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容疑者Xの献身
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容疑者Xの献身の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.19pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全856件 101~120 6/43ページ
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映画からの小説です。やはり東野圭吾は小説から、というのが私の感想。細かい描写や心理面など映画より小説の方がしっかり入ってくる。面白かった。 | ||||
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10年位まえに、映画化されたものをテレビで放映されたのを見ていましたが、その時はまだ東野圭吾作品とも、ガリレオシリーズとも知らずに見ていた私でした。 その頃は山村美紗作品のような、綺麗で華やかなドラマが好きだったので、このドラマはなんか暗くて怖いなと思いましたが、その題名とともに強烈に印象に残ってはいました。 最近またネット配信で、その時の映画を見て堤真一さん(原作は大違いの容貌でした)松雪泰子さんには悪いけど、原作を先に読むほうが良かったなと感じました。 原作はやはり奥ぶかさがありました。内容が分かってなかったら、白夜行のように一気に読んだでしょう。 湯川学の悩む気持ちに人間味があるところとか、主人公石神や草薙の心理描写が良かったです。時々、ユーモアもありました。 ただ、靖子のことはただ美人なだけの人?って言う感じでしたが・・ それでも、自殺寸前の石神を救ってくれた恩人親子、この純愛、献身はありかな、とも。一度は捨てた命なのだ。(自分にはその経験はなくわからないですが) 作者が「これ迄の集大成、僕の最高傑作」と、どなたかとの対談で言われていた、直木賞受賞の感動作でした。 | ||||
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東野さんの作品を初めて読みました。なるほど,こういう雰囲気なのか~と。読者が多いはずだなと思いました。とにかく,読みやすいです。すらすら読めます。登場人物の心情はほとんど描写されず,目に見える具体物や情景などが描かれ,余計な空想を広げる必要もありません。筋書きは理路整然として無理がなく,破綻や飛躍がありません。読者を混乱させません。読者を丁寧に結末まで導いてくれます。読者にとってはそれがいいのです。長編ですが最後まで一気に読みました。次の作品を読むのが楽しみです。 | ||||
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さすが、東野圭吾‼️ ガリレオシリーズは、読まず嫌いだったけど、この作品は別格。 慟哭の結末‼️ | ||||
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物理学者兼探偵の湯川が活躍する、いわゆるガリレオシリーズの本作。 とくれば、ジャンルとなるとスリラー・推理小説と言えるでしょう。 その中で、本作の特徴は犯人が当初から分かっていることです。ではどうやってストーリーが展開していくのか。 ・・・ あらすじはこんな感じ。スナックから足を洗い弁当屋で働く靖子のもとを訪ねてきたのは別れた元夫の富樫。自宅にまで付きまといしつこく無心を繰り返すことに絶望しているなか、中学生の娘の美里が富樫の殺害を企て頭を殴打、結局母子で富樫を殺害してしまう。一方、隣に住む数学教師石神は、靖子に恋心を寄せつつ、母子の手助けをすることに。 ストーリーのポイントはこの数学教師である石神が、実は学生時代からガリレオ先生と知り合いで、湯川学と相認め合う程の逸材であったこと。石神が仕掛けたアリバイ工作がどのようなものであったのかが、刑事の草薙、そして湯川によって徐々に明らかになる所が楽しみどころであります。 因みに最後はというと。。。壮絶、です笑 是非お読みください。 ・・・ やや古めの本ですが、非常に楽しく読めました。シリーズものの推理小説の一冊ですが、本作は人の情けや機微にスポットライトを当てている点が秀逸であると思います。アリバイがどのように崩されるかを読み進めるのも十分面白いのですが、むしろ石神の心情の動きを物語の最後に明らかにしたところに直木賞受賞にふさわしい重みを感じた次第です。 | ||||
