる。 主人公は不動産会社の社長を祖父に持ち、ピアノの特待生として高校の音楽科に入学した香月遥。このように書くと遥はいいとこのお嬢様のように思えるが、彼女の一人称叙述で展開されるその内容からはどこにでもいる普通の女子高生のようにしか映らない。 突然の火事で全身大火傷を負うが、医者の必死の大手術の末、ほぼ全身に亘って皮膚移植を施されるが、火事の影響で気管を焼かれ、しゃがれ声しか出せなくなる。懸命のリハビリと岬洋介という名ピアニストという師を得て、不可能と思われたピアノの演奏をたった二週間で弾けるようになるという驚異的な回復を見せる。しかしそれが全く絵空事のように思えず、この岬というピアニストの指導の許であれば可能であると納得させられるような説得力のある説明と描写。 またそれ以外にも登場人物を取り巻く色々なエピソードに纏わる情報や知識がしっかりとしており、単なるモチーフになっていない。スマトラ島沖地震の詳細、高校進学に必要な経費の公立高校と私立高校との差、火傷に関する情報にその治療に関する細かい内容、相続税対策を考慮した遺産相続の方法など我々の実生活に直接関係のある事柄がつぶさに書かれており、一つとしておざなりに書き流されていない。 また描写と云えば本書に織り込まれたクラシックの曲調に対する描写が実に絵的で美しく、頭の中で音が奏でられるように錯覚する。 私はクラシックには疎いのだが、それでも聞いたことのある題名から知らない曲名までもがなぜかその描写によって曲が自動再生させられていく。音の躍動感、またきらびやかさが粒のように空気に舞い、弾け、そして溶け合い、人々の耳に余韻として残る。それら一つ一つの音符やメロディに感じるのは中世・近代の名のある音楽家たちが譜面に込めた情熱や美、そして常に新しい技を生み出そうとする研鑽の姿だ。 そしてそれらを譜面を通じて理解し、どうにか再現しようと、そしてそのメッセージと喜びを観客と共に分かち合おうとする演奏者の思いが神々しいほどに美しい描写に込められている。常に頭の中で音楽が奏でられ、思わず眼前にリサイタルが成されているかの如く錯覚に陥ってしまった。 後でその題名でググって実際の曲を聴いてみると全く違っているのが常だが、中には合っているものもあったりして、この作家の表現力の豊かさを頭ではなく心で感じる思いがしたものだ。 そんな物語である本書はミステリというよりもなんとも清々しい青春小説、いやビルドゥングス・ロマンなのだろうという思いで読んだ。 やはりなんといっても主人公香月遥が全身大火傷という重傷を負ってから学校代表としてピアノコンクールに出場するまでの岬洋介との血のにじむようなレッスンの様子が非常に読ませる。特に常に包帯を巻き、松葉杖を突いて学校生活を営む彼女に対して周囲がそれぞれの立場で好奇心、功名心、そして妬みや嫉みを彼女にぶつけてくる様が生々しく、単なる不具者の美談となっていないところがいい。 学校の校長は障碍者としての彼女がピアノコンクールに出場するまでになったことを自分の高校のいい宣伝材料として彼女を客寄せパンダとして利用しようとして隠さないし、金持ちの家のお嬢さんでその上に同情心を買おうと勝手に思い込んでいるクラスの同級生の悪意ある言葉など障害者が取り巻く世間の厳しさをまざまざと見せつける。 そんな現実があるからこそ彼女の強さが引き立つわけだが、むしろ障碍者の人々への社会の理解が十分になされてなく、登場人物の岬の言葉を借りれば、世界はまだ悪意に満ちているのだ。 そう、これは戦いの物語なのだ。 突然業火に包まれ、全身大火傷という重傷を負い、皮膚移植をされた上に他人に成りすますことを強いられた一人の女子高生が、ピアノを通じて松葉杖を突き、5分以上の演奏ができない不具の身体でコンクールを勝ち抜く。社会の障害者に対する偏見と好奇の目に晒されながらも敢えてその逆境に挑み、岬洋介という素晴らしいピアニストを師に迎えて音楽という雄大に広がる宇宙を具現化させることに執着し、そしてその世界観を一人でも多くの聴者に届けようと苦心する一人の女子高生の戦いだ。 そしてまた彼女の師、岬洋介もまた戦う男だった。 法曹界にその名を轟かせた凄腕の検事正を父に持ち、また自身も司法試験でトップ合格するほどの頭脳と適性を持ちながらピアノの夢を捨てられずに片耳が不自由とハンデを持ちながらも再び音楽家の道を歩み、新進気鋭のピアニストとなった男。ハンデを持つがゆえに世間の残酷さを知っているからこそ、障碍者の遥にも甘い言葉を掛けず、社会の厳しさを教え、その覚悟を常に問う。お坊ちゃん風の穏やかな風貌をしながらも心の中に太くて強い芯を持つ男だ。 彼は音楽を究めんとしようとする者を後押しし、援助を拒まない。 本書はこの2人の音楽の求道者がそれぞれ抱えた肉体的ハンデと戦い、そして世間と戦う物語なのだ。 そして最後の一行として掲げられる本書の題名は再出発するための手向けの言葉なのだ。 音楽用語で模された各章題を並べてみよう。 ~嵐のように凶暴に~ ~静かに声をひそめて~ ~悲嘆に暮れて苦しげに~ ~生き生きと高らかに響かせて~ ~熱情を込めて祈るように~ これらはまさに主人公香月遥が本書で辿った生き様を見事に表しているが、と同時に突然障害者となった人々がその後の人生で辿る生き方をも示しているように思える。 障害者となる事故や事件はまさに嵐のように凶暴に自身に降りかかってくるだろうし、その後静かに息をひそめて今後のことを考えつつ、悲嘆に暮れて苦しみながら己の身に降りかかった不幸を嘆き悲しむことだろう。 しかしそれが逆に新たな人生を生きるチャンスを、健常であった頃よりももっと一日一日を大切に生きることを教えてくれたと思えば生き生きと高らかに生きていることの喜びを響かせ、そして“今この一瞬”を熱情を込めて祈るように大切に生きていくことだろう。 本書が殺人を扱いながらも実に清々しいのはこの章題に込められた作者の障害者への思いゆえだ。 これほどまでに犯人に対して憎しみどころか潔さや気持ちの良さを感じたミステリはない。 本書の本当のどんでん返しはこの気持ちよさにあると思う。 全くなんというデビュー作なのだ、本書は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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一匹狼の刑事ハリー・ボッシュシリーズ2作目の本書のテーマはずばり麻薬である。メキシコで安価に生産される新種のドラッグ、ブラック・アイスを巡って殺害された麻薬課刑事の絡んだ事件にボッシュは挑む。
ただそこに至るまでの道のりは複雑だ。まず今回3つの事件にボッシュは関わる。 1つはクリスマスの夜に発見されたモーテルでの自殺に見せかけた死体。これがハリウッド署の麻薬課刑事カル・ムーアの死体だった。自殺かと思われたがどうも殺された後に偽装されたことが判る。但しアーヴィング副警視正によってボッシュは捜査を外される。 2つ目はダイナーの裏で見つかった身元不明死体の事件。これは上司のパウンズから任された休職中の同僚ポーターが抱えていた事件だが、その死体発見者がなんとムーアだったことが判る。 3つ目はもともとボッシュが別に抱えていた事件、ハワイの麻薬運び屋ジェイムズ・カッパラニことジミー・キャップスが数週間前に殺害された事件だ。 これはメキシコから出回っているブラック・アイスという新しいドラッグが台頭してきたため、キャップスがその運び屋ダンスをムーアのところに垂れ込んだが、ダンスは証拠不十分で不起訴で釈放された後、何者かによって絞殺されていた。ボッシュはこの事件の捜査でムーアに情報を頼んでいたのだった。 3つの事件に絡むのはカル・ムーアであり、そしてその行先はメキシコのメヒカリという町に辿り着く。身元不明死体の胃の中から発見された蠅の死骸が放射線照射によって生殖抑制された蠅であり、それを育てているエンヴァイロブリード社の養虫場がメヒカリにあったからだ。 さらにブラック・アイスの生産者である麻薬王ウンベルト・ソリージョの秘密製造所はメヒカリにあり、またキャップス殺しの容疑者マーヴィン・ダンスは既にメキシコに逃亡し、恐らくメヒカリにいると思われたからだ。ボッシュはメキシコの麻薬取締局の協力を得てメキシコでの捜査を行う。 メキシコが麻薬に汚染され、警察や司法までもが麻薬マネーによって牛耳られていることは先に読んだウィンズロウの『犬の力』、『ザ・カルテル』で既に知識として織り込み済みなため、ボッシュが彼の地の捜査で苦心惨憺するのは想像がついた。ボッシュに協力しようとするのはメキシコの麻薬取締局(DEA)の捜査官リネイ・コルヴォ、つまりウィンズロウ作品の主役であるアート・ケラーと同じ局の人間で彼もメキシコ司法警察は当てにするなとボッシュに忠告する。 実際今回の事件の被害者の一人であった身元不明死体についてロサンジェルスの領事館に照会している警官カルロス・アギラの上司グスタポ・グレナはどっぷり麻薬王ウンベルト・ソリージョの恩恵を被っているようでボッシュを軽くあしらおうとする。一方アギラは骨のある警官でしかも目ざとく上司が一蹴した被害者がエンヴァイロブリード社で働いていた事実を突き止める。 しかしそれがどうした?というのがメキシコである。 自分に都合の悪い事が起ころうが、見つかろうが買収した高官によって揉み消すよう頼むだけなのだ。そんな四面楚歌状態の中でボッシュはアギラという数少ない協力者と共に捜査を進めていく。 さてこのカルロス・アギラという司法警察捜査官も魅力的である。 麻薬マネーの恩恵を受けてどっぷりと黒く染まっている上司グレナとは異なり、中国系メキシコ人という出自から周囲にはチャーリー・チャンと揶揄されているがしっかりとした観察力とメキシコ人の風習を熟知した捜査に長けている。アメリカ人の常識で捜査をするボッシュには思いも付かない視点でサポートし、そしてそのアギラの指摘が事件の解決への糸口に繋がる。特に最後の驚愕の真相はアギラがいなければそのまま気づかずに真犯人が描いた絵のままで事件は解決していただろう。 1作目も含め、LAという土地柄のせいか、ボッシュとメキシコとの関係は案外に深く、ドールメイカー事件の失態で被った謹慎処分の期間と先般のエレノア・ウィッシュと組んだ事件で受けた傷が完治するまでメキシコで静養していたことから、今後もボッシュとアギラは領国に跨った事件で再び手を組むのかもしれない。 ボッシュという男は自分の人生にどんな形であれ関わった人間の死に対してどこかしら重い責任を負い、犠牲者を弔うかの如く、加害者の捜査に没頭する傾向がある。 前作『ナイトホークス』ではかつての戦友のウィリアム・メドーズを殺害した犯人を執拗に追い立て、今回はたまたま自分の担当する事件の情報を得るために接触した麻薬取締班の警部が自殺に見せかけて殺害されたことで彼は仇を討たんとばかりに捜査にのめり込む。 それは多分彼がヴェトナム戦争を経験しているからだろう。昨日まで一緒に飯を食い、冗談を云い合っていた連中がその日には一瞬のうちに死体となって葬られる。一時たりとも肩を並べた相手が翌日も同じように肩を並べるとは限らない、そんな生と死が紙一重の世界を経験したからこそ、袖振り合うも多生の縁とばかりに彼は自分の身内が死んだかのように捜査にのめり込む。それが彼の流儀とばかりに。 また今回ボッシュは自分の出生について長く触れている。有名な画家と同じ名前を付けた母親を過去に殺された事件があるのはデビュー作で触れられていたが、今度は父親のことについて触れられている。 またムーアの葬儀を行う会社はマカヴォイ・ブラザーズという。これも後に出てくるジャック・マカヴォイと何か関係があるのだろうか? シリーズをリアルタイムで読んでいたら多分このようなことには気付かなかっただろうから、シリーズが出た後で読んだ私は後のシリーズのミッシング・リンクに気付くという幸運に見舞われているとも云える。まだまだこのようなサプライズがあるだろうことは実に愉しみだ。 本書の題名となっているブラック・アイスは今回の事件のキーとなるメキシコから流入している新種の麻薬の名でもあるが、もう1つ意味がある。 それは冬、雨が降った後に出来るアスファルトの路面凍結する氷のことだ。黒いアスファルトの上に張っているが、しかし見えない氷。ムーアの別れた妻シルヴィアが育ったサンフランシスコで父親が彼女に車の運転を教えていた時の言葉、“黒い氷(ブラック・アイス)には気を付けるんだぞ。上に乗っかるまで危険に気づかないんだが、そうなったらもう手遅れだ。スリップしてハンドルが効かなくなる”からも由来する。 実はこれこそがこの作品の本質を云い当てている。亡くなったムーアをはじめ、その他犠牲になった人々も気づかないうちに黒い氷の上に乗ってしまい、人生のコントロールを失ってしまった人々なのだ。そしてまたボッシュもその1人になろうとしている。しかしどうにか彼は寸でのところで踏み留まっている。 しかし彼が常にいつ刑事を辞めさせられてもおかしくない薄氷の上にいることは間違いない。己の信条と正しいと思ったことを貫くために、彼こそは黒い氷と紙一重なのだ。 前回ではウィッシュとつながりを見出したボッシュは今回もムーアの元妻シルヴィアとつながりを見出し、彼女の魅力に惹かれている自分に驚く。 ウィッシュに惹かれながらも彼女を人生のパートナーとして引き受けたときの責任の重さに身震いしたのに対し、シルヴィアに対しては自分と同類であり、一緒にいたいと願う。 今後2人の関係がどのように続いていくのか解らないが、その行く末はアクセントとしても実に興味深い。 しかし一方で前回公私に亘って相棒となったエレノア・ウィッシュからは刑務所から便りが来て連絡を取り合っているようで、今後ウィッシュが再度ボッシュと何らかの関係を持つのは時間の問題のようで、そのときこの3者の間でどのような化学反応が起きるのか、興味は尽きない。 警察の面子、それぞれの立場よりも自分が納得するために動くボッシュ。敵を作りやすいタイプだが反対に自分には出来ないことを貫くその姿勢に賛同する者も少数派だがいる。今回もあわや警察殺しの容疑者になり、さらには麻薬王の放った殺し屋に射殺されそうにもなる。失職の危機に見舞われながらも数少ない、しかし有能な協力者の力を得て、どうにかハリウッド署に踏み止まったボッシュ。 個人の正義と組織の正義の戦いの中で彼が今後も自分の正義をどこまで貫いていけるのか。 ボッシュが背負った業が重いゆえにこのシリーズが極上の物語になっているのがなんとも皮肉なのだが、それを期待してしまう私を初め、読者諸氏はなんともサディスティックな人たちの集まりだろうと今回改めて深く思った次第である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人形探偵シリーズ3作目の本書は前作に続いて長編物。
