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容疑者Xの献身
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容疑者Xの献身の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.19pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全89件 1~20 1/5ページ
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ネタバレ注意です。 3月9日の第一の殺人(富樫)のカモフラージュのために、3月10日に第二の殺人(技師)を行うというトリックです。 殺人においては死体処理が一番問題になると思うのですが、富樫の死体処理に関しては、文庫本388ページに「風呂場で六つに分割し、それぞれに重しをつけた上で隅田川に投棄した。三箇所にわけ、すべて夜中に行った。三晩かかった。」 これだけでした。あっさりとした記述です。死体の処理が完璧にできたら、死体がないことにもできる訳で、すわなち第一の殺人をないことにできるはずです。その場合は第二の殺人を犯す必要はないと思うのですが。 更に技師の顔面をつぶして、指紋を焼いて、技師の死体の近くの自転車に富樫の指紋を付け、また技師に富樫の服を着せる。これだけで、技師の死体は富樫の死体と判断されるはず。 日本の警察はそんなに間抜けでしょうか? この本の宣伝では、数学の天才 vs 物理の天才 とありますが、このようなトリックは数学の天才が考えることなのでしょうか? 第二の殺人を犯して事態を複雑にするよりは、第一の殺人で死体処置を完璧にして殺人を無いものにする方が、数式的にエレガントと思いますが、いかがでしょうか。 直木賞を初め様々の賞を取っている作品なので、楽しみに読み始めましたが、最後は何だかなー、という感じでした。 | ||||
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うーん。確かに最後は驚く展開だったけど、IQが高いはずの人のセリフや行動から、IQの高さは伝わらない。そう言った点から、やかんや鍋を叩いている人もいるオケを聴いているような、チグハグな音楽を聴いているような変な読後感。 | ||||
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※作品の評や雑感というより代案です 代案の為若干本編のネタバレ(最大のアレは書いてませんが、遠まわしにヒントになってるかもな箇所があるかもなので、 本書未読の方は一応この文章読まない方がいいかもです) があるかも 本編で湯川氏がいらん事ばらしたせいで、 タイトル的に本末転倒ではと思い、 代案書きます そもそも罪なき母娘に手を汚させてしまってからが、 作品コンセプトとして破綻してませんか 色々細かい突っ込み処はあるが、 こういう石神さん系の主人公にするなら ・石神さんが親子につきまとう不穏な影を察知 ↓ ・石神さんが、例の親子が法に抵触する行為に走る前に標的のみを始末、 その間、親子には一切接触しない ↓ ・親子に惚れていたので二人につきまとう、あの男Tが許せなかったと警察に建前動機 (本音のもっとピュアなとこは隠す) ↓ ・捜査の過程で湯川氏が石神さんの自己犠牲精神に基づいた犯行と親子への純粋な精神性気付くも、 親子に余計な事は一切言わず、 わかっててもあえて黙っている旨を石神さんに面会時伝達 ↓ ・石神さんはあえて沈黙を守った湯川氏に感謝の涙 ↓ ・何年も後、模範囚として仮出所した石神さんに湯川氏が 「あの親子は幸せに暮らしてるよ」 と告げる ↓ ・石神さん感慨に耽る こういう風なシンプルな展開でよくない? 衝撃的要素に無理に人間心理を寄せ、 ある種の第三者達にとってのおさまりのいいオチのために、 湯川氏がいらん事言ったせいで 石神はん泣かす事になったら 石神はんの献身が完成しないのと違いますか? 本質的に自分が泣かせといて、 泣かせてやれって、 そらそやな、そこはせめてものやろ湯川はん。 せっかく、 「逆説的な善行として法に抵触する行為を主人公に行わせ 罪科なき親子を救わせる」 という発想やコンセプト自体は攻めてるもののあはれなのに、 かなりの要素がそれに対し本末転倒になってるところが、 東野氏が人の心を、人情を、 インパクト要素や、左脳的おさまりのよさの、 当て馬にしがちな悪癖が出てしまったというべきか。 例えば。 メフィスト賞の凍れる女神の主人公らや、 館シリーズの時計館のサツ人の主人公。 そんな彼ら系の、 「融通性のある特定対象への距離感」が、 本作の湯川氏にあれば、 星はもう一つか二つ、私的についたかもですが。 | ||||