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評判良いので楽しみにしていたのですが、ずっと我慢しながら九割五分ぐらいのところまで読み進め、もうそこで止めました。ここから十数ページで、これまでの退屈を全部覆す程、もうどうにもならんだろ。がっかりです。 騙されたと思って、時間があったら他の作品も読んでみます。ほんと、暇な時に。 | ||||
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満足しております | ||||
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直木賞作品とは知らず、amazonのおすすめでなんとなくkindle購入。 ストーリーのスキーム等、いろいろなご意見がありますが、私は素直に話に入り込んでいけました。簡単にいってしまえば、隣に住む母娘が元夫を弾みで殺してしまい、母親に以前から心寄せる数学教師が証拠を隠滅し、自らをも犠牲にして母娘を守る、という話です。 やっぱり、最後では泣けました。やったことはともかく、ここまで無償の愛、すなわち献身ができる心の深さに感銘しました。あまり細かいことにはツッコミを入れず、感情移入してお読みになることをおすすめします。娯楽小説なので。 | ||||
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一言で言えばこんな感じだろうか。 東野圭吾は『手紙』のみ読んだ。『容疑者x』は2作目。文章は個人的にはそれほど好みではないが(だから星4つ)、隅田川のホームレスの描写や心理描写などが上手いなと思った。 美文と言うより、素晴らしい脚本という感じ。 だけど、終盤の石神には号泣させられた。すごくすごく分かるから。 一途な男なんて「キモイ」、「ストーカー」と片付けられない昨今、わざと軽い発言を している男が多そうな世の中。 でも、一人の女性を愛するということがどれほど美しいものか、思い出した。 もちろん彼のやった事は許されない。だから刑務所に入った。 だけど、それを超越するほどの純粋な、真実の愛が紛れもなく描写されていた事は間違いない。 こんなに美しい恋愛物語を読んだことはなかった。血が逆流するほどの衝撃を受けた。 | ||||
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読み進んでいくうちに、バラバラになっていたパズルが組み合って行きどんどん引き込まれていきます。 | ||||
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高校国語教師です。 直木賞とはどんなもんかと思って読んでみたら、この作品については、単なる商業主義の作者の自己満足、というのが個人的な感想です。 推理小説にしては終盤のカタルシスを感じません。それは他の方もおっしゃっているように書き方の問題であったり、人物が都合よく動かされているからでしょう。フィクションである限り多少は仕方のないことですが、それにしても三人称の語りで都合の悪いところを語らなさすぎている。それに加えて、時々作者が顔をのぞかせてここぞとばかりに言いたいことだけ言ってくる。 天才数学者に「幾何と思わせて関数」と言わせるアイデアは楽しめたのですが、殺人トリックに気づきそうなときの湯川や花岡の衝撃の予感、あのわざとらしさには置いてけぼりを食らうしかありませんでした。意外性を履き違えた、ただの無茶苦茶でしょう。やってはいけないことをやらせればそりゃあ衝撃が大きくなるに決まっていますから、あとはそれを登場人物たちに演出させれば小説の完成です。実に簡単です。 そしてラスト、石神の慟哭の余韻を残すつもりなのか、急な幕引きでした。娘の殺人幇助と自殺未遂に始末をつける責任があったと思います。読者の想像に委ねるのと、説明責任を放棄するのとは違います。娘にそこまでの罪悪感を背負わせたのは石神なんですから。殺人に加担した上にわけのわからない部外者の指示によってなぜか隠蔽する方向に話が進んでいく状況、一中学生の判断力と行動力ではどうにもならないでしょう。ホームレスと富樫の次に彼女が被害者です(この3人には感情移入できました。同情します)。石神が彼女を追い詰めたも同然です。そこに気づかない天才石神ではありませんから、明らかな矛盾でしょう。だからクライマックスで、石神の愛の美談で仕上げるのには違和感を覚えます。ちゃっかり石神の肩に手を乗せる湯川の滑稽さも際立っています。石神の慟哭には「聞く者すべての心を揺さぶる響きがあった」とありますが、そう書けば本当に聞く者すべての心を揺さぶることになるとでも思っているのでしょうか。