正直読んだのがはるか昔なため、ストーリーは朧げに覚えているものの、作品のトーンは忘れてしまった。しかし本書はそれまでのシリーズとは一線を画してシリアスなムードが漂う。 それというのも本書では冒頭で鞠小路鞠夫誕生秘話が語られるのだが、これが結構重い話だからだ。 潜在的に友人を疑ったことで人柄ゆえかなかなか本心を出せない朝永自身が敢えて思いのままをさらけ出す存在として鞠夫が生まれた。 友達を疑うという罪悪感、または友人を疑うことへの拒否感、そして人を殺していながらも普通に振る舞う、いやあまつさえその死を悼む姿をさらけ出す友人に対する不信感に対して、良心の呵責に耐え切れずに生れ出た存在、そのように解釈もできるだろう。やがて鞠夫は朝永自身が「見て」いても「観て」いなかったことについても語るようになり、一つの人格を形成するようになる。 つまり主体である朝永が認識しなくとも鞠夫という人格が主体的に認識することで朝永と鞠夫との間で会話が生まれるのだ。腹話術師とその人形というコミカルな設定だが、その実、二重人格、多重人格物が横行した当時だからこそ生まれた興味深いキャラクターである。 さて1991年に刊行された本書。開巻直後の舞台は銀座での立食パーティに2次会が六本木でのディスコ、そして三高の男子―ところで今“三高”なんて言葉が解る人がいるのだろうか。背が“高く”、“高”学歴、“高”収入の意味なのだが―、スポーツカーに乗って海辺の道をドライブし、プレゼントは赤いバラの花束にティファニーのネックレス―やはりオープンハートか?―と非常にバブルの香りが漂う内容である。当時の世相を表しているという意味では非常に貴重な資料にもなりうるだろう。 また時代が変われば価値観も変わるのか、睦月の恋愛感情について今の女性では一種理解しがたい部分が出てくる。 絵に描いたように三高の男性関口になぜか気に入られるようになった睦月。朝永のことを思っていることもあり、関口の誘いを断り続けるが、それでもしつこく関口はモーション―この言葉ももはや死語だなぁ―を掛けてくる。どうやって調べたか解らないアパートの電話番号に毎日の如く電話をし、なかなか逢えないと見るや近所と思えるスーパーの前の喫茶店に有休を採ってまで張り込みをして3日目にとうとう睦月を待ちかまえて捕まえる。 自分なんかのためにそんな苦労を掛けたと睦月は関口に対して心が揺れるのだが、これは現代ではもはやれっきとしたストーカーだろう。現代の女性ならば気味悪がって身の危険を感じるはずであるのに、逆に睦月は心を動かれるのだ。これはもはや喜劇である。 妹尾睦月に付きまとう関口という世の女性の理想を形にしたような男性の心理も不思議だが、本書のメインの謎は連続する放火事件だ。 それ以外にも朝永の大学時代の友人で美人腹話術師柿沼遥が涙を浮かべて朝永の家から出ていった真相は不明だが、それが睦月に朝永宅へお泊りを決意させるトリガーになった。しかし、この牧歌的ミステリにはそんな大人の恋愛では描かれるはずの男女の一夜は省略される。 このシリーズはあと1冊の短編集が最終巻となっている。作者もそれを意図してか人形を介して推理を披露する腹話術師という奇抜さが先行した朝永嘉夫のルーツも描いており、戯画的なキャラクターから友人の犯罪を機に二重人格を持つようになった哀しい過去を持つ一人の男として人間味を与えている。 加えてそれまでただ何となく一緒に行動を共にするような感じでしかなかった妹尾睦月との関係もより踏み込んでいっている。 しかしこれらは云わば物語の縦の軸でありバックストーリーである。主軸となるミステリの部分、色々散りばめられた謎の部分が全く別々に進んで実に纏まりに欠けている。何とも散漫な印象しか残らなかった。 しかしさすがにバブル臭漂うこの物語は今読むとかなり辛いものがある。 軽めのミステリであるが、バブル時代の浮ついた感じと朝永嘉夫と妹尾睦月という大の大人2人が腹話術人形の鞠小路鞠夫にいじられているだけであり、何か物語として心に残る芯がないのである。『人形は眠れない』もそれまでのシリーズのタイトルと比べるとシリアスで意味深だが、読み終わった今、結局何を意味しているのかがよく解らない。 全てにおいてちぐはぐな印象で何か一つ突き抜けないミステリだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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実業之日本社文庫から文庫書下ろし刊行されているスキー場を舞台にしたこのシリーズも早や3作目。新たなシリーズとして定着しつつある。ちなみにこのシリーズは『スキー場シリーズ』と呼ばれていることを最近になって知った。
今回も登場するのは前作、前々作に引き続いて根津昇平と瀬利千晶の二人。そして瀬利は既にプロスノーボーダーを引退していることが判明する。 このシリーズでは今まで『白銀ジャック』、『疾風ロンド』で見られたように読者にページを速く捲らせる疾走感を重視したストーリー展開が特徴的だが、本書も同様に冤罪の身である大学生の脇坂竜実と彼の協力者で友人の波川省吾の2人が警察の追手から逃れて自分の無実を証明する「女神」を一刻も早く捕まえなければならないというタイムリミットサスペンスで、くいくいと物語は進む。 ウェブでの感想を読むと謎また謎で読者を推理の迷宮に誘い込むのではなく、非常に解りやすい設定を敢えて前面に押し出してその騒動に巻き込まれる人々の有様を描いているこのシリーズに対する評価は賛否両論で、特にストーリーに深みがないと述べている意見も多々見られるが、それは敢えて東野氏がこのシリーズをスキーまたはスノーボードの疾走感をミステリという形で体感できるようにページターナーに徹しているからに他ならない。それを念頭に置いて読むと実に考えられたミステリであることが判る。 単純な設定をいかに退屈せずに読ませるか、これが最も難しく、しかもこのシリーズでは最後の1行まで演出が施されていて飽きさせない。 もっと読者は作者がどれだけ面白く読み進めるように周到に配慮しているか、その構成の妙に気付くべきである。東野氏は数日経ったら忘れてしまうけれど、読み終わった途端に爽快感が残るような作風を心掛けていることだと理解すべきである。 特に本書では一介の大学生脇坂が同じ大学で法学部の友人波川と共に自分の無実を証明する証人を捜すために里沢スキー場に向かうわけだが、この波川を配置したことで警察が行う捜査の常套手段を先読みして次から次へとその裏を潜るように行動を指示しているところが小気味良い。 また警察もさるもので大学生が思いつく抜け道をすぐに察知して次の手を打つ。 この逃走者と警察の騙し合いがまた愉しい。 特に有力容疑者として目された脇坂が友人と共にスノーボードを持って逃走しているという不可解な事実に対して警察やその手伝いをする女将さんがいろいろな理由を考えつくのもまた面白い。その人その人の価値観で警察は捜査を攪乱するためのフェイクだと推察し、スキー場を愛する女将さんは逮捕される前の最後の晩餐、最後に極上のパウダースノーを存分に愉しんでから自首しようと思ったりと人間の考え方のヴァラエティの豊かさが垣間見える。 またただ軽いというわけではない。東野氏がスキー場を舞台にしたミステリを文庫書下ろしという形で安価に提供する目的として自らもスノーボードを嗜む氏が経営困難に瀕している全国のスキー場に少しでも客足が向くように読者に興味と関心を与えていることだ。 従って、ただの爽快面白エンタテインメントに徹しながらも物語の所々にスキー場で働く人たちの心情や厳しい現状が綴られている。 例えば主人公の1人瀬利千晶にしても、プロボーダーを引退した後の去就は両親が経営する保育園を継ぐことを決意し、今回のゲレンデ・ウェディングを自分のスノーボード人生の最後の花道とし、今後は一切にウィンタースポーツには関わらないと決めていること。 また根津は建築士として父親が経営する建築事務所で働いており、いつかアミューズメントパークのようなスキー場を作ることを夢見ているが、現実の厳しさに直面し、ほとんど手付かずの状態である。 また今回容疑者の脇坂竜実を追う所轄の刑事小杉をサポートする居酒屋の女将川端由季子も旅館も経営しているが先に逝かれた夫の後を継いで女手一つで両方を経営し、スキー場に少しでもお客の足が向くように笑顔でサービスに努めている。だからそんな大切な場所に刑事が大勢詰めかける前に事件を解決したいと願って小杉に協力するのだ。 またスキー場のパトロール隊員は滑降禁止エリアの立入を厳重に監視しているのも怪我なく楽しんでお客さんに帰ってほしいがためだ。彼らは注意するときは決して高圧的でなくむしろ懇願しているかのようだとも書かれている。スキー場を愛するが故の行為であるからだ。 さて冤罪を逃れるために脇坂たちが探す幻の女―書中では「女神」と称されている―。なかなかその正体は判明しない。 また今回は冤罪に問われた脇坂と警察との鬼ごっこが前面になっているため、福丸老人を殺害した真犯人の捜査がなかなか進まないのも特徴的。 しかし何とも甘い結末である。やはりゲレンデは恋の生まれる場所ということか。 リゾートの恋は長続きしないから気を付けないと、などとついつい余計なことを思ってしまった。 このシリーズが終焉を迎えるかは解らないが、シリーズの舞台はあくまでスキー場。東野氏がウィンタースポーツを愛する限り続いていくような気がする。 さて次はどんな事件がゲレンデで起こるのか。不謹慎ながらも次作を期待して待とうとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ロングウォーク。それは全米から選抜された14~16歳の少年100人が参加する競技。
ひたすら南へ歩き続ける実にシンプルなこの競技はしかし、競技者がたった1人になるまで続けられる。歩行速度が時速4マイルを下回ると警告が発せられ、それが1時間に4回まで達すると並走する兵士たちに銃殺される。 最後の1人となった少年は賞賛され、何でも望むものが得られる。 この何ともシンプルかつ戦慄を覚えるワンアイデア物を実に400ページ弱に亘って物語として展開するキングの筆力にただただ圧倒される。 その始まりも実にシンプルでロングウォークが始まるまでの葛藤や家族とのやり取りなどは一切排除され、いきなり物語開始わずか13ページ目でロングウォークは始まる。しかも始まるまでに上に書いたような設定に関する説明は一切なく、登場人物たちの会話や独白から推察するしかない。つまり純粋に死の長距離歩行のみが物語として語られるのだ。 100人の少年による決死行。その中の1人レイモンド・ギャラティを中心に物語は進む。出身地は出発点であるメイン州であるため、通り道では彼を応援する人々で溢れている。 その彼と共にウォーキングを共にするのがピーター・マクヴリース。無駄口を叩きながら時に励まし合い、またお互いの身の内を話しながら歩を進めていく。 その他にもロングウォーク終了後はその体験を1冊の本に纏めようと出場者全ての名前を記録し、話を聞くハークネスに、終始周囲に毒をまき散らしながら疎まれるバーコヴィッチ。そしていつも一人でしんがりを歩きながらも最初の出発時以外警告を貰わず、淡々と歩き、時にギャラティたちに過去のロングウォークについて訳知り顔で語る正体不明のステビンズとが交錯し、この単純な物語に様々なエピソードを添えていく。 しかしとにかくシンプルかつ残酷なイベントだ。ひたすら歩き続けることが生存への唯一の道。しかもその間睡眠さえも許されず、用足しも歩きながら、または警告覚悟で極力最小限の時間ロスで行わなければならない。 そんな極限状態での行脚でレイモンドはしばしば意識朦朧となり、過去の思い出が蘇る。 それは恋人ジャンとの出逢いだったり、小さい頃にいた隣人のジミーと2人で女性のヌードカレンダーをこっそり隠れてみて女の裸について語り合ったことなどが時折挟まれる。人は死ぬ前に過去を思い出すというが、この死の長距離歩行は黄泉の国への道行であるから当然なのかもしれない。 ただひたすら歩くという単純な行為は思春期の少年たちに様々な変化をもたらす。 馬鹿話からそれぞれの恋話、色んな都市伝説。思春期の少年たちが集まっては繰り返す毒にも薬にならない他愛のない話が交わされるが、やがて1人また1人と犠牲者が増え、次は我が身かと死がリアルに迫るにつれて、そして疲労困憊し、意識が白濁とし出すにつれて口数は少なくなり、意識は内面へと向かう。