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ねじの回転



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ねじの回転の評価: 3.77/5点 レビュー 53件。 Cランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.77pt


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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全53件 1~20 1/3ページ
123>>
No.53:
(1pt)

ただただつまらん

何年か前に読んだのを忘れてまた読んでしまうほど、全く心に刺さらない、記憶に残らない(タイトルだけ記憶に残る)、まるで30年もやってて全く売れていない漫才師みたいにつまらない本です。たぶん10名中7名は途中で読むのをやめてしまうでしょう。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.52:
(5pt)

「読みやすい怪奇小説」翻訳のスペシャリスト・南条竹則が難解な「ねじの回転」を見事に訳出‼

20世紀モダニズム文学の先駆者ヘンリー・ジェイムズの一番有名な作品「ねじの回転」は、ひと言でいえば性的ノイローゼぎみの若い女性家庭教師と生徒である可愛い少年少女とが織りなす中編 幽霊譚です。
しかも男の幽霊と少年、女の幽霊と少女との同性愛が伏線となっているというBL小説っぽさも兼ね備えた作品で、ストーリー自体はとても面白いんですが、何しろ文体が難解で取っつきにくい。

それでも内容自体の素晴らしさが人気を得ているのか、現在出回っているものでも岩波文庫 (2003年刊)、創元推理文庫 (2005年刊)、光文社古典新訳文庫 (2012年刊)、新潮文庫 (2017年刊)の4種類があります。ご参考までに、上記4文庫の翻訳を比較してみます。作品冒頭の一節です。

わたしたちは炉をかこみ、固唾をのんで話に聞き入っていた。ぞっとする、と誰かが露骨に言ったほかは--クリスマス・イヴに古い座敷で奇妙な物語とくれば、本来そうでなければならない--わたしの覚えている限り、口をきく者はなかった。しまいに誰かがこう評した--幽霊が子供の前に出るなんていう話を聞いたのは、これが初めてだ、と。(創元推理文庫・南条竹則・坂本あおい訳)

暖炉を囲み、一同固唾を呑んでその話に耳を傾けていた。由緒ある館のクリスマス・イヴの席での幽霊話であったから、不気味に感じるのは当然であった。ほかの感想は聞かれなかったが、しばらくして誰かが、子供の前に幽霊が現れたなんて初めて聞いた、と言ったのを私は覚えている。(岩波文庫・行方昭夫訳)

私たちは暖炉を囲むようにすわり、ときに息を呑みながら話に聞き入っていた。終わってしばらくは「身の毛がよだつ」というごく当たり前の--クリスマスイブに古い屋敷で怪奇譚とくれば当然そうあるべき--感想があっただけで、誰も何も言わなかったと思う。やがて「子供に出たなんていう事例は初めて聞いた」と誰かが言った。(光文社古典新訳文庫・土屋政雄訳)

その物語は、炉辺に集まった一同が息を詰めるほどの出来にはなっていたが、なるほど陰鬱だという評が出たのは、クリスマスイヴに古い館で聞く怪談としては至極当然であるとしても、ほかに見解らしきものが聞かれなかったところに、ひょっこり口を切った人がいて、子供が幽霊を見せられるという筋書きは初めてだとの感想を述べていた。(新潮文庫・小川高義訳)

海外小説の翻訳ばかりは、最終的には好みの問題です。
しかし「ねじの回転」に関して言えば、上記の4つの例ですと、南条竹則訳では2番目のセンテンスの頭に、いきなり〈ぞっとする〉という怪奇譚では一番のパンチ=ライン (決め台詞) が現れて、ハッ!とさせられるところが私は気に入っています。

この南条訳に近いのが、光文社古典新訳文庫・土屋政雄訳の第2センテンス〈終わってしばらくは「身の毛がよだつ」というごく当たり前の--〉ですが、こちらの場合「身の毛がよだつ」という、せっかくのパンチ=ラインを、前書き〈終わってしばらくは〉と後書き〈……というごく当たり前の〉で、すっかり弱めてしまっている印象です。

