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死霊
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死霊の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.24pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全10件 1~10 1/1ページ
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仰天するほどつまらないですね。ドストエフスキーのことに『悪霊』をオマージュというのかインスパイアというのか、遠景において造り成されたものらしいですが。つまらない、というと理解力が及ばないだけだろうと憤慨した方や、せせら笑う方もいらっしゃるでしょうが、それに反駁するつもりは毛頭ありません。ただし、貶しているわけではありません。おもしろくない、という言い方に語弊があるとすれば、こう言い換えましょうか。物語のおもしろさ、活き活きとした躍動感、喜怒哀楽を織りなす彩り、それらが悉く抜かれてあると。喩えれば、臀部のあたる部分が鋭角になった椅子といったところか。読み手も坐り難いが、第一の読み手となり、より深く坐ることとなる本人はより辛いことだろうと推察します。だからこそ、永年かかったわけで、完結しなかった(可能性がある)のだろうと思われますが。それでいて、読めないわけではないんですよね。そう苦痛ではない。退屈ではありますが。退屈であるためか、どうしてここまで書けるのか、いや、書かざるを得ないからやむを得ずでしかあり得ませんが、それはなぜだろう。作者本人に意識がむきます。登場人物らにでなしに。もしかしたら、今までにない画期的なものを造り成されたのかもしれませんね。私が似かよったものとと連想したのは『正法眼蔵』でした。 | ||||
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精神病院で変な人達が衒学的な持論を戦わせる という物語の枠は夢野久作の『ドグラマグラ』の影響も大きいと思うのだが あまり強調されることがないよう思う。 自分を意識する自分という問題意識も似ておりもっと影響が語られるべきかと思う。 話もそれなりには面白いが、色んな面で独創性には乏しい。 観念論も古臭く、かつ与太話以上の説得力は皆無。 やっぱりイマイチだよなぁ。 | ||||
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ぷふい、この「死霊」は埴谷雄高の代表作。著者はドストエフスキーから多大な影響を受けてこの作品を書いている。いわゆる著者のいう思索実験小説である。一般には哲学小説、形而上学小説とも称されている。書かれた内容は難解といわれ、はっは、読了者より挫折者のほうが多いのではないだろうか。 ふむ、しかし第七章のいかれっぷりは凄いものがあります。ほほう、著者曰く「意識=存在」というのだから著者にとっては実在する宇宙なのだろう。あっは、この巻は前巻よりも読みやすい文章ではなかろうか。この小説は全三巻で各巻には三章分が収録されている。 第七章は、李奉洋の印刷工場にて。津田夫人と娘の津田安寿子、岸博士、三輪与志、黒川健吉、首猛夫、痴呆少女「神様」。津田夫人と岸博士ら三輪与志の口論、黙狂の矢場徹吾のこと、宇宙者、岸博士と首猛夫の口論。首猛夫による三輪家の暗い秘密の暴露……、 首猛夫による三輪家の暗い秘密の暴露とは……、 行方不明の矢場徹吾の消息は如何に……、 矢場徹吾が語る最後の言葉とは……、 第八章は、首猛夫と別れた六人(津田夫人と娘の津田安寿子、岸博士、三輪与志、黒川健吉、痴呆少女「神様」)は矢場徹吾を探す為に津田夫人を残して印刷工場の暗黒の地下室へ……、李奉洋との対話、黒川健吉によって津田安寿子に三輪与志の虚体論と「無限大の道」が語られる。