時にはそれは死と生について考える哲学的な思考に至りもする。 そしてどんどん人々が死んでいくに至り、彼らもリアルを悟るのだ。 ロングウォークの通知が来た時に彼らは自らが英雄に選ばれたと思い、即参加する者もいれば躊躇しながらも最終的に参加を決めた者もいる。また不参加表明のために直前になって参加意向の問い合わせが来た補欠選手もいる。 しかしそんな彼らはあくまでこれは年一回のイベントであり、最後の1人になるまでの死のレースであると解っておきながら、どこかで勝利者以外は死ぬという事実を都市伝説のように捉えていた参加者も少なくない。 しかし現実にどんどん脱落者が目の前で射殺され、脳みそが飛び散る風景が繰り返されるうちに明日は我が身かもというリアルが生まれ、変化していく。 とりわけその中でもハンク・オルソンという少年が印象的だ。 レースが始まる前の集合場所では訳知り顔でロングウォークに関する色んな話と攻略法などを述べ、更に威勢のよさを見せつけるようなパフォーマンスをしていたが、やがて足が痛み、レース継続困難になるにつけて寡黙となり、内に内に籠っていく。そしてもはや飲食をも忘れ、排便も歩きながら垂れ流し、ただただ前に向かって足を交互に出すだけの存在と化していく。 突然の腹痛に襲われ、リタイアを余儀なくされる者、足が麻痺して歩くなり、悔しさを滲ませながら銃殺される者。色んな死にざまがここには書かれている。 また印象的なのはこの生死を賭けたレースを通り沿いにギャラリーがいることだ。 時に彼らは参加者を応援し、思春期の少年たちの有り余る性欲を挑発するかのようにセクシーなポーズを取る女性もいれば、違反行為と知りながら食べ物を振る舞おうとする者、家族で朝食を食べながら参加者に手を振る者もいる。さらに彼らが口にした携帯食の入れ物をホームランボールであるかのように記念品として奪い合う者、参加者が排便するところをわざわざ凝視して写真を撮る者もいる。 死に直面した若い少年たちを前に実に牧歌的で自分本位に振る舞う人々とのこのギャップが実は現代社会の問題を皮肉に表しているかのようだ。 今目の前に死に行く人がいるのにもかかわらず、それを傍観し、または見世物として楽しむ人々こそが今の群衆だ。 テレビを通して観る戦争、その現実味の無さにテレビゲームを観ているような離隔感、リアルをリアルと感じない無神経さの怖さがここに現れている。彼らはこの残酷なレースを行う政府を批判せずに年一度のイベントとみなしている時点でもはや人の生き死にに無関心であるのだ。 一応本書はアメリカを舞台にしながらも現代のアメリカではない。裏表紙の紹介には近未来のアメリカと書かれているが、これは正解ではないだろう。地理、文化とも実在するアメリカではあるが我々の住んでいる世界とは別の次元のアメリカでの物語である。 それを裏付ける叙述としてこのロングウォークの参加取消の〆切が4月31日となっているからだ。つまり現実にはそんな日は存在しないことから本書の舞台が我々とは地続きでない世界であることが判る。 しかしここに書かれているこの奇妙な現実感は一体何なんだろうか。若い命が死に行くことを喜ぶ様は、そうまさに我が子を戦争に送り出し、それを勇気ある行動と称賛する風景に近似している。そう考えるとこの荒唐無稽な物語も単なる読み物として一蹴できない怖さがある。 シンプルゆえに考えさせられる作品。 解説によればこれを学生時代にキングは書いた実質的な処女作であるとのこと。だからこそ少年たちの心情や描写が実に瑞々しいのか。 この作品が現在絶版状態であるのが非常に惜しい。復刊を強く求めたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マイクル・コナリーデビュー作にしてMWA賞の新人賞に輝いた今なお続くハリー・ボッシュシリーズ第1作の本書は読後そんな感慨が迫りくる物語だ。
さてこれほどまでに長くシリーズが続くハリー・ボッシュという人物。その人物像はこの1作目でかなり詳細に書かれている。 本名ヒエロニムス・ボッシュ。孤児院で育った徹頭徹尾の一匹狼。 当時40歳の彼はヴェトナム戦争時代にトンネル兵士として参戦し、その後、ロス市警に入署し、パトロール警官からたった8年で刑事へ、そして花形の強盗殺人課へとエリートコースを辿る。その活躍はスター刑事として本も数冊書かれ、さらに彼を主人公にしたTV映画やTVシリーズが作られ、新聞も日夜彼の活躍を報じるも、ドールメイカー事件で誤って容疑者を殺害した廉で1か月の停職処分と下水と呼ばれるハリウッド署への左遷を食らう。 自身は戦争の後遺症で時々不眠症に悩まされ、その影響で人を撃つことと暴力に対して抵抗がなく、躊躇わずに人を殺せる性格である。 風貌は身長6フィートプラス数インチでさほど背は高くなく、やせぎすだが筋肉質で針金のように細くて丈夫だと評されている。目は茶色がかった黒色で髪には白いものが混じり出している。 さて彼が関わる事件はかつて自分がヴェトナム戦争に従軍していた頃、同じようにトンネル兵士として戦友だったウィリアム・メドーズという男がハリウッド湖のパイプで薬物過剰摂取で死んでいるのが発見されるが、ボッシュはこれが事故死に見せかけた殺人だと信じ、捜査する。やがて彼が銀行の貸金庫強盗の容疑者となっていることが判り、その事件をFBIが扱っていることから一度は拒否されるも、強引な手を使って一転FBIとの合同捜査に切り替わる。 このボッシュという男、とにかく内外に敵の多い人物だ。単独捜査を好み、犯人検挙率も高いため、TVシリーズが作られるほどのスターぶりを発揮するが、その活躍を妬む周囲の反感を買い、虎視眈々と失墜するネタを狙われている。 ボッシュ本人は自分が正しいと思ったことを決して曲げず、事故死として処理されそうだった事件も数々の証拠を挙げることで殺人事件として周囲に納得させる執念を持っている。また事件解決のためには小事よりも大事を重んじる性格で、捜査のパートナーとなったエレノアの杓子定規な性格―つまりどんな微罪であっても犯人を逃さない―と反目し合いながらもいつしかお互いに魅かれ合っていく。 一匹狼の刑事、ヴェトナム戦争のトラウマ、男と女のロマンス。 このように本書を構成する要素を並べると実に典型的なハードボイルド警察小説である。しかしどことなく他の凡百の小説と一線を画するように思えるのはこのボッシュという人物に奥行きを感じるからかもしれない。 仕事の終わりに片持ち梁構造の、金持ち連中が住まう一軒家でハリウッドの景色を眺めながらジャズを流してビールを飲むことを至上の愉しみとしている。読書にも造詣が深く、自分の名前の由来が高名な画家であることがきっかけかもしれないが、絵画にもある程度の知識を持つ。ボッシュがエレノアと魅かれるのも彼女の自宅にある蔵書と彼女の家に掛かっている一幅の絵のレプリカが自分との精神的つながりを見出すからだ。こんな描写に単純なタフガイ以上の存在感を印象付けられる。 捜査が進むにつれて時に反目し合い、時に長年の相棒のように振る舞いながらボッシュとエレノアは長く2人でいる時間の中でお互いの人間性を確認し合い、そして個人的なことを徐々に話し出していく。 2人での語らいのシーンは数多くあるが、その中で私は2人で強盗グループが襲撃すると目される富裕層相手の貸金庫会社に張り込んでいる時に車中で訥々と語り合うシーンが好きだ。その時の2人は長く流れる時の隙間を埋めるための会話を考えるような関係ではなくなり、沈黙が心地よくなっている関係となっている。張り込みの最中でお互いの人生の分岐点になった過去の出来事を語り、そしてその出来事で自らが思いもしなかった心情について述べられる。そして初めてその時にボッシュはエレノアを仕事上のパートナーから人生のパートナーとして意識し、その責任感に身震いする。一匹狼の敏腕刑事の男が連れ合いを意識したときに初めてそれを守っていく勇気と怖さを目の当たりにするのである。何とも味わい深いシーンだ。 そして彼の率いる元ヴェトナム兵士による銀行強盗が貸金庫に押し入ってからの攻防が実に写実的だ。本書のクライマックスと云っていいシーンだ。 そしてボッシュは彼らが侵入した貸金庫会社の下にある地下下水道の中に飛び下り、追跡する。それはまさに彼がヴェトナム戦争時代に経験したトンネル兵士の再来だった。真っ暗闇の中、いつ銃弾が飛んでくるか解らない緊張の下、ボッシュは過去と対峙しながら犯人を追う。 この一連の流れは実に映画的であり、また手に汗握るシーンだ。1作目から主人公の過去とマッチしたクライマックスシーンをきちんと用意している辺り、新人離れした構想力を持っているように感じた。 つまり本書に登場する人々に全て共通するのはヴェトナム戦争だ。 かの戦争で普通の生活が出来なくなり、犯罪に関わる生活を繰り返す者、混乱に乗じて一攫千金を得る者、またそれに一役買って社会的地位を得た者、その渦中に取り込まれて無残な死を遂げた者、愛する者を喪った者、もしくはそんな過去を振り払い、己の正義を貫く者。 十人十色のそれぞれの人生が交錯し、今回の事件に収束していったことが判る。 本書では最初の犠牲者となったウィリアム・メドーズという人物を忘れてはならないだろう。 暗闇の中でいつ敵が襲い掛かってくるか解らないトンネル兵士を担いながら、ボッシュを含めた他の兵士とは異なり、いつも躊躇なく穴蔵に飛び込み、暗闇で戦闘を繰り返してきた男ウィリアム・メドーズ。暗闇の中でヴェトコンどもを次々と殺し、戦利品としてその片耳を持ち帰っていた。その数は最高で33個にも上った。彼はヴェトナム戦争後も彼の地に留まり、戦闘に従事していた。そしてアメリカに戻ってからも水道局や水道電力局に就職し、またもや地下に潜る死後淤に従事していた。ヴェトナム戦争の経験で地下こそが彼の居場所になってしまっていた男。ただそこには安らぎはなく、しばしば麻薬に染まり、入出所を繰り返していた男でもある。 本書の原題は“Black Echo”。これはボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いを示している。何とも緊迫した題名だ。 トンネル兵士とはヴェトナム人が村の下にトンネルを張り巡らしており、家と家、村と村、ジャングルを繋いでおり、そのトンネルの中に潜ってヴェトコン達と戦う工作兵のことを指す。 翻って邦題の“ナイトホークス”とは画家エドワード・ホッパーが書いた一幅の絵のタイトル“夜ふかしする人たち”を指す。街角のとある店で女性と一緒にいる自分を一人の自分が見ているという絵だ。この絵のレプリカが捜査のパートナーとなるFBI捜査官エレノア・ウィッシュの自宅に飾られており、しかもボッシュ自身も好きな絵であった。そしてその訪問がきっかけとなって2人が急接近する。 つまり原題ではボッシュがヴェトナム戦争の暗い過去との対峙と、かつて戦友だったウィリアム・メドーズとの、忌まわしい戦争と一緒に潜り抜けた男への鎮魂が謳われているのに対し、邦題では事件を通じてパートナーとなるボッシュとエレノア・ウィッシュとの新たな絆を謳っているところに大きな違いがある。 そしてこのパートナーの名前がウィッシュ、つまり“望み”であることが象徴的だ。邦訳ではしきりに「ボッシュとウィッシュは」と評され、決して「ハリーとエレノアは」ではない。それはまだお互いがファーストネームで呼び合うほど仲が接近していないことを示しているのだろうが、一方でボッシュの捜査には、行動には常に“望み”が伴っているという風にも読み取れる。 原文を当たっていないので正解ではないのかもしれないが恐らくは“Bosch and Wish ~”とか“Bosch ~ with Wish”という風に表記されているのではないだろうか。そう考えると本書は下水と呼ばれる最下層のハリウッド署に埋もれる“堕ちた英雄”の再生の物語であり、その望みとなるのがエレノアというように読める。 つまりエレノア・ウィッシュこそはハリー・ボッシュの救いの女神であったのだ。だからこそ邦題はエレノアとボッシュの関係を象徴する一幅の絵のタイトルを冠した、そういう風に考えるとなかなかに深い題名だと云える。 つまり原題ではボッシュとメドーズとヴェトナム戦争との関係を謳い、邦題ではボッシュとウィッシュの繋がりを謳っている。 その後に刊行される作品が『ブラック・アイス』に『ブラック・ハート』であることを考えると統一性を持たせるために『ブラック・エコー』とすべきだろうが、私は邦題の方が本書のテーマに合っていると思う。最後のエピローグがそれを裏付けている。 いわゆるハリウッド映画やドラマ受けしそうな典型的な展開を見せながらも、実はそのベタな展開こそが物語の仕掛けである強かさこそが数多ある刑事小説と、ハードボイルド小説と一線を画す要素なのかもしれない。とにかく作者コナリーが本書を著すに当たって徹底的に同種の小説のみならずエンタテインメントを研究しているのがこのデビュー作からも推し量れる。 さて本書はこの後長く続くハリー・ボッシュサーガの幕開けに過ぎない。これ以降の作品が世の海外ミステリファンの胸を躍らせ、作品を出すたびに今なお年間ランキングに名を連ねているのはご存知の通りだ。 まずは本書で言及されているボッシュが降格人事を受け入れることになったドールメイカー事件に彼の母親が関わっていたという事実が気になる。新しいシリーズを、それも世評高いシリーズを読み始めるというのはなんとも胸躍ることか。 次巻以降のボッシュの長い道行をじっくり味わっていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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綾辻行人氏、容赦なし!