ある意味石神も被害者です。作者の道具に成り果てているのですから。あと湯川にこうさせておけば読者は喜ぶだろうという魂胆が見え見えで萎えます。 まとめると、 トリックはトリックと言っていい代物ではなく、ホームレスの件を抜きにしても凡庸。 愛の物語としては、判断力の乏しい女がそれ故に変な男たちに付きまとわれて不幸に陥るという、擦られまくった二番煎じ。 歯車やN≠PN予想を絡めようという意気やよし、そのアイデアに踊らされて顧みなかった結果、小説の練度も、推理小説としても恋愛家族愛友情物語としても中途半端。 ただ何の罪もないホームレスのことを思うと、泣けます。 B級小説としては楽しめたので★2です。 これが直木賞なのか、と思うと2冊目に手が伸びませんが、もう少し諦めずに読んでみます。 いくつかレビューを見ましたが、絶賛している人は具体的に何が良いのか書いていない人が多いように思います。 こういった小説を楽しむためにはどのような視点で読めばいいのか、教えていただきたいです。 | ||||
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誰かに認められる必要はないのだ、と彼は改めて思った。論文を発表し、評価されたいという欲望はある。だがそれは数学の本質ではない。誰が最初にその山を登ったかは重要だが、それは本人だけがわかっていればいいことだ。 思い残すことなど何一つなかった。死ぬことに理由などない。ただ生きていくことに理由もないだけのことだった。 世界という座標に靖子と美里という二つの点が存在する。彼にはそれが奇跡のように思えた。 彼女たちとどうにかなろうという欲望は全くなかった。自分が手を出してはいけないものだと思ってきた。それと同時に彼は気づいた。数学も同じなのだ。崇高なるものには関われるだけでも幸せなのだ。名声を得ようとすることは尊厳を傷つけることになる。 それまで淡々と読んできた文章が前奏に思える程、これらの石神の心情の表現力には感銘を受けた。映画のような実写も悪くないが、この数ページには小説の良さが詰まっていると私は思う。 | ||||
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本作は評論とネット界で、本格推理小説であるか否かについて議論が巻き起こった。 その問題について、考察すると、原因は本作の評価の基準にあるように思える。 それというのも、本作は間違いなく本格推理小説だったが、作品の面白さが通俗小説としての面白さであって、推理小説の面白さではないところに起因していた。 その点で二階堂黎人氏の、本格ものでないという主張は間違っていたが、その言わんとするところは理解できる。 ただ彼は本格推理ものとして評価されているわけではないという違和感について、少々理屈的な迷路に迷い込んでしまった感がある。 その点で本作が本格推理小説だとする反論側は至極正しかったが、しかしながら彼らも分類論の迷宮に迷い込み、本作がどうも推理小説としては面白くないという感情的な違和感に気付けなかった。 笠井氏はその点に気付かれていたが、彼は本作の通俗小説的な面白さも否定してしまったがために、話は拗れてしまったのだ。(笠井氏が本作のトリックを評価しないのも当然で、なんせ彼はもう四十年前のデビュー作『バイバイ、エンジェル』で既に本作のような「顔を潰す=入れ替えトリック」という構図が推理小説における最も下らない嘘だと喝破している) と言っても笠井氏の本作への批判、特に通俗的な感動ものとしては明らかに人道的な欠陥があるという主張は紛れもなくその通りだったが、それでも本作を見て多くの人間が泣いてしまう事実はあるのであり、そもそも我々の感動や泣くという機能自体が、人道的でもなければ愛も正義も平等も必ずしも関係ないのであり、ヒトラーの演説で泣いたドイツ人は一体どれほどいるのか、という事なのである。 我々は博愛や正しいこと、正義の義憤のために泣くこともあれば、ただのエゴが満たされたり我儘の叶えられない不満の為に泣くことだってあるのだ。 その点において、本作の他者を犠牲にして助けられることによる感動は、他民族を犠牲にして自分たちだけを窮地から救ってくれる独裁者に嬉しくて泣くようなエゴイズムと非常に近しいところにある。 そもそもその犠牲は本当に必要だったのか、なぜ犠牲になるのがあのような弱者である必要があったのか、など疑問を抱く余地は十分ある。 我々は何かをスケープゴートにする必要があるのではなく、させられているだけなのではないか。 ドイツ人が被った被害の責任は、おめおめと収容所に送られるような弱いユダヤ人たちではなく、もっと強い者たちだったのではないのか。 