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野火
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野火の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.47pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全88件 41~60 3/5ページ
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私の好きな歌手の愛読書ということで、大岡昇平氏の本を初めて読ませていただきました。戦争が題材ということで覚悟して読み始めましたが、人食いなどがリアルに書かれていて、とても衝撃的でした。戦争文学の代表的作品として、これからも語り継ぐべき作品だと思います。 | ||||
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日本への帰国者のほとんどが人肉を口にしていたという。 彼らは社会にも家族にも絶対秘密にして口封じをして一生涯を閉じた。 著者はその人肉の実態を小説形式で精緻に描く。 敗残兵が手りゅう弾による自爆を選ばず生き残る選択をする。 最大の難敵は敵兵ではなく飢餓である。 そのために同僚を撃ち殺し猿の肉として食する。 人間ではなく猿だからとの自己暗示で彼の贖罪意識は救われる。 人肉を食しなければ餓死する状況で、人肉で生き延びた人を責められるのか。 法律は平時のもので戦時には適用外である。 殺人が正当化される状況で敵兵の肉を食べるのは不道徳か。 また同僚の死体を食べのは不謹慎か。 問題なのは同僚を殺して食することである。 戦時においても殺人罪が適用されるのではないか。 著者によれば人肉は美味しかったという。 同僚で殺し合いをする前に原住民や敵兵を襲って殺して食することはなかったのか。 極限の飢餓の中で人肉で生き延びるのが正義か、人肉を食しないで餓死するのが正義か。 著者は前者が正義とする。 人肉は戦争では避けて通れない道である。 誰もがその議論を忌避するが広範な討論が必要である。 | ||||
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ラジオ放送でこの作品を映画化した監督のお話を聞き、読んでみたくなって注文しました。戦場というものがいかに過酷であるか、改めて感じさせられた一作でした。 | ||||
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核心部が再現不能なほどスプラッタであり、にもかかわらず復員後が描かれた塚本版の忠実さに驚く。 | ||||
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塚本晋也が監督した映画版がとても衝撃的で、原作を読み返したくなりKindleで購入しました。 私は30代で、はじめて本作を読んだのは大学時代でした。当時は、人肉食の問題や戦後のトラウマを扱った後半部のインパクトが強かったのですが、いま読み返してみると、主人公の田村一等兵が「不要物」として軍隊を追放される前半部が印象に残ります。 本作は戦争文学に分類されますが、そもそも既に戦争の体を成していない状況から始まります。「戦争」と言いながら、敵との戦いや争いはほとんど描かれません。作戦は存在せず、組織の命令系統は完全に崩壊していて、極度に腹を空かした男たちが食糧を求めている「だけ」です。 肺病を患った田村は、中隊からも病院からも見捨てられて、熱帯の広大な原野にひとり放たれます。六本の芋を手にして、彼はあてもなくさまよいます(と、書くのは不正確で、彼には死という明確な「あて」があります)。 「名状し難いものが私を駆っていた。行く手に死と惨禍のほか何もないのは、既に明らかであったが、熱帯の野の人知れぬ一隅で死に絶えるまでも、最後の息を引き取るその瞬間まで、私自身の孤独と絶望を見究めようという、暗い好奇心かも知れなかった。」(前半部より) 戦争を描くというよりも、共同体に棄てられた人間の行く末を描いているのがこの小説なのかもしれません。国家に棄てられ、仲間に棄てられ、神に棄てられる。そんな状態に陥った者はどんな人間性(または非人間性)を見せるのか・・ そして、「戦争を描くというよりも」と書いた上の段落に自分でツッコミを入れると、むしろこの「共同体が個人を見捨てる」ことが、辞書的な意味ではすくい取れない、戦争の本質なのだと思いました。 「若者を戦争に行かせる国」はコワいかもしれませんが、もっとコワいのは、共同体の存続を目的とする戦争は、若者だろうが何だろうがその成員を見捨てる、という社会的/精神的な暴力性かもしれません。野火を読み返して、物理的な暴力や飢餓と同じくらい、この暴力性に恐怖を感じました。 | ||||
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こんな目に合わない人生がいい 馬鹿なプロパガンダに気を付けて生きよう | ||||
