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太陽を曳く馬
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太陽を曳く馬の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.72pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全30件 21~30 2/2ページ
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「晴子」も「リア王」も、馴染めませんでした。 「照柿」の頃が懐かしいと何度、思ったことか・・・ そして「太陽を曳く馬」は題材に惹かれながらも、手に取る勇気がなかったのですが、 定期購読をしているサンガジャパン(なんと、小説のまんなかにあるサンガです)という雑誌で2度にわたって紹介され、 やっと「この連休で読み干そう!」と思い立ち、恐る恐る上巻だけ買うことにしました。 現代芸術はさっぱりわかりませんが、上巻の後半で繰り広げられる、合田を相手にした二人の僧侶の言葉はとても興味深かったです。 サンガの一員だった青年が元オウム信者か?というところで、上巻が終了。 よし、これは下巻へ行けるぞ!と確信。 そして、この勢いで「晴子」と「リア王」にも戻ってみようかな、と思うこのごろです。 | ||||
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ストーリーについては、既に紹介されているので、重要な登場人物の末永和哉に関連して少々。 彼は精神疾患を患っているためか、周りの僧が経験出来ない所まで禅の観が進んでしまい、それを取り巻く議論が(マーク・ロスコ風絵画論にも絡んでくるのですが)、いまひとつピンと来なかったのです。 先日たまたま ted.com で、Jill Bolte Taylorと言うハーバードの精神科研究者が自らの脳内出血に起因する、脳の左右が一時的に分離する脳機能障害の経験を(その後8年かけて回復)、あれは涅槃であったと、表現するのをみて、ひょっとして末永が観たのはこれに近い経験であったのではないかと思いました。このTaylor女史の話を聞いて読み直すと、少々長い下巻の議論が、リアリティを増して読めました。 高村薫の本は、10年ほど前に友達からお前と同じ大学だろうとレディージョーカーを貸してもらったのが最初です。3学年高村さんが上ですので知っているはずは無いのですが、その後新聞で高村さんの写真を見て、一瞬で思い出しました。人気のない、照明がまだ灯いていなく薄暗い学生会館の暖炉の傍に一人で座っていた三つあみ、緑のセーターの学生の強い視線が何故か網膜に焼き付いていました。 | ||||
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上巻は、交通事故死した永劫寺サンガの青年雲水末永が元オウムだと判明した時点で終った。上巻では秋道の犯した特異な事件と彰之の観念的な認識論の絶望的乖離が圧倒的だったが、下巻も、オウムを素材にしながら、精神世界がより深く掘り下げられる。合田の孤独・隔絶感も益々高まっているようである。部下との言語感覚・信仰概念の相違が冒頭から露呈されている。言葉が持つ意味の齟齬感は作者自身のものかも知れない。 サンガの修行僧は元オウムの末永に異質を観て驚いたのか、同質を観て驚いたのか ? 仏教の本質を理解していない私の様な者にとっては、又しても「不可知」を論じている様に思える。しかし何れにせよ、末永は集団から排除されたとも考え得る。また、住職明円が末永を唱して展開するアラヤ識論は素粒子論にも似て、作者が末永をこの病種に設定した理由付けにもなっている。現世利益からインド的神話世界まで禍々しく包含した「宗教」。登場人物の言葉ではないが、現在「宗教」と真っ向から対峙出来る作家は作者くらいだろう。また、道元に関する明円と合田の会話、「不可逆の因果があるから言葉の論理が可能になる」は作者の執筆原理と取れる。そして、突然のサンガの解散。「正法眼蔵」も「バガヴァッド・ギーター」も読んでいない私には理解し得ない宗教論議が延々と続く。くどい様だが、作者は自身が紡ぎ出す言葉の力に賭けていると思う。オウムに対する分析も微細を極めるが、本質は我々の心性・認識原理の徹底解剖とその言語化であろう。<空>かも知れない<私>論を、飽くまで言語活動として展開する最終章も印象的。 小説としての成否は兎も角、「宗教」を軸として現代人の心性の問題にここまで踏み込める作家は作者を置いて他にはあるまい。「不可知」なモノを言葉で表現する壮大な試みを行なった圧倒的な作品。「晴子」の物語は完結したのであろうか...。 | ||||
