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(短編集)
メルカトル悪人狩り
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メルカトル悪人狩りの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.71pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全14件 1~14 1/1ページ
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論理の飛躍や証拠の確実性を「メルカトルだから正しいと保証」 で強引に押し切るのがこの著者のパターンですが、 今作はそれでカバーできないほど曖昧な部分,疑問点が多かったと思いました。 | ||||
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評価がまっぷたつ。 これぞ本格、という気がする。 メルカトル鮎が気に入るかどうかもポイントなのかな。私は好きですが… | ||||
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Amazonのおすすめは絶対に信用しないと思える本だった。 | ||||
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またも新しい試みに満ち満ちた短編集。 前作「かく語りき」は「ミステリとして成立しそうに見せかけてギリギリのところで蹴飛ばす」という趣向が通底していたが、今作では「(探偵が化け物すぎて)ミステリとして成立しなそうに見せてギリギリのところで成立させる」というテーマを感じた。 どのエピソードも、筋立てだけならまっとうな本格ミステリなのだが、メルカトルというキャラが超自然現象すれすれのパワーで事件に干渉した結果どう面白くなるのかを追求しており、完成度は前作をはるかに上回る。試みの方向性は同著者の「さよなら、神様」にやや近いが、こちらの神様は主役だし、積極的に動きまくる。 白眉はやはり最後の「メルカトル式捜査」。殺人が起きるまでに美袋が感じる戸惑いが我々読者にもたっぷり伝わってきて、それらすべてが収束する解決編はその意外性、論理展開、真犯人指弾の演出ともに極上。やはり麻耶雄嵩は唯一無二のミステリ作家だ。 | ||||
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アリスは面白いですね | ||||
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メルカトル鮎は初見です。初見でこのタイプが許せる人ならハマると思いますが、メルカトル鮎の存在(推理)を許せないとものすごくツマラナイと感じると思います。 | ||||
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久しぶりにメルカトル鮎が読めてうれしい。 どの短編もハイクオリティで、特に『囁くもの』『メルカトル・ナイト』『メルカトル式捜査法』はどれも銘探偵メルカトル鮎でないとできない話ばかりで大満足だった。 今年の本格ミステリは豊作だ。 | ||||
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久々のメルカトルシリーズ、短編集で他のオムニバス本で既に読んでいたものもありましたが、一冊にまとまると、メルカトルの(いろんな意味で)凄さと美袋くんのヘタレ加減がよくわかる一冊でした。 | ||||
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. 麻耶雄嵩については、デビュー作からのつきあいだが、全作品を読んでいるというわけではない。 デビュー作『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』の初読時の感想は「なんだこれ?」で、変な作家が出てきたな、という以上のものではなかった。しかし、次の長編『夏と冬の奏鳴曲』については、作者が何をしたのか、したかったのかが理解できなかったものの、何かをしているというのはハッキリとわかったので、それが読み解けない自分が歯がゆく、ずっと「いつか解読してやる」と引っかかり続けてきた。 その後の作品も、読んだり読まなかったりだったが、『神様ゲーム』には衝撃を受けた。まさか「ミステリ」に「本物の神様」を登場させるなんて、そんなのありなのかという驚きだったが、しかし、それは痛快な驚きだった。とても私好みの「常道からの外し方」だったのである。 これも、まったくたまたまなのだが、麻耶雄嵩ともミステリとも関係のない動機で、私は「宗教」の研究を始め、その手始めとして、「聖書」の通読から初めて、「キリスト教」の本をあれこれ読んだ。 すると、麻耶雄嵩の作品は「キリスト教」的な概念への言及が多いことに気づいた。「あれっ、麻耶雄嵩って、もしかしてクリスチャン?」