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若い頃から読まねばならない本と認識していたのに、今回、手にするまでに長い期間が経過してしまったのが、『野火』(大岡昇平著、新潮文庫)である。 この本の凄まじさは、この箇所を読めば明らかとなる。「私はなんの反省もなく食べている。しかもそれは私が一番自分に禁じていた、動物の肉である。肉はうまかった。その固さを、自分ながら弱くなったのに驚く歯でしがみながら、何かが私に加わり、同時に別の何かが失われて行くようであった。私の左右の半身は、飽満して合わさった。私の質問する眼に対し、(戦友の)永松は横を向いて答えた。『猿の肉さ』『猿?』『こないだ、あっちの森で射った奴を、干しといたんだ』」。 「日が暮れ、焚火の火の赤さが増した。(戦友の)安田と永松はそれぞれ雑嚢から、猿の干肉を出し、火の上に載せた。安田は一枚、永松は二枚出した。そのうち一枚は私の分であった」。 「私は銃声のした方へ駈けて行った。林が疎らに、河原が見渡せるところへ出た。一個の人影がその日向を駈けていた。髪を乱した、裸足の人間であった。緑色の軍服を着た日本兵であった。それは永松ではなかった。銃声がまた響いた。弾は外れたらしく、人影はなおも駈け続けた。振返りながらどんどん駈けて、やがて弾が届かない自信を得たか、歩行に返った。そして十分延ばした背中をゆっくり運んで、一つの林に入ってしまった。これが『猿』であった。私はそれを予期していた。かつて私が切断された足首を見た河原へ、私は歩み出した。萱の間で臭気が高くなった。そして私は一つの場所に多くの足首を見た。足首ばかりではなかった。その他人間の肢体の中で、食用の見地から不用な、あらゆる部分が、切って棄てられてあった。陽にあぶられ、雨に浸されて、思う存分に変形した、それら物体の累積を、叙述する筆を私は持たない」。 敗残兵となった著者のフィリピン・レイテ島での戦争体験が赤裸々に綴られているが、私の鼻にも強い臭気が沁み込んできたので、書き抜くのはここまでとする。 これが戦争の厳しい現実である。戦争ができる国へ向けてひた走る我が国の国民一人ひとりが手にすべき書である。 | ||||
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戦争の準備の必要を煽る風潮が強まる中、又愚かな戦争をしないため。 命令で死地に行くことを強制された徴用兵たちの見た地獄、捕虜になる前に死を選ぶことを天皇の名において徹底した帝国陸海軍、責任を取らない戦争指導者、、、 これらを忘れてはいけないと改めて思いました。 | ||||
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フィリピンでの、日本軍の敗残兵の彷徨について、生々しく語られている。 病に冒されている主人公の「私」は、所属部隊と粗末な野戦病院とのあいだを往復する。 どちらからも、役立たない、あるいは食料がないという理由によって、追い払われるからである。 敗残兵の彼らは、心身ともに傷つき、飢餓状態に陥っている。 米軍の砲撃や空襲、ゲリラの攻撃を恐れながら、ジャングルのなかをさまよっている。 戦友の屍が累々と横たわる、ジャングルのなかの、あてのない道を歩むほかない。 しかも、饑餓どころか、蠅や蛆虫、蛭が体にはりつき、少しずつ自身が食べられているのである。 現地人の畑から、芋などの食料を奪う。 しかし、それも、すぐに難しくなる。 そのため、自生する草なら、虫が食べたあとがあれば毒がないので、口に入れる。 さらに、自らの体に張りつき吸血する蛭さえ、体からはがして、口のなかに放り込む。 最後は、傷つき、死が目前に迫る戦友同士が、互いを食しようとするのである。 「俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」と言って、死んでいく者がいる。 肉が切り取られた痕跡を、散乱する屍にみることも少なくない。 あるときは、切り取られた体の一部が積み重ねられていることを目にする。 こうして、「私」は、戦友を食べるかどうかという極限の問いのまえに、煩悶する。 このように、本書では、激烈な疑似体験が与えられる。 瞠目するほかない。 ページをめくる手が震える。 奇跡的に帰還した「私」は、次のように述べる。 「この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別にして、再び彼等に欺されたいらしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかあるまい。その時彼等は思い知るであろう。」(195ページ) この言葉に続いて、このレビューのタイトルとして引用したように述べる。 「戦争を知らない人間は、半分は子どもである」(同)と。 「戦争を知らない人間」は、一人前ではないのである。 この作品が発表されたのは、昭和27年/1952年である。 敗戦から6年5ヶ月後に発表されている。 それでも、「戦争をさせようとしている」兆候が感じられたと述べている。 また、それに「欺されたいらしい人達」もいたことが確認できるようである。 短期間で、戦争体験は忘れられるのであろうか。 それとも、語りたくない悲惨な体験は、語られないのであろうか。 今年は、戦後70年である。 「半分は子ども」のような、一人前ではない「戦争を知らない人間」ばかりになっている。 戦争についての濃密な語りに耳を傾けるべきである。 そのためにこそ、本書を読むべきである。 | ||||