南条竹則という翻訳者は、例の「読みやすさ」が売りの光文社古典新訳シリーズで実に13作品を訳出し、新潮社の名作新訳コレクションでラヴクラフトのクトゥルー神話傑作選を3作品、その他、創元推理文庫から本作「ねじの回転----心霊小説傑作選」、ちくま文庫から「イギリス恐怖小説傑作選」と、新訳ものの翻訳者、とりわけ怪奇小説・恐怖小説 翻訳のスペシャリストとして、その名を馳せているかたのようです。

たしかに「ねじの回転」のみならず、本文庫に収められた他の心霊小説3作品も「ぞっとさせる」スペシャリストの翻訳力が遺憾なく発揮されていて読みごたえがありました。
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)より
4488596010
No.51:
(3pt)

翻訳で読む限り、名作には成り得ない。

全体として翻訳に苦労したのが伝わってくる。(読みにくい、ダメ とは言っていない)
原文で読めば、素晴らしさははるか上を行き、
考察の余地や技法の部分でも多く議論に値するものであろう。

例えば、解説や他レビューにあるように
you devil! (本著訳では「ひどい」)
のyouを、誰とするかで解釈が変わる。

こういう仕掛けが原文では多くあって楽しめるのだろうと思われる。

ホラー小説を普段読み慣れていない身としては、
幽霊の存在が普通に信じられ、それが子供たちをどうにかしてしまう、なんとかしないと。
それを基にして疑いもなく進む物語に取り残された感が。
(本小説での幽霊の存在論や舞台装置に過ぎない っていう議論は考察でどうぞ)

そういう当時の時代・文化背景まで考慮すべきなのか?
さすがにそこまで下調べする思い入れはない。

巧みな心理描写は言いすぎ。くどい。

繰り返すが、原文で読めば or 英文学専攻した人なら絶賛なのだろう。

良い小説ではある。引き込まれる。続きも気になる。サクッと読めるのだが・・・。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.50:
(1pt)

いるのいないの

幽霊実害ないのに主人公敵意出しすぎや。お前頭おかしなったから変な幻覚見えたとちゃうんか?婉曲表現や比喩表現がてんこ盛りでくどいんじゃあ。毎度おなじみ大学の授業で読まされております。今読み終わったのでとりあえず星1進呈。明日のテストでC評価及第で星5を進呈するかも。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.49:
(4pt)

ホラーというより熱病にうなされるような心理小説。奇妙な独特の味わい。通俗に流れない気品あり。

本場英国の田舎の屋敷を舞台にした幽霊小説なわけだが、家庭教師の女性の独白体で、ねちっこい心理描写と兄妹や家政婦との、ゆったりとした?よくわからない?持って回った?会話の連続で、独特の味わいがある。通俗に流れないのが良い。にしても、家庭教師の女性の心理、思い、幽霊との奮闘?自分でルールを決めた独り相撲みたいな?なかなかに進まない展開なのだが、ようやくにして、魅入られた妹、兄の心の叫びが露呈してきたと思いきや、ラストが。。。。嗚呼。疲れた。。。。今の小説家なら、ほかのラストを用意すると思うが、ま、古典だろう。気品はあるぞ。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.48:
(3pt)

小説家はこの作品で何をねらっていたのでしょうか

最近、収録作品の異なるヘンリー・ジェイムズの短篇集を2冊ばかり読んで面白かったので(岩波文庫と講談社文芸文庫)、そういえば何十年も前に読んだ『ねじの回転』をいま再読してみたらどんな感想を持つだろうと思い、久しぶりに訳書を手にとったしだい。

