■スポンサードリンク


1Q84



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
【この小説が収録されている参考書籍】
1Q84 BOOK 1
1Q84 BOOK 2
1Q84 BOOK 3

1Q84の評価: 3.66/5点 レビュー 986件。 Dランク
書評・レビュー点数毎のグラフです平均点3.66pt


■スポンサードリンク


Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です

※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください

全986件 221~240 12/50ページ
No.766:
(4pt)

断片小説?

SF、ポルノ、ハードボイルド、スピリチュアル、メルヘン、純愛とさまざまなジャンルのものが混在している作品といった印象です。読者サービス過剰かな?とも思われます。
でもまったくとりとめがないのかといえば そんなこともなくいつもどおり読みやすく読者にとても親切です。

少し気になったのは リピートが多いこと…。場面やセリフに繰り返しが多い。
どう考えてもインクと紙を大量消費させようという意図が感じらてしまいます。
夜中に読んでいると「デジャヴ?」と感じることもあってちょっと怖い。

相変わらず場面、場面の描写力は素晴らしく、比喩も「どうしてこんな風に書けるのか?」と うなることもしばしば。
そんなところは感動ですが、ストーリー自体はそのための補足にすぎないような気がします。
そして技量的にそれが可能。熟練の技です。
読後の余韻というものはなく、たくさん読んだなあといった実感のみが残りました。

文庫にするのは少し早まったかな?
ノーベル賞とってからでもよかったかも…。
1Q84 BOOK 3Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 3より
4103534257
No.765:
(1pt)

最後まで期待感をもたせる内容だが

1Q84の世界は結局なんであったのか?リトルピープルとはどんな存在だったのか?
この辺りの疑問がなんら解決されないままページがどんどん進むので、
先が非常に気になり、どんどん読み進めてしまいました。
その辺りの筆力はさすがの一言です。

しかし、結局、これまで展開された様々な布石や人間模様はほとんど放り出され、
物語の幕を閉じた印象です。もやもや感が相当残りました。

結局最後まで読んでみて、この本がなぜあそこまで話題になったのかよくわからなかった。
もう一度読み返したいとは思えない本です。
1Q84 BOOK 3Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 3より
4103534257
No.764:
(5pt)

ただ面白い!

氏がノーベル賞をもらう前に読んでおこうと… かねがね小説家の脳の構造に
感心していますが氏もやはりそう。 完読後はしばらくの間、月がいくつあるか
夜空を見上げたものです。
1Q84 BOOK 2Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 2より
4103534230
No.763:
(3pt)

よくわからない部分が気になって読み進めてしまう

物語の世界観も大分明らかにされてきたものの、よくわからない部分が多い。
この「よくわからない部分」が気になってどんどん読み進めてしまいました。

この気になる感で最終巻も読んでしまうと思います。
1Q84 BOOK 2Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 2より
4103534230
No.762:
(5pt)

おもしろかった

最後まで引き込まれて読みとおしました。さすがベストセラ-になった本ですね。
痛快です。
1Q84 BOOK 1Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 1より
4103534222
No.761:
(4pt)

*ネタバレ?* (最終巻なのであればネタバレしてほしかった)

安田恭子はどこへいったのでしょうか。
既に失われてしまったとはどういうことなのだろう。
ロジックに欠陥があるとまでは言わないけど、読者の解釈の自由度が高すぎる印象を受けました。
だからこそ賛否両論なのでしょうね。
1Q84 BOOK 3Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 3より
4103534257
No.760:
(3pt)

使用感

ちょっとくたびれてました。!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
1Q84 BOOK 3Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 3より
4103534257
No.759:
(5pt)

IQ84「村上春樹 変奏曲」1

村上春樹は僕らの世代の同時代作家である。
何しろ大学時代、図書館で「群像」に掲載された「羊をめぐる冒険」を
リアルタイムで読んでいたぐらいだ。もちろんすぐに初版本を購入した。
当時は作家で村上と言えば、村上龍だった。
文壇では村上龍の「コインロッカーベイビーズ」が時代の最先端だった。
「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」を書いただけの
新人、村上春樹はどちらかというと流行作家の一人にすぎなかった。
ちなみにこの時代の流行作家の代表格は「なんとなくクリスタル」の田中康夫だった。

それでも僕らは、村上春樹が好きだった。
村上春樹が僕らの時代の気分を代表していると思った。
ほかの作家には「自分たちの時代の風」を感じなかったが、
村上春樹の小説の中には「僕らの風」を感じた。

そして、村上春樹が我々の同時代の風をつかんでいたことは、この25年が証明してきた。

だから村上春樹の小説が発売されたら
すべての本を発売直後に単行本で手に入れて読んできた。
それは「海辺のカフカ」まで続いた。
それなのに、「1Q84」だけは単行本で読まなかった。

どんなにベストセラーとして騒がれようと、
世界中で翻訳されようと、なぜか読む気がでなかった。

そして、不思議なことにいまになって文庫本で読み始めた。
なぜだろう?
その理由を考えながら文庫版のページをめくる。そしてひとつの仮説に行き当たる。

この「1Q84」は、村上春樹の集大成であり、
彼が今まで書いてきたことをすべてまとめた、一種の変奏曲なのだ。
変奏曲が終わるまでは手にしてはいけない。

たぶん、一定の年月にさらされてから手にするべき本なのだ。
その本質を理解するためには、時間が風化したほうがいい。
ベストセラーのランキングにある期間に
流行のひとつとして評価すべき本ではなく、
長い時間の風化のなかで
「古典」として評価されるべき作品なのだ。

特に、当初Book2までという不完全な形で刊行された1Q84は、その後にBook3が刊行されて完結する。
少なくても世界はこの本の評価をそれまで待つべきだった気がするのだ。

だからこそいま僕は、村上春樹の歴史を踏まえて
「変奏曲 村上春樹」というテーマで自分の評論をまとめてみようと思う。

この変奏曲を読み解く評論は4つの楽章で成立する。

第1楽章 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド
第2楽章 4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて
第3楽章 羊をめぐる冒険
第4楽章 ねじまき鳥クロニクル

変奏曲の旅は、村上春樹の世界を巡る長い演奏になるだろう。
じっくりと感じてみよう、村上春樹がこの世界にもたらした風を。

そして、その変奏曲を読み解いた時に
1Q84に散りばめられた謎が収斂して、われわれの前に立ち上がってくるだろう。
村上春樹がその作家人生をかけてわれわれに対して仕掛けた謎を読み解いてみよう。

IQ84「村上春樹 変奏曲」  第1楽章
 世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド    

「変奏曲とは、主題となる旋律が変奏され、
主題と変奏の全体がひとつにまとまった楽曲となったものである」 ウェキペディア

「変奏曲 村上春樹」としてこの本を読み解くと、変奏されるモチーフが二つあることに気付く。
テーマとスタイルである。

テーマについては、後に第2楽章の「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」で
ゆっくり言及することになるだろう。
どちらかというと、このBook1の段階で明確に意識させられるのは、その変奏のスタイルだ。

青豆と天吾の世界が交互に現れて、別々の展開を見せる。
これは村上春樹読者にお馴染み「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のスタイルだ。
故にこのBook2では「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を梃子にして、
村上春樹が凝らしたスタイルの変奏を読み解いてみようと思う。