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⭐️1の人はしっかり読み込まれた人の感想だが、⭐️5の人は大丈夫か?ちゃんと読んでる?自分もガッカリした読者の1人。時間の無駄。あらすじと結末さえわかればいい程度の作品。 | ||||
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今まで読んだ東野圭吾さんの作品は面白いのが多くて好きです。この作品だけは残念。巻き込まれた技師の人の視点も入れてほしかった。 (蛇足・追伸)ミステリーに倫理・道徳は必要ないとのご意見もあるかもしれませんが、私は、作中のどこかにまきこまれた側の理不尽を指摘する視点が登場人物の誰かにでも、あるいはナレーション的な地の文の中にでも、あってほしかった。その記述あるのに私が読み落としているのでしょうか??(汗) | ||||
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東野先生が直木賞を受賞した作品です。 映画にもなった人気作品ですね。 15年以上前に新刊で読みました! ミステリーとしてはかなり残念な作品です。推理小説として読むとノックスの十戒を破っているようで、読者にはフェアではないギリギリの境界線にある作品です。 このミスリードは残念だと思いました。 また真犯人の倫理観に納得が出来ません。 感動する方も多い作品ですが、この作品が直木賞を受賞した事を疑問に思いました。 東野先生はこの作品より優れた作品があると思います。 レビューを読んで頂きありがとうございました。 これより先のレビューは真相に触れるので未読の方は読まないようにご注意ください。 ……………………………………… 真犯人が愛する親子のためにとしても第3者を殺害するので全く共感出来ません。 許されない行為だと思いました。 | ||||
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あまりにも非現実。最後叫んで終わりにもドン引き アガサクリスティ読んだ後だと国内小説は読みやすいが、内容は薄っぺら | ||||
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評判良いので楽しみにしていたのですが、ずっと我慢しながら九割五分ぐらいのところまで読み進め、もうそこで止めました。ここから十数ページで、これまでの退屈を全部覆す程、もうどうにもならんだろ。がっかりです。 騙されたと思って、時間があったら他の作品も読んでみます。ほんと、暇な時に。 | ||||
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高校国語教師です。 直木賞とはどんなもんかと思って読んでみたら、この作品については、単なる商業主義の作者の自己満足、というのが個人的な感想です。 推理小説にしては終盤のカタルシスを感じません。それは他の方もおっしゃっているように書き方の問題であったり、人物が都合よく動かされているからでしょう。フィクションである限り多少は仕方のないことですが、それにしても三人称の語りで都合の悪いところを語らなさすぎている。それに加えて、時々作者が顔をのぞかせてここぞとばかりに言いたいことだけ言ってくる。 天才数学者に「幾何と思わせて関数」と言わせるアイデアは楽しめたのですが、殺人トリックに気づきそうなときの湯川や花岡の衝撃の予感、あのわざとらしさには置いてけぼりを食らうしかありませんでした。意外性を履き違えた、ただの無茶苦茶でしょう。やってはいけないことをやらせればそりゃあ衝撃が大きくなるに決まっていますから、あとはそれを登場人物たちに演出させれば小説の完成です。実に簡単です。 そしてラスト、石神の慟哭の余韻を残すつもりなのか、急な幕引きでした。娘の殺人幇助と自殺未遂に始末をつける責任があったと思います。読者の想像に委ねるのと、説明責任を放棄するのとは違います。娘にそこまでの罪悪感を背負わせたのは石神なんですから。殺人に加担した上にわけのわからない部外者の指示によってなぜか隠蔽する方向に話が進んでいく状況、一中学生の判断力と行動力ではどうにもならないでしょう。