そして、津田安寿子と尾木恒子の対話、人類の死滅、虚体、虚在、夢幻劇ふうな風景……、 第九章は、津田安寿子の誕生祝い、ここでも語られるのは虚体論、宇宙者、岸博士と首猛夫の口論……、果て知れぬ巨大なのっぺらぼうの顔を果て知れぬ巨大な掌が撫でるとどうなるのか? ふむ、私の読後感は、「最後の審判」はカラマーゾフの劣化版という感じで、いまひとつパンチが無い。単に食物連鎖上での食されるプランクトンや魚らの食すものたちへの「生物殺し」という嘆きや怨みの呪詛で終わっている。「死霊」の登場人物はどれも似たようなタイプの人物ばかりでそれぞれの個性が書き分けられていないように思う。津田安寿子には色気も感じることはできなかった。ほほう、P282に「虚体」とカントのいう「物自体」なのだろうか、その違いが語られるのだが、ちょっ!、私には「物自体」を突き飛ばして「虚体」がその場に居座っただけのようにしか思えないのだが……、肉体的老化は思想的老化にも影響するものなのか、もう少し早く、「死霊」を書き上げていれば内容ももう少し違ったものになったのだろうか?……、ぷふい おお、亡者たちよ。 存在の約束のすべてからまったく離れてしまった亡霊たちよ。 おまえたちはもはや裏切られることも、 裁かれることもまたもはやない。 | ||||
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ぷふい、この「死霊」は埴谷雄高の代表作。著者はドストエフスキーから多大な影響を受けてこの作品を書いている。いわゆる著者のいう思索実験小説である。一般には哲学小説、形而上学小説とも称されている。書かれた内容は難解といわれ、はっは、読了者より挫折者のほうが多いのではないだろうか。 ふむ、私の読後感は、難解とは書かれた内容が難解なのではなく、文章が読者泣かせな不親切な文章でわかりにくいと思った。まず時間系列がメチャクチャなのである。ぷふい、そして状況描写が下手糞で、著者は読みやすいように配慮してくれていない不親切な文章といえる。これまで、まともに読まれていない小説なのではないだろうか。私は、この小説の矛盾さに、ちょっ!、ちょっ!、ちょっ!、の連続だったのだから……、 この小説は全三巻で各巻には三章分が収録されている。 第一章の冒頭は、三輪与志が瘋癲病院を訪れるシーンからはじまる。この冒頭はなにやら「罪と罰」に似てなくもないように思えるのだが。三輪与志は親友の矢場徹吾のことで瘋癲病院を訪れる。そのあとに三輪与志と矢場徹吾との関係と過去の回想が描かれ、矢場徹吾の謎の失踪、三輪与志と兄・三輪高志との関係、祖母の死、瘋癲病院での三輪与志と矢場徹吾の再会、若い医師岸博士、痴呆の姉妹の少女、時計台、永久運動、幽霊屋敷、論文の観念、現実、自殺、虚体、人間は何をなし得るか、自己証明、創造、神、老守衛の登場ののち、三輪与志と矢場徹吾との再会が描かれる。 私は、最初に矢場徹吾が狂人で首猛夫と名乗っているのかと誤読したのだが、津田安寿子の登場もいつ病院に来ていたのかわかりにくい。津田安寿子は首猛夫の婚約者か、痴呆の姉妹の少女たちのあだ名「神様」「ねんね」もどちらがどれか、よく注意しないとほんとにわかりにくいのである。 第二章の冒頭は、三輪家と津田家の関係、三輪与志と津田安寿子の婚約、三輪与志と津田安寿子の動物園へデート、アシカを一時間見て終わりというデートに安寿子の母親が激怒し、津田夫婦の喧嘩から、津田夫人は深夜に三輪宅へ行き、玄関での口論が描かれる。私は第一章の過去が書かれているのかと読んでいたら、いつの間にか第一章ののちの話になっているのはビックリしたのであるが、津田康造と首猛夫の出会い、人類の運命、首猛夫が津田夫人に三輪与志とは精神病院で出会ったことを話すので現代の話になっている。話は、津田康造と津田夫人の問答、津田夫人の三輪与志への不満、首猛夫の囚人生活、悪魔はいるか問答から中世の話、首猛夫の謎かけ、津田夫人の墓参、墓地での津田老人と或る男の話、津田夫人と安寿子の幽霊の話など。 第三章の冒頭は、「この屋根裏部屋へ黒川健吉が移ってきてから、既に数年たった。」とあり、いつから、数年なのか? ほんとに不親切な文章であるが、黒川健吉の部屋の様子と生活状況が描かれる。