といいながら「1Q84」と「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を
平行して読んでみると、この2冊には「スタイル」としての既視感とともに、
「印象」としての違和感が残る。

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が、
現実世界と幻想世界という対照的な二つの世界をまたいでいたのに対して、
この1Q84で描かれる青豆の世界と天吾の世界には、
より密接な繋がり、一種の同期性のようなものを感じさせる。
今回の二つの世界は同じスピード感、同じ現実感を感じさせるのだ。

美しき殺し屋、青豆の世界と小説のゴーストライティングに巻き込まれる天吾の世界。
交互にあらわれる二つの世界は、ページをめくらずにはいられないスリルをはらみ、
印象として似た緊張感を奏でる。その緊張感はまさにサスペンスの緊張感だ。

この緊張感はスピードを生み、ふたつの世界はどんどんと速度をあげて疾走し始める。
ついには列車に乗った我々読者の想像力をすべてをなぎ倒しながら進んでいく。

対照的に「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」には
あきらかに違う感覚のふたつのスピード感があった。
青豆と天吾の世界と同じように我々の現実世界に近い
「ハードボイルド・ワンダーランド」のスピード感と
もうひとつ別の緩慢な時間の流れがあったのだ。
それはすべてが静止し、すべてが結晶化されたような印象を与える減速感だった。
それが幻想の世界である「世界の終わり」の時間感覚である。
その「世界の終わり」の世界が持つ緩慢な時の流れと
サスペンスフルな「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の時の流れ。
その二つの世界のスピード感覚が落差を伴って、交互にあらわれることによって、
まさに村上春樹ワールドとしかいえない
不思議なリズム感を醸し出すことに成功していたのだと思う。

「1Q84」と「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の2冊の印象に違和感があるのは、
このスピード感の落差の部分ではないだろうか?
さらに分析するならば村上春樹は、読者に対して
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のスピード感の落差を
イメージさせることで大きな仕掛けを施している。

この物語はスタートラインにおいて、読者をミスリードすべく巧みに企まれているのだ。
Book1の物語の起点が青豆から始まること自体が、このミスリードの起点になっている。
この起点により、読者は青豆の世界からこの小説の「時物」が始まったような印象を受けるはずだ。

殺し屋・青豆の世界では、暗殺のランデブーポイントに向かうために
首都高3号線の非常階段を降りる所から始まる。
そしてその瞬間から青豆はいきなり「1Q84年」にスリップする。

この書き出しがミスリードを誘発するのだ。
後に判明するが1Q84年の世界は、天吾がふかえりの「空気さなぎ」を改編したことによって立ち上がる。
つまり時間軸で並べれば、この青豆の非常階段の事件は、
天吾が物語を書いた瞬間よりもずっと後の出来事になるはずで、
村上春樹は読者を物語の出発駅ではなく、ポンといきなり途中駅から乗車させるのだ。

本当の出発の地点は、Book1の中盤で天吾が小松の忠告に基づいて
二つの月が浮かんだ世界を詳しく表現した時、その瞬間だ。
その時に「1Q84年ワールド」が誕生し、
無意識化で天吾が青豆をこの世界に引き寄せることになる。
つまり、1Q84年において話の順序は小説とは逆で、
天吾の世界がきっかけになり、青豆の世界はそれに巻き込まれてスタートするのだ。

だから村上春樹はわざと青豆を開始点に物語を始め、
読者に青豆の世界からこの長大な物語が始まったかのように誤解させるべく企んだことになる。
さて、ではこのミスリードの意図する所はなにか?

「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を梃子にして、この長大な変奏曲を読み解くならば、
この1Q84の物語世界には「もうひとつ別の世界、もうひとつ別の時間」が隠されていることを示唆している。
それこそが、スピード感の落差をイメージさせるスタイルで村上春樹が企んだ大きな仕掛けなのだ。
この青豆を開始地点とするミスリードを利用して、あることに読者を気付かせようとしているのだ。

青豆と天吾のふたりがいま置かれている二つのハードボイルドのスピードの世界とは別に、
もうひとつ別の時間感覚を持つ「幻想の世界」が隠されていることを暗示しているのだ。
その世界では、すべてが静止し、すべてが結晶化されたような印象を与えるはずで、
「世界の終わり」の世界が持つ緩慢な時の流れと同じスピード感覚の場所のはずなのだ。

そしてその「世界の終わり」の世界は「1Q84」の中に巧妙に隠されている。
実は20年前の青豆と天吾が小学4年生だった、10歳の当時の
市川市の小学校の「教室の世界」にしっかりと変奏されているのだ。

この教室で天吾と青豆は100%の契りを交わす。
誰にも知られていない、ふたりだけの「秘密の契り」だ。
証人会の信仰とNHKの集金人の子どもという
特異な家族環境が引き寄せた孤独なふたりだけの秘密の儀式。
そう10歳の小学4年生の青豆が、12月初めの放課後の教室で突然、
天吾の手を握りしめた瞬間、
ふたりにとって何物にも変えられない「幻想の世界」が始まったのだ。

この教室の有り様や匂い、感触こそ、彼らがいま暮らす1Q84年の
ハードボイルド・ワンダーランドの対極に位置している世界だ。
まさにその世界では、すべてが静止し、すべてが結晶化したような印象を与え、
幻想の世界だけが持つ緩慢な時の流れが支配している。

だから1Q84の謎を追う賢明な読者は、この12月初めの放課後の
「教室の世界」を丹念に追うことで、物語の本質を理解できるはずだ。
それこそが、テーマの変奏として企まれた
「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」の変奏曲の世界なのだと思う。

そして、この市川市の小学校の教室の形をした幻想世界の主役は紛れもなく青豆であり、
そこでは紛れもなく青豆が物語を開始する。

つまり教室で突然、天吾の手を握るという人生をかけた大胆な行動によって、
ふたりの「幻想の世界」は始まる。その物語の主役はあくまで青豆なのだ。

「物語に拳銃が出てきたら、それは発射されなければならない」
この言葉は深い意味で、この青豆の行動に結びつけられている。
女の子が命懸けで男の子の手を握ったら、二人は最後には、むすばれなければならないのだ。

この長大な物語は、真の意味で、青豆がきっかけを創ったものであり、青豆の世界なのだ。
それは、天吾がつくった「1Q84の世界」よりも20年も前に始まっている。
だからこそ1Q84の小説は、途中駅からであろうと青豆から始まるのだ。

そして物語の最後で、統合されるべきは、
1Q84年の二人を取り巻く「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界と
教室の世界である「世界の終わり」の世界なのだ。
「物語でヒロインが恋人の手を握ったら、二人は結ばれなければならない」。
これが読者と村上春樹の長い約束となる。

だから、物語のラストにおいて統合されるべきは天吾と青豆の1Q84年における
ハードボイルドの二つの世界ではなく、
もうひとつの幻想の「世界の終わり」的な世界であるはずだ。

そしてそれこそが、熱心な村上春樹読者だった私がある予感を持って、
1Q84を文庫本化まで読まなかった真相だったのだと思う。
というのも、 この約束である二つの世界の統合はBook2では完結しなかったからだ。

ということで、Book2では「教室の世界」を丹念に追いながら、
「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を
梃子にして、「変奏曲 村上春樹 第2楽章」を分析してみたい。
1Q84 BOOK 1Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 1より
4103534222
No.758:
(5pt)

