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ねじの回転
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【この小説が収録されている参考書籍】
ねじの回転の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.77pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全14件 1~14 1/1ページ
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全体として翻訳に苦労したのが伝わってくる。(読みにくい、ダメ とは言っていない) 原文で読めば、素晴らしさははるか上を行き、 考察の余地や技法の部分でも多く議論に値するものであろう。 例えば、解説や他レビューにあるように you devil! (本著訳では「ひどい」) のyouを、誰とするかで解釈が変わる。 こういう仕掛けが原文では多くあって楽しめるのだろうと思われる。 ホラー小説を普段読み慣れていない身としては、 幽霊の存在が普通に信じられ、それが子供たちをどうにかしてしまう、なんとかしないと。 それを基にして疑いもなく進む物語に取り残された感が。 (本小説での幽霊の存在論や舞台装置に過ぎない っていう議論は考察でどうぞ) そういう当時の時代・文化背景まで考慮すべきなのか? さすがにそこまで下調べする思い入れはない。 巧みな心理描写は言いすぎ。くどい。 繰り返すが、原文で読めば or 英文学専攻した人なら絶賛なのだろう。 良い小説ではある。引き込まれる。続きも気になる。サクッと読めるのだが・・・。 | ||||
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最近、収録作品の異なるヘンリー・ジェイムズの短篇集を2冊ばかり読んで面白かったので(岩波文庫と講談社文芸文庫)、そういえば何十年も前に読んだ『ねじの回転』をいま再読してみたらどんな感想を持つだろうと思い、久しぶりに訳書を手にとったしだい。 まず小説の形式を言っておくと、これは一応枠物語になっていて、物語は、夜、暖炉のそばで数人がそれぞれ怪談を話すという趣向の集まりで、その話し手の一人ダグラスが読み上げた、昔自分の妹の家庭教師だった女性から託された手記を、ダグラスが死んだ後委ねられた「私」があらためて書き写したもの、というかなり手の込んだ設定になっています。 手記は、家庭教師が一人称体でみずからが経験した過去の出来事を語るもので、以後小説の最後まで彼女が語り手となります。 貧しい田舎牧師の末娘であった彼女が、ロンドン在住のある富裕な紳士に、両親を亡くした彼の甥と姪の家庭教師として雇用され、その幼い兄妹の住むサセックスの宏壮な屋敷に赴いたあと、そこで彼女が怖ろしい幽霊を見るというのがその手記の、そしてこの作品全体の主要な内容となっています。 彼女は、自分が教えることになった幼い兄妹(マイルズとフローラ)の周囲に、屋敷とそのふたりの子どもにかかわりのあった今は亡き男と女の幽霊、彼女の目には邪悪ともみえる幽霊を目撃します。そこから彼女の、その幽霊たちばかりか、その邪悪な幽霊たちに呼びよせられようとしている二人の子どもとの心理面での駆け引きや格闘がはじまり、それが最後までつづきます。 その語りからは、幽霊の出る屋敷を気味悪く思ったり、自分の見る幽霊に怯え、ひるむどころか、邪悪なその幽霊から子供たちを守ってやりたい、また自分だけが彼らを救ってやれるのだといやましに高まり肥大する自己ヒーロー化感情、他方で子供たちにたいする不審と不信の念から来る激しい動揺と気分の落ちこみ、その両極端の気持ちが一日のなかで、また日々のなかで入れかわり立ちあらわれるほどに、彼女は、思いこみが激しく、それゆえ異常にテンションに振れ幅のある性格の人と読め、とにかく本人ばかりか端から見ても人物的に非常にシンドイ女性のように見えます。 とにかく、彼女は、家庭教師としての責任感をはるかにこえ、自分を犠牲にしてでも幽霊に脅かされている幼くか弱い者たちを守ってやりたい、救ってやりたいという気持ちを過剰なまでに、あるいは異常なまでにもっている人のように見えます。 