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今昔百鬼拾遺 天狗
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今昔百鬼拾遺 天狗の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.71pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全14件 1~14 1/1ページ
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読む前は、横溝正史風地方の伝習がらみ、だけど天狗伝説についての講釈をのせて、 かと思ったけれど、ほとんどおどろおどろしくなく、あっさり目。 構成のバランスに疑問あり。冒頭、それから後からも時々出る フェミニズム的スピーチが多すぎ。スピーチというのは不正確だけど、 主要人物がしきりに主張することには、そういう言説は フェミニズム関連としてはもっと後の時期になってから 流布していたのでは?と思われる部分がある。それをオリジナルのものとして 述べるほどの人物としては設定されてないようだし〜 ミステリとしての解決部分は、逆に軽すぎ。 星3.7くらいと感じましたが、四捨五入。 | ||||
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陰陽師、京極堂こと中禅寺夏彦の妹君、敦子女史が 怪事件を追う! んだけれど兄貴が出張ったら、数ページで片が付きそうな? そこがいいんじゃな~い!って言える人は楽しく読める! 3レーベルの内では老舗の新潮文庫。 だけあってか?真っ当に謎解き? と思いきや、美由紀の現代(当時の)人離れした言動や思考、行動。 実は戦後の焼け跡に舞い降りた"未来人"? ぐらいに考えないとオハナシに付いていけませんでした。 PS:3冊揃って"紙の本"で楽しませてもらいましたが ほかのレヴューを見てkindle版検索してみれば・・・ ううぅ鬱!美しくない! | ||||
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良い状態でした。 | ||||
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面白かったです。 | ||||
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. 「被害者の服装」が謎解きのポイントとなる「本格ミステリ」作品は、決して少なくない。本作においても、前半はそうした「謎解き」興味で引っぱりはするものの、しかしこれは、本筋ではない。と言うのも、後で被害関係者が増えていくからで、これは「本格ミステリ」としては、あまりスマートなものとは言えないからだ。 しかしまた、前作『今昔百鬼拾遺 河童』においても明らかなように、著者・京極夏彦の興味は、すでにそんなところにはない。と言うか、デビュー当時から、そんなところには無かった。 彼の興味は、いつでも「憑き物」を呼び寄せてしまう、「人の心」という不可解で理不尽なものに向っていたのではないだろうか。いつの世にも人の心に憑いているそうした「憑き物」を落とすために、彼は小説というかたちでの、言葉による「呪」を放っているのではないだろうか。 そんなわけで、本作のテーマは「偏見」である。 「偏見はいけません」「差別はいけません」という話なら、誰でもいちおうは理解しているつもりであろう。だが、事はそんなに簡単なものではない。なぜなら、「偏見」というものは、その人に憑いて、その人の一部になっているのだから、それを認識することは極めて困難だからだ。 誰が、自分の身体の一部だと感じているものを、「偏見」だと思うだろうか。その目が、その脳が、その心臓が、その右腕が「偏見」であろう可能性を、考慮などできようか。そんなことは普通できないのだ。 だから人は、「私は偏見を持っている。偏見とは、私のおぞましい一部分である」とでも思わないかぎり、決して「偏見の存在」と向き合うことはできない。 言い変えれば、自分には「偏見が無い」とか「ほとんど無い」などと思っていること自体が、自身に対する「偏見」であり、「偏見はいけません」「差別はいけません」と言われて「そんなこと、わかっている」と思う人は、自己過信という意味において、自身に「偏見」を持っている。 「偏見」の難しさとは、それが「他人」に対するものには止まらず、何よりも「自分」自身に対するものだからなのだ。 本作においては、篠村美弥子によって、胸のすくような「偏見」批判がなされる。それに拍手喝采をおくる読者は少なくなかろう。 しかし、中禅寺敦子の「偏見」に対する懊悩は、もっとリアルである。それは「偏見」を我がことと捉え、はたして「偏見無くして、思考があり得るのか」と考えているからである。そもそも「この世界に、アプリオリな意味はあるのか。根源的な正邪善悪はあるのか。無ければ、どうすればいいのか」と。 偏見批判くらいなら、この作品以前にも多くの作品で語られている。