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死霊
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死霊の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.24pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全55件 41~55 3/3ページ
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私が、かつて、小学生だった頃に思考(妄想?)していた内容が、全てではないが、ある程度、書かれている。(何故ある程度かという理由は、この作品が未完で終わってしまったから。) ただ、私と埴谷雄高の大きな違いは、私がそれを文章に、物語にしなかったのに対して、埴谷雄高はそれを自身の想像力を大変に駆使して、一つの世界を築き上げたところにある。 一見、小難しいことを議論しているように思えるが、答えは、意外と、簡単で身近である。 <3>で「無出現の思索者」が現れたときなどには、やはり彼も同じことを考えていたのだなぁと、思わず、微笑んでしまった。 余談だが、講談社文芸文庫の装丁に関して。この装丁は無限ループ(<1>の黄色が<2>の「講談社文芸文庫」のシンボルマーク「鯨」の色に、そして<2>の紫が<3>の「鯨」の色に、<3>の緑が<1>の「鯨」の色に)というふうになっており、この物語が未完であるが故になされた装丁なのだろう。そう考えると何度も読み返せる作品だと言うことが出来るだろう。 追記:後日、私の思考は、「無出現の思索者」を出て「憎悪のソウゾウに潜む亡霊」に到った。 | ||||
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黙狂の矢場徹吾と異母兄弟の首猛夫がこの『死霊』のテーマを語り始めました。3巻で愁いの王の三輪与志が加わってそれをまとめあげるんですがここまで来る布石の長いこと。時間の経過をみると数日の間の出来事なんですがね。私は一巻の必要性を疑っています。しかし読みではあります。 この著者の問題点は1センテンスが妙に長いこと、著者のイメージによる造語の適切不適切によって話の流れが所々阻害されている点です。他の本にも言えることなんですけどね。それを我慢できれば十分楽しめる内容です。面白いです。 | ||||
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埴谷雄高の韜晦癖に包まれた文章は、文学史の表舞台に登場することはない様に思う。だが、かつてのサドやバタイユなどの作品はけっして表舞台を闊歩することがなかったが、脈々と読み継ぎられてきたことに親和性を憶える。小説「死霊」は壮大なる構想力をもって書かれた物語で、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に対峙するかのごとく政治・思想・宗教などまさに世界観・人間観そのものが刻々と描かれている。未完に終わった本書が文庫で読める日が来るとは、著者自身想像だにしなかったのではなかろうか。しかし、文庫を寝転がって、「死霊」を読みうる構図に、神は細部に宿り給うのだと思わずにはいられない。 | ||||
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この巻は全編白い霧、暗い闇と不透明な靄がかかった背景に包まれている。夏の明るい日差しの下、透明な川の流れに身を任せて主人公を取り巻く人物達が喋り捲る場面さえ、暗い影を感じる。ことに高志が語る過去の同士への制裁、明らかにされる死者の影、付きまとう夢魔の場面はモノクロームの中に閉ざされて読んでいて湿り気さえ感じる。 暗い印象の背景に反して、始終議論に興じている首猛夫やお喋りで作者に翻弄されている読者の代表のような津田夫人はともかく、高志・与志の兄弟を始め、与志の婚約者安寿子や寡黙な黒川までがよく喋る。登場人物が各々の思いを抱えて明らかにしようと会話が進むため、死霊(1)に比べて物語が解り易く面白い。(1)で尻込みしてしまった人にもお勧め。 | ||||