まさに王道のスプラッター・ホラー。綾辻氏のスプラッター・ホラー好きはつとに有名だが、その趣味を前面に満遍なく筆に注ぎ込んだのが本書だ。 TCメンバーという、年齢も性別、国籍、職業も無関係である一つの条件を満たしていれば入会できる親睦団体の、東京第二支部として集まった面々。 中学教師の磯部秀二と真弓夫妻、会社員の大八木鉄男、自称カメラマンの洲藤敏彦、大学生の沖元優介、OLの千歳エリ、女子大生の茜由美子、中学生の麻宮守がそのメンバーである。それぞれに色んな過去を抱えており、ある者は自分の息子を事故で亡くし、またある者は母親を事故で亡くしている。 まずこの手の連続殺人鬼による殺戮劇にありがちなセックス中の殺人で幕を開けるところが笑える。しかしその笑いも束の間でその死にざまの惨たらしさに思わず目を背けたくなる。 都合15ページ亘って描写される殺人鬼による殺戮ショーの凄まじさはまさに戦慄ものだ。 木杭で下半身同士を打ち付けられ、身動き取れないまま、男は首を斧で刈られ、女はまず左足を太腿から切断された後、左腕を肘から切られ、そして首を刈られるという凄惨さ。その描写が実にリアルで凄まじい。 その後も綾辻氏による殺戮ショーは続く。3人目の犠牲者は焚火の中に顔を押し付けられ、焼け爛れされた後、頭を斧によって割られる。 4人目の犠牲者は両足を切断され、逃げられなくなったところを2人目の犠牲者の左腕を喉にねじ込まれる。 5人目の犠牲者はさらに凄惨だ。天井から逆さに吊るされた状態で眼球を錐で繰りぬかれ、視神経が付いた状態で自身の口の中に入れられる。更には腹を掻っ捌かれ、流れ出た腸を口の中に咥えさせられ、もはや正常な判断が出来ないまま、生に執着した犠牲者は己の腸とは知らずに生きるために貪り食って死ぬ。 6人目の犠牲者は頭を両手で挟み込まれ、親指を両目に押し込められて潰された上、首を180度捻じ曲げられた状態でぺしゃんこに潰される。 7人目の犠牲者は手首を切られた後、馬乗りにされ、片手をぐいぐいと口の中に押し込まれ、何と食道の壁を突き破り、胃を鷲掴みにされて口から引き抜かれる。 どうだろう、この残酷ショーのオンパレードは。 この徹底した残酷さはなかなか書けるものではない。生半可な想像力ではこれほど凄まじい殺人方法が浮かばないからだ。 それを着想し、生々しい描写で執拗に描き続ける綾辻氏。 本書を書くとき、彼の中に一己の殺戮マシーンが心に宿っていたのではないだろうか。つまり作者自身が殺人鬼になり切っていた。そう思わせるほどの怖さと迫真さに満ちている。 しかもこれほどの典型的なスプラッター・ホラーに綾辻氏はある仕掛けを施している。 最後の生存者1人になった時、その仕掛けが判明する。 このある条件は最後の方で解った。 典型的なスプラッター・ホラーを綾辻行人氏が書くわけがない、何かあるはずだと期待して読んだのだが、その期待が最後で萎んでしまった。 むしろ逆にシンプルに徹底したB級ホラーぶりを愉しむが如く、存分に筆を奮ってほしかったくらいだ。最後の真相を読むとなおさらそう思う。 しかし本書はこれでは終わらない。今回発見されなかった双葉山の殺人鬼が再び姿を現す『殺人鬼Ⅱ』が控えている。 このような出来すぎな結末になっていないよう、更に上のサプライズを今度こそ期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キャサリン・ダンスシリーズ3作目の本書は休暇中に旅先で遭遇する友人のミュージシャンのストーカー事件に巻き込まれるという異色の展開だ。
従って彼女の所属するカリフォルニア州捜査局(CBI)モンテレー支局の面々は登場せず、電話で後方支援に回るのみ。彼女の仲間は旅先フレズノを管轄とするフレズノ・マデラ合同保安官事務所の捜査官たちだ。 しかしリンカーン・ライムシリーズも3作『エンプティ―・チェア』ではライムが脊髄手術で訪れたノースカロライナ州を舞台にした、勝手違う地での事件を扱っていたので、どうもシリーズ3作目というのはディーヴァーではシリーズの転換期に当たるようだ。 そして出先での捜査、しかも地方の保安官事務所の上位組織であるCBIは彼らにとっては目の上のタンコブのようで最初からキャサリンに対して物見遊山的に捜査に加わろうとする輩と色眼鏡を掛けて見ており、全く協力的ではない。これは定石通りだが、彼らがキャサリンと手を組むのは早々に訪れ、事件発生の2日目、ページ数にして170ページ辺りで訪れる。この展開の速さは正直意外だった。 さてストーカー行為は現在日本でも問題になっており、それが原因で女優の卵や若い女性が殺害される事件が最近になっても起こっている。一番怖いのはストーカーが自己中心的で相手を喜ばそうと思ってその行為を行っており、しかも彼ら彼女らが決して他人の意見や制止を認めようとしないことだ。 自分の信条と好意に狂信的であり、しかもそれを悪い事だと思ってない。実に質の悪い犯罪者と云えよう。 本書に出てくるエドウィン・シャープも実に薄気味悪い。見かけは185~190センチの長身で身ぎれいにしたヘアスタイルに服装で好男子の風貌だが、その目の奥にはどこか狂信的な輝きが潜んでおり、常に何かを探ろうとじっと対象物を見つめている。そしてなぜか初対面にも関わらず、相手の名前を、場合によっては近しい人しか知りえぬファーストネームさえも知っている男。 この底の知れないところと快活な風貌がアンバランスで逆に恐怖を誘う。 そして作中にも書かれているようにストーカーのようにあることに対して妄信的に信じて疑わない人々、また嘘を真実のように信じて話す人々には人間噓発見器のダンスが得意とするキネシクスが通用しないのだ。 事件発生後の3日目の火曜日にダンスはエドウィン自らのリクエストによって尋問を行うが、彼の得体の知れない笑みに惑わされて本領を発揮できなく、時には先方に主導権を握られそうになる。結局彼が犯人か否かを判定できずに終わる。 余談になるが、このキャサリン・ダンスシリーズは彼女の得意とするキネシクスがほとんど機能せずに物語が進む。つまりダンスは自身のシリーズになるとただの優秀な捜査官に過ぎなくなり、“人間噓発見器”としての特色が全く生きないのだ。 一方のリンカーン・ライムシリーズがライムの精密機械のような鑑定技術と証拠物件から真相を見破る恐るべき洞察力・推理力を売り物にしているのとは実に対照的である。 そしてライムと云えば、これまでこのシリーズにもカメオ出演でチョイ役で出ていたが、本書ではとうとうフレズノに赴いて捜査に加わる。そして彼の鑑定技術がその後の捜査の進展に大きな助力となり、犯人逮捕の決め手になるのだ。 この演出はファンサービスとしては上等だが、一方でこれでは一体どちらのシリーズなのかと首を傾げたくなる。 また本書ではディーヴァーお得意の音楽業界を扱っているところもポイントだ。ディーヴァー自身が元フォーク歌手を目指していたことはつとに有名で、本書で挿入されるカントリー歌手ケイリーの歌詞ではその片鱗を覗かせている。 まず今回ダンスが事件に巻き込まれる発端が休暇を利用して自身で運営しているウェブサイトを通じて著作権を取得する手伝いをし、さらに販売までする世間にほとんど認知されていない在野のアーティストの曲を収集する“ソング・キャッチャー”としての旅であることだ。このことからも本書が音楽に纏わるあれこれをテーマにしていることが判る。 またこのケイリー・タウンだが、私の中では彼女をテイラー・スウィフトに変換して読んでいた。特にケイリーがカントリー・ミュージック協会の最優秀賞を受賞したときのある事件のエピソードに関してはテイラーの2009年のグラミー賞に纏わるカニエ・ウェストとの騒動を彷彿させる。そうするとまさにぴったりで、後で調べたところ、作者自身彼女をモデルにしているとの記述があり、大きく頷いてしまった。 また音楽業界の変遷についても筆が大きく割かれている。 17世紀の、まだ録音機器がない時代にコンサートやオペラハウス、ダンスホールなどで生演奏を楽しんでいた時代に始まり、エジソンによって発明される蓄音機によって家庭で音楽が楽しめるようになり、そこから技術革新で様々な音楽媒体が生まれたことが説明されているが、やはりとりわけ筆に熱がこもっていると感じられるのは最近のウェブを利用しての音楽配信サービスに移行してからの無法地帯と化した音楽業界の実情だ。 合理主義のアメリカ人は利便性を優先するがためにレコードやCDといった物として音楽を聴くことから単にデータとして自身のパソコンやスマートフォンなどに取り込んで、しかも超安値で何百万曲も自由に、違法音楽配信サービスを利用すれば無料で好きな曲だけチョイスして楽しむという現状を、ミュージシャンを志した作者自身が嘆いているように感じられる。 アメリカでは既にタワーレコードは潰れてしまったが、物その物に価値を見出す日本人はまだ大型レコード店が廃業するまでには至っていない。特に渋谷のど真ん中で複層階のビルが1棟まるまるレコード店であるというタワーレコード渋谷店は外国人にとって驚きの対象らしい。 さらに本書で挿入され、事件に大いに関係するケイリー・タウンの楽曲も実際にウェブサイトで公表され、販売されているとのこと。単に題材をシンガーにしただけでなく、実在するかのようにアルバムまで1枚作ってしまうディーヴァーのサーヴィス旺盛さには驚いた。 他にもザ・ビートルズの未発表曲がある、ケイリーに隠し子がいて、それが姉の娘であった、等々音楽業界にありそうなエピソードが満載されている。 そしてもはや定番と云っていいどんでん返し。 本書のどんでん返しはミスディレクションの魔術師ディーヴァーだからこそ安易な誘導には引っ掛からないと疑いながら読む読者ほど引っ掛かるミスディレクションだろう。 しかしストーカーという人種はどうしようもないなとつくづく思う。相手が「自分だけ」を特別な誰かだと思っていると思い込み、そしてそれは「自分だけ」が理解していると思い込む。相手にとってそんなワン・アンド・オンリーであると思い、自己愛をその人物への愛へと変換する。どんなに相手が異を唱えても、邪険に扱っても愛情の裏返し、周囲に対する恥ずかしさからくるごまかしとしか捉えられない。 そして自分が作り出した「偶像」を愛していると気付くと一転して至上の愛から強姦魔、殺人魔に転換する。「自分だけ」の物にならなかったら他の誰の手にも渡らぬようにしてやる、と。 まさにエドウィン・シャープこそはその典型。いつの間にか結婚したことになっていたりと実に思い込みが激しい。 人は辛い時に希望にすがってその痛みを和らげようとする。正直私も過去の恋愛で振られた時は連絡不通になっても忙しいだけだ、電源が偶々切れているだけだと都合のいいように解釈していた。別れて半年ぐらい経ったときに再びその女性と逢って食事することになった時には、逢えばまた寄りを戻せると信じて疑わなかったが、逢って話しているうちに彼女の中で自分は既に過去の男になっていることに気付いた。逆にそのことで吹っ切れた。 自分自身の経験を踏まえてこのエドウィン・シャープという人物のことを考えると人というのは紙一重で普通から狂人へと変わるのだなぁと痛感する。自分がこのシャープほど人に執着することはないとは思うが、例えば私は他人よりも読書、洋楽がディープに好きなのだが、この対象が人になったのがストーカーなのかもしれない。欲しい本を求めてあらゆる書店やウェブサイトを時間かけて逍遥することに何の苦労も感じないから少しだけだがシャープの執着ぶりも理解はできる。 ただやはり題材が古いなぁという印象は拭えない。今更ストーカーをディーヴァーが扱うのかという気持ちがある。 たまたま今まで扱ってきた犯罪者にストーカーがなかったから扱ったのかもしれないが、今までの例えばウォッチ・メイカーやイリュージョニストを経た今では犯罪者のスケールダウンした感は否めない。遅すぎた作品と云えよう。 読了後、ディーヴァーのHPを訪れ、本書に収録されているケイリー・タウンの楽曲を聴いてみた。いやはや片手間で作ったものではなく、しっかり商業的に作られており、驚いた。 書中に挿入されている歌詞から抱く自分でイメージした楽曲と実際の曲がどれほど近しいか確認するのも一興だろう。個人的には「ユア・シャドウ」は本書をけん引する重要な曲なだけあって、イメージ通りの良曲だったが、かつて幼い頃に住んでいた家のことを歌った感傷的な「銀の採れる山の近くで」がアップテンポな曲だったのは意外だった。 物語と共に音楽も愉しめる、まさに一粒で二度おいしい作品だ。稀代のベストセラー作家のエンタテインメントは文筆のみに留まらないのだなぁと大いに感心した。 さて既に刊行されているダンス・シリーズの次作『煽動者』の帯には大きく「キャサリン・ダンス、左遷」の文字が謳ってある。またも慣れぬ地での捜査となるのか、色々想像が広がり、興味は尽きない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フィルポッツの再評価が止まらない!