有名作例としては、例えば、島崎藤村の『破壊』があり、住井すゑの『橋のない川』があり、大西巨人の『神聖喜劇』もそうであろうし、中上健次の作品の多くもそうであろう。しかし、そうしたものがあっても、「偏見」や「差別」が無くなりはしなかったし、これからも無くなりはしないだろう。 本作において、中禅寺敦子や篠村美弥子、あるいは呉美由紀が、いかに切実に「偏見」を告発しても、それを「他人事」として読み、拍手喝采を送って「娯楽として消費する」だけの読者が大半なのだと、私にはそう思えるのだが、果たしてこれは、悲観的に過ぎようか。 多くの人は、作中にも描かれたような「度しがたい偏見の持ち主」と、直接対峙したことなどないはずだ。 例えば、ネット上に掃いて捨てるほど存在する「差別主義者」や「ネット右翼」に対して、「それは間違っていますよ」と直接批判した人など、ほぼいないのではないか。いたとしても、その「お話しにならない、度し難さ」に辟易して、二度と相手になどすまいと考え、あとは当人たちのいないところで「あいつらはクズだ」と吐き捨てるように言うだけだろう。 たしかに彼らは「クズ」だ。だが、「紙くず」でも「ゴミくず」でもなく、「人間のクズ」なのだから、彼らを「紙くず」や「ゴミくず」扱いにすることもまた、「偏見」なのである。 だが、それを反省する人は少ない。なぜなら、彼らのような「度しがたい」人間は、同じ「人間」ではなく、いっそ焼却処分にしても良いような、単なる「ゴミくず」だと考えた方が、気が休まるからである。そうした「偏見」を持っている方が、楽だからだ。つまり、自身が「天狗(もどき)」になるのである。 「偏見」とはもともと、同じ「人間」であると認めたくない人間を、「別物」扱いにすることなのだ。それを「神様」扱いにするのも、「ごみクズ」扱いにするのも、どちらにしろ「偏見」なのである。 こうした、人間における根源的な「呪い」に対して、京極夏彦は「言葉という呪」を用いて抵抗する。 この世は、まさに「百鬼夜行」であり、そこかしこに「偏見」という「化け物」が蔓延っているのだが、それに抵抗するのは「理性の言葉」しかない。 京極夏彦における「呪」としての「理性の言葉」とは、畢竟「人間に対する、祈り」なのではないだろうか。 なんど苦虫を噛み潰そうと、それでも「人間に絶望しない」。そうした、自分自身に対する「呪」なのではないだろうか。 . | ||||
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「京極堂」の妹・敦子が探偵役で女学生の美由紀がワトソン役のシリーズ。「河童」「鬼」ときて今度は「天狗」。森見登美彦の小説だと、天狗は威張ってばかりで何もできない、滑稽な老人として描かれるのだが、ここではそれに加えて残虐な一面を見せる。 高尾山での連続失踪事件および自殺を天狗のしわざではないかという噂が立つ。昭和の、戦後10年にもなろうとする時期に天狗などいるのか、という疑問を持ちながら美由紀は「お嬢様」である美弥子の話を聞く。相変わらずああでもないこうでもないと考えがまとまらないのだが、中禅寺敦子の登場により少しずつ事件の詳細が明らかになっていく。そこには、「家」の制度に縛られた哀れな男の醜い姿が隠されていた。 男女平等、自由恋愛、LGBTなど現在でも難しい要素と向かい合いながら敦子と美由紀は旧弊に挑む。半世紀以上昔の話だと思う人が多いと思うが、核家族化の進んだ都会ではどうだか知らないが、田舎では「家」に固執する人々がまだまだ健在なのだ。おそらく、そうした人々にはLGBTなど理解しようという気持ちもないだろう。そんな息苦しい地域に住んでいたいという人は少ないはずだ。だから、次々と都会へ人口が流出する。古い因習と概念に縛られた地域はやがて消滅していく運命にあるのではないだろうか。 | ||||
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ともかく、京極堂の世界が読めるんだから、それで満足! 出来れば、もっと長い話のほうが嬉しいですけど。 | ||||
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話の展開上、仕方ないんですけれど、令和の今だからこそ「多様性を受け入れよう」という 議論がなされていると思うのです、そんな話を戦後間もない人たちに熱く語らせる部分が 多くてちょっと驚きました。 ミステリとして考えればよいできですし、小説としても面白い、シリーズものの流れの中 でも満足するレベルです。 しかし冒頭に書いたようなことがちょっと煩く感じてしまい……妖怪の蘊蓄なら慣れている んですが、こういうのはちょっと、と思いました。 ところで、美由紀さんがパワーアップしているのがなかなかよいです。 今回登場した美弥子さんが女榎木津なら、美由紀さんは女木場修というところでしょうか。 しかしJK(?)なのに事件に遭遇しすぎだろ……と思っていましたが、今回は探偵事務所 から始まっているので、まあいいのかな。 | ||||