ただ本作の場合、助けられる存在が女子供、犠牲になるのがホームレスという、我々がマスコミによって植え付けられてきたイメージを遺憾なく発揮して、その危険性から目を逸らさせられ、泣いてしまうのである。 それは近年のフェミニズムやLGBTが(その殆どは工作員の可能性が高いが)非常に排他的で攻撃的な言論を行いながら、腐女子を代表するようなホモ文化を広めるのに成功していることと無関係ではあるまい。 我々は新たな冒涜的ファシズムを広げる素地を植え付けられようとしている危機感を持たなければならない。 かつてユダヤ人たちに冒涜的な宗教を広め、他国を堕落させて操り、弱体化させたいバラクとバラムのような者たちはいるのである。 また本作の推理小説としての駄目さ、つまらなさが、メイントリックがトリックのためのトリックの典型のようなものであり、しかも手垢のついたありきたりで単純なものだから、というだけではない。 本作は殆ど悪意さえもって、読者が論理的に事件を解くことに、罪悪感を抱かせようとしてるとしか思えない節がある。 推理小説の最大の社会的意義とは、読者に論理的思考を働かせる動機を与えることだ。 なのに本作では、論理的思考を働かせた結果、起こらなくてもよかった悲劇が起きてしまう。 中盤の展開で犯人の異常性を強調された読者は、推理するモチベーションを得て、謎を解けば犯人が全く無関係で無実の人間を犠牲にしていたことがわかる。 言うまでもなくこの時点で謎を解いた読者は「犯人は紛れもないサイコパス」だとハッキリと確信する。 ところがその結果は「疑ってごめんなさい」という感想に誘導される。(この点について犯人が分裂しているとか多層的な読みができるとかいう評論は的外れで、あれは完全にただのミスリードに過ぎず、読者は強力な一つの印象に誘導される。中盤での犯人のイメージに引きずられるのは、単に後半の展開に乗れてないだけで、作者の意図に反して抗った結果である) 一方で逆アンフェアとさえ言えるような、読者にしか論理的解決を図れないように証拠が提示されているため、正義側の探偵はただ犯人に対する信頼と同情による推測だけで事件を解決し、謎を解いた読者は探偵側に自分を同一視し、罪の意識から逃れることすら許されない。 謎を解いた読者だけが、自分だけが冷酷な冷血漢になったような気分にさせられ、論理的に考えることが悪いことであるかのような思いに囚われる。 つまり本作の謎を解いてしまった読者の反応は三つに分かれる。 1、本作の精神性に抗うことはできないが、論理的思考を放棄したくないがために、罪悪感から逃れようと本作をひたすら擁護し賞賛することにより償おうとするタイプ(擁護派タイプ) 2、犯人の美化にどうしても納得できず、作品にあらゆる批判を加えるタイプ(笠井潔と我孫子武丸タイプ) 3、ひたすら本作の意図と精神性を受け入れ、論理的思考を放棄するタイプ(サイレントピープル) 私は我孫子氏の本作への批判が最もしっくりきたし、おそらく正直な感想だと思う。 ただ笠井氏が最も本作のもつ邪悪さに気づき、熱く戦っておられたのだが、一方で氏は倫理的な遠慮からか、はっきりとこの作品がファシズムの塊であることを看破することができなかった(おそらく本当は気づいていたのではないかと思う) そこでネオリべとか管理型社会というような当時の評論界ではよく使われる、ファシズムと言い切るよりは穏当な言葉で批判し、結果的に「なんか違う」という感じになり、その違和感をなんとか補修しようと更に理屈をこねまくるという、論理的な思考の罠に嵌まり込んでしまわれたのではないか。 よって本作の評価は、推理小説として最悪、倫理的に最低、しかしながらフェミナチ的プロパガンダとしては比類なき完成度を有しているといえるだろう。 本作に感動した女は、自分たちのために勝手に罪を重ねて犠牲になってくれる男を期待し、そうするようけしかけるであろう。 また本作に感動した男は、女子供に求められるがまま、それが正しいかどうかも考えず、あらゆる不正や工作に手を染めるであろう。(といっても実際にはそれはあの犯人のような男ではないだろうが。落ち着いていて理性的な男は、何かにのぼせ上って極端なことはしにくいものだ。彼らはもっと感情的で気性が激しく弱い相手には傍若無人なタイプである) 近年、フェミニストや腐女子の屑っぷり、METOO問題など見てもわかるが、自らのおぞましい欲望に何の歯止めもかからない屑女と、「痴呆症か!?」というくらい1ミクロンも脳みそを使わずにそれに従う犬のような男が増えているが、それもこうしたマスコミのプロパガンダの数々を見れば納得だろう。 結局それはこのような異常な作品をヒットさせるような企業の権力者たちの、欲望と権力欲のために利用されているだけにも関わらず。 