『溺死人』の復刊から続いて新訳刊行された『だれがコマドリを殺したのか?』が望外の好評を以って迎えられたお陰でこれまた長らく絶版状態だった本書が復刊の運びとなった。何とも喜ばしいことだ。 「人を殺す部屋」という怪奇じみた設定は古典ミステリではよく用いられたテーマで、代表的なのはカーター・ディクスンの『赤後家の殺人』だろう。 しかしミステリアスな設定ゆえに逆に真相が判明すると、なんとも肩透かしを覚えるのも事実である。 そんな謎を英国文壇の大御所フィルポッツが扱ったのが本書だ。 過去に2人の死人を出した灰色の部屋。一見ごく普通の部屋だが、宿泊した人物はどこにも外傷がないまま、事切れた状態で発見される。そしてその話を聞いた娘の花婿が周囲の制止を振り切って泊まって絶命し、更に捜査に訪れた名刑事は白昼堂々、部屋の調査中にたった1時間ほどで絶命する。更に花婿の父親は神への強い信仰心を武器に立ち向かうがこれも敢え無く同じ末路に至る。 立て続けに3人も亡くなる驚きの展開である。 この怪異現象に対して文学畑出身のフィルポッツらしく、単なるミステリに収まらない記述が散見される。 特に息子トーマス・メイを灰色の部屋で喪った牧師セプティマス・メイが人智を超えた神の御手による仕業であるから、信仰心の厚い自分が部屋で一晩祈りを捧げて邪悪な物を一掃しようと提案してからの館主ウォルター卿と係り付けの医師マナリングとの押し問答が延々17ページに亘って繰り広げられる。 その後も信仰心の権化の如きメイ牧師と合理的解決を試みる刑事もしくは館主の甥のヘンリーとの問答が繰り広げられる。 一見怪異現象だと思われていた物事が合理的に解明される驚きをもたらしたのがポーでそれがミステリの始まりだとされている。 フィルポッツの最初期に当たる本書では「人が悉く死せる部屋」を題材にし、この謎に対して怪異か犯罪かの両面で登場人物たちが議論を繰り広げるのが上の件なのだ。 この辺はフィルポッツなりのある仕掛けなのかもしれない。 不可解な事件に対して合理的な解決がなされるのかという不安と期待を読者に煽りながら、鳴り物入りで登場した名探偵の誉れ高き名刑事はあえなく屈し、退場する。そして牧師の口から摩訶不思議な事件は過去に死んだ者たちの想念もしくは霊によるものであり、もはや祈りによって解消されるというオカルト的解決が主張され、屋敷の主は洗脳されたかのように牧師の主張に縋り、除霊をお願いする。 この館主ウォルター卿の揺らぎはつまり読者をも揺さぶっているように思える。 オカルトかミステリか? その両軸で揺れながら物語は進み、結論から云えばミステリとして一人のイタリア人の老人によって合理的に解決がされる。 正直この真相には驚いた。 上に書いたように往々にして怪奇めいた謎は大上段に構える割には真相が陳腐な印象を受けるが、本書は歴史の因果が現代に及ぶもので、しかもそれまでの物語でウォルター卿の人となりとレノックス一家の歴史でさりげなく説明が施されている。 さすが文豪フィルポッツの手になるものだと感心した。 ある意味戦慄を覚える真相である。 しかしそれでも訳がひどすぎた。およそ会話としてしゃべるような言葉でない文章でほとんど占められており、しばしば何を云っているのか解らず何度も読み返さなければならなかったし、また眠気も大いに誘った。 さらに誤字も散見された。そんな記述者の些末なミスや技量不足で本書の評価が貶められていることを考えるとなんとも哀しい。この悪訳ゆえに今まで長らく絶版だったのではないか。 奥付を見ると1985年に3版が出て以来の復刊である。実に30年以上も絶版状態にあったわけだ。 上に書いたように最近になってフィルポッツ作品が別名義の物も含めて初訳刊行、復刊さらに新訳再刊されている。フィルポッツを読んだのは学生時代だったからこの再評価は実に嬉しい。 復刊は喜ばしいことだが、しかしその前に一度刊行する前に中身を読んでいただきたい。その日本語が現在も鑑賞に耐えられるかどうかを見定めてほしい。 そうしないと単なるブームで終わってしまうだろうし、ミステリ読者の古典ミステリ離れ、いや翻訳作品の読みにくさから海外ミステリ全般に亘って手を取らなくなる傾向に拍車がかかるだけである。 出版業が商業のみならず文化の継承と発信を使命としているならばそのことを念頭に置いてほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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加賀恭一郎の父親との確執は彼が初登場した『卒業 雪月花殺人ゲーム』の時点で明らかになっており、その原因が仕事に没頭し、家庭を顧みない父の母親の仕打ちに対する嫌悪であったことは書かれていた。しかし父隆正との確執については書かれるものの、離婚した母親のことはほとんど何も書かれなかった。そして今回初めて離婚して消息知れずとなった加賀の母親、田島百合子に焦点が当てられた。
旅行で行った時の印象が良かったというそれだけの理由で何の伝手もなく仙台に身を落ち着けた百合子。瓜実顔の美人ですぐにスナックの経営者に気に入れられ、ママに落ち着き、彼女の評判で店も繫盛し出した百合子の人生はしかし一般女性の幸せとは程遠いものだ。たった1Kの部屋で16年も過ごした彼女の心の謎はいかばかりか。 そして田島百合子の人生に一時のみ交錯した綿部俊一という男性。それが現在加賀の捜査する事件と密接に絡み合う。 謎めいた母親の過去と滋賀の1人の女性の東京での不審死。この何の関係のない事件が16年の歳月を経て交錯する。決して交わることのないと思われた2つの縦糸が1人の謎めいた男性を横糸にして交わっていく。 実質的な捜査担当者である捜査一課の刑事で加賀の従兄の松宮と図らずも母の過去の男と対峙することになった加賀。彼らが事件の細い繋がりを1本1本解きほぐしていくごとに現れる意外な人間関係。次々と現れる新事実にページを捲る手が止まらない。この牽引力はいささかも衰えず、まさに東野圭吾氏の独壇場だ。 物語が進むにつれてさらに人生が織り成す奇縁という深みに捜査の手は入り込んでいく。 犯行の犠牲者となった押谷道子。彼女が訪ねてきた女優の角倉博美。特に角倉博美が背負ってきた人生が実に重い。 気の弱い父親が貰った若い母親は町の小さな洋品店で一生を過ごすことに嫌気が差し、男を作って逃げていく。しかも家の実印を持ち出し、家族に多額の借金を負わせる。もはや店の経営も成り立たなくなった父親は絶望して飛び降り自殺し、角倉博美こと浅居博美は施設に預けられ、そこで観た演劇に感動して女優の道を進むことを決意し、上京して見事夢を成就させ、現代では演出家としての地位も確立しようとしている。 まさに夢のようなサクセスストーリーだ。 しかしそこには隠しておいた苦い過去があった。それは彼女の父親が深く関わっている。 そしてこの変転する1人の奇妙な男の人生の影に原発が絡んでいる。 『天空の蜂』で当時ほとんどの人が注目していなかった原発の恐ろしさを声高に説き、その18年後、改めて東野圭吾氏は原発の恐ろしさを別の側面で説く。 身元不詳の誰もが簡単に原発で働けていたという怖さと彼ら原発従事者が一生抱える後遺症の恐ろしさを。 実は私にはここに書かれなかったもう1つの真実があると思うのだ。 なぜ加賀の母親田島百合子は亡くなったのか?その死因については語られない。彼女の後見人であった宮本康代の話で綿部俊一と付き合うようになってから体調を崩すようになり、店も休みがちになった、そしてとうとう彼女は衰弱死してしまうとだけ書かれている。 私は田島百合子は原発作業者の綿部と付き合うことで自らも被曝したのではないかと察する。しかしこれは職業差別に通じるので敢えてそこまで作者は書かなかったのではないかと思う。 また作中で登場人物の一人が述べる台詞が辛辣だ。 「原発はウランと人間を食って動くんだ(中略)作業員たちは命を搾り取られている」 事件の真相はまたもやなんとも哀しい。 加賀が日本橋署配属となり、そしてそれまでの捜査スタイルから町に溶け込もうとする、云わば地域に根差した巡査のような役割を担っていたのが『新参者』からの特徴だったが、それがまさか亡き母と生前親しくしていた人物を捜すためだったというのは驚きだった。 この辺の構成が実に巧い。 そして加賀シリーズには他の東野作品にない、一種独特の空気感がある。 自身の肉親が事件にも関わっているからか、従弟の松宮も含め、家族という血と縁の濃さ、そして和らぎが物語に備わっているように感じるのだ。だからこそ物語が胸に染み入るように心に残っていく。 この和らぎは加賀が抱えていた父隆正への蟠りが『赤い指』にて解消されたからではないだろうか。 彼は家族の中の問題に踏み込むことこそが事件を真に解決するのだと『赤い指』で述べる。そして父に逢わずに看護師の金森登紀子を介して将棋を打つ。それが彼が父と最後にした「対話」だった。 そして今回もやはりすれ違いが生じた夫婦に纏わる哀しい物語だ。 田島百合子と加賀隆正夫婦、浅居忠雄と厚子夫婦。 その2人が離婚する理由の違いはあれど、どちらも夫婦仲がこじれた結果の悲劇だ。 しかしその2人の道のりに数多くの人間が巻き込まれ、その1人として加賀恭一郎がいた。人生とはなんとも奇妙な旅なのだと思わされる。 そしてこの2人が望んだのは我が子の幸せ。わが子の幸せを願わない親はいない。ただ同じ1つの思いでこれほどまでに境遇が変わる。それもまた人生。 また橋の謎の真相がこれまた泣かせる。 そう、加賀恭一郎シリーズが持っている独特の空気感にはどこか昭和の匂いが漂うのだ。 人形町、水天宮、日本橋、そして明治座。日本橋署に“新参者”として赴任してきた加賀が相対してきたのは過ぎ去りし昭和の風景、忘れ去られようとしている情緒や風情だ。 そして今回の事件の発端となった角倉博美の人生を変えるようになった事件が起きたのは30年前。まだぎりぎり昭和だった時代だ。このシリーズはまだ地続きで残っている昭和の残滓を加賀が自分の家族のルーツと共に探る物語となっている。 今回も東野劇場による演目に感じ入ってしまった。 登場人物たちの人生は傍から見れば不幸にしか見えない。 狭い部屋で必要最低限の物だけを持ち、日々を暮らしてきた。人生を思わぬ形で踏み外した2人が思いもかけない形で巡り合う。そんな不幸な境遇だからこそ悔恨にまみれた中で唯一自分たちの子供の成長を幸せの拠り所になった魂の充足。それ以外何もいらなかった2人。 でもたとえ幸せを感じていたとしても哀しすぎるではないか。そんな割り切れなさが本書の幕が下りた時、残った。 加賀はまたどんな事件と遭遇し、どんな人生とまみえるのか。 いやそれに加え、父の死を看取った金森登紀子を1人の女性として、伴侶として迎えるのか。そしてその時の加賀は?次作への興味は尽きることがない。 暗い事件が多いから、哀しい人々が多いから、父と母の死を乗り越えた加賀の明るい未来に希望を託そう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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全5巻。総ページ2,400ページ弱を誇る超大作である本書は1978年に発表されたが、当時約400ページもの分量を削られた形で刊行された。
そしてキングは再び1990年に拡大版として当時削られた分を復刻させ、発表したのが本書である。その際にカットされた全てを加えたものではなく、内容を吟味して加味したとのこと。しかし内容にはほとんど手を加えていないというのがキングの弁。 但し内容を見ると1990年を舞台にしている辺り、時代に関しては修正が加えられているようだ。しかしほとんど発表当時に書かれた物であることから、今回読むことにした。 まず1巻目を読んだときに思ったのは本書が軍によって開発された新種のインフルエンザがある事故によって外部に流出し、それがアメリカ全土を死の国に変えていくというパンデミック・ホラーだということだ。 軍が開発した新型インフルエンザ<キャプテン・トリップス>。それは感染率99.4%を誇る死の病でそれまで存在しなかった病原体だけに人間に抗体がない。そして万が一、抗体を生み出してもウィルス自身が変異し、人間を蝕んでいく、無敵の病原菌だ。 しかしそんな最凶最悪のウィルスが蔓延しながらも感染しない人物たちが登場する。 ステュー・レッドマン、ニック・アンドレス、ラリー・アンダーウッド、フラニー・ゴールドスミス、ロイド・ヘンリード、ランドル・フラッグ、ドナルド・マーウィン・エルバート。 彼らそして彼女に共通するのはなぜか唐突に一面に広がる玉蜀黍畑が現れ、自分が何かを探しているが、そこには何か恐ろしいものが潜んでいるという奇妙な夢を見ることだ。 彼らそして彼女はそれぞれの場所で同じくウィルスに感染しなかった道連れを伴い、旅に出る。 ここでいわゆるパンデミック・ホラーと思っていた物語が転調する。通常ならば被害が拡大していくところに一筋の光のように病原体の正体とそれへの対抗策が生まれ、人類は救われるというのが一般的なのに対し、本書ではそこからアメリカが死の国になってしまうのだ。 つまり約500ページを費やされて描かれた恐ろしき無敵のウィルスがアメリカ全土に蔓延り、ほとんどの人々が死滅していく1巻はこの後に続く壮大な物語の序章に過ぎない。 そして2巻目はそんな荒廃したアメリカを舞台にしたディストピア小説になる。 騒動を鎮圧するために派遣された軍がやがて武器を振り回して小さな国の王になろうとし、殺戮を始める。メディアを使って公開死刑をし出す。略奪を繰り返し、本能の赴くままに行動する。その中にはウィルスに侵されて死を待つだけの者もいる。そんな無秩序な世界が繰り広げられる。 通常このようなディストピア小説ならば、全てが死滅した後の世界を舞台にし、なぜ世界が滅び、荒廃したかは単にエピソードとしてしか紡がれない。しかしキングは敢えてその経過までを詳細に書いた。なぜならそこにもドラマがあるからだ。 普通の生活をしていた国民が突然新種のインフルエンザに見舞われ、次々と死んでいく理不尽さ。これをたった数ページの昔語りで済ませることをキングは拒んだのだろう。 今日もまた昨日のように日常が続き、そして明日が訪れると信じて疑わなかった人々が、実はその人生に幕を引かなければならなかった突然の災禍。誰もがただの悪質な風邪に罹っただけだと信じて疑わなかったという我々の日常の延長線上に繋がるようなごくごく普通の現象がカタストロフィーへの序章だったというリアルさを鮮明に、そして手を抜くことなく描くことが本作を著す意義。これこそがキングが込めた思いだった。だからこそどうしても1978年発表当時の無念を晴らすことが必要だったのだ。 しかしデビュー6作目にしてこれほどの分量の物語を書くという心意気が凄い。本当に物語が次から次へと迸っていたことがその筆の勢いからも解る。 神は細部に宿るという言葉がある。 