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黄泉がえり
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黄泉がえりの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.12pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全38件 1~20 1/2ページ
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前作『黄泉がえり』の十七年後という設定における続編。冒頭の記述から考えると実時間で2017年の夏から翌年の初夏までの物語である。2017年の夏といえばあの熊本地震の一年半後であり、物語はその熊本地震を踏まえた上で始まる。作者梶尾真治はこれまでにも言及してきたとおり熊本市在住作家であり、その作品には熊本を舞台にしたものも多い。その中で、地震を題材として書くに当たってなぜ『黄泉がえり』が選択されたのかということについてはいまさら言うまでもない。『黄泉がえり』がそのクライマックスに地震をテーマとして扱っていたからであり、そして甦りが題材だからである。つまりこういうことだ。『黄泉がえり』では、「人々が黄泉がえり、そして地震が……」という流れで進むが、一方実際の地震は「地震が起き、そして人々が……」というものである。つまり『黄泉がえり』のストーリーと、実際の地震とは構造的な対立関係を有しているのである。この関係は『黄泉がえり』自身に内在されていたわけだが、本書では現実の地震もその懐に取り込まれてもう一段複雑な構造を持つことになる。しかもまた、今回は単に人間が甦るだけではない点においてファンタジー的な要素も取り込んで、よりスケールの大きな展開となっている。 しかもまた、熊本市民なら誰でも知っているあの人物――これが表紙で右端に位置する髭の人物である――もまた復活するのだから驚く。その点ほぼ破天荒とさえ言えるのだが、当該人物の絶妙なキャラ設定もあって、破綻するどころか逆に全体を引き締めてさえいるのである。その他の登場人物のほとんどは前作から登場しているので、『黄泉がえり』を読んでから本書に向かうことが望ましい、熊本鎮魂の物語。 | ||||
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遅ればせながら映画を観た後に原作読了しました。映画では説明不足の多少モヤモヤした所があり、どちらかと言うと原作からインスパイアされて作られた恋愛ドラマと言った方が良いかもしれません。 原作は言うなら壮大なSFロマン小説と言った感じでしょうか。 九州の地方都市熊本に、ある日を境に不思議な現象が多発します。誰かに惜しまれて過去に亡くなった色んな年代の人々がその誰かの前に生前の姿そのままに生きて現れて… 謎かけのように各章冒頭に太字で綴られる宇宙的、観念的なモノローグ。様々な混乱の中で生者とかつての死者の間に生まれる交流の不思議さ。癒し、和解、救済を醸し出す深く静かな瞳と不思議な能力を持った復活者達。何故彼らは蘇ったのか、それはやがて次第に明らかになりながら、そして大きなエピローグへと収束していきます。 ふと思ったのはタルコフスキー監督の「惑星ソラリス」。同じく蘇りがテーマのSF映画ですね。惑星ソラリスは近づく人間の深層心理を物質化してしまうと言う不思議な性質を持ち、観測宇宙ステーションに派遣された主人公の前にも自殺した妻が蘇り彼自身苦悩する場面があります。そこには人間にとっての救いとは何かという問いかけがあるようです。 そしてこの作品にもやはり救済のテーマを見る事が出来るように思います。「彼」と表現される宇宙的な存在が熊本に降臨した事から始まる多くの復活。それは「神」「釈迦」など超越的な存在に例えることができはしないか。イエスの復活に見るようなドラマ。天使の降臨。衆生の救済に向かう観音や菩薩という表徴とも一脈繋がるのではと勝手な妄想をも許されるような不思議な味わいがこの作品にはあります。 エピローグでは熊本市をやがて襲う大地震(布田川断層帯の益城町中心に震度7)から救おうとする「彼」及び「復活者」達の姿が描かれておりますが、この作品は2002年の発表ですからまさに2016年の熊本大地震の同じく「布田川断層帯の益城町中心に震度7」と全く同じ表記が予言だったのではと話題になったようです。 余談ですが作中、復活者の中には異形の体で蘇った人々も描かれております。それはちょうどラブクラフトの「ダンウィッチの怪」という昔読んだ短編の一節を思い出させました。こちらは邪悪な宇宙的存在の生まれ変わりに纏わり起こったアメリカの田舎町での事件を扱うSFホラー小説でした。作者が多少意識しておられたのかと興味がわきます。 | ||||