 まず小説の形式を言っておくと、これは一応枠物語になっていて、物語は、夜、暖炉のそばで数人がそれぞれ怪談を話すという趣向の集まりで、その話し手の一人ダグラスが読み上げた、昔自分の妹の家庭教師だった女性から託された手記を、ダグラスが死んだ後委ねられた「私」があらためて書き写したもの、というかなり手の込んだ設定になっています。
 手記は、家庭教師が一人称体でみずからが経験した過去の出来事を語るもので、以後小説の最後まで彼女が語り手となります。
 貧しい田舎牧師の末娘であった彼女が、ロンドン在住のある富裕な紳士に、両親を亡くした彼の甥と姪の家庭教師として雇用され、その幼い兄妹の住むサセックスの宏壮な屋敷に赴いたあと、そこで彼女が怖ろしい幽霊を見るというのがその手記の、そしてこの作品全体の主要な内容となっています。

 彼女は、自分が教えることになった幼い兄妹(マイルズとフローラ)の周囲に、屋敷とそのふたりの子どもにかかわりのあった今は亡き男と女の幽霊、彼女の目には邪悪ともみえる幽霊を目撃します。そこから彼女の、その幽霊たちばかりか、その邪悪な幽霊たちに呼びよせられようとしている二人の子どもとの心理面での駆け引きや格闘がはじまり、それが最後までつづきます。

 その語りからは、幽霊の出る屋敷を気味悪く思ったり、自分の見る幽霊に怯え、ひるむどころか、邪悪なその幽霊から子供たちを守ってやりたい、また自分だけが彼らを救ってやれるのだといやましに高まり肥大する自己ヒーロー化感情、他方で子供たちにたいする不審と不信の念から来る激しい動揺と気分の落ちこみ、その両極端の気持ちが一日のなかで、また日々のなかで入れかわり立ちあらわれるほどに、彼女は、思いこみが激しく、それゆえ異常にテンションに振れ幅のある性格の人と読め、とにかく本人ばかりか端から見ても人物的に非常にシンドイ女性のように見えます。

 とにかく、彼女は、家庭教師としての責任感をはるかにこえ、自分を犠牲にしてでも幽霊に脅かされている幼くか弱い者たちを守ってやりたい、救ってやりたいという気持ちを過剰なまでに、あるいは異常なまでにもっている人のように見えます。
 それはもとより、人のためになりたい、かわいそうな人を助けてやりたいという愛他精神が彼女に人一倍そなわっているがゆえのものなのか、ないしは二人の魅力的な子どもたちへの深い愛ゆえのものなのか。それともあえて勘ぐれば、子供たちの保護で評価を上げ、かれらの叔父である、自分を雇った独身の富裕な紳士の気に入られたい、あわよくばあのジェイン・エアのように玉の輿に、というひそかな思惑も働いてのものだったのか(彼女が家庭教師の職を承諾したのはそれなりに高給だったほかに紳士に魅せられたためでもあるという示唆が序章部分にあり)、そのあたり何とも微妙なところがあります。

 ともあれ、手記のかたちをとった物語を読みおえて、家庭教師の語りから浮かびあがってくる現実というか真実というのはどこまでも不分明なままで、ひっきょうすべてが性格的に異常にテンションの高い彼女の強い思いこみとそれに発する勝手な、あまりに勝手な、ひとり相撲ないし一人芝居に近い、奇矯な行動だった、というだけのように思えなくもありません。

 あるいは、家庭教師は、自分は幽霊を見た、そしてふたりの子供たちも見たはずだ、また見えているはずだとなんども手記でくりかえし言うのですが、客観的にその幽霊はほんとうに実在したのか、それともそれは家庭教師の妄想や幻視、錯覚にすぎなかったのか、そのあたりも最後まであいまいなままです
(邸の家政全般をとりしきり子供たちの世話係でもあるグロース夫人は自分には幽霊は見えないと主張するのですが、これもまあ本当のことはわからないといえばわからないですが)
 語り手の話をどこまで信頼できるのかという問題もあって、ここいらが従来この小説をどう読むかをめぐる議論の中心になってきたようです。

 ところで『ねじの回転』(1898年)とほぼ同時期に書かれた、最近評者が読んだ岩波文庫版ジェイムズ短篇集に収められている三つの短篇にも、『ねじの回転』におけると同様、幽霊あるいは霊的分身のようなものが出てきます。
 これもふつうならすべて怪談話のようなものになるはずですが、レ・ファニュやM.R.ジェイムズのような人に恐怖をおぼえさせる怪奇趣味の作品を作者がそこでねらっているわけではなく、また霊のような超自然的現象が現実に存在し出現することをもとより読者に信じさせようとしているわけでもありません。三篇とも、いま詳細は述べませんが、あきらかに作品がねらうテーマは別のところにあります。