本来はドイツの建築家ミース・ファンデル・ローエが云った言葉で、何事も細部まで心を込めて作れという意味であるが、それを実践するかの如く、物語の創造主であるキングもまたディテールを積み重ねていく。キングは作家もまた神であることを自覚し、本書の登場人物たちを丹念に描く。 これだけの分量を誇るだけあって込められた物語は5作分以上の内容が込められている。 両親を亡くし愛する妻をも結婚18か月で亡くした孤独な男。 しがないギタリストがひょんなことから自分の作った曲が全米でヒットしていき、人生を狂わせつつある男。 町でも男たちが振り返るほどの美人の娘が妊娠してしまい、母親との軋轢に悩む。 聾唖の青年がアメリカの放浪の旅の途中で助けられた保安官によって保安官代理を務める。 マフィアのヤクを奪い、逃走中のチンピラが立ち寄ったガソリンスタンドで反撃に遭い、ブタ箱に押し込められる。 色んな犯罪に名を変えて関わってきた“闇の男”。 1冊の本が書けるほどの個性的な登場人物たちが軍が開発したウィルスによって崩壊したアメリカを舞台に会する。 人々が死別した町で奇跡的に生き残った人たちが何をするか。これが非常に俗っぽくて逆にリアリティを作品に与えている。 ある者はヤンキースタジアムに行って裸でグラウンドに寝っ転がるのだと息巻く。 人から嫌われていた社会学者はようやくやりたくもない人付き合いから解放され、自分の好きなことに没頭できると喜ぶ。 人がいなくなった世界を存分に楽しむ者も出てくるのだ。 その他感染せずに生き長らえた人々の人生の点描をキングは書く。 病気を乗り越えたからといって人は死なないわけではない。九死に一生を得た後で自転車事故や感電事故、銃の暴発などで死ぬ人々。それは人生が喜劇であり皮肉で満ちていることをキングは謳っているかのようだ。 更に物語は変転する。各地の生存者たちは約束の地を目指すかの如くその町を離れる。そしてその道行でそれぞれに道連れが出来る。 サヴァイヴァル小説、もしくはロードノヴェルの様相を呈してくるのだ。 この第2部から1章当たりの分量が増大するのも大きな特徴だ。 社会に蔓延したウィルスによってもたらされた大量死により個の物語に特化してきた第1部が第2部になって生存者たちがそれぞれ邂逅し、新たなグループを形成しだす。それは即ち小集団の社会を生んでいく。大なり小なりの社会が生まれていく様子を大部のページを割いてキングは語っていく。 小説とは大きな話の中でどこかにクローズアップして語る物語だ。従ってたった1日の出来事を数百ページに亘って書く物もあれば、人の一生を語る物、百年、いや数百年の歴史を語る物、それぞれだ。何巻、何十巻と費やして書かれる大河小説もあれば、1冊に収まる小説もある。それらはどこかに省略があり、メインの、作者が語りたい部分を浮き彫りにして描かれるが、本書は全てが同じ比重で描かれている。だからこそこれほどまで長い物語になっているわけだが、キングはやはり書きたかったのだろう、全てを。頭に住まう人々のことを余すところなく描きたかったのだろう。 ステュー・レッドマンはオガンクィットからストーヴィントンの疫病センターを目指すフラニーとハロルドたちと合流する。 聾唖の青年ニック・アンドレスは知的障害の青年トム・カレンと旅程を共にする。 ミュージシャンラリー・アンダーウッドは女性教師のナディーン・クロスと彼女が拾った口の聞けない少年ジョーと出逢い、旅に出る。 それぞれが出逢いと別れを繰り返し、仲間を増やし、また仲間を喪いながら、ある目的地、ネブラスカにいるマザー・アバゲイルの許へと向かう。 皆が一同に会する安住の地はコロラド州ボールダー。そこを彼らは<フリーゾーン>と呼び、コミュニティが形成されていく。無法地帯と化したアメリカの再生の地、そして彼らを付け狙う<闇の男>に対抗する力を持つべく、彼らは町を復興させ、そして主たるメンバーで委員会を発足させ、秩序を、社会を再構成しようとする。 最終巻5巻はラスヴェガスで次第に闇の男の勢力が弱まっていく様が語られる。 善と悪。 この表裏一体の存在は一方が弱まると他方もまた同様に衰退していく、そんな不可解な原理が働くようだ。そして物語は善と悪との直接対決へと向かう。 キングは本書でもたらしたのは複雑化してしまい、もはや何が悪で善なのか解らない世界を一旦壊してしまうことで人々が善と悪に分かれて戦う、この単純な二項対立の図式だ。 そう、これは世紀末を目前にした人類による創世記なのだ。善対悪、天使対悪魔の全面戦争の現代版なのだ。 善の側の中心人物がネブラスカに住む108歳の老女マザー・アバゲイルことアビー・フリーマントル。彼女は“かがやき(シャイニング)”と呼ばれる特殊能力、予知能力を有する女性だ。そう、『シャイニング』で少年ダニー・トランスが持っていた同じ能力だ。 一方悪の側の中心人物はランドル・フラッグ。闇の男の異名を持ち、生存者の夢に現れては恐怖を与え、時に目を付けた人物の悪意を唆す。従って善の側にいる人々の中にも新たに生まれたコミュニティ生活の人間関係に苦しみ、また憎悪が芽生え、その心の隙間にランドルは囁きかける。 フラニーに惚れて共に行動しながら同行者となったステューに嫉妬するハロルド・ローダーとラリーを欲しいと願いながらも純潔を守り通そうとする屈折した感情を抱く元教師ナディーン・スミスがランドルの標的となっている。 この2人だけが超越した人間として書かれている。2人に共通するのは生存者たちの夢の中に出現することが出来ることだ。しかしランドル・フラッグは実に謎めいている。 マザー・アバゲイルが“かがやき”を備えていることが説明されているのに対し、ランドル・フラッグは特殊な“目”を持ち、千里眼の如く遥か彼方の出来事を見通すことが出来、さらに各地へ飛ぶことが出来るという説明があるだけだ。“かがやき”が善なる力ならば彼の能力は悪の力でまだ名前がないだけなのかもしれない。 しかし彼はどこにでも行けると思わせながらもマザー・アバゲイルたちが住む<フリーゾーン>へは赴かない。いや誘惑したナディーンたちの前に現れてはいるが実体化しているかどうかは解らない。彼の行動範囲には限りがあるということなのか。彼の領域があり、その中で自由自在に動けるということなのかもしれない。 人は未曽有の災害を生んで、ほとんどが亡くなり、また大いなる悪に打ち勝ってもまた同じことを繰り返すのだ。 人間社会はその繰り返しである。本書の言葉を借りれば、まさに回転する車輪の如きもので、歴史は常に繰り返される。それは即ち過ちをも。 また興味深いのはスパイとして潜入したデイナが闇の男が統治するラスヴェガスの方が規則正しい生活が成されていることに気付き、驚きを感じるシーン。 それは闇の男の機嫌を損ねぬように生きているからこそ、つまり恐怖が規律を育てているという皮肉。これは現代社会の規律を皮肉っているようにも取れる。 我々は何かを恐れているがゆえにシステムに固執し、それを守ることでうまく機能を社会にもたらせている、そんな風にキングは指摘しているように感じた。 色んな人生を読んだ。そして彼ら彼女らはいつしか自分を変えていった。 その中で私が最も印象に残ったキャラクターはトム・カレンとハロルド・ローダーだ。 トム・カレン。本書では言及されていないが彼もまた“かがやき”を備えた知的障害者だ。ニック・アンドレスと出逢う前の彼はパンデミックで人々が亡くなる前は両親とともに暮らすただ障碍者で、災厄の後では一人町に取り残された弱者に過ぎなかった。しかし彼は自分が何者かを知っていた。だから誰も彼を馬鹿にしなかった。彼がただ他の人よりもちょっと足らないだけだ。従って彼は愚直なまでに命令に忠実だ。その愚直さが実に微笑ましく、また感動を誘う。 そして彼はトランス状態に陥ると“かがやき”を備えたかのように先を見通せるようになる。最後まで底の見えない好人物だった。 ハロルド・ローダー。 美人で優等生の姉と常に比較され、劣等感を抱えて生きてきた彼は知識を蓄えることで自らをヒエラルキーの頂点に持っていこうとするが、持っていた劣等感ゆえに尊大さが目立ち、人を見下すようになる。パンデミック後も町でたった2人で生き残った憧れの君フラニーと親しくなることを期待するもすげなく断られ、道中で一緒になったステューに彼氏の座を奪われる。そこから憎悪がねじ曲がり、表向きは快活な笑顔を振る舞って協力的な態度を示しながらも<元帳>と書かれた日記には自分の憎悪の丈をぶつけ、日々復讐心を募らせる。 彼は常に人に認められたいと願った男だった。しかしいつも誰かと比較され、そして貶められていた。そのことがどうしても我慢ならなかった。しかし彼は自分が認められる道を見つけたのだ。嘘でも笑顔で振る舞い、皆の注目と関心を得るために嫌な仕事も率先してやることでとうとう欲しかった信頼、仲間を得たのだ。 しかしその頃にはもうすでに彼の心は病んでしまっていたのだ。彼はもうその安住の地に留まることを潔しとせず、初心貫徹とばかりに自らの憎悪に固執してしまったのだ。 人は変われるのに敢えて変わることを選ばなかった男、それがハロルドだ。彼の許を訪れ、情婦となったナディーンがいなかったらハロルドはそのまま<フリーゾーン>に留まっただろうか? 私はそうは思わない。彼が抱えた闇は簡単には晴れなかった、そして彼は自分の性分に正直に生きた、それだけだ。 ところで題名『ザ・スタンド』の意味するものとはいったい何なのだろうか? 本書では最後に闇の男が甦った際に「拠って立つところ」とされている。 なるほど、全てが喪われた世界でそれぞれがどんな拠り所を、己の立ち位置を見つける物語という意味なのか。善に立つか悪に立つか。しかし私は立ち上がる人々、即ち蜂起する人々という意味も加えたい。 最終巻、いや最終の第3部に至って挿入される引用文の1つにあの有名なベン・E・キングの歌“Stand By Me”の歌詞が引用されている。貴方が傍にいるから怖くない、と。だから私も立つのだ。 しかしキングはよほどこの歌が好きなようだ。ご存知のようにこの歌の題名をそのまま使い、映画化もされて大ヒットした短編を後に書いてもいる。歌い手の名が同じ苗字を冠していることもその一因なのだろうか。 こんな長い物語を読み終えた今、胸に去来するのはようやく読み終わったという思いではなく、とうとう終わってしまったという別れ難い思いだ。 2,400ページ弱の物語が長くなかったかと云えば噓になるが、それでもいつしか彼らは私の胸の中に住み、人生という旅を、戦いを行っていた。 通常これだけの大長編を書いた後では虚脱状態になってしばらくは何も書けない状態になるのではないだろうか。読み終わった私でさえ、半ばそのような状態である。 洋の東西問わずそのような事例の作家が少なからず思い浮かぶが、キングはその後でも精力的に大部の物語を紡ぎ続けているところだ。彼の創作意欲は留まるところを知らない。 キングの頭の中には今なお外に出たくてひしめき合っているキャラクターが潜んでいるのだろう。天才という言葉を軽々しく使いたくないが、現在まで年末のランキングに名を連ねる彼はまさしく小説を書くために生まれてきた正真正銘の天才だ。 また本書ほど読む時期で印象が変わる物語もないだろう。 上に書いたように2,400ページ弱を誇る大部の物語はキングの色んな要素を内包している。本書が1978年に発表された当時にカットされた分を付け足した1990年に刊行された増補改訂版であるのは冒頭に述べた通りだが、この作品を1978年当時の作品として読むか、1990年発表の作品として読むかで変わってくる。 前者であればその後のキングの諸作のエッセンスが詰まっている、いわばキング作品の幹を成す作品と捉えるだろう。しかし後者ならばそれまでに発表された『IT』を凌ぐキングの集大成的作品として捉えた事だろう。 解説の風間氏がいうように私は前者の立場で読んだ。従って私の中ではキングはまだ始まったばかり。本書がこの後紡ぎ出した数々の作品にどのように作用しているのかを読むことが出来るのだ。 実はまだまだ語りたいことが沢山ある。なにせ色々な物が包含され、またそのままの状態で終わった物語であるからだ。 ナディーン・クロスに寄り添っていたジョー、即ちリオ・ロックウェイのこと、本書で登場する玉蜀黍畑は短編「トウモロコシ畑の子供たち」でも意志ある存在として不気味なモチーフで使われていたが、アメリカ人、いやキングにとって玉蜀黍畑とは何か特別な意味を持っているのだろうか、等々。 しかしそれはおいおい解ってくるのかもしれない。今後の壮大なキングの物語世界に浸ることでそれらの答えを見つけていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は祥伝社の企画で全て書下ろしの400円文庫のうちの1冊として刊行されたもの。他の作品について読んだのは瀬名秀明氏の『虹の天象儀』のみで、他の作家がどれほどのクオリティの作品を著したのかは解らないが、とにかく鯨氏の手による本書は改行と一行空きが多い分量が少ない作品で、かつ破天荒なストーリー展開が繰り広げられるパラレルワールドを舞台にした物語となっている。
物語は記憶喪失の「あなた」が神が3つの世界のうち1つのみを残して抹消しようとしているとしているのを、どの世界を残すか決定権を持つことが出来る赤、青、黄のキャンディを手に入れるため、それぞれの所有者との戦いに挑むというもの。いわゆるバトル系の物語なのだが、本書はそんなストーリーよりも鯨氏の言葉遊びを楽しむのが正しい読み方だろう。 「あなた」の味方に付く日ペンの巫女ちゃんの部下シャーリーズ・エンジェル、敵のダイオ鬼神、残り2つのキャンディを所有する敵がビッグ伴と阿武能丸、予言者がいる<忘れチッククラブ>、コドモオオトカゲ、キャンディを狙うくノ一華幻嬢女(加減乗除)に根尾那智などどこかで聞いたような名詞がパロディ化されて登場する。 後半に行けば行くほど団地街平行棒、網仮膜下出血、東京ドーモ学園、デルフォイの信託銀行、最古セラピストとどんどんエスカレートし、次にはダライ・マラ、秘打・高山、カップニードル、あゆみの呪いとほとんどダジャレに近い、しかも小学生レベルのネタが続く。 とにかく言葉遊びが全編に亘って横溢しており、正直に云って3つの世界のうち1つを救うための戦いというメイン・ストーリーはもはやどうでもいいくらいで、鯨氏が次から次へと繰り出すナンセンスギャグを楽しむのが吉だろう。 しかし読者自身を現在住んでいる地球とは異なるパラレルワールドに引き込むために二人称叙述を選択したようだが、あまり成功しているとは云えない。なぜなら主人公の主観がかなり物語に入っているからだ。つまり「あなた」という名前の主人公の三人称叙述のようにしか読めなかった。 しかし前回読んだ『千年紀末古事記伝ONOGORO』でもそうだったが、下ネタ、特にセックスネタが鯨氏の作品にはよく登場する。本書でも必ず出てくる女性はグラマラスかつ美人で、物語の分岐点では意味もなくセックスが介在する。安っぽい三文小説を読んでいるかのようだ。 小さい頃に読んだやたらとウンコが登場する意味無しギャグマンガを小説に仕立てたような子供じみた作品か。但し本書はウンコの代わりにセックスが頻出するのだが。 駆け出し作家が出版社からの執筆依頼に全て応えていた頃に書かれた走り書き小説の類というのは酷評過ぎるかもしれないが、正直何を書きたかったのか作者のテーマがはっきりと見えない作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2011年に刊行されるや一気にブームとなった古書店を舞台にしたライトノヴェル。ドラマ化もされたので本を読む人以外でもその名を知っているほどの有名な作品をようやく手にしてみた。