ホームレスと富樫の次に彼女が被害者です(この3人には感情移入できました。同情します)。石神が彼女を追い詰めたも同然です。そこに気づかない天才石神ではありませんから、明らかな矛盾でしょう。だからクライマックスで、石神の愛の美談で仕上げるのには違和感を覚えます。ちゃっかり石神の肩に手を乗せる湯川の滑稽さも際立っています。石神の慟哭には「聞く者すべての心を揺さぶる響きがあった」とありますが、そう書けば本当に聞く者すべての心を揺さぶることになるとでも思っているのでしょうか。ある意味石神も被害者です。作者の道具に成り果てているのですから。あと湯川にこうさせておけば読者は喜ぶだろうという魂胆が見え見えで萎えます。 まとめると、 トリックはトリックと言っていい代物ではなく、ホームレスの件を抜きにしても凡庸。 愛の物語としては、判断力の乏しい女がそれ故に変な男たちに付きまとわれて不幸に陥るという、擦られまくった二番煎じ。 歯車やN≠PN予想を絡めようという意気やよし、そのアイデアに踊らされて顧みなかった結果、小説の練度も、推理小説としても恋愛家族愛友情物語としても中途半端。 ただ何の罪もないホームレスのことを思うと、泣けます。 B級小説としては楽しめたので★2です。 これが直木賞なのか、と思うと2冊目に手が伸びませんが、もう少し諦めずに読んでみます。 いくつかレビューを見ましたが、絶賛している人は具体的に何が良いのか書いていない人が多いように思います。 こういった小説を楽しむためにはどのような視点で読めばいいのか、教えていただきたいです。 | ||||
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本作は評論とネット界で、本格推理小説であるか否かについて議論が巻き起こった。 その問題について、考察すると、原因は本作の評価の基準にあるように思える。 それというのも、本作は間違いなく本格推理小説だったが、作品の面白さが通俗小説としての面白さであって、推理小説の面白さではないところに起因していた。 その点で二階堂黎人氏の、本格ものでないという主張は間違っていたが、その言わんとするところは理解できる。 ただ彼は本格推理ものとして評価されているわけではないという違和感について、少々理屈的な迷路に迷い込んでしまった感がある。 その点で本作が本格推理小説だとする反論側は至極正しかったが、しかしながら彼らも分類論の迷宮に迷い込み、本作がどうも推理小説としては面白くないという感情的な違和感に気付けなかった。 笠井氏はその点に気付かれていたが、彼は本作の通俗小説的な面白さも否定してしまったがために、話は拗れてしまったのだ。(笠井氏が本作のトリックを評価しないのも当然で、なんせ彼はもう四十年前のデビュー作『バイバイ、エンジェル』で既に本作のような「顔を潰す=入れ替えトリック」という構図が推理小説における最も下らない嘘だと喝破している) と言っても笠井氏の本作への批判、特に通俗的な感動ものとしては明らかに人道的な欠陥があるという主張は紛れもなくその通りだったが、それでも本作を見て多くの人間が泣いてしまう事実はあるのであり、そもそも我々の感動や泣くという機能自体が、人道的でもなければ愛も正義も平等も必ずしも関係ないのであり、ヒトラーの演説で泣いたドイツ人は一体どれほどいるのか、という事なのである。 我々は博愛や正しいこと、正義の義憤のために泣くこともあれば、ただのエゴが満たされたり我儘の叶えられない不満の為に泣くことだってあるのだ。 その点において、本作の他者を犠牲にして助けられることによる感動は、他民族を犠牲にして自分たちだけを窮地から救ってくれる独裁者に嬉しくて泣くようなエゴイズムと非常に近しいところにある。 そもそもその犠牲は本当に必要だったのか、なぜ犠牲になるのがあのような弱者である必要があったのか、など疑問を抱く余地は十分ある。 我々は何かをスケープゴートにする必要があるのではなく、させられているだけなのではないか。 ドイツ人が被った被害の責任は、おめおめと収容所に送られるような弱いユダヤ人たちではなく、もっと強い者たちだったのではないのか。 ただ本作の場合、助けられる存在が女子供、犠牲になるのがホームレスという、我々がマスコミによって植え付けられてきたイメージを遺憾なく発揮して、その危険性から目を逸らさせられ、泣いてしまうのである。 