本作のある擁護者が「えっちなゲームなのに純愛」という表現を使っていたが、そもそも本当に異性を愛したなら普通はセックスしたくなる筈である。 つまり彼は「本当の愛ならエッチしない! 俺が今までエッチした女はすべて身体目当て! 妻とセックスするのは文字通り生む機械としか思ってないから!」ということなのだろう。 彼がそのような価値観を醸成したのも、あの異常な純愛ブームによって「セックスなしで尽くしてくれる男」というものが本当の理想当であるかのように世が洗脳されたからだ。 そうした一方的に禁欲を押し付ける純愛ブームにのぼせ上った女たちが、ついに禁欲どころか人殺しまで純愛のために要求するところまでエスカレートした結果が、本作とそれを受容した社会だったわけだ。 他の擁護者が本作に似ていると例に出したことのある北村薫の『盤上の敵』では、女のために凶悪殺人犯を殺すことさえ手放しでは褒めておらず、それでさえ倫理的な批判は免れなかった。 なのに今や女のために、全く罪のない赤の他人の男を殺すことに「大いなる犠牲」と涙を流して喜び、倫理的な批判を加えたものに多くの人間が反論したのである。 また推理小説は昔から非人道的な要素も含んでいるという擁護もあったが、そもそも本作がただの推理小説なら平凡以下の駄作と退けられただけで、倫理的な問題を本作に抱く人間はいなかっただろう。 本作が問題なのは、それを恋愛ファシズム的な価値観で正当化し、積極的に称揚さえしていることだ。 そのような作品が、論理的で感情に流されないことをモットーとするはずの推理小説界から生まれ、賞賛されていたことは、そうしたプロパガンダのいかに広範で強力かを思わずにいられない。 性欲もなくただ尽くしてくれることだけを期待する恋愛観は、バブル世代がアッシーくんなどと呼んで男を顎で使っていたことの美化された変形である。 そのバブル世代が今やモンペやクラッシャー上司として君臨していることを考えると、実際はあの犯人のようではなくて、どんな連中か分かろうというもの。 そのバブル世代というのも、マスコミがトレンディドラマ的な異常な理想とファンタジーを女に吹き込み、男に植え付けた結果だ。 考えてみたら当時の推理小説も、そのトレンディドラマ的な洗礼をもろに浴びていた。(そうした作品のほとんどは今やすっかり忘却され消え去ったが) あの流れを変えてくれたのが京極夏彦の登場であり、彼のお陰でミステリ界は世間の流行の影響を受けないガラパゴス的進化の方向性に舵を切る勇気を持てたのだが、東野圭吾はそれを昔の状態に戻したわけだ。 本作以降の彼の作品は、まさに広告代理店的マーケティングの典型例のような感を受ける。 このような価値観が広まった日本が、今や世界で最もセックスレス化しているのも当然だろう。 アジア人は自分の発言に責任をとらないため、男には大した影響を与えていないが、女の方はもう取り返しがつかない。 バブル世代はまだ利用している自覚があったが、今やセックスしない事こそが"真の愛"だということになっているのだ。 彼女らが子作りを前提とした結婚を嫌がるのも当たり前だろう。 そんなことするのが妻を産む機械扱いしている証拠でないなら、「真の愛ならエッチしない」と偉そうに誇っていたのはなんだったのか? 男はただ競争相手を貶めモテたいがために見栄を張ってただけなのだが、信じた女からすれば溜まったものではない。 こんな男たちはぼったくりや美人局に引っ掛かっても、相手を攻めることはできないだろう。 当然そんな価値観を集団で広めた連中はそれどころか、夫婦でセックスすることさえ強姦しているのと同じことになるが。 そうした男と分かっていてセックスするような淫売は、組織的に他の男に禁欲思想をばら撒き、自分は話しすることさえせずに、奴隷のように働かせたいわけである。 それは正しく本命の男と付き合いながら、アッシー君をパシリにしていたバブル世代の女たちの願望が、社会の規範にさえなったということだ。 そしてそうした価値観を内在化させた連中が、相手が弱いとみれば何をしてもいいと思っている獣になっている。 思い出せば学校の不良連中というのは、弱い相手には性的なことに罪悪感を抱かせるような嘲笑や迫害を繰り返しといて、自分たちは女の猥談を露悪的にしゃべるクズ野郎だったが、それはこうした連中の再生産されたカスどもだったわけである。 私の学生時代、そうしたゴキブリどもはニヤニヤ笑いながらセカチュー好きをアピールして女を口説いていた。 今ならホモアニメでも持ち上げて、仲間同士のホモアピールでもしてるのだろう。 一方でラブライブのような作品を例の川崎リンチ事件で不良の読むものであるかのようにバッシングしていたが、私の読んだ『ルポ川崎』では不良のカリスマ(ヤクザの使い走り)とやらが、犯人グループを陰キャで目立たない不良憧れを拗らせただけのパシられグループと切り捨てていた。 