。 一一そう言えば、京都大学ミステリ研究会の会誌『蒼鴉城』に掲載された、『翼ある闇』の原型作品のタイトルは『メサイア』(メシア=救世主)ではなかったか。 しかし、麻耶作品は「正統的なキリスト教」のものではなく、その世界に満ちている「聖霊」は、邪悪なもの(闇=見通せない〝気〟)であった。それは、人間に対して、とても意地の悪い「神」であり、言うなれば「邪悪な神」である。 となると、この世界観は「グノーシス主義」的なものなのではないか、と考えた。『神様ゲーム』の「神様」からして、まさにそうではないか。 . 『グノーシス主義には様々なバリエーションがあるものの、一般的に認められるのは、「反宇宙的二元論」と呼ばれる世界観である。 反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという思想あるいは実存の立場である。言い換えれば、現在、我々が生きているこの世界を悪の宇宙、あるいは狂った世界と見て、原初には真の至高神が創造した善の宇宙があったと捉える。 グノーシスの神話では、原初の世界は、至高神の創造した充溢(プレーローマ)の世界である。しかし至高神の神性(アイオーン)のひとつであるソフィア(知恵)は、その持てる力を発揮しようとして、ヤルダバオートあるいはデミウルゴスと呼ばれる狂った神を作った。ヤルダバオートは自らの出自を忘却しており、自らのほかに神はないという認識を有している。 グノーシスの神話では、このヤルダバオートの作り出した世界こそが、我々の生きているこの世界である、と捉えられる。』 (Wikipedia『グノーシス主義』・「反宇宙的二元論」の項より) つまり、「リアルな世界(の現実)」を論理的に理解しようとした場合、「神義論」的に見て、この世界は「正統キリスト教の神=愛の神」が創ったとは、とうてい信じられないという人たちが、今も昔も少なくなかった。常識的・論理的に見て、「この世界」を創った神とは、実は「邪悪な神」なのではないか、と考えた人がいても、なんの不思議もないのである。 今なら「もともと神なんて(善なる神も悪なる神も)いない」とか「もともと、この世界に善悪などない。それは進化論的できあがった、種の保存のための特殊な本能的フィクションだ」と考える人も出てくるが、昔のことだから「なんらかの神はいる」という前提で、「この世界」の現実を「論理的」に説明しようとしたために、「邪悪な神」なんてことを考えなくてはならなかったのである。 ○ ○ ○ さて、「宗教」談義はこれくらいにして、本書『メルカトル悪人狩り』について考えてみよう。 本作には、8本の掌・短編が収められているが、いかにも「メルカトル鮎もの」らしい「変な作品」が多い。 何が変なのかと言えば、メルが露骨に「神がかり」なのである。作品の中で、思わせぶりに暗示されるのだが、メルの言動には「事件が起こる前から、結果を知っていた」かのようなところがあり、その点で、当たり前のミステリ読者を困惑させ、その神経を逆撫でする。 その典型的な作品が、本作品集の掉尾を飾る「メルカトル式捜査法」で、この作品はキリスト教の「予定説」のごとく「原因と結果が転倒している」のだが、そこがいかにもメルカトル鮎らしくて、ユニークなのだ。 しかし、これをどう理解すればいいのだろう。 例えば、メルに「囁くもの」が「ヤルダバオート(デミウルゴス)の神」であり、メルの「叡智」とは「グノーシス」だと考えたら、つじつまが合うと言うか、「合理的」に「論理的」なのではないか。つまり、メルとは、「作中世界」に「神から遣わされたメシア=救済者」である。だから彼には「父=神」の声が聞こえるのだ。 無論、われわれの世界における「リアリズム」的に「そんなこと、あり得ない」という意味では、メルの住む世界は確かに「非合理的」ではあるけれども、そもそも「小説の中の世界」が、私たちの「現実世界」と同じでなければならないという道理も義理もない。要は「その世界」の中で、ロジック(論理)が一貫してさえいれば、それは「合理的」なのだ。(だからこそ、ゾンビが登場する本格ミステリだって成立するのである) そもそも「本格ミステリ」の「世界」とは、狭隘な「お約束」の世界であり、言うなれば「ロジックのファンタジーランド」である。だからこそ「後期クイーン的問題」なんてことも、問題になり得る。 「作中の世界」の外に特権的な「現実の世界(私たち読者の世界)」は存在せず、「作中人物」たちは「自由意志」で「生きて活動している」ことになっている。言い換えれば、「作品の世界」の外に「創造神としての作者」など、存在しないことになっている。それを認めてしまったら、突然、名探偵が空を飛ぼうが、犯人は分裂して100人になろうが、壁抜けをしようが、何でもありだから、「ミステリにおける、自己完結的な形式論理」性が保てなくなってしまうのだ。 しかし、「作品の外の作者」を認めてしまえば、「ミステリにおける形式論理」は成立しなくなるけれども、論理的な「小説」が成立しなくなるわけではない。いわゆる「メタフィクション」と言われる作品は、「作品の外」の「存在」を、なんらかのかたちで認めた(開かれた)上で、現に破綻なく成立している。 