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美由紀と敦子コンビの妖怪ミステリ第三弾だ。 是枝美智栄が登山中に行方不明になった。 二か月後に発見された別の女性の死体は、なぜか美智栄の衣服をまとっていた。 さらにある問題で家族と争っていた少女の縊死体が見つかる。若い女性の失踪と殺人を巡って謎が錯綜する。 今回は当たりだ。お嬢様美弥子と美由紀の掛け合いが楽しい。 殺人と衣服交換はなぜ、どのタイミングでおこなわれたのかという謎も魅力的だ。 動機が唖然とするほどひどいのだが、妙に納得させられる。ありそうなところが嫌だ。 女性探偵チームの啖呵が小気味いい。私も自分の価値観を押し付けるヤカラは大嫌いだから、大いに溜飲が下がった。ネタバレ回避のため書けないが、「日本人は××だ」というのは、押しつけがましいだけでなく間違っている。 ××でない人のほうが多かったんだぞ。 | ||||
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今読了。今回は話の展開よりも、敦子と篠村美弥子の、時代の男女論とか天狗になる男とかの考察がそれぞれのキャラをがっつり出しながら長く書かれてます。まあ伏線ではあるのですが… 悲しいけど読んでよかったです | ||||
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物語の内容そのものは良いのです。 講談社の「鬼」も、角川の「河童」もkindle版がありましたが、新潮社はkindle版無し? 講談社や角川には出来ることが新潮社にはできないのでありましょうか? 紙の本は否定しないが、電子書籍で買いたい読者もいるってことを新潮社は受けとめてほしい。 | ||||
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敦子&美由紀コンビの最終作。 高尾山で起きた女性失踪事件。この女性の友人で代議士の娘、篠村美弥子が薔薇十字探偵社で美由紀と知り合い 敦子、青木刑事らと謎を探っていく。 今現在の日本でも取り上げられる「性的少数者」が今回のキーワード。 それに「家」「血筋」という古き因習。 今作は動機があり犯人がいて所謂殺人事件。 美弥子が高慢に、敦子が冷静に、そして美由紀がキレる。3人のバランスが最も好い感じ。 「鳴釜」のお嬢様、篠村美弥子が格好良い!なんだか榎木津に近いかな。 同じく「鳴釜」のおかまの金ちゃんも出てくれてる。 益田、鳥口も出て、やっぱりこの人たちの物語をたくさん読みたいと強く願いました。 | ||||
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今回は青木刑事と鳥口が出てくる。知ってる人が揃うのは嬉しい。 中禅寺敦子の語り口も堂に入ってきているし、前二作に比べて読み応え がある。一番「百鬼夜行シリーズ」っぽい。 呉美由紀が啖呵を切って収束、というのがこのシリーズのお約束なのか、 今回も同様。 でもどんどんシリーズとしては面白くなってきていると思う。 今後このシリーズが出るのかは分からないが、刊行されたら買うだろう。 本作の登場人物の中にはまた会えるとは思っていなかった人物も登場するので お楽しみに。 | ||||
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「鬼」、「河童」に続く「敦子」三部作の最終作。本作も美由紀とのコンビである。また、美由紀が薔薇十字探偵社で遭遇した美弥子という"お嬢様"(薔薇十字探偵社シリーズ中に登場、本当に使い回しが上手い)も主要登場人物。私は「鬼」をプチ「京極堂」シリーズの様で味気ないと評し、更に、「河童」をユーモア小説の趣きが濃いと評したが、本作は中々手応えがある。そして、本作を特徴付けているのは美弥子の過剰な理屈っぽさである(榎木津には理屈はないが、過剰な理屈っぽさも同様の効果を産む事が分かる)。要は美弥子の友人の是枝が高尾山で行方不明になってしまい、巷間、「天狗」の仕業という噂が立ったというのが骨子である。加えて、後日、是枝の服装をした別の女性が迦葉山(「天狗」伝説あり)で自殺したという状況もある。しかし、このお陰で、是枝が気付かれずに下山した方法が類推出来る様になったが、行方不明の動機は相変わらず謎である。 更に、敦子の調査で是枝が行方不明になった日、別の女性が高尾山で自殺し、この女性と迦葉山で自殺した女性とが恋人同士だった事が分かる。前二作より手が込んでいる。それともLGBT問題の風潮に乗ったのか ? 妖異譚・怪異譚と言うよりは社会談義である。冒頭から、美由紀と美弥子の殆どの問答が高尾山の"落とし穴"の中で行なわれている(即ち、二人こそ窮地に陥っている)のだから可笑しく、漫才コンビの様である。そして、敦子が更にもたらす情報が事件を錯綜させる。同性愛が事件の中核になっている事は明白だが、冷静に見て(常識として)、全てを説明出来る解は見出せなかった。 実際の解は現代では通用せず、戦争直後だからこそ通用する杜撰なもの(荒技)だが、「家」の狂気、謎と伏線の提示及び社会問題の扱いを巧みに混淆した秀作で、三部作の掉尾を飾るに相応しい作品だと思った。 | ||||
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