要するにラブライブのようなアニメを不良向けであるかのようにネガキャンしながら、事件の責任も不良ではなくオタクだけに押し付けたかったわけだ。 ちなみにリンチ事件が起きた場所は、地元でも有名な不良たちのリンチ場だったようで、以前にも何度も殺人事件が起こっていたのに、なぜあの事件だけが取り上げられたか不思議に思っている地元民は多いらしい。 いうまでもなく、マスゴミがオタクバッシングのために喧伝したのだ。 考えてみれば被害者だけがラブライバーだとしかわかっていない状態で異常なラブライバー叩きが起き、被害者なのに何を言ってるんだと反論が出ると犯人もラブライバーだと分かってアンチ側大勝利!のあの流れなど、そもそも全て知っていて計画していたわけだ。 マスコミこそ集団ストーカーの実行者で、バッシングのために人まで殺すように躓かせるサタンどもだという何よりの証拠だ。 そもそも犯人がラブライバーだったというのも、被害者のラブライバーと仲良くなり、殺すための罠だったのだろう。 セックスしない愛とは、それはつまり友情のことだ。 純愛を売りつけていたのが、今度はBLを押し付けだしたのも不思議ではない。 それはつまりセックス抜きで奉仕を求めていた女達が、ついには女を見ることも許さずに奉仕する域にまで達したのだ。 それでは流石に騙せないと思ったのか、連中は次に微妙にホモ臭い少年漫画を持ち上げだし、それを読んでいる当の少年は仄かなき虚勢願望フェミ思想を植え付けられているにも関わらず、男たちはネットの偽反フェミ工作員に騙されて、連中の自作自演フェミ争いに喜んでいる始末なのだが、その結果もたらされるのは社会の更なるフェミ化と虚勢化とホモ化なのだ。 そうして以前からは変わったように見せかけて、前のものに嫌悪していた若い男たちを騙し、これで女たちの文化も良くなると思い込まされるのだが、実際は相手の態度を見て口説き文句を変えるペテン師の技巧に過ぎない。 彼らはそれが次の世代からの反発を生み、自分たちの築き上げた文化はまた絶やされるということも分からないのである。 このような社会では少しでも性欲が強ければホモにさせられる。 それが自然の本能にも関わらず、偽善的な狂信者どもの陰謀によって、罪なくして裁かれ、躓かされるのだ。 ただ女どもの安全のために、多くの男が躓かされ、それ以外の男たちも危険な状態にさせられる。 アメリカを見るがいい、ただの微罪で逮捕された男達が、刑務所でホモの犯罪者にレイプされる。 軍隊や警察や消防団や修道院など、少しでも男が多い場所はホモ強姦魔の巣窟なのだ。 誰がそうしたか? お前達の持ち上げるマスコミがそうしたのだ。 アメリカのドラマや映画を見れば、フェミニズムと同性愛のプロパガンダしかない。 | ||||
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周りから面白い、感動する、と聞いていたのだが、個人的にさほど刺さるものがなかった 石神が行動を起こすに到る過程がどうしても納得できないというか、理解できない ここをもっと力を入れて書いてくれてたら、感動も出来たのやもしれませんね ちなみにトリックについては現役の刑事が「あんなもん引っかからんわw」ってレベルなので期待すんなし | ||||
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ドラマのファンであり、以前に観た映画がとても面白くてずっと原作を読んでみたいと思っていました。天才vs天才。とても惹きつけられます。最初に映像を見てしまっているので、想像はその中で止まってしまうのが残念です。まっさらな状態だったら自分は何を想像して、どう思ったのか。今となってはしるよしもありませんが。 | ||||
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内容としては面白いけど湯川学でなくとも加賀恭一郎でも成立する内容だと思う なによりガリレオシリーズの醍醐味の科学を使ったトリックがないのは残念 やはり湯川学が事件を解決に導くのでこれでは天才物理学者湯川学ではなく名探偵湯川学だ それとも天才物理学者vs天才数学者という構造でやりたかっのだろうか 個人的に短編集の犯人探しや動機などそこそこに超常現象としか思えないことを解決してるガリレオシリーズが良いな 長編だとどうしても名探偵湯川学になってしまうし内容もトリックより人間関係や動機主体になりがちだからガリレオシリーズでやる必要もない気がする | ||||
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面白い! | ||||