IQ84「村上春樹 変奏曲」 第2楽章&第3楽章

IQ84「村上春樹 変奏曲」 第2楽章 4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて

「1Q84」が村上春樹文学の総決算としての「変奏曲 村上春樹」をイメージさせるポイントは2つある。

スタイルとしての変奏と、テーマとしての変奏である。
スタイルとしての変奏が第1楽章で見たように「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」であるならば
テーマの変奏については村上春樹自身が直接語っている。

「1Q84」は、自身の短編「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(1981)を
ふくらませたものであるとインタビューで答えているのだ。
「男の子が女の子と出会う。二人は別れ、お互いを捜す。単純な物語。長くしただけです」

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」のストーリーはこうだ。

四月の晴れた日、原宿の裏通りで「僕」は100パーセントの女の子とすれ違う。
しかし、僕は何もしないで「ただすれ違う」だけしかできなかった。
後に、僕はそのときに彼女に話すべき話を思いつく。

昔々あるところに少年と少女がいた。
巡り会った瞬間に、彼らはお互い100パーセントのカップルだった。
二人はもう孤独ではない。

しかし、二人の心にほんのわずかな疑念が横切る。
「ねえ、もう一度だけ試してみよう。もし僕らが100パーセントの恋人同士だったとしたら
いつか必ずどこかでまためぐり会えるに違いない」
そして、二人は別れる。

そしてお決まりの運命の波が二人を翻弄することになる。
二人は生死の境をさまよった上で記憶をなくしてしまう。
時は驚くべき速度で過ぎ去っていった。

そして四月の晴れた日に原宿の裏通りでふたりはすれ違う。
しかし彼らの記憶の光は弱く澄んでいない。
二人はことばもなくすれ違う。

悲しい話だと思いませんか。

このストーリーラインでは、二人は出逢い、別れ、そして捜し求める。

1Q84では、教室の世界で100%の契りを交わした二人は、
手をつないで、お互いの存在を確信するのだが、別れてしまう。
そして二人は永遠に相手を捜し求める。

そしてBook2では、青豆と天吾は「教室の世界」で約束された、
「隠されたメッセージ」を発見し、それに気づく。

では、そのふたりが30歳になって発見した「隠されたメッセージ」とはなんだろう。

それは我々、読者が「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」が出版された村上春樹から贈られたメッセージでもある。
そう、我々は100パーセントのカップルのようにそのメッセージを30年も忘れていたのだ。

そのメッセージを解く鍵は、物語に登場する2つのグループの対比にある。

その2つのグループは、男女で区分けするならば、

女性陣は一方に青豆がいて、

もう一方に、環、あゆみ、年上のガールフレンド安田恭子が置かれている。

男性陣は一方に天吾がいて、

もう一方のグループに天吾の父親、ふかえりのクラスメイトのトオル、牛河が配置されている。

そして2つのグループの差は「ゴムの木」と「金魚」の差でもある。

青豆は、柳屋敷で緒方夫人がつばさに買い与えた金魚が気になり、
自分も買いにいくが、どうしても金魚が買えなくて、
誰からも見捨てられたようなゴムの木を買ってしまう。

青豆はひとしきり「どうしてこんなにあのゴムの木が気になるのだろう」と考える。
が、青豆にとって、金魚が買えずに、ゴムの木だけが買えたのには意味があった。

ゴムの木は「決意した孤独」の象徴なのだ。

それは青豆と同じく、誰にも依存しない、自立した「孤独」の象徴だ。

金魚は自立していない。
金魚は一見すると悲しげで、孤独の象徴のようだが、
金魚は人から餌を与えられ、愛でられる。
自立もしていないし、決意もしていない。
孤独の状態にいるものの、自らの意思で孤独になった訳ではない。

さらに言えば、1Q84に登場する金魚は、
老婦人とつばさとの「結ばれなかった約束」の象徴になっている。
それは一方的な庇護と憐憫を含んだ、上から目線の一方的な公約だ。
結局つばさはこの約束を受け入れない。

つまり金魚は「一方的に押しつけられた救い」の象徴にしか過ぎず、
そこには、互いを認めあう共感も、決意の上で自立した孤独も存在しない。

では、この「結ばれなかった約束」の反対に位置する「約束」とはなにか?

この理解ならば、それは誰にも依存しないように
互いの自立を促す「結ばれるべき約束」に違いない。

教室の世界で二十年前に青豆が天吾の手を握ることによって、天吾に届けたメッセージは、
まさに誰にも依存しないと決意するための「約束」だったのだ。

「あなたは孤独ではない」

その当時、愛のない不幸な世界に囲まれた、10歳のふたりの子どもが、
お互いの「孤独」を感じ取ることで、共感し、互いに運命的な絆を察知したことで、手を握り、
そして孤独から抜け出した。

「あなたがいれば、もう孤独ではない」

このメッセージを交わすことで、ふたりは100パーセントのカップルになったのだ。

それはこれから先、あなたさえいれば、
ほかの人たちからの無視や周囲からの無理解や酷い仕打ちに耐えていけるという「決意」だ。

決意はどこから来るのか、それは100パーセントのカップルの間で交わされた
「いつかは結ばれるはずの約束」から来るのだ。

あゆみや環、年上のガールフレンド安田恭子、

病気の少年、天吾の父親、牛河には、天吾や青豆のように約束をした相手がいない。

2つのグループとは、「孤独」を巡るものであり、
約束をした相手がいるか、いないかであり、
その相手を待って一生の孤独に耐える決意があるかどうかなのである。

その決意が、この2つのグループを峻別している。

100パーセントの相手が見つける幸運があるかないか、
例え見つかったとして、その相手以外からの孤独に耐える決意があるかどうかが、
各々の人生を決めていたのだ。

青豆とリーダーとの間で交わされる貴重な会話の中で、青豆から突然発せられる言葉が重要だ。

「私には愛があります」

「愛があればそれで十分だと?」

「そうです」

そう青豆には「愛」がある、たとえ「孤独」でも。

30歳になった青豆や天吾には、この愛のために「孤独を耐え抜く決意」がある。

その決意は20年前に教室の世界で運命の相手と「約束」したことに起因している。

しかし悲しいかな二人が30歳になった現在では、ふたりともその「約束の意味」を忘れている。
それでも、孤独に対抗する決意だけは残った。

ではなぜ、ふたりは「約束の意味」を忘れてしまったのだろう?