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三部作の最終作。9.11テロ、昨今の理由無き殺人事件等の世情を踏まえ、「宗教」と真っ向から対峙した作品。前作「新リア王」では、秋道の事件に絡んで合田が僅かに顔見せしたが、本作では彰之が初代代表を務めた宗教団体での事件を発端に、合田が最初から登場する。9.11テロで合田の妻、貴代子が亡くなり、秋道は刑死したとの設定。 冒頭から合田の心は、物理学と心理学の中間の様な茫漠とした脆い空間に漂っている。その背景にある秋道が起こした殺人事件の徹底的な無意味さ。動機も理性も言葉も認識も意味が無く、人間の存在意義さえ危うく、ただ色彩と(無)音があるだけ。事情聴取に訪れた彰之と合田の会話は、それこそ禅問答の様。人間は皆「素粒子」の様であって他との繋がりを持たずに漂っているだけ...。文学と言うより、哲学書か量子物理学の本を手に取った感覚に捕われた。上巻は主に秋道の事件が回想形式で語られるのだが、上述の通り、そこに意味を見い出す事は難しい。作者にとっても多分同様で、理由無き殺人事件の真相を解明すると言うよりは、秋道の関係者の証言も含め、「不可知」を追求している印象を受けた。そして、彰之が秋道に送った書簡及び証言台で披瀝する視神経・原始壁画を介した胡乱な認識論。座禅で瞑想の世界に入る僧侶に相応しい是非を問えない観念論である。一方では、厳として存在する秋道が犯した殺人と言う事実。この絶望的乖離が読む者を戸惑わせるが、作者も承知の上であろう。言葉で表せないモノを言葉で表現しようとの作者の苦衷が伝わって来る。前作「新リア王」と共に小説の枠を越えている感がある。 上巻の終盤では、永劫寺サンガの青年雲水の交通事故死の問題に戻るが、形而上学的論議が続きそうな気配。合田と彰之の宗教・哲学論争が下巻(未読)で展開されると思うのだが...。表紙のバーミリオン色の画がヤケに印象的に映った。 | ||||
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芸術論、宗教論と難しいことが展開されそうな書評に惑わされず、ぜひ読んで欲しい作品です。 高村作品としてはかなり平易な文章です。時に砕けすぎて、これまでの高村節に慣れていた人はかえって戸惑うほどでしょう。 芸術にしても宗教にしても、生きた人間が繰り出す会話、セリフで構成されているので活き活きしています。動機なき殺人、9・11、そういったことがらもよく知る合田の視線から語られるのでいわずもがな。 彼女らしく、ささいな脇役に見える人物にまで人格がしっかり描かれています。一見没個性の現代人を象徴するかのような若者でさえ。 問題提起を多く内包しつつも、言葉で分かり合うことを重視するがゆえわかりやすい文章で、かつ高村氏らしい魅力的な人物描写なのですから、読まないのはもったいない。 確かに、一読で理解できる物語ではない。だからこそ、何度も繰り返し読む、発見する楽しさがある。 扱うテーマは重いのに、くすりと笑ってしまうようなコミカルな挿話もぽちぽちと。リズミカルに読み勧められます。 先述のとおり、問題提起はなされていますが、回答はありません。読者が各々導き出すのです。読者に考えさせ、参加させる引力があります。 合田の人間くささとともに作中に漂う彰之の掴みどころのない不思議に温かい眼差し、そんなものを感じながら現代社会について真摯に向き合う機会として読んでみてほしいです。 晴子情歌、新リア王は、根底に流れる一本の川のように脈々とつながりがあり、未読の方はまずこちらから順に読まれることをお薦めします。 | ||||
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一般的な人間には理解しがたい対象、即ち現代芸術(抽象画)・動機不明の殺人・宗教に対して、どのように向き合うのかというテーマが真ん中に据えられています。これらの対象に合田雄一郎の眼を通じて深く、そう、沈み込むほどに深く入り込んでいくのですが、上巻の主要人物・福澤秋道の芸術と殺人、下巻の末永青年の死を契機に言葉が尽くされる宗教論(特に、オウムと古代インド宗教、禅宗との対比と本質論)に、入り込むというよりは埋め尽くされてしまう感覚が体を離れません。合田雄一郎も40を過ぎ、過去の作品に見られた表出する情熱は影を潜め、警察官という仕事や離婚した相手とその兄に対する考え方に変化が見られ、ただでさえ孤独であった彼が、殺人を犯した秋道に対しての父・福澤彰閑の何通にもわたる手紙を読む、あるいは執拗とさえ思えるほど宗教に対しての、いわば一見しても、あるいはそれ以上によく見ても理解しがたいものに対して「なぜ」という問いを繰り返しながら近づいていく姿は、決して華やかでもなく、恵まれたというわけでもない、要するに一般的な意味で言う幸せではない彼自身の人生に対する「なぜ」という思いと重なって、腹の底からの共感を感じました。彼は求めれば求めるほど、問い続ければ問い続けるほど孤独の影を濃くしていくようです。しかし、秋道に宛てた彰閑の最後の手紙には、息子に寄せる父の思いが感じ取られ、その思いに合田雄一郎も思いを寄せる様子が想像出来て救われます。この小説は、上下巻を通して、「分かる」とか「意味が通じる」といったいわば幸福な関係が断たれたものに対する接近を描いたものであり、一般的な「意味」からの自由を求めた者たちに対するレクイエムでもあると思います。日本では珍しい形而上学小説であるのと同時に、理解しがたいものが本当に我々の間近で頻発する現代への高村薫自身の向き合い方を表明した作品です。そして、立ち尽くしては内省し、問い続けては立ちすくみながら、今までとは違う何かを手にしたであろう合田雄一郎がこれから何処へ行くのか、次回作が待ち遠しくなる、本当に素晴らしい作品です。 | ||||