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弁当屋で働く花岡靖子と中学生の娘の美里は、自宅に押しかけた横暴な前夫を、行きがかりから殺害してしまう。アパートの隣室に住み、ひそかに靖子に恋慕する冴えない風貌の中年数学教師である石神は、その異変に気付き自ら犯行の隠蔽に協力することを申し出る。事件を担当することになった刑事の草薙は、靖子に不審な点を感じながらも証拠を掴むことができず、大学時代からの友人で物理学准教授の"ガリレオ"こと湯川学に相談を持ちかける。湯川は事件を通して、やはり大学の同期で天才的な数学の才能をもつことで有名だった"ダルマ"こと石神が数学教師になっていたことを知る。石神に接触する湯川。ここに、天才物理学者と数学者の二人が、殺人事件を介して対峙する。 初めて読む、有名作家の代表作でした。事件発生後に警察の捜査が開始されてから中盤までは「AがBのもとを訪れて会話をする」が延々と繰り返され、「これが本当に人気作品だろうか?」と疑うほどの単調さから不安も感じたのですが、終盤の約50ページほどの展開で作品への印象が一気に好転しました。通読してみれば、サスペンスと人情ものの要素をうまく組み合わせた作品として、人気にも納得しました。映画版で美男美女が出演していることから洒落たイメージが強かったのですが、実際には中年男女の恋心や所帯じみた事情が中心に描き、犯行をめぐる出来事にも派手さを狙わない落ち着いた内容でした。個人的には往年のTV番組の『火曜サスペンス劇場』も連想しました。 ---------- <主要人物> 【石神】 四十過ぎの男性。大学時代は天才的な数学の才能を高く評価されていたが、現在は高校の数学教師として一人で暮らしている。ずんぐりとした体形、丸顔で目は細く、異性に好まれる容姿ではないとされる。アパートの隣室に住む靖子にひそかに想いを寄せる。 【花岡靖子】 弁当屋で働く女性。以前は錦糸町のクラブで働いていたが、弁当屋を経営しはじめた常連客の誘いから現在の職に就く。過去に二度の離婚歴がある。現在は一人目の夫との娘である中学生の美里とアパートで暮らしている。 【富樫慎二】 靖子の前夫。美里とは血の繋がりはない。高級外車のセールスマンだったが使い込みがバレて会社をクビになったあと、靖子に暴力をふるいギャンブルに明け暮れるようになり、靖子の意思により離婚する。富樫自身は靖子に未練があり、たびたび復縁をせまる。 【湯川学】 帝都大学物理学科の准教授。本作の探偵役。ガリレオとも呼ばれる。大学時代は石神と草薙の同期生だった。 【草薙】 事件を担当する刑事。帝都大の社会学部卒。大学時代の湯川とはバドミントン部で知り合った。 【岸谷】 草薙の後輩刑事。 【間宮】 草薙たちの上司。 【工藤邦明】 小さな印刷会社を経営する。妻子との三人暮らし。クラブ時代の靖子の馴染み客だった。 | ||||
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すぐ届きました。子供の学校の朝読書で読みます。 | ||||
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天才数学者ながら不遇な日々を送っていた教師の石神。彼は隣人の靖子へ密かに想いを寄せていた。前夫に詰め寄られた結果、靖子が彼を殺してしまったことを知った石神は、靖子と娘を救うために完全犯罪を計画する。しかし、かつての親友である湯川がその謎に挑むことになり事態は予期せぬ方向へと進み始める。 ガリレオシリーズを読んだのは初。どんなミステリーなんだろうと読んでみたら、それどころではない感情に襲われてしまった。靖子たちに感情移入して読み始め、謎が解けないでくれと祈りながら読むというミステリーで初めての体験に(笑) さらに、石神と湯川という天才同士のやり取りと漂う友情は、ミステリーとしても人間ドラマとしても魅せてくれる。最後のトドメに石神の深い愛情と動機を知って、これほどまでに愛情深い物語なのになんてやり切れないんだろう!!とため息しか出なかった。 「人は時に、健気に生きているだけで、誰かを救っていることがある。」 この言葉のあたたかさに救われながら、愛情というどこまでも割り切れない深い谷底へと突き落とされた気持ちでもある。あのラストは声が耳の奥で鳴り響いているようだった。みな人を愛し、信頼し、ただ純粋に生きているのに、それがこんな結末を生むとは…。ミステリーを超えて味わい深い物語だった。また噛みしめるように読み返してみたい。 | ||||
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