青豆と天吾は20年前に教室の世界で、100パーセントのカップルとして、約束をした。
それはいつかは果たすと決めた「約束」であった。
しかし、当時の青豆と天吾にはそれがどんな「約束」なのかははっきりわからなかったのだ。

幼いふたりにはその当時、約束の意味が正確につかみ取れなかった。
ゆえに100パーセントのカップルだったにも関わらず、ふたりは別れ、
その後の20年を別々に生きていくことになる。そして長い年月の果てに
約束そのものまで忘れさられてしまう。

約束の意味がふたりにとって難解だった部分は、2つあった。
当時、二人が置かれていた子どもとしての環境の問題が一つであり、
もう一方は、子どもではわかり得ないことだった。

10歳の子どもであった二人の「日曜日の家族行動」が
二人の感情に特別な「共感」を感じさせたのだろう。
天吾はNHKの集金人の父親に連れ添って市川の街を歩き続ける。
青豆は証人会の勧誘をする家族に連れ添って同じく市川の街を歩き続ける。

10歳の子どもにとって、家族は絶対だ。生きるための最低の帰属単位である。
家族から離反して、10歳の子どもが生き続けることは不可能だ。
その年代の子どもは家族から離れて暮らす術を持たない。

しかし教室の世界の後、100パーセントの相手が
自分は「孤独ではない」ということを保証してくれた。
そして、ふたりはそれまでの「孤独の象徴」であった家族と決別するのだ。
そして決別すると引き換えに生涯に渡る「孤独」を代償として受け入れた。
だからこそ約束の相手以外ではその孤独は癒されないのである。

さてもう一方の、子どもではわかり得ない約束の意味とは「セックス」のことである。

約束をした当時、「いつか結ばれる」という曖昧な形で
「セックス」が10歳の子どもたちに提示されたのだ。

教室の世界の後に、天吾は精通を、青豆は初潮を体験した。
つまりふたりは約束した当時、セックスが出来ない状況だった。
言わんやセックスの目的としての受胎、懐妊を受容し得ない状況だった。

二人が決意して約束した「つぎにすべきこと」は、
家族からの離反であり、ふたりは別々にそれを実行した。
青豆は証人会の家族から離れ、おじの家に行き、ソフトボールの特待生になる。

天吾は父親に日曜日は自分の意志で過ごすと宣言し、担任の先生のうちに行って援護を勝ち取り、
その後、柔道の特待生で自立する。

彼らは家族から離反するだけで精一杯だったし、その後の人生は自分たちが自立するために捧げられた。
そして30歳になるまでその自立のための努力は続けられた。

ふたりの当時の状況でそれ以上のなにができたであろう。

10歳の男女が同居して、新たな家族を形成することなどあり得なかった。
経済的にも、肉体的にも、ふたりはまだ子どもだったのだ。

「いつか結ばれる」という約束は、まさに実現不能で意味不明の形で
10歳のふたりの前に提示されたである。
だからふたりは「手をにぎりしめ」ただけで、別れたのだ。

村上春樹の世界ではセックスの問題はおなじみである。
村上春樹ほどセックスを情緒的に表現しない作家も珍しい。
文章中に「セックスをした」と端的に書き始めたのも日本では村上春樹だと思う。
そこには性愛の匂いを感じさせない。感情的な要素も感じさせない。
単に行為、行動として身体を合わせるニュアンスしか存在しない。

スポーツのようなセックスを文章で実現したのが村上春樹なのである。

しかし、それ故に村上春樹は特別な領域を切り開いた。
村上春樹が男女の営みを「セックス」と書かないとき、
それは単なる性愛を越えた「交わり」を指すことになるのである。

これによって村上春樹は「純粋な愛」に非常に近い、
儀式的な、宗教的なニュアンスを持つ「性交」を表現できるのである。

今回の1Q84でいえば、運命の一夜における天吾とふかえりの「オハライ」がそれに当たる。
それらは青豆の開放なセックスライフでもなく、
天吾と年上のガールフレンドとの相性のいいセックスとも別の次元の行いである。

特にこのオハライは、肉体的には天吾はふかえりと結ばれるが、
精神的には、生涯ではじめて青豆と結ばれる。
まさに性愛を越えた「交わり」であり、儀式的な、宗教的なニュアンスを持つ「性交」だ。
そして結果、青豆は「処女懐胎」を果たす。
この「処女懐胎」の件に関しては最終楽章で検証することになるだろう。

当然のようにふたりは自立して、セックスが出来る年齢になるまで、別々に生きていくことになってしまう。
そして、「あなたは孤独ではない」というメッセージは、離れている間に次第に薄れていき、

いつの間にか思い出せなくなっていき、ついには忘れてしまうくらいになってしまう。

しかし、二人は決して約束を完全に忘れてしまった訳ではない。
何かの拍子に思い出そうと必死にきっかけを求めていた。
たとえは、ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」がそれだ。

ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」は青豆と天吾を、特定はできない「どこかの場所」に結びつけている。

何かへの導入の役目を果たしている。

どこかの場所とは「教室の世界」に他ならない。

現実の世界に生きる青豆と天吾にとって、教室の世界は通常忘れ去られている。
しかしふたりの心の深層では「渇望」されている。
偶然か必然か、ふたりともその教室の世界を思い出すために
「シンフォニエッタ」を活用していたのだ。まさにの睡眠導入剤の役割のように。

ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」は、
互いを意識的に引き寄せるための唯一の入り口として
ふたりによって、何度も再生される。
小説の中ではひとつの挿話や小道具の使用が繰り返されるほど、現実的な事象としてその世界に立ち上がる。

青豆の世界でも、天吾の世界でも「シンフォニエッタ」がこれほど繰り返されるのにはそれなりの理由があるのだ。

さらに天吾は、ふかえりの「空気さなぎ」の物語を再生したことにより、
この教室の世界に対して、より簡単にアクセスすることが可能になる。
天吾のなかのレシヴァとしての才能の開花するのだ。

運命の一夜、ふかえりと「オハライ」をすることで、天悟は教室の世界に意識的に入る能力を身につける。
教室の世界はより頻繁に現れるようになる。

そして「あなたは孤独ではない」というメッセージは、
いまや自立し、十分に成熟した天吾に対して
「大人として果たすべき約束」の形で具体的に立ち上がる。

そして、その能力が開花され、約束を果たすべき準備ができた時に
天吾は初めて「二つの月」を見る。
「あなたがいれば、もう孤独ではない」というメッセージの
「あなたがいれば」の部分を思い出すのだ。

「青豆がいれば、僕はもう孤独ではない!」と

月は相変わらず寡黙だった。しかしもう孤独ではない。

「青豆はどこにいるのだろう。青豆を捜さなければならない。」

天吾には、青豆にもこの二つの月が見えているはずだという確信があり、

だからこそ、我々は巡りあわなくてはならないと決意する。

ふかえりは天吾に予言する
「そのひとについておもいだすことがいくつかある。
やくにたつことかあるかもしれない。」

天吾は次第に思い出す、メッセージの意味を。
この1Q84は、教室の世界で約束された、
「隠されたメッセージ」を発見し、それに気づく物語なのだ。

逆に不幸にして「約束」を思い出せないパターンが
「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」である。
だとすると「1Q84」は「約束」を20年かけてでも思い出し、それを実行する物語だ。

二つの物語は同じ開始点で始まるが、
東京駅から始発する山手線と京浜東北線のように、いつしか離れ、各々の別の終着点に向かうのだ。

約束を忘れてしまい、青山すれ違うカップルと
約束を必死に思い出し、それを果たそうと様々な危難に立ち向かう「ふたつの月の世界」のカップル。

山手線のカップルは、天吾と青豆の1Q84に来るまでの姿であり、
ぐるぐると同じところを回って、逡巡するだけでめぐり会うことがない。
1Q84に来たふたりはその円環から抜け出してしまったが、まだめぐり会えない。
そして終着点はBook2ではまったくわからない。