朝鮮人から黒川健吉の部屋に鬼が出ると聞かされた、或る夏の夕方、何かの気配を感じた黒川健吉の頬はひきつった……ぷふい、出たーっ、ちょっ!、ちょっ!……、何が出たかは本を読んでのお楽しみである。 あっは、そのあとに黒川健吉の部屋に首猛夫が訪ねて来て、二人の問答がはじまる、はっは、それから宗教の話、目的の変更、新たな形而上学が可能、宇宙の破壊予言、三輪与志の虚体論の話、妄想の話、そして首猛夫が去り三輪与志が黒川健吉の部屋に訪ねて来て、矢場徹吾の話になる。ちょっ!、ちょっ!、ちょっ!、痴呆少女「ねんね」が淫売婦だと……、ぷふい。 あっは、さて読者は各章の時間系列がわかっただろうか。ふむ、私の読みだと、第二章の前半→第一章の過去回想→第一章の前半と後半→第二章の後半に、第三章は第一章の過去回想の数年後の話で黒川健吉の部屋に首猛夫や三輪与志が訪ねて来るので第一章の前半と後半ののち、第二章の後半の前後の話ということになるのだろうか。 はっは、とまあ読者泣かせの小説ではある。ぷふい。 誤記? P244 医しがたい習性→癒しがたい習性 P248 神はいまさなかった→神はいなさらなかった | ||||
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ぷふい、この「死霊」は埴谷雄高の代表作。著者はドストエフスキーから多大な影響を受けてこの作品を書いている。いわゆる著者のいう思索実験小説である。一般には哲学小説、形而上学小説とも称されている。書かれた内容は難解といわれ、はっは、読了者より挫折者のほうが多いのではないだろうか。 ふむ、しかし第五章のいかれっぷりは凄いものがあります。ほほう、著者曰く「意識=存在」というのだから著者にとっては実在する宇宙なのだろう。あっは、著者は読みやすいように配慮してくれていないので、まあまあまあ、ひたすらに読む以外に、この小説の読了の術(すべ)はないのだろう……、 第四章は、第三章のあとの三輪与志が黒川健吉と別れての霧のかかった夜の散歩のなかで首猛夫と津田康造の幻聴を聴き、二つの影と三輪与志は革命についての問答をする。そのあと影は消え、三輪与志は深い霧の中でいろいろな不思議な光景を幻視する。三輪与志は或る部屋に入るとそこには二十一二の少女がいる。二十一二を少女というか疑問であるが、二人は知り合いで死んだ祖母や兄のことについて会話する。少女は保母をしていて話は仕事、隣人、彼女の死んだ姉、そして与志の兄高志のことになる。少女、尾木恒子の姉と高志は過去に深い仲であったことが語られる……、 第五章は、三輪与志の真夜中の帰宅、不眠症で夜中じゅう起きている高志、魔の扉を開けると首猛夫の登場、幽霊の世界の話、高志との自由意志における自殺、子供の生産、革命、真の革命家とは?、生と宇宙、意識と存在、遍在する光の王国、三つの存在の窮極の秘密、意識=存在、自同律の不快、自分自身、のっぺらぼう……、高志の長い物語が語られる……、 第六章は、寝台の三輪与志、夢魔の登場、来客の岸博士、盗まれた矢場徹吾探し。黒川健吉と痴呆少女「神様」とのボート乗り、首猛夫の登場、矢場徹吾の居所、宇宙史、津田夫人と娘の津田安寿子の登場、5人を乗せたボートは××橋へ。愁い王、非在の王、宇宙のはじめ、夢見る宇宙、沈むボート、巨大な白いセイウチのような女王の津田夫人、5人は印刷工場へ。印刷工場の李奉洋、矢場徹吾を探して印刷工場へ駆けつける三輪与志と岸博士……、 ちょっ!、ちょっ!、ちょっ!、行方不明の矢場徹吾の消息は如何に……、ぷふい | ||||
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普段あまり読まないタイプの本なので買いました。評価しづらい。 | ||||
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たまには普段読まないタイプの本も読もうと読みました。評価しづらいです。 | ||||