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もう一度最初の黄泉がえりを読み返しました。 againは安心して読めました。 | ||||
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2000年3月25日、熊本の益城町布田断層を中心とした震度7の巨大な地震が起きる、はずだった。 というのが今から19年前に書かれた「SF小説」の「黄泉がえり」。 草なぎくん主演の「映画」の「黄泉がえり」の記憶が上書きされていて、原作を読み返すまですっかり忘れていました、 「熊本地震」が「黄泉がえり」の中で予見されていた事を。 この「黄泉がえりagain」は、「SF」の2000年の熊本地震の後に「現実」の2016年の熊本地震が起きた後の熊本の物語。 生者が強く想いを寄せる死者が亡くなった時の年齢と姿で蘇る前作の「黄泉がえり」は、 泣けるSFとして楽しめたのですが、 この「黄泉がえりagain」は、もっと近く、より深く心に響きました。 この小説は、全ての被災地の体験者への救いになると個人的に思います。 前作を読んでいない方は、読んでから読まれる事をオススメします。 | ||||
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よくできた物語だと思います。本当にあるかも知れないと考えてしまいました。 | ||||
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もう最後は、涙なしでは読めなくなってしまった。 この小説は熊本在住の梶尾真治氏が書いたものである。この作品に描かれている通りに、時期は違うけど、2016年4月に本当に大地震が来てしまった熊本。我が家も相当な被害を受け、建物は崩れなかったけど、食器はほとんど壊れ、家のあちこちにヒビが入った。 なんて表現したらいいんだろう、梶尾氏は預言者か? いやいや、単なる預言者ではなく、人間の根本を、本質的なものを「黄泉がえり」で表現したグル(宗教者)なのかもしれない。 私自身が熊本に住んでいて、登山が趣味の私は梶尾氏と白鳥山で遭遇するという偶然もあり、梶尾氏が書いた「未来の思い出」(あしたのおもいで)を読み感動したことを思い出していた。今回は、何故か、映画で有名になった原作本の「黄泉がえり」を読みたいと、思い、アマゾンで注文し、2日間で読んでしまった。 小説は映画とは全く違うシチュエーションで展開され、熊本市在住の私は、小説の中に展開されるいくつかのお店の名前に驚きもし、いつしか蘇ってきた家族の一員を自分の中でも迎えた様な錯覚に陥りながら物語を読んでいった。 最後は涙、涙、涙の連続であった。こんなに素晴らしいストーリーを描く人が同じ地に住んでいるなんて、、、、。 ああ幸せだ! | ||||
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熊本の新聞で続編がスタートしたので、読んでいなかった本作を手に取りました。 愛に満ちた各家族の物語が根底にあり、少しづつ見えてくる黄泉がえり現象の謎解きのバランスが非常にいい。 続編はいまのところ、謎解き要素がまだ強いように思う。なので、続編はまだ面白みが足りなかったので、本作の面白さに驚きました。 映画で「失敗した」と思った人にも読んでもらいたい。熊本地震を暗示していたかのような内容も、いま改めて読むべき価値がある。 行政対応が熊本市しか描かれておらず、終盤のカギとなる自治体の対応が無視されているが、現実には何か対応があるはずで、少なからず矛盾を感じたので☆-1としました。 | ||||
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新潮文庫の宣伝文には、死者の生き返りを強調した「泣けるホラー」というフレーズがみられるのだが、実際には、地球上の、とりわけ、熊本県で起こった現象を解明してゆく、歴とした「SF小説」であることが判る。 著者の梶尾真治さんは、実家の稼業として継承したカジオ貝石油の仕事に携わるかたわら、少年時代からの小説を書き、故郷の熊本を離れることなく創作活動を続けてきた、器用な作家である。かなりSF好きな人なので、世界の名作はおおかた、読破しているようだ。この『黄泉がえり』にも、オラフ・ステープルドンの『スターメイカー』や、フレッド・ホイルの『暗黒星雲』にみられるような、とらえどころのない、人間には理解の難しい“生命体”が、意志をもって登場する。 だが、梶尾さんが描く“それ”は、日本列島のなかでも、太古から火山活動の盛んな九州は熊本の、或る特定の範囲内で展開された、たくさんの人間ドラマに反応する感受性を身につけて、徐々に、変容してゆくところが、おもしろい。 