それはもとより、人のためになりたい、かわいそうな人を助けてやりたいという愛他精神が彼女に人一倍そなわっているがゆえのものなのか、ないしは二人の魅力的な子どもたちへの深い愛ゆえのものなのか。それともあえて勘ぐれば、子供たちの保護で評価を上げ、かれらの叔父である、自分を雇った独身の富裕な紳士の気に入られたい、あわよくばあのジェイン・エアのように玉の輿に、というひそかな思惑も働いてのものだったのか(彼女が家庭教師の職を承諾したのはそれなりに高給だったほかに紳士に魅せられたためでもあるという示唆が序章部分にあり)、そのあたり何とも微妙なところがあります。 ともあれ、手記のかたちをとった物語を読みおえて、家庭教師の語りから浮かびあがってくる現実というか真実というのはどこまでも不分明なままで、ひっきょうすべてが性格的に異常にテンションの高い彼女の強い思いこみとそれに発する勝手な、あまりに勝手な、ひとり相撲ないし一人芝居に近い、奇矯な行動だった、というだけのように思えなくもありません。 あるいは、家庭教師は、自分は幽霊を見た、そしてふたりの子供たちも見たはずだ、また見えているはずだとなんども手記でくりかえし言うのですが、客観的にその幽霊はほんとうに実在したのか、それともそれは家庭教師の妄想や幻視、錯覚にすぎなかったのか、そのあたりも最後まであいまいなままです (邸の家政全般をとりしきり子供たちの世話係でもあるグロース夫人は自分には幽霊は見えないと主張するのですが、これもまあ本当のことはわからないといえばわからないですが) 語り手の話をどこまで信頼できるのかという問題もあって、ここいらが従来この小説をどう読むかをめぐる議論の中心になってきたようです。 ところで『ねじの回転』(1898年)とほぼ同時期に書かれた、最近評者が読んだ岩波文庫版ジェイムズ短篇集に収められている三つの短篇にも、『ねじの回転』におけると同様、幽霊あるいは霊的分身のようなものが出てきます。 これもふつうならすべて怪談話のようなものになるはずですが、レ・ファニュやM.R.ジェイムズのような人に恐怖をおぼえさせる怪奇趣味の作品を作者がそこでねらっているわけではなく、また霊のような超自然的現象が現実に存在し出現することをもとより読者に信じさせようとしているわけでもありません。三篇とも、いま詳細は述べませんが、あきらかに作品がねらうテーマは別のところにあります。 しかしこの『ねじの回転』では、作者はいったい何をねらっていたのでしょうか。小説の読み方を「もうひとひねり」(another turn of the screw)すれば何かが見えてくるのでしょうか。 まあ、ここでひとつ評者なりにこの小説の解釈を「もうひとひねり」してみると、もとより女家庭教師は、二人の子どもたちへの愛ゆえにかれらを守るべく自分は日夜身も心もすり減らしているという自己認識かもしれませんが、見方によっては、かわいそうな子どもたちへの愛のためと称しつつ、また自分自身深くそう信じつつも、実は、かれらを自分の妄想する話の構図にむりやり押しこめて、二人を監視し、つけまわし、あらぬ疑いでかれらを追いつめ、さいなみ、隠微に虐待しているようにも見えます。あるいは愛と善意の名のもとにかれらを自分の思いどおりに支配しようとしているようにも思われます。 そこにこそむしろ、この物語がはらむ本当の恐怖、ホラーがあるといえないかどうか。 なお、この物語の最後を締めくくる唐突にして少々予想外の出来事は、講談社文芸文庫版のジェイムズ短篇集に収められた、こちらのほうは家庭教師(男)がある少年をやはり住み込みで教えるという話の「教え子」(1891年)の結末と同じものになっていて、ジェイムズにおける物語の閉じ方の類型にも注目しておきたいところです。 それにしても日本では、たとえばジョゼフ・コンラッドといえば『闇の奥』(1899年)、ヘンリー・ジェイムズであれば『ねじの回転』(1898年)と、両作品はそれぞれ英語圏の偉大な作家ふたりの代表作のように見なされたり、両作家入門に適した作品のように扱われる傾向が見られますが、どちらも大いなる誤解というべきものです。 評者とすれば、両作品はもとより傑作とは呼びがたく、他にもっとすぐれた作品を二人の作家が書いていることはぜひ強調しておきたいと思います。 | ||||
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ストーリー的に展開が遅く、趣旨もあいまいな部分があり、研究家にとっては多様な解釈ができるのでいいのでしょうが、時間が限られた方にとっては難しく、娯楽性は限られるかと思います。ヘンリー・ジェームズの作品、私は本書から入ってしまい上記の印象を持ちましたが、他の作品も読み、探索は続けるべきかと感じています。 | ||||
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作家の恩田陸さんが度々この本について言及されていたので気になっていました。 こちらはヴィクトリア朝を舞台にした小説で、田舎の大邸宅が舞台です。主要な登場人物は四人だけで、主人公である家庭教師の女性、家政婦的な女性、そして男の子と女の子。 家庭教師の一人語りなのですが、この人物が急に居丈高になったり、怯えたり、子供に対して唐突な愛情を示したりと全体によくわからない人です。家庭教師に問題があるのでは?と疑いますが、じつは子供も怪しげ…天使のように純真な子供という描写ですが、何かおかしい… 後書きにありましたが、「ひどいよ!」の対象が誰なのかを考えると鳥肌が立ちます。 | ||||
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2018年に重版されたのを機にレビュー。 創元推理文庫(本書、南條=坂本訳)、光文社古典新訳文庫(土屋訳)、新潮文庫(Star Classics、小川訳)のどれを選ぶか。結論的には、光文社版(土屋政雄訳)を一押しとしたい。 理由その1 読みやすさ 日本語としてストレスなく読めるのは土屋訳。 これがよくわかるのは冒頭部分。 (土屋訳) 私たちは暖炉を囲むようにすわり、ときに息を呑みながら話に聞き入っていた。終わってしばらくは「身の毛がよだった」というごく当たり前のーークリスマスイブに古い屋敷で怪奇譚とくればそうあるべきーー感想があっただけで、誰も何も言わなかったと思う。やがて「子供に出たなんていう事例は初めて聞いた。」と誰かが言った。 (南條坂本訳) わたしたちは炉をかこみ、固唾をのんで話に聞き入っていた。ぞっとする、と誰かが露骨に言ったほかはーークリスマス・イブに古い屋敷で奇妙な物語とくれば、本来そうでなければならないーーわたしの憶えている限り、口をきく者はなかった。しまいに誰かがこう評したーー幽霊が子供の前に出るなんていう話を聞いたのは、これが初めてだ、と。 (小川訳) その物語は、炉辺に集まった一同が息を詰めるほどの出来になっていたが、なるべく陰鬱だという評が出たのは、クリスマスイブに古い館で聞く怪談としては至極当然であるとしても、ほかに見解らしきものが聞かれなかったところに、ひょっこり口を切った人がいて、子供が幽霊を見せられるという筋書きは初めてだとの感想を述べていた。 *原文の一文をそのまま一文章にしているのが小川訳。忠実かもしれないが、内容が頭に入ってこない。 obviousは露骨(南條坂本)か、当たり前(土屋訳)か。後者のほうが自然な表現だと思う。 理由その2 光文社版は、解説が充実している。新潮版の軽い感じも嫌いではないが。 理由その3 創元社版は、ほかにいくつかの短編を収録しているが、とくに読むべきものとも思えない。したがって、その点を加点するほどではない。 というわけで、個人的偏見ながら、一押しは光文社古典新訳文庫。 原文の読みにくさを邦訳でも味わいたいのであれば新潮文庫。 他の作品もあわせて読みたいのであれば創元推理文庫。 この順番でお勧めします。 | ||||
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この作品は『デイジー・ミラー』と並び日本でもっとも読まれているヘンリー・ジェイムズの作品であろう。というのも、文庫本で手に入るのは基本的にこの二作だからである。 内容としては幽霊と言う超自然的なものを取扱っている。それが邸で努めている家政婦や家庭教師と関係しているものだ、結構入り組んだ人間関係がみられる。 結局のところ私はこの作品が今いち飲み込めなかった。人間関係がやや複雑であるし、それを差し引いても結局幽霊の存在は何だったのか、マイルズは何故学校を退学させられたのか、最後何故マイルズは死んだのか、なんかよくわからなかった。それが魅力だというのならそうなのだろうが・・・・・。全体的によくわからないまま終わるのが魅力という点で芥川龍之介の『藪の中』と似ていると思う。それと心理小説として名作らしいが、私は特にそういう点での秀逸さを感じなかった。(というか言われるまで心理小説であることすら気づかなった) 独創的といえば独創的な作品ではある。だが個人的には好きにはなれず、『デイジー・ミラー』の方に軍配が上がる。少なくとも再読の魅力は感じなかった。 | ||||
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ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916)が書いた中編小説。1898年発表。 物語は、貧しい牧師の末娘が家庭教師(ガヴァネス)として、サセックスの田舎にある邸に訪れるところから始まる。彼女はその邸の兄妹二人の子供の面倒をみることになるのだが、そこで、二人の子供を悪徳へと導こうとする二人の幽霊を見ることになる。一人はかつてその邸に下男として勤めていたクイントの幽霊で、もう一人は前任の家庭教師てあったミス・ジェスルの幽霊である。 しかし、いくら主人公の年若い家庭教師が、幽霊がいると言っても、女中頭のグロース夫人をはじめ他の使用人たちにはその幽霊の姿を確認することができない。主人公の家庭教師は、幽霊は自分と兄妹の二人の前にしか現れないと主張する。 この物語は、家庭教師の一人称回想形式で語られる。その語りは、出来事を語るというよりかは自分のとりとめのない心理をメインに語っていくものである。ヘンリー・ジェイムズの作品が心理主義小説と呼ばれる所以である。主人公の想念から想念へととりとめのない心の動きが綴られていく技法は、一般的に「内的独白」と呼ばれ、三人称の自由間接話法で書かれた場合、「意識の流れ」と呼ばれる。(三人称で書かれているが、主人公の視点に合わせて書かれているので、その主人公の感情を自分のことのように書くのが自由間接話法だ。小説作法では、三人称一元と呼ばれ、人によっては一人称的三人称とも言う。) で、主人公の家庭教師の「内的独白」を追っていくと、まず、主人公が雇い主である、二人の子供の独身の伯父に恋心を抱いているのがわかる。そして、その伯父から認めてもらいたいがために、自分にしかできないことを二人の子供に対してしなければならないという観念に支配されていることがわかる。その自分にしかできないことというのが、自分にしか見ることができないクイントとミス・ジェイムズの幽霊から二人の子供を守ることである。だから主人公は二人の子供を幽霊から守っているということを執拗に女中頭のグロース夫人に訴えるのである。 さて、物語の設定であるが、人里離れた田舎の邸に幽霊が現れるというのは、ゴシック小説の定番であるが、むしろこの小説は、その設定よりも、年若い家庭教師(ガヴァネス)が雇い主の紳士と結ばれるといった19世紀の恋愛小説を下地にしていると見た方がいい。ジェイン・オースティン(1775-1817)の『エマ』(1814)にもそういったモチーフがありシャーロット・ブロンテ(1816-1855)の『ジェーン・エア』(1847)は、雇い主と家庭教師が結婚する話である。詳しくは、新井潤美の『不機嫌なメアリーポピンズ』(平凡社新書)に書かれている。 なので、主人公の家庭教師が雇い主の独身の伯父に恋心を抱くのももっともなことなのである。 | ||||
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思わせぶりなものはそのままに、邪推せずとも含みは明示されている。さらに「幽霊は何もしていない」のも確かだ。 | ||||
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ねじの回転、素直に読もうとしたが、読めば読むほど分からなくなる。 | ||||
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海外文学は、どうしても、語学力に優れていない限り翻訳版を読むことになります。仕方のないことのかもしれませんが、言語をそのまま忠実に訳すとこうなるのであろう文章は、どうしても不自然な感じを否めません。この作品も然りで、いかにも外国らしい言い回しが、長くまどろっこしく、どの登場人物も常に真相についてはぼかして言うので、とにかく細かく読んでいかないと話からはぐれてしまう可能性があります。物語の筋は、確かにすばらしい。心理描写も噂にたがわず、とても細やかでそれが余計に恐怖を煽っているとも思えます。しかし、読みにくいと思います。原文ママで読めばきっとしっくりくるであろうものなのかもしれませんが…怖さについては、やはり日本人だからか日本のホラーものの方がずっと怖いですが、題名の「ねじの回転(ひねり)」の秀逸さ、物語全体につきまとう謎、いくつかの描写のしかたについては、舌を巻くような優れた部分のある作品だとは思います。 | ||||
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かなり古い小説なのですが、今でも充分通用する、「恐怖」を題材にした小説です。 小説の冒頭の仕掛け(いわゆる、ツカミです)はかなり良いです、これからどんな展開が待ち受けているのか、とてもワクワクしますし、伏線と思われる単語も出てきて、素晴らしく摑まれます。が、やはり古典なのか、ちょっと展開がゆっくりに感じました。今現代の時間感覚からすると、です。小説内での時間の流れ、描写(心理的なものであれ、写実的なものであれ)も決して悪くは無いのですが。 比較的どうとでも取れるように意識的に、つまり読者の先を読む予測を外さないけれど、少しずらすセンスが良いです。 ただ、スティーブン・キングのような作家を、エンターテイメントと「恐怖」を融合させて読ませる作家さんを読んでしまった後では、少し見劣りするかもしれません、ちゃんと小説も進歩しているのだ、と確信しました。古典に興味のある方にオススメ致します。 | ||||
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怪奇小説の古典「ねじの回転」。風評で期待が大きすぎたせいか、読後、拍子抜けした。 発表当時からいつの時代までかは、読者に相当のショックを与えたに違いないが、今から見ると「古い」と言うしかないのでは…。 何より、読者はヴィクトリア朝風の道徳観を持っていなければならない。身分違いの若い男女が通じていた=地獄に落ちるほどのアンモラルだと感じなければ、この作品全体の意味がないのではないか。または、子どもはこうであるべきという狭いカテゴリからはずれただけで悪魔に魅入られたと感じるような価値観の持ち主でないと。 こうした当時の価値観については、併録の「デイジー・ミラー」(これは普通の悲恋もの)で詳細に描写されている。この2編をこの順番で持ってきたのは、なかなかよく考えられていると思った。 幕切れだけはさすが古典の見事さだが、特に目新しさはないと感じた。だけど、タイトルは謎めいていて、良題だと思う。 | ||||
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気持ち悪い。 というのは、怖いからではなく 説明がなく、汲み取れなく、想像力もわかず とにかくスッキリしないところが気持ち悪い。 ホラーっぽい「怖さ」を味わうためにはおすすめできないけれど 「わからなさ」や「読後の???」という不可解さはかなりです。 一度読んで読み方が悪かったか?と思い その後すぐにもう一回読んだが、???のまま。 読者の中でねじはぐるぐる回転し、一向に留まりません。 そこがネライだったのなら作者様は大成功! | ||||
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現代的に捉えれば、二十歳の田舎出の新米家庭教師の女性が、放校になった十歳に満たない男の子と甘やかされて育てられた8歳の女の子に翻弄されて、雇い主に良く見られたいプレッシャーからノイローゼになって見えた幽霊の話だともとれる。お話のとおり、屋敷に住みついた幽霊から子供達を守るために奮戦する健気な若い女性教師のお話とすると、放校になった悪い子はやはり救えなかったのかな? 勧善懲悪という当時の価値観に沿った本です。「ねじの回転」の他にヘンリージェイムスの短編4作が載せられている。 | ||||
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