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この作品は三度読みました。一度目・二度目は途中挫折。三度目は、大西巨人の『深淵』を読んだ勢いで読みました。 論理的思考のぎりぎりの果てまで頭を巡らせ、且つ、自分にあるだけの想像力を駆使して、何とか。この作品だけは是が非でも読了せねばと、半ば自分課せられた使命のような気持ちでした。 内容は極めて面白く、極めて訳がわからなくなる、希に見る作品です。要するに、この作品で感じ、考えた事は、如何に自分が論理的思考以外の物を排除出来るかと言うことであり、論理的思考の果てにある宇宙が「虚体」なのだろうということです。考えに考え抜いたその考えは、実は実体が無いとするのではなく、物理的質量に変換すると言う試み。狂気の沙汰であり、傑作です。 | ||||
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20世紀最後の世界に誇る日本文学と言ってよい傑作。 著者がかたくなに文庫化を拒否していたのがわかる。 (S・キューブリックもビデオで見た奴はコメント禁止と 言っていたが)。文体は極めて独特(ドストエフスキーに似ている) かつどこを読んでもハッとさせられる。 解釈がいくつもわかれそうな議題がマシンガンのように繰り出され 読者はその議題に対し、ヒントを得るようなことがあれば あなたの「力」は一段上がっただろう。 | ||||
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だらだらわけのわからない、議論を続け、周りはうす気味悪いこと 限りなしの「死霊」。家に帰った三輪与志は瀕死の兄と対面する。 兄は息絶え絶えの中、悪魔との対話を語る。 その悪魔の捕らえ方が面白い。フッと首を横向けただけで つかまるんだとか(笑)。人のやることを3倍の速度でこなしてきた 首猛夫。(くびったけ、埴谷はドストエフスキーに影響されだじゃれか 当て字のような名前を好んだ)主人公の与志はほとんど喋らない。 話はどこへ進むのか?ここまで読み出したら止まらない。 あなたはもう普通の小説では満足できなくなっているだろう。 | ||||
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Ⅰ・Ⅱを読んだ読者に本書の解説は無用だろう。最後の審判は釈迦とキリストを断罪した、新しい「生命倫理」の話。論理は極めて明快。釈迦のチーナカ豆とキリストの喰った魚と生まれずに死した胎児との対話は今世紀に語り継がれるべき問題であろう。さて、半世紀に渡って書き継がれた死霊は「完結」したのだろうか。Ⅰのはしがきでは「釈迦と大雄の対話」がクライマックスとして描かれる、とある。作者は遅筆であったから残念ながら、不本意の未完と言えるだろう。(死後、「群像」に発表された断章は本巻には収録されていない)しかし、はっきりいえることがひとつ。完結したと思える(思いたい)のは三輪与志と津田安寿子の「愛の物語」であろう。寡黙な与志を安寿子はひたすら理解しようとつとめる、そして第9章で(ネタばらしはしない)その結末は迎えるが、私としてはそれで納得の行く終わり方だと思った。埴谷の与えた課題は私達に引き継がれた。 | ||||
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この作品の1ページ目を開けるとそこには、いきなり爆弾が仕掛けられており、作者である埴谷氏と同じ種類の病気を持ってしまっている読者はもろに被爆してしまうこととなります。以下「自序」における最初の一段落です。 「ここにやっと序曲のみまとまったこの作品について、その意図を述べるつもりはない。けれども、この作品が非現実の場所を選んだ理由については一応触れておきたい。開巻冒頭にこの世界にあり得ぬ永久運動の時計台を掲げたのは、nowhere, nobodyの場所から出発したかったためであり、また、そのような小さな実験室を設定することなしにこの作品は一歩も踏み出し得なかったのだから。」 「nowhere, nobodyの場所」・・・。埴谷氏は神でさえ創造し得なかったところの「無」を「未存在宇宙」、「虚体」、「のっぺらぼう」などという独特の表象形態を伴う概念を導入しながら、決して存在し得ない場所における物語をでっちあげてしまいました。もし人類がこれまでに行った手品、魔術の中でもっとも奇抜なものを挙げてくださいと火星人に脅されたら、私は迷わずこの埴谷雄高氏が作り上げたこの「死霊」を差し出します。これは誰でも読めるという代物ではなく、埴谷さんと同じ病気を持った人しか読めないような本ですので、以上の最初の一段落を読んで「あいたたた~」とやられてしまった人だけ購読をお勧めします。 | ||||