ここまで読み解いてきて、最後の命題が残る。それは、我々読者が、1981年に村上春樹から贈られ、
30年も忘れていたメッセージの意味を問うことである。

それは「孤独」と「愛」を巡るものである。

メッセージの意味は、
人生において100パーセントの相手を見つけること
その相手を待つためには、一生の孤独に耐える決意を持つこと
にあるだろう。

そこに「愛」があれば、我々は長き孤独に耐えることができるのだから。

しかし、愛以外のものをあてはめる場合もあるのだ。
これが、1Q84の世界を複雑にしている理由だと考えられる。
答えが愛ならばシンプルだ。愛でない場合、我々はその難解さの前にたたずんでしまう。

孤独に対して、青豆と天吾には「愛」があった。
この二人は、なにものにも変えられない存在として「愛」を人生の中心においた。
もう一方で孤独に対抗しようとして「別のもの」を人生の中心に持った人々がいる。
教団さきがけや証人会、そして柳屋敷の緒方老婦人のグループである。

「1Q84」はある意味、こうした人々を描くために書かれた。
教団や証人会は孤独に対抗するものとして「宗教」を人生の中心に置いた。
緒方婦人は女性への家庭内暴力を追放する「信念」をおいた。

両者は対立しているようで、村上春樹から見れば同じキーワードで結ばれる。
「カルト」だ。

これがこの本の重要なテーマであることには間違いがない。

青豆とリーダーとの間で交わされる貴重な会話の中には続きがある
「私には愛があります」
「愛があればそれで十分だと?」
「そうです」(中略)
「非力で矮小な肉体と、翳りのない絶対的な愛・・・
 どうやらあなたは宗教を必要としていないみたいだ」

ということで、第3楽章では「カルト」というテーマに対して
「羊をめぐる冒険」を梃子にして、「変奏曲 村上春樹 第3楽章」を分析してみたい。

*******************************************
IQ84「村上春樹 変奏曲」 第3楽章 羊をめぐる冒険

第三楽章では、村上春樹の初期の傑作「羊をめぐる冒険」を梃子にして、
カルトや邪悪なるものやリトルピープルをめぐる冒険をしてみよう。

海外翻訳が多い村上春樹だが、
現在、処女作の「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」の翻訳を認めていない。

作家としての技量が足りなかった時代の習作と位置づけているためであり、
結果、3作目にあたる「羊をめぐる冒険」が本来のデビュー作であると考えている。

「羊をめぐる冒険」の初版当時の僕らの受け止め方もまさに「村上春樹の本格派への転向」という印象だった。
ファッションのようなスタイルの作家であった村上春樹が、「本当の」作家になった作品と記憶している。

この本格派への転向という変化は、「羊をめぐる冒険」で今までになく、
「テーマ」がしっかりと扱われたからだと思う。

「羊をめぐる冒険」は、「羊憑き」をめぐる冒険譚だ。
物語は、主人公・僕が、失踪した友人・鼠を探すロードストーリーだ。
鼠は北海道のとある村で「星の印がある羊」にとらわれている。
星のある羊には世界を支配する霊力がある。
羊は満州で農林省の役人に乗り移り、戦後右翼の大物に乗り換え、政治と広告の世界から日本を操った。
「羊をめぐる冒険」では邪悪なる羊は、人間に取り付くことで、その人物を介して日本を操る。

そして邪悪な力を使って状況を操るカルト集団として右翼を組織化した。
一説には人物のモデルは児玉誉士夫といわれる。
児玉誉士夫亡き後の邪悪な力(羊)をめぐる後継者争いが小説の隠れたテーマであった。

この神憑きの人物と邪悪な集団という構造が、そのまま「1Q84」の世界に変奏された。
羊に憑かれた友人・鼠が1Q84では教団のリーダーとして配置され、
不思議な力をもつ存在として登場する「耳のきれいなガールフレンド」が
超能力を宿したふかえりとして配置されている。
天吾は「僕」と同じ存在であり、物語の狂言回しになる。

そして「羊をめぐる冒険」で絶大な権力を握っていた黒服の男が掌握するカルト集団が
進化した形で変奏されているのだ。
「1Q84」の世界には、邪悪なるものを推進するカルト的な集団が2つある。
リトルピープルのレシヴァたるリーダーによって運営される教団さきがけと
娘を夫の暴力によって殺された緒方婦人が立ち上げた家庭内暴力に対抗する地下組織だ。

緒方婦人やタマルの穏やかな人格から後者の地下組織は一見カルト集団に見えないが、
青豆が語るように、この組織は外部に対する敵意に満ちた暴力的なカルト集団だ。
「青豆はやりきれなくなった。緒方婦人やタマルとの密接な関係が、
暴力というかたちを通してしか結ばれないからだ。
法律に背き、人を殺し、誰かに追われ、殺されるかも知れないからこそ、この組織は団結している。
信頼の絆は殺人を介在にしか成立していない。暴力性がある種の純粋な結びつきを作り出している」

内部に向かって収斂・結束し、外部に対して攻撃的になる、それがカルトの傾向だ。

カルト的な集団を描くに当たって村上春樹が最も苦心したと思われる部分は、

オウム真理教などの特定の宗教団体に矮小化して、
読者に伝わることを防ぐことだったのだろう。
そこで「羊をめぐる冒険」の神憑きの集団の変奏だけでなく、
もうひとつのカルト集団を置くことでこのカルト的な状況を
より広く、より深く警告したのだと考えられる。

「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。
多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。
オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、
そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる。
物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。
目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。
深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

  * 毎日新聞インタビュー、2008年5月12日 より

この「精神的な囲い込み・枠組み」を広く表現するために、村上春樹はリトルピープルなる存在を持ち出し、
太古から面々と続く「善悪を越えたものごと」としてカルトを捉え、根源的な「神」の存在を説いた。

実際、リトルピープルの存在は世界に広く流布している。
指輪物語のドワーフもホビットも、アイヌのコロボックルも、日本神話のクーナも、
ハワイのメネフネも同じく小さい人の神話である。

そしてリトルピープルだけでなく原初的な神様や神憑きの王様は、
どこの大陸、どこの地域、どんな民族にも共通して存在する。
古代史に置いては、神憑きの「王」は、民衆をとりまとめ
集団を率いる手段であり、全ての部族、村落、都市、国家の源といえる。
「1Q84」で指摘される「王殺し」の習慣ですら欧州では当たり前の風習だった。
古代ローマ以前のローマでも事例はたくさんある。

日本でも原始宗教時代、神憑りのご請託を操ってヤマト朝廷の礎を築いたヒミコ(卑弥呼)が
指導力(霊力)の低下によって、民衆によって殺されたと考えられている。
不吉な日食のなかでの女王の暗殺と王権交代劇の一部始終が
「天照大神の雨の岩戸伝説」の出所と言われる。

さらに「1Q84」の世界の「神憑きのレシヴァ」と民衆の関係は
神の言葉を迷える民衆に伝える「預言者」の存在として

エホヴァの神を戴く、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教に共通の構造である。
イエスもモーゼもモハメッドも同じく神の言葉を預かる「預言者」である。

人智を越えた神という存在は、我々人間を監視する。

そして監視するだけで事態が解決せず止むを得ず行動する場合は
預言者を通じて、行くべき方向を示唆し、
時に反抗する民に向けて事件や試練を起こして干渉する。
預言者にはある種の「奇蹟の力」を授ける。
奇蹟によって民衆を束ね、集団催眠状態を作り出す。