たんに、蘇えってきた人々(なかには飼い猫もいる!)とその家族との物語を順に並べるだけではなく、登場する面々が、お互いに関わりあうことによって、それ以前の生き方に、何らかのより良い変化が生じる。 癒し、和解、自信回復、荒(すさ)んでいた心の浄化など、懸命に生きる各人のなかでわだかまり、苦しみの原因になっていたものが、蘇えった死者たち(病没者、交通事故の死者、水死者、自殺者、早世した超有名な女性歌手など)の不思議なエネルギーによって、解きほぐされてゆく。 ※以下は、この小説を読んで、特筆したい点の箇条書きである: ●あまりにも多くの「黄泉がえり」が戸籍の回復を申請してきたために、対応に追われる行政の在り方が、けっこう詳しく描かれている。 ●あの人気キャラクター、「くまモン」は「熊本者(くまもと・もの)」のことだとの定義を読んだことがあるが、この小説に登場する「肥之國日報」の記者、川田平太という人物をはじめ、熊本県人の方々がお話になる熊本弁を“聞いて”いると、例えば、「議題は、それだろうもん」(112頁)などと、最後に「もん」を付け足す言い方が少なからずみられる。つまり「くまモン」は、熊本弁を彷彿とさせる語感にあふれたネーミングなんだなぁ、と気づくことができたのだ! ●宇宙の真理というものを、一瞬の間だけ、つかんだような気がしても、すぐにそれを見失ってしまうという、もどかしい思いをするという体験が、様々な登場人物のなかに起こる。読者はそれを傍観しながら、我が身にも起こってほしいものだと、憧れたりする。 ●本作のクライマックスは、昨年(2016年)の4月に生じた熊本地震で被害の大きかった益城町の、第空港線沿線上のライブ特設会場を舞台にしている。その地下を震源とする大地震の予告が前もって、なされるという設定。この小説は2000年の4月に初版が刊行されているが、梶尾さんは、作中の不思議な現象と、地震の頻発する地域とを関連付けることで、話の大筋を作り上げた。 地震で亡くなられた方々のなかにも、本作の読者がおられたかもしれないし、遺族の方々のなかにも、いま、改めて、この『黄泉がえり』の内容を思い出すことがあるかもしれない…などと想像すると、何ともいえない悲しい気持ちが、心をふさぐ。このレヴューの作者も、2011年の東日本大震災を体験し、その傷は癒えないまま、今日に到る。 熊本の人々にとって、『黄泉がえり』という、熊本県人を主人公にした物語が、いま、どんな意味を持って読み直されているのか、気になる。 ●映画化された作品のほうは、政府から派遣されてきた、「黄泉がえり」現象の究明をおこなう“エリート”(配役:草彅剛)が主役級の活躍をするのだが、原作小説では、熊本で生まれ育った作者の郷土愛を反映させているので、あくまでも、会社や役場などに勤める熊本県民が主役である。熊本出身ではない人も登場するが、専ら熊本県内での活動が描かれ、首都圏での話題に物語の重点を移したりしないところが、大きな特長である。 つまり、原作と映画の視点がそれぞれ違うことで、作品自体のおもしろさが倍増しているのだ。 愛し、愛される人たち相互の絆が、死をも乗り越えて、再会の奇跡を起こすことを、この小説は説こうとしている。 だから、もうこの世にはいなくても、その人を想いつづけていることの意味は、大きいのだ。 たとえ、面識がなくて、片想いの人であっても、その人とつながることができる、という希望が描かれているのも、うれしい。意中の人とまだ言葉さえ交わしたことがない読者のあなたも、この『黄泉がえり』を読んで、元気になれればいいな、と思う…。まして、一緒に暮らしている人との、あたりまえだと思っていた日々の持つ意味は、測り知れないほど、深いことに気づくだろう。愛する人を失って、心のやり場を失いかけたら、この小説を読み直してみたい。また、自分のほうが先に逝ったら、この本を読んでほしい、と思うこの頃である…。 | ||||
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草薙剛が主演をつとめた同名映画の原作である。映画のほうはラストがトンデモなくグダグダだったせいで、「終わりダメなら全てダメ」の典型的な映画だった。7年前にDVDで観たが、時間を大いに損したという感覚が強かった。そういうわけで、まさか原作を読むことがあろうとは思いもしなかった。 どうして原作を読む気になったのかというと、それは原作者が梶尾真治だと知ったからである。梶尾真治と言えば「エマノン」シリーズで、これは俺自身がハマって読んでいる。だから、もしかしたら『黄泉がえり』は原作と映画が全然違うのではないか、原作のほうはもっと面白いのではないか、そういう気持ちがむくむくとわき起こった。 そして読んでみた感想は、やはり別物、似て非なるものであった。だから、映画のほうを楽しめた人は、逆に原作を読んでもつまらないと感じるのかもしれない。面白かったのは文庫本の解説だ。コラムニストの香山二三郎が、 映画について、 “ファンタジー一色に変更されており、原作とは違った黄泉がえり” と書いている。きっとこの人は原作のファンなのだろう。そして映画のほうは、明らかな批難こそしないものの、あまり面白いとは感じなかったんだろうなぁ。 | ||||