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最初に書かれている「自序」からちょっと構えてしまいました。ここに書かれていることを理解しえないで、先に読み進めていいものだろうかという躊躇がしばし頭を掠めました。が、冒頭から癲狂院という場面が登場するものの、展開に興味を持って読めます。 作品が書かれた年代からは当然ですが、私にとっては難解な漢字・表現が多く吟味して読むのに時間がかかりました。登場人物の語る場面が多い文章は、一つの舞台を観ているようです。知らず物語に引き込まれ、自分の居場所を見失うような気分になりました。 ここでは「普通の人」は、登場人物にはなり得ないように思います。皆一癖あり、その性格設定に考えさせられました。主人公の三輪与志は、癲狂院での精神病医との議論以外自身では多くを語りません。彼の求める「虚体」が、何か他の人物によってやり取りされますが、その実態が何かを次に読み進めていきたいと思います。 | ||||
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『死霊』は、ストーリー性ではなく、思想に注目して読む小説である。こう記すと、小説にストーリーを求めない矛盾した読書に陥る危険性を予感させてしまうであろう。もしかしたら、それは或る意味に於いて真実なのかもしれない。しかし、たとえ思想の内容がよく分からなくとも、この物語は登場人物達が醸し出す雰囲気と言うか、オーラが、むせ返るバラの香りの如く、芳しく漂うてくる書物なのである。それに触れた時、読者は摩訶不思議な世界へと誘われ……。 | ||||
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埴谷は好きだけれども、どうしてもドストエフスキーの模倣が多い気がしてたまらない。(勿論埴谷独自の部分もあるけれども)三輪家が象徴としてある。=カラマーゾフ家。両家の父は放蕩者で隠し子がいるところおまけに4兄弟!!≪最後の審判≫と大審問官の酷似。ブントでの殺人・・・といたるところにありますが、これらは埴谷が意図的にドストエフスキーとの対決の為に用いたということにもなるんでしょうけれども、僕の読みが浅いせいかそう感じられない部分もある。なんだかんだ言ったけれども埴谷最高!! | ||||
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この作品の1ページ目を開けるとそこには、いきなり爆弾が仕掛けられており、作者である埴谷氏と同じ種類の病気を持ってしまっている読者はもろに被爆してしまうこととなります。以下「自序」における最初の一段落です。 「ここにやっと序曲のみまとまったこの作品について、その意図を述べるつもりはない。けれども、この作品が非現実の場所を選んだ理由については一応触れておきたい。開巻冒頭にこの世界にあり得ぬ永久運動の時計台を掲げたのは、nowhere, nobodyの場所から出発したかったためであり、また、そのような小さな実験室を設定することなしにこの作品は一歩も踏み出し得なかったのだから。」 「nowhere, nobodyの場所」・・・。埴谷氏は神でさえ創造し得なかったところの「無」を「未存在宇宙」、「虚体」、「のっぺらぼう」などという独特の表象形態を伴う概念を導入しながら、決して存在し得ない場所における物語をでっちあげてしまいました。もし人類がこれまでに行った手品、魔術の中でもっとも奇抜なものを挙げてくださいと火星人に脅されたら、私は迷わずこの埴谷雄高氏が作り上げたこの「死霊」を差し出します。これは誰でも読めるという代物ではなく、埴谷さんと同じ病気を持った人しか読めないような本ですので、以上の最初の一段落を読んで「あいたたた~」とやられてしまった人だけ購読をお勧めします。 | ||||
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未完に終わった『死霊』ですが、もう続きが書かれない以上、完結した作品と 考えて読んだ方が良いでしょう。ドストエフスキーの『悪霊』の影響を強く受けながらも、独自の埴谷美学とでもいった奇怪な観念に彩られたこの作品は、他に類のない小説としていつまでも読み継がれるはずです。 | ||||
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食う食われるに対して改めて考えるキッカケになりました。蝿、蚊などを安易に殺さなくなった自分がそこにいました。全ての生き物が意識を持っていると実感した時、ジャイナ教の思想の断片を辛うじて理解出来るのではないでしょうか。 | ||||
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