 しかしこの『ねじの回転』では、作者はいったい何をねらっていたのでしょうか。小説の読み方を「もうひとひねり」(another turn of the screw)すれば何かが見えてくるのでしょうか。

 まあ、ここでひとつ評者なりにこの小説の解釈を「もうひとひねり」してみると、もとより女家庭教師は、二人の子どもたちへの愛ゆえにかれらを守るべく自分は日夜身も心もすり減らしているという自己認識かもしれませんが、見方によっては、かわいそうな子どもたちへの愛のためと称しつつ、また自分自身深くそう信じつつも、実は、かれらを自分の妄想する話の構図にむりやり押しこめて、二人を監視し、つけまわし、あらぬ疑いでかれらを追いつめ、さいなみ、隠微に虐待しているようにも見えます。あるいは愛と善意の名のもとにかれらを自分の思いどおりに支配しようとしているようにも思われます。
 そこにこそむしろ、この物語がはらむ本当の恐怖、ホラーがあるといえないかどうか。

 なお、この物語の最後を締めくくる唐突にして少々予想外の出来事は、講談社文芸文庫版のジェイムズ短篇集に収められた、こちらのほうは家庭教師(男)がある少年をやはり住み込みで教えるという話の「教え子」(1891年)の結末と同じものになっていて、ジェイムズにおける物語の閉じ方の類型にも注目しておきたいところです。

 それにしても日本では、たとえばジョゼフ・コンラッドといえば『闇の奥』(1899年)、ヘンリー・ジェイムズであれば『ねじの回転』(1898年)と、両作品はそれぞれ英語圏の偉大な作家ふたりの代表作のように見なされたり、両作家入門に適した作品のように扱われる傾向が見られますが、どちらも大いなる誤解というべきものです。
 評者とすれば、両作品はもとより傑作とは呼びがたく、他にもっとすぐれた作品を二人の作家が書いていることはぜひ強調しておきたいと思います。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.47:
(4pt)

暗示する物語。

表題作の「ねじの回転」の、そのタイトルにすでに幾ばくかの不気味な印象を受ける。一体何のねじが、どう回転するのか。回転して、それで何が起こるのか。邦題に醸し出されるそんな疑問はしかし読むことによっては解決されない。原題は「ひとひねり」程度の意味であり、「ねじ」に焦点が置かれた言葉ではないからだ(「訳者後書き」より)。にもかかわらず、この物語のタイトルとしては「ねじの回転」が相応しいようにも思える。目に見えない、どこにあるかも分からないねじが、ゆっくりと締められて行くイメージこそが物語な内容を的確に表現しているという気がするからだ。暗示に次ぐ暗示、人物の行動さえ明確に語ることはない、ゆえに分かりにくい文体で綴られる物語では、幽霊(めいたもの)はただそこに「見られる」、しかもただ一人の人物によって「見られる」のみで、一切何かをする、ということがない。そして結末において「あれは何だったのか」ということが明かされるわけでもない。杭のように佇むのみの「それ」の周りを登場人物たちがひたすら摺り足で巡る、そのような内容である。「そのような内容」と書いたが、これではおそらく「どのような内容」なのかはまったく判然としない。「判然としない」と書いたが、物語自身が本当に判然としないのだから、表現はこれでいいのだと思う。それゆえにさまざまな「解釈」がテクストの周りにわらわらと集まってくる、そんな怪奇小説の古典。
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)より
4488596010
No.46:
(5pt)