それは近年のフェミニズムやLGBTが(その殆どは工作員の可能性が高いが)非常に排他的で攻撃的な言論を行いながら、腐女子を代表するようなホモ文化を広めるのに成功していることと無関係ではあるまい。 我々は新たな冒涜的ファシズムを広げる素地を植え付けられようとしている危機感を持たなければならない。 かつてユダヤ人たちに冒涜的な宗教を広め、他国を堕落させて操り、弱体化させたいバラクとバラムのような者たちはいるのである。 また本作の推理小説としての駄目さ、つまらなさが、メイントリックがトリックのためのトリックの典型のようなものであり、しかも手垢のついたありきたりで単純なものだから、というだけではない。 本作は殆ど悪意さえもって、読者が論理的に事件を解くことに、罪悪感を抱かせようとしてるとしか思えない節がある。 推理小説の最大の社会的意義とは、読者に論理的思考を働かせる動機を与えることだ。 なのに本作では、論理的思考を働かせた結果、起こらなくてもよかった悲劇が起きてしまう。 中盤の展開で犯人の異常性を強調された読者は、推理するモチベーションを得て、謎を解けば犯人が全く無関係で無実の人間を犠牲にしていたことがわかる。 言うまでもなくこの時点で謎を解いた読者は「犯人は紛れもないサイコパス」だとハッキリと確信する。 ところがその結果は「疑ってごめんなさい」という感想に誘導される。(この点について犯人が分裂しているとか多層的な読みができるとかいう評論は的外れで、あれは完全にただのミスリードに過ぎず、読者は強力な一つの印象に誘導される。中盤での犯人のイメージに引きずられるのは、単に後半の展開に乗れてないだけで、作者の意図に反して抗った結果である) 一方で逆アンフェアとさえ言えるような、読者にしか論理的解決を図れないように証拠が提示されているため、正義側の探偵はただ犯人に対する信頼と同情による推測だけで事件を解決し、謎を解いた読者は探偵側に自分を同一視し、罪の意識から逃れることすら許されない。 謎を解いた読者だけが、自分だけが冷酷な冷血漢になったような気分にさせられ、論理的に考えることが悪いことであるかのような思いに囚われる。 つまり本作の謎を解いてしまった読者の反応は三つに分かれる。 1、本作の精神性に抗うことはできないが、論理的思考を放棄したくないがために、罪悪感から逃れようと本作をひたすら擁護し賞賛することにより償おうとするタイプ(擁護派タイプ) 2、犯人の美化にどうしても納得できず、作品にあらゆる批判を加えるタイプ(笠井潔と我孫子武丸タイプ) 3、ひたすら本作の意図と精神性を受け入れ、論理的思考を放棄するタイプ(サイレントピープル) 私は我孫子氏の本作への批判が最もしっくりきたし、おそらく正直な感想だと思う。 ただ笠井氏が最も本作のもつ邪悪さに気づき、熱く戦っておられたのだが、一方で氏は倫理的な遠慮からか、はっきりとこの作品がファシズムの塊であることを看破することができなかった(おそらく本当は気づいていたのではないかと思う) そこでネオリべとか管理型社会というような当時の評論界ではよく使われる、ファシズムと言い切るよりは穏当な言葉で批判し、結果的に「なんか違う」という感じになり、その違和感をなんとか補修しようと更に理屈をこねまくるという、論理的な思考の罠に嵌まり込んでしまわれたのではないか。 よって本作の評価は、推理小説として最悪、倫理的に最低、しかしながらフェミナチ的プロパガンダとしては比類なき完成度を有しているといえるだろう。 本作に感動した女は、自分たちのために勝手に罪を重ねて犠牲になってくれる男を期待し、そうするようけしかけるであろう。 また本作に感動した男は、女子供に求められるがまま、それが正しいかどうかも考えず、あらゆる不正や工作に手を染めるであろう。(といっても実際にはそれはあの犯人のような男ではないだろうが。落ち着いていて理性的な男は、何かにのぼせ上って極端なことはしにくいものだ。彼らはもっと感情的で気性が激しく弱い相手には傍若無人なタイプである) 近年、フェミニストや腐女子の屑っぷり、METOO問題など見てもわかるが、自らのおぞましい欲望に何の歯止めもかからない屑女と、「痴呆症か!?」というくらい1ミクロンも脳みそを使わずにそれに従う犬のような男が増えているが、それもこうしたマスコミのプロパガンダの数々を見れば納得だろう。 結局それはこのような異常な作品をヒットさせるような企業の権力者たちの、欲望と権力欲のために利用されているだけにも関わらず。 本作のある擁護者が「えっちなゲームなのに純愛」という表現を使っていたが、そもそも本当に異性を愛したなら普通はセックスしたくなる筈である。 つまり彼は「本当の愛ならエッチしない! 