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映画化された当時に読んだ「黄泉がえり」、数年ぶりにkindleで再読しました。初読時と同じような暖かな気持ちにさせて貰ってとても幸せです。私が心から待っている「黄泉がえり人」と一緒に、マーチンの「YOSHINOBU」を聴きたいな。 電子書籍化により、この作品が次の世代に引き継がれる可能性を持った事も嬉しいですね。 | ||||
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梶尾さんの本は読み終わると、いつも胸がほっこりします。 不慮の死でも天寿をまっとうした死でも、残された人は何かしら心に影がさすものですよね。その人を大切に思っていればなおさら。山中に現れた化け物のことや相楽夫妻のオチなど、少々納得できない部分がありました。しかし全体で見ると、各登場人物とそこへ黄泉がえってくる故人のキズナが上手く描写されていて、グッとくる場面が何度もありました。生前はできなかったこと・言えなかったこと。そんな心残りが彼らを再び結びつける架け橋になったんでしょうね。 | ||||
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読みやすい!面白い! 初めて手に取った時は、その厚みに少し戸惑うところでもありましたが、読み疲れることなくあっという間に読み終えることとなりました。 背筋が凍るとは一線を画したホラー。 人の温かみを読者に投げかけてくれる作品だと思います。 SFならではのストーリー展開とともに熊本の地元ネタも相まって、九州人を虜にしてしまいます。(個人的に長崎出身の僕としては、あの銀行名が出てきたところで、跳び上がり喜びそうになりました。) | ||||
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いわゆる死者との邂逅をあつかった作品は、「ウランバーナの森」や「異人たちの夏」、「鉄道員」など多数ある.しかし、ほとんどは主人公の身内の個人的なストーリーだ。カジシンは、死者が生き返るという現象が、地域規模でおこったらどうなるのかという、ユニークな発想で物語を進めてゆく.すべての黄泉がえりは深く望まれていた人々だが、実際にかえってこられると困ってしまう。なんとか生活に順応し、愛するものたちとの生活を取り戻した頃に、再び別れが訪れ突然消えてゆく。彼らはなんだったのか、「彼」によって、ヒトはどうかわることができたのか。ヒトを愛すること、許すこと、助け合うこと、そして生きてゆくことの大切さ、すばらしさを描いた寓話だと思う.映画は平凡な死者生返りものになっていて、退屈.RUI(柴崎コウ)の歌う「月の光」だけが唯一の救いだ. | ||||
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本来であれば永遠の別れをしたはずの人が元気な姿で目の前に現れたら。 身近な人を亡くしたことがない自分でも感動するのだから、 きっとつらい思いをした人が読んだらもっと感動するのでしょう。 今、大事に思える人はいますか? 突然いなくなったら後悔しませんか? 黄泉がえりがあったればこそ人を思いやったり、優しい気持ちになったり、 本来持っている感情に気がつく登場人物たち。 そしてココロの中に何かを取り戻していきます。 今という時を、出会いを、本当に大切にしていきたいと思わせる内容でした。 他に印象的だった箇所は地球外へ飛んだ宇宙飛行士たちの姿について書いてあるところ。 -- 地球へ帰還した宇宙飛行士たちは、 すべて共通した雰囲気を持っていると指摘していた。 地球の表面で争うことの愚かさを悟り、宗教に走るものや、 環境運動に身を置くものなど色々なのだが、共通していることは、 彼らは無意識のうちに”神”に近い考えかたに変化していると感じられること。 -- 平和とか論じる事って簡単なようで難しいですが、 こういう境地に立てたら本当に説明なんかいらないんでしょうね。 | ||||