第1巻である本書は4つの短編で構成された短編集である。 主人公は五浦大輔と篠川栞子。 五浦大輔は大学を卒業したものの就職先が決まっていない就職浪人。篠川栞子は北鎌倉に店を構える「ビブリア古書堂」を亡き父の跡を継いだ店主。この2人が出逢う話が第1話目の「夏目漱石『漱石全集・新書版』(岩波書店)」である。 シリーズの幕開けを告げる本作はいわばビブリア版『マディソン郡の橋』とも云うべき適わぬ恋の物語だ。昭和の女性として飲む打つ買うの三拍子好きだった祖父にひたすら耐えるように連れ添った厳しかった祖母が棺まで持って行ったたった1つの本当の恋愛が死後1年経って、その蔵書から解かれる。 平凡と思われた家族にも何かしら隠された秘密はあるものだ。 そして五浦はこの事件がきっかけでしばらく古書堂のお世話になることになる。 第2話「小山清『落穂拾ひ・聖アンデルセン』(新潮文庫)」は五浦がビブリア古書堂で働き出して3日目の事件を扱っている。 本作のミソは依頼人の志田が盗まれた本が新潮文庫だったという点だ。 これを大切なプレゼントの応急処置としたところが作者の着眼点の妙だろう。本作で挙げられている作品『落穂拾ひ』が本書の話と絡むのは当然のことながら、文庫をこのような小道具としたところを賞賛したい。本に纏わる話を考えていると取り上げる作者の経歴とかテーマとなる話そのものから物語を考えるので、なかなか本作のような発想は思いつかないものである。天晴れ。 3話目「ヴィノグラードフ・クジミン『論理学入門』(青木文庫)」はある夫婦に纏わる話だ。 紳士の暗い過去を知られないために本を処分するという動機の方が味わい深いと思わせながら、最後にさらに夫婦の仲が深まるエピソードに落とすあたりはなかなか。 謎と云い、物語と云い、小粒感は否めないが、それは本作が最後のエピソード「太宰治『晩年』(砂子屋書房)」への橋渡し的な役割を果たしているからだ。 古書に纏わる事件と云えば狂信的な収集家が起こす事件が定番だが、ラノベである本書では敢えてそのディープな内容を避け、本に纏わる日常の謎について語ってきたのだが、最後の事件になってようやく核心的な謎について触れられている。 1冊の本のために数百万もの大金を出し、手に入らないと解れば持ち主を殺してでも奪おうとする狂信的な書物愛こそが古本マニアの本質だ。最後に登場した栞子の宿敵とも云える大庭葉蔵の正体は正直意外だった。 また掉尾を飾るエピソードとあって、それまでの話に出ていた登場人物が登場する。2話目で志田と親しくなった女子高生小菅奈緒はビブリア古書堂の常連に、3話目に登場した坂口夫婦も登場し、更に1話目で判明した五浦の出自も意外な形で物語に関わってくる。 しかしこのコレクター魂こそが収集狂の典型とも云える。 冒頭にも書いたように既にドラマ化もされ、文庫も版を重ねたベストセラーシリーズの第1弾。旬も過ぎたかと思われたこの頃になってようやくその1巻目を手に取ることにした。 私は熱心なライトノヴェル読者ではないのでそれほど同ジャンルの作品を数多く読んでいる訳ではないのだが、色んなメディアから見聞きした昨今の業界事情から考えるとキャラクター設定としては決して突飛なものではなく、ミステリを中心に読んできた私にしてもすんなり物語に入っていけた。 人見知りが激しいが、いざ書物のことになると饒舌になり、明敏な洞察力を発揮する若き美しい古書店主というのは萌え要素満載だが、いわゆる“作られた”感が薄いのが抵抗なく入っていけた点だろう。また古書店主というのが本読みたちの興味をそそる設定であることもその一助であることは間違いでないだろう。 しかし扱っているテーマは古書というディープな本好きには堪らないが普段本を読まない中高生にはなんとも馴染みのない世界であるのになぜこれほどまでに本書が受け入れられたのだろうか。 上にも書いたがこういった古書ミステリに登場する古書収集狂は最後のエピソードにしか出てこないことが大きな特徴か。 本に纏わる所有者の知られざる過去が判明する第1話。 その文庫しかないある特徴を上手く利用した、本自体を物語のトリックとして使用した第2話。 夫が大事にしていた本を突然売ることになったことでそれまで隠されていた過去が判明する第3話と、1~3話まではいわゆる本を中心に生きてきた狂人たちは一切出てこらず、我々市井の人々が物語の中心となっていることが特徴的だ。従って古書を扱っていながらも所有者の歴史を本から紐解くという趣向がハートウォーミングであり、決してディープに陥っていない。 しかしそれでも1話目から作者自身が恐らく古書、もしくは書物に目がないことは行間から容易に察することができる。従って作者は話を重ねるにつれて読者を徐々にディープな古書の世界へと誘っていることが判ってくる。 例えば1,2話では現存する出版社の本であるのに対し、3話目からは青木文庫、砂子屋書房と今ではお目に掛かれない出版社の書物を扱ってきており、そこからいわば古書ミステリのメインとも云える収集狂に纏わる事件となっていく。 しかしそれでも作者自身もこれほどまでに世間に受け入れられるとは思っていなかっただろう。なぜならば本書にはシリーズを意図する巻数1が付せられてなく、また話も五浦の出生に纏わる過去が最後で一応の解決が成され、更に五浦がビブリア古書堂を去るとまでなっていることからも本書で一応の幕が閉じられるようになっていたことが判る。 しかしその作者の予想はいい方向に裏切られ、現在7巻まで巻を重ね、人気シリーズとなっている。これはビブリオミステリ好きな私にとっても嬉しいことだ。 そしてそのことが拍車をかけたのか、作者も古書の世界をさらにディープに踏み入り、そしてミステリ興趣も盛り込むことで『このミス』にランクインするほどまでにも成長した。 ラノベという先入観で手に取らなかった自分を恥じ入る次第だ。このシリーズがたくさんの人々に古書の世界への門戸を開くためにバランスよく味付けされた良質なミステリであることが今回よく解った。 次作も手に取ろうと思う。 栞子さん目当てでなく、あくまで良質なビブリオミステリとして、だが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書の裏表紙の概要にはシリーズ第9作というのは実は間違いで本書は10作目に当たる。9作目の“Comrade Charlie”は未訳なのだ。そしてどうもそれがいわゆるそれまでのシリーズの総決算的な内容で、正直本書からはシリーズ第2部とばかりにキャラクターも刷新されている。
まずチャーリーのよき理解者であったイギリス情報部々長のアリスター・ウィルソン卿は2度の心臓発作により部長職を退き、ピーター・ミラーが上司となり、さらに直接の上司として女性のパトリシア・エルダーがチャーリーの指導に当たる。 また相手側も実際に解体されたソ連からロシア連邦となっており、まだ政治的な混沌の中での国際的対応が強いられている様子。そしてシリーズ1作目から登場していたチャーリーの宿敵ベレンコフが既に失脚しているという状況。 第8作ではベレンコフがチャーリーと縁のあるナターリヤを使って罠を仕掛けようと不穏な空気を纏った中で物語が閉じられるので、いきなりのこの展開には面食らった。なぜ第9作が訳されなかったのだろうか。これは大罪だなぁ。 そんなソ連が解体された時代1993年に発表された本書の舞台は中国。 まだ西欧諸国にとって未知で理解不能、しかも明らかに容貌が違うためにどこに行くのにも目立ってしまう西洋人にとって自分たちの原理原則論が全く通じないワンダーランドである中国に潜伏しているフリーランスのエージェントに中国の公安の者と思われる人物より嫌疑がかけられているとの情報を得て、チャーリーが育てた新任のジョン・ガウアーが単身中国に乗り込む。 まず最初の読みどころはチャーリーが教師となって新人の局員ガウアーを教育するくだりだ。 優秀な成績を修め、自信満々で乗り込んできたガウアーの出鼻を挫くかの如く、悉く彼のやり口を否定するチャーリーの鋭敏さが小気味よい。チャーリーが教えるのはそれまで彼が長年の諜報活動で培ってきた生きる術、即ち彼独自で編み出した「生存術」だ。それは人間の心理、スパイの定石を知り尽くした彼だからこそ教えることが出来る現場における実践術だ。 しかしそんなチャーリーの生存術も風貌が西洋人と全く異なる中国では通用しないようだ。なぜならあっという間に彼は中国の公安部にスパイ容疑で拉致されてしまうからだ。 さて北京オリンピック後の中国を知る今となっては西洋人がかの国に多数いても驚きはしないのだろうが、当時はまだ経済的に発展しておらず、また西洋人に珍しい眼を明らさまに向ける国民ばかりだからスパイ活動というのは得てしてやりにくかったに違いないし、また中国政府側も目立つ西洋人の常に監視している、なかなかに緊迫した状況で物語は進む。 そしてジョン・ガウアーが拉致され、劣悪な状況で監禁と尋問を繰り返される辺りは意外にも手ぬるいと感じてしまった。 いや確かに自身がそのような境遇に置かれるともう2日と持たないだろうと思うのだが、今まで読んできたいわゆる監禁を扱った小説に比べると実に生温く感じるのだ。決して肉体的な苦痛を与えられるわけでなく、蠅がびっしりたかり、穴からネズミがはい出てくるトイレ、混ぜると何かが浮いてくる食事、口に含むだけで下痢となる水、誰かの体臭が染み付いた囚人服といったアイテムには嫌悪感は増すものの、もっと凄まじい環境が今まで読んできた小説にあったのは確か。それらと比べるとなんとも大人しいなぁと思ってしまった。 ただそれでもどうにか自身の正体を偽り、生き延びようとするガウアーの姿は胸を打つ。これが諜報の世界の厳しさだ。 また一方でロシア側も情報局の新局長となったナターリヤの昇進を快く思っていない次長のチュージンによる執拗な上司の身辺調査により、彼女と前夫との間に出来た不肖の息子エドゥワルドが麻薬や闇物資の密輸の主犯としてロシア民警に拘束されている情報をキャッチする。ナターリヤは自らのキャリアの保身のために民警と情報局双方にとって最善の道を模索するが、それを権力の私的濫用としてナターリヤを陥落させようとチュードルが画策する。 またチャーリーも現場復帰が適わず、新人の情報部員の教育係という閑職に甘んじている現状が我慢できず、新上司2人の身辺を洗い、2人が不倫関係にあることを突き止めるが同時にロシア人と思われる情報員たちの監視対象になっていることも偶然突き止めてしまう。 情報を扱う任務に携わっている人々は自らの保身、また昇進という野心のために上司の身辺を調査することが英露両国とも共通しているのが面白い。 日本でも上位職の人たちの人事に目を配り、どこのポストに空きが出来、そしてそこに収まった時に誰が上司になっているのかと想像を巡らすサラリーマンはいるものだが、本書に出てくる登場人物がどこまでのリアリティを持っているかは解らないけれど、常に虚実の入り混じった情報を相手にし、国際政治を左右する状況に置かれている任務に携わっている人々はこのように自分の職場での立場を少しでも優位にするために上司のプライヴェートまで踏み込んでいくのかもしれない。 いやはや人間不信にたやすく陥る職業である。 またチャーリーが今回宛がわれた業務が新人のスパイ教育であり、今まで現場の最前線で世界を股にかけて仕事をしてきたチャーリーがこれを閑職とみなして腐っているが、実は上司たちは彼のスパイとしての数々の実績を評価しており、またその高い生存率にも注目した上での配属であるのだ。なにせ一度自国の情報局員として勤務しておきながら、自分を消そうとした組織に仕返しをして自ら辞職した後、スパイとして旧ソ連に捕まっていながら見事に元の英国情報部に返り咲いたという異色の経歴の持ち主である。 そんな数奇な運命を辿りながら現職のスパイであるチャーリーのスパイ術を後進の者たちに伝授するのは組織にとっても有益なのだから全く以て閑職ではないのだ。 しかし私が勤務する製造現場を持つ会社でも年を取っても現場がいいという人間はおり、出世して本社や支社勤務になるとデスクワークばかりが耐えられないという。 従ってチャーリーの抱く窓際感は解らなくもないが、実際諜報活動では若い頃のように動けないこと、年々衰える記憶力によって失敗することで大きな国際問題に発展しかねない職場であるから、ヴェテランはある時期が来たら管理部門に異動して現場から離れるべきだろう。つまり今現在でも続くこのシリーズで既に老境に入ったチャーリーが現場の最前線に立つこと自体が諜報の世界では異常なのだ。 そして本書のメインであるチャーリーの中国潜入が始まるのはなんと下巻の170ページ辺り。つまり上下巻合わせて約660ページの本書においてなんと75%が過ぎたあたりからチャーリーのお出ましとなるわけだ。 それに至るまではまさに上に書いたように管理的仕事に回されたチャーリーのグチと上司の監視、またロシアでのナターリヤに訪れる地位陥落を企む部下のチュージンとの覇権争いが繰り広げられる。 フリーマントル作品の醍醐味の1つに高度なディベート合戦が挙げられるが、本書でもその期待が裏切られることはない。鉄壁の防御を誇る情報局部長と次長の秘書のガードをどうにか崩していくチャーリーの駆け引きなども含めて大小様々なディベートが繰り広げられるが、本書の白眉はやはり息子の逮捕によって窮地に陥ったナターリヤの審問会の場面だろう。 息子に便宜を図ろうとしていたところを危うく部下のチュージンに嗅ぎつけられ、それを証拠として局長の座から陥落させようと企む彼が付きつけるあらゆる証拠を僅かに残された糸のように細い手掛かりを手繰りながら自らに降りかかった嫌疑を晴らしていくプロセスは実にスリリング。インテリジェンスを扱う者はそれを武器にする者とそれに溺れる者とに分かれるがまさにこのナターリヤとチュージンの2人の構図はそれをまざまざと見せつけてくれる。 ということで考えるとチャーリーの中国潜行がメインと書いたが、ストーリーにおける全体の25%に過ぎないとなるともはやメインではないだろう。 本書は中国での英国の諜報活動、ロシア連邦という新体制下で情報局の局長に就任したナターリヤの動向と新体制の英国情報部のお披露目といったインタールード的要素を持ちながら、その実チャーリーが中国に乗り込むまでのそれぞれの状況全体に仕掛けた叙述トリック的作品とも読める。 ただ今まで東ドイツ、旧ソ連と東側の大敵を相手にしてきたフリーマントル作品が、東西ドイツ統合、旧ソ連の解体と歴史的転換期を迎えたことで確固たる敵を見失っているような感じが行間から感じられた。 今回フリーマントルが選んだ新たな敵は中国であるのだが、この全く風貌の異なるアジアの国で西洋人がスパイ活動をすることの難しさが述べられるだけで小説としてはなんとも実の無さをストーリー展開に感じざるを得ない。つまりこの中身の薄さは作者自身が中国の情勢と文化に造詣があまり深くないからではないだろうか。 それを裏付けるように本書の前後に書かれたのは米国のFBI捜査官とモスクワ民警の警察官が手を組む新シリーズカウリー&ダニーロフがあり、本書の次のチャーリー・マフィンシリーズ『流出』はロシアを再び舞台を移して西側への核流出を阻止するために米露の情報部と手を組むという、自らの得意領域に再び戻っているからだ。 この後も中国を舞台にした作品が見受けられないことを考えるとやはり冷戦後の安定期に移りつつある世界情勢でスパイ小説の書き手たちが題材に迷っていたが、フリーマントルも例外ではなかったということのようだ。 何はともあれ、ようやく未訳作品を除いて本書にて全てのチャーリー・マフィンシリーズを読むことが出来た。2006年1月25日に第1作の『消されかけた男』を手に取って足掛け約11年。実に長い旅であった。 『魂をなくした男』以降のシリーズ作品が出るかは作者の年齢との相談にもなるだろうが、とことん最後まで付き合っていくぞ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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短編集『深夜勤務』と合わせて二分冊で刊行されたキング初の短編集のこちらは後半部分。