俺が今までエッチした女はすべて身体目当て! 妻とセックスするのは文字通り生む機械としか思ってないから!」ということなのだろう。 彼がそのような価値観を醸成したのも、あの異常な純愛ブームによって「セックスなしで尽くしてくれる男」というものが本当の理想当であるかのように世が洗脳されたからだ。 そうした一方的に禁欲を押し付ける純愛ブームにのぼせ上った女たちが、ついに禁欲どころか人殺しまで純愛のために要求するところまでエスカレートした結果が、本作とそれを受容した社会だったわけだ。 他の擁護者が本作に似ていると例に出したことのある北村薫の『盤上の敵』では、女のために凶悪殺人犯を殺すことさえ手放しでは褒めておらず、それでさえ倫理的な批判は免れなかった。 なのに今や女のために、全く罪のない赤の他人の男を殺すことに「大いなる犠牲」と涙を流して喜び、倫理的な批判を加えたものに多くの人間が反論したのである。 また推理小説は昔から非人道的な要素も含んでいるという擁護もあったが、そもそも本作がただの推理小説なら平凡以下の駄作と退けられただけで、倫理的な問題を本作に抱く人間はいなかっただろう。 本作が問題なのは、それを恋愛ファシズム的な価値観で正当化し、積極的に称揚さえしていることだ。 そのような作品が、論理的で感情に流されないことをモットーとするはずの推理小説界から生まれ、賞賛されていたことは、そうしたプロパガンダのいかに広範で強力かを思わずにいられない。 性欲もなくただ尽くしてくれることだけを期待する恋愛観は、バブル世代がアッシーくんなどと呼んで男を顎で使っていたことの美化された変形である。 そのバブル世代が今やモンペやクラッシャー上司として君臨していることを考えると、実際はあの犯人のようではなくて、どんな連中か分かろうというもの。 そのバブル世代というのも、マスコミがトレンディドラマ的な異常な理想とファンタジーを女に吹き込み、男に植え付けた結果だ。 考えてみたら当時の推理小説も、そのトレンディドラマ的な洗礼をもろに浴びていた。(そうした作品のほとんどは今やすっかり忘却され消え去ったが) あの流れを変えてくれたのが京極夏彦の登場であり、彼のお陰でミステリ界は世間の流行の影響を受けないガラパゴス的進化の方向性に舵を切る勇気を持てたのだが、東野圭吾はそれを昔の状態に戻したわけだ。 本作以降の彼の作品は、まさに広告代理店的マーケティングの典型例のような感を受ける。 このような価値観が広まった日本が、今や世界で最もセックスレス化しているのも当然だろう。 アジア人は自分の発言に責任をとらないため、男には大した影響を与えていないが、女の方はもう取り返しがつかない。 バブル世代はまだ利用している自覚があったが、今やセックスしない事こそが"真の愛"だということになっているのだ。 彼女らが子作りを前提とした結婚を嫌がるのも当たり前だろう。 そんなことするのが妻を産む機械扱いしている証拠でないなら、「真の愛ならエッチしない」と偉そうに誇っていたのはなんだったのか? 男はただ競争相手を貶めモテたいがために見栄を張ってただけなのだが、信じた女からすれば溜まったものではない。 こんな男たちはぼったくりや美人局に引っ掛かっても、相手を攻めることはできないだろう。 当然そんな価値観を集団で広めた連中はそれどころか、夫婦でセックスすることさえ強姦しているのと同じことになるが。 そうした男と分かっていてセックスするような淫売は、組織的に他の男に禁欲思想をばら撒き、自分は話しすることさえせずに、奴隷のように働かせたいわけである。 それは正しく本命の男と付き合いながら、アッシー君をパシリにしていたバブル世代の女たちの願望が、社会の規範にさえなったということだ。 そしてそうした価値観を内在化させた連中が、相手が弱いとみれば何をしてもいいと思っている獣になっている。 思い出せば学校の不良連中というのは、弱い相手には性的なことに罪悪感を抱かせるような嘲笑や迫害を繰り返しといて、自分たちは女の猥談を露悪的にしゃべるクズ野郎だったが、それはこうした連中の再生産されたカスどもだったわけである。 私の学生時代、そうしたゴキブリどもはニヤニヤ笑いながらセカチュー好きをアピールして女を口説いていた。 今ならホモアニメでも持ち上げて、仲間同士のホモアピールでもしてるのだろう。 一方でラブライブのような作品を例の川崎リンチ事件で不良の読むものであるかのようにバッシングしていたが、私の読んだ『ルポ川崎』では不良のカリスマ(ヤクザの使い走り)とやらが、犯人グループを陰キャで目立たない不良憧れを拗らせただけのパシられグループと切り捨てていた。 