あまりにも有名でありすぎるため、もうひとひねりできない邦題「ねじの回転」

ヘンリー・ジェイムズの小説のなかで『ねじの回転』が特別な位置を占めているのは、21世紀になってから本訳も含め、いくつもの邦訳がなされていることで証明されよう。
 私はかつて古茂田淳三の『ヘンリー・ジェイムズ『ねじのひねり』考』(大明堂・1981)という一冊まるまる『ねじの回転』にあてた研究書を読んだことがあったが、その本はA5判で200ページを越す、対象とした小説よりひとまわり分量の多い著作だった。
 その当時、ヘンリー・ジェイムズの本の訳書、またヘンリー・ジェイムズについて書かれた日本語の本はほとんど読んでいたが、数ある日本人によるジェイムズ論の本のなかで上記の本は読めるものだと思えた(というより多くのジェイムズ論の本がつまらなすぎた)。
 結局、『ねじの回転』とは一冊の本をつかって論じるに値する作品なのであろう。手元にその本が見つからないが、先行研究を徹底的に探索しつくした緻密な作品論だったという思いは私の頭のなかにある。
 そうしたこともあって久しぶりに読む『ねじの回転』は納得のいく読後感をもたらしてくれた。
 21世紀における他の邦訳は未読だが、どうも本訳が最も原著の構文に沿ったものらしい。私には、それが合っていると思った。
 ジェイムズの短篇のなかでは(『ねじの回転』も短篇である)芸術家小説といった範疇のものが好きだが(『ヘンリー・ジェイムズ短編選集〈第2巻〉芸術と芸術家』は私が偏愛する書物である)、私はそうした諸短篇のなかで交される独特のジェイムズ的な会話に強い関心をもっている。
 言葉の多義性を利用した会話には難しさとともに含蓄がある。これはジェイムズが関心をもちながら挫折を味わった演劇作品とどこかで繋がる要素であろうか。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.45:
(2pt)

動きが少なく退屈だ

表題作が有名なので、読んでみた。200ページ弱の中編で、驚くほど何も起こらない。
もっちゃりした展開は読むのがつらい。
心霊を信じたい人には傑作かもしれないが、そうでない人には退屈なだけだ。
ほかに短編が四篇収録されている。
『古衣装の物語』は古典的な怨霊譚で、悪くない。
日本にも「小袖の手」という妖怪がいるけど、衣装に執着する女の妄念は恐ろしい。
『幽霊貸家』ある老人は、幽霊から家賃をもらって生活している。
怪奇譚の裏には、恐ろしい過去の怨念が存在した。意外な逆転劇が洒落ている。
上記二本はまずまずだが、あとの二作は単調すぎる。
19世紀以前の小説は、もちろん面白いのもあるが、テンポが遅すぎて読むに堪えない作品が多い。
残念ながら本書もそのひとつだ
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)より
4488596010
No.44:
(3pt)

微妙、深読みには適しているかも。

ストーリー的に展開が遅く、趣旨もあいまいな部分があり、研究家にとっては多様な解釈ができるのでいいのでしょうが、時間が限られた方にとっては難しく、娯楽性は限られるかと思います。ヘンリー・ジェームズの作品、私は本書から入ってしまい上記の印象を持ちましたが、他の作品も読み、探索は続けるべきかと感じています。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.43:
(3pt)

後から考えると怖い話

作家の恩田陸さんが度々この本について言及されていたので気になっていました。

こちらはヴィクトリア朝を舞台にした小説で、田舎の大邸宅が舞台です。主要な登場人物は四人だけで、主人公である家庭教師の女性、家政婦的な女性、そして男の子と女の子。

家庭教師の一人語りなのですが、この人物が急に居丈高になったり、怯えたり、子供に対して唐突な愛情を示したりと全体によくわからない人です。家庭教師に問題があるのでは?と疑いますが、じつは子供も怪しげ…天使のように純真な子供という描写ですが、何かおかしい…

後書きにありましたが、「ひどいよ!」の対象が誰なのかを考えると鳥肌が立ちます。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.42:
(5pt)