そしてその預言者を通じても事態が収拾できない場合、
最大の恫喝手段として「災厄」を与える。

この預言者を通じて関与する「神と人間の関係性」こそ、
リトルピープルの在り方なのだ。

ここでは神の不在性ではなく、「神の存在性」が問われている。

「多神教社会に帰属する日本人」は、自分たちが不神論者だと考え、
神の不在を中心に物事を考えやすい傾向がある。
だから人智を越え、善悪を越えた存在が実在した場合になると思考停止してしまう。

逆に、神の存在を前提にする三大宗教社会の民衆は、
絶対なる神の指導がない世界を一瞬たりとも想定し得ない。
神の指示は絶対であり、神に間違いは存在しないと、思考停止してしまう。

今回、村上春樹が用いたリトルピープル論が面白いのは、

3大宗教を信じている人々が考えるように、
神は行動を起こすべき時に行動を起こすのではなく、
人界との通路が開かれた時に行動を起こすという解釈である。
「絶対善」としての神を持ち得ない多神教の日本人作家ならではの解釈だと思う。
この神の行いには良いことも悪いこともある。村上春樹にとっては神も完全ではないのだ。

「1Q84」では、ふかえりが盲いた山羊を殺してしまった罰として
独居房にその山羊の死体と10日間閉じ込められたことで、通路が偶然開かれる。
リトルピープルたちはその山羊を仮の通路としてやってくる。
物語のなかではBook2で青豆が小説「空気さなぎ」を読む。
それはふかえりが創作し、天吾がリライトして完成した小説だ。

人智を越えた神に関するテーマは、すべてこの中で問題提起されている。
その中で「精神的な囲い込み」に関するポイントは、
ふかえりとリトルピープルの問答に隠されている。

「ドウタはマザの代理をつとめる。ドウタはあくまでマザの心の影に過ぎない。
それがかたちになったものだ。

ドウタはパシヴァの役目をする。パシヴァは知覚したことをレシヴァに伝える。

つまりドウタはわれらの通路になるぞ。
死んだ山羊は仮の通路で、生きているドウタが本当の通路だ。

マザの世話なしにドウタは完全ではなく、長生きできない。
ドウタを失えばマザは心の影をなくすことになる」

順に考えれば、山羊を仮の通路として使って人界にやってきたリトルピープルは
ふかえりと共に空気さなぎを作って、ふかえりのドウタという本物の通路を作った。
それを直感的に正しくないものとして、マザふかえりは脱走した。

偶然、ふかえりによって人界との通路が開かれる。
その偶然を利用してリトルピープルたちは行動を起こすのだ。

その後ドウタとリーダーは「多義的に交わり」、
レシヴァとしてリトルピープルと人界の通路を完成させる。
そして教団さきがけに「声」が届けられるようになった。
「預言者」が機能するようになったのだ。

この一連の「正しくないもの」に対抗するために、
脱走したふかえりは長い年月をかけて独力で反リトルピープル的モーメント活動を起動する。
物語「空気さなぎ」を立ち上げ、天吾をレシヴァに選んで、小説「空気さなぎ」として完成させた。
以降、この反リトルピープル的モーメントのユニットはふかえりが知覚し、天吾がそれを受け入れる形をとる。

「あなたはレシヴァのやくをしている。
それには特殊な資質が必要だ。

私たちはふたりでホンをかいたのだから。
わたしがパシヴァであなたがレシヴァ」

小説空気さなぎを書き上げる過程で、普通の人間だった天吾は大きく成長する。
「おなじではない。あなたはかわった。」
ふかえりが言うように、天吾は大きくレシヴァとしての覚醒の途上にある。

その後、覚醒の果てに二つの月が見え、空気さなぎが見えるようになり、
教室の世界に自由に行き来ができるようになっていく。

だとするならば、やはり第2楽章で検証したように
青豆をこの「1Q84」のふたつの月の世界に運んできたのは、
紛れもなく天吾ということになる。
青豆は、ふかえりとリーダーに最も遠い存在であり、天吾にだけ意味を持つ存在なのだから。

小説「空気さなぎ」を読み終えて、青豆は語る。
「私たちを結びつけているのは深田父子の存在だ。
この親子によって私たちは少しずつ距離を狭めているように見える。
しかしそれは致死的な渦によるものであり、致死的でないところに私たちの邂逅はなかった」

そしてBook2の中心が、致死的な事件ともよぶべき2つのカルト集団が対決する「運命の一夜」となるのだ。

この運命の一夜ではじめて、青豆と天吾、ふかえり、教団リーダーの
4人の主要登場人物が揃い、それぞれがキーアクションを起こす。

青豆はリーダー殺害を実行し、ふかえりはオハライをし、

天吾は教室の世界に戻り、リーダーは交換条件を提案して、死ぬ。

このキーアクションの後、物語は死の予感を孕んで一気にクライマックスに向かう。

この4人の人物を物語に結びつけているものがある。それは「月」だ。
天吾と青豆のリアルな世界と、
幻想の教室の世界、
ふかえりとリーダーの「空気さなぎ」の世界、
その3つの世界を結びつけているのは、月だ。

一般には、月は孤独と静謐の象徴であり、月は我々を見守る存在の象徴になる。
ジョージ・オーウェルは、月のようにわれわれを見守る存在として「ビッグブラザー」を発明し、
名作「1984年」を著した。

ビッグブラザーはどこにでもあるテレビからわれわれを見守り、監視し、
「ウォッチユー!」と指を突き刺して、糾弾する。
オーウェルはまさに「精神の囲い込み」であるカルトが定着し、
国家化してしまった監視社会の実態とその恐怖を描いたのだ。

なぜ村上春樹は「1984年」にこだわるのか。
それがジョージ・オーウェルが発明したビッグブラザーのように
人間を監視するシステムや組織の象徴記号だからだ。
精神的な囲い込みを象徴している記号が「1984」であり、
カルトに対抗する「深く広い心」を物語にするにふさわしい年号は「1Q84年」しかないのだ。

しかしこの1Q84の世界にはビッグブラザーはいなくて、リトルピープルがいる。
ただ大事なのは、神様があなたを見ているということだ。
誰もその目から逃れることは出来ない。
ビッグ・ブラザーはあなたを見ている。

リトルピープルもあなたを見ている。
月もあなたを見ているのだ。

しかし、この1Q84の世界では月はひとつではなく、ふたつある。
この世界の月は寡黙ではあるが、孤独ではない存在なのだ。

リトルピープルが月を二つに分つ。

「ドウタが目覚めたときには空の月が二つになる。それがしるしだぞ」

この長大な「1Q84」の物語は月が始まりで、
それが二つになり、やがて再び一つになる話なのだ。

天吾と青豆がすれ違うだけの元の世界の月はひとつで、

ふたりが運命を交差させる1Q84の世界では月はふたつになる。
いずれ、月は再び一つになるはずだ。

月をふたつに分つのがリトルピープルだとしたら、
ふたたびひとつに統合できるのは、どんな存在なのか?
見守り、預言者を操って指示をするだけの存在ではなく、
このふたつの月のある世界で、
実際に行動し、その世界を統合する存在とは何者なのか?
1Q84の謎は次第にそこに収斂していく。

その存在のヒントが、レシヴァにある。
神に選ばれたレシヴァの行動は「奇蹟」と呼ばれる。
奇蹟を行うことで民はレシヴァに従う。
つまり神の預言者であるレシヴァは奇蹟を行うことを運命的に求められる存在なのだ。
ではリトルピープルは、深田リーダーに対してどんな奇蹟を求めていたのだろうか?