「超高層ビルの恐怖」はマフィアの妻を寝取った元テニス・プレーヤーの男が巻き込まれたある賭けについての話だ。 ロアルド・ダールの有名な短編「南から来た男」を彷彿とさせるシンプルかつ人生を賭けた危うい賭けという題材。たった5インチ幅の手摺の上を歩いてビルを一周するというアイデアもさることながら、主人公を妨害しようと嘘をついていたと話したり、リンゴをビルから落としてグシャリと割れる音を聞かせたり、癇癪玉を突然鳴らしたりと心理的に追い込む相手の策略や既得権を発揮し、主人公に襲い掛かる鳩の存在などシンプルな題材で置いてもアイデアが尽きない。 しかしその割にはちょっと詰めが甘いかな。 次の「芝刈り機の男」は実にシュールだ。 よくもまあこんなこと考えつくよなぁというのが素直な感想だ。業者に芝刈りを頼んだら芝刈り機が独りでに庭中を駆け巡り、男が素っ裸になってその後を追って刈った草を次から次へと食べていく…。悪夢のような光景である。 このシュールさは実にジョジョ的だ。いやキングが本家なんだけど。 しかし前巻の「人間圧搾機」といい、「トラック」といい、キングは意志を持つ機械にそこはかとない恐怖を覚えるようだ。 そのジョジョ、いや荒木飛呂彦がいかにも書きそうな話が次の「禁煙挫折者救済有限会社」だ。 薬も使わない、集団催眠に掛けるような説教も行わない、特別な食餌療法もしない、更には1年間煙草を吸わなくなるまでは一切料金はいらないという実に摩訶不思議な禁煙専門会社の療法は、その人物の良心に訴えるものだった。 しかもそれが冗談ではなく、実際に成されるのだから、怖い。 更に職員が24時間監視しており、それも期間が過ぎるにつれて、監視の頻度も薄まるが、いつどこで誰が見張っているのかは対象者は解らないため、常に見られているという強迫観念の下、生活を強いられる。それでも成功率98%というのだから、残り2%の顧客は家族や自分の生活の平穏よりも喫煙を選んだ人がいるのだから、煙草の中毒性の恐ろしさが判るという物だ。 そしてそんな不利益を自分だけ被るのは面白くないとばかりに顧客は喫煙者にその会社を口コミで知らせるようになる。 特に最後の一行が本書では効いている。 しかし喫煙を始めなければこんなことも起こることはなかろうに。 女性にとって理想の男性とは?「キャンパスの悪夢」はある女子大学生の前に彼女の望むものを全て適えてくれる男性が現れる話だ。 今でいうストーカーの話。自分の好みを知り、いつも期待に応え、願望を叶えてくれる、そんな理想の相手が現れたら、男であれ女であれ心惹かれてしまうだろう。なぜなら共感を持てる人物に人は惹かれるからだ。本作で登場するエド・ハムナーは黒魔術を使って彼女の心を読み、また彼女と自分が付き合うのに障害となる物や人を排除して彼女と近づくことに成功した。それは小学生の頃からの淡い恋心が生んだ情念のようなものの産物だったのだが、私はこの事実を知らなければエリザベスはエドと幸せに暮らせたのではないかと思う。 つまり幸せとは知らなくていいことが潜んでいるものであるとキングは本作で暗に示しているのではないだろうか。 「バネ足ジャック」はその名から連想されるように切り裂きジャックをモチーフにした短編。 う~ん、なんとも微妙な終わり方だ。 バネ足ジャックと云えば藤田和日郎氏による黒博物館シリーズに挙げられており、そちらを連想したが、正直藤田氏の作品の方が怖かった。 しかしバネ足ジャックという都市伝説は実際に切り裂きジャックが登場する数十年前にあったらしい。それを知っただけでも収穫か。 ちなみにイチゴの春とは冬の寒さがまだ抜けやらぬ春を指すらしい。 表題作はいわゆる田舎町の得体のしれなさを描いた物語だ。 人っ子一人いない田舎町。アンファンテリブルと思しき薄気味悪い子供たち。そしてなぜか雑草も害虫もいない繁茂したトウモロコシ畑。 正直トウモロコシ畑に馴染みのない私たちにはいまいちピンとこない恐怖なのだが、バーボンを生み、映画『フィールド・オブ・ドリームス』のように切り開いてグラウンドにしたトウモロコシ畑に往年の野球選手が集うようなマジックが物語として語られる国であるから、トウモロコシ畑には日本人には理解できない畏怖や幻想味があるのだろうか。 なかなか腑に落ちないのだが。 一風変わって次の「死のスワンダイブ」は抒情的な作品だ。 何とも云いようのない余韻を残す作品だ。 美しかった妹は美人が陥る不幸せな結婚を経て、身持ちを崩していく。やがて大好きだった兄とも疎遠になり、数年ぶりに兄が目にした記事に踊っていた文章は「コールガール、死のスワンダイブ」という記事。やがて彼の許に届いた手紙には幼き頃に兄に助けてもらった納屋での事件の時に死んでいた方がマシだったという悔恨の一文。 特に本作では幼い兄弟が両親に内緒で納屋に積まれてある干し草の上に70フィートもの高さ、つまり21メートルもの高さから飛び下りる遊びに興じていた思い出とそれにまつわる事故のエピソードが眩しいだけに切ない。 あの時、兄が咄嗟の判断でどうにか助かるように壊れた梯子にぶら下がる妹の下にかき集めては敷いた干し草のことには全く気付かずにダイブした妹の心中には兄ならば何か助けてくれるに違いないという確信があった。だからこその決死のダイブだった。 彼女にとって兄は妹を助けてくれるスーパーマンだったのだ。しかし現実にはそんなスーパーマンはいない。 何ともやるせなさの残る作品である。 その男は道行く人が振り返るほどハンサムで、なおかつ幸せに満ちた顔をしていた。その通り彼は恋人のノーマに逢いに行くところだった。途中、花売りのところで店のおじさんのお勧めの花束を携え、彼は足取り軽く恋人のところに向かっていた。道すがら誰もが彼を祝福するかのように見たが彼の目には何も映らなかった。そして彼女のところに行く着くと、確かにそこにはノーマがいたので、彼は声を掛けた。 こんな風に休日の昼、幸せそうな男の風景を描いた「花を愛した男」はキングらしい皮肉な結末を迎える。 “呪われた町”<ジェルサレムズ・ロット>の恐怖はまだ終わらない。次の「<ジェルサレムズ・ロット>の怪」は再びあの吸血鬼に支配された町が舞台となる。 前巻でも長編『呪われた町』を舞台にした短編「呪われた町<ジェルサレムズ・ロット>」は吸血鬼ではなくドルイド教という邪教に傾倒する一族によって支配されていた町という設定だったが、こちらは長編と同じ吸血鬼に支配された町であり、スピンオフ作品となっている。 既に町は無くなっているから長編のその後の物語であることは間違いないが、今なお吸血鬼は健在で時折訪れる人々を襲っては渇きを癒しているようだ。ベンが決着を付けに来るその日までジェルサレムズ・ロットの恐怖は収まらない。 最後の「312号室の女」は胃癌を患った母親を看取る息子の心情がつとつとと語られる。 本書の中で最も現実的な問題を扱った作品だ。あとはただ死に向かうだけの寝たきり生活を強いられた母親に安楽死を与えようと逡巡する息子の心情が語られる。 もはや回復の見込みがなく、ただ死ぬその時までの時間を苦しみながら生きていくだけになった実の親に安らかな死を与えることは罪なのか。いや今後いつまで続くか解らない母親の世話に疲弊していく自分を救うことは過ちなのか。 先般読んだ『ロスト・ケア』同様、この答えの出ないジレンマは70年代当時から東西問わずに抱えられた問題であるようだ。 キング初の短編集『ナイト・シフト』の後半に当たる本書は前半にも増してヴァラエティに富んだ短編が揃っている。 未来に賭けて超高層ビルの手摺を一周回ることに同意した男。 奇妙な雰囲気を漂わせた芝刈り業者の男。 98%の確率で禁煙が成功する禁煙を専門に扱う会社。 常に自分の望むものを叶えてくれる不思議な学生。 バネ足ジャックと呼ばれた連続殺人鬼。 生い茂ったトウモロコシ畑を持つゴーストタウン。 幼い頃、共に干し草の上にダイブして遊んだ美しい妹の末路。 恋人に会いに行く幸せそうな男。 豪雪で忌まわしき村に迷い込んだニュージャージーから来た家族。 死の間際にいる母親を看る息子の胸に去来するある思い。 前巻も含めて共通するのは奇妙な味わいだ。特段恐怖を煽るわけではないが、どこか不穏な気持ちにさせてくれる作品が揃っている。 ただ前巻では全ての物語が怪物、超常現象、邪教といったSF的、オカルト的趣向に根差し、つまり現実的には起こりえない設定の上で物語が紡がれていたのに対し、後半の本書では現実でも起こりうる現象、事件または主人公が抱く悪意などを描いているところに違いがある。 超高層ビルの手摺を一周回ることの恐怖、町を震撼させた連続殺人鬼の正体、美しかった妹が自殺した真相、サイコパス、病気の母親を看取る息子にほのかに生まれた悪意、などが相当する。 まあ、本書は前巻を合わせて1冊として刊行されていたものを日本が独自に分冊して刊行しただけなので、実は1冊のうちにそれら虚構と現実を併せ持った趣向の短編が満遍なく収められていることにはなるのだが。 またクーンツ作品とは決定的に違うのは災厄に見舞われた主人公が必ずしもハッピーエンドに見舞われないことだ。生じた問題が解決されることはなく、また主人公が命を喪うこともざらで、救いのない話ばかりだ。 それは―どちらかと云えば―ハッピーエンドに収まった作品でも同様だ。 何かを喪失して主人公は今後の人生を生きることになる。人生に何らかの陰を落として彼ら彼女らは今後も生きていくことを余儀なくされるのだ。 個人的ベストは「禁煙挫折者救済有限会社」か。 煙草は案外アメリカでは根深い社会問題になっているみたいで『インサイダー』なんて映画が作られたほどだ。作中にも書かれているが、刑務所で煙草の配給を廃止しようとしたら暴動が起きただの、昔ドイツで煙草が手に入りにくくなったときは貴族階級でさえ、吸い殻拾いをしていただのと中毒性の高さが謳われている。 そんな代物を辞めさせるには家族を巻き込まないことには無理!というのが本書に含まれたブラック・ジョークだ。 しかし本書の面白いところはその手段が喫煙者に単なる脅しではなく、行使されるものであるところだ。 つまり本書は煙草を辞めることはこれぐらいしないとダメだと痛烈に仄めかしているところに妙味がある。しかし本当にこんな会社があったら怖いだろうなぁ。 次点では「死のスワンダイブ」を挙げたい。 これはとにかく田舎で農家を営む両親の下で育った兄弟の、納屋での、70フィートの高さから干し草の上にダイブする禁じられた遊びのエピソードがなんとも胸を打つ。そしてそのダイブで起きた事故で兄の咄嗟の機転によって奇跡的に助かった美しい妹が大人になるにつれて辿る不幸な人生とのコントラストがなんとも哀しい。そして彼女が最後に頼ったのはあの時助けてくれた兄だった。もう人生に落胆した彼女はまた兄が助けてくれることを信じてもう飛ぶしかなかったのだ。そんな切なさが胸を打った。 また前巻と合わせて本書でも『呪われた町』の舞台となったジェルサレムズ・ロットを舞台にした短編が収められている。 2編は外伝と異伝のような合わせ鏡のような作品だが、どうやら本書においてこの忌まわしい町に纏わる怪異譚については打ち止めのよう。その後も書かれていないことを考えるとキングが特段この町に愛着を持っているというよりも恐らくはアマチュア時代から書き溜めていたこの町についてのお話を全て放出するためだけに収録されたのではないだろうか。 本書と『深夜勤務』は『キャリー』でデビューするまでに書き溜められていた彼の物語を世に出すために編まれた短編集だと考えるのが妥当だろう。とするとこのヴァラエティの豊かさは逆にキングがプロ作家となるためにたゆまなき試行錯誤を行っていたことを示しているとも云える。 単純に好きなモンスター映画やSF、オカルト物に傾倒するのではなく、あらゆる場所やあらゆる土地を舞台に人間の心が作り出す怪物や悪意、そして人は何に恐怖するのかをデビューするまでに色々と案を練ってきたことが本書で解る。 つまり本書と『深夜勤務』には彼の発想の根源が詰まっているといえよう。特に『呪われた町』の舞台となるジェルサレムズ・ロットを舞台にした異なる設定の2つの短編がそのいい証拠になるだろう。あの傑作をものにするためにキングはドルイド教をモチーフにするのか、吸血鬼をモチーフにするのか、いずれかを検討し、最終的に吸血鬼譚にすることを選んだ、その発想の道筋が本書では追うことが出来る。そんなパイロット版を惜しみなく提供してくれる本書は今後のキング作品を読み解いていく上で羅針盤となりうるのではないかと考えている。 しかし本書を手に入れるのには実に時間と手間が掛かった。なぜなら絶版ではないにせよ置かれている書店が圧倒的に少ないからだ。 現在でも精力的に新たな作風を開拓しているこの稀有な大作家が存命中であるにも関わらず過去の作品が入手困難であるのはなんとも残念な状況だ。既に絶版されている諸作品も含めて今後どうにか状況改善されることを祈るばかりである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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