要するにラブライブのようなアニメを不良向けであるかのようにネガキャンしながら、事件の責任も不良ではなくオタクだけに押し付けたかったわけだ。 ちなみにリンチ事件が起きた場所は、地元でも有名な不良たちのリンチ場だったようで、以前にも何度も殺人事件が起こっていたのに、なぜあの事件だけが取り上げられたか不思議に思っている地元民は多いらしい。 いうまでもなく、マスゴミがオタクバッシングのために喧伝したのだ。 考えてみれば被害者だけがラブライバーだとしかわかっていない状態で異常なラブライバー叩きが起き、被害者なのに何を言ってるんだと反論が出ると犯人もラブライバーだと分かってアンチ側大勝利!のあの流れなど、そもそも全て知っていて計画していたわけだ。 マスコミこそ集団ストーカーの実行者で、バッシングのために人まで殺すように躓かせるサタンどもだという何よりの証拠だ。 そもそも犯人がラブライバーだったというのも、被害者のラブライバーと仲良くなり、殺すための罠だったのだろう。 セックスしない愛とは、それはつまり友情のことだ。 純愛を売りつけていたのが、今度はBLを押し付けだしたのも不思議ではない。 それはつまりセックス抜きで奉仕を求めていた女達が、ついには女を見ることも許さずに奉仕する域にまで達したのだ。 それでは流石に騙せないと思ったのか、連中は次に微妙にホモ臭い少年漫画を持ち上げだし、それを読んでいる当の少年は仄かなき虚勢願望フェミ思想を植え付けられているにも関わらず、男たちはネットの偽反フェミ工作員に騙されて、連中の自作自演フェミ争いに喜んでいる始末なのだが、その結果もたらされるのは社会の更なるフェミ化と虚勢化とホモ化なのだ。 そうして以前からは変わったように見せかけて、前のものに嫌悪していた若い男たちを騙し、これで女たちの文化も良くなると思い込まされるのだが、実際は相手の態度を見て口説き文句を変えるペテン師の技巧に過ぎない。 彼らはそれが次の世代からの反発を生み、自分たちの築き上げた文化はまた絶やされるということも分からないのである。 このような社会では少しでも性欲が強ければホモにさせられる。 それが自然の本能にも関わらず、偽善的な狂信者どもの陰謀によって、罪なくして裁かれ、躓かされるのだ。 ただ女どもの安全のために、多くの男が躓かされ、それ以外の男たちも危険な状態にさせられる。 アメリカを見るがいい、ただの微罪で逮捕された男達が、刑務所でホモの犯罪者にレイプされる。 軍隊や警察や消防団や修道院など、少しでも男が多い場所はホモ強姦魔の巣窟なのだ。 誰がそうしたか? お前達の持ち上げるマスコミがそうしたのだ。 アメリカのドラマや映画を見れば、フェミニズムと同性愛のプロパガンダしかない。 | ||||
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周りから面白い、感動する、と聞いていたのだが、個人的にさほど刺さるものがなかった 石神が行動を起こすに到る過程がどうしても納得できないというか、理解できない ここをもっと力を入れて書いてくれてたら、感動も出来たのやもしれませんね ちなみにトリックについては現役の刑事が「あんなもん引っかからんわw」ってレベルなので期待すんなし | ||||
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私は書籍以外は購入致しません。購入は書籍と勘違いして購入しました。 | ||||
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いやぁ評判になるだけあって面白い。二時間ドラマですね(^_-) しかしとても看過できない問題があります。 刑事が、捜査の過程で大学の図書館に行き、そこの准教授がいつの新聞を調べていたのか、館員に訊ねます。 館員は何のためらいもなくそれに答え、あろうことか訊かれてもいないのに、地方紙も探していたことまで話してしまいます。 なんたる不見識‼️ いい加減にしてほしいですね。 図書館は「図書館の自由に関する宣言」で自ら守秘義務を課し、利用者が何を借りたか、何を調べたかなどを他者に漏らす事を固く禁じています。思想・信条の自由、表現の自由、学問の自由を守るためです。 テレビ朝日の人気ドラマ『相棒』でも、図書館員が刑事に利用者の借りた本などを簡単に知らせてしまう回があって問題となり、それは再放送もなく、DVDにも収録されていません。 本作はもちろんフィクションで、刑事が同級生の准教授に捜査情報をべらべらしゃべり、捜査に同行させるなど、設定からしてぶっ飛んだ「異世界」なのですが、その他の部分は非常に丁寧に書き込まれたリアルでシリアスな作品です。 それだけに、この、権力による個人情報・プライバシーへの介入を当然のように容認する姿勢は納得出来ません。 ましてや直木賞受賞作です。 図書館協会はどのような対処をしたのでしょう。 版元は、フィクションだからと逃げたのでしょうか。 著述家ならば、出版人ならばこそ、敏感に守らなければならない部分へのあまりの無神経さには呆れる他ありません。 | ||||