だから、ミステリが「リアルな論理性」にこだわるのであれば、「ミステリにおける形式論理」を否定することは、造作もないことだ。もともと無理のある「お約束の世界における形式論理」だったのだから、例えば「作者という神」の存在を認めた上での「論理的なミステリ」が書かれても、それはそれで、まさしく現実的に「論理的なミステリ」なのである。 言うまでもなく「作中探偵のメルカトル鮎」は、「作者という神」の要請にしたがって行動しており、ただ、その事実を「お約束」破りにも「隠さない」という点が特殊なだけで、それ以外の「内実」は、普通の「名探偵」と何も変わらない。 つまり、メルカトル鮎が、事件の起こる前から「事件の真相」を知っているかのように振る舞うのは、事実「知らされている」からなのである。名探偵も、被害者も、その他の脇役も、実はみんな、「作者」が「あらかじめ決めた」とおりに動くのが、「本格ミステリ」だからだ。 そうした意味で、麻耶雄嵩のミステリとは(アンチではなく)「メタ本格ミステリ」であると言えるだろう。少しひねくれてはいるものの、「本格ミステリ」が好きだからこそ「誤魔化さずに、その真相を明らかにしたい」。だから「名探偵は、論理的に正解にたどりつくのではない。あらかじめ決められたシナリオのロジックを忠実になぞっているだけだ。だが、それが面白いんだろ?」と、「本格ミステリ」の「お約束」をバラしてしまう。これは「好きすぎて、解剖せずにはいられない」といった感覚・衝動なのかもしれない。 ただ、私としては、麻耶雄嵩のこうした「特異性」を「本格ミステリへの逆説的な愛」のかたちだなどと、きれいごとに回収したくはない。 やはり、そこには独特の「歪み」があるし、その作中に「キリスト教的形象」が多用されるのも、単なる「趣味」だとは思わない。つまり、「この世界」の人間である麻耶雄嵩には、「この世界」らしい、なんらかの人間的背景があるはずだと、私はそう推測するのである。 したがって私は、その「作品」を通じて、麻耶雄嵩という「人間」を腑分けしてみたい。 「作品論」でもなければ、ましてや「ミステリ論」などでもない、「作家論」を書きたいと思っているのである。 一一無論、それはまだまだ先の話ではあるにしても。 . | ||||
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待ちに待ったメルカトルシリーズ。短編集です。メルカトル鮎が物語にいる時点で既に面白いですよね、ファンとしては。 マメに雑誌などをチェックする質ではないし、本来短編集などというのはそういうものなのかもしれませんが、他のアンソロジーで読んだことのある物語もありましたし、2〜3ページで終わる話も2つほどありましたが、、まあ、どういう形であれこのシリーズがこうやって続いてくれるのは嬉しい限りです。 | ||||
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「わたしは長編には向かない探偵なんだよ」とうそぶく名(銘)探偵:メルカトル鮎シリーズの短編集。 前作の「メルカトルかく語りき」は、推理の曖昧性と名(銘)探偵の絶対性をテーマとしつつも、前者により重きが置かれているように思えたが、本作品集は後者により重きを置いていると感じた。 いずれにしても、本格ミステリ好きなら必読の書ではなかろうか。 「愛護精神」 :短編としても短めで、ミステリの濃度も低め。 むしろ眼目は、やる気のなかったメルが急に捜査に乗りだした理由だろうか。 とはいえ、メルの得た役得は読者からすれば明らか。 なのに、「いまだに判らない」と述懐する美袋は、そうとうな鈍感かお人よしだろう。 それとも、「本格ミステリの探偵は女性に興味がない」という固定観念に縛られているのかしらん。 「水曜日と金曜日が嫌い」 :道具立てからみて、「黒死館殺人事件」を意識していると思われる。 入り組んだ謎が提出されるが、説かれない謎があるのと犯人が意外というより唐突なのが残念。 「不要不急」 :非ミステリ作品。 コロナ禍の今、メルは五重塔の木造模型を完成させることに集中している。 「自筆調書」 :非ミステリ作品。 「なぜ、屋敷で殺人が起こるのか」、その理由をメルが語る。 「囁くもの」 :お屋敷で起こる殺人事件を、メルがまさに快刀乱麻を断つごとく解決する。 細かな手がかりをつなぎ合わせ、犯人を限定していく推理の過程はさすがのテクニック。 それに加え、そもそもなぜ犯人を特定できるのかという、ある種のご都合主義ともいえる本格ミステリ の構造に疑問を投げかけるラストが印象深い。 「メルカトル・ナイト」 :殺されるかもと怯える依頼人の宿泊するホテルに泊まりこむメルと美袋。 だが、翌朝、依頼人は死体で発見されてしまう。 メルカトル鮎というキャラクターを生かした捻りのあるプロットが冴えている。 タイトルのダブルミーニングも上手い。 「天女五衰」 :別荘で起こる殺人事件を、これまたメルがまさに快刀乱麻を断つごとく解決する。 不可思議な状況を簡潔に説明する手際はさすが。 本作では、探偵の行動が人の死を左右しているのではないか、という問題提起を投げかけている。 「メルカトル式捜査法」 :これまた別荘で起きる殺人事件。 メルは、或る前提に立って、推理を展開する。 その前提を使用する推理法は、寡聞にして前例を知らない。 本書の説明文にあるとおり、まさしく「独自の論理」である。 また、この論理が意表を突くだけにとどまらず、それによって紡がれる推理が魅力的であるところが素 晴らしい。 さらに言えば、本作の前に3編を配することで、プロットに説得力を増す効果を発揮させているあたり も周到。 ただし、この推理法は一度きりしか使えないのではなかろうか。繰り返し使用すると、単なるご都合 主義と批判されかねないからだ。 いわば禁じ手ではあるが、それに踏み込んでしまった氏が、今後いかにして本格ミステリを追求して いくのか、楽しみでならない。 | ||||