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・・・これは読む「修行」かもしれない。 NHK教育テレビで、マーク・ロスコの抽象的絵画とともに紹介された本書を、うっかり読み始めてしまった。上巻では芸術論が語られる。猟奇的殺人事件が起きた部屋で引かれた直線や色が、衰えかけた私の右脳を刺激する。何を意味するのか? いくつもの線のように証言が重なりつつ犯人の真意が浮かび上がろうとするが、描けない私はバーミリオン色の血の池地獄で溺れていく。 そして下巻、都会のビルの中の寺、修行僧の不可解な事故死。延々と語られる宗教的な解釈、禅とヨガあるいはオウムの教義がどこがどうだったのかと。膨大な言葉を尽してそそりたつ壁は、まるでロスコのキャンバスそのもの。不本意ながらも私は、議論の中へ取り込まれることになる。混沌の私の左脳は、天上界のような論理の中で、下から上から表から裏から過去から現在から、”半眼”で時空を超えて、しかし、トボトボと彷徨う。 本を閉じた私に、ロスコの絵・・・これはもしやマンダラ? 高村さん! ロスコの絵のような小説を書きたいとTVで言っていたあなたの試みはみごと成功したと思います。でも私は「座禅」よりも「行脚」が好き。言葉よりも感覚、感覚より実感の方が快い。突き抜けて良寛さんのようになった合田刑事に会ってみたいと思います。 | ||||
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前作「新リア王」同様、現代を見つめる作者の深い思索と、その結果としてある焦燥感に圧倒されました。 前作に続いての仏教論には、知識がついていかず悪戦苦闘しながらも、国内ではオウム、海外では9.11を経ても尚、混沌を深める時代に「生と死」「殺すという事」を真摯に追求する作者の姿勢に共感します。 この本が「1Q84」のように売れる事はないだろうし、すでに孤高とも言える存在になったかの作者だけど、お粗末な理解力を集中してでも読み続ける価値のある作品だと思います。 刑事合田の葛藤と巻末の福澤彰之の愛憎に、絶望とともに微かな救いを感じさせられました。 | ||||
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20世紀を貫いて21世紀に至る壮大な三部作サーガついに完結。本作も、現代美術、死刑、宗教に挑む高村薫の執念と信念が結実した傑作。 圧巻は「オウム真理教を宗教と認め得るか?」という討論。「あんな太ったグルはおりません」という言葉は痛快だが、そこに至るまでの、道元、マックス・ウェーバー、インド哲学を駆使した法論にはただただ感服の一言。「1Q84」に於いて同じオウム真理教を扱った村上春樹が「物語の力」を信じているのであれば、高村薫女史は「問い続ける近代的批判精神」を信じているのだろう。直観が必要な現代美術や神秘体験の抽象化が必要な宗教的世界の存在を認めた上で敢えて人は問い続けていかなければならないのだという覚悟の重さがそのまま本作の重厚さなのだと思う。 そして最終章、彰之の手紙は「晴子情歌」冒頭へと回帰する。少女の晴子が見た七里長濱の情景。境界も定まらぬ空と海と砂嵐の入り混じった白明の中、砂丘を渡る清々とした風の音、そして行きずりの雲水たちが唱えてくれた四弘誓願の声と持鈴の音が聞こえてくるような感動的な完結である。 決して読み易い小説ではないが、合田雄一郎も帰ってきたし、「新リア王」で離れてしまった高村ファンにも読んでいただきたい。 | ||||
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4年ぶりの長編、上下巻、新潮社、オウム事件、宗教、芸術、そして社会問題にひるまず発言する作者、 という共通項を持つ「1Q84」が大ヒットを飛ばす中で刊行された新作ですが、二つの作品を続けて読み終えて、もともとある両者の違い以上に大きく異なる印象を持ちました。 いつまでも若者の立場にあろうとするものと、生きて老いることを引き受けたもの、という。 12年ぶりの合田雄一郎は世渡りを意識し、若い部下に舌打ちし、一言でいえば「おっさん」化して、笑いを誘います。 笑っていいんだよね?と戸惑い、文章そのものも昔よりはるかに読みやすくなっているため、自分は今までずいぶん誤解していたのかもと思ったりしました。 でも、合田の本質は変わっていませんでしたが。 特質や欠点や未熟さを抱えたまま、人は老い、同じ位置に立っていても周りの変化によって立場が変わってくる。 かっこ悪くなった合田には今までにない共感を覚えました。 しかし、そんな合田の姿をかき消すほど強い印象を残したのは、下巻の最後の最後。 福澤彰之が獄中の息子秋道にあてた数通の手紙と、その中に登場する西瓜をぶら下げた老人の姿でした。 どれほど知識を学び、修行しても、あるいは痴呆になっても、なお消えることのない子供への思い。 その切なさと温かさは、老いて見苦しく生きる現実を引き受けたものにだけ伝わります。 その前には、それまで芸術や宗教をめぐって膨大に語られた言葉すべてが薄っぺらく消えていきます。 その爽快さと感動を味わうためにも、延々続く芸術論とその数倍の量がある宗教論、流し読みでいいですから飛ばさずに、と言いたいですね。 一応星は4つ付けましたが、古くからの読者なら星5つの価値があろうかと思います。 | ||||
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