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言語に対する偏愛的執着、ドストエフスキー好き、観念好き、独善性、これらの傾向はみな詩人の資質であり、それとロシア革命前期の白手袋にシルクハットのナロードニキの混合が埴谷雄高氏の文学的イメージである。わたしは氏を称えているのではない。胡散臭いといっているのだ。 明治生まれには案外とこの型の作家が多い。空回りの大家という意味だが、代表は西の横綱が稲垣足穂氏であり、東はこの埴谷雄高氏であろう。前頭筆頭は云わずと知れた三島由紀夫氏である。だからけっして埴谷氏はマジメにうけとるべき作家ではなく、たのしく読めばそれでいいのだ。じっさいわたしは約四十年間、時々取り出してはたのしくこの小説を読ませて頂いている。昔はハードカバーしかなく重たくて苦労したものである。今はこの文庫があるから寝っ転って読める。文庫化してくれた講談社に心から感謝しております。 似たような小説に松永 延造氏の「夢を喰う人」 というのがある。大正期だがたいへんブリリアントな作品である。「死霊」が好きなひとにはぜひ一読をお勧めしたい。 | ||||
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今まであるはずのない「虚体」という概念を追い求めて、 壮大な形而上学を展開した思想小説。 それぞれの人物が何か一つの概念の小宇宙を体現している感じ。 そういった小宇宙がどのように関係をもつか、 とてつもない思想実験をしている様子を描写しているように思う。 そういう意味で仮構に徹している作品であり 現実味という生々しさは全くない。 ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟なんかには それでも人物の人間味みたいなものも付与されていたが これは全くそういったものを取り払った、純化した感じ。 でもだからこそ最高級の仮構であり、現実とはまったく かけ離れている。現実とかけ離れたものこそが 現実を照らすという弁証法も成り立つかもしれないが。 神に対して挑戦を挑んだ作者が 「創造」に関してどこまで考え抜くことができるか そういった人間の可能性について教えてくれる。 しかし、これは現実ではなく、ある種 最高級の贅沢なのではなかろうか。 | ||||
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多くの人びとが論じ,また高く評価しているらしいこの哲学小説のなかの議論の内容を,自分は理解することができなかった。使われている用語にも同感できなかった。たとえば,「自分が好きになれない」,「自分を受け入れられない」,というならばわかるが,なぜ「自動律の不快」(わたし=わたし,であることの不快)という言い方をしなければならないのか。「いまあるものとはちがった生き方や世の中」を考えるのに,なぜ「虚体論」をもちださなければならないのか。『死霊』を好む人にはピンとくるのだろうが,自分にはまったくこなかった。 ろくに理解できなかったにもかかわらず,それほどすごい小説なのだろうかとの疑問は残った。人格ににおける思考の,あるいは人生における思想の占めるバランスが,極端に肥大化しすぎるとき,たとえ思想の内容がどれほど高度であったとしても,それは滑稽かつ奇形なものにみえて,まじめに受け取りがたいのである。 言葉が人を動かすのは,それが真実の言葉であるときであろう。真実の言葉とは,その言葉を語る人の人格と一致し,その人によって生きられた言葉であるときではないか。大切なのは,真実の言葉であるかどうかであって,思想の難易ではないと思う。 著者をテレビでみたとき,とても魅力的な人に思えた。周囲に人が集まるのもうなずける気がした。こうした著者の人格と,かれが活字に残した思想との間には,どうも断裂があるように感じてならない。たとえば著者の人格には愛を感じたが,かれの思想からは感じられなかった。 『死霊』で語られる思想は,著者にとってほんとうに真実の言葉だったのだろうか。本書を理解できる人にたずねてみたい。 | ||||
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