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大岡昇平が、自らの戦争体験を基に極限状態に追い詰められた人間を描いた、戦争文学の代表作。終戦間もない1951年に発表されている。 舞台は第二次大戦末期のフィリピンのレイテ島。主人公は、結核を患って所属部隊を追われ、ジャングルを彷徨うが、途中で出会った敗残兵は空爆、飢餓、病気で次々と倒れていく。そして、食料欲しさに現地人の女を撃ち殺し、遂に、再会した戦友から与えられた「猿の肉」を食べることになる。。。 記憶喪失の状態で復員した主人公が、精神病院で次第に識別と記憶を取り戻していき、医師から療法のひとつとして勧められて綴った戦地での体験は壮絶なものであった。 そして、レイテでの体験を書き終えた主人公は、家族と普通の生活を送ることを拒否し、「朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。(中略)戦争を知らない人間は、半分は子供である。」と語る。 ロラン・バルトは、「文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる」と説いたが、私は本作品のメッセージを、極限状態に置かれた人間の生に執着する逞しさとして捉えることはしない。 先の戦争が生んだ悲劇・惨劇は、南方や沖縄での地上戦、広島・長崎への原爆投下、終戦間際の特攻隊、戦後のシベリア抑留など、最前線における敵との殺し合いに留まらないものであるが、その極限状態のひとつとも言える地獄絵図を描き出した本作品は、多くの人に読まれるべきものと思う。 (2008年7月了) | ||||
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『野火』の映画を見るに辺り、まず原作を読んでみたいと思い買いました。映画の予告などできっとすごい描写で悲惨なのだろうと予想しながら読みましたが、思っていたよりもすごい内容でした。映画も原作もたくさんの人が読むべき、見るべきと痛切に感じました。 | ||||
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これはとても良い先品です。 最後まで飽きずに読みました。 読み応えがあり、最後まで一気に読みました。 | ||||
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ここに書かれていることを知ったならば、二度と戦場に市井の人々を送り出すまいと思うのが本当の政治家ではないのか。過った歴史を繰り返してはならない。 | ||||
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久しぶりに再読しましたが、名作です。 朝日新聞に漱石の作品が掲載されていますが、この時代にはこういう戦争の過酷さを描いた作品を朝日新聞に掲載して、多くの人に読んでもらうべきだと思います。大岡昇平はすごい作家ですね。 | ||||
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手持ちカメラで映したかのリアルな描写が続く。 しかしある程度エンターテイメント性も持っていて、 読む者を飽きさせない。 戦争文学の不朽の名作。 | ||||
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レイテ島でアメリカ軍と泥沼化した戦いによる飢餓のために人肉を食すかどうか、という話ですね。日本兵は大戦中に兵站を疎かにして殆ど現地調達という形で食糧を確保していたらしいです。戦争末期になると(レイテ島の戦いは終盤ですね)アメリカ軍が島を包囲し、もともと少なかった輸送船の支給は絶えて、日本兵は現地の住民から略奪して糊塗をしのいでいたらしいです。それが戦争末期にフィリピン人が日本兵に敵対するようになった理由でしょうか。間違ってること書いてたらすいません…。で、この主人公が敵だらけの島の中で極限に飢え、どこまで己の倫理・宗教が現実に耐えられうるか、また哲学的成分も含みつつ、試されていきます。この手記は、自分がまだまだ未熟なのでその深みを知ることができませんでした。何度も読み返してみたい本です。 | ||||
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大岡氏の正確な文体、知的な処理、そして誠実な姿勢がそこかしこから感じられる。 戦争文学でなく、なにか精神彷徨の文学と思える。と考えるのは私だけでしょうか? | ||||
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うーん。何とも言えん。 私も病人だが、あそこまで生きれるだろうか。 どうして主人公は、あそこまで生きれたんだろうか。 | ||||
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壮絶な世界。経験したもの、当事者でしか書けない事を、如何しても書かずにおれずに、書いた。戦争とはこういう理不尽をしいるもの。私たち、非体験者は想像を最大限に働かせて追体験すべきである。以下に為政者が勇ましいことを囁いて、あるいは声だかに嘘を並べても、当時者の体験を消すことはできない。平和憲法を泣きものにしようという企みが、公然と進められている今、若い方にこそ読んでいただきたい。 | ||||
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私はこの小説の文体が好きです。一つの自分の作品が、同じ理由で褒められたり貶されたりすれば、作品がうまくいったなと思う、と安部公房が講演の中で言っていました。大岡昇平の文体もそうでは。 | ||||
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