人の想念に生まれた幻影はどのように増殖してゆくのか。

幽霊はいたのか、いなかったのか、が気になりますが、それはこの作品では問題にはならない。ひとの心に入り込んだ幻影が増殖してゆく過程を読者の私たちに充分に堪能させてくれる作品である。幻影を生み出す背景の描写が見事だ。
大変面白く読めた作品なのだが、一つだけ不満を言うならば、最終章の終いで「マイルズの小さな心臓は、もう呪縛を解かれて、止まっていたのです。」との記述があるのだが、それが何故必要だったのかが理解できない。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.41:
(1pt)

難解

訳し方のせいなのか、元々なのか分からないが、とにかく頭に入ってこない。
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)より
4488596010
No.40:
(4pt)

ヘンリー・ジェイムズの傑作

テンポが良く、ホラー作品としても主人公の女家庭教師の精神分析をする意向で読んでも面白い小説です。

ブライの館で家庭教師として雇われ、2人のかわいい教え子を持つ彼女はある日から館の敷地内で幽霊にたびたび遭遇するようになるのですが、物語は彼女の主観的、一方的な語りを中心に進んでいくので、だんだん狂気的になる家庭教師の様子を見ると、実は幽霊なんて出ていないのではないかという研究も多く出ている作品です。

読んでいて怖いのですが、幽霊が怖いのか家庭教師が怖いのか分からなくなってきます。幽霊が出た/実際は出ていなかった と場合分けして読むとさらに面白いです。

個人的にグッと来たのはタイトルですね。
元はそんな想定で付けられたのではありませんが、物語を通してずっと、どこかで「ねじ」がキリキリと不吉な音を立ててゆっくり回り続けているような気がするんです。○○○○を射止めて、物語の終わりと、○○の停止とを遂行したかのようにhad stopped.(原文から)と綺麗に動きを止める様子がイメージとして浮かび上がってきました。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.39:
(5pt)

読書会の課題図書を探す誰かにも

"子供の登場で、ねじがギリッと一回転、心に余計深く食い込むとすると、子供が二人ならどういうことになるのかな"1898年発刊、スティーブンキングも絶賛する幽霊譚である本書は、怪奇・心理小説の傑作にして、文学技法上の『信頼ならざる語り手・意識の流れ』の元祖として、様々な形で読書を幾通りも楽しませてくれます。

さて、そんな本書は、大きな物語の中で異なる物語が語られる『枠物語』(額縁小説)といった形式で、クリスマスイブに古い屋敷で集まって怪談をしている中でダグラスという『ある人物が朗読する』意図して名付けられていないヒロインー『家庭教師の女性による手記』を、手記そのものではなく、語り手『私が正確に書き写した』とする。何とも【構造自体からして複雑で】読者を虚実入り乱れる世界へと誘導しているわけですが。(物語自体は素直で読みやすいです)

最初に読んだ時は【幽霊譚】ホラーとして"アイシーデッドピープル"1999年に、ブルース・ウィリス、当時天才子役と騒がれていたハーレイ・ジョエル・オスメントを主演に公開されたミステリー映画『シックス・センス』の方を脳内イメージ再生させて、ビクビクしながらも果たして【幽霊は実際にいたのか?いなかったのか?】を多くの評論家と同じくうむむと(楽しく)悩まされたものですが。

再読となる今回は、20才にして既に『行き遅れ』と感じている異様にテンション高く、男女共にすぐに抱きつく"信頼ならざる語り手"婚活ヒロインによる、雇い主の『イケメン貴族に(あわよくば)気に行ってもらう』ための【自作自演ロマンス】として読んでしまって。振り回される登場人物たちの姿に(幽霊ではなく)『ヒロインから早く逃げてー!』と心の中で叫びっぱなしで【幽霊譚と違う意味で】怖かった(笑)

あと。原文の英語で読めない浅学非才さがもどかしいですが。この著者による意図して【多くの余白を読み手に残した物語】を日本語という孤立した独自の言語に訳した翻訳家たちの素晴らしい仕事ぶりに感謝したい。想像するしかなくても、特に本書に関しては【細心の配慮が必要だっただろう】とヒシヒシと感じるから。