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巣鴨ブックセンターと言う所でAmazon通して中古で買いました。非常に綺麗と言う割には、そこまででは無く普通でした。 巣鴨ブックセンターへの評価の仕方が分からず、こちらに評価致しました。 東野圭吾さんの本の内容は五つ星です。 | ||||
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自己中の愛を献身的な愛と思い込み、惚れた相手をますます苦しめることになると言うことに全く気がつかない男には共感できません。 石神のやってることは精神病んでるストーカーと大差ないと思うんですが。靖子の元亭主よりも石神の方が怖いですよ。でも彼らよりももっと怖いのが、この作品に直木賞を与えた審査員。『命がけの純愛』とか『これほど深い愛情に出会ったことがない』と本の帯に書いてありますが、私は納得できません。 キャラクター全員薄っぺら。 トリックもさすがに天才数学者と思えるほどのものでもなかったし。 それに警察は聞き込みばっかりだけど、科捜研が調べたらもっと早く解決したのではないかな。最も科捜研の捜査員に来てもらったら一番困るのは作者でしょうね。 | ||||
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東野圭吾さんの小説はこれが1冊目です。文章が読みやすくテンポが良かったのですが、人物が無個性すぎる。メインの母娘も、ただの元ホステスのお弁当屋さん、中学生の女の子といった存在以上にはなっていません。もっと彼女らの感情や性格を掘り下げて欲しかったです。 | ||||
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別の本と2冊購入したのですが傷がヒドイです。 2度と購入しません。 きれいな本をお求めの方は気を付けてください。 | ||||
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届いた商品を見てビックリ。 ブックカバーが付いていませんでした。 写真とは違うものでした。 | ||||
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直木賞等、いくつかの賞をもらったとのことで、期待して読んだが、平べったい文章で、女性をかばう動機も、はぁー?で、星一つ。 おいおい、この国の推理小説ファンは阿保ぞろいか? | ||||
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遅まきながら、娘が東野作品を読んでいたので、今月、東野作品を何作か読むことにしました。 直木賞作品なので期待を込めて読みましたが 1.殺人の動機、つまり石神が隣人女性に惚れた理由が得心出来ない 美人だとしてもバツイチ子持ちに恋するには(そして殺人に手を貸すには)、強力な理由が必要です。 2.献身つまり愛のために行う殺人は許されるのでしょうか? 富樫は仕方ないのですが、巻き沿いとなった「技師」の人生の重みは無視され得るものか? 無辜の人間を殺すことが、献身として許容され感動の対象となってよいのか? この作品のコンセプトに対し、倫理的に反感を覚えます。 3.陳腐な偽装殺人 富樫の死体が最後まで見つからないのであれば、技師を殺さなくても、隠匿に傾注すればよかったのではないか? 富樫は身寄りが無い故に、富樫の死体を完璧に隠せば、殺人事件とも認識されずただの失踪としての扱いになるはずです。 その他、言いたいことは沢山あるのですが 直木賞と言えども、目が節穴の選者が揃うとこういうこともあるのですね。残念です。 | ||||
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