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※以下の内容には【ネタバレ】が含まれる可能性があります かなりクセの強い作品で,銘探偵メルカトルの傲慢キャラは珍しくないのですが, 彼に見えている世界が,こちらにはどうにも見えず,なぜその推理が,閃きがなど, もちろん,最後には解決編がありますが,認識の共有ができていないような感覚です. また,彼だから解けた,防げたばかりでなく,彼が居たからこそ事件が起きたと, あれこれと超越した存在のような,謎や事件にまで傲慢な様子に最後までなじめず, これはもう,メルカトルのメルカトルぶりを理解,楽しむ作品なのではと感じました. このほか,こちらもそういう作風なのか,消化不良に終わるやり取りや設定の多さ, 今ひとつ要領を得ないたとえなど,残念ながら自分には合わず,楽しめませんでした. | ||||
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愛護精神 水曜日と金曜日が嫌い 不要不急 名探偵の自筆調書 囁くもの メルカトル・ナイト 天女五衰 メルカトル式操作法 8篇収録。 中には2頁で終わる作品も収められていたりして、各作品とも味が出ている。銘探偵メルカトル鮎の傲慢性と超越性が巧く表現されており、メルカトル鮎好きには堪らない一冊かな、と。 | ||||
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喜べ!みんな大好き麻耶雄嵩、みんな大好きメルカトルの10年ぶりの新刊だ!! 注: みんなというのは一部の本格ミステリマニアのことです… 入手を諦めていた「愛護精神」「自筆調書」も入った、デビュー30周年に相応しい短編集!いかにもメルカトル初期作品という感じで、メルカトルと美袋のための殺人を彷彿とさせる。最近は少し穏やかになった(そうでもないか)美袋の受難が心地よく、初めて読む読者もとっつきやすいだろう。 そして本番は「囁くもの」から始まる4連作、そして大トリ「メルカトル式捜査法」…! この4連作はメルカトルが「ある特殊な行動をする」シリーズなのだが、正直、自分は最初はそこまで新規性があるとも思っていなかった。似たような発想のミステリもあるにはあったからだ。それに、「メルカトルならこのくらいのことはできても不思議ではない」とも思ってしまっていた。 だが「メルカトル式捜査法」ですべてがひっくり返された。初読時はさっぱり意味がわからなかったが、繰り返し読むことでようやく「囁くもの」の正体がわかり、この作品の評価が物凄く上がった。 おそらく、初読時に分かった気分になったとしたら(たとえば、無意識にメルカトルが事件を解決するように行動していた、というような解釈)、それは誤りである。 是非、メルカトルの推理の根拠がなかった場合に何が起きたのか、メルカトルが今回のような特殊な推理をしなかった時に何が起きるはずだったのかをよく考えて欲しい。最終作だけ、構造がまるで違うのだ。 そして、おそらくほとんどの読者が、初読時には「メルカトル式捜査法」を馬鹿馬鹿しいと感じるだろう。自分もそうだった。だが、このメルカトル式捜査法は、強烈な問題提起なのである。本当に我々はメルカトル式捜査法と今まで無縁に生きてきただろうか??少なくとも私は違う。この作品の意図に気付いた時、本当に頭をバットで殴られたような気がした。 私は、今後「メルカトル式捜査法」という言葉が、ミステリ界の辞書に載って、一般的な用語としてファンの間で用いられるようになってもおかしくないと思うし、ミステリファンでこの作品を読んでいないということはあり得ない作品になるのではないか、と思う。とりあえず、好き嫌い問わずミステリファンであれば読んでおくべき作品であることは間違いない。 麻耶雄嵩はたった1人で30年にわたり「探偵のあり方」「後期クイーン的問題」などに問題意識を持って取り組み、最近では若手のミステリ作家も似たような作品を書くことも増えてきた。 だが、麻耶雄嵩はやはり独自の問題意識を持ち続け、まったく違うアプローチから傑作を完成させた。 王道を極め続けた麻耶雄嵩にしか投げられない強烈な変化球であり、真にクリエイティブで歴史を変えるミステリとは、本作のようなものだろうと思う。 | ||||
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