じわじわくる心理小説好きな誰かへ、また読後に仲間たちとワイワイ、あれやこれやと話せる読書会の課題図書を探す誰かにもオススメ。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.38:
(5pt)

読書会の課題図書を探す誰かにも

"子供の登場で、ねじがギリッと一回転、心に余計深く食い込むとすると、子供が二人ならどういうことになるのかな"1898年発刊、スティーブンキングも絶賛する幽霊譚である本書は、怪奇・心理小説の傑作にして、文学技法上の『信頼ならざる語り手・意識の流れ』の元祖として、様々な形で読書を幾通りも楽しませてくれます。

さて、そんな本書は、大きな物語の中で異なる物語が語られる『枠物語』(額縁小説)といった形式で、クリスマスイブに古い屋敷で集まって怪談をしている中でダグラスという『ある人物が朗読する』意図して名付けられていないヒロインー『家庭教師の女性による手記』を、手記そのものではなく、語り手『私が正確に書き写した』とする。何とも【構造自体からして複雑で】読者を虚実入り乱れる世界へと誘導しているわけですが。(物語自体は素直で読みやすいです)

最初に読んだ時は【幽霊譚】ホラーとして"アイシーデッドピープル"1999年に、ブルース・ウィリス、当時天才子役と騒がれていたハーレイ・ジョエル・オスメントを主演に公開されたミステリー映画『シックス・センス』の方を脳内イメージ再生させて、ビクビクしながらも果たして【幽霊は実際にいたのか?いなかったのか?】を多くの評論家と同じくうむむと(楽しく)悩まされたものですが。

再読となる今回は、20才にして既に『行き遅れ』と感じている異様にテンション高く、男女共にすぐに抱きつく"信頼ならざる語り手"婚活ヒロインによる、雇い主の『イケメン貴族に(あわよくば)気に行ってもらう』ための【自作自演ロマンス】として読んでしまって。振り回される登場人物たちの姿に(幽霊ではなく)『ヒロインから早く逃げてー!』と心の中で叫びっぱなしで【幽霊譚と違う意味で】怖かった(笑)

あと。原文の英語で読めない浅学非才さがもどかしいですが。この著者による意図して【多くの余白を読み手に残した物語】を日本語という孤立した独自の言語に訳した翻訳家たちの素晴らしい仕事ぶりに感謝したい。想像するしかなくても、特に本書に関しては【細心の配慮が必要だっただろう】とヒシヒシと感じるから。

じわじわくる心理小説好きな誰かへ、また読後に仲間たちとワイワイ、あれやこれやと話せる読書会の課題図書を探す誰かにもオススメ。
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)より
4488596010
No.37:
(5pt)

ヨーロッパに咲いた花

デイジーミラーが読みたくて。同じヨーロッパにおけるアメリカ娘でも、周囲の尊敬を集めた病弱なヒロイン、ミリー(『鳩の翼』)といわば真逆なタイプのデイジー。「米国人女性に対する偏見」との不満の声もあるそうです。アメリカとヨーロッパの文化やコモンセンスの衝突は、現代でも映画『ザ・スクエア』の一幕で端的に扱われていました。

で、ひょっとして『グレートギャッツビー』のデイジーって、フィッツジェラルドのオマージュなのかな??とかって文豪たちへの想いと想像が知らず知らずに巡らされるのも古典文学をよむ醍醐味のひとつ。
 
訳者による、デイジーを叩き台にしたイノセントの両義性の解説が、ひたすら興味深い。
ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)より
4003231392
No.36:
(4pt)

幽霊はいたかもしれないが・・・

本の題は以前から知っているのですが、読んだのは最近です。ちょうど、新潮文庫の小川高義氏の訳が出ていたので買ってみました。

ともかく、文章があいまいで、何が言いたいのかよく分からないのには参りました。
いろいろ調べると、翻訳が悪いわけではないのですね。元の英文がこみ入っている。
「幽霊が本当にいたのか」という点では、少なくとも最初は 「いたのではないか」と思います。家庭教師のヒロインが何の先入観もないのに、いきなり幻覚をみるとは思えない。しかし、子供たちは全く気にしていない。たとえ、恐がらなくても何らかの反応があるはずなのだが。おそらく子供たちには見えないのでしょう。