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映画では触れられなかった部分がたくさんあり、映画は映画で良かったと思うのだけど、この原作の厚みを考えると残念でならない。 全ての登場人物が主人公で、全ての登場人物に愛する人があり、失う人も居た。 映画では「フワフワとした感じ」でしか扱われなかった歌手マーチン(映画ではルイ)も、出来のいい兄が蘇った気の弱い青年も、みんな生き生きと輝いていた。 死者が蘇ることで、「あのときこうしていれば」の本音をぶつけることもできる。 一緒に行動することもできる。 戸籍の問題や蘇った人たちへの対応等、リアルに描かれている部分はあるがそれはこの物語の持つ「ファンタジー」を邪魔しないようギリギリのラインで存在していると思う。 | ||||
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いま、自分が生きて存在していること自体がミステリーだし超常現象だ。だから黄泉がえりも決してありえないことではない。私はこの本に書かれたことがそう不自然なこととは思えない。 どうして黄泉がえってきたのか。その目的は何。そしてどうしてまた帰っていくの。残された人たちは。作者はそれらの疑問を読者に十分納得ゆくように丁寧に説明してくれている。 私たちの生も元気に生きられる時間は決してそう長くはない、愛しあってる人がいればその愛を一番に優先しなければいけない、そして、どう生きるかだ、自分にとって一番いい生き方を生きる、ぐずぐずしてはいられないのだよ、そして誰にでも無報酬の愛を分けてあげられればそれが最良の生き方だ、など、いろいろなことを考えさせてくれる。 黄泉がえってきた人たちの群像劇であるが、それらの人の誰もが優しく深い愛を内に秘めている。黄泉がえった人たちは作者の人生観を代弁しているとも考えられる。黄泉がえった人たちの優しさと深い愛とともに作者の優しさが胸に響いてくる。 | ||||
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出版当初(もう何年になるのかな?)読んだのですが、最近「天国の本屋」や「いま、会いにゆきます」や「MAKOTO」などが話題になってきたので「黄泉がえり」を思い出し投稿しました。映画化されて話題になったので内容は皆さんもご存知だと思います。原作は、映画と違い、作家の地元である熊本に実在する店や地名や施設などが(もちろん話言葉も熊本弁)登場し、ホラーなのですが、コミカルに描かれています。映画では恋人をなくした彼女となくなった恋人の親友だった彼を中心にストーリーが展開されますが、これは原作にはありません。映画もよく出来ていたと思いますが、映画だけしか見ていない方は、ぜひ原作を読んでください。本当の「黄泉がえり」(梶尾真治ワールド)に出会えるはずです。 | ||||
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「観てから読むか。読んでから観るか。」というコピーが昔ありましたが、「黄泉がえり」について言えば、「観なくても読め」です。 「泣けるホラー」らしいですが、全く怖くありません。 とても優しい気持ちになる小説です。 | ||||
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感情を描き込むSFに定評があり、 短編も長編も定評がある梶尾氏。 様々な人物のエピソードが、時に交差しながら、 簡潔に、それでいて丁寧に描かれる今作は、 その魅力が凝縮されています。 最後に全ての謎が明かされるミステリーとは違い、 黄泉がえり現象を起こした「もの」の正体、 老化や癒し現象の理由、ある人物が現世に残り続けることができたワケ。 それらは完全には語られません。消化不良な人もいるでしょう。 たぶん、作者がそれなりの理由をつけて完結させるのは容易だったはず。 でも、あえてそれをしなかったことで、 僕は淡い余韻を感じることができました。 それぞれの人物のその後に自由に思いを馳せ、 読者の中で物語を続け、あるいは完結させる。 それを作者側から仕掛けることは、できそうで、なかなかできないことだと思います。 文庫本としては厚めですが、 誰でも無理せず読める構成・文章力も高ポイントですね。 | ||||
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死んだ人が黄泉がえる、そんな現実に揺り動く人間模様を描いた作品。 現実では起こりえないけど、その非現実感を感じさせない構成は見事。 俺たち人間の心の奥底にある「大切なあの人に返ってきてほしい」という想いを様々な家族、友人、兄弟の視点を通して温かく、優しく、それぞれの人間模様で描かれてます。 登場人物もそれぞれしっかりと組み込まれていて、無駄がない。 涙は出ませんでしたが、今のなにかがおかしい世の中で、人間の姿を考え直す機会にもなるんじゃないかと。 少しでも多くの人に読んでもらいたい作品です。 | ||||
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