仮にふかえりの書いた「空気さなぎ」がすべて真実だとして、

そこに記述してあることが教団の中で実際に行ったことだとする。
そこには、ひとつ重大な疑問がたち現れる。
空気さなぎからドウタふかえりがめをさます前に、
ふかえりは教団から逃げ出してしまう。

となると、「リーダーと多義的に交わったのは誰なのか?」という疑問だ。

リーダーはその「多義的に交わる」行為によって、レシヴァとして能力を開花する。
多義的な交わりなしに、リーダーの覚醒と教団の成長はあり得ない。
ではふかえりの脱走後にリーダーと交わり、
リトルピープルとの回路を広げた相手は誰なのか?
それがふかえりなのか、ドウタふかえりなのか、
1Q84の読者にはわからない。

小説「空気さなぎ」のラストもこの問題に触れて終わる。

「ときどき彼女にはわからなくなる。混乱が彼女をとらえる。
私は本当にマザなのだろうか。
私はどこかでドウタと入れ替わってしまったのではあるまいか」

果たして我々が深田夫婦の娘だと考えている「ふかえり」はマザなのか、
それとも緒方夫人のもとにきたつばさと同じくドウタなのか?

この謎を解く鍵は「オハライ」という行為にある。
東京にいるふかえりは、多義的に交わる行為を「オハライ」としているが、
それは過去の悲惨な出来事から学んだ結果として生み出された行為なのだと思われる。
小説「空気さなぎ」に登場する事件。
ふかえりが小学生のときに唯一友人になったクラスメイトのトオルを守れなかった悔恨が
リトルピープルに対抗する手段として「オハライ」を編み出した可能性は高い。

多義的な交わりについての青豆の推論がある。
「リーダーが性的関係を結んだのは、実体マザではなく、彼女たちの分身ドウタであると考えれば、
多義的に交わったという表現は腑に落ちる。
ただし、ドウタたちはリーダーの子供を受胎することを求めていたが、実体でない彼女たちに生理はない。
それでもなぜか彼女たちは受胎することを切に求めていた。なぜだろう?」

ドウタである彼女たちが受胎を求めていたのは、
それが達成されれば「奇蹟」になったからだ。
先に述べたように宗教集団において「奇蹟」は必須である。
深田リーダーが青豆の前で時計を動かして見せるのも奇蹟だが、
深田リーダーとドウタたちに課せられた奇蹟のレベルはより高次の奇蹟だった。
処女であるマザに「処女懐胎」させることが目的だったのだ。

ドウタはレシヴァと多義的に交わり、マザに神の子供の後継者を植え付ける。

イエスがマリアの「処女懐胎」で生まれたように、
ドウタたちは処女懐胎を望んでいたのだ。
ドウタの能力として、レシヴァと交わることで「他の女性に懐妊させることができる」とすれば、
ふかえりが新たなレシヴァである天吾と交わり、青豆を妊娠させる能力があったのはうなづける。

とするならば、このふかえりはドウタふかえりという考えにも及ぶ。
それを証明するかのごとく、このふかえりには生理がない。

生理のないドウタが交わり、何もしていない女性が妊娠すれば確かに奇蹟である。

1Q84における最大の謎は「処女懐胎」をめぐるものであり、
大きな秘密が青豆の妊娠には隠されている。
それについては後に考察したい。

村上春樹は初期において、世界と関わらないことを信条としていた。
しかし、ある時、世界に対してポジティブに興味を持ち、デタッチメントを開始した。
過去、村上春樹がデタッチメントしてきた事物は、
全共闘、オウム真理教、阪神淡路大震災、福島原子力発電所事故と並ぶ。
それをデタッチメントの時代と呼ぶ。
そして、その集大成として村上春樹は、1Q84で人類の根源的な問題を取り扱った。
すべてのデタッチメントの経験を踏まえて、変奏曲を奏でたのだ。

それは個人という弱い人間にとっては、宿命のような巨大なものに対する帰属意識に起因する
「精神的な囲い込み」を巡る問題であり、
「依存」という宗教の根源的な形を巡る問題でもある。
さらに過去「羊をめぐる物語」以降、何作かに渡って追い続けてきた
「邪悪なるモノ」を昇華させ、見事に変奏してみせた。

さて運命の一夜、4人はキーアクションを起こす。
彼らは彼らの世界で行動を起こし、
それぞれのキーアクションによって、デタッチするのだ。

リーダーが青豆に提案した交換条件は成立し、
天吾とふかえりはリトルピープルの危険から遠ざかり、
逆に青豆が教団から狙われる。
青豆は「10歳の時に捧げた愛」の運命に従って、
天吾を救い、自らは死を選ぶ。

「希望のあるところには必ず試練がある。
ただし希望の数は少なく、大方抽象的だが、
試練はいやというほどあって、おおかた具象的だ。」

この運命の夜から、天吾と青豆は具象的な試練に巻き込まれていく。
次の第4楽章では「ねじまき鳥クロニクル」を梃子にして、

試練に対抗する村上春樹らしい手段を解析してみよう。
1Q84 BOOK 2Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 2より
4103534230
No.757:
(4pt)

先が見えない不安と期待

BOOK1を読み終わったが、この本の全体像や着地点がまったくわからない。

と言ってけっしてつまらないわけではなく、
青豆と天吾の物語が、ゆっくりと微妙に交錯していく展開は、
非常に気になります。

先が見えない不安と期待とでも言うのでしょうか。

村上氏の本はほとんど読んだことがないですが、不思議な本だなという印象です。
1Q84 BOOK 1Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 1より
4103534222
No.756:
(4pt)

猫の町について

3部に渡る物語の中で、この2部は最も重要と呼ぶべき役割が与えられていると思う。その役割を担うのが表題に書いた「猫の町」である。作者はインタビューにおいて、この物語を自らの創作だと仰っているが、同時に以前に聞いたことのある話だとも仰っている。それもそのはずで、この物語に出てくる汽車は、紛れもなく宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくるあの列車であり、主人公が千倉へと赴く特別な列車なのである。
 この銀河鉄道、実は死者を運ぶ乗り物のように描かれていて、役割はスタジオ・ジブリの『千と千尋の神隠し』とも同じ、死地へと人を運ぶ、一方通行の鉄道である。この列車の乗客たちは、誰もが降車する駅を待っている。誰もに用意された駅の存在。暗い影のような乗客たち。そして、もう二度とその駅に列車は停車しない。
 空白はすでに、埋められているのである。そしてなぜ、猫なのか。
 倣っている作品としてはやはりホフマンの『牡猫ムルの人生観』であろうが、猫に関しては物語の内容ではなく、猫の持つ象徴性こそに意味があるのだと僕は思う。この物語は後代、様々に焼き直しされているけれども、日本では柊あおいさんの『バロン−猫の男爵』という物語が有名だろう。そして、この原作はジブリの『耳をすませば』という作品に出てくるフンベルト・フォン・ジッキンゲン男爵という牡猫人形になっている。
 千年続いた神聖ローマ帝国がナポレオンの侵攻によって崩壊すると、ドイツの没落貴族たちは、こぞって領地を競売にかける。大国に領地を買収され、その金で昔の夢を見続けようとする元君主や家臣団は、ホフマンの空想ではなく、実際に実在していたのである。黄昏た君主や家臣の会話は、やがて一般庶民化していき、彼等が否応なく一般庶民に地滑りしていく様子が物語では描写されているが、新しい時代を担う若者たちの向上心や、その無垢な努力に対し、もしも社会が虚ろな沈黙を続けているだけなのだとしたら。
 絶望、そして新しい時代へのあきらめが「猫」という象徴性に表れているように感じた。ペシミスティックな観想、そしてアイロニーはロマン主義の産物だと言われるが、やはり現代はまだそれを引きずっているのだろう。
1Q84 BOOK 2Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 2より
4103534230
No.755:
(1pt)

話題作なのに。

結論から言うとラノベや文学と数千冊読んできた中で話題作なのにトップクラスの期待ハズレでツマラナイ。

3部全て読みましたが文章表現は非常に読みやすく素晴らしいのですが、内容が全てを通して何をやりたいのかサッパリ判らなく、途中で読むのを止めようかと思ったぐらい苦痛だった。週刊誌に載っているような三文エロ小説、エロ漫画のような描写が無理やりあるし、「この説明って数十ページ前にもあったな」と似た説明文が2度、3度と繰り返される箇所も複数。

しかも異世界ではありながらファンタジーとはほど遠い内容。更にストーリーは殆ど進まないと思っていい。ほとんどが主人公たちが移動した先での脳内妄想を延々と書き綴っているだけで妄想ばかりで進展がない。結局は変な生物?の幻覚を見た、SEXしてないのに妊娠した、嵐は変な生き物?が怒っているなど陳腐で下らない設定ばかり。

結局、読者側は「はあ、そうっすか・・・」「ふ〜ん」で読み続けていくしかなく、最後には納得させてくれると期待しながらも最後まで全く説明不足で終わって「えっ?おわり?アレは何だったの?コレの説明はなし?」と思う事でしょう。

私は村上春樹氏が好きでもなく嫌いでもない。しかし誰がどんなに褒めようと、こんな駄作は絶対にお薦めはできない。
お金の無駄なのでどうしても読みたいなら図書館で借りる事をお薦めする。でも時間の無駄にはなる。ノーベル賞の落選は当然の結果でしょう。売れたから面白い、話題作だから面白いと絶対に言えない作品の1つ。
1Q84 BOOK 1Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 1より
4103534222
No.754:
(1pt)

誰が書いたんでしょう

20年以上村上さんファンです。
でもハードカバーが書店に並んだとき、全然ワクワクしませんでした。
ねじまき鳥を最後に、内向から外向へ変わって以来「薄っぺらい」からです。
ラノベ作家に転向したのでしょうか。
と思いつつも今度こそはと期待して一応読み続けてきたわけですが
あんのじょう以前の深みは皆無でした。
才能のない新人作家が村上さんの文体を真似て書いたんじゃないかと思うほど。

牛河さん以外の登場人物に何の魅力も引力もない。
精気のない年寄りが無理して恋愛小説を書くとこうなるという見本みたい。
村上さんはリアルな恋愛経験が無いんでしょうね。
他の方々も書いているように女性を描く力も無いので心に残るものが皆無です。
知らないことは書かなきゃいいのに。

以前の作品のように読み返そうという気にはなれません。
作家の本領を引き出せない編集者の責任も大きいと思いますよ。
1Q84 BOOK 3Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 3より
4103534257
No.753:
(4pt)

1Q84は画期的な本か?

1Q84の巻1は図書館で借りて読んだ。
続きが読みたくてネットで購入して、すぐに読んだ。
面白いが?の印象だ。
1Q84 BOOK 2Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 2より
4103534230
No.752:
(4pt)

1Q84って何だ?

村上春樹の1Q84ga書店に平積みされている間は
買わなかった。今回、読んでみたがこれは、平成の
ドストエフスキー的な物語ですね。
評価は難しいな!
1Q84 BOOK 3Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 3より
4103534257
No.751:
(4pt)

空気さなぎとエアーギターって似て非なるものだよね

古典的なファンタジーの時代設定が書かれた当時のものであったように、1Q84もまた現代のファンタジーとして読み手を引きつけます。
著者の作品にはFFVIIを初めてプレイした時のような新鮮さがあります。
新興宗教に関してはアンダーグラウンドというノンフィクションを書かれているのでそれを参考にされると何か感じるかもしれません。
1Q84 BOOK 2Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 2より
4103534230
No.750:
(1pt)

的確な批評を紹介

「大量生産本を書きまくってるカリスマ先生、そして、この手の本を律儀に買ってるご熱心な信者の愛読者さん、少しはまともに、ものを考えてくださいね。 なんか、羊の群れ的で、民度があまりにも低すぎません?」

上記は、ある村上かぶれの自称3/4カップ・バイリンガルの女性(おめでたいことに御自分が思っているほど文学的才能も語学能力もない)が他の著者の本を批評した内容です。
村上の、この本に、そのままあてはまりそうで、おもしろいですね。
1Q84 BOOK 1Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 1より
4103534222
No.749:
(2pt)

商業的小説家に成り下がった村上さんはキライ

不要かつ稚拙な性描写。情緒の欠片もなく……
いつから、村上春樹はこんなくだらない商業的小説家に成り下がったのだろうと
本当にがっかりです。
無駄に長編。
まさかの、全6巻!!!!
ページ総数で同程度の
ねじまき鳥は、全3巻(部)。

鼠三部作やねじまき鳥といった、かつての作品と比べると
なんだこの小説はといわざるをえないというのが正直なところ……。

ほんとうに、ほんとーに残念な小説です。★ふたつ!
1Q84 BOOK 1Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 1より
4103534222
No.748:
(1pt)

何が面白いのかさっぱり。

一応Book1からBook3まで読みました。
凄く時間を無駄遣いした気がする。
宙ぶらりんのまま終わってしまい、何が言いたいのか分からない作品。
私には独りよがりな作品にしか思えなかった。。
なんでこれがベストセラーなんだろう??????

性描写は不必要だし不愉快。
結局ふかえりは何だったのか。
リトルピープルとは何だったのか。
天吾の父親の生霊?かと思われるNHKの集金人。まったく無意味。何のために出て来たのか理解出来ず。
作者はNHKに恨みでもあるのか?
登場人物のほとんどが意味の無いものに感じられるほど、放り投げられっぱなし。
青豆の妊娠のくだりには笑ってしまった・・・。父親が天吾だと悟ったとか・・・強引過ぎ。

この作品を読んで一番不快だったのは、牛河の扱い。ひど過ぎる。なぜ人殺しの青豆を守るために彼が殺されなければならないのか。
青豆にそんな価値はあるか?彼の死に青豆が無反応なのにも、読んでてむかむかした。
殺されるほどの事を彼はしていないのに、あまりにも理不尽!!!!!
ここだけ取ってみても、「面白い」という人達の気が知れません。

読み終わった後に残ったのは、不快感と嫌悪感、「・・・・・で、何?」という感想だった・・・。
1Q84 BOOK 3Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 3より
4103534257
No.747:
(5pt)

面白い

村上春樹の本は、いつも、脚本が面白い。作品の構成がしっかりしていて、読みやすい。
1Q84 BOOK 1Amazon書評・レビュー:1Q84 BOOK 1より
4103534222

スポンサードリンク

  



新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!