ただ、ヒロインがこの屋敷に居るうちに、だんだん話がおかしくなっていきます。最後に妹のフローラが激しくヒロインを拒絶しますが、真昼に見えないものを「どうして見えないの!」と詰め寄られれば、逃げ出したくなります。兄のマイルズの方は、弱みもあったのでフローラほどは拒絶反応を示しませんが、それでも最後に「この女、やっぱりおかしい」と気づきます。ただ、逃げ出すのが遅すぎた。

訳者の「本当に幽霊が出たのであってほしい」というあとがきには、全てヒロインの幻覚だったらあまりに悲しいという思いがあるのでしょう。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
4102041036
No.35:
(3pt)

本書にするか、他の文庫にするか

2018年に重版されたのを機にレビュー。

創元推理文庫(本書、南條=坂本訳)、光文社古典新訳文庫(土屋訳)、新潮文庫(Star Classics、小川訳)のどれを選ぶか。結論的には、光文社版(土屋政雄訳)を一押しとしたい。

理由その1 読みやすさ
日本語としてストレスなく読めるのは土屋訳。
これがよくわかるのは冒頭部分。

(土屋訳)
私たちは暖炉を囲むようにすわり、ときに息を呑みながら話に聞き入っていた。終わってしばらくは「身の毛がよだった」というごく当たり前のーークリスマスイブに古い屋敷で怪奇譚とくればそうあるべきーー感想があっただけで、誰も何も言わなかったと思う。やがて「子供に出たなんていう事例は初めて聞いた。」と誰かが言った。

(南條坂本訳)
わたしたちは炉をかこみ、固唾をのんで話に聞き入っていた。ぞっとする、と誰かが露骨に言ったほかはーークリスマス・イブに古い屋敷で奇妙な物語とくれば、本来そうでなければならないーーわたしの憶えている限り、口をきく者はなかった。しまいに誰かがこう評したーー幽霊が子供の前に出るなんていう話を聞いたのは、これが初めてだ、と。

(小川訳)
その物語は、炉辺に集まった一同が息を詰めるほどの出来になっていたが、なるべく陰鬱だという評が出たのは、クリスマスイブに古い館で聞く怪談としては至極当然であるとしても、ほかに見解らしきものが聞かれなかったところに、ひょっこり口を切った人がいて、子供が幽霊を見せられるという筋書きは初めてだとの感想を述べていた。

*原文の一文をそのまま一文章にしているのが小川訳。忠実かもしれないが、内容が頭に入ってこない。
obviousは露骨(南條坂本)か、当たり前(土屋訳)か。後者のほうが自然な表現だと思う。

理由その2
光文社版は、解説が充実している。新潮版の軽い感じも嫌いではないが。

理由その3
創元社版は、ほかにいくつかの短編を収録しているが、とくに読むべきものとも思えない。したがって、その点を加点するほどではない。

というわけで、個人的偏見ながら、一押しは光文社古典新訳文庫。
原文の読みにくさを邦訳でも味わいたいのであれば新潮文庫。
他の作品もあわせて読みたいのであれば創元推理文庫。
この順番でお勧めします。
ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 -心霊小説傑作選- (創元SF文庫)より
4488596010
No.34:
(4pt)

買いです。

書店で新訳を見つけて、30数年ぶりに読みました。
怪奇小説の括りで紹介されることが多いですが、2人の幽霊あるいは超常現象そのものは、読みようによっては語り手の家庭教師を怖がっているようにも見え、また、階級意識からくるところがもちろんあるにしろ、家政婦のグロースさんや、加えてラストのフローラの件りも、なにやら不誠実な語り手といいますか、語り手を怖がっているのを自身で正当化しているといいますか、怪奇というよるサイコ小説の趣きのある作品でした。
ねじの回転 (新潮文庫)Amazon書評